光線の進路に不透明な障害物があると,その背後に光線のこない部分ができる。これを影という。光源が大きい場合,一部は光線がくるが一部は影になる部分があり,これを半影といい,まったく光線のこない部分を本影という。太陽の影は季節によって異なるから,垂直棒を立て,その影の位置,長さを観測することによって東西南北の方位や太陽高度,あるいは時刻を知ることができる。古代の天文観測器のノーモンがこれで,中国では圭表あるいは晷儀(きぎ)と呼んでいた。
執筆者:編集部
かげと日本人
〈かげ〉ということばは,日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線light,rayも〈かげ〉であり,それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分shadow,shadeもまた〈かげ〉である。そればかりか,外光のもとに知覚される人物や物体の形姿shape,figureも〈かげ〉であれば,水面や鏡にうつる映像reflectionも〈かげ〉であり,そのほか,なべて目には見えるが実体のない幻影image,phantomもまた〈かげ〉と呼ばれた。そして,これらから派生して,人間のおもかげvisage,looksや肖像portraitを〈かげ〉と呼び,そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり,一方,暗闇darknessや薄くらがりtwilightや陰翳nuanceまで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように,まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは,日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない。
なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが,古代日本人の宇宙観ないし世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的でかつ相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに,さしあたり,解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く,冒頭の〈天地開闢神話〉からして《淮南子(えなんじ)》俶真訓,天文訓などを借用してつくりあげられたものであり,最小限,古代律令知識人官僚の思考方式のなかには中国の陰陽五行説がかなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし,そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に,いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも,日があらわれれば日光(ひかげ)となり,日がかくれれば日影(ひかげ)となる,という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも,lightのほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦《言海》)とされ,shadeやdarknessを意味するヒカゲは〈祝詞に日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツヾ)めてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清《和訓栞(わくんのしおり)》)とされている。語源説明にはつねに多少ともこじつけの伴うのは避けがたいが,原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き,そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば,〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ,これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである。
〈かげ〉は,古代日本民衆にとって,太陽そのものであり,目に見える実在世界であり,豊かな生命力であった。しかも一方,〈かげ〉は,永遠の暗黒であり,目に見えない心霊世界であり,ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し,物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり,一方,存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり,さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然,ひとりの個人についても,鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方,隠蔽されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ,肉体から遊離してさまよう霊魂は,〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は《日本書紀》《万葉集》に幾つも見当たる。近世になってから《一夜船》《奥州波奈志》《曾呂利話》などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は,当時でも,離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが,奇病扱いしたのは,それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで,古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし,こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり,現在でさえ,〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている。
ついでに,〈影膳〉について補足すると,旅行,就役,従軍などにより不在となっている家人のために,留守の人たちが一家だんらんして食事するさい,その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい,日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では,不在家族も同じものを食べることにより連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており,それも誤っていないと思われるが,〈かげ〉のもともとの用法ということになれば,やはり霊魂,遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも,〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く,関東地方の民間説話〈影取の池〉などは,ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを,なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや,池の主にとられて死ぬので,とうとうその女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも,〈影法師〉となると,からっとして明るく,もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は,たとえば《市井雑談集》に,見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい,道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時,暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也,初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり,むしろ,ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい,日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった。
最後に,〈かげ〉を,かげり,くもり,くらがりとしてとらえ直し,そこにこそ日本伝統美が存在することを確かめようとした谷崎潤一郎の長編随筆《陰翳礼讃》(1933)のあることを忘れてはならないであろう。日本家屋(とくに厠),漆器,食物などが〈常に陰翳を基調とし,闇と云ふものと切れない関係にある〉と見る谷崎は,〈美と云ふものは常に生活の実際から発達するもので,暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は,いつしか陰翳のうちに美を発見し,やがては美の目的に添ふやうに陰翳を利用するに至った。〉〈思ふに西洋人の云ふ“東洋の神秘”とは……種明かしをすれば,畢竟(ひつきよう)それは陰翳の魔法であって,もし隅々に作られてゐる蔭を追ひ除けてしまったら,忽焉(こつえん)として〉云々と言う。だが,戦後いちじるしい〈近代化〉を推進した日本の社会文化にまでこの考え方は適用できるであろうか。
執筆者:斎藤 正二