ポルトガル(英語表記)Portugal

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改訂新版 世界大百科事典 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル
Portugal

基本情報
正式名称=ポルトガル共和国República Portuguesa 
面積=9万2207km2(マカオは含まない) 
人口(2010)=1064万人 
首都=リスボンLisboa(日本との時差=-10時間) 
主要言語ポルトガル語 
通貨=エスクードEscudo(1999年1月よりユーロEuro)

イベリア半島南西部の一隅を占める大陸本土と,大西洋上のマデイラ,アゾレス両諸島とからなる共和国。15世紀以来,大航海時代の先駆者としてアフリカ,アジア,新大陸ブラジルに広大な植民地を有し,〈最後の植民地帝国〉といわれたが,1974年の革命で植民地をすべて解放した。ポルトガル人は16世紀日本を訪れた最初のヨーロッパ人としてキリシタン時代の日本に大きな影響を及ぼし,またポルトガルは16世紀末,少年使節(天正遣欧使節)が日本人として訪れたヨーロッパ最初の国でもある。国名ポルトガルは国家発祥地である現在のポルト市の古名ポルトゥス・カレPortus Caleに由来する。美称ルシタニア

大陸部ポルトガルは北緯36°58′から42°9′,西経6°11′から9°30′にかけて最大幅220km,南北の長さ560kmに延びた長方形をなし,イベリア半島の約6分の1を占める。この緯度は日本の東北地方6県に新潟県を加えた地域に相当し,面積はそれにさらに栃木・群馬の両県を加えたものに近く,首都リスボンは仙台よりもやや北に位置する。西と南は大西洋に面し,北と東はスペインに接する。この大西洋に臨み,アフリカに近いという地理的条件は,ポルトガルが大航海時代の先駆者となることができた大きな要因の一つであった。北と東で国境を接するスペインとは地勢上の境界はなく,国土はスペインのメセタが西に下る傾斜面に位置するため,おもな河川はみなスペインに源を発している。

 全体的には地中海式気候帯に属するが,その地理的気候的条件から中央山系とモンデゴ川を結ぶ線で国土は大きく南北に二分され,それぞれ対照的な特徴をもつ。北部は標高400mを超える地域が全体の95%を占め,海岸線から50km入ると,標高1000mを超える山脈が連なり,深く刻み込まれた渓谷がみられる。海岸部は絶えず偏西風の影響を受けて雨が多く,ことにミーニョ地方では年間3000mmの降水量を記録する地域もある。しかし,同じ北部でもスペインに接する内陸部山岳地帯は,雨量が少なく寒暖の差が激しい。耕地が少ないため,近年都市部や国外への人口流出が著しい。他方,南部は標高200m以下の平原が6割以上を占め,起伏の乏しい小麦の単作地帯やコルクガシの林が続く。完全な地中海式気候帯に属し,年間降水量は700mm以下と極端に少なく,気温が40℃を超える日もまれではない。このようにポルトガルの南部と北部では対照的な地理的・気候的条件に加えて,中世にレコンキスタ(国土回復戦争)が北から南に進んだという歴史的条件が重なって北部のミニフンディウム(零細土地所有制)と南部のラティフンディウム(大土地所有制)という土地所有形態の相違を生み,人々の生活様式も大きな違いをみせている。

ポルトガル人は,セルティベロ(ケルト・イベリア)族を先住民とし,ローマ人,ゲルマン人,ムーア人(イスラム教徒)などの諸民族と混血を重ね,人種的にはスペイン人と変わるところはないが,俗ラテン語から分化したポルトガル語を話し,12世紀にカスティリャから分離して独立国家をつくった。南部と北部では大きな地域差がみられるが,それが地域的対立に発展することはなく,国民の90%以上がカトリックを信奉する言語的・宗教的に統一されたきわめて同質的な社会を形成している。人口密度は1km2当り107人で,スペインの人口密度より3割近く高い。総人口は1950年が851万で,以後60年889万,70年861万,81年983万,91年986万と変化している。ここにみられる1970年代の人口減少と80年代の急増は,60年代初頭に始まり70年代前半まで続いた異常な移民の国外流出と74年の植民地戦争の終結に伴う海外植民地からの引揚者の流入によって説明される。

 15世紀以来のポルトガルの海外進出の歴史は,また移民流出の歴史でもあった。1866年から1966年までの1世紀間に外国および植民地に流出したポルトガル人の数は270万,さらに非合法の移民を加えると350万に達すると見積もられる。この1世紀間の移民はブラジル,北アメリカに渡る農業移民が中心であったが,1960年代以降はフランスなどのヨーロッパ先進工業国へ向かっている。70年には実に全人口の2%に相当する17万を超える移民数を記録した。移民の原因は貧困であるが,近代工業が農村の過剰人口を吸収できなかったポルトガルでは,移民は過剰人口がもたらす危機の安全弁として作用し,また本国への送金は慢性的な貿易の赤字を補塡している。

 人口問題に関するもう一つの特徴は,都市化率が25.5%ときわめて低いことである。その基準とした人口10万以上の都市は合計12,首都リスボンの68万,ポルトの31万,ビラ・ノバ・デ・ガイアの25万で,他の9都市はすべて10万台である。これら10万以上の都市はコインブラ,ブラガを除くとみな海岸部に位置しており,近年この海岸部への人口集中が急速に進んでいる。1991年現在77.7%の人口が海岸部に集中し,内陸部の人口はますます希薄になっている。

 ポルトガル社会にみられる南北の地域差は農村にはっきり現れている。北部は人口密度が高く,土地は細分化され,散村形態が支配的である。カトリック信仰が強く,政治的には保守的である。2階建ての家屋をはじめいたるところに花コウ岩が利用され,石の文化圏に属する。他方,南部は人口希薄で,集村形態をとる。大土地所有制が支配的で,大部分の農民は土地をもたず,地主は近郊の都市に居住する。1974年の革命後多くの集団農場が生まれ,エボラを中心とするアレンテージョは共産党の強力な地盤である。農民は日乾煉瓦やしっくい壁の家に住み,北部の石の文化に対して粘土の文化が支配的である。

教育は他のヨーロッパ諸国に比べて大幅に遅れており,これが近代化への大きな障害となっている。共和政が成立した翌年の1911年に初等教育は義務制となったが,財政難からその成果はほとんどみられなかった。義務教育の年限が6年になったのは1967年で,91年にも非識字率は18%を記録している。1974年の革命後,教育の機会均等,非識字の撲滅が叫ばれ,78年教育制度が抜本的に改革された。初等義務教育は6年である。中等教育は日本の中学・普通高校に相当し,フランスを範にしたリセウと職業技術学校とがあり,前期3年課程と後期2年課程に分かれる。その後,1年の予科課程を経て高等教育に進む。1960年代まで総合大学はコインブラ,リスボン,ポルトの3校にすぎなかったが,現在では国立9校,私立2校を数え,その他単科大学,理工科学校,高等専門学校,師範学校,陸海空軍学校,国立音楽院などがある。中等教育への進学率は21.5%,高等教育への進学率は8%にすぎない(1991)。

文化活動は,サラザール時代に出版物の検閲制度など,政府の厳しい干渉によって著しく抑圧されたため,活力を失って一般大衆から遊離し,すぐれた知識人,作家は亡命した。1974年の革命後,検閲制度は廃止され,自由な文化活動,学術研究が始まっている。学術機関では国立の諸機関のほかに,1950年代に設立された民間のグルベンキアン財団がその豊富な資金によって学術研究の振興に努めるとともに,美術館,コンサートホールをもち,オーケストラ,舞踏団,合唱団を擁するなど,ポルトガルの一大学術・文化センターとなっている。

日刊紙発行部数は1000人当り76部(1987),全国紙としては《ディアリオ・デ・ノティシアス》《プブリカ》などがあるが,一般に地方紙が支配的である。週刊紙には《エスプレソ》《テンポ》などがあり,日刊紙よりも言論界に大きな影響力をもっている。放送ではテレビ局はポルトガル国営放送(RTP)2チャンネル,民間放送の2チャンネルがある。ラジオはRTPのほか,カトリック系,その他の民間放送局がある。

ポルトガル現代史は1910年,共和政の成立とともに始まる。1926-32年の軍事政権を経て,33年からファシスト的組合主義〈新国家〉体制の下にサラザールの独裁政治が68年まで続いた。しかし,1961年から始まったアフリカ植民地解放戦争は,国力増強のための急激な工業化とあいまって,国内の社会経済にさまざまのひずみをもたらしていた。軍部でも左翼思想に共鳴した中産市民層出身の将校が植民地戦争に疑問を抱き,1974年3月植民地戦争に反対する〈国軍運動〉を結成した。そして4月25日,かねてから植民地戦争に反対を唱えていたA.スピノラ将軍を擁立してクーデタを敢行し,半世紀に及ぶサラザール体制を倒壊させた。国民の熱烈な支持を得た国軍運動はただちに国内の民主化と植民地解放を実施したが,75年3月の政変を機に成立した革命評議会は共産党と連携して基幹産業の国有化,農地改革を断行するなど急速に左傾化したため,国民の反発を招き,軍事政権は政治からの撤退を余儀なくされた。

 1976年4月に公布された新憲法の下で始まった国政は社会党と社会民主党の2政党を軸に左右に揺れながら展開したが,いずれも過半数を制しえず不安定な内閣が続いた。革命から12年目の86年,ポルトガルはようやく宿願のEC加盟を果たし,ブリュッセルからの資金援助によって革命で危機に陥った経済も回復の兆しをみせた。翌87年7月の総選挙ではカバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939- )の率いる社会民主党が革命以来初めて単独で過半数を制する勝利を収めた。活況を呈した経済を背景にシルバ内閣は急進的な憲法を改正し,農地改革法を改め,国有化された基幹産業の民営化を進めた。政局は安定し,社会民主党のシルバ首相と社会党のマリオ・ソアレスMàrio Soares(1924- )大統領が同じ権力の座に同居する,いわゆる〈コアビタシオン〉体制が続いた。しかし91年から始まった国際経済の景気後退でシルバ内閣の経済拡大政策はしだいに行き詰まり,95年10月の総選挙では社会民主党は,アントニオ・グテーレスAntónio Guterres(1949- )の率いる社会党に敗れて,10年間維持してきた政権の座を明け渡した。翌96年1月の大統領選挙でも社会党のジョルジュ・サンパイオJorge Sampaio(1939- )が当選し,社会党の全面的復活が見られた。

政治システムは大統領,共和国議会,内閣,裁判所を主権機関として政党政治を基本とするが,大統領の権限が比較的強いため,半大統領制とみなすこともできる。直接選挙で選出される任期5年の大統領は,三軍の最高司令官を兼任する。首相の任命・罷免権,議会・内閣の解散権を有し,議会で採決された法律の公布を拒否することができる。共和国議会は一院制で,比例代表制に基づいて18歳以上の有権者から選出される代議員の任期は4年。行政の最高機関である内閣は首相,大臣,省庁長官から構成される。首相は大統領によって任命されるが,必ずしも国会議員である必要はない。内閣は大統領と議会の双方に責任を負い,新内閣は議会で施政綱領の承認を得て初めて成立する。裁判所は,合憲・違憲を判定する憲法裁判所,司法裁判所(第1審,第2審,最高裁判所),会計裁判所(国会の歳出の合法・違法を監視する),軍事裁判所の四つがある。

1974年の革命後,サラザール体制下の中央集権的な地方支配から,住民の意志を尊重する地方自治権拡大の方向に転換した。マデイラとアゾレス両諸島はその地域的・歴史的特殊性からそれぞれ独自の自治政府と議会をもち,各自治政府の首長は中央政府に置かれる両地域担当の国務大臣によって任命される。地方自治体は下から区,市町村,地域の3段階に分類される。区の代議機関として区議会があり,区議選挙の最高得票者が区役所の首長の地位に就く。市町村議会は管内の区役所の首長と,市町村議員選挙委員会から選出された議員とから構成される。市町村役所の構成員は住民の選挙によって選出され,その最高得票者が首長に就く。地域議会は住民の直接選挙によって選出される議員および市町村議会の代表から成る。地域評議会は地域議会から互選される議員によって構成される地域行政機関で,内閣から任命される政府代表が送られる。

サラザール体制は〈国民同盟〉の一党独裁で,野党の政治活動が認められるのは総選挙時の1ヵ月のみであった。革命後数多くの政党が結成されたが,新憲法公布後国会で単独過半数を占める政党がなく,これが政局不安の原因の一つになってきた。1987年の選挙で中道右派の社会民主党が革命後初めて過半数を制して安定政権を樹立,76年憲法に従って国有化された企業を再び民営化するなどの憲法改正を89年に行った。主要政党は次のとおり。社会民主党は管理職層,社会民主中央党はキリスト教徒を中心に自営農の多い保守的な北部農民を母体とし,社会党はインテリ層を中心にほぼ全国的な支持を受けている。親ソ路線をとる共産党はポルトガル最大の労働組合組織〈総連合〉を牛耳り,大都市の労働者,南部の農業労働者を基盤としている。図式的にみれば,北部の保守,中部の中道,南部の革新という政治地図が描かれる。

1955年から国連加盟が認められた。サラザール時代には反共主義の立場から,共産圏諸国との外交関係はまったくなく,国連でもその植民地主義を非難されて〈西欧の孤児〉と呼ばれていたが,革命後は植民地を解放し,東ヨーロッパ諸国との国交も開かれた。最近では同じポルトガル語圏に属する旧植民地諸国との関係も緊密化しつつある。イギリスとは建国直後から密接な関係にあり,1373年に調印された友好条約は600年たった現在も有効である。

NATOの原加盟国で,リスボン郊外のオエイラスOeirasにイベリア・大西洋地区司令部が置かれている。植民地戦争時には総兵力は約20万を数えたが,1974年4月以降兵員は大幅に縮小された。現有兵力(1989)は陸軍4万4000,海軍1万6000,空軍1万5000。87年の軍事費の国民総生産に占める割合は3.2%,兵役は12~20ヵ月である。

ポルトガル経済は1960年代初頭から急激な構造変化を遂げたが,1人当りの国民総生産は年間7008ドル(1991)とEC加盟国内ではギリシアと並んで最も低く,経済的には依然としてヨーロッパの後進国であることには変りはない。60年代外資導入による積極的な工業化とそれに伴う農民の離村,国外移民流出が進み,1960年43.6%を記録していた第1次産業就業人口比率は70年31.7%,91年には11.6%まで低下した。さらに,74-75年の革命政権によって実施された基幹産業の国有化,農地改革,植民地解放は,ポルトガルの経済体制に大きな構造変化をもたらした。同時に革命とそれに続く政治的混乱は外国資本の逃避,生産の低下をもたらし,73年の石油危機と相まってポルトガル経済は危機的な状況に陥った。しかし86年のEC加盟によってECから多額の助成資金が流入し,89年の憲法改正で国有化された企業が再び民営化されて経済は拡大傾向にある。

 まず,第1次産業ではこの30年間に就業人口比率は激減したが,ポルトガルは依然として農業国である。ポルトガル本土における土地利用の状況は,耕地39.1%,牧草地5.8%,森林39.5%,その他15.6%となっている(1976)が,第1次産業の国民総生産に占める割合は5.8%(1990)ときわめて低く,食糧の半分以上を輸入に依存せざるをえない状況にある。全体的に地味はやせて生産性が低いということのほかに,北部はミニフンディウム(零細土地所有制),南部はラティフンディウム(大土地所有制)という二重構造の問題がある。200ha以上の地主の数はわずか0.3%にすぎないが,その面積の総計は全農地の39%を占める一方,1ha未満の土地をもつ農民数は39%にも及ぶのに,それが全農地に占める割合は2.5%にすぎない。しかも農業労働人口の約半分は土地をもたず,その生活水準はきわめて低い。これが1960年代以降みられた急激な国外移民流出の原因となっていた。75年,76年の2度にわたる農地改革法で700ha以上の未灌漑地および50ha以上の灌漑農地約100万ha(全農地の約20%)が国家に没収され,421の集団農場に分譲されたが,89年の農地改革法の改正によって大部分の土地が旧地主に返還された。

 主要な作物は小麦,トウモロコシ,ジャガイモ,ライ麦,米,野菜,果物などで,南部アレンテージョにおける小麦単作地以外は多品種作付けが支配的である。ブドウ酒は中世以来ポルトガルの代表的な輸出商品で,おもな産地はミーニョ(ベルデ酒),アルト・ドーロ(ロゼ,ポート),モンデゴ川流域(ダン)である。年間生産量は144万4000hl(1979)で,輸出総額に占める割合は約7%である。林業では松,コルクガシ,ユーカリが重要である。松は木材のほかに,松脂(まつやに),テレビン油が採取される。コルクの生産量は17万8000t(1977)で,世界一の生産量を誇っている。

 漁業はポルトガルの重要な伝統産業の一つである。イワシ,アジ,タラ,マグロなど年間水揚げ量は27万2000t(1980),漁業従事者数は約3万人で,総労働人口の約1%を占める。ポルト,マトジニョスMatozinhos,セトゥバルには主要輸出品であるイワシの缶詰工業をはじめとする食品加工業が発達している。タラはイワシと並んでポルトガル人の食生活に欠かせない魚で,グリーンランド,ニューファンドランド沖で操業が行われる。

1960年代からの工業化政策でリスボン,ポルト,セトゥバルの周辺に自動車組立て工場,石油精製工場などが設立されたが,高度な技術を要する近代工業の発達は遅れており,繊維工業などを中心に初期的段階にとどまっている。74年の革命前,企業の集中化が進み,イベリア半島一の規模を誇るCUF(クフ)(正称はCompanhia União Fabril)などの大企業連合も生まれたが,5人以下の労働者を雇用する工場が全体の69.6%(1980)を占め,小企業が中心である。74年の革命で銀行,保険会社をはじめとする基幹産業の国有化が実施されたため,国家が50%以上出資する企業は1200社に達し,国家の公共部門は総固定資本の45.5%を占めるに至った。しかし,89年から銀行,保険会社など国営企業の民営化が進められている。アフリカ植民地の喪失によって安価な原料供給地と特権的な輸出市場を失い,脆弱なポルトガル工業にとって大きな痛手となった。おもな工業は繊維工業,缶詰などの食品工業で,工業労働者の52.6%(1971)を吸収している。近年自動車組立て,鉄鋼,石油精製工業が発達し始め,また100万トンの船舶を修理できる乾ドックも建設されている。エネルギー源としては,1960年代中部,北部のモンデゴ川Mondego,テージョ川,カバド川Cavado,ドウロ川に数多くの水力発電所が建設され,水力発電量は783億kWhで火力発電量を2.8倍も上回っている(1974)。

 鉱業ではタングステン,大理石,石灰石がおもな資源であるが,その埋蔵量は少ない。工場地帯はブラガからセトゥバルに至る海岸線,ことにポルトとリスボンの周辺に集中し,内陸では毛織物工業のコビリャンCovilhã,繊維・化学・パルプ・製紙工業のトレス・ノバスTórres NovasとトマルTomar,およびアブランテスAbrantesとを結ぶ三角地帯が挙げられる。最近,南部のシネスSinesに石油精製・化学工業を中心とする一大コンビナートが建設された。

第3次産業の就業人口比率は1960年の27.5%から91年の49.7%へと増加した。しかし貿易は慢性的な赤字を記録している。この赤字は移民の送金と観光収入で補塡されてきたが,73年の石油危機と74年の革命後は移民送金も観光収入も減少し,以後の国際収支は年々大幅な赤字となっている。革命以前の1970年,輸入の14.7%,輸出の24.5%を占めていたアフリカ植民地市場の喪失は大きな打撃で,現在旧植民地諸国との国交が改善されつつあるが,輸入は0.5%,輸出は4.2%(1991)を占めるにすぎない。代わってヨーロッパEC諸国(イギリス,ドイツ,フランスなど)への輸出の比重が大きくなり,1986年にはEC加盟によってポルトガル経済は急速に拡大した。輸入では産油国および穀物供給国としてのアメリカ合衆国からの増大が著しい。1991年の貿易収支は78億5800万ドルの赤字で,サービス業の黒字11億8500万ドルと国外からの送金60億1100万ドルを差し引いても国際収支は6億6200万ドルの赤字であった。
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ポルトガルはその美術活動を,ローマ時代(エボラの神殿),西ゴート時代(ブラガのサン・フルクトゥオーゾ礼拝堂),イスラム時代,またそれ以降もイベリア半島の隣国スペインと共有した。

 8世紀に始まるイスラム教徒に対するレコンキスタ(国土回復戦争)の進展とともに,フランスの影響下に数多くの宗教建築が建てられた。ロマネスクでは巡礼路様式のコインブラ旧大聖堂(1184),ゴシックへの移行期のシトー会様式ではアルコバーサAlcobaçaのサンタ・マリア修道院(1222)が,ゴシックではバターリャ・サンタ・マリア・ダ・ビトリア修道院(15世紀)が傑出している。この国の建築が偉大な個性を発揮したのは大航海時代で,時の王マヌエル1世(在位1495-1521)にちなむマヌエル様式と呼ばれる建築様式が生まれた。これは晩期ゴシックからルネサンスにかけて,船具,海産物などのモティーフや植物的モティーフを多用した過剰装飾様式で,全土に広がったが,トマールTomarのキリスト修道院の窓,リスボン近郊ベレンBelémの塔とジェロニモス修道院が代表作とされる。その後,建築は一時衰微するが,18世紀前半には,ドイツ人ルートウィヒ父子によってバロックのマフラMafra大修道院・離宮が造営された。

 彫刻は,ロマネスク以降の建築付属彫刻,墓碑彫刻,聖像彫刻が中心である。ゴシック期のエボラ大聖堂正面の十二使徒像,アルコバーサのイネス・デ・カストロInés de Castroの石棺が知られる。またバロック彫刻では,スペイン同様,木造極彩色の聖像彫刻が主流をなした。

 絵画が偉大な個性を発揮したのは,建築同様15世紀で,ファン・アイクの来訪(1428)によって,フランドルの写実的様式が隆盛を極めた。アフォンソ5世(在位1438-81)の宮廷画家ゴンサルベスがリスボン派の総帥で,彼の《聖ビセンテ(ウィンケンティウス)の多翼祭壇画》(6枚)は,海洋国ポルトガルの一大ドキュメントであると同時に,15世紀ヨーロッパ絵画の最高傑作の一つである。ルネサンス期にはイタリアの影響も波及し,肖像画家モライスCristóvão de Morais(16世紀後半活動)らが活躍,18~19世紀にもビエイラFrancisco Vieira Portuense(1765-1806),〈ポルトガルのゴヤ〉と呼ばれるセケイラDomingos de Sequeira(1768-1837)を生んだ。
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ポルトガルの音楽は,通常スペイン音楽に付随するもののように扱われるが,実際は独自の個性をもって発展してきた。日本人が安土桃山時代に初めて接した西洋音楽もポルトガル人によるものであったことを考えるとき,この国の音楽はもっと大きく注目されてよいはずである。

 ポルトガル音楽には古代の記録がほとんどなく,通常最古のものとされるのは12~13世紀の宮廷に仕えた抒情詩人兼歌手(トルバドゥール)たちの作品である。ただし,これらはかなりの数の詩が残存するものの,曲はほとんど失われた。中世のポルトガル教会では他の西欧カトリック諸国同様に古い聖歌が歌われ,一般社会には民衆的な歌を歌い歩く,また種々の弦・管・打楽器を奏して歩く楽師たちがいたことはまちがいない。15~16世紀のルネサンス時代になるとアフォンソ5世,ジョアン3世ら,音楽好きの王がポルトガルに目だち,宗教的な多声合唱音楽をはじめ,世俗歌曲,初期の劇音楽なども発展をみせた。16世紀の主要な作曲家には人文主義者のゴイス,パイバHeliodoro de Paiva(1502?-52),カレイラAntónio Carreira(1525ころ-89ころ)らがある。

 引き続き,17世紀にかけて南部のエボラに高度な宗教楽派が栄え,メンデスManuel Mendes(?-1605),ロボDuarte Lobo(1565?-1646),カルドーゾManuel Cardoso(1566-1650),レベーロJoão Soares Rebelo(1610-61)ら優れた人びとが輩出した。このエボラは宗教的中心地で,16世紀に日本からの少年使節(天正遣欧使節)も,大司教に会うためここを訪れている。一方,この時代には世俗的な器楽や歌曲も盛んで,続く18世紀にはセイシャスCarlos de Seixas(1704-42),アルメイダFrancisco António de Almeida(?-1755),ソウザ・カルバリョJoão de Sousa Carvalho(1745-98)らが,鍵盤音楽,管弦楽,歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍した。19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく,民族的な特色は後退したが,世紀の後半から20世紀にかけてケイルAlfredo Keil(1850-1907),ビアンナ・ダ・モッタJosé Vianna da Motta(1868-1948)らが国民楽派としての活動をみせた。20世紀の印象主義的あるいは現代的語法の代表者としてはフレイタス・ブランコLuis de Freitas Branco(1890-1955),ロペス・グラーサFernando Lopes Graça(1906- )らが挙げられよう。

 以上は芸術音楽の略史であるが,ポルトガルには独自の民俗音楽もある。とくに名高いのがリスボンの大衆的な歌謡であるファドで,19世紀前半からの歴史をもち,小ぶしのきいた哀調に富む唱法,伴奏楽器ポルトガル・ギター(胴体はほぼ円形)の可憐な音色により,同市の人びとの抒情性,感傷性をよく表している。同じファドでもコインブラのそれは学生たちによって多く歌われ,ロマンティックで明るい。都会の音楽ファドに対し,田園の民謡も豊富で,広く行われる拍子の活発なビーラvira,南部のコリディーニョcorridinhoなどをはじめ,舞曲の種類も多い。民謡では古い物語歌のロマンセromance,わらべ歌,子守歌,労働歌,宗教的・世俗的な祭りの歌など,どこの地方にも個性的な旋律が多い。民俗楽器にはギターのほかカバキーニョまたはマシェーテ(小型ギター),ガイタ(バッグパイプ),アドゥフェ(四角形のタンバリン)などが知られる。ポルトガル民謡の一般的な気分は柔軟な抒情性にあり,たとえば古代からのケルト的な影響,東方からの諸影響などもうかがわれて独自性に富んでいる。なお,文学と演劇については〈ポルトガル文学〉の項を参照されたい。
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古代ローマ時代以前,現在のポルトガル領とスペイン・ガリシア地方に相当するイベリア半島西端部は,北部のケルト系文化圏と南部の比較的進んだ地中海文化圏とに二分されていた。前218年に始まるローマ人の進出によってラテン語が先住民セルティベロ(ケルト・イベリア)族の言葉にとって代わり,キリスト教が布教され,道路網が整備されるなど,ローマ文明が広く浸透するに及んで南北の統一が進んだ。5世紀初頭,半島に侵入してきたゲルマン民族の一つ,スエビ族は半島北西部にブラカラ(現在のブラガ)を首都とするスエビ王国をつくり,トレドに都を置く西ゴート王国に対抗した。585年西ゴート王国はスエビ王国を併合して半島を統一するが,8世紀初め半島全体はイスラム教徒の支配下に入った。しかし,半島北端のカンタブリア山岳地帯から国土回復戦争(レコンキスタ)が始まり,9世紀末にはキリスト教徒はドウロ川(スペイン名はドゥエロ川)まで南下した。

 2世紀後の1085年,レオン・カスティリャ王アルフォンソ6世はトレドを征服するが,新たなイスラム勢力の進出にフランス・ブルゴーニュの貴族が西方十字軍として来援した。その一人アンリ・ド・ブルゴーニュはアルフォンソ6世の王女テレサと結婚し,1095年ポルトゥカレ伯としてミーニョ川,ドウロ川間の地に封じられた。その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は,1143年ローマ教皇の仲介でカスティリャから独立してポルトガル王国を建国し,コインブラを首都とするブルゴーニュ朝を開いた。このようにポルトガルの独立は封建制度をてこにして国土回復戦争の過程から生まれたものであるが,その独立には,スエビ王国の伝統を受け継ぐブラガ大司教が,半島全体を支配するトレド大司教からの独立を望んでアフォンソ1世を支援したという宗教的要因もからんでいる。アフォンソ1世はテージョ川左岸にまで領土を拡大したが,その後の国土回復戦争はおもに宗教騎士団によって進められたため,彼らに広大な所領が譲渡され,南部の大土地所有制発生の原因となった。

 ポルトガルでは,イスラム教徒という強大な敵対勢力に対抗する必要上,王権が著しく強化されたため,いわゆる封建制度の発達はみられなかった。他方,国土回復戦争とそれに続く植民の過程で平民階級の身分上昇がみられ,彼らは自治共同体コンセリョをつくり,1253年から身分制議会コルテスにその代表を送るようになった。1249年アフォンソ3世はアルガルベ全域を征服し,スペインより約250年早く国土回復戦争を完了した。こうして,13世紀中葉ポルトガルは領土的・国民的統一を成し遂げてヨーロッパでも最古の国民国家を形成した。

 13世紀後半,ことにディニス王(在位1279-1325)の下に植民・商業活動が進み,首都リスボンは地中海と北海を結ぶ航路の中継地として繁栄した。また,文化的にもポルトガル語の公用語化,抒情詩を主体とするトロバドールトルバドゥール)文化の開花,コインブラ大学の創設(1290)などにみられるように,中世文化の最盛期を迎えた。

1348年に始まる黒死病(ペスト)はポルトガルの人口を3分の1以上も減少させ,深刻な社会的・経済的危機を引き起こした。さらに,69年から国王フェルナンドは隣国カスティリャの王位継承戦争に介入したが,敗北を喫して唯一の王位継承者ベアトリス王女をカスティリャ王フアン1世に嫁がせる破目に陥り,王朝の断絶という政治的危機に見舞われた。83年国王の死後,国内は親カスティリャ派の大貴族と,独立を守ろうとする中小貴族,ブルジョアジー勢力に二分されたが,海港都市としてスペインのセビリャに対抗するリスボンの商人層の主導の下に,85年4月開催されたコルテスはアビス騎士団長ドン・ジョアンを国王に選定した。ジョアン1世は同年8月アルジュバロタの戦で侵入して来たカスティリャ軍を破り,こうして海商ブルジョアジーに支援されたアビス朝が成立した。

 アビス朝は海外への膨張政策を採ることで中世末の危機打開を図ろうとし,旧貴族に取って代わった新貴族は土地貴族でありながら商人化することで海外進出の担い手となっていく。1415年モロッコの商業都市セウタ征服を皮切りに,エンリケ航海王子らの指揮の下に大西洋諸島の植民,西アフリカ沿岸の探検航海が推進される。1480年代西アフリカの金取引に成功したジョアン2世はインド航路発見の計画を具体化し,それはマヌエル1世治世下にバスコ・ダ・ガマによって実現された。アルメイダアルブケルケという2人の傑出したインド副王は,ヨーロッパの進んだ軍事力と航海術でインド洋の制海権を握り,ヨーロッパへの香料貿易を独占することに成功した。すでに1500年P.A.カブラルはブラジルをポルトガル領としており,こうして点の支配とはいえ,ポルトガルは一大海洋帝国を築き,リスボンはアフリカの金,アジアの香料,ブラジル,マデイラの砂糖の荷揚港として空前の繁栄をみた。

 香料,金などの主要な海外交易は国王の独占とされたため,王室財政の7割近くが海外からの収入によって占められた。この莫大な富を背景にジョアン2世,マヌエル1世は官僚機構,常備軍を整備し,貴族をその要職に就けることによって絶対王政を確立した。この海外進出の最盛期は,またポルトガル・ルネサンスの黄金時代でもある。演劇のジル・ビセンテ,エラスムスとも親交のあった人文主義者ディオゴ・デ・ゴウベイア,叙事詩《ウズ・ルジアダス》を著したルイス・デ・カモンイス,アフォンソ5世の宮廷画家ゴンサルベスらが輩出し,建築ではマヌエル様式が発達したことが知られる。

しかしながら,16世紀中葉を境に東洋交易に衰退の影がしだいに色濃くなっていく。すでに1530年代からベネチア商人による陸路の旧香料ルートが復活して,ポルトガルの香料交易の独占は破られていた。文化面でも宗教裁判所によるユダヤ人,新キリスト教徒コンベルソ),人文主義者の弾圧が始まった。海外領ではキリスト教布教に尽力しヨーロッパ文明の伝播者となったイエズス会も,国内では自由と寛容の精神を圧迫し始めていた。

 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。78年セバスティアンが無謀なモロッコ侵略戦争で戦死して2年後の80年,ポルトガル王位は,ジョアン3世の妹を母に,同じくジョアン3世の娘マリアを妻にもつスペイン王フェリペ2世の手に渡った。衰退期にあったポルトガルの貴族,商人層は,むしろスペインとの併合を望み,上昇期の1385年の危機とは際だった対照をみせている。

 フェリペ2世はポルトガル王フィリペ1世として即位し,イベリア半島は一人の国王の下に統一されたが,ポルトガル人は国内,植民地ともに大幅の自治権を認められていた。しかしながら,1618年に始まる三十年戦争以降,スペインの衰退が色濃くなるにつれて,ポルトガルに対する圧迫が強まった。40年カタルニャの反乱を機に,一部のポルトガル貴族は国内最大の貴族ブラガンサ公ドン・ジョアンをポルトガル国王に推戴し,独立を宣言した。

 こうして,3代続いたスペイン・フィリペ朝の支配は終わり,新たにブラガンサ朝が成立した。しかし,スペインとの抗争は1668年まで続き,海外領ではオランダがブラジルやアンゴラの一部を占領していた。このため,ポルトガルはイギリスに政治的・軍事的援助を仰ぎ,その代償として1642年,53年,そして1703年のメシュエン条約と次々にイギリスに有利な通商条約を結び,対英経済従属を深めていった。

16世紀後半,東洋交易の衰微でポルトガル経済は一時停滞するが,17世紀に入ると代わって植民地ブラジルの砂糖生産が目ざましく発展した。1640年の本国独立を経済的に支援したのは,このブラジルであった。70年代以降砂糖生産は停滞するが,90年代に入ると,内陸部のミナス・ジェライスで金やダイヤモンドが発見された。18世紀全体を通じて産出した金の量は1000tにも達すると見積もられている。このように,植民地交易は17,18世紀を通じて繁栄しており,少なくとも経済的にはポルトガルの衰退は認められない。このブラジルの富を背景にジョアン5世はフランスのルイ14世流の絶対王政を敷き,宮廷を中心にバロック文化が花開いた。しかし,植民地からの富は,国内産業の振興発展に利用されることなく,イギリスからの工業製品輸入の対価として流出し,あるいは教会建設や奢侈品の購入に浪費された。

 1750年ジョアン5世の後をうけてジョゼ1世が即位する。ジョゼ1世の下で独裁政治を行ったポンバル侯は,ヨーロッパ先進国からの遅れが目だち始めたポルトガルの近代化を図るために,財政・行政・教育全般にわたって改革を断行した。教育界を独占していたイエズス会を追放して新しい教育法を導入し,また新キリスト教徒に対する差別の撤廃,奴隷制の廃止など社会の平準化を進めた。経済面では対英従属を断ち切るために最初は独占会社をつくって植民地交易を強化したが,後半は植民地交易の不振から国内工業の保護育成に努めた。77年国王ジョゼの死によりポンバルは失脚するが,彼の経済政策はそのまま継続され,18世紀末から19世紀初頭までポルトガル経済は著しく回復し,対英貿易は黒字を記録した。文化面でも各種のアカデミーが創設されるなど活況を呈した。

1807年ナポレオン軍の侵入は,ポルトガル旧体制を揺るがす契機となった。女王マリア1世の摂政ドン・ジョアンはナポレオンの大陸封鎖令に抗してフランス軍の侵入を招き,王室ともどもブラジルに亡命した。同時に,植民地ブラジルの港はすべて友好国に向けて開放されることとなり,10年にはイギリスにきわめて有利な通商条約が結ばれ,ブラジル市場はイギリスに独占されてしまった。さらに15年,ブラジルは本国と連合王国を形成する。ブラジルという特権的な市場を失い,国内政治をイギリス人に牛耳られた本国のブルジョアジーは,20年8月ポルトで自由主義革命を起こし,リスボンに臨時政府を樹立した。コルテス(身分制議会)が召集され,封建的諸特権,宗教裁判所の廃止,ブラジルの再植民地を決議した。

 1821年リオ・デ・ジャネイロから急いで帰国したジョアン6世は新憲法を認めたが,ブラジルは摂政ドン・ペドロを擁立して独立を宣言した。26年ジョアン6世が没すると,ブラジル皇帝(ペドロ1世)となっていた王位継承者ドン・ペドロは,1822年の急進的な憲法を廃し,王権を強化した憲章を制定して王位をマリア2世に譲った。この立憲王政派に対して絶対王政の回復を図るジョアン6世の次男ドン・ミゲルDom Miguelは,28年王位を奪し,自由主義者を弾圧した。こうして,両陣営の間に内戦が勃発したが,2年後自由主義陣営が勝利を収めた。自由主義政府は修道院,王室財産を国有化し,これを戦時外債の支払のために競売に付した。ブラジル植民地を失ったブルジョアジーはこの土地を購入して農村地主に転化し,旧来の貴族勢力と手を結び立憲王政下の保守派として憲章党と呼ばれた。

 これに対して,1836年9月産業資本家,手工業者,小商人層を主体とする急進グループ(九月党)は,国内工業のための保護関税を要求して革命を起こし,1822年憲法を復活した。42年,憲章党のコスタ・カブラルAntónio Bernardo da Costa Cabral(1803-89)が政権に就いたが,彼の近代化政策が保守的な北部農民の反発を招き,46年マリア・ダ・フォンテの乱と呼ばれるポルトガルでは珍しい民衆蜂起がみられた。この反乱はスペイン・イギリス軍の介入によって終結するが,それはイギリス自由貿易主義の勝利をも意味した。ポルトガルはイギリスに対して自国の農産物の輸出と引換えに工業製品の輸入を認め,17世紀後半以来続いた対英従属を決定的なものとした。

1851年サルダニャ内閣の成立で長期にわたる混乱に終止符が打たれ,憲章党は刷新党に,九月党も穏健化して進歩党と改名して,イギリス流の二大政党政治が19世紀後半全体を通じて続くことになる。〈刷新〉の旗印の下に〈物質面の改善〉を目ざした近代化が推進され,遅まきながらポルトガルにも産業革命の波が押し寄せ,鉄道の開設,道路網の整備など,公共事業が進められた。しかしながら,70年代における不況は農産物価格の低下を招き,北部農民のブラジル移民が始まり,都市では知識人を中心に共和主義が台頭した。

 ブルジョアジーはアフリカ植民地の開発に活路を見いだそうとし,1890年アンゴラとモザンビークを結ぶ領土の領有権を主張したため,イギリスのアフリカ縦断政策と衝突した。イギリスの強圧的な最後通牒に屈した政府を激しく批判した共和主義者は,急速に国民の支持を得ることとなった。1907年ジョアン・フランコJoão Franco独裁政権は議会を解散し,共和主義者を弾圧したため,08年2月国王カルロスと王太子ドン・ルイスが共和主義者に殺され実質的に王政は終焉した。

1910年10月4日リスボンで一部の過激な軍人と市民とによる革命が成功し,翌5日共和政が宣言され,ポルトガルはスイス,フランスに次いでヨーロッパで第3番目の共和国となった。反教権的な臨時政府の下で国教分離,聖職者の追放,教会財産の没収,離婚法・ストライキ権の承認など急進的な改革が実施された。しかし,13年に成立したコスタAfonso Augusto da Costa(1871-1937)の民主党政府は中産階級を基盤としており,共和政の国際的な認知を得るため穏健化して,急速に労働者階級の支持を失っていった。ストライキが頻発し,共和党の分裂は政情不安に拍車をかけた。第1次世界大戦に際しては,連合国側に加わって,ドイツからアフリカ植民地を守ることに成功したが,大戦中パイスSidónio Bernardino Cardosa da Silva Pais(1872-1918)の独裁政治を許した。パイスの暗殺後,再び議会制に復帰するが,大戦後,破局的な財政危機に加えて政局は一段と悪化した。

1926年5月ゴメス・ダ・コスタGomes da Costa将軍による軍事クーデタが成功し,軍事政権が成立した。第一共和政は完全に国民の支持を失っていたのである。破局的な財政の再建のため,28年蔵相に招へいされたコインブラ大学教授アントニオ・デ・サラザールは,厳しいデフレ政策,行政改革を断行して,わずか1年余りで積年の財政赤字を克服した。32年にはポルトガルの〈救世主〉として首相に就任した。アクシヨン・フランセーズの右翼思想の強い影響を受けたサラザールは,翌33年組合主義的〈新国家〉体制を樹立し,国民同盟による一党独裁制を確立した。36年隣国スペインに内戦が勃発すると,反共体制を固めて〈ポルトガル青年団〉を組織するなど,ファシズムへの傾斜を強めた。第2次世界大戦では中立を守りながらも親枢軸国政策を採ったが,戦況が不利に展開し始めると連合国側に接近していった。経済的には中立政策による恩恵を受け,大戦を境に17世紀後半から続いた対英従属から脱却したことが特筆される。

 第2次大戦後は1949年にNATOへ,55年には国連への加盟を認められたが,国内では政治活動,労働運動を弾圧して独裁体制を維持した。56年から植民地を本土と不可分の海外領土として位置づけていたが,61年からアンゴラ,ギニア・ビサウ,モザンビークに次々と植民地解放戦争が始まった。リスボン政府は国家予算の4割と,20万の将兵を注ぎ込む一方,1954年から始まっていた自力更生的な経済開発計画を拡大して積極的に外資導入を図った。しかし,戦争は国民生活を著しく圧迫し,おおぜいの若者は徴兵を忌避して亡命した。1974年4月植民地戦争に不満を抱いた青年将校団がクーデタを起こし,1968年からサラザールの後を継いだカエタノMarcello José das Neves Caetano(1906-80)政権は倒れ,およそ半世紀に及んだサラザール体制は崩壊した(これ以後については[政治史]を参照されたい)。
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日本との本格的な接触は,1543年(天文12)のポルトガル船の種子島への漂着に始まる。それ以後,ポルトガル船は続々と鹿児島,山川,坊津,府内(大分),平戸などの港に入るようになり,1638年まで両国間の活発な貿易が展開された。とくに16世紀末にスペイン船が来航し,17世紀初めにオランダ,イギリス,中国がこれに加わるまでは,日本との貿易はポルトガル人の独占時代が続いた。ポルトガル船がもたらした品は,中国やインドシナの絹織物,金,麝香(じやこう)と武器類であったが,九州の諸大名は,とくに武器・弾薬を手に入れるため,ポルトガル船を自分の領地の港に入港させようと競いあった。日本から持ち帰られたものは,銀,イオウや蒔絵(まきえ)などの工芸品が中心であった。

 そのころ日本に渡来したキリスト教の宣教師にも,ポルトガル人が多い。16世紀末の天正遣欧使節が乗った船もポルトガル船であったし,使節たちはヨーロッパでの第一歩をポルトガルに印している。ポルトガルの音楽は,宣教師を通じてすでに安土桃山時代に日本に伝えられている。これはヨーロッパの音楽の紹介として最も早いものであった。

 ポルトガルの文化の影響は,当時から広く日本人の生活面にも及んでいた。このことは衣や食などに関するポルトガル語が数多く外来語として,われわれの日常語の中に定着していることにも現れている。襦袢(じゆばん)gibão,ビロードveludo,タバコtabaco,パンpão,金平糖confeito,カステラcastella(pão de Castella),かるたcartaなどがその例であり,スペイン語からのものよりずっと数が多い。

 1639年(寛永16)以降,日本は200年以上にわたる鎖国の時代に入る。しかし,その鎖国の扉が開かれ,明治時代を迎えたころのポルトガルには,往時の勢いは失われており,以後の両国の関係は細々としたものにとどまっている。貿易面でも,対日輸出(コルクなど)5685万ドル,同輸入1億7400万ドル(1983)で,日本の貿易総額からみて,前者が0.5%,後者が1.2%程度のものである。
南蛮貿易 →ポルトガル文学
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百科事典マイペディア 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説

ポルトガル

◎正式名称−ポルトガル共和国Republic of Portugal。◎面積−9万2207km2(アゾレス,マデイラ両諸島を含む本国のみ)。◎人口−1056万人(2011,アゾレス,マデイラ両諸島を含む本国のみ)。◎首都−リスボンLisbon(55万人,2011)。◎住民−ポルトガル人。◎宗教−カトリック90%。◎言語−ポルトガル語(公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,ルセロ・ヌノ・ドゥアルテ・レベロ・デ・ソウザMarcelo Nuno Duarte Rebelo de Sousa(2016年3月就任,任期5年)。◎首相−アントニオ・ルイス・サントス・ダ・コスタAntonio Luis SANTOS DA COSTA。◎憲法−1976年4月制定,1982年10月改正(軍事革命評議会廃止)。◎国会−一院制(定員230,任期4年)。2011年6月選挙結果,社民党105,社会党73,民衆党24など。◎GDP−2202億ドル(2007)。◎1人当りGDP−1万8100ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−11.5%(2003)。◎平均寿命−男76.9歳,女82.9歳(2013)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−94.9%(2009)。    *    *ヨーロッパ南西端,イベリア半島南西部を占める共和国。海外領土としてマカオがあったが,1999年12月に中国に返還された。東部のスペインとの国境地帯は丘陵性の山地がつづき,最高点はエシュトレラ山脈中の標高1991m。西部の大西洋岸には海岸平野がひらけ,海岸には潟湖,砂丘が多い。川は北部をドウロ川が西流,中部をテージョ川が南西流,南部をグアディアナ川が南流して大西洋に注ぐ。北緯40度線が国土のほぼ中央を通り,北部は西岸海洋性,南部は地中海式気候。〔産業〕 農業,漁業が主産業で,オリーブ油,ポートワイン,コルク,イワシが特産品。ジャガイモ,小麦,トウモロコシの産も多く,羊,豚,牛の畜産,石炭,銅の鉱産もある。工業は中小企業が多く,繊維,醸造,魚類缶詰,セメント,コルク製造,製紙,鉄鋼などが行われる。1人当り国民所得は西欧では低い。観光収入も重要。北大西洋条約機構(NATO)加盟国で,EC(現EU)には1986年に加盟,1999年ユーロ圏始動に参加した。〔歴史〕 早くからフェニキア人が植民,後ローマの属州となった。6世紀に西ゴート王国に併合され,8世紀以後イスラム教徒に支配された。12世紀半ばコインブラを都にポルトガル王国が独立し,イスラム教徒を相手に国土回復戦争を進めていった。14世紀以後絶対主義化が進められ,15世紀末のバスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見などにより西欧の海外発展の先駆的役割を果たして最盛期を現出した。1543年ポルトガル船が種子島(たねがしま)に漂着し,これが日本と西欧の接触の初めとなり,鎖国に至るまで約1世紀両国の交流が続いた。16世紀半ば−17世紀半ばスペインに支配され,主権回復後も植民地国家として発展したが,19世紀初めのブラジル独立後衰退し,1910年の革命で共和制が成立した。第1次世界大戦後軍部が台頭,1932年―1968年,その支持を得たサラザールの独裁が続いた。1968年サラザールの病気引退の後を受けてカエタノ政権が成立した。そのカエタノ政権も1974年の軍事クーデタで倒され,サラザール体制が終わった。代わった左翼的軍事政権は国内民主化,植民地解放,基幹産業の国有化,農地改革を実施し,1976年社会主義の色濃い新憲法を制定,同年民政に復帰し,社会党のソアレス政権が誕生した。1982年の憲法改正で社会主義色は薄められた。〔政治・経済〕 1995年に社会党政権が10年ぶりに復活,社会党は1999年10月の選挙でも議席数を維持した。2002年3月の選挙で,中道右派の社会民主党が第一党となった。2005年2月の選挙では,社会党が単独過半数を獲得。2007年7月EU議長国となり,同年10月リスボンで行なわれたEU首脳会議では欧州憲法に代わる改革条約を採択,これがリスボン条約と命名された。2010年1月,ギリシアの財政危機が表面化,財政破綻が明瞭となり,ユーロ危機,ソブリン危機がEU全体に拡大,世界的な株価下落,信用不安が拡がる事態が生じた。多額の財政赤字を抱えるポルトガルにも連動する懸念が広がり,政府は2010年5月,緊急の財政再建策を打ち出したが立て直しは進展せず,自力再建は困難として,2011年4月,EUに緊急金融支援を申請した。EUは5月,780億ユーロの金融支援を決定,社会保障の圧縮など財政赤字の削減を求めた。6月の総選挙で,財政再建を掲げる,バンス・コエリョの率いる中道右派の社会民主党が中道左派の社会党に勝利し,第三党の民衆党との連立で,6年ぶりに政権を奪還,コエリョが首相に就任した。しかし,ポルトガル国債の金利はその後も上昇,欧州の主要銀行による投げ売り的状況が続き,EU内の健全財政を維持してきたドイツをはじめとした国々に,ギリシア支援と同様に,ポルトガル支援に反対する国内世論も台頭。こうした状況を受け,コエリョ政権は,前政権が,欧州委員会,欧州中央銀行,IMFとの間で交わされたトロイカ合意の履行を通じて経済危機克服と財政赤字削減を目指すことを確認し,目標の達成を確実なものとするために,トロイカ合意よりもさらに踏み込んだ緊縮財政策・構造改革の推進を目指すとした。2012年8月末,同年11月に実施された欧州トロイカ調査団による定期審査(四半期毎に実施)では,財政再建は概ね順調に進捗していると肯定的に評価された。2014年5月,政府はEUからの緊急金融支援終了を宣言する一方で,競争力の促進や雇用創出等に向け今後も各種改革は進めていく方針を表明しており,最大野党の社会党はじめ各党及び労動組合等は反発を強めている。2015年1月の世論調査では,社会党が連立与党の社会民主党を10ポイント以上引き離していた。2015年10月,4年ぶりの政権交代で社会党のアントニオ・コスタ書記長が首相に就任した。
→関連項目欧州債務問題ベネンソン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

イベリア半島西南部に位置する国。環境的には三つの地域に分かれ,それぞれスペインとの地理的連続性を有する。ミニョ川‐ドウロ川間地域を中核とするポルトゥカレ伯領が自立傾向を強め,1143年,ポルトガル王国として成立する。1249年にはレコンキスタを完了,97年のアルカニセス条約で国境線を画定し,ポルトガル語もこの頃公用語とされる。1385年からのアヴィス朝期に海外進出,16世紀前半にはアメリカ,アフリカ,アジアにまたがる海洋帝国を形成。1580~1640年のスペインとの同君連合期に,多くのアジアの拠点を失い,帝国の重心はブラジルに移る。1640年の「再独立」後は対イギリス従属が進行。18世紀後半には啓蒙的改革が試みられるが,19世紀初頭ナポレオン軍の侵入によって大西洋帝国が崩壊。1820年革命によって立憲王政に移行。ブラジルの独立とともに国内は混乱,32~34年には絶対王政派と自由主義派の内戦を経験。19世紀後半には立憲王政のもとで近代化が図られる。1910年の革命によって第一共和政が成立。第一次世界大戦には三国協商側に参戦。26年,軍事クーデタによって第一共和政が崩壊,軍部が招いたサラザルのもとで全体主義的体制が成立する。61年からのアフリカにおける植民地戦争が泥沼化し,74年4月25日に国軍運動によるクーデタが発生,体制が崩壊,植民地を放棄する。民主化と近代化を模索しながら,86年にはスペインとともにヨーロッパ共同体(EC)に加盟,社会資本の整備を進めている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

イベリア半島の西端,大西洋に面する共和国。首都リスボン
古くはフェニキア人・ギリシア人がこの地に渡来し,ローマ帝国の支配下にはいるが,5世紀に西ゴート族の支配を受け,のちアラブ人が侵入した。1143年アルフォンソ1世のとき独立王国となった。15世紀からはアヴィス朝のジョアン1世・エンリケ航海王子の奨励で盛んに海外探検を進め,ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓以後,アジア・アフリカなどに進出して富強を誇り,リスボンは港として発展した。1580〜1640年の間,スペインに併合されたが,独立後はイギリスと結んでナポレオン1世に抵抗した。1820年の立憲革命とともにブラジルを失い,1910年の十月革命で共和政となった。その後,政情は不安で,1932年以来,サラザール政権の独裁下にあった。アフリカ植民地の独立運動との対決を通じ,軍部は国政改造に方向を転じ,1974年のクーデタで独裁を一掃(リスボンの春),内政自由化とアフリカ植民地(ギニア・モザンビーク・アンゴラ)の独立承認に転換して,議会制民主主義が進展した。1976年に民政に移行した。しかし経済危機などで混乱し,政権交代が相次いだ。1986年ヨーロッパ共同体(EC)に加盟,95年社会党が10年ぶりに政権を奪回,99年12月にはマカオを中国に返還した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル

イベリア半島南西部に位置する国。漢字表記は葡萄牙。日本との関係は1543年(天文12)ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝え,6年後ザビエルが鹿児島でキリスト教を布教したことに始まる。50年代以降の南蛮貿易と布教を支配したのは,ポルトガル国王の保護下にあったイエズス会で,布教戦略との関係から82年(天正10)天正遣欧使節が派遣され,84年ポルトガルの首都リスボンに到着した。しかし1609年(慶長14)のノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件,12年の江戸幕府の禁教令以降,両国関係は悪化し,39年(寛永16)の鎖国令で中断。再開は1860年(万延元)の日葡修好通商条約による。第2次大戦では中立を維持。日本の敗戦後1957年(昭和32)に国交を回復した。74年に軍事独裁政権が倒され(カーネーション革命),民政に移行してすべての植民地が独立。正式国名はポルトガル共和国。首都リスボン。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「ポルトガル」の解説

ポルトガル
Portugal

南ヨーロッパ,イベリア半島南西部にある共和国
12世紀に王国となり,15世紀末,インド航路を開き,ゴア・マラッカを根拠にする東洋貿易で繁栄。1543年,種子島に来航し,鉄砲を伝え貿易を開始した。おもに中国の生糸・絹織物と日本銀との貿易で巨利を獲得。1639年江戸幕府の鎖国政策の推進により来航を禁止された。その後変遷ののち,1910年共和国となった。

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世界大百科事典(旧版)内のポルトガルの言及

【イベリア半島】より

…南西端では最狭部14kmのジブラルタル海峡をはさんでアフリカ大陸と対するが,同海峡は,ヨーロッパへのイスラム文明伝播の歴史的回路の一つであった。総面積の84.7%をスペインが,15.2%をポルトガルが,残りを英領ジブラルタルとピレネー山脈中のアンドラとが占める。〈イベリア〉の名は,古代ギリシア時代にギリシア人が半島先住民をイベレスと呼称したことに由来する。…

【コンゴ民主共和国】より

…現在,ピグミーは北東部のイトゥリの森林のほか,各地に分散して居住している。その後バントゥー族が侵入し,1482年にポルトガルの航海者がコンゴ河口に到着したとき,大西洋沿岸には数々の諸王国が存在していたが,なかでもコンゴ王国は最盛期を迎えていた。当時のコンゴ王国は大西洋岸からクワンゴ川まで,今日のアンゴラ北部,ザイール西部,コンゴ人民共和国南部にかけて,広い領域を支配した。…

【南蛮貿易】より

…1540年代より約1世紀にわたり,当時は南蛮人と称されたポルトガル,スペイン両国人の渡航によって日本商人等との間に展開された商取引。1543年(天文12)ポルトガル人の種子島漂着を契機にして,ポルトガル商船および彼らのジャンク船がリャンポー(寧波(ニンポー)),マラッカ等から西南九州の鹿児島,山川,坊津,府内,平戸等の各港に来航した。…

【ポルト】より

…ポルトガル北西部,ドウロ河口右岸にある同国第2の都市。国際的にはオポルトOportoとして知られる。…

※「ポルトガル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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