日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説
ウィルソン(Peter Wilson)
うぃるそん
Peter Wilson
(1950― )
主にドイツで活動するオーストラリアの建築家。メルボルン生まれ。1971年、メルボルン大学建築学科を卒業後、渡英。ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)に入学、74年修了。76~88年同校教授を務める。
80年、ザ・ウィルソン・パートナーシップ建築事務所を妻ジュリア・ボレス・ウィルソンJulia B. Bolles-Wilsonとロンドンに開設、その後、アルヒテクトゥールビューロー・ボレス+ウィルソンと改称し、ドイツ、ミュンスターに移る。ベルリン工科大学(1994~96)をはじめアムステルダム、ロッテルダム、バルセロナ、ロンドンの大学や学校の開催するワークショップなどで教鞭をとる。
AAスクールの同級には、ザハ・ハディド、ナイジェル・コーツNigel Coates(1949― )、ダニエル・リベスキンドらがおり、直接の師匠はレム・コールハースとエリア・ゼンゲリスElia Zenghelis(1937― )である。ウィルソンがAAスクールに学生、教師として在籍当時はロン・ヘロンRon Herron(1930-94)やピーター・クックPeter Cook(1936― )といった70、80年代のアバンギャルド建築家集団として知られたアーキグラムの建築家も教鞭をとっていたことからわかるように、AAスクールは教育以外にも、展覧会、出版やレクチャーを活発に行う、若い建築家の積極的な活動拠点であった。まだ実作品に恵まれない建築家たちがそのような活動を通して国際的な知名度を獲得することができたのである。
AAスクール時代のウィルソンは、ナラティブ・アーキテクチャー(物語的建築)のスタイルをとった幻想的なドローイングによる建築作品をいくつも発表している。「シップシェイプ・ビルディング(船型建築)とブリッジ・ビルディング(橋型建築)」を基本的なモチーフとし、幻想的な風景と知的なディテールに裏づけられた建築で、近代建築の合理性に満ちた禁欲的な表現とは異なった世界を表した。
1987年に市制1200年を記念する市の中心部のモニュメントであるミュンスター市立図書館(1993)のコンペで優勝すると、このような物語的建築のアイデアは一挙に現実化した。ウィルソンは中世の街並へ現代建築を象眼(ぞうがん)したのである。建物を二つに分断し、屋根のある街路をつくり、そこを通って建物の内部と外部を行き来できる不思議な空間とした。
ミュンスターのプロジェクトが6年越しで建設される間、ウィルソンはAAスクール東京ワークショップに招聘され、『新建築』コンペ入選、大阪・国際花と緑の博覧会フォリー(小さな建築物。1990)やSuzuki House(1993)のプロジェクト、さらにいくつかのプロジェクトの機会に恵まれるなど、日本での設計活動を積極的に行い、幻想的なスケッチとアイデアは一挙に現実化されることとなる。
その後、WLVビル(1996、ミュンスター)、ブリンク・ショッピングセンター(1999、オランダ)、ルクソール劇場(2001、ロッテルダム)などドイツやオランダでの大規模なプロジェクトを手がける。しかし、ロッテルダム港湾監視所・展望台・タワー計画(1996)など、得意とするミニマルなオブジェ的ランドスケープをつくることも忘れない。機能一辺倒の大都市の環境に対して、人間的なスケールとウィットを投げかけているのである。
2001年にはミラノ市メディアテークBEIC(Biblioteca Europea di Informazione e Cultura)のコンペに入選し、本格的な電子メディア時代の公共建築実現に向けて新たなステップを踏み出している。
[鈴木 明]
『「ボレス+ウィルソン」(『GA DOCUMENT 48』・1996・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『OSAKA FOLLIES 1990 (1990, Architectural Association School, London)』▽『El Croquis 67; Bolles/Wilson 1990-1994; Gigantes/Zenghelis 1987-1994 (1994, El Croquis, Madrid)』▽『Christian Richters photos.Bolles + Wilson; Neue Bauten und Projekte (1997, Birkhäuser, Basel)』▽『El Croquis 105; Architekturbüro Bolles-Wilson 1995-2001 (2001, El Croquis, Madrid)』
ウィルソン(Cassandra Wilson)
うぃるそん
Cassandra Wilson
(1955― )
アメリカのジャズ・ボーカリスト。ミシシッピ州ジャクソンのジャズ・ミュージシャンの家庭に生まれ、幼児期からジャズに囲まれて育つ。10代のころはピアノやギターで、ブルース・シンガー、ロバート・ジョンソン、ロック・フォーク歌手ジョニ・ミッチェルらの歌を弾き語りする。20歳のとき、アーカンソー州リトル・ロックで白人ブルース・バンド、ブルージョンに参加、その後リズム・アンド・ブルース・バンドなどでプロ・シンガーとして経験を積む。26歳になってニュー・オーリンズに移り、サックス奏者アール・タービントンEarl Turbintonから初めて正式にジャズを習ったのち、1980年代初めにニューヨークへ進出。そこでアルト・サックス奏者ヘンリー・スレッギルHenry Threadgill(1944― )のグループ、ニュー・エアーや、同じくアルト・サックス奏者で独自の音楽理論「Mベース」(M-BASE=Macro-Basic Structured Extemporizations。ジャズをベースに、黒人音楽の多様な要素をとり入れたスタイル)を構築しつつあったスティーブ・コールマンSteve Coleman(1956― )率いるファイブ・エレメンツに参加。彼らと共演することによって先鋭的な感覚を身につける。
1986年「Mベース派」のミュージシャンをサイドマンに従えた初リーダー作『ポイント・オブ・ヴュー』を発表。翌87年にはコールマンのほかにスレッギルもアレンジで協力したアルバム『デイズ・アウエイ』を録音、そしてオリジナル・ナンバーによる90年のアルバム『ジャンプ・ワールド』で新時代のジャズ・ボーカリストとしての地位を確立する。93年JMTレーベルからブルーノート・レーベルに移籍し、アルバム『ブルー・ライト』ではジョニ・ミッチェルの曲を取り上げ、従来のコアなファンに加え、新たに幅広い層からの支持を獲得する。95年、アルバム『ニュー・ムーン・ドーター』でグラミー賞最優秀ジャズ・ボーカル賞を受賞。99年にはトランペット奏者マイルス・デービスの曲を取り上げたアルバム『トラヴェリング・マイルス』を発表。その後もジャズ界を代表するボーカリストとして多くのファンから認められ、何度も来日公演を行っているが、そのたびに高い評価を得ている。
ウィルソンはジャズ、ブルース、ロック、フォークと非常に幅広い音楽的背景を背負って出てきた新しいタイプのジャズ・ボーカリストである。しかし独特の深みのある声質を生かした器楽的唱法はジャズ・ボーカルの伝統に根ざすもので、こうした方向ではジャズ歌手ベティ・カーターBetty Carter(1929―98)の影響が強くうかがえる。アルバム『ベリー・オブ・ザ・サン』(2002)で見せたように、ロック・グループ、ザ・バンドや、シンガー・ソングライター、ジェームズ・テーラーJames Taylor(1948― )らの曲目を取り上げたときも表現のオリジナリティーが失われることはなく、そうした意味からも正統的なジャズ・シンガーである。
[後藤雅洋]
ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)
うぃるそん
Thomas Woodrow Wilson
(1856―1924)
アメリカ合衆国第28代大統領(在任1913~1921)。長老教会派の牧師を父に、同派の牧師を母に、バージニア州スタントンに生まれる。プリンストン大学とバージニア大学で政治学を学び、ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を得、1890年、母校プリンストン大学に政治学、法律学の教授として迎えられた。著名な政治学者として彼は、伝統的なアメリカの権力分立原理、とくに瑣末(さまつ)で私的な利権に動かされる議会が、責任ある政治指導を弱化している現状を批判し、憲法の範囲内で大統領が最大限に効率的な指導力を発揮しうる政治改革の必要を論じた。
1902年、プリンストン大学の学長に選ばれ、同大学の教育制度改革を手がけたのち、1910年、民主党からニュー・ジャージー州知事に当選、政治家に転身した。さらに1912年、民主党の大統領候補に選ばれ、「ニュー・フリーダム」(新しい自由)を政綱に掲げた。当時アメリカ社会は大きな経済的、社会的変動のさなかにあり、その変動に対処すべき新たな改革運動(革新主義)の高揚期にあった。とくに、19世紀末から現れた独占企業、巨大企業が、それまでの小規模な企業や農業、あるいは社会・政治機構を無規律に破壊し、ゆがめていることへの批判が高まり、大企業を社会的に規制し、競争を回復し、人々に新しい秩序のもとでの自由を保障する改革の必要が叫ばれていた。この年、共和党が分裂したことにも助けられて、彼は大統領選挙に勝利し、翌1913年から1914年にかけて、19世紀末以来の多くの改革要求の実現に強い指導力を発揮した。すなわち、この間、関税を引き下げるアンダウッド関税法、大規模な金融機構改革を通して信用・通貨の弾力的供給を図る連邦準備法、そしてクレートン反トラスト法(および連邦取引委員会)を成立させた。この改革は、彼をして革新主義的改革の最大の指導者たらしめた。
彼が抱いた強い大統領の指導力という理念は、この時期の国際政治にも大きな影響を与えた。1914年第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、中立からしだいに参戦へと傾いた彼は、さらに戦後の世界秩序の再建にも高い理想を示して指導力を発揮しようとした。1917年4月のアメリカの参戦後、1918年1月、国際連盟の樹立と民族の自決などをうたった平和十四か条を発表した。国際連盟設立の構想は、彼の努力によって1919年、ベルサイユ講和条約に盛り込まれて実現した(同年ノーベル平和賞受賞)。軍国主義を排し、民族自決を促し、国際的平和機構をもって国際関係を律する新しい秩序としようとした彼のこの間の一連の構想は、また同時に、17年に起こったロシア革命に対抗し、自由主義理念のもとで資本主義的世界秩序を再建しようとする試みでもあった。確かにアメリカ自身は、その後ベルサイユ条約を批准せず、国際連盟に加わらなかったが、ウィルソンのこの間の努力は、以後の世界に帝国主義的対立にかわる新しい思想的枠組みを与え、植民地解放運動にも一定の影響を与えた。なおウィルソン自身は、1919年、パリ講和会議から帰国後、ベルサイユ条約の批准を上院に要請したが、その中途、過労のために脳動脈血栓に倒れ、1921年大統領任期満了とともに政界から引退した。1924年2月3日死去。
[紀平英作]
『S・フロイト、W・C・ブリット著、岸田秀訳『ウッドロー・ウィルソン――心理学的研究』(1969・紀伊國屋書店)』▽『志邨晃佑著『ウィルソン――アメリカと世界の改革』(1971・清水書院)』▽『関西アメリカ史研究会編著『アメリカ革新主義史論』(1973・小川出版)』
ウィルソン(Robert Butler Willson)
うぃるそん
Robert Butler Wilson
(1937― )
アメリカの経済学者。ネブラスカ州ジュネーブ生まれ。1959年にハーバード大学を卒業(数学士)し、1961年に同大学で経営学修士(MBA)、1963年に経営学博士(DBA)を取得。1964年からスタンフォード大学で教鞭(きょうべん)をとり、1976年に教授、2004年に同大学名誉教授となった。2020年、オークション理論auction theoryを発展させ実用的な新オークション方式を開発した功績で、弟子のポール・ミルグロムとともにノーベル経済学賞を受賞した。
専門はゲーム理論で、オークション理論などのマーケット・デザインのほか価格理論、交渉学、産業組織論、情報経済学など業績は多岐にわたる。弟子には、ミルグロムのほか、アルビン・ロスAlvin E. Roth(1951― )(2012年ノーベル経済学賞)らがいる。
古典派経済学は市場によって効率配分が実現するとしてきたが、実際には情報の非対称性などで「市場の失敗」が起きる。これを避けるためミクロ経済学では、ゲーム理論や実験経済学の研究が盛んになり、その一環としてオークション理論がビッカリー(1996年、ノーベル経済学賞受賞)、ウィルソン、マイヤーソン(2007年、ノーベル経済学賞受賞)らによって発展した。ウィルソンは1960年代から1970年代にかけて、無線周波数、採掘権、不動産といっただれにとっても共通価値common valueをもつ財に関するオークション理論を導入。オークションの落札額が高値だったと後悔する「勝者の呪いwinner's curse」を避けるため、合理的な入札者は共通価値より低い価格で応札する傾向を理論的に解明し、オークション理論を発展させた。ミルグロムらとともに、複数オークションを同時並行で繰り返す「同時複数ラウンド競り上げ入札Simultaneous Multi-Round Ascending Auction」を開発。1994年のアメリカ政府の電波割当てに採用され、莫大な国庫収入をもたらした。その後、多くの国が周波数、資源、電力、空港発着枠などの割当てに同方式を導入し「納税者を含め、社会に多大な恩恵を与えた」ことがノーベル賞受賞につながった。ウィルソンらの受賞はノーベル経済学賞の実用重視の最近の傾向を象徴している。
[矢野 武 2021年2月17日]
ウィルソン(Robert Woodrow Wilson)
うぃるそん
Robert Woodrow Wilson
(1936― )
アメリカの電波天文学者。ヒューストンに生まれる。ライス大学を1957年に卒業後、カリフォルニア工科大学大学院に進み、電波天文学を研究し、1962年博士号を取得した。1963年ニュー・ジャージー州ホルムデルのベル研究所の技術スタッフとなり、1976年に同研究所の電波物理学部門の研究部長の職についた。また1978年からはニューヨーク州立大学の教授を務めた。
ベル研究所で2年先輩のペンジアスとともに衛星通信の障害となる雑音源をつきとめるため、電波望遠鏡と受信機のテストを行っていた。そこで彼らは、1964年に宇宙の全方向からくる波長約7センチメートル、温度約3K(マイナス270℃)の宇宙背景放射Cosmic Microwave Background Radiation(CMB。宇宙マイクロ波背景放射、宇宙黒体放射、3K放射ともいう)を発見した。プリンストン大学のディッケRobert Henry Dicke(1916―1997)に観測結果を連絡したところ、ディッケはそれが宇宙の創生期におきたビッグ・バンの名残(なごり)ではないかと予測した。この発見は、膨張する宇宙の証拠とみなされ、以後、宇宙論は大いに盛り上がりをみせた。この業績に対して、1978年にペンジアスとともにノーベル物理学賞が与えられた。低温物理学のカピッツァとの同時受賞であった。
[編集部]
ウィルソン(Charles Thomson Rees Wilson)
うぃるそん
Charles Thomson Rees Wilson
(1869―1959)
イギリスの物理学者。2月14日、スコットランドのグレンコース郡に生まれる。父ジョン・ウィルソンJohn Wilsonは牧羊業で知られた人で、母アニー・クラーク・ハーパーAnnie Clerk Harperはグラスゴーで製糸業を営む家族の出である。4歳のとき父が死に、母は彼を連れてマンチェスターに移った。その地で教育を受け、1888年に奨学生としてケンブリッジ大学に入り、物理学者になる決心をした。1892年ケンブリッジを卒業したウィルソンが、自分の生涯の研究テーマとなるものに出会った瞬間を後年、次のように述べている。「1894年9月に私は、スコットランド丘陵でいちばん高いベン・ネビスの頂上に当時あった天文台で数週間を過ごした。小山の上にかかっている雲に太陽の光が当たったときに生ずるすばらしい光学現象、とくに太陽の周りや、山頂や人が霧や雲に落とす影の周りにできる環状の虹(にじ)の美しさに心を打たれ、同じ現象を実験室で再現したいものだと思った」。
膨張装置をつくり、湿った空気を膨張させて霧をつくる実験から研究を始めてまもなく、霧の核となるほこりの粒子の入っていない湿った空気でも膨張率が1.25を超えたとき放射線の入射などにより霧が発生することを発見した。その後、発見されたばかりのX線やウランの放射線などを使用して凝縮核の研究に進み、その結果、凝縮核が、X線や放射線の電離作用でつくられたイオンであることを証明した。
放射能の研究が、放射線の本性解明から原子構造の解明へと進んだ20世紀の初頭に、ウィルソンの膨張装置つまり霧箱(きりばこ)は重要な役割を演じることになる。それまでの検出装置である電気的計測装置や硫化亜鉛の感光板などでは、α(アルファ)粒子やβ(ベータ)粒子の散乱過程で実際に何がおこったのか決定できなかった。その過程を目に見えるようにする装置が望まれていた。
1911年ウィルソンは自ら発明した霧箱を改良して、電離作用するイオンの飛跡を写真に撮ることに初めて成功した。「蒸気を凝縮し荷電粒子の飛跡を可視化する方法の研究」により、1927年のノーベル物理学賞を受けた。受賞講演で、写真を撮るための瞬間的な照明方法の考案に苦労したことを述べると同時に、それまで確証なしに正しいと考えられてきた情報に対し写真によって必要な確証を与えられたと述べている。90歳の天寿を全うした。
[日野川静枝]
ウィルソン(Kenneth Geddes Wilson)
うぃるそん
Kenneth Geddes Wilson
(1936―2013)
アメリカの理論物理学者。ハーバード大学、カリフォルニア工科大学に学び、カリフォルニア工科大学、ヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))、コーネル大学を経て、1963年ハーバード大学教授となる。そのころ、相転移・臨界現象の問題は、統計力学・物性理論分野の中心的課題の一つとされていた。臨界点近傍でのスケーリング則の成立が臨界現象に本質的なことである点については、現象論的にはカダノフLeo P. Kadanoff(1937― )によって1966年に明らかにされていた。そこでウィルソンは1971年に、ミクロレベルに歩を進めて、ゲルマン、ロウFrancis Low(1921―2007)による「場の量子論におけるくりこみ群の方法」(1954)を土台に、くりこみ群の理論を直観的・物理的に構築し、臨界指数を具体的に求める方法を与えた。この理論は、非平衡理論分野その他に広く適用可能性を有し、理論物理学に新しい視座を与えるものとなった。「相転移に関連した臨界現象に関する理論」により、1982年ノーベル物理学賞を受賞した。
[荒川 泓]
ウィルソン(Sir Angus Frank Johnstone Wilson)
うぃるそん
Sir Angus Frank Johnstone Wilson
(1913―1991)
イギリスの小説家。伝統的なイギリス風俗小説の現代における代表的な継承者の一人。8月11日サセックスに生まれる。オックスフォード大学で中世史を専攻、卒業後不況のなかを秘書、家庭教師、レストラン支配人などさまざまな職についたあと、1937年、大英博物館図書館に職を得た。第二次世界大戦後、強度の神経症にかかり、その治療の一手段として週末に短編小説を書き始めた。文壇へのデビューは短編集『悪い仲間』(1949)で、非情な風刺で注目された。続く短編集『愛すべきお年寄りたち』(1950)も好評だったが、彼の本領はむしろ舞台を広くとった長編小説にあり、『毒にんじんとその後』(1952)、『アングロサクソンの姿勢』(1956)では知識人たちの社会を描いて、微妙な階級感情や偽善、退廃を、鋭利な観察と柔軟な文体、成熟した倫理感でえぐり出すことに成功する。
その後、女性の強さを描いた『エリオット夫人の中年』(1958)、未来空想小説『動物園の老人たち』(1961)、老年のわびしさを描いた『遅い目覚め』(1964)などを発表したが、『笑いごとじゃない』(1967)では、ある中産階級の一家の半世紀を、戯曲やゲームなど、多様な実験的手法を用いてパノラマ風に描き上げ、さらに神秘的な秘境の人々の力を扱った『まるで魔術のように』(1973)、歴史的な主題をもとにテロリストを取り上げた『世界を炎上させて』(1980)などを発表し、これまでの彼の作風を一段と進展させた。評伝作品には『エミール・ゾラ』(1952)、『チャールズ・ディケンズ』(1970)がある。1991年5月31日没。
[出淵 博]
『永川玲二訳『世界文学全集17 アングロサクソンの姿勢』(1967・集英社)』▽『工藤昭雄・鈴木寧訳『新しい世界の短編7 悪い仲間』(1968・白水社)』▽『芹川和之訳『笑いごとじゃない』(1973・講談社)』▽『グランズデン著、小池滋訳『A・ウィルソン』(1971・研究社)』
ウィルソン(Colin Wilson)
うぃるそん
Colin Wilson
(1931―2013)
イギリスの作家、批評家。父親はレスターの靴工場で働いていた。貧しかったため、16歳のときに学校をやめざるをえなくなるが、その後ほとんど独学で古今の文学・思想書を読破し、1956年に『アウトサイダー』を発表、現代文明と人間関係を論じた同書は1950年代の「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」を代弁するものとして多くの話題をよんだ。その後評論『宗教と反抗人』(1957。邦訳文庫版では『宗教とアウトサイダー』下)をはじめほぼ毎年1冊の割で小説『暗闇(くらやみ)のなかの儀式』(1960。邦訳『暗黒のまつり』)、『賢者の石』(1969)、自伝『発端への旅』(1969)、音楽論『コリン・ウィルソン音楽を語る』(1967)、ミステリー『ガラスの檻(おり)』(1966)、さらにオカルト研究『オカルトの歴史』(1971。邦訳『オカルト』)などを発表、その後神秘主義的傾向を強めた。
[富士川義之]
『中村保男訳『ガラスの檻』(1967・新潮社)』▽『中村保男訳『暗黒のまつり』(1968・新潮社)』▽『河野徹訳『コリン・ウィルソン音楽を語る』(1989・冨山房)』▽『飛田茂雄訳『発端への旅』新装版(1991・竹内書店新社)』▽『中村保男訳『アウトサイダー』(集英社文庫)』▽『中村保男訳『賢者の石』(創元推理文庫)』▽『中村保男訳『宗教とアウトサイダー』上下『夢見る力――文学と想像力』『オカルト』上下(河出文庫)』
ウィルソン(Edmund Wilson)
うぃるそん
Edmund Wilson
(1895―1972)
アメリカの批評家、エッセイスト。プリンストン大学を卒業後、『バニティ・フェア』『ニュー・リパブリック』誌、とくに1944年から4年間は『ニューヨーカー』誌の書評家として活躍。フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ドス・パソス、フォークナーなどの鬼才を次々と発見し、アメリカの文芸復興に大いに寄与した。1931年、象徴主義の伝統を跡づけた名著『アクセルの城』を発表し、批評家としての地位を揺るぎないものとした。ほかに多重の意味の問題を扱ったThe Triple Thinkers(1938)、ロシア革命思想の形成を追ったTo the Finland Station(1940)、芸術と神経症の関係を論じた『傷と弓』The Wound and the Bow(1941)、ユダヤの歴史にメスを入れたThe Scrolls from the Dead Sea(1955)、それまでのリンカーン像に修正を加えた南北戦争文学史『愛国の血』Patriotic Gore(1962)などがある。彼の特色は、一つの立場に固執しない幅広い視野と説得力に富む筆致にあった。マルキシズムから始まり、象徴主義、精神分析、歴史主義へと忙しく移る視点にジャーナリズム臭がなきにしもあらずだが、つねに時代を背負う者を的確に予言するという希有(けう)な才能を有していた。
[森 常治]
ウィルソン(Sir Harold Wilson)
うぃるそん
Sir Harold Wilson
(1916―1995)
イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業後、同大学で経済学を講じた。第二次世界大戦中に官界に入り、1945年7月の選挙で労働党下院議員となった。アトリー内閣では海外貿易相、商相を務めたが、1951年国防費増加に反対してベバン労相とともに辞任した。1963年ゲイツケルの死後、労働党党首に就任し、翌1964年の選挙で労働党を勝利に導いて首相の座についた。「科学革命時代の社会主義」を唱え、没落の兆候をはっきりと示していたイギリス経済・社会の活性化を意図したものの、実を結ばず、1967年にはポンドの大幅切下げを行わねばならなかった。1970年6月の選挙で保守党に政権を譲ったが、1974年にふたたび首相となり、賃金抑制のための社会契約の実施、ヨーロッパ共同体(EC)への残留をめぐる国民投票などを行った。1976年3月に突如首相辞任を発表し、任期なかばで退いた。
[木畑洋一]
ウィルソン(August Wilson)
うぃるそん
August Wilson
(1945―2005)
アフリカン・アメリカン(黒人)の戯曲家、詩人。ピッツバーグに生まれる。父親は白人であったが両親の離婚で母親のもとで育つ。子供時代から厳しい人種差別に悩む。グラッドストーン高校中退。1963年軍隊に入隊し1年後に除隊。1960年代にはブラック・パワーの活動に参加。「マルカムXたちへ」という詩が『ニグロ・ダイジェスト』に掲載される(1969)。戯曲『マ・レイニーズ・ブラック・ボトム』がブロードウェイで上演され(1984)高く評価される。『ジョー・ターナーの往来』(上演1986)、ピュリッツァー賞を受賞した『フェンス』(1987年度受賞)、『ピアノ・レッスン』(1990年度受賞)、『二列車が走る』(1989)、『七つのギター』(1997)などで南部や奴隷であった過去を忘れず、黒人の遺産を大切にしながら生きるアメリカの黒人を描いた。
[荒このみ]
『桑原文子訳『フェンス』(1997・而立書房)』▽『桑原文子訳『ピアノ・レッスン』(2000・而立書房)』
ウィルソン(Edwin Bidwell Wilson)
うぃるそん
Edwin Bidwell Wilson
(1879―1964)
アメリカの数学者、物理学者。コネティカット州ハートフォードに生まれる。1899年ハーバード大学卒業後、エール大学で物理学者のギブスに師事し、1901年学位を取得した。エール大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)で教え、1917年MITの物理部門の部長となった。第一次世界大戦中は流体力学、航空工学の分野を研究し、1920年代からは統計学に着手し、1922年にはハーバード公衆衛生学校の人口統計学教授になり、1929年にはアメリカ統計学会会長に就任した。1920年代は推測統計学の建設期であり、彼の区間推定法、信頼区間の考え方はそれに貢献した。また人口増加を解析的に表現するロジスティック関数を提唱した。
[高山 進]
ウィルソン(Richard Wilson)
うぃるそん
Richard Wilson
(1714―1782)
イギリスの風景画家。ウェールズのモントゴメリーシャーに生まれる。初め肖像画を描いたが、イタリア遊学中、おもにローマとその近郊の廃墟(はいきょ)に心ひかれ、それを題材にして風景画に専念するようになった。1775年ロンドンに帰って数年間はイタリア風景を描いて名声を得、アカデミー会員にもなったが、やがて、イギリスの自然に親しみ、イギリスの風景を描くにつれ無視されるようになった。作風はじみで落ち着きがある。晩年不遇のうちにウェールズに帰ったが、後世風景画の樹立者の一人と認められた。
[岡本謙次郎]
ウィルソン(John Dover Wilson)
うぃるそん
John Dover Wilson
(1881―1969)
イギリスのシェークスピア学者。ロンドン大学、ついでエジンバラ大学教授。1921年から40年以上の歳月をかけて編纂(へんさん)した全集『ニュー・ケンブリッジ・シェークスピア』は、綿密な本文校訂と独自の大胆な推理によって知られる。『ハムレットでは何が起こるか』(1935)、『シェークスピアの幸せな喜劇』(1962)など、豊かな問題提起を含む多くの著作がある。
[村上淑郎]