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高野山 こうやさん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高野山(寺院)
こうやさん

高野山にある一群の寺院の総称。高野山真言宗の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)が所在する。[宮坂宥勝]

歴史

816年(弘仁7)6月19日、空海が高野山開創のための上奏文を嵯峨(さが)天皇に差し出し、7月8日に勅許があった。空海は実慧(じちえ)、泰範(たいはん)を派遣して実地踏査させ、自らは818年11月に登山した。このとき空海は大和(やまと)国(奈良県)宇智(うち)郡で、2匹の黒い犬を連れた身長8尺(約2.4メートル)もある狩人(かりゅうど)に会い、山上に導かれたという伝説が『今昔(こんじゃく)物語集』にある。狩人はのちの高野山の地主神狩場明神(かりばみょうじん)と伝えられる。819年5月から伽藍(がらん)の建立に着手した。創建当時は21間の僧坊、講堂、東西2基の仏塔などがあったと推定され、これを金剛峯寺といった。835年(承和2)2月定額寺(じょうがくじ)(官寺)となり、同年3月21日空海はこの地で没した。
 空海の開創の目的は、一つには国家のため、二つには修行者の道場を建立するためであった。そののち、伽藍の経営にあたったのは弟子の真然(しんぜん)で、883年(元慶7)彼は陽成(ようぜい)天皇に高野山は現世における浄土であると奉答した(高野山浄土の信仰)。921年(延喜21)10月、醍醐(だいご)天皇より弘法(こうぼう)大師の諡号(しごう)が下賜(かし)され、醍醐寺の観賢(かんげん)が勅書を携えて登山した。その後、東寺長者が金剛峯寺座主(ざす)を兼任する時代もあったが、定誉(じょうよ)(祈親上人(きしんしょうにん))が復興に努め、1023年(治安3)藤原道長が、1048年(永承3)には同頼通(よりみち)が登って復興を援助した。藤原氏の全盛期ころから大師入定(にゅうじょう)信仰が始まるが、これは、空海が肉身のままで永遠の宗教的瞑想(めいそう)に入り、つねに生けるものすべての救済を続けているという信仰である。高野山浄土の信仰が貴族の間に広まると、高野山参詣(さんけい)が盛んになった。1088年(寛治2)2月、1091年2月、1103年(康和5)11月の3回にわたって白河(しらかわ)上皇の御幸があり、さらに1124年(天治1)10月鳥羽(とば)上皇、1127年(大治2)11月白河・鳥羽両上皇の御幸があって、高野山は天下の霊場として知れわたるようになり、それと並行して貴紳による寺領荘園(しょうえん)の寄進、堂塔建立の援助が行われた。
 1132年(長承1)覚鑁(かくばん)(興教(こうぎょう)大師)は鳥羽上皇の支援を得て大伝法院(だいでんぽういん)を建て、空海の教学の再興を図った。しかし金剛峯寺側と相いれず、1140年(保延6)彼は学徒を率いて紀州(和歌山県)根来山(ねごろさん)に移り、その地の円明寺(えんみょうじ)(根来寺)で没した。のちに覚鑁の系統は新義真言宗として独立する。1159年(平治1)鳥羽上皇の皇妃美福門院(びふくもんいん)は紺紙金泥(こんしこんでい)の一切経(いっさいきょう)(荒川(あらかわ)経)を寄進した。1179年(治承3)ころには西行(さいぎょう)、滝口入道(斎藤時頼(ときより))らが山上に住み、源平合戦後には平家の落人(おちゅうど)が入山した。鎌倉初期には、教懐(きょうかい)、法然(ほうねん)(源空)の弟子明遍(みょうへん)、東大寺大仏殿を再建した重源(ちょうげん)らが山上に一庵(あん)を構えて念仏を広め、半僧半俗のいわゆる高野聖(こうやひじり)たちが現れ、大師信仰を広めるために全国を遊行勧進(ゆぎょうかんじん)するようになった。一時は高野聖が高野山を風靡(ふうび)するに至ったので、1413年(応永20)5月、高声念仏、金叩(かねたたき)、負頭陀(おいずた)、踊(おどり)念仏などが弾圧された。しかし、高野山が日本の一大霊場寺院とされ建墓、納骨が行われるようになったのは、中世を通じて高野聖が回国遊行し勧化(かんげ)したのによるものである。
 1223年(貞応2)源頼朝(よりとも)の夫人北条政子(まさこ)は、頼朝、実朝(さねとも)の冥福(めいふく)を祈って金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に多宝塔、経蔵などを寄進、開基は栄西(えいさい)の高弟行勇(ぎょうゆう)であった。1253年(建長5)快賢(かいけん)が空海の『三教指帰(さんごうしいき)』を開板した。この種の出版は江戸時代まで続き、一般に高野版といわれる。また元寇(げんこう)の役(えき)(1274、1281)のときには高野山南院(なんいん)の波切(なみきり)不動を筑紫(つくし)(福岡県)に勧請(かんじょう)して国難防遏(ぼうあつ)を祈ったといわれる。南北朝時代の1345年(興国6・貞和1)足利尊氏(たかうじ)とその弟直義(ただよし)は金剛三昧院に「南無釈迦(なむしゃか)仏全身舎利(しゃり)」120首の短冊を寄進した。これは光明院の御製、兼好・頓阿(とんあ)らの和歌四天王、尊氏・直義、天竜寺の夢窓(むそう)国師らの筆跡を集めたものである。1394年(応永1)から1406年ころ宥快(ゆうかい)が高野山の教学をつくりあげた(応永(おうえい)の大成)。
 戦国時代、織田信長は高野山の荘園を解放するため、三男信孝(のぶたか)に高野山を包囲させたが、陥落しなかった。さらに豊臣(とよとみ)秀吉も攻撃の準備をしたが、木食応其(もくじきおうご)の勧告によって軍をとどめ、高野山の復興に努めた。江戸時代には庶民信仰を集め、奥の院における納骨、建墓の風習も高野聖たちの布教、勧誘によってますます盛んになった。近世には、高野聖は高野山内で学侶(がくりょ)、行人(ぎょうにん)とともに高野山三派(高野三方(さんかた))を形成したが、明治維新により、1869年(明治2)三派を廃し、秀吉の命で建てられた青巌(せいがん)寺(1592)、興山寺(1590)を合併して新たに金剛峯寺と改めた。また開創以来1000年のあいだ女人禁制の山であったが、1872年これも解禁になった。1946年(昭和21)高野真言宗という一派を設立し、総本山を金剛峯寺とした。[宮坂宥勝]

建造物・寺宝

かつては7700余の僧房を数え、大坂街道をはじめ七つの登山路があり、それぞれ山内の入口には女人堂があった。現在は不動坂入口に女人堂があるのみであるが、現在も金剛峯寺をはじめ117の寺院、52の宿坊があり、日本で唯一の珍しい山内町(さんないちょう)を形づくっている。山内は根本(こんぽん)大塔などのある壇上または伽藍とよぶ地域を中心に、西院谷(さいいんだに)、南谷、五室院(ごむろいん)谷、千手院(せんじゅいん)谷、本中院(ほんちゅういん)谷、谷上(たにがみ)、小田原谷、蓮華(れんげ)谷、往生院谷、奥の院の区域に分かれる。壇上には金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影(みえい)堂、不動堂(国宝)、大会堂、孔雀(くじゃく)堂、山王(さんのう)院、三昧堂、二つの鐘楼などの諸堂が建ち並ぶ。奥の院は山内の東端にあって、空海の廟所(びょうしょ)があり、この入口の一の橋から約2キロメートルの参道の両側には、約25万の墓石が建っている。また、西端には一山の大門(だいもん)がある。小田原谷には金剛三昧院の多宝塔(国宝)、経蔵、位牌(いはい)堂など鎌倉初期に創建した堂塔が建つ。また南谷の天徳院には小堀遠州の築庭がある。
 寺宝は、阿弥陀聖衆来迎(あみだしょうじゅらいごう)図、五大力吼菩薩(りきくぼさつ)像(有志八幡(はちまん)講)、仏涅槃(ぶつねはん)図、八大童子像、善女竜王像、空海の『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(金剛峯寺)、勤操(ごんぞう)僧正像(普門院)、船中湧現観音像(竜光院)、山水人物図(遍照光院(へんじょうこういん))、阿弥陀三尊像(蓮華三昧院)のほか、仏像、仏画、法具、古写経、古文書などにわたって国宝、国の重要文化財、重要美術品などが非常に数多い。とくに明王院の赤(あか)不動、南院の波切不動、金剛峯寺の両界曼荼羅(まんだら)(いわゆる平清盛の血曼荼羅)、丹生(にふ)および狩場明神像などが知られる。また鎌倉時代に出版された多くの高野版もある。山内の文化財の多くは収蔵庫に収められており、一部は霊宝館に出陳している。なお、霊場「高野山」は、2004年(平成16)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。[宮坂宥勝]

高野山領

寺領の初見は876年(貞観18)伊都(いと)、那賀(なか)、名草(なぐさ)、牟婁(むろ)4郡に散在する水田38町である。高野山は10世紀中葉から荘園(しょうえん)制大土地所有を目ざしたが、国衙(こくが)権力の侵攻によって寺領形成は困難を極めた。そこで空海の遺告と称する御手印縁起(ごていんえんぎ)を掲げて領域支配の正当性を主張する一方、弘法(こうぼう)大師の聖蹟(せいせき)として高野山を登拝の対象と崇(あが)める中央権門貴族に接近した。藤原道長(みちなが)・頼通(よりみち)が登山し、1049年(永承4)ついに山麓(さんろく)、紀ノ川上流に官省符荘(かんしょうふしょう)が成立。院政が開始されるや、白河(しらかわ)上皇に近づいて名手(なて)荘を、鳥羽(とば)上皇には相賀(おうが)、志富田(しぶた)、石手(いわて)、弘田(ひろた)、山崎(やまざき)、山東(さんどう)、岡田(おかだ)の7か荘の寄進を受けた。またその妃美福門院(びふくもんいん)からも荒川荘を寄進され、後白河法皇からは備後(びんご)国大田(おおた)荘を施入された。この3上皇による荘園は三代御起請の地として高野山領の基幹となった。この間のその他の寺領は紀伊国内では六箇七郷、河北(かわきた)荘、浜中(はまなか)荘など、国外では安芸(あき)国能美(のみ)・可部(かべ)・沼荘などが判明するが、とりわけて紀ノ川流域を中心とする紀伊国内の膝下(しっか)荘園群は、その後に獲得されたものも含めて、高野山にとって重要な位置を占め続けた。鎌倉時代になると北条氏の外護(げご)のもとに安達(あだち)氏が金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を創建、北条氏によって河内(かわち)国讃良(さらら)荘、筑前(ちくぜん)国粥田(かゆた)荘、美作(みまさか)国大原(おおはら)荘が寄進された。蒙古(もうこ)襲来の際は祈祷(きとう)の恩賞として天野社に近木(こぎ)荘が与えられた。またこのころから高野山は独自の寺領拡張運動を展開し阿河荘(あてがわのしょう)獲得に成功している。
 建武(けんむ)新政が成立すると、後醍醐(ごだいご)天皇の元弘(げんこう)の勅裁を掲げて根来寺(ねごろじ)領志富田・相賀を占領、さらに小河(おがわ)、柴目(しばめ)、隅田(すだ)、鞆淵(ともぶち)、調月(ちかづき)荘などを得た。南北朝動乱以後は武家勢力によって遠隔地荘園は侵食されていったが、膝下荘園については官省符荘を皮切りに次々と大検注を行い、独自の分田(ぶんでん)支配を実施した。室町期に入ると惣(そう)結合した農民の年貢減免闘争が諸荘園から起こり、また高野山内部でも学侶(がくりょ)方に従属する行人(ぎょうにん)方勢力が台頭するなどの矛盾が生じたが、地主職の集積や惣結合に対するイデオロギー的分裂支配によって支配を補強し、戦国の動乱期を生き抜いた。織豊(しょくほう)政権との対立は高野山に壊滅の危機をもたらしたが、高野山の客僧木食応其(もくじきおうご)の奔走によって2万1000石の御朱印(ごしゅいん)寺領が認められ、近世に至った。[黒田弘子]
『北尾鐐之助編『高野山』(1953・高野山出版社) ▽大山公淳著、三栗参平撮影『高野山』(1963・社会思想社) ▽佐和隆研・田村隆照著『高野山』(1963・保育社) ▽藤本四八撮影、井上靖他著『高野山』(1973・三彩社) ▽松長有慶他著『高野山――その歴史と文化』(1984・法蔵館) ▽宮坂宥勝・佐藤任著『高野山史』(1984・心交社)』

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