日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説
ミュラー(ドイツの生理・解剖学者 Johannes Petrus Müller)
みゅらー
Johannes Petrus Müller
(1801―1858)
ドイツの生理・解剖学者。当時フランスの占領下にあったコブレンツの靴屋の息子として生まれる。1819年ボン大学に入学、医学を学ぶ。1820年にはすでに動物実験を行い、1823年「胎児の呼吸」の研究で大学から賞金を授与された。1823年から1年半ベルリン大学の解剖学教授ルドルフィKarl Asmund Rudolphi(1771―1832)の指導を受けたのちボンに帰り、1824年ボン大学講師、1833年ベルリン大学の解剖・生理学教授に任ぜられた。この年『人体生理学叢書(そうしょ)』第1巻を刊行し、引き続き巻を重ねた。彼の指向したのは自然哲学からの脱却と、観察・実験であった。実験生理学よりも形態学研究に傾斜し、比較解剖学、動物分類学に興味を抱いた。また病理学とくに腫瘍(しゅよう)の研究に顕微鏡を応用した先駆者であった。そのほかベル‐マジャンディの脊髄(せきずい)神経の法則の実験的証明(1831)、カエルのリンパ心臓の発見(1834)、そのほか赤血球、分泌腺(せん)、声帯の運動、単一視・複視の生理、形態、化学に関する数多くの研究を行い、ドイツ生理学界の指導者となった。1796年ライルJohann Christian Reil(1759―1813)によって創刊された『生理学雑誌』(のち『解剖学、生理学雑誌』と改称)の編集を、1834年から死去するまで主宰した。彼の門下からは、組織学のシュワン、病理学のウィルヒョウ、生理学のデュ・ボア・レイモン、ヘルムホルツら著名な学者が輩出した。のちにベルリン大学総長に就任したが、1848年の革命に遭遇し、困難な立場にたたされ、同年辞職したが、精神的にも肉体的にも疲労の極に達していた。これより10年後急死するが、自殺ではないかといわれている。
[中山 沃]
ミュラー(ドイツの心理学者 Georg Ellias Müller)
みゅらー
Georg Ellias Müller
(1850―1934)
ドイツの心理学者。ザクセン州のグリマの生まれ。1873年ゲッティンゲン大学のロッツェのもとで、哲学で学位をとった。1876年ゲッティンゲン大学講師、1880年ツェルノウィッツ大学哲学教授。1881年にロッツェがベルリン大学に移るとその後任となり、1921年まで40年にわたってゲッティンゲン大学の心理学研究室を主宰し、あとをアッハNarziss Kasper Ach(1871―1946)に譲った。おもな研究領域は精神物理学、視知覚、記憶などで、厳密な思索による理論を重視すると同時に優れた実験家であり、フェヒナー、ヘリング、エビングハウスの研究を発展させた。彼のもとにはカッツ、スピアマン、イェンシュErick Rudolf Jaensch(1883―1940)、ルビンなど多くの研究者が集まってきた。
[宇津木保]
ミュラー(スイスの物理学者 Karl Alex Müller)
みゅらー
Karl Alex Müller
(1927―2023)
スイスの物理学者。バーゼルに生まれる。チューリヒのスイス連邦立理工科大学で物理学を学び、1958年に同大学で博士号を取得した。ジュネーブのバッテル記念研究所で磁気共鳴の研究に従事したあと、1963年IBMチューリヒ研究所に入所し、1982年にフェロー(上級研究員)となった。ニューヨークのIBMトーマス・ワトソン研究所に2年間在籍した以外は、IBMチューリヒ研究所で研究を続けた。
ベドノルツとともに強誘電体および超伝導の研究を行った。超伝導とは、カマーリン・オネスによって発見されたもので、ある温度以下で、金属や合金の電気抵抗がゼロになる現象である。当時わかっていた臨界温度は20K(零下253℃)ぐらいであったが、彼らは1986年にランタン、銅、バリウムを含む酸化物のセラミックスが、30Kを超える温度で超伝導状態を示す物質であることを発見した。この現象は高温超伝導とよばれた。ミュラーとベドノルツは翌1987年に、発見から1年目という異例の早さでノーベル物理学賞を受賞した。このセラミック超伝導体の発見によって、「超伝導フィーバー」ともいえる超伝導体開発競争が展開されることになった。
[編集部]
ミュラー(ドイツの哲学者 Adam Heinrich von Müller)
みゅらー
Adam Heinrich von Müller
(1779―1829)
ドイツの政治哲学者、社会哲学者。ベルリン官吏の子として生まれる。最初プロイセン官吏となり、『対立論』(1804)を著したが、その「動的思考」はヘーゲルにも影響を与えたといわれる。1805年ウィーンでカトリックに改宗。シュレーゲル兄弟らのロマン主義者と交わり、その思想とF・ゲンツ、E・バークの保守主義思想とを結合させて政治的ロマン派の代表的理論家となった。1809年主著『国家学綱要』を著し、国家有機体説に基づきカトリック的、身分制的国家擁護を説いた。ベルリンでハルデンベルクによる改革への反対運動を行ったのち、1811年ウィーンに移り、以後メッテルニヒに仕えた。ライプツィヒ駐在総領事(1818~1827)としてプロイセンの関税政策に抵抗する一方、ウィーン体制のイデオローグとして活発な言論活動を行い、1826年「君主的原理と宗教」に対するその功績により貴族に列せられた。
[岡崎勝世 2015年4月17日]
ミュラー(ドイツの小説家 Herta Müller)
みゅらー
Herta Müller
(1953― )
ドイツの小説家。ルーマニア西部ニツキードルフに、18世紀のドイツ系入植者バナート・シュワーベン人の末裔(まつえい)として生まれる。父はナチ武装親衛隊員として戦争犯罪に荷担、母は第二次世界大戦末期にソ連軍に強制連行された被害経験をもつ。ティミショアラ大学卒業後、機械工場で通訳として勤務。秘密警察(セクリターテ)への協力を拒否して1979年に失職、以後は臨時雇いで糊口(ここう)をしのぐ。多感な少女の視点から、ドイツ人の純血主義が孕(はら)む暴力性を農村風景に読み取っていく散文作品集『澱(よど)み』が1984年に西ドイツで発表され注目を浴びる。しかしルーマニアでは執筆禁止、尾行、尋問、家宅捜索などの迫害に苦しむ。1987年に西ドイツへ出国。この前後の絶望的な疎外状況は『人間はこの世の大いなる雉(きじ)』(1986)や『片脚(かたあし)だけの旅人』(1989)に詳しい。1989年末のチャウシェスク独裁政権崩壊を機に、秘密警察の監視下に生きる恐怖と絶望を主題とした長編小説を次々に発表した。独裁末期の市民の困窮を描いた『狙(ねら)われたキツネ』(1992)のほか、『心獣』(1994)と『今日は自分には会いたくなかったのに』(1997)は1970年代末のつかのまの民主化とそれに続く反動の時代に捧げられている。ただし、ミュラーの小説はプロットよりも不条理なイメージの積み重ねを重視しており、その意味で、新聞や雑誌の文字や写真を切り貼(ば)りした超現実主義的なコラージュ詩の試み――『監視人が櫛(くし)を手に取る』(1993)、『紙の結び目に住むご婦人』(2000)、『コーヒーカップを持つ青ざめた紳士たち』(2005)――に通じるものがある。長編『息のブランコ』(2009)では自伝的な主題を離れ、聞き取り取材を重ねて、ソ連ラーゲリでのドイツ系住民の強制労働という歴史の闇(やみ)に光をあて新境地を開いた。2009年ノーベル文学賞受賞。
[山本浩司]
『山本浩司訳『狙われたキツネ』(1997・三修社)』
ミュラー(スイスの化学者 Paul Müller)
みゅらー
Paul Hermann Müller
(1899―1965)
スイスの化学者。DDTの殺虫効果を発見したことで有名。オルトンの生まれ。ドレイフス電気機械会社の実験助手、ロンザ社の補助化学者を経て、バーゼル大学に学び、学位を得た。ガイギー皮なめし会社(現、ノバルティス)に入って皮なめし剤の合成研究を行い、新製品「イルガタンFL」および「FLT」を開発(1930)した。ついでガの駆除剤を研究、既知物質の通称ジクロロジフェニルトリクロロエタンに強い殺虫力を発見した(1939)。これがDDTである。以降農薬の研究が盛んになった。この業績に対して1948年にノーベル医学生理学賞が贈られた。DDTは一時期広く使われたが、強い毒性のために使用は禁止されている。
[川又淳司]
ミュラー(ドイツの動物学者 Fritz Müller)
みゅらー
Fritz Müller
(1821―1897)
ドイツの動物学者。のちにブラジルに渡る。ベルリン、グライフスワルト両大学で医学と博物学を修め、1852年以来ブラジルに移って事業を営み、かたわら昆虫類、甲殻類などの生態学的研究を行い、とくにチョウの擬態や昆虫のはねの起源に関する研究でよく知られる。C・R・ダーウィンの進化論をいち早く受容して主著『ダーウィン賛同』(1864)を書き、また発生学ではE・H・ヘッケルに先だって生物発生原則を唱えた。
[八杉貞雄]
ミュラー(ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者 Friedrich Max Müller)
みゅらー
Friedrich Max Müller
(1823―1900)
ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者。ライプツィヒ大学でサンスクリット語を学び、パリのビュルヌフのもとで『ベーダ』の研究を行う。イギリスに渡り、1850~1876年の間オックスフォード大学で文学、言語学などを講じた。1870年ロンドンの王立協会で行った講演のなかで、宗教学science of religionという表現を用い、あらゆる宗教を客観的、科学的に比較研究する必要を力説した。ここからミュラーは一般に近代宗教学の始祖とみなされる。彼の宗教学は、おもに神話など歴史上の宗教思想を資料とし、比較言語学の方法を範として、宗教の起源と発達の系譜をたてることを目的とした。それは「無限なるもの」が順次に物的対象、人的事象、そして心的自己を通じて認知される過程だという。彼はまた東洋諸宗教の聖典を同僚の協力を得て英訳し、『東方聖典』Sacred Books of the East51巻を編集した。
[田丸徳善 2018年8月21日]
ミュラー(ドイツの画家 Otto Müller)
みゅらー
Otto Müller
(1874―1930)
ドイツの画家。シュレージエンのリーバウに生まれる。石版画を修めたのち、1896~98年ドレスデン美術学校で絵画を学んだ。1908年ベルリンに住み、10年ヘッケルの誘いで表現主義のグループ「ブリュッケ(橋)」に加わった。15~18年第一次世界大戦による兵役ののち、20年ブレスラウ(ブロツワフ)の美術学校に迎えられ、同地で没するまで教鞭(きょうべん)をとった。ロマ(かつてはジプシーとよばれた)を母親にもつ彼は、しばしばハンガリー、ルーマニアなどを旅行してロマの生活を画題に取り上げた。筆触は粗く、色彩は淡く夢幻的で、妖精(ようせい)を思わせる裸婦の作が多い。代表作『ポーランドの家族』(エッセン、フォルクワング美術館)など。
[野村太郎]
ミュラー(ドイツの政治家 Hermann Müller)
みゅらー
Hermann Müller
(1876―1931)
ドイツ社会民主党の政治家。マンハイムに生まれる。党新聞の編集者を経て1906年党幹部会に入り、1916年帝国議会議員、1918年の革命ではベルリン労兵協議会および中央協議会の執行委員会委員となった。1919年6月外相としてベルサイユ条約に調印。1920年3月首相(~6月)、1928年5月ふたたび首相となったが、失業保険の醵金(きょきん)額をめぐる対立から1930年3月辞職、翌1931年3月20日死去した。
[松 俊夫]
ミュラー(スイスの歴史家、政治家 Johannes von Müller)
みゅらー
Johannes von Müller
(1752―1809)
スイスの歴史家、政治家。1786~92年にマインツ選帝侯の宮中顧問官および司書、93~1800年ウィーン宮廷の枢密顧問官となった。1800~04年皇帝図書館管理官を務め、04年ベルリンに招かれて史料編纂(へんさん)官となったが、ナポレオン1世に目をつけられ、08年に新王国ウェストファーレンの教育長官となった。彼の著書『スイス連邦史』五巻(1786~1808、初版1780)は同時代の人々に傑作として広く愛読され、シラーの戯曲『ウィリアム・テル』に大きな影響を与えた。しかし、政治活動に深入りしたためもあって、『スイス連邦史』は15世紀末までの叙述で未完に終わり、24巻本の『世界史』も生前には刊行されなかった。
[森田安一]
ミュラー(ドイツの劇作家 Heiner Müller)
みゅらー
Heiner Müller
(1929―1995)
ドイツの劇作家。ケムニッツの近くのエッペンドルフに生まれる。ベルリーナー・アンサンブルの主任文芸員。数多くの劇作品を書く。妻インゲ(筆名インゲボルク・シュウェンクナー)の協力も特筆に値する。ブレヒト流の教育劇を得意とし、旧東ドイツの社会主義の発展途上に現れる諸問題を主題とした。古典劇を現代的にアレンジする試みも行った。前者では『建築』(1965)、後者ではソフォクレスの悲劇を翻案した『ピロクテテス』(1968)が代表作。ほかに『戦闘』(1975)、『ゲルマーニア、ベルリンでの死』(1978)、『ハムレット機械』(1979)などがある。1990年(平成2)9月ドイツ文学国際学会出席のため初来日。
[宮下啓三]
ミュラー(ドイツの陸軍軍医 Benjamin Carl Leopold Müller)
みゅらー
Benjamin Carl Leopold Müller
(1824―1893)
ドイツの陸軍軍医。ミュルレルともいう。ボン大学、ベルリン大学で外科を学び、軍医学校教官、シャリテ病院高級医官を経てハイチ国陸軍病院総監督などを歴任した。1869年(明治2)日本政府は中央の官立学校へドイツ人教師2名を招くこととし、その結果1871年プロシア陸軍軍医正のミュラーと海軍軍医のホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)が来日した。二人のプロシア軍医は、医学校改革の全権を与えられて、プロシア陸軍軍医学校を模した厳格な教育体制を確立し、日本医学教育制度の今日にまで引き継がれる原型となった。1875年帰国。
[神谷昭典 2018年8月21日]
ミュラー(ドイツの詩人 Wilhelm Müller)
みゅらー
Wilhelm Müller
(1794―1827)
ドイツの詩人。ベルリン大学で学んだのち、生地デッサウで高校教師を勤めながら詩作、翻訳などの文学活動に従事した。『旅する角笛(つのぶえ)吹きの遺稿詩集』(1820~24)に収められた民謡調の叙情詩のうち、『美しい水車屋の娘』と『冬の旅』はシューベルトの作曲で知られる。ギリシア独立戦争に共感して書いた『ギリシア人の歌』(1821~26)もある。ほかに旅行記やエッセイなども多い。
[石井不二雄]
『W・ミュラー、J・W・ゲーテ他著、瀧崎安之助編訳『ドイツ・リート詞華選』(1983・新地書房)』