アメリカ映画(読み)アメリカえいが

改訂新版 世界大百科事典 「アメリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アメリカ映画 (アメリカえいが)

ジャン・リュック・ゴダールは〈すべての映画はアメリカ映画である〉といっている。クローズアップモンタージュなどさまざまな映画的手法を開発し,それらを駆使して巧みに長編の物語を語ることをはじめ,それ以後のすべての映画の基礎を築いたのは,〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスであった。また,スターシステムや撮影所のシステムをはじめ,映画の製作,配給,興行のしくみなど,映画のあらゆる側面を通じて,〈アメリカ映画〉から生まれ発展し,各国の映画にもたらされたものは数多い。1911年,ハリウッドに最初の撮影所が建設されて以来,アメリカ映画史はハリウッドを中心に形成されることになる。ここでは,〈アメリカ映画〉の特質をなすいくつかの点を中心に記述するが,〈ハリウッド〉の項目をも参照されたい。

アメリカ映画の産業としての始まりは,〈ストーリー・ピクチュア〉,すなわち,ストーリーを物語る映画の出現からとされる。それは,E.S.ポーター監督の《アメリカ消防夫の生活》(1902),《大列車強盗》(1903)に始まるが,グリフィスは,《ドリーの冒険》(1908)以降の諸作品でその手法を発展させ,完成させた。例えば,クローズアップは《大列車強盗》で初めて使われたが,それは犯人が観客席の間近から射撃しているように見せるための,いわば純粋にセンセーションを引き起こすトリックとして使われたにすぎない。エイゼンシテインによれば,重要なのはグリフィスがこの手法を〈モンタージュ的に,つまりストーリーを語る手段として使った〉ということであった。こうしてグリフィスの映画はその後のあらゆる〈劇映画〉の作法の基本および模範となったのである。エイゼンシテイン,ラング,ルノアール,ドライヤー,ヒッチコック等々,やがて映画の最初の黄金時代を築く各国の巨匠たちは皆,グリフィスに学んだことを強調し,〈グリフィスの国〉で映画を撮ることを,すなわち〈アメリカ映画〉を撮ることを生涯の夢としたのである。

 一方,グリフィス,M.セネットと並んで草創期のアメリカ映画の三大監督といわれたT.H.インス(1882-1924)は,プロデューサーを中心とした撮影所のシステムを作った。それがハリウッドの映画製作のシステムの基本となり,ムッソリーニが建設したイタリアのチネチッタも,ソ連のモスフィルムも,世界の撮影所がすべてこのシステムを採用することになる。またバレンティノを大スターにしたてた監督でもあるR.イングラム(1892-1950)は,1926年に南フランスのニースにカリフォルニアと同じ太陽光線を発見して,ハリウッドと同じシステムの撮影所〈ステュディオ・ド・ラ・ビクトリーヌ〉を建設した。のちにここで《天井桟敷の人々》などフランス映画の名作が撮影されるが,この撮影所を舞台にしたF.トリュフォーの《アメリカの夜》という映画の題名は,フランスの映画用語に固有の表現で,〈つぶし〉(疑似夜景)のことであり,〈アメリカ映画式に撮られた夜景〉という意味である。このことばに限らずフランスの映画用語には,例えば〈プラン・アメリカン〉(アメリカ映画的なカットの意で,アメリカ映画の特徴と見られていた腰から上のサイズのカット)といった表現もある。フランスをはじめ各国の映画界で,アメリカ映画の用語が数多く使われることにも,〈アメリカ映画〉が世界のあらゆる映画の中に深く根付いていることが認められよう。

のぞき式のキネトスコープ,次いでスクリーンに映写するバイタスコープを発明したエジソンは発明家にとどまったが,これを企業化,産業化したのは,多くはユダヤ系のヨーロッパ人,とくに東ヨーロッパからの移民,あるいは移民の子どもたちであった。彼らは例外なく貧しい階級に属し,立身と一獲千金の夢を人一倍強くもち新世界に渡ったのである。ハリウッドの映画会社を作ったのはこのような人々であった。すなわち,パラマウントのA.ズーカーは毛皮商,ジェシー・ラスキーは旅芸人,MGMのL.B.メーヤーはくず屋,M.ローは新聞売子,S.ゴールドウィンは手袋屋,20世紀フォックスのW.フォックスは織物屋,ユニバーサルのK.レムリは服屋,ワーナー・ブラザースのJ.ワーナーは寄席芸人,コロムビアのH.コーンは大道芸人の,それぞれ出身である。アメリカ映画産業を牛耳ることになる人々はことごとくこのような境涯から身を起こして,アメリカ的な〈サクセスストーリー〉を地で行った。新世界に夢を求めた〈外国人〉の群れがアメリカ映画を育て上げたところに,アメリカ映画が世界でもっともポピュラーな存在になり得たその〈国際性〉の秘密の一つがあろう。さらに1920年代から30年代にかけて,ドイツからシュトロハイム,ムルナウ,スウェーデンからスティルレル,ハンガリーからカーティスといった監督たち,また女優としてはスウェーデンからグレタ・ガルボ,ドイツからポーラ・ネグリ,マルレーネ・ディートリヒチェコスロバキアからヘディ・ラマールといった人々がアメリカ映画に身を投じた。またナチス・ドイツから逃れてきたラング,サーク,シオドマーク,ワイルダーらの映画監督を受け入れ,そのほか,アメリカ映画音楽の基礎を築いたチェコ生れのE.V.コーンゴールド,オーストリア生れのM.スタイナー,俳優ではイギリス人のケーリー・グラント,フランス人のシャルル・ボアイエ,スウェーデン人のイングリッド・バーグマン等々,つねに〈外国人〉を輸入し〈アメリカ映画〉を補強してきたことがその事実を物語っている。しかも,とりわけアメリカ映画的なアメリカ映画である西部劇の作り手がアイルランド人の移民の子であるジョン・フォードであり,アメリカン・ロマンスの名作であり〈もっともアメリカ的な愛国精神〉に貫かれた映画として知られる《カサブランカ》(1942)の監督が,ハンガリー人のマイケル・カーティスであるというところにアメリカ映画の特質があるといえよう。しかも,30年代には,ほとんどすべてのスターがアングロ・サクソン系の名まえを名のった。W.マンチェスターが指摘するように,外国人の集団であったアメリカの興行界は,人種的素性を隠して,〈アングロ・サクソン一色〉とすることによって大衆性と国際性を獲得したのである。

アメリカの作家ドス・パソスのことばによれば,アメリカ映画は〈欲望や夢を5セントとか10セントで大安売して〉きた。ハリウッドは〈夢の工場〉と呼ばれていた。ジョン・スタインベックは次のように述べている。〈初期の映画は,中世ヨーロッパの大寺院のように生活に栄光をもたぬ人々のために栄光を開いてくれた。生活が単調で,悲しく,興奮もなく,醜く,希望のない人も,切符1枚の値段で,あらゆる人が金持ちで美しく,または力があって勇敢だという,夢の世界に仲間入りすることができた。また前もって解決の糸口がそれとわかる問題が解決されたあとにも,永遠の幸福が紫色と黄金の日没のように訪れる夢の世界に入ることができた。これらの映画は,外国人の心にひどく不正確なアメリカのイメージを植えつけた。いくら無知なアメリカ人でも,栄光と悪徳と暴力の夢の世界に別れを告げれば,やかましい街頭に,平凡な町に,単調な仕事に戻っていくことは承知していた。しかし貧しい移民は,アメリカの黄金の夢と幸福の約束にひきつけられた〉(《アメリカとアメリカ人》)。

 こうした〈黄金の夢〉の最大の体現者がいうまでもなくスターであった。アメリカ映画は大衆をスターに同化させるために,一方では宣伝によってスターを神話化し偶像化しつつ,他方ではゴシップという形をとったもう一つの宣伝によってスターの〈私生活〉を暴く形でスターを一般の人々の程度にまで引き下ろして,親しみやすい存在にしたのである。すなわち豪華な屋上テラスやプールのある大邸宅に住むスターも,愛犬とたわむれたり台所で自分で料理するときにはふつうの人と変りがないといったイメージを見せたり,伝説の美女グレタ・ガルボも街に買物に出るときはいつも古ぼけたレーンコートを着ているところを見せたり,華やかでスキャンダラスな結婚をしたスターも惨めな離婚をするのだというところを見せたり,といったふうに〈偶像〉の裏表を見せる形で大衆のスターへの同化をいっそう強めることに成功した。こうしてアメリカ映画は,長い間,〈アメリカ的生活様式(アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ)〉の模範という幻想を生み出し続けたのである。

ペニー・アーケードという場末の娯楽施設の一部分にすぎなかった〈映画〉が,大衆に〈夢〉を売り続けて太り,やがて1930年代には映画はアメリカの最大の娯楽になっていた。そして,映画そのものが〈栄光と悪徳と暴力の夢の世界〉に膨れ上がっていく過程がアメリカ映画の歴史であった。

 見世物として出発し,製作,配給,上映(興行)のうちの上映を中心とする個人企業の道をたどった初期のアメリカ映画は,たんなる〈動く写真〉か〈舞台の缶詰〉にすぎず,やがて目新しさと物珍しさを失い,一時の好況に乗じたはげしい自由競争ののちに迎えた衰退の危機を乗り越えるには,個人企業からの脱却と〈物語映画〉の出現が必要であった。古い大陸の伝統や芸術の歴史を背後にもたないアメリカ映画は,〈動きの喜劇action comedy〉や〈追っかけものchase picture〉など,映画のもっとも特質的なものを発見して急速に発展し,雄大な自然を背景に活劇を展開する〈西部劇〉,演劇的な構成から自由でスピードとサスペンスを主題とする〈連続ものserial〉,〈追っかけもの〉のあとを継いで,のちの喜劇映画の先駆けとなった〈スラプスティック〉などによって映画独自の世界を作り上げ,文字どおり〈モーション・ピクチュア〉となった。

 その後,アメリカ映画は業界の統制と抗争の問題をかかえて発展し,条件が製作に適しているハリウッドが発見されて製作の中心が東部から西部へ移ったが,ハリウッドの建設はアメリカ映画企業の発展の結果であり,個人企業から出発したアメリカ映画がウォール街の資本と結びついたことを物語るものでもあった。

 第1次世界大戦が始まった1914年には,世界中で上映される映画の90%はフランス映画であったが,戦争と同時に全ヨーロッパの映画製作はほとんど中止され,この機会にアメリカ映画はアメリカ資本主義の成長とともに発展した。さらにグリフィスの二つの長編《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)の興行的成功は,特作品,あるいは超特作品製作のきっかけを作り,やがて全上映作品を同一会社の作品でまかなう専門館システム〈ブロックブッキング〉制度を助長して,結果的に映画資本のトラスト化を促進した。そして自然発生的なスターに代わる人為的な〈スターシステム〉が強化されることになる。

 サイレント映画の発展と完成の時期を経験したアメリカ映画は,20年代半ばにはアメリカの五大産業の一つに数えられていたが,危機をはらんだアメリカ経済の不況に影響されて経営が悪化し,それを打開する投機として世界最初のトーキー《ジャズ・シンガー》(1927)が公開されてトーキーの時代を迎えた。映画のトーキー化は莫大な資金を必要としたため,映画資本の高度化と金融資本との結びつきを促進し,ハリウッドはウォール街によって支配されることになる。一方,世界市場への進出も進み,28年には世界中で上映される映画の85%をアメリカ映画が占めるに至った。29年に始まったアメリカの経済恐慌は,企業として有望視された映画への大資本の進出をさらに促進し,アメリカ映画に娯楽商品としての性格を定着させ,新しく音を得たトーキーの特色を活用した音楽映画,戦争映画,ギャング映画,西部劇が量産されて〈ハリウッドの黄金時代〉が到来する。第2次大戦中は,映画は政府によって重要産業に指定され,24万人の映画人のうちの4万人が戦線で軍務に服し,あるいは記録映画や宣伝映画の製作に従事した。41年には戦時情報局が設置されて,戦争中のハリウッド映画の約1/4は国策に協力する戦意高揚映画で占められたが,メロドラマ,西部劇,喜劇,ミュージカルなどの娯楽映画が流れ作業的に量産された。

第2次大戦中の映画界の好況は戦後になっても持続するかに見えた。1年後の1946年は約17億ドルというアメリカ映画史上最高の興行収入を記録したのである。しかし翌年からこの数字は少しずつ減少し始め,アメリカ映画はさまざまな試練を体験することになる。50年ころまで年間約350~500本の長編劇映画を生産していたハリウッドは,続く10年間では,52年に278本,60年に211本,62年には138本と縮小の一途をたどっていった。その原因には,観客の嗜好の変化,レジャーの多様化など多くの複合要素があるが,具体的なものとしてはテレビの興隆とハリウッド独占資本の解体があげられよう。

 まずテレビは,1946年に本格的なネットワーク放送が開始されたのだが,その受像機台数は52年に1800万台,60年代には6000万台と急増を見せ,映画の国内市場を著しく狭めた。これに対して,最大の国外市場であるイギリスなど英語圏諸国は言うに及ばず,世界の国々への進出の努力がなされ,おおむね効を奏したが,ときとして高い関税という障壁にも遭った。またインフレによる製作費の高騰は,1941年から61年までの間に3倍にも達し,その後も上昇を続けているが,このことは結果的にイギリス,イタリア,スペインなどコストの安い国での製作を助長して現在に至っている。ちなみに70年代初頭のアメリカ映画は,その約半数が国外で作られたものである。テレビの脅威に対抗して映画界は〈ワイドスクリーン〉による映画の大型化を打ち出した。フレッド・ウォーラーが1952年に発表した〈シネラマ〉方式を皮切りに,《聖衣》(1953)を第1作とする20世紀フォックス社の〈シネマスコープ〉をはじめ,パラマウント社の〈ビスタビジョン〉,MGM社の〈パナビジョン〉,さらに70ミリ映画などが次々と開発され,古代史劇などのスペクタルを売物にするカラー大作が一時的に観客を映画館へと引き戻した。しかし,それは形式的な拡大にすぎず,やがて大衆に見放され,近年はめったに製作されることもなくなっている。このほか,〈3D〉方式と呼ばれる立体映画が作られたり,〈においの出る映画〉が試みられたり,70年代に入ってからも,空気を振動させて臨場感を生む〈センサラウンド〉方式が開発されるなどしたが,決定的な成功にはほど遠いものであった。

 一方,ハリウッド独占資本の解体は,パラマウント社など〈メジャー〉と呼ばれる大映画会社が,トラスト内で〈取引制限〉をしていることを違法であるとする連邦最高裁の決定(1948年5月)によってもたらされた。メジャーが統括していた製作,配給,興行の3部門から興行部門が分離され,各社は大きな経済的基盤を失い,それに伴って独立プロデューサーが台頭する契機を生み出す一方,やがて1950年代から60年代にかけてメジャー各社がコングロマリットに次々と吸収されていくことになる。

 さらに,戦後の冷戦の激化とアメリカ社会の反動化を背景として,1947年,共和党議員パーネル・トマスを中心とする下院非米活動委員会が,ハリウッドの〈赤狩り〉に本格的に乗り出し,50年代半ばまで多数の映画人の間に深刻な分裂と動揺をもたらした。この期間にハリウッドから追放され,あるいはみずから去り,その後長い間アメリカでは自由な活動の場を与えられず,海外での活動を余儀なくされた映画人は多い。

 こうしたハリウッド体制のさまざまな動揺の中で,アメリカ映画はますます商業主義の度合を強めていく。例えば55年に建設されたディズニーランドは,映画の〈夢〉が現実をのみ込んだ典型的な例の一つである。そこでは映画は遊園地の一部ではなく,遊園地が〈映画〉の中に入ることになる。さらにキャラクターの商品化にとどまらず,原作,音楽から広告デザインまで含めた多角的,総合的なイメージの商品化(ムービー・マーチャンダイジング)が進み,近年では,MCAというマーチャンダイジング専門の会社が設立され,映画の興収と並行して収益を上げ,映画産業の主要な部分となりつつある。

 一方,60年代末期に,いわゆる〈アメリカン・ニュー・シネマ〉が現れ,それと同時に〈ニューヨーク派〉が台頭して(アンダーグラウンド映画)ハリウッドの崩壊が叫ばれるようになる。以降のアメリカ映画は,当然ながら,かつてのハリウッド映画一色の時代から大きく変貌する。ウッディ・アレンの《マンハッタン》(1979)のような〈ニューヨークのアメリカ映画〉もあれば,〈黒人監督第1号〉のゴードン・パークスの〈黒いジャガー〉シリーズ(1971)のような〈黒人のアメリカ映画〉(〈ブラック・シネマ〉)もある。またフランシス・コッポラの《ゴッドファーザー》(1971)やマーティン・スコセッシの《ミーン・ストリート》(1973)のような〈エスニック(移民としてアメリカに渡ってきた民族の子孫たち)の映画〉もあれば,それに対してマイケル・チミノの《天国の門》(1979)のような〈WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の映画〉もあるといったように,〈少数派〉や〈少数民族〉のための映画が群立してきている。同時に,スターの名前もアル・パチーノ,ロバート・デニーロといったふうに,かつてのアングロ・サクソン一色から〈民族系〉のはっきりしたものが目だち始めた。また〈ハードコア〉のポルノ映画も一つの〈少数派〉アメリカ映画といえるかもしれない。

 かつてアメリカ映画は〈万人のため〉〈大多数のため〉に作られたが,70年代以降はその逆をいくようになっている。とはいえ,それもまた新しい形の商業主義であり〈大衆娯楽映画〉のありようなのである。R.スクラーは〈商業主義の精神は,そこにかせぐべき利益がある限りハリウッドを支配することを決してやめようとはしないのである〉といっている。ハリウッドは,その周辺の映画勢力(〈オフ・ハリウッド〉などと呼ばれた)によって変質を余儀なくされたが,そういったすべてをたちまち吸収して新たに肥大化するという力だけは失っていない。その意味では,アメリカ映画は依然としてハリウッドを中心に動いているともいえよう。
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世界大百科事典(旧版)内のアメリカ映画の言及

【サイレント映画】より

…原始的で幼稚な〈もの言うフィルムsprechender Film〉などもつくられていたドイツでも,フランスの〈文芸映画〉にならって文学作品の映画化が始まり,シラーの《ドン・カルロス》(1910),シュニッツラーの《恋愛三昧》(1912),ハンス・ハインツ・エーウェルスの《プラーグの大学生》(1913),ワーグナーの楽劇《タンホイザー》(1914)などが映画化され,〈活動〉(キーントップ)から〈映画〉(キーノ)へ,さらに〈映画芸術〉(フィルムクンスト)への道をたどり始めた。 第1次世界大戦が始まる1914年までは世界の映画の90%をフランス映画とイタリア映画が占め,アメリカ映画はヨーロッパ映画のあとを追いかけていたが,古い伝統や芸術の歴史を背後にもっていなかったため,ヨーロッパよりさきに〈映画〉という表現形式の特質を発見し,映画のもっとも素朴で原始的な性質である〈動くということ〉から出発した。それはのちに映画史家が,滝の特性をつくりだすのは水ではなくて水の運動であるのと同じように,映画の本質は〈画〉ではなくて〈運動〉であると指摘した発見であった。…

【トーキー映画】より

…音波を光学的にフィルムに記録,再生して,それを増幅するというトーキーのための技術的前提は,すでに1920年ころには整っていた。アメリカ映画は,第1次世界大戦に乗じて興隆し,世界市場を制覇したが,そのために利用したスター・システムと大作主義によって製作費が膨張し,20年代末にはアメリカ第3位の重要産業としての発展は限界に達していた。そのうえ,29年に現実となった金融恐慌に象徴されるように,危機をはらんだアメリカ経済の内部矛盾のため大衆の購買力がいちじるしく低下し,アメリカ映画の収支が悪化,ヨーロッパから俳優や監督を〈輸入〉するといった消極的な対策では問題が解決できなくなっていた。…

【ニュー・シネマ】より

…不況時代のアメリカ中西部の銀行を荒らしまわった男と女の2人組のギャングの短く激烈な人生を描く,この〈アナーキーな暴力〉にみちた青春映画に次いで,やはり〈無法の青春〉を描いたデニス・ホッパー監督《イージー・ライダー》(1969)が,若い観客層を熱狂させて大ヒット。ともに低予算の映画で,ハリウッドの伝統である撮影所システムに縛られずに,ハリウッド育ちではない監督(アーサー・ペンはニューヨークの舞台の演出家出身であり,デニス・ホッパーはリー・ストラスバーグの〈アクターズ・スチュディオ〉の俳優出身である)によって〈自由に〉つくられたことから,ハリウッド=アメリカ映画の概念を打ち破った新しいアメリカ映画として〈ニュー・シネマ〉あるいは〈アメリカン・ニュー・シネマ〉の呼称で総括されることになった。 おりから大手映画会社の撮影所が次々に外部の金融資本によって買収され,〈ハリウッドの崩壊〉が叫ばれていた矢先でもあったので,〈ニュー・シネマ〉こそアメリカ映画の救世主であり未来を背負う力であるとすらいわれたが,《俺たちに明日はない》の二番せんじのギャング映画や《イージー・ライダー》を模倣したオートバイ映画などがはんらんした結果,そのほとんどすべてが興行的に失敗した。…

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