善光寺(長野市)(読み)ぜんこうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「善光寺(長野市)」の意味・わかりやすい解説

善光寺(長野市)
ぜんこうじ

長野市元善(もとよし)町にある寺。単立宗教法人で、現在は、天台宗大本山の大勧進(僧寺)、浄土宗大本山大本願(尼寺)と一山寺院(いっさんじいん)39か寺によって管理運営され、大勧進住職と大本願住職がともに善光寺住職を兼務する。山号は定額(じょうがく)山。「信濃(しなの)の善光寺」の名で親しまれ、全国から宗派の別を超えて参詣(さんけい)者が集まる阿弥陀(あみだ)信仰の霊場。642年(皇極天皇1)の創建と伝えるが、草創に関してはいまだ定説をみない。文献上に善光寺が現れるのは平安時代後期からで、そのころは三井寺(みいでら)の末寺であったことが知られる。また近世になると寛永寺の末寺となっていた。

 本尊は、一つの舟型後光の中に、中尊阿弥陀如来(にょらい)と、六角形の宝冠を頂く両脇侍(きょうじ)像(観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至(せいし)菩薩)が安置された典型的な一光三尊仏で、善光寺如来ともいわれるが、秘仏となっておりその姿を拝することはできない。このため本尊の分身仏とされる鎌倉時代の模刻像、前立(まえだち)本尊(重文)が、数え年で7年に一度開帳される。後世、広く流布した『善光寺縁起』によれば、インドの月蓋(がつがい)長者が娘の病気治癒を阿弥陀如来に祈願してかなえられた御礼に、竜宮城から得た閻浮檀金(えんぶだごん)の金砂でつくったものという。552年(欽明天皇13)百済(くだら)の聖明王より朝廷に献上され、初め宮中に安置されていたが、悪疫流行の禍根とみなされ、また物部(もののべ)・蘇我(そが)氏の争いで難波(なにわ)の堀江に投ぜられたのを、推古(すいこ)天皇(在位592~628)の代に信濃国の若麻績(わかおうみ)東人(後の本田善光(よしみつ))が拾い上げ、持ち帰って草堂に安置したという。642年勅命によって水内(みずち)郡芋井里(いもいさと)に伽藍(がらん)を建立してこの像を祀(まっ)ったのが善光寺の起源と伝えられている。

 鎌倉時代には源頼朝(よりとも)が再興に力を尽くし、堂舎も整えられて隆盛となり、さらに善光寺式一光三尊仏の模刻が流行したことにより善光寺信仰も広まっていった。しかし戦国時代には本尊仏の移動は激しく、1558年(永禄1)武田信玄(しんげん)によって甲府の善光寺へ、82年(天正10)織田信長によって岐阜へ、ついで愛知の甚目(じもく)寺へ、徳川家康によって静岡へ、そして甲府へ、豊臣(とよとみ)秀吉によって京都方広寺へと移され、ようやく1598年(慶長3)に至って信濃の善光寺へ戻された。1601年には徳川家康から寺領1000石が寄進されている。頼朝が再建して以来十数回火災にあったといわれるが、現在の本堂(国宝)は松代(まつしろ)藩主真田(さなだ)家が幕府の命を受けて1707年(宝永4)に完成したもの。山門(三門)、経蔵(きょうぞう)は国の重要文化財に指定されている。

 境内は広く、大勧進と大本願の二大本山のほか、天台宗一山寺院25院、浄土宗一山寺院14坊が建ち並び、仁王門から山門に所属する山内の寺院37か寺が建ち並び、二王門から三門に至る約100メートルの仲見世通りには土産(みやげ)物店や仏具店が並ぶ。善光寺詣(もう)での特色に、瑠璃(るり)段下の暗闇(くらやみ)の廊下を手探りで一巡する「お戒壇めぐり」、大勧進・大本願両住職が本堂へ昇下堂する際に数珠(じゅず)で参詣者の頭をなでる「お数珠頂戴」などがある。

[大鹿実秋]

『坂井衡平著『善光寺史』(1969・東京美術社)』


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