親鸞(僧)(読み)しんらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「親鸞(僧)」の意味・わかりやすい解説

親鸞(僧)
しんらん
(1173―1262)

鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。諡号(しごう)は見真(けんしん)大師。初め綽空(しゃっくう)の名を称したが、これを善信(ぜんしん)と改め、親鸞と併用した。下級貴族であった日野有範(ひのありのり)(生没年不詳)の子。

[石田瑞麿 2017年8月21日]

生涯

9歳の春、慈円(後の天台座主(ざす))の寺坊で出家して天台宗の僧となり、青年時代は横川(よかわ)常行堂(じょうぎょうどう)の堂僧として不断念仏を行う下級僧であった。早くから死について思い悩んだとみえ、1201年(建仁1)29歳のとき、後世(ごせ)の救いを求めて聖徳太子ゆかりの京都六角堂に100日の参籠(さんろう)を誓い、95日目の暁、救世(くぜ)観音(太子)の示現を得、「念仏行者(ぎょうじゃ)が宿報によって女犯(にょぼん)の罪を犯すときは、わたしが妻となって犯されよう。一生の間、行者の身の飾りとなり、臨終には極楽に導こう」という夢の告(つげ)を得た。彼はこの告の意味を問い尋ねて、源空(げんくう)(法然(ほうねん))の門をたたき、その念仏の教えに心酔して弟子となった。

 1205年(元久2)源空の主著『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写と師の肖像の図画を許されるほど門下の代表的な人物になった。しかしその前年、すでに源空の専修(せんじゅ)念仏の徒に対する叡山(えいざん)の非難が高まり、源空は門徒の連署のもと、「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を叡山座主に提出する事態を生じ、興福寺もまた念仏停止(ちょうじ)を奏上して朝廷に迫った。こうして1207年(承元1)一部の念仏僧の風紀問題に端を発し、源空以下数人が罪科に処せられ、あるいは遠流(おんる)、あるいは死罪となり、親鸞も越後国(えちごのくに)国府(新潟県上越市)に流された。親鸞の罪科がなんであったかは明らかでない。流罪の理由を妻帯とみる説もあるが、結婚は越後に始まるとするのが穏当で、かつての六角堂参籠によって得た観音示現の夢の告は越後で実を結んだものとみられる。親鸞はこの地で三善(みよし)氏に縁のある恵信尼(えしんに)と結婚した。ここに親鸞の念仏の在家(ざいけ)主義(肉食(にくじき)妻帯を認めるもの)が始まるが、彼は配流の間、僧でも俗でもない「非僧非俗」を標榜(ひょうぼう)して、自ら「禿(とく)」を姓とした。愚禿(ぐとく)親鸞の自称はこれに基づくものである。

 1211年(建暦1)11月、親鸞は流罪を許されたが、翌1212年1月、源空の死にあい、都に帰ることを断念し、地縁、血縁を頼って伝道の地を東国に求めた。1214年(建保2)には常陸(ひたち)国(茨城県)に移り住んでいるが、この年、常陸に赴く途中、彼は上野(こうずけ)国(群馬県)佐貫(さぬき)で「浄土三部経」1000部の読誦(どくじゅ)を発願した。それは経典読誦による功徳(くどく)力をもって飢饉(ききん)の災害を除こうとしたものである。しかしそれは自力の信心によるもので、「自ら信じ、人を教えて信じさせる」ことこそ、仏の恩に報ずる道と思い知ることによって、数日にして思いとどまったという。

 これは信仰上の大きな転機となったと考えられる。そして以後は時とともに信仰に深みを加え、愚の自覚を通して、彼のいう、いわゆる「他力のなかの他力」の念仏に到達したと推察される。親鸞は主として稲田(笠間(かさま)市)に居を置いたようであるが、時あれば足を延ばして各地に赴き、一介の田夫野人(でんぶやじん)として念仏の布教に従い、またかたわら著述に専念した。その述作の成果は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の土台となった『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』『愚禿鈔』をはじめ、『浄土三経往生文類(さんぎょうおうじょうもんるい)』などとなって実を結んだと思われる。また念仏の布教には太子信仰の鼓吹もあずかったとみてよく、太子鑽仰(さんごう)の和讃(わさん)もつくられている。ここには親鸞が願いとした「自信教人信」の姿が認められるが、信仰を説き歩いたその足跡は『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょきょうみょうちょう)』一つみても、関東では常陸、下野(しもつけ)、下総(しもうさ)、武蔵(むさし)の諸国にまたがり、奥州にも及んでいる。また『教行信証』は1224年(元仁1)以前から書き始められ、関東を去ったのちも補筆訂正されたとみられる。

 京に帰った年は明らかではないが、『教行信証』の完成や師源空の法語の整理を行いたいとの願いがあって、おりしも起こった関東における念仏停止(ちょうじ)の弾圧を避けて、帰洛(きらく)に踏み切ったものと思われる。京都での親鸞は、妻子を越後に帰し、末娘の、後の覚信尼(かくしんに)(王御前)とともに、関東の門弟の仕送りを受けて生活したらしい。ほぼ著述に専念し、関東の門弟には手紙や和語の著作の筆写を送って、絶えず教化(きょうげ)を垂れていたことが知られる。そうした事実は『末燈鈔(まっとうしょう)』や『親鸞聖人御消息集(ごしょうそくしゅう)』などにうかがわれ、信仰一つに固く結ばれた師弟の心の交流を語って余蘊(ようん)がないが、そのなかでただ一つ親鸞の心を痛ましめたものは善鸞(ぜんらん)事件である。この事件は、親鸞の実子善鸞が関東に下って、若輩にもかかわらず門弟の間に指導的位置を得ようと画策したことに発する。彼は親鸞の子であるという地位を利用して、親鸞が門弟には説かなかった念仏の真髄を自分一人にひそかに人に隠して教えてくれたと公言するとともに、親鸞に対しては、門弟たちが誤った教えを説いていると誣告(ぶこく)し、かたがた当時の幕府の、念仏者の非法を禁圧する姿勢に乗じて、その非法行為が親鸞の高弟たちによるかのように、幕府や領家、地頭らに通じたようである。このため、門弟たちは窮地に落ち、信仰の動揺を招いたが、そのうち善鸞の野望が明るみに出、ついに1256年(康元1)親鸞は善鸞を義絶し、親子の縁を断ったのである。念仏の訴訟事件もその後まもなく落着をみている。晩年には「自然法爾(じねんほうに)」の一文を草し、天衣無縫の自然の境界に浸ったことを語っている。弘長(こうちょう)2年11月28日示寂。著書には『教行信証』などのほか、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』『唯信鈔文意』『一念多念文意』『尊号真像銘文』などがある。

[石田瑞麿 2017年8月21日]

思想

彼の念仏を端的に示すものは回向(えこう)の思想である。その回向は、念仏などの行(ぎょう)を積んで、その功徳(くどく)を往生のための手だてに差し向けるといった従来一般の理解と異なり、仏の側から与えられることととらえたところに特色がある。彼は回向に往相(おうそう)、還相(げんそう)の二つを分け、浄土に往生する往相も、浄土で仏になってこの世に帰って世の人を救う還相も、ともに阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いの働きと受け取った。こうした仏の働きを彼は「他力のなかの他力」とよび、自力的ないっさいを払拭(ふっしょく)した絶対他力を説いた。彼においては『大無量寿経』がすべての根幹に据えられているが、この教えも、念仏という行も、阿弥陀仏を信ずる信も、往生の証も、すべて阿弥陀仏の本願の他力により、阿弥陀仏より与えられるとした。したがって、念仏も仏の念仏せよという「本願の勅命」によって唱えさせられるのであり、信心も信じさせられているとしたのである。そして悪や虚偽に包まれている凡夫(ぼんぶ)の側には真実はなく、真実は仏だけのものであり、その仏から真実として教・行・信・証のすべてが与えられるから、浄土に生まれることも可能になるとし、とくにそうした真実の信心を得たとき、人は初めて浄土に生まれると定まった「正定聚(しょうじょうじゅ)」の位につき、仏と等しくなると説いた。ここには死の宗教としての浄土教からの脱皮がみられ、臨終の念仏を重視した当時の風潮を排し、日々の平生を重視した理由もおのずから明らかである。

[石田瑞麿 2017年8月21日]

『親鸞聖人全集刊行会編『親鸞聖人全集』全9巻(1969、1970・法蔵館)』『星野元豊・石田充之・家永三郎校注『日本思想大系11 親鸞』(1971・岩波書店)』『石田瑞麿編『日本の名著6 親鸞』(1983・中央公論社)』『松野純孝著『親鸞――その生涯と思想の展開過程』(1959・三省堂)』『赤松俊秀著『親鸞』(1961/新装版・1985・吉川弘文館)』『石田瑞麿編著『親鸞とその妻の手紙』(1968/新装版・2000・春秋社)』


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