ポルトガル(読み)ぽるとがる(その他表記)Portuguese Republic 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル
ぽるとがる
Portuguese Republic 英語
República Portuguesa ポルトガル語

ヨーロッパ大陸南西部、イベリア半島西端に位置する共和国。正式名称はポルトガル共和国República Portuguesa。大西洋に面し、アゾレス諸島およびマデイラ諸島を自国領に含む。本土とアゾレス、マデイラをあわせ面積9万2090平方キロメートル、人口1035万6117(2001センサス)、1058万4000(2006推計)。人口密度は1平方キロメートル当り115人。首都はリスボン。国名はローマ時代のドーロ川河口付近にあった植民地ポルトゥス・カレPortus Cale(現在のポルト市)に由来する。国旗は緑と赤の地に国家の紋章をあしらう。12世紀から13世紀にかけてイスラム勢力と角逐し、1297年ほぼ現在の国境を確定した。その意味でヨーロッパでもっとも古い国の一つである。国際的には国連、OECD(経済協力開発機構)、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)、IEA(国際エネルギー機関)、EU(ヨーロッパ連合)などのメンバーである。海外との結び付きが伝統的に強く、大航海時代以降積極的な海外進出を行った。歴史的には隣国スペインのほか、イギリス、ブラジル、南部アフリカ諸国と関連が深い。西ヨーロッパで国民所得が低い国の一つで、海外への移民が多い。

[田辺 裕・柴田匡平]

自然

地質

地質系統はほぼスペインの延長である。北部ミーニョ地方は火山性変成岩や貫入岩よりなり、断層や温泉がみられる。テージョ川(スペイン名タホ川)以北の東部国境から南西に延びる山塊はいずれもメセタの西縁部をなし、珪土(けいど)層で花崗(かこう)岩や頁(けつ)岩よりなる。南部メセタ西縁をなすアルト・アレンテージョもほぼ同様の地質だが、標高は200メートルまで下がる。ベイラ・リトラルおよびエストレマドゥーラの沿岸部は三畳紀系の砂岩よりなる。そしてテージョ川とサード川による沖積平野が南西部の低地を形成している。

[田辺 裕・柴田匡平]

地形

イベリア半島中央部を西流するテージョ川以北のポルトガルは起伏の激しい山岳性だが、南部は平野と低い台地よりなっており、起伏は穏やかである。北部の山塊は1000メートル級のものが多く、最高はエストレーラ山脈の主峰エストレーラ山の1991メートル。主要河川はドーロ川(スペイン名ドゥエロ川)とテージョ川で、いずれもスペインから流れている。北部ポルトガルでは河川は北東から南西に向かうが、南部では、アルト・アレンテージョからカルデイラン山地にかけての起伏のために、河川は南東から北西に流れる。

[田辺 裕・柴田匡平]

気候

ポルトガル本土は温帯に属し、気候は全般に穏やかである。北部の冬は北大西洋低気圧が卓越し、メセタやシベリアの高気圧が強いときには気温が下がる。北東の山岳部やエストレーラ山地には降雪もみられるが、強烈に冷え込むことはまれである。南西部は海洋性西岸型に近い地中海性気候で、夏は乾燥し冬に降水がある。南端部は、アフリカの影響で、高温に達することがある。年平均気温は16℃、最高平均気温22℃程度、最低平均気温も最寒のブラガンサで6.2℃である。年降水量はミーニョ地方で1000~2000ミリメートル、リスボンで700ミリメートル弱。

[田辺 裕・柴田匡平]

生物相

ポルトガルの植物種の約3分の2はヨーロッパの他地域と共通し、残りがイベリアおよびアフリカ系である。テージョ川の南北で植物相はかなり明確に区分される。北部山岳地帯はマツやカシが多く、クリやニレもみられる。南部ではコルクガシ、モチノキ、アーモンド、イチジクが目だつ。オリーブは中部から北部にかけて、ドーロ河谷に広く分布する。山岳部には野生のヤギやシカが生息するが、独自の種はほとんどない。魚貝類が豊富なほか、渡り鳥も数多くみられる。スペインと異なり緑の樹木と野原を彩る野花が美しい。

[田辺 裕・柴田匡平]

地誌


 ミーニョおよびドーロ・リトラル地方は山岳部でユーカリやマツの森が点在し、ブドウ栽培が盛んで年二度の収穫を得ることもある。ブドウは未熟成酒(アルコール度が低くやや辛口)の原料。ポルトからドーロ川沿いは水利開発が進められており、工業地帯の性格を備えている。

 トラズ・オス・モンテスおよびアルト・ドーロ地方はメセタ西端にあたり、高原上は植生が貧弱で集落もまばらである。しかし深くえぐれた河谷部では畑作が営まれ、棚状の耕作地でオリーブ、イチジクとともに、ポートワインの原料となるブドウの栽培が盛んである。トラズ・オス・モンテスの中心地ビラ・レアルの郊外では有名なロゼ・ワインの銘柄「マテウス」を産する。

 ベイラ・リトラル地方は低地で水路が発達し、砂地には松林がみられる。内陸では小麦やトウモロコシが栽培され、オリーブやブドウが植えられている。

 ベイラ・アルタとベイラ・バイシャ地方はイベリア中央部からの山塊延長部で、山岳部の草地では牧羊が営まれている。人口が集中するのはモンデーゴ川およびゼゼレ川の沿岸である。モンデーゴ河谷では甘味の強い赤ワインを産する。この地方はポルトガルとスペイン確執の舞台であったため、城壁に囲まれた集落もみられる。

 リスボンを中心とするエストレマドゥーラ地方、とくにナザレ付近は美しい砂浜で知られる。ナザレからセトゥーバルにかけてはマツやユーカリの林に挟まれて麦やオリーブが栽培されており、北部に比べ集約性が高く規模も大きくなる。リスボン付近は政治、経済、文化の中心地である。

 リバテージョはテージョ川沿岸を意味し、右岸ではオリーブを主にブドウと野菜の同時栽培が行われているのに対し、左岸には小麦とオリーブの大規模農場が連なる。テージョ川下流では稲作のほか牧畜も盛ん。

 ポルトガル南部の大部分を占めるアルト・アレンテージョとバイショ・アレンテージョの景観は北部と対照をなす。この地方はポルトガルの穀倉で小麦畑が広がる。大土地所有制が1974年のクーデターで崩れ、農地解放の動きがもっとも激しかったが、集団農場経営は見直しが進められており、灌漑(かんがい)や土壌改良に力が注がれている。サード川流域は水田におけるイネの栽培が盛んでユーカリもみられる。

 ポルトガルの最南端に位置するアルガルベ地方はアレンテージョ地方とは低い丘陵地で隔てられ、アーモンド、イチジクなどの栽培加工が盛んであり、ゼラニウム等の花卉(かき)、綿花、イナゴマメなどの園芸農業も行われている。建物は地中海風に白っぽくなり、北部のくすんだ色調と対照的である。アラブの影響を強く受けた地方でもある。沿岸はマグロの回遊海域で漁港が多く、漁業と缶詰工業が盛んであるが、夏涼しく冬暖かいので、外国人を対象とする観光リゾート地帯となっている。

[田辺 裕・柴田匡平]

歴史

建国まで

現在のポルトガル領に相当する地域の先住民はイベロとよばれるが、彼らは紀元前7世紀から半島に侵入してきたケルト人と混血し、前3世紀末からは古代ローマ文明の圧倒的な影響を受ける。先住民の言語にかわってラテン語が話され、キリスト教が広まり、南北を貫いて建設された道路はそれまで孤立していた各地域を結び付けた。しかし、ローマ帝国の衰退とともに北方から入ってきたゲルマン人はブラガにスエビ王国を築いたが、紀元後6世紀中葉西ゴート王国に併合された。

 711年北アフリカから侵入してきたイスラム教徒によって半島の大半は約8世紀間支配されることになる。まもなく半島北部から始まったレコンキスタはレオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世の下に大きく進展した。1096年フランスの騎士アンリ・ド・ブルゴーニュは、アルフォンソ6世からミーニョ川とドーロ川間のポルトカレ伯領を譲渡され、その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世Afonso Ⅰ、1109?―1185、在位1139~1185)は、1143年レオン・カスティーリャから独立しコインブラを都にポルトガル王国を建国した。その後も歴代の国王はレコンキスタを続け、13世紀中葉には地中海に到達する。ディニス王の治世(1279~1325)下には国内の植民活動が進み、トルーバドゥール文化が花開いた。

[金七紀男]

繁栄の時代

しかし、14世紀中葉からペスト、対カスティーリャ戦争によりポルトガルは深刻な社会的・経済的危機にみまわれ、1383年には王位継承問題に端を発して国内は親カスティーリャ派と独立派に二分され、1385年勝利を収めた独立派はジョアン1世を国王に選定し、アビス王朝が開かれた。海商ブルジョアジーに支援されたアビス王朝は海外進出政策をとる。ジョアン1世の子エンリケ航海王子は西アフリカ探検を指揮し、1498年バスコ・ダ・ガマはインド航路発見に成功した。アジアの香料は海路直接ヨーロッパに輸入され、リスボンは未曽有(みぞう)の繁栄を遂げた。ポルトガル人はインドのゴアに東洋支配の拠点を築いて通商圏を拡大し、イエズス会を通じてキリスト教を布教した。彼らは1543年ヨーロッパ人として初めて日本を訪れ、南蛮文化をもたらした。しかしながら、その繁栄は早くも16世紀中葉には陰りがみえ始め、1580年にはスペインに併合される。

[金七紀男]

イギリスへの従属

1640年スペインからの再独立を成し遂げたジョアン4世はブラガンサ王朝を開いたが、スペインからの独立を守るためにイギリスへの従属を深めていく。インド香料交易を失ったポルトガルは、17世紀にブラジルに砂糖産業を発展させ、18世紀にはブラジルで大量に採掘された金によって大きな富を得たが、その富の大半は国外に流出した。

 ジョゼ1世José Ⅰ(1714―1777、在位1750~1777)の下で独裁的政治を行ったポンバル侯はこの衰退に歯止めをかけ、18世紀末葉にはかなりの繁栄を回復できたが、1807年ナポレオン軍の侵略と半島戦争でポルトガルはふたたび危機に陥った。王室をブラジルに逃避させたイギリスはそのブラジル市場に大きな特権を付与された。ブラジルという独占市場を失った本国のブルジョアジーは、1820年自由主義革命に成功し、立憲王政を確立する。1834年絶対主義勢力との戦いに勝利を収めた商業ブルジョアジーは、国有財産として没収された教会領を購入することによって農業ブルジョアジーに転化するとともに旧貴族との妥協を図ったために封建的構造は存続する結果となった。ポルトガルは、農産物をイギリスに輸出し同国の工業製品を輸入することによってイギリス自由貿易主義体制に組み込まれる。

[金七紀男]

共和革命からサラザール独裁へ

1851年以降、刷新党と進歩党による二大政党政治の下で政情は安定し、「刷新」という名の近代化が進められた。しかし、1870年代の不況で対英輸出が行き詰まると、新たに活路をアフリカ植民地に求めてアンゴラとモザンビークを結ぶ領土の拡大を図った。この政策は、アフリカ縦断政策を進めるイギリスの強硬な反対にあい、ポルトガルは英政府の最後通牒(つうちょう)の受諾を余儀なくされたため、王党政府は国民の信頼を失い、おりからの財政危機、政情不安から1910年10月リスボンで共和革命が成功し、国王はイギリスに亡命した。

 この革命は都市の中産階層に支持され、アフォンソ・コスタ(1871―1937)らの共和主義者は政教分離、離婚法の承認など反教権主義的な政策をとったが、まもなく共和党は分裂し、第一共和政16年間を特徴づける政情不安が始まった。第一次世界大戦に参戦した1917年12月、右派軍人のシドニオ・パイス(1872―1918)はクーデターにより政権を奪取し、そのカリスマ的人気を利用して翌1918年には大統領に選出された。しかし、パイスは同年12月リスボンで暗殺され、北部では王党派が王政を宣言するなど政情不安はその極に達し、戦後の経済危機、労働攻勢が重なって第一共和政は完全に行き詰まっていた。

 1926年5月、右派軍人によるクーデターが再度成功し、将軍カルモナAntónio Óscar de Fragoso Carmona(1869―1951)は強権政治を行って秩序の回復を図るとともに、深刻な財政危機克服のためにコインブラ大学教授オリベイラ・サラザールを蔵相に招聘(しょうへい)した。サラザールは1年足らずで積年の財政赤字を解消し、1932年には資本家=地主、教会、軍部、カトリック知識人などの右翼勢力に支持されて首相に就任した。翌1933年、組合主義的「新国家」体制を樹立し、1936年のスペイン内戦以降ファシズムに傾斜していく。第二次世界大戦では中立を守り、大戦後もその巧妙な外交政策と強権政治により独裁体制を維持、強化した。

[金七紀男]

民主体制への復帰

しかしながら、その独裁体制は、1961年からアフリカ植民地に始まった独立解放戦争によって揺らぎ始める。1968年サラザールは引退し、かわってマルセロ・カエタノMarcelo Caetano(1906―1980)が首相に就任するが、1974年4月25日、植民地戦争の最前線で戦ってきた若手将校がクーデターを起こし、半世紀近い独裁体制は崩壊した。左翼軍事政権はアンゴラ、モザンビークなどの植民地の独立を承認し、基幹産業の国有化、農地改革を断行した。クーデターの成功により、同年5月アントニオ・スピノラが大統領に就任したが、左翼急進主義と衝突して9月に辞任。後任にコスタ・ゴメスFrancisco da Costa Gomes(1914―2001)が就任した。1976年の民政移管後、新たに共和国憲法が公布され、ポルトガルは半世紀ぶりに民主体制に復帰した。

[金七紀男]

政治

政治制度

共和制をとる。1974年のクーデターを経て1976年に社会主義的な色彩をもつ新憲法が制定された。以来政権は1986年までの12年間で16を数え、不安定であった。1985年10月の総選挙で社会民主党(PSD)のアニバル・カバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939― )が首相になり、翌年、社会党(PS)のマリオ・ソアレス前首相が60年ぶりに文民の大統領(5年任期で直接選挙)となって以来、政治情勢は沈静化していった。1996年には、PSのジョルジェ・サンパイオJorge Sampãio(1939―2021)が大統領となり、同時に10年ぶりにPS書記長のアントニオ・グテレスAntónio Guterres(1949― )を首相に指名した。2001年サンパイオは大統領に再選。2002年3月の総選挙では、PSDと民衆党(PP)の中道右派連立政権が成立し、PSDの党首ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾJosé Manuel Duaro Barroso(1956― )が首相に就任。2004年7月バローゾがEU委員長に選任され首相を辞任したため、後任にはPSDのペドロ・サンタナ・ロペスPedro Santana Lopes(1956― )が就任した。その後、2005年2月の総選挙ではPSが単独過半数を獲得して勝利し、PSの党首ジョゼ・ソクラテスJose Socrates(1957― )が首相に指名されたが、2006年2月の大統領選挙では、PSDとPPの支持を得たカバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939― )が当選。民主化後、初の右派系出身の大統領が誕生した。

 共和国議会(任期4年、定数は180以上、230以下と規定され、現在は230)は比例代表制で、選挙権は18歳以上の男女に与えられる。公共企業と民間企業の協調を進めるPSと、基幹産業の国有化と国家の財政的介入の必要を強調するPSDは、互いに政権を争いつつ、ときには協力しあっている。

[田辺 裕・柴田匡平]

地方行政

ポルトガル本土には18の行政区があり、政府の任命する知事が首長となる。行政区はさらに約300の市町村に分かれ、住民が市町村議会議員を選出する。そして市町村議会は行政を担当する委員会を選出する。ほかに市町村レベルで商工委員会や審議会が設けられる。本土と離れたアゾレスおよびマデイラには1976年、ある程度の自治権が認められたが、共和国内にとどまっている。

[田辺 裕・柴田匡平]

外交

サラザールの独裁政権は、第二次世界大戦直後、東西両陣営からファシスト的と目されたものの、冷戦に伴い1949年にNATO(ナトー)に迎えられて西側の一員となり、1955年には国連に加盟した。1960年代後半からアンゴラやモザンビークで独立戦争が激化・泥沼化してポルトガルは国際的な孤立を深めた。1974年のクーデター後、アフリカ植民地の独立容認、共産圏への接近など慌ただしい外交が展開されたが、基本的には西側陣営に属し続けてきた。1986年1月にはEC(ヨーロッパ共同体)に正式加盟、ECがEUに移行後、1992年12月にはEU条約を批准した。その一方、クーデター後にもちあがったかつての植民地東チモール問題ではインドネシアと長年対立状態にあり、1995年以降は何度か協議をもった。ポルトガルは西ヨーロッパ諸国や国連とともにインドネシアによる東チモール併合を非難していたが、1999年10月インドネシアは東チモールの分離を認めた。なお、1996年ポルトガル語を公用語とする国による国際協力組織、ポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、東チモールは独立後の2002年に加盟した。CPLPの加盟国はポルトガル、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウ、サントメ・プリンシペ、カーボベルデ、東チモールの8か国(2009)。本部はリスボンに置かれている。

[田辺 裕・柴田匡平]

防衛

陸海空の三軍を有し、国防省が統轄する。以前は20歳以上の男子は2年間の兵役を義務づけられており、延長もしくは他の公務をもって代替も可能であったが、2004年11月からは完全志願兵制に移行した。NATOの一員としてイベリア大西洋司令部が駐するほか、弾薬貯蔵施設や通信施設を提供している。また大西洋の要衝アゾレス諸島中のテルセイラ島にあるラージェス軍事空港をアメリカ合衆国空軍に使用させている。2005年の兵力は陸軍2万2400、海軍1万4104、空軍8900。

[田辺 裕・柴田匡平]

経済・産業

構造的特徴

1974年のクーデター以降、海外領の喪失、企業国有化、南部での性急な農地解放などの影響でポルトガル経済は急激に悪化した。IMF(国際通貨基金)の緊急融資(1977)に続く思いきった緊縮政策の結果、1985年ごろからは経済指標が上向いた。インフレ率は1980年代なかばから1990年代初頭にかけ、年10%台の平均値であり、そのためGDP(国内総生産)の伸び率は一桁(けた)台前半にとどまった。1990年代に入りインフレは鎮静化し、1996年には3%台となった。2007年現在、1.7%である。これに伴いGDPの伸びも回復しつつある。労働力人口の1割が農業従事者だが、GDPの5%弱を生産するにすぎず、自給できない状態である。製造業はGDPの約30%を占めるが、国内市場が狭隘(きょうあい)な点が問題である。海外移民からの送金が国際収支に大きな役割を果たすのが特徴である。

[田辺 裕・柴田匡平]

資源

推定埋蔵量は石炭(無煙炭)1900万トン、褐炭3700万トン、ウラニウム8200トン、銅鉱3200万トン。世界有数のタングステン産出国で、2001年の生産量は約700トン。主産地はパナスケイラ。ウランは1963年から開発され、主産地はビゼウ南方のウルゲイリサ。エネルギー自給の向上を目ざし、カバド、ドーロ、ゼゼレ、テージョなどの河川で水力発電が行われており、発電能力の3割を水力が占める。原子力発電所はない。また、二酸化炭素の排出量を削減するために太陽光発電に力を入れている。

[田辺 裕・柴田匡平]

農林業

西ヨーロッパでもっとも生産性が低いといわれる。基盤整備の立ち遅れに加え、クーデター後の南部での農地解放・集団化に伴う混乱や1990年代初めの干魃(かんばつ)が原因である。北部では平均耕地面積が5.7ヘクタール程度しかなく、零細な経営が多い。主要作物は小麦、トウモロコシ等の穀類やジャガイモ、ブドウ、オリーブなど。牧畜は加工肉を輸出するが、比重はあまり高くない。林業は19世紀後半から重視され、コルクがとくに重要な産品。

[田辺 裕・柴田匡平]

水産業

海産物に恵まれ、食生活の大きな比重を占める。マトジニョス、セトゥーバルのほか、アルガルベ地方も主要な水揚げ地である。種類は甚だ豊富だが、沿岸漁業ではイワシ(缶詰にして輸出される)、遠洋漁業(ニューファンドランドおよびグリーンランド近海で操業)ではタラが主である。2001年の漁獲高19万1214トン。

[田辺 裕・柴田匡平]

鉱工業

1975年にセメント、石油化学、造船、発電などの基幹産業が国営化された。鉱業ではタングステンやウランが有名だが、全体的にみて鉱業の占める比率は大きくはない。1980年代まで工業部門で重要なのは食品(魚類缶詰、肉の保存加工、酪農品、製粉)および飲料工業(ワイン、ビール)、繊維工業、靴製造などであった。賃金水準が低いとはいえ、国際競争力はあまり強くない。部品調達に難があることや政治情勢の不安などで海外からの投資は控えられてきたが、1980年代中ごろから外国資本の進出が漸増し、自動車組立てや電子工業の集積が進んだ。2002年の数値でみると、ポルトガルへの直接投資総額18億7800万ユーロのうち、15億7220万ユーロ(約84%)がEU(ヨーロッパ連合)内の国々からのもの。ついでブラジル、アメリカの順となっている。ただし毎年その数値は大きく変動している。

[田辺 裕・柴田匡平]

輸出入

輸入総額450億3300万ドル、輸出313億1400万ドル(2003)で、恒常的貿易赤字傾向が続いている。主要貿易相手国はスペイン、ドイツ、フランスらEU諸国。輸出産品は衣類、織物および繊維製品、電気機械製品、自動車および自動車部品、コルク・コルク製品、食料、ワインなど。原油、工業製品、穀類、魚貝類を輸入している。外資系企業が輸出に果たす役割が増大しつつある。

[田辺 裕・柴田匡平]

金融・財政

1974年以降国際収支がとみに悪化し、海外移民の本国送金、観光収入、IMFなどの公的融資、通貨切下げなどによって対処してきた。インフレーション抑制のため、緊縮財政が1983年以降強力に推進され、1985年ごろからようやく鎮静した。1986年のEC加盟後、外資が流入したため1990年には資本流入がやや制限された。大部分の金融機関はクーデター後国有化されたが、民間銀行の設立が1984年に許可され、1998年現在81行の民間銀行が設立されている。

[田辺 裕・柴田匡平]

交通・通信

道路総延長7万2600キロメートル(2002)、鉄道総延長3579キロメートル(1999)。自動車の普及状態や、マス・メディア(ラジオ、テレビ、新聞など)の普及は他の西ヨーロッパ諸国に比較すると低い。長い歴史をもつ海運は110万トン(2002)を保有し、主要港湾はリスボン、レイションイストルー、セトゥーバルなど。航空運輸はTAP(タップ)ポルトガル航空が担い、本土とアゾレス、マデイラおよび海外を結んでいる。

[田辺 裕・柴田匡平]

開発と保全

産業基盤整備が急務だが、近年までの政治・経済の混乱のため国土開発は停頓(ていとん)した。河川開発はドーロ川やテージョ川など北部で進められてきたが、1980年代に入ってアレンテージョ地方など南部における発電・灌漑(かんがい)用多目的ダム開発の計画が進められた。国際河川が多いこと、EUからの農業開発資金援助など資金調達面の海外依存など、ポルトガルの国土開発は対外関係と密接に結ばれている。

[田辺 裕・柴田匡平]

社会・文化

住民

ヨーロッパ西端に位置し、アフリカ大陸とも近いポルトガルは、古来さまざまな民族の侵入を被った。フェニキア人、ギリシア人、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、西ゴート人、ユダヤ人、ムーア人などが到来したが、それらは混合され、今日のポルトガルはヨーロッパでももっとも均質な民族国家の一つとなっている。人種的には地中海系で中背、茶色の瞳(ひとみ)で黒みがかった髪や栗(くり)色の髪が多いが、北部ではときたま青い瞳、金髪(ゲルマン人、西ゴート人の血統)がみられる。

 言語は、公用語、通用語ともにポルトガル語。ロマンス語系で、ローマ支配期に起源を有する。1931年にブラジルと正字協定を結び、大西洋を挟んでことばの混乱の少ない言語となっている。

 宗教は、ローマ・カトリック信者97%、プロテスタント1%であって、人種と同様にきわめて均質な宗教構成である。一般に信仰心が厚く、宗教祭日も多い。

[田辺 裕・柴田匡平]

国民生活

人口は2001年1035万6117人、増加率は1981~1991年で年率0.7%、1996~2000年で0.2%、2000~2006年で0.6%。リスボンおよびポルトに人口が集中し、東部国境沿いの山岳地帯、とくにアレンテージョ地方は人口が少ない。1人当り国内総生産(2万0990ドル、2007)は西ヨーロッパでもっとも低い部類に属し、海外への移民が続いている。1973年には合法・非合法あわせて13万人が流出したが、その後は年2万人台に減少した。流出先はフランスをはじめとする西ヨーロッパ諸国であったが、近年北アメリカへの移民の割合が増大してきた。海外移民は総数500万人に上るとみられる。

 義務教育は小学校6年と中学校3年である。その後は高等学校が3年、大学が3年課程である。大学は1290年創立のコインブラ大学をはじめ、14校ある。

 ポルトガルの医師は約3万1758人で、人口316人当り1人である(1999)。これはオランダやフランス、イギリスなどに比して遜色(そんしょく)ない数字ではあるが、病床数でみると(238人当り1床)西ヨーロッパの最低水準になる。ただし社会保険制度は広く普及しており、1979年以後は医療無料化を目ざし始めた。公営と民間病院のほか、貧困者のための慈善病院も活動している。

[田辺 裕・柴田匡平]

文化

ポルトガル文化の淵源(えんげん)は先史時代にさかのぼるが、ローマやイスラムの痕跡(こんせき)を残しつつ独自の文化を形成し始めたのは中世以降である。壮麗なゴシック様式が導入されたのち、15~16世紀にかけて装飾的なマヌエラン様式が開花した。海外進出と相まって、バロック様式も独自の発達をみせている。よくも悪くも伝統的な文化の国であって、宗教色の強いことが特徴である。

 敬虔(けいけん)なカトリック信者が多く、気質は隣国スペインと比べ穏やかといわれる。概して保守的だが、他面伝統的な海外志向をもち、移住した親族との紐帯(ちゅうたい)も強い。華麗な装飾性と宗教的雰囲気を好み、追憶と叙情、詠嘆に共感する。海の幸を嗜好(しこう)し、タラ料理は有名。飲料は赤ワインとビール。

 ゴシックからバロックにかけての歴史的建造物(聖堂、宮殿)が数多くみられ、観光が重要な外貨獲得手段であることも手伝って保存に力が入れられている。博物館や図書館はリスボンに多く、国立美術館、国立馬車博物館(古代の車両収集ではヨーロッパ随一)、現代美術博物館などがある。歴史を誇るコインブラ大学図書館は貴重な史料を多く収蔵している。

[田辺 裕・柴田匡平]

芸術

ポルトガル文学は16世紀に開花し、ルイス・デ・カモンイスをはじめとする多くの詩人、劇作家や史家を生んだ。ポルトガル語の微妙な母音変化はとくに詩の発達を促した。超自然的な題材よりも運命の流転や歴史的な素材が興味の中心で、劇作も盛んであった。20世紀に至り社会派的な小説が登場する一方、コスモポリタニズムも標榜(ひょうぼう)された。主要劇団は15を数え、地方都市にも浸透している。バレエ団は4、オーケストラは6に上る。民間俗謡ファドはアマリア・ロドリゲスの名とともに日本でも知る人が多い。

[田辺 裕・柴田匡平]

言論・出版

1974年のクーデター後、新聞の検閲制度が撤廃され、新憲法下で言論の自由が保障された。ただし民間の大資本が国有化されたことにより国営となった新聞もある。地方紙が主体で、1999年現在の主要日刊紙は35に上るが、発行部数はいずれも10万に満たない。ラジオには国営とともに民間局もあるが、テレビ放送は国営(RTP、2チャンネル)と民営(2チャンネルで、うち1局は宗教テレビ)がある。

[田辺 裕・柴田匡平]

日本との関係

歴史的関係

ポルトガルの海外雄飛を謳歌(おうか)した叙事詩『ウス・ルジーアダス』(1572)のなかで国民詩人ルイス・デ・カモンイスは日本について「良質の銀を産し神の掟(おきて)で光をえる」と歌っている。ポルトガル人が種子島(たねがしま)に漂着し、鉄砲を伝えた1543年(天文12)から6年後フランシスコ・ザビエルが鹿児島でキリスト教の布教を始め、これ以後イエズス会(ルターの新教に対抗しイグナティウス・デ・ロヨラとザビエルなどが結成)の多くの宣教師が来日したが、ルイス・フロイス(1563来日)は1569年(永禄12)織田信長から改めて布教を許可された。九州の大名大村純忠(おおむらすみただ)、大友宗麟(おおともそうりん)、有馬晴信(ありまはるのぶ)はポルトガル商人との貿易を求めて布教を許可し、ポルトガル船は1550年(天文19)以降、平戸、府内(大分)、横瀬浦、福田などに入港し、中国産生糸と日本の銀を主品目とする中継貿易を行った。大村純忠は、ポルトガル船のパイロットが良港であることを発見した長崎を1570年(元亀1)開港し、1580年(天正8)イエズス会に寄進したので長崎は教会領となった。豊臣秀吉(とよとみひでよし)は神道(しんとう)と仏教の国日本の法に違反するとして1587年キリスト教禁令を出し、翌1588年年長崎を直轄領としたが、貿易は奨励した。徳川家康も貿易振興政策をとり、1600年(慶長5)豊後(ぶんご)に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長イギリス人ウィリアム・アダムズを、日本・ポルトガル貿易の仲介者であったジョアン・ロドリゲス神父にかえて貿易顧問にした。このころフランシスコ会、ドミニコ会などの宣教師も渡来して布教し、信徒は全国に広がったが、オランダとイギリスがポルトガル、スペインの布教は日本侵略の手段であると中傷し、国内でも仏教徒、儒者、神官などのキリスト教排斥の声が高まった。家康はキリスト教は封建社会の確立を妨げると考え、1612年から禁教令を出し、宣教師の追放と信者の改宗などを命じた。これからのちポルトガル・スペイン(1580~1640年スペイン王がポルトガル王を兼任)との貿易関係もしだいに悪化した。伊達政宗(だてまさむね)は1613年スペイン国王とローマ法王に、ノビスパニア(メキシコ)との貿易と宣教師派遣を求めて支倉常長(はせくらつねなが)を派遣(1620年帰国)しているが、一方で徳川秀忠(とくがわひでただ)は1616年(元和2)貿易を平戸、長崎に制限した。家光(いえみつ)は1634年(寛永11)スペイン人の来航と貿易を禁じ、ポルトガル人を長崎の出島に移し、島原の乱ののち1639年ポルトガル船の来航を禁止した。長崎開港後70年目、種子島漂着後97年目で全面的な鎖国が成立した。

 しかし、ポルトガル人が日本に残した文化と科学の遺産は多方面にわたっている。

(1)戦術、築城 信長が鉄砲を有効に利用し長篠(ながしの)の戦いで武田勢を破り、戦術の変化をもたらしたが、城郭建築はポルトガル人から学んだ築城術と伝統的建築様式の融合の結果であった。

(2)都市計画、建設 ポルトガル人は長崎の町を建設し、そのころの下水溝がいまも残っている。

(3)航海術、天文学、造船術 ポルトガル船の船長から航海術を学んだ池田好運(いけだこううん)は『元和(げんな)航海書』(1618)を著した。日本副布教長ペドロ・ゴメスPedro Gomez(1535―1600)は日本で最初の西洋天文学の書物を書いている(1594出版)。日本に地球球形説を紹介した向井元升(むかいげんしょう)の『乾坤弁説(けんこんべんせつ)』(1650)は副管区長クリストバン・フェレイラ(棄教後、沢野忠庵(さわのちゅうあん))が翻訳したポルトガル天文書の翻案である。

(4)医学 ルイス・デ・アルメイダは府内(大分)に病院を建て外科手術を行った。沢野忠庵は『南蛮外科秘伝書』を著し、ポルトガル外科を学んだ山本玄仙(やまもとげんせん)は外科医学書『万外集要(まんげしゅうよう)』(1619)を書き、またフランシスコ会宣教師はハンセン病者の病院を建てた。

(5)工芸品、楽器、衣料、飲食物、生活用品、喫煙等 南蛮デザインの漆器、うんすんかるた、時計、眼鏡(めがね)、オルガン、クラブサン、チャルメラ、襦袢(じゅばん)、ビロード、羅紗(らしゃ)、メリヤス、合羽(かっぱ)、マント、毛織物、ボタン、ぶどう酒、コーヒー、パン、カステラ、てんぷら、ボーロ、バッテラ(鮨(すし)。bateiraはボートのこと、形が似ている)、ザボン、マーマレード、サラダ、コップ、カンテラ、シャボン、トタン、ブランコ、たばこ等々。

(6)印刷術 天正(てんしょう)少年使節(1582~1590年、大村、大友、有馬氏がローマ法王とスペイン・ポルトガル王に派遣。天正遣欧使節ともいう)が西洋印刷機を持ち帰り、「キリシタン版」教義書と、文学書(『伊曽保(いそほ)物語』『平家物語』など)、文法書、辞書を印刷した。

(7)音楽、絵画 セミナリオ(神学校)で器楽・絵画・彫刻、教会で声楽を教え、少年使節はポルトガルのエボラの大聖堂でオルガンを弾き、秀吉の前で洋楽を演奏した。宗教画の影響で50双以上の南蛮屏風(びょうぶ)が描かれた。

(8)語学 ジョアン・ロドリゲスが著述・編纂(へんさん)した『日本大文典』と『日葡(にっぽ)辞書』(1603~1604年長崎で出版。収載語数約3万)は、西欧語で書かれた最初の日本語の文法とことばを解説した辞書である。日本語になったポルトガル語は約250と思われる。

(9)歴史、哲学、倫理 ルイス・フロイスの膨大な『日本史』は西欧語最初最大の日本歴史で、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は卓越した日本の風俗社会の研究でもある。キリスト教哲学、倫理は一夫一婦制を教えた。現代では、ベンセスラウ・デ・モラエスが日本への深い理解に基づいて書いた作品がポルトガルでも有名である。

[安部眞穏]

現代における関係

第二次世界大戦中ポルトガルは中立を守り、日本との国交を維持していたが、日本の敗戦後、外交関係は断絶した。1953年(昭和28)に国交は回復したものの、両国関係は比較的疎遠であった。しかしポルトガル革命後の1977年には、アメリカの要請に基づき日本が西欧諸国とともにIMFの斡旋(あっせん)による国際収支援助に協力、これがIMFの援助と相まって各国市中銀行の個別的長期融資の呼び水となり、ポルトガルの経済再建に寄与した。1984年には両国外交史上初めて現職首相(マリオ・ソアレス)の訪日が実現した。1998年5月には天皇・皇后、2004年5月には皇太子がポルトガルを訪問している。アゾレス諸島200海里海域における日本マグロ漁船の操業を可能にした漁業協定も1978年に締結された。文化交流の面では、モラエスと日本女性との恋愛をテーマとした新田次郎の『孤愁(サウダーデ)』(1980)、日本・ポルトガル合作映画『恋の浮島』(1982)などが特筆される。16~17世紀におけるポルトガルの西欧文明と科学技術の導入が今日の日本の経済とハイテクノロジー発展の淵源(えんげん)となったことを顧れば、日本がポルトガルへの認識を新たにして経済援助と文化交流を促進することは、歴史的にもきわめて意義深いことといえるであろう。

[安部眞穏]

『斉藤孝編『世界現代史23 スペイン・ポルトガル現代史』(1979・山川出版社)』『在スペイン・在ポルトガル日本国大使館編『スペイン・ポルトガル共和国』(1984・日本国際問題研究所)』『マヌエラ・アルヴァレス、ジョゼ・アルヴァレス著、金七紀男・岡村多希子・大野隆男訳『ポルトガル日本交流史』(1992・彩流社)』『野々山真輝帆著『リスボンの春――ポルトガル現代史』(1992・朝日選書)』『高野悦子・伊藤玄二郎編、高原至写真『図説 ポルトガル』(1993・河出書房新社)』『安部真穏著『波乱万丈のポルトガル史』(1994・泰流社)』『田辺裕監修『世界の地理10 イベリア』(1997・朝倉書店)』『市之瀬敦著『ポルトガルの世界――海洋帝国の夢のゆくえ』(2000・社会評論社)』『立石博高編『新版 世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』(2000・山川出版社)』『池上岑夫・牛島信明・神吉敬三・金七紀男・小林一宏他監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版(2001・平凡社)』『デビット・バーミンガム著、高田有現・西川あゆみ訳『ポルトガルの歴史』(2002・創土社)』『金七紀男著『ポルトガル史』増補版(2003・彩流社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル
Portugal

基本情報
正式名称=ポルトガル共和国República Portuguesa 
面積=9万2207km2(マカオは含まない) 
人口(2010)=1064万人 
首都=リスボンLisboa(日本との時差=-10時間) 
主要言語=ポルトガル語 
通貨=エスクードEscudo(1999年1月よりユーロEuro)

イベリア半島南西部の一隅を占める大陸本土と,大西洋上のマデイラ,アゾレス両諸島とからなる共和国。15世紀以来,大航海時代の先駆者としてアフリカ,アジア,新大陸ブラジルに広大な植民地を有し,〈最後の植民地帝国〉といわれたが,1974年の革命で植民地をすべて解放した。ポルトガル人は16世紀日本を訪れた最初のヨーロッパ人としてキリシタン時代の日本に大きな影響を及ぼし,またポルトガルは16世紀末,少年使節(天正遣欧使節)が日本人として訪れたヨーロッパ最初の国でもある。国名ポルトガルは国家発祥地である現在のポルト市の古名ポルトゥス・カレPortus Caleに由来する。美称ルシタニア

大陸部ポルトガルは北緯36°58′から42°9′,西経6°11′から9°30′にかけて最大幅220km,南北の長さ560kmに延びた長方形をなし,イベリア半島の約6分の1を占める。この緯度は日本の東北地方6県に新潟県を加えた地域に相当し,面積はそれにさらに栃木・群馬の両県を加えたものに近く,首都リスボンは仙台よりもやや北に位置する。西と南は大西洋に面し,北と東はスペインに接する。この大西洋に臨み,アフリカに近いという地理的条件は,ポルトガルが大航海時代の先駆者となることができた大きな要因の一つであった。北と東で国境を接するスペインとは地勢上の境界はなく,国土はスペインのメセタが西に下る傾斜面に位置するため,おもな河川はみなスペインに源を発している。

 全体的には地中海式気候帯に属するが,その地理的気候的条件から中央山系とモンデゴ川を結ぶ線で国土は大きく南北に二分され,それぞれ対照的な特徴をもつ。北部は標高400mを超える地域が全体の95%を占め,海岸線から50km入ると,標高1000mを超える山脈が連なり,深く刻み込まれた渓谷がみられる。海岸部は絶えず偏西風の影響を受けて雨が多く,ことにミーニョ地方では年間3000mmの降水量を記録する地域もある。しかし,同じ北部でもスペインに接する内陸部山岳地帯は,雨量が少なく寒暖の差が激しい。耕地が少ないため,近年都市部や国外への人口流出が著しい。他方,南部は標高200m以下の平原が6割以上を占め,起伏の乏しい小麦の単作地帯やコルクガシの林が続く。完全な地中海式気候帯に属し,年間降水量は700mm以下と極端に少なく,気温が40℃を超える日もまれではない。このようにポルトガルの南部と北部では対照的な地理的・気候的条件に加えて,中世にレコンキスタ(国土回復戦争)が北から南に進んだという歴史的条件が重なって北部のミニフンディウム(零細土地所有制)と南部のラティフンディウム(大土地所有制)という土地所有形態の相違を生み,人々の生活様式も大きな違いをみせている。

ポルトガル人は,セルティベロ(ケルト・イベリア)族を先住民とし,ローマ人,ゲルマン人,ムーア人(イスラム教徒)などの諸民族と混血を重ね,人種的にはスペイン人と変わるところはないが,俗ラテン語から分化したポルトガル語を話し,12世紀にカスティリャから分離して独立国家をつくった。南部と北部では大きな地域差がみられるが,それが地域的対立に発展することはなく,国民の90%以上がカトリックを信奉する言語的・宗教的に統一されたきわめて同質的な社会を形成している。人口密度は1km2当り107人で,スペインの人口密度より3割近く高い。総人口は1950年が851万で,以後60年889万,70年861万,81年983万,91年986万と変化している。ここにみられる1970年代の人口減少と80年代の急増は,60年代初頭に始まり70年代前半まで続いた異常な移民の国外流出と74年の植民地戦争の終結に伴う海外植民地からの引揚者の流入によって説明される。

 15世紀以来のポルトガルの海外進出の歴史は,また移民流出の歴史でもあった。1866年から1966年までの1世紀間に外国および植民地に流出したポルトガル人の数は270万,さらに非合法の移民を加えると350万に達すると見積もられる。この1世紀間の移民はブラジル,北アメリカに渡る農業移民が中心であったが,1960年代以降はフランスなどのヨーロッパ先進工業国へ向かっている。70年には実に全人口の2%に相当する17万を超える移民数を記録した。移民の原因は貧困であるが,近代工業が農村の過剰人口を吸収できなかったポルトガルでは,移民は過剰人口がもたらす危機の安全弁として作用し,また本国への送金は慢性的な貿易の赤字を補塡している。

 人口問題に関するもう一つの特徴は,都市化率が25.5%ときわめて低いことである。その基準とした人口10万以上の都市は合計12,首都リスボンの68万,ポルトの31万,ビラ・ノバ・デ・ガイアの25万で,他の9都市はすべて10万台である。これら10万以上の都市はコインブラ,ブラガを除くとみな海岸部に位置しており,近年この海岸部への人口集中が急速に進んでいる。1991年現在77.7%の人口が海岸部に集中し,内陸部の人口はますます希薄になっている。

 ポルトガル社会にみられる南北の地域差は農村にはっきり現れている。北部は人口密度が高く,土地は細分化され,散村形態が支配的である。カトリック信仰が強く,政治的には保守的である。2階建ての家屋をはじめいたるところに花コウ岩が利用され,石の文化圏に属する。他方,南部は人口希薄で,集村形態をとる。大土地所有制が支配的で,大部分の農民は土地をもたず,地主は近郊の都市に居住する。1974年の革命後多くの集団農場が生まれ,エボラを中心とするアレンテージョは共産党の強力な地盤である。農民は日乾煉瓦やしっくい壁の家に住み,北部の石の文化に対して粘土の文化が支配的である。

教育は他のヨーロッパ諸国に比べて大幅に遅れており,これが近代化への大きな障害となっている。共和政が成立した翌年の1911年に初等教育は義務制となったが,財政難からその成果はほとんどみられなかった。義務教育の年限が6年になったのは1967年で,91年にも非識字率は18%を記録している。1974年の革命後,教育の機会均等,非識字の撲滅が叫ばれ,78年教育制度が抜本的に改革された。初等義務教育は6年である。中等教育は日本の中学・普通高校に相当し,フランスを範にしたリセウと職業技術学校とがあり,前期3年課程と後期2年課程に分かれる。その後,1年の予科課程を経て高等教育に進む。1960年代まで総合大学はコインブラ,リスボン,ポルトの3校にすぎなかったが,現在では国立9校,私立2校を数え,その他単科大学,理工科学校,高等専門学校,師範学校,陸海空軍学校,国立音楽院などがある。中等教育への進学率は21.5%,高等教育への進学率は8%にすぎない(1991)。

文化活動は,サラザール時代に出版物の検閲制度など,政府の厳しい干渉によって著しく抑圧されたため,活力を失って一般大衆から遊離し,すぐれた知識人,作家は亡命した。1974年の革命後,検閲制度は廃止され,自由な文化活動,学術研究が始まっている。学術機関では国立の諸機関のほかに,1950年代に設立された民間のグルベンキアン財団がその豊富な資金によって学術研究の振興に努めるとともに,美術館,コンサートホールをもち,オーケストラ,舞踏団,合唱団を擁するなど,ポルトガルの一大学術・文化センターとなっている。

日刊紙発行部数は1000人当り76部(1987),全国紙としては《ディアリオ・デ・ノティシアス》《プブリカ》などがあるが,一般に地方紙が支配的である。週刊紙には《エスプレソ》《テンポ》などがあり,日刊紙よりも言論界に大きな影響力をもっている。放送ではテレビ局はポルトガル国営放送(RTP)2チャンネル,民間放送の2チャンネルがある。ラジオはRTPのほか,カトリック系,その他の民間放送局がある。

ポルトガル現代史は1910年,共和政の成立とともに始まる。1926-32年の軍事政権を経て,33年からファシスト的組合主義〈新国家〉体制の下にサラザールの独裁政治が68年まで続いた。しかし,1961年から始まったアフリカ植民地解放戦争は,国力増強のための急激な工業化とあいまって,国内の社会経済にさまざまのひずみをもたらしていた。軍部でも左翼思想に共鳴した中産市民層出身の将校が植民地戦争に疑問を抱き,1974年3月植民地戦争に反対する〈国軍運動〉を結成した。そして4月25日,かねてから植民地戦争に反対を唱えていたA.スピノラ将軍を擁立してクーデタを敢行し,半世紀に及ぶサラザール体制を倒壊させた。国民の熱烈な支持を得た国軍運動はただちに国内の民主化と植民地解放を実施したが,75年3月の政変を機に成立した革命評議会は共産党と連携して基幹産業の国有化,農地改革を断行するなど急速に左傾化したため,国民の反発を招き,軍事政権は政治からの撤退を余儀なくされた。

 1976年4月に公布された新憲法の下で始まった国政は社会党と社会民主党の2政党を軸に左右に揺れながら展開したが,いずれも過半数を制しえず不安定な内閣が続いた。革命から12年目の86年,ポルトガルはようやく宿願のEC加盟を果たし,ブリュッセルからの資金援助によって革命で危機に陥った経済も回復の兆しをみせた。翌87年7月の総選挙ではカバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939- )の率いる社会民主党が革命以来初めて単独で過半数を制する勝利を収めた。活況を呈した経済を背景にシルバ内閣は急進的な憲法を改正し,農地改革法を改め,国有化された基幹産業の民営化を進めた。政局は安定し,社会民主党のシルバ首相と社会党のマリオ・ソアレスMàrio Soares(1924- )大統領が同じ権力の座に同居する,いわゆる〈コアビタシオン〉体制が続いた。しかし91年から始まった国際経済の景気後退でシルバ内閣の経済拡大政策はしだいに行き詰まり,95年10月の総選挙では社会民主党は,アントニオ・グテーレスAntónio Guterres(1949- )の率いる社会党に敗れて,10年間維持してきた政権の座を明け渡した。翌96年1月の大統領選挙でも社会党のジョルジュ・サンパイオJorge Sampaio(1939- )が当選し,社会党の全面的復活が見られた。

政治システムは大統領,共和国議会,内閣,裁判所を主権機関として政党政治を基本とするが,大統領の権限が比較的強いため,半大統領制とみなすこともできる。直接選挙で選出される任期5年の大統領は,三軍の最高司令官を兼任する。首相の任命・罷免権,議会・内閣の解散権を有し,議会で採決された法律の公布を拒否することができる。共和国議会は一院制で,比例代表制に基づいて18歳以上の有権者から選出される代議員の任期は4年。行政の最高機関である内閣は首相,大臣,省庁長官から構成される。首相は大統領によって任命されるが,必ずしも国会議員である必要はない。内閣は大統領と議会の双方に責任を負い,新内閣は議会で施政綱領の承認を得て初めて成立する。裁判所は,合憲・違憲を判定する憲法裁判所,司法裁判所(第1審,第2審,最高裁判所),会計裁判所(国会の歳出の合法・違法を監視する),軍事裁判所の四つがある。

1974年の革命後,サラザール体制下の中央集権的な地方支配から,住民の意志を尊重する地方自治権拡大の方向に転換した。マデイラとアゾレス両諸島はその地域的・歴史的特殊性からそれぞれ独自の自治政府と議会をもち,各自治政府の首長は中央政府に置かれる両地域担当の国務大臣によって任命される。地方自治体は下から区,市町村,地域の3段階に分類される。区の代議機関として区議会があり,区議選挙の最高得票者が区役所の首長の地位に就く。市町村議会は管内の区役所の首長と,市町村議員選挙委員会から選出された議員とから構成される。市町村役所の構成員は住民の選挙によって選出され,その最高得票者が首長に就く。地域議会は住民の直接選挙によって選出される議員および市町村議会の代表から成る。地域評議会は地域議会から互選される議員によって構成される地域行政機関で,内閣から任命される政府代表が送られる。

サラザール体制は〈国民同盟〉の一党独裁で,野党の政治活動が認められるのは総選挙時の1ヵ月のみであった。革命後数多くの政党が結成されたが,新憲法公布後国会で単独過半数を占める政党がなく,これが政局不安の原因の一つになってきた。1987年の選挙で中道右派の社会民主党が革命後初めて過半数を制して安定政権を樹立,76年憲法に従って国有化された企業を再び民営化するなどの憲法改正を89年に行った。主要政党は次のとおり。社会民主党は管理職層,社会民主中央党はキリスト教徒を中心に自営農の多い保守的な北部農民を母体とし,社会党はインテリ層を中心にほぼ全国的な支持を受けている。親ソ路線をとる共産党はポルトガル最大の労働組合組織〈総連合〉を牛耳り,大都市の労働者,南部の農業労働者を基盤としている。図式的にみれば,北部の保守,中部の中道,南部の革新という政治地図が描かれる。

1955年から国連加盟が認められた。サラザール時代には反共主義の立場から,共産圏諸国との外交関係はまったくなく,国連でもその植民地主義を非難されて〈西欧の孤児〉と呼ばれていたが,革命後は植民地を解放し,東ヨーロッパ諸国との国交も開かれた。最近では同じポルトガル語圏に属する旧植民地諸国との関係も緊密化しつつある。イギリスとは建国直後から密接な関係にあり,1373年に調印された友好条約は600年たった現在も有効である。

NATOの原加盟国で,リスボン郊外のオエイラスOeirasにイベリア・大西洋地区司令部が置かれている。植民地戦争時には総兵力は約20万を数えたが,1974年4月以降兵員は大幅に縮小された。現有兵力(1989)は陸軍4万4000,海軍1万6000,空軍1万5000。87年の軍事費の国民総生産に占める割合は3.2%,兵役は12~20ヵ月である。

ポルトガル経済は1960年代初頭から急激な構造変化を遂げたが,1人当りの国民総生産は年間7008ドル(1991)とEC加盟国内ではギリシアと並んで最も低く,経済的には依然としてヨーロッパの後進国であることには変りはない。60年代外資導入による積極的な工業化とそれに伴う農民の離村,国外移民流出が進み,1960年43.6%を記録していた第1次産業就業人口比率は70年31.7%,91年には11.6%まで低下した。さらに,74-75年の革命政権によって実施された基幹産業の国有化,農地改革,植民地解放は,ポルトガルの経済体制に大きな構造変化をもたらした。同時に革命とそれに続く政治的混乱は外国資本の逃避,生産の低下をもたらし,73年の石油危機と相まってポルトガル経済は危機的な状況に陥った。しかし86年のEC加盟によってECから多額の助成資金が流入し,89年の憲法改正で国有化された企業が再び民営化されて経済は拡大傾向にある。

 まず,第1次産業ではこの30年間に就業人口比率は激減したが,ポルトガルは依然として農業国である。ポルトガル本土における土地利用の状況は,耕地39.1%,牧草地5.8%,森林39.5%,その他15.6%となっている(1976)が,第1次産業の国民総生産に占める割合は5.8%(1990)ときわめて低く,食糧の半分以上を輸入に依存せざるをえない状況にある。全体的に地味はやせて生産性が低いということのほかに,北部はミニフンディウム(零細土地所有制),南部はラティフンディウム(大土地所有制)という二重構造の問題がある。200ha以上の地主の数はわずか0.3%にすぎないが,その面積の総計は全農地の39%を占める一方,1ha未満の土地をもつ農民数は39%にも及ぶのに,それが全農地に占める割合は2.5%にすぎない。しかも農業労働人口の約半分は土地をもたず,その生活水準はきわめて低い。これが1960年代以降みられた急激な国外移民流出の原因となっていた。75年,76年の2度にわたる農地改革法で700ha以上の未灌漑地および50ha以上の灌漑農地約100万ha(全農地の約20%)が国家に没収され,421の集団農場に分譲されたが,89年の農地改革法の改正によって大部分の土地が旧地主に返還された。

 主要な作物は小麦,トウモロコシ,ジャガイモ,ライ麦,米,野菜,果物などで,南部アレンテージョにおける小麦単作地以外は多品種作付けが支配的である。ブドウ酒は中世以来ポルトガルの代表的な輸出商品で,おもな産地はミーニョ(ベルデ酒),アルト・ドーロ(ロゼ,ポート),モンデゴ川流域(ダン)である。年間生産量は144万4000hl(1979)で,輸出総額に占める割合は約7%である。林業では松,コルクガシ,ユーカリが重要である。松は木材のほかに,松脂(まつやに),テレビン油が採取される。コルクの生産量は17万8000t(1977)で,世界一の生産量を誇っている。

 漁業はポルトガルの重要な伝統産業の一つである。イワシ,アジ,タラ,マグロなど年間水揚げ量は27万2000t(1980),漁業従事者数は約3万人で,総労働人口の約1%を占める。ポルト,マトジニョスMatozinhos,セトゥバルには主要輸出品であるイワシの缶詰工業をはじめとする食品加工業が発達している。タラはイワシと並んでポルトガル人の食生活に欠かせない魚で,グリーンランド,ニューファンドランド沖で操業が行われる。

1960年代からの工業化政策でリスボン,ポルト,セトゥバルの周辺に自動車組立て工場,石油精製工場などが設立されたが,高度な技術を要する近代工業の発達は遅れており,繊維工業などを中心に初期的段階にとどまっている。74年の革命前,企業の集中化が進み,イベリア半島一の規模を誇るCUF(クフ)(正称はCompanhia União Fabril)などの大企業連合も生まれたが,5人以下の労働者を雇用する工場が全体の69.6%(1980)を占め,小企業が中心である。74年の革命で銀行,保険会社をはじめとする基幹産業の国有化が実施されたため,国家が50%以上出資する企業は1200社に達し,国家の公共部門は総固定資本の45.5%を占めるに至った。しかし,89年から銀行,保険会社など国営企業の民営化が進められている。アフリカ植民地の喪失によって安価な原料供給地と特権的な輸出市場を失い,脆弱なポルトガル工業にとって大きな痛手となった。おもな工業は繊維工業,缶詰などの食品工業で,工業労働者の52.6%(1971)を吸収している。近年自動車組立て,鉄鋼,石油精製工業が発達し始め,また100万トンの船舶を修理できる乾ドックも建設されている。エネルギー源としては,1960年代中部,北部のモンデゴ川Mondego,テージョ川,カバド川Cavado,ドウロ川に数多くの水力発電所が建設され,水力発電量は783億kWhで火力発電量を2.8倍も上回っている(1974)。

 鉱業ではタングステン,大理石,石灰石がおもな資源であるが,その埋蔵量は少ない。工場地帯はブラガからセトゥバルに至る海岸線,ことにポルトとリスボンの周辺に集中し,内陸では毛織物工業のコビリャンCovilhã,繊維・化学・パルプ・製紙工業のトレス・ノバスTórres NovasとトマルTomar,およびアブランテスAbrantesとを結ぶ三角地帯が挙げられる。最近,南部のシネスSinesに石油精製・化学工業を中心とする一大コンビナートが建設された。

第3次産業の就業人口比率は1960年の27.5%から91年の49.7%へと増加した。しかし貿易は慢性的な赤字を記録している。この赤字は移民の送金と観光収入で補塡されてきたが,73年の石油危機と74年の革命後は移民送金も観光収入も減少し,以後の国際収支は年々大幅な赤字となっている。革命以前の1970年,輸入の14.7%,輸出の24.5%を占めていたアフリカ植民地市場の喪失は大きな打撃で,現在旧植民地諸国との国交が改善されつつあるが,輸入は0.5%,輸出は4.2%(1991)を占めるにすぎない。代わってヨーロッパEC諸国(イギリス,ドイツ,フランスなど)への輸出の比重が大きくなり,1986年にはEC加盟によってポルトガル経済は急速に拡大した。輸入では産油国および穀物供給国としてのアメリカ合衆国からの増大が著しい。1991年の貿易収支は78億5800万ドルの赤字で,サービス業の黒字11億8500万ドルと国外からの送金60億1100万ドルを差し引いても国際収支は6億6200万ドルの赤字であった。
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ポルトガルはその美術活動を,ローマ時代(エボラの神殿),西ゴート時代(ブラガのサン・フルクトゥオーゾ礼拝堂),イスラム時代,またそれ以降もイベリア半島の隣国スペインと共有した。

 8世紀に始まるイスラム教徒に対するレコンキスタ(国土回復戦争)の進展とともに,フランスの影響下に数多くの宗教建築が建てられた。ロマネスクでは巡礼路様式のコインブラ旧大聖堂(1184),ゴシックへの移行期のシトー会様式ではアルコバーサAlcobaçaのサンタ・マリア修道院(1222)が,ゴシックではバターリャ・サンタ・マリア・ダ・ビトリア修道院(15世紀)が傑出している。この国の建築が偉大な個性を発揮したのは大航海時代で,時の王マヌエル1世(在位1495-1521)にちなむマヌエル様式と呼ばれる建築様式が生まれた。これは晩期ゴシックからルネサンスにかけて,船具,海産物などのモティーフや植物的モティーフを多用した過剰装飾様式で,全土に広がったが,トマールTomarのキリスト修道院の窓,リスボン近郊ベレンBelémの塔とジェロニモス修道院が代表作とされる。その後,建築は一時衰微するが,18世紀前半には,ドイツ人ルートウィヒ父子によってバロックのマフラMafra大修道院・離宮が造営された。

 彫刻は,ロマネスク以降の建築付属彫刻,墓碑彫刻,聖像彫刻が中心である。ゴシック期のエボラ大聖堂正面の十二使徒像,アルコバーサのイネス・デ・カストロInés de Castroの石棺が知られる。またバロック彫刻では,スペイン同様,木造極彩色の聖像彫刻が主流をなした。

 絵画が偉大な個性を発揮したのは,建築同様15世紀で,ファン・アイクの来訪(1428)によって,フランドルの写実的様式が隆盛を極めた。アフォンソ5世(在位1438-81)の宮廷画家ゴンサルベスがリスボン派の総帥で,彼の《聖ビセンテ(ウィンケンティウス)の多翼祭壇画》(6枚)は,海洋国ポルトガルの一大ドキュメントであると同時に,15世紀ヨーロッパ絵画の最高傑作の一つである。ルネサンス期にはイタリアの影響も波及し,肖像画家モライスCristóvão de Morais(16世紀後半活動)らが活躍,18~19世紀にもビエイラFrancisco Vieira Portuense(1765-1806),〈ポルトガルのゴヤ〉と呼ばれるセケイラDomingos de Sequeira(1768-1837)を生んだ。
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ポルトガルの音楽は,通常スペイン音楽に付随するもののように扱われるが,実際は独自の個性をもって発展してきた。日本人が安土桃山時代に初めて接した西洋音楽もポルトガル人によるものであったことを考えるとき,この国の音楽はもっと大きく注目されてよいはずである。

 ポルトガル音楽には古代の記録がほとんどなく,通常最古のものとされるのは12~13世紀の宮廷に仕えた抒情詩人兼歌手(トルバドゥール)たちの作品である。ただし,これらはかなりの数の詩が残存するものの,曲はほとんど失われた。中世のポルトガル教会では他の西欧カトリック諸国同様に古い聖歌が歌われ,一般社会には民衆的な歌を歌い歩く,また種々の弦・管・打楽器を奏して歩く楽師たちがいたことはまちがいない。15~16世紀のルネサンス時代になるとアフォンソ5世,ジョアン3世ら,音楽好きの王がポルトガルに目だち,宗教的な多声合唱音楽をはじめ,世俗歌曲,初期の劇音楽なども発展をみせた。16世紀の主要な作曲家には人文主義者のゴイス,パイバHeliodoro de Paiva(1502?-52),カレイラAntónio Carreira(1525ころ-89ころ)らがある。

 引き続き,17世紀にかけて南部のエボラに高度な宗教楽派が栄え,メンデスManuel Mendes(?-1605),ロボDuarte Lobo(1565?-1646),カルドーゾManuel Cardoso(1566-1650),レベーロJoão Soares Rebelo(1610-61)ら優れた人びとが輩出した。このエボラは宗教的中心地で,16世紀に日本からの少年使節(天正遣欧使節)も,大司教に会うためここを訪れている。一方,この時代には世俗的な器楽や歌曲も盛んで,続く18世紀にはセイシャスCarlos de Seixas(1704-42),アルメイダFrancisco António de Almeida(?-1755),ソウザ・カルバリョJoão de Sousa Carvalho(1745-98)らが,鍵盤音楽,管弦楽,歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍した。19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく,民族的な特色は後退したが,世紀の後半から20世紀にかけてケイルAlfredo Keil(1850-1907),ビアンナ・ダ・モッタJosé Vianna da Motta(1868-1948)らが国民楽派としての活動をみせた。20世紀の印象主義的あるいは現代的語法の代表者としてはフレイタス・ブランコLuis de Freitas Branco(1890-1955),ロペス・グラーサFernando Lopes Graça(1906- )らが挙げられよう。

 以上は芸術音楽の略史であるが,ポルトガルには独自の民俗音楽もある。とくに名高いのがリスボンの大衆的な歌謡であるファドで,19世紀前半からの歴史をもち,小ぶしのきいた哀調に富む唱法,伴奏楽器ポルトガル・ギター(胴体はほぼ円形)の可憐な音色により,同市の人びとの抒情性,感傷性をよく表している。同じファドでもコインブラのそれは学生たちによって多く歌われ,ロマンティックで明るい。都会の音楽ファドに対し,田園の民謡も豊富で,広く行われる拍子の活発なビーラvira,南部のコリディーニョcorridinhoなどをはじめ,舞曲の種類も多い。民謡では古い物語歌のロマンセromance,わらべ歌,子守歌,労働歌,宗教的・世俗的な祭りの歌など,どこの地方にも個性的な旋律が多い。民俗楽器にはギターのほかカバキーニョまたはマシェーテ(小型ギター),ガイタ(バッグパイプ),アドゥフェ(四角形のタンバリン)などが知られる。ポルトガル民謡の一般的な気分は柔軟な抒情性にあり,たとえば古代からのケルト的な影響,東方からの諸影響などもうかがわれて独自性に富んでいる。なお,文学と演劇については〈ポルトガル文学〉の項を参照されたい。
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古代ローマ時代以前,現在のポルトガル領とスペイン・ガリシア地方に相当するイベリア半島西端部は,北部のケルト系文化圏と南部の比較的進んだ地中海文化圏とに二分されていた。前218年に始まるローマ人の進出によってラテン語が先住民セルティベロ(ケルト・イベリア)族の言葉にとって代わり,キリスト教が布教され,道路網が整備されるなど,ローマ文明が広く浸透するに及んで南北の統一が進んだ。5世紀初頭,半島に侵入してきたゲルマン民族の一つ,スエビ族は半島北西部にブラカラ(現在のブラガ)を首都とするスエビ王国をつくり,トレドに都を置く西ゴート王国に対抗した。585年西ゴート王国はスエビ王国を併合して半島を統一するが,8世紀初め半島全体はイスラム教徒の支配下に入った。しかし,半島北端のカンタブリア山岳地帯から国土回復戦争(レコンキスタ)が始まり,9世紀末にはキリスト教徒はドウロ川(スペイン名はドゥエロ川)まで南下した。

 2世紀後の1085年,レオン・カスティリャ王アルフォンソ6世はトレドを征服するが,新たなイスラム勢力の進出にフランス・ブルゴーニュの貴族が西方十字軍として来援した。その一人アンリ・ド・ブルゴーニュはアルフォンソ6世の王女テレサと結婚し,1095年ポルトゥカレ伯としてミーニョ川,ドウロ川間の地に封じられた。その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は,1143年ローマ教皇の仲介でカスティリャから独立してポルトガル王国を建国し,コインブラを首都とするブルゴーニュ朝を開いた。このようにポルトガルの独立は封建制度をてこにして国土回復戦争の過程から生まれたものであるが,その独立には,スエビ王国の伝統を受け継ぐブラガ大司教が,半島全体を支配するトレド大司教からの独立を望んでアフォンソ1世を支援したという宗教的要因もからんでいる。アフォンソ1世はテージョ川左岸にまで領土を拡大したが,その後の国土回復戦争はおもに宗教騎士団によって進められたため,彼らに広大な所領が譲渡され,南部の大土地所有制発生の原因となった。

 ポルトガルでは,イスラム教徒という強大な敵対勢力に対抗する必要上,王権が著しく強化されたため,いわゆる封建制度の発達はみられなかった。他方,国土回復戦争とそれに続く植民の過程で平民階級の身分上昇がみられ,彼らは自治共同体コンセリョをつくり,1253年から身分制議会コルテスにその代表を送るようになった。1249年アフォンソ3世はアルガルベ全域を征服し,スペインより約250年早く国土回復戦争を完了した。こうして,13世紀中葉ポルトガルは領土的・国民的統一を成し遂げてヨーロッパでも最古の国民国家を形成した。

 13世紀後半,ことにディニス王(在位1279-1325)の下に植民・商業活動が進み,首都リスボンは地中海と北海を結ぶ航路の中継地として繁栄した。また,文化的にもポルトガル語の公用語化,抒情詩を主体とするトロバドール(トルバドゥール)文化の開花,コインブラ大学の創設(1290)などにみられるように,中世文化の最盛期を迎えた。

1348年に始まる黒死病(ペスト)はポルトガルの人口を3分の1以上も減少させ,深刻な社会的・経済的危機を引き起こした。さらに,69年から国王フェルナンドは隣国カスティリャの王位継承戦争に介入したが,敗北を喫して唯一の王位継承者ベアトリス王女をカスティリャ王フアン1世に嫁がせる破目に陥り,王朝の断絶という政治的危機に見舞われた。83年国王の死後,国内は親カスティリャ派の大貴族と,独立を守ろうとする中小貴族,ブルジョアジー勢力に二分されたが,海港都市としてスペインのセビリャに対抗するリスボンの商人層の主導の下に,85年4月開催されたコルテスはアビス騎士団長ドン・ジョアンを国王に選定した。ジョアン1世は同年8月アルジュバロタの戦で侵入して来たカスティリャ軍を破り,こうして海商ブルジョアジーに支援されたアビス朝が成立した。

 アビス朝は海外への膨張政策を採ることで中世末の危機打開を図ろうとし,旧貴族に取って代わった新貴族は土地貴族でありながら商人化することで海外進出の担い手となっていく。1415年モロッコの商業都市セウタ征服を皮切りに,エンリケ航海王子らの指揮の下に大西洋諸島の植民,西アフリカ沿岸の探検航海が推進される。1480年代西アフリカの金取引に成功したジョアン2世はインド航路発見の計画を具体化し,それはマヌエル1世治世下にバスコ・ダ・ガマによって実現された。アルメイダアルブケルケという2人の傑出したインド副王は,ヨーロッパの進んだ軍事力と航海術でインド洋の制海権を握り,ヨーロッパへの香料貿易を独占することに成功した。すでに1500年P.A.カブラルはブラジルをポルトガル領としており,こうして点の支配とはいえ,ポルトガルは一大海洋帝国を築き,リスボンはアフリカの金,アジアの香料,ブラジル,マデイラの砂糖の荷揚港として空前の繁栄をみた。

 香料,金などの主要な海外交易は国王の独占とされたため,王室財政の7割近くが海外からの収入によって占められた。この莫大な富を背景にジョアン2世,マヌエル1世は官僚機構,常備軍を整備し,貴族をその要職に就けることによって絶対王政を確立した。この海外進出の最盛期は,またポルトガル・ルネサンスの黄金時代でもある。演劇のジル・ビセンテ,エラスムスとも親交のあった人文主義者ディオゴ・デ・ゴウベイア,叙事詩《ウズ・ルジアダス》を著したルイス・デ・カモンイス,アフォンソ5世の宮廷画家ゴンサルベスらが輩出し,建築ではマヌエル様式が発達したことが知られる。

しかしながら,16世紀中葉を境に東洋交易に衰退の影がしだいに色濃くなっていく。すでに1530年代からベネチア商人による陸路の旧香料ルートが復活して,ポルトガルの香料交易の独占は破られていた。文化面でも宗教裁判所によるユダヤ人,新キリスト教徒(コンベルソ),人文主義者の弾圧が始まった。海外領ではキリスト教布教に尽力しヨーロッパ文明の伝播者となったイエズス会も,国内では自由と寛容の精神を圧迫し始めていた。

 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。78年セバスティアンが無謀なモロッコ侵略戦争で戦死して2年後の80年,ポルトガル王位は,ジョアン3世の妹を母に,同じくジョアン3世の娘マリアを妻にもつスペイン王フェリペ2世の手に渡った。衰退期にあったポルトガルの貴族,商人層は,むしろスペインとの併合を望み,上昇期の1385年の危機とは際だった対照をみせている。

 フェリペ2世はポルトガル王フィリペ1世として即位し,イベリア半島は一人の国王の下に統一されたが,ポルトガル人は国内,植民地ともに大幅の自治権を認められていた。しかしながら,1618年に始まる三十年戦争以降,スペインの衰退が色濃くなるにつれて,ポルトガルに対する圧迫が強まった。40年カタルニャの反乱を機に,一部のポルトガル貴族は国内最大の貴族ブラガンサ公ドン・ジョアンをポルトガル国王に推戴し,独立を宣言した。

 こうして,3代続いたスペイン・フィリペ朝の支配は終わり,新たにブラガンサ朝が成立した。しかし,スペインとの抗争は1668年まで続き,海外領ではオランダがブラジルやアンゴラの一部を占領していた。このため,ポルトガルはイギリスに政治的・軍事的援助を仰ぎ,その代償として1642年,53年,そして1703年のメシュエン条約と次々にイギリスに有利な通商条約を結び,対英経済従属を深めていった。

16世紀後半,東洋交易の衰微でポルトガル経済は一時停滞するが,17世紀に入ると代わって植民地ブラジルの砂糖生産が目ざましく発展した。1640年の本国独立を経済的に支援したのは,このブラジルであった。70年代以降砂糖生産は停滞するが,90年代に入ると,内陸部のミナス・ジェライスで金やダイヤモンドが発見された。18世紀全体を通じて産出した金の量は1000tにも達すると見積もられている。このように,植民地交易は17,18世紀を通じて繁栄しており,少なくとも経済的にはポルトガルの衰退は認められない。このブラジルの富を背景にジョアン5世はフランスのルイ14世流の絶対王政を敷き,宮廷を中心にバロック文化が花開いた。しかし,植民地からの富は,国内産業の振興発展に利用されることなく,イギリスからの工業製品輸入の対価として流出し,あるいは教会建設や奢侈品の購入に浪費された。

 1750年ジョアン5世の後をうけてジョゼ1世が即位する。ジョゼ1世の下で独裁政治を行ったポンバル侯は,ヨーロッパ先進国からの遅れが目だち始めたポルトガルの近代化を図るために,財政・行政・教育全般にわたって改革を断行した。教育界を独占していたイエズス会を追放して新しい教育法を導入し,また新キリスト教徒に対する差別の撤廃,奴隷制の廃止など社会の平準化を進めた。経済面では対英従属を断ち切るために最初は独占会社をつくって植民地交易を強化したが,後半は植民地交易の不振から国内工業の保護育成に努めた。77年国王ジョゼの死によりポンバルは失脚するが,彼の経済政策はそのまま継続され,18世紀末から19世紀初頭までポルトガル経済は著しく回復し,対英貿易は黒字を記録した。文化面でも各種のアカデミーが創設されるなど活況を呈した。

1807年ナポレオン軍の侵入は,ポルトガル旧体制を揺るがす契機となった。女王マリア1世の摂政ドン・ジョアンはナポレオンの大陸封鎖令に抗してフランス軍の侵入を招き,王室ともどもブラジルに亡命した。同時に,植民地ブラジルの港はすべて友好国に向けて開放されることとなり,10年にはイギリスにきわめて有利な通商条約が結ばれ,ブラジル市場はイギリスに独占されてしまった。さらに15年,ブラジルは本国と連合王国を形成する。ブラジルという特権的な市場を失い,国内政治をイギリス人に牛耳られた本国のブルジョアジーは,20年8月ポルトで自由主義革命を起こし,リスボンに臨時政府を樹立した。コルテス(身分制議会)が召集され,封建的諸特権,宗教裁判所の廃止,ブラジルの再植民地を決議した。

 1821年リオ・デ・ジャネイロから急いで帰国したジョアン6世は新憲法を認めたが,ブラジルは摂政ドン・ペドロを擁立して独立を宣言した。26年ジョアン6世が没すると,ブラジル皇帝(ペドロ1世)となっていた王位継承者ドン・ペドロは,1822年の急進的な憲法を廃し,王権を強化した憲章を制定して王位をマリア2世に譲った。この立憲王政派に対して絶対王政の回復を図るジョアン6世の次男ドン・ミゲルDom Miguelは,28年王位を奪し,自由主義者を弾圧した。こうして,両陣営の間に内戦が勃発したが,2年後自由主義陣営が勝利を収めた。自由主義政府は修道院,王室財産を国有化し,これを戦時外債の支払のために競売に付した。ブラジル植民地を失ったブルジョアジーはこの土地を購入して農村地主に転化し,旧来の貴族勢力と手を結び立憲王政下の保守派として憲章党と呼ばれた。

 これに対して,1836年9月産業資本家,手工業者,小商人層を主体とする急進グループ(九月党)は,国内工業のための保護関税を要求して革命を起こし,1822年憲法を復活した。42年,憲章党のコスタ・カブラルAntónio Bernardo da Costa Cabral(1803-89)が政権に就いたが,彼の近代化政策が保守的な北部農民の反発を招き,46年マリア・ダ・フォンテの乱と呼ばれるポルトガルでは珍しい民衆蜂起がみられた。この反乱はスペイン・イギリス軍の介入によって終結するが,それはイギリス自由貿易主義の勝利をも意味した。ポルトガルはイギリスに対して自国の農産物の輸出と引換えに工業製品の輸入を認め,17世紀後半以来続いた対英従属を決定的なものとした。

1851年サルダニャ内閣の成立で長期にわたる混乱に終止符が打たれ,憲章党は刷新党に,九月党も穏健化して進歩党と改名して,イギリス流の二大政党政治が19世紀後半全体を通じて続くことになる。〈刷新〉の旗印の下に〈物質面の改善〉を目ざした近代化が推進され,遅まきながらポルトガルにも産業革命の波が押し寄せ,鉄道の開設,道路網の整備など,公共事業が進められた。しかしながら,70年代における不況は農産物価格の低下を招き,北部農民のブラジル移民が始まり,都市では知識人を中心に共和主義が台頭した。

 ブルジョアジーはアフリカ植民地の開発に活路を見いだそうとし,1890年アンゴラとモザンビークを結ぶ領土の領有権を主張したため,イギリスのアフリカ縦断政策と衝突した。イギリスの強圧的な最後通牒に屈した政府を激しく批判した共和主義者は,急速に国民の支持を得ることとなった。1907年ジョアン・フランコJoão Franco独裁政権は議会を解散し,共和主義者を弾圧したため,08年2月国王カルロスと王太子ドン・ルイスが共和主義者に殺され実質的に王政は終焉した。

1910年10月4日リスボンで一部の過激な軍人と市民とによる革命が成功し,翌5日共和政が宣言され,ポルトガルはスイス,フランスに次いでヨーロッパで第3番目の共和国となった。反教権的な臨時政府の下で国教分離,聖職者の追放,教会財産の没収,離婚法・ストライキ権の承認など急進的な改革が実施された。しかし,13年に成立したコスタAfonso Augusto da Costa(1871-1937)の民主党政府は中産階級を基盤としており,共和政の国際的な認知を得るため穏健化して,急速に労働者階級の支持を失っていった。ストライキが頻発し,共和党の分裂は政情不安に拍車をかけた。第1次世界大戦に際しては,連合国側に加わって,ドイツからアフリカ植民地を守ることに成功したが,大戦中パイスSidónio Bernardino Cardosa da Silva Pais(1872-1918)の独裁政治を許した。パイスの暗殺後,再び議会制に復帰するが,大戦後,破局的な財政危機に加えて政局は一段と悪化した。

1926年5月ゴメス・ダ・コスタGomes da Costa将軍による軍事クーデタが成功し,軍事政権が成立した。第一共和政は完全に国民の支持を失っていたのである。破局的な財政の再建のため,28年蔵相に招へいされたコインブラ大学教授アントニオ・デ・サラザールは,厳しいデフレ政策,行政改革を断行して,わずか1年余りで積年の財政赤字を克服した。32年にはポルトガルの〈救世主〉として首相に就任した。アクシヨン・フランセーズの右翼思想の強い影響を受けたサラザールは,翌33年組合主義的〈新国家〉体制を樹立し,国民同盟による一党独裁制を確立した。36年隣国スペインに内戦が勃発すると,反共体制を固めて〈ポルトガル青年団〉を組織するなど,ファシズムへの傾斜を強めた。第2次世界大戦では中立を守りながらも親枢軸国政策を採ったが,戦況が不利に展開し始めると連合国側に接近していった。経済的には中立政策による恩恵を受け,大戦を境に17世紀後半から続いた対英従属から脱却したことが特筆される。

 第2次大戦後は1949年にNATOへ,55年には国連への加盟を認められたが,国内では政治活動,労働運動を弾圧して独裁体制を維持した。56年から植民地を本土と不可分の海外領土として位置づけていたが,61年からアンゴラ,ギニア・ビサウ,モザンビークに次々と植民地解放戦争が始まった。リスボン政府は国家予算の4割と,20万の将兵を注ぎ込む一方,1954年から始まっていた自力更生的な経済開発計画を拡大して積極的に外資導入を図った。しかし,戦争は国民生活を著しく圧迫し,おおぜいの若者は徴兵を忌避して亡命した。1974年4月植民地戦争に不満を抱いた青年将校団がクーデタを起こし,1968年からサラザールの後を継いだカエタノMarcello José das Neves Caetano(1906-80)政権は倒れ,およそ半世紀に及んだサラザール体制は崩壊した(これ以後については[政治史]を参照されたい)。
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日本との本格的な接触は,1543年(天文12)のポルトガル船の種子島への漂着に始まる。それ以後,ポルトガル船は続々と鹿児島,山川,坊津,府内(大分),平戸などの港に入るようになり,1638年まで両国間の活発な貿易が展開された。とくに16世紀末にスペイン船が来航し,17世紀初めにオランダ,イギリス,中国がこれに加わるまでは,日本との貿易はポルトガル人の独占時代が続いた。ポルトガル船がもたらした品は,中国やインドシナの絹織物,金,麝香(じやこう)と武器類であったが,九州の諸大名は,とくに武器・弾薬を手に入れるため,ポルトガル船を自分の領地の港に入港させようと競いあった。日本から持ち帰られたものは,銀,イオウや蒔絵(まきえ)などの工芸品が中心であった。

 そのころ日本に渡来したキリスト教の宣教師にも,ポルトガル人が多い。16世紀末の天正遣欧使節が乗った船もポルトガル船であったし,使節たちはヨーロッパでの第一歩をポルトガルに印している。ポルトガルの音楽は,宣教師を通じてすでに安土桃山時代に日本に伝えられている。これはヨーロッパの音楽の紹介として最も早いものであった。

 ポルトガルの文化の影響は,当時から広く日本人の生活面にも及んでいた。このことは衣や食などに関するポルトガル語が数多く外来語として,われわれの日常語の中に定着していることにも現れている。襦袢(じゆばん)gibão,ビロードveludo,タバコtabaco,パンpão,金平糖confeito,カステラcastella(pão de Castella),かるたcartaなどがその例であり,スペイン語からのものよりずっと数が多い。

 1639年(寛永16)以降,日本は200年以上にわたる鎖国の時代に入る。しかし,その鎖国の扉が開かれ,明治時代を迎えたころのポルトガルには,往時の勢いは失われており,以後の両国の関係は細々としたものにとどまっている。貿易面でも,対日輸出(コルクなど)5685万ドル,同輸入1億7400万ドル(1983)で,日本の貿易総額からみて,前者が0.5%,後者が1.2%程度のものである。
南蛮貿易 →ポルトガル文学
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル

◎正式名称−ポルトガル共和国Republic of Portugal。◎面積−9万2207km2(アゾレス,マデイラ両諸島を含む本国のみ)。◎人口−1056万人(2011,アゾレス,マデイラ両諸島を含む本国のみ)。◎首都−リスボンLisbon(55万人,2011)。◎住民−ポルトガル人。◎宗教−カトリック90%。◎言語−ポルトガル語(公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,ルセロ・ヌノ・ドゥアルテ・レベロ・デ・ソウザMarcelo Nuno Duarte Rebelo de Sousa(2016年3月就任,任期5年)。◎首相−アントニオ・ルイス・サントス・ダ・コスタAntonio Luis SANTOS DA COSTA。◎憲法−1976年4月制定,1982年10月改正(軍事革命評議会廃止)。◎国会−一院制(定員230,任期4年)。2011年6月選挙結果,社民党105,社会党73,民衆党24など。◎GDP−2202億ドル(2007)。◎1人当りGDP−1万8100ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−11.5%(2003)。◎平均寿命−男76.9歳,女82.9歳(2013)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−94.9%(2009)。    *    *ヨーロッパ南西端,イベリア半島南西部を占める共和国。海外領土としてマカオがあったが,1999年12月に中国に返還された。東部のスペインとの国境地帯は丘陵性の山地がつづき,最高点はエシュトレラ山脈中の標高1991m。西部の大西洋岸には海岸平野がひらけ,海岸には潟湖,砂丘が多い。川は北部をドウロ川が西流,中部をテージョ川が南西流,南部をグアディアナ川が南流して大西洋に注ぐ。北緯40度線が国土のほぼ中央を通り,北部は西岸海洋性,南部は地中海式気候。〔産業〕 農業,漁業が主産業で,オリーブ油,ポートワイン,コルク,イワシが特産品。ジャガイモ,小麦,トウモロコシの産も多く,羊,豚,牛の畜産,石炭,銅の鉱産もある。工業は中小企業が多く,繊維,醸造,魚類缶詰,セメント,コルク製造,製紙,鉄鋼などが行われる。1人当り国民所得は西欧では低い。観光収入も重要。北大西洋条約機構(NATO)加盟国で,EC(現EU)には1986年に加盟,1999年ユーロ圏始動に参加した。〔歴史〕 早くからフェニキア人が植民,後ローマの属州となった。6世紀に西ゴート王国に併合され,8世紀以後イスラム教徒に支配された。12世紀半ばコインブラを都にポルトガル王国が独立し,イスラム教徒を相手に国土回復戦争を進めていった。14世紀以後絶対主義化が進められ,15世紀末のバスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見などにより西欧の海外発展の先駆的役割を果たして最盛期を現出した。1543年ポルトガル船が種子島(たねがしま)に漂着し,これが日本と西欧の接触の初めとなり,鎖国に至るまで約1世紀両国の交流が続いた。16世紀半ば−17世紀半ばスペインに支配され,主権回復後も植民地国家として発展したが,19世紀初めのブラジル独立後衰退し,1910年の革命で共和制が成立した。第1次世界大戦後軍部が台頭,1932年―1968年,その支持を得たサラザールの独裁が続いた。1968年サラザールの病気引退の後を受けてカエタノ政権が成立した。そのカエタノ政権も1974年の軍事クーデタで倒され,サラザール体制が終わった。代わった左翼的軍事政権は国内民主化,植民地解放,基幹産業の国有化,農地改革を実施し,1976年社会主義の色濃い新憲法を制定,同年民政に復帰し,社会党のソアレス政権が誕生した。1982年の憲法改正で社会主義色は薄められた。〔政治・経済〕 1995年に社会党政権が10年ぶりに復活,社会党は1999年10月の選挙でも議席数を維持した。2002年3月の選挙で,中道右派の社会民主党が第一党となった。2005年2月の選挙では,社会党が単独過半数を獲得。2007年7月EU議長国となり,同年10月リスボンで行なわれたEU首脳会議では欧州憲法に代わる改革条約を採択,これがリスボン条約と命名された。2010年1月,ギリシアの財政危機が表面化,財政破綻が明瞭となり,ユーロ危機,ソブリン危機がEU全体に拡大,世界的な株価下落,信用不安が拡がる事態が生じた。多額の財政赤字を抱えるポルトガルにも連動する懸念が広がり,政府は2010年5月,緊急の財政再建策を打ち出したが立て直しは進展せず,自力再建は困難として,2011年4月,EUに緊急金融支援を申請した。EUは5月,780億ユーロの金融支援を決定,社会保障の圧縮など財政赤字の削減を求めた。6月の総選挙で,財政再建を掲げる,バンス・コエリョの率いる中道右派の社会民主党が中道左派の社会党に勝利し,第三党の民衆党との連立で,6年ぶりに政権を奪還,コエリョが首相に就任した。しかし,ポルトガル国債の金利はその後も上昇,欧州の主要銀行による投げ売り的状況が続き,EU内の健全財政を維持してきたドイツをはじめとした国々に,ギリシア支援と同様に,ポルトガル支援に反対する国内世論も台頭。こうした状況を受け,コエリョ政権は,前政権が,欧州委員会,欧州中央銀行,IMFとの間で交わされたトロイカ合意の履行を通じて経済危機克服と財政赤字削減を目指すことを確認し,目標の達成を確実なものとするために,トロイカ合意よりもさらに踏み込んだ緊縮財政策・構造改革の推進を目指すとした。2012年8月末,同年11月に実施された欧州トロイカ調査団による定期審査(四半期毎に実施)では,財政再建は概ね順調に進捗していると肯定的に評価された。2014年5月,政府はEUからの緊急金融支援終了を宣言する一方で,競争力の促進や雇用創出等に向け今後も各種改革は進めていく方針を表明しており,最大野党の社会党はじめ各党及び労動組合等は反発を強めている。2015年1月の世論調査では,社会党が連立与党の社会民主党を10ポイント以上引き離していた。2015年10月,4年ぶりの政権交代で社会党のアントニオ・コスタ書記長が首相に就任した。
→関連項目欧州債務問題ベネンソン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル
Portugal

正式名称 ポルトガル共和国 República Portuguesa。
面積 9万2225km2
人口 1030万1000(2021推計)。
首都 リスボン

ヨーロッパ南西部,イベリア半島の西部を占める国。北大西洋上のマデイラ諸島アゾレス諸島を含む。スペインとの国境地帯は丘陵性山地,西部の大西洋岸には海岸平野が開ける。北部をドーロ川(ドゥエロ川)が西流,中部をテージョ川(タホ川)が南西流,南部をグアディアナ川が南流して大西洋に注ぎ,河口部に良港を形成する。気候は全般に温暖で,内陸部は夏と冬の気温差が大きい。中部のエストレラ山脈では冬の気温が 0℃以下になり,山頂は雪に覆われる。北西の海岸部は雨が多く,内陸部や南部は乾燥している。ヨーロッパでは経済発展が遅れた国であったが,1990年代に近代化。農業,漁業が主産業で,オリーブ,米,ジャガイモ,コムギ,トウモロコシを多産する。工業は繊維,醸造,魚類缶詰,コルク製造など。特にコルクは世界の生産高の半分以上を産する。鉱業も盛んで,石炭,鉄,スズ,銅,マンガン鉱などを産する。輸出品にはワイン,イワシ,コルク,オリーブ油,樹脂,タングステン,スズなどがある。住民の大部分はポルトガル人で,かつての植民地であるアフリカ系住民との混血や,ブラジル人,その他のヨーロッパ系住民などが少数居住する。公用語はポルトガル語。宗教はキリスト教のカトリックが大多数。史跡,保養・観光地も多い。1986年ヨーロッパ共同体 EC(→ヨーロッパ連合 EU)に加盟。北大西洋条約機構 NATO原加盟国。(→ポルトガル史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

イベリア半島西南部に位置する国。環境的には三つの地域に分かれ,それぞれスペインとの地理的連続性を有する。ミニョ川‐ドウロ川間地域を中核とするポルトゥカレ伯領が自立傾向を強め,1143年,ポルトガル王国として成立する。1249年にはレコンキスタを完了,97年のアルカニセス条約で国境線を画定し,ポルトガル語もこの頃公用語とされる。1385年からのアヴィス朝期に海外進出,16世紀前半にはアメリカ,アフリカ,アジアにまたがる海洋帝国を形成。1580~1640年のスペインとの同君連合期に,多くのアジアの拠点を失い,帝国の重心はブラジルに移る。1640年の「再独立」後は対イギリス従属が進行。18世紀後半には啓蒙的改革が試みられるが,19世紀初頭ナポレオン軍の侵入によって大西洋帝国が崩壊。1820年革命によって立憲王政に移行。ブラジルの独立とともに国内は混乱,32~34年には絶対王政派と自由主義派の内戦を経験。19世紀後半には立憲王政のもとで近代化が図られる。1910年の革命によって第一共和政が成立。第一次世界大戦には三国協商側に参戦。26年,軍事クーデタによって第一共和政が崩壊,軍部が招いたサラザルのもとで全体主義的体制が成立する。61年からのアフリカにおける植民地戦争が泥沼化し,74年4月25日に国軍運動によるクーデタが発生,体制が崩壊,植民地を放棄する。民主化と近代化を模索しながら,86年にはスペインとともにヨーロッパ共同体(EC)に加盟,社会資本の整備を進めている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

イベリア半島の西端,大西洋に面する共和国。首都リスボン
古くはフェニキア人・ギリシア人がこの地に渡来し,ローマ帝国の支配下にはいるが,5世紀に西ゴート族の支配を受け,のちアラブ人が侵入した。1143年アルフォンソ1世のとき独立王国となった。15世紀からはアヴィス朝のジョアン1世・エンリケ航海王子の奨励で盛んに海外探検を進め,ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓以後,アジア・アフリカなどに進出して富強を誇り,リスボンは港として発展した。1580〜1640年の間,スペインに併合されたが,独立後はイギリスと結んでナポレオン1世に抵抗した。1820年の立憲革命とともにブラジルを失い,1910年の十月革命で共和政となった。その後,政情は不安で,1932年以来,サラザール政権の独裁下にあった。アフリカ植民地の独立運動との対決を通じ,軍部は国政改造に方向を転じ,1974年のクーデタで独裁を一掃(リスボンの春),内政自由化とアフリカ植民地(ギニア・モザンビーク・アンゴラ)の独立承認に転換して,議会制民主主義が進展した。1976年に民政に移行した。しかし経済危機などで混乱し,政権交代が相次いだ。1986年ヨーロッパ共同体(EC)に加盟,95年社会党が10年ぶりに政権を奪回,99年12月にはマカオを中国に返還した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル

イベリア半島南西部に位置する国。漢字表記は葡萄牙。日本との関係は1543年(天文12)ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝え,6年後ザビエルが鹿児島でキリスト教を布教したことに始まる。50年代以降の南蛮貿易と布教を支配したのは,ポルトガル国王の保護下にあったイエズス会で,布教戦略との関係から82年(天正10)天正遣欧使節が派遣され,84年ポルトガルの首都リスボンに到着した。しかし1609年(慶長14)のノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件,12年の江戸幕府の禁教令以降,両国関係は悪化し,39年(寛永16)の鎖国令で中断。再開は1860年(万延元)の日葡修好通商条約による。第2次大戦では中立を維持。日本の敗戦後1957年(昭和32)に国交を回復した。74年に軍事独裁政権が倒され(カーネーション革命),民政に移行してすべての植民地が独立。正式国名はポルトガル共和国。首都リスボン。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

南ヨーロッパ,イベリア半島南西部にある共和国
12世紀に王国となり,15世紀末,インド航路を開き,ゴア・マラッカを根拠にする東洋貿易で繁栄。1543年,種子島に来航し,鉄砲を伝え貿易を開始した。おもに中国の生糸・絹織物と日本銀との貿易で巨利を獲得。1639年江戸幕府の鎖国政策の推進により来航を禁止された。その後変遷ののち,1910年共和国となった。

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世界大百科事典(旧版)内のポルトガルの言及

【イベリア半島】より

…南西端では最狭部14kmのジブラルタル海峡をはさんでアフリカ大陸と対するが,同海峡は,ヨーロッパへのイスラム文明伝播の歴史的回路の一つであった。総面積の84.7%をスペインが,15.2%をポルトガルが,残りを英領ジブラルタルとピレネー山脈中のアンドラとが占める。〈イベリア〉の名は,古代ギリシア時代にギリシア人が半島先住民をイベレスと呼称したことに由来する。…

【コンゴ民主共和国】より

…現在,ピグミーは北東部のイトゥリの森林のほか,各地に分散して居住している。その後バントゥー族が侵入し,1482年にポルトガルの航海者がコンゴ河口に到着したとき,大西洋沿岸には数々の諸王国が存在していたが,なかでもコンゴ王国は最盛期を迎えていた。当時のコンゴ王国は大西洋岸からクワンゴ川まで,今日のアンゴラ北部,ザイール西部,コンゴ人民共和国南部にかけて,広い領域を支配した。…

【南蛮貿易】より

…1540年代より約1世紀にわたり,当時は南蛮人と称されたポルトガル,スペイン両国人の渡航によって日本商人等との間に展開された商取引。1543年(天文12)ポルトガル人の種子島漂着を契機にして,ポルトガル商船および彼らのジャンク船がリャンポー(寧波(ニンポー)),マラッカ等から西南九州の鹿児島,山川,坊津,府内,平戸等の各港に来航した。…

【ポルト】より

…ポルトガル北西部,ドウロ河口右岸にある同国第2の都市。国際的にはオポルトOportoとして知られる。…

※「ポルトガル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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