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エジプト史 エジプトし history of Egypt

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

エジプト史
エジプトし
history of Egypt

ナイル川によってもたらされた流域地帯の農耕文化は世界最古の文明の一つを生み,以後幾多の王朝により,この文明は引き継がれていった。前4000年頃に始まるとされる先王朝時代に次いで,前3100年頃,上エジプトティニス出身のメネス(メナ)により古拙時代が幕を開け,その後古王国時代,第1中間期,中王国時代,第2中間期(ヒクソス時代)を経て,前1567年新王国時代を迎え,諸国の優位に立ち,次いで末期王朝時代に入った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

エジプト史
えじぷとし

エジプトは人類史の初期のころから現在まで、驚くほどの連続性をもつ地域・国家である。もちろん、外部からの侵入がなかったわけではない。しかし、エジプトに侵入したどの政治勢力も「エジプト化」した。それは、ナイルがその定期的な氾濫(はんらん)をもって住民の経済生活を律し、周辺の砂漠と相まってエジプトの地域的孤立を可能にしたからであった。豊かな農業資源にひかれて侵入したどの政治勢力も、ナイルの水に依存したエジプトの生活に順応せざるをえなかった。
 エジプト史は、文化史の観点から、キリスト教の伝播(でんぱ)と普及の前後で大きく分かれる。ヨーロッパ史でいう古代末期から中世初期において、地中海周辺地域はユダヤ教から派生したキリスト教の波に洗われた。その社会に与えた影響は、一神教革命とよばれるほど大きなものであった。エジプトもまた同様であった。古王国時代に確立し、その後綿々と引き継がれてきた古代エジプト文明の伝統は、ローマ帝国領時代におけるキリスト教の伝播とその土着化によって破壊された。
 7世紀、エジプトはユダヤ教、キリスト教の伝統を受け継ぐイスラムを奉じる政治勢力の支配下に置かれる。それから、ヨーロッパ勢力との本格的邂逅(かいこう)をみる近代まで、エジプトは、多少の栄枯盛衰を経たものの、一貫してイスラム世界の中心の一つでありつづけた。19世紀の前半、国家の近代化による独立国家建設を目ざしたが、挫折(ざせつ)し、ヨーロッパ列強、とりわけイギリスの影響下に置かれる。しかし、1952年の革命によって外国勢力を排除し、以後、エジプトはアラブ世界の中心ともなった。[加藤 博]

古代エジプトの住民と言語


 古代エジプト人は「ハム人を母体とし、これにセム人の要素が加わって生じたもの」とする見解が、長い間流布してきた。しかし、この考え方は1970年代以降、厳しく修正を求められている。新しい考え方によれば、古代エジプト人はアフリカ人(ネグロイド)を母体とし、これにハム人、セム人の要素が加わって生じた住民である。
 古代エジプト語は、アフリカ的要素を母体とし、これにハム語、セム語が混じって発達した。アフリカ的要素は、とくに図像の重視ということで、象形文字(ヒエログリフ)はセム語の楔形(くさびがた)文字のような非象形の記号(文字)に移ることはけっしてなく、あくまで図像の文字として3000年以上も使用された。
 古代エジプト語は、古王国時代の古語、中王国時代から新王国時代にかけての中期語、新王国時代から末期王朝時代にかけての末期語の三つに分かれる。神殿の文字、勅令など正書法を求められる場合は、ヒエログリフで書かれた。一方、古王国時代にすでに、神官はパピルスなどに書くために、ヒエログリフの簡略書体をつくりだした(神官文字=ヒエラティック)。紀元前7世紀には、図像性のない早書き文字(民衆文字=デモティック)が案出され、商用などに用いられた。コプト語は紀元後3世紀に末期エジプト語から生まれ、新しい文字体系で表現された。
 イスラム教徒に征服されて以降は、アラビア語が用いられ、現在はアラビア語のエジプト方言が使われている。[酒井傳六]

イスラム以前


 旧石器時代のエジプトの住民は、他の北アフリカ住民と同じように、幼稚な道具で遊牧生活をしていた。北アフリカもエジプトも緑に覆われていた。やがて、北アフリカ、そしてエジプトの乾燥化が始まって、住民は川の流域に集まるようになった。エジプトで新石器時代すなわち定住農耕の生活が始まるのは、下エジプトのファイユーム盆地で、紀元前5000年ごろのことである。この文化はファイユームAとよばれる。
 前4500年ごろ、上エジプトに金石併用、すなわち銅を用いるバダリ文化が生まれた。前4000年ごろ、同じ上エジプトに、もっと進んだ文化段階であるナカダが出現した。初歩的なエジプト文字がこのころ生まれた。ついで前3500年ごろ、ナカダに発展した。ナイルを軸として集落が連合し、上エジプトと下エジプトに国家が生まれたのはこのころである。国家の誕生を促したものは、ナイル川の定期的氾濫(はんらん)に共同で対処するという必要性からが第一であるが、同時に、文字の発明による伝達と統治の効果という条件もまた大きく作用していた。下エジプトはファイユームから北にかけてであり、上エジプトはファイユームからアスワンに至る地域である。[酒井傳六]
初期王朝時代
前3400年ごろから、二つの国を統一する試みが二度行われた。二度とも上エジプト側から試みられたが、成果はなかった。
 前3000年ごろ、上エジプトの王ナルメル(メネス)によって統一が達成された。ここに第1王朝が始まり、歴史時代のエジプトが始まった。第1王朝の都はティスにあった。ナルメルのあと第1王朝に即位した王は、ホル・アハ、ジェル、ジェト(ワディ)、デン(ウディム)、アネジブ、セメルケト、カアである。第1王朝において、王権の神格化はすでに始まり、王冠の形状も王権のシンボル(ハヤブサとヘビ)も確定した。王権と結び付くホルス神の信仰もすでに生まれている。また大形の王墓を築く設計も技術ももっていた。
 第2王朝の初期の王は、都をメンフィス付近に移し、王墓をメンフィスに造営した。初期の王の名はホテプセケムウィ、ラネブ、ニネチェルであった。次の王ペリブセンは、都をふたたび上エジプトのアビドスに移した。王名碑板は在来のものとは違い、ホルス神の敵であるセト神の図を描いている。宗教上の変革が生じたのである。第2王朝は次の王、カセケムイで終わった。前2700年ごろのことである。第1王朝と第2王朝は、主たる首都の名をとってティニス時代、あるいは古拙時代、また初期王朝時代とよばれる。[酒井傳六]
古王国時代
前2700年ごろに始まる第3王朝はメンフィスに都を置いた。この王朝の王として、サナクト、ジョセル、セケムケト、カバ、フニの名が知られている。ジョセル王の時代に国力は飛躍的に増大し、石造の最初のピラミッドが築かれた。サッカラにある階段ピラミッドがそれである。その規模は東西121メートル、南北109メートル、高さ60メートルである。そのピラミッドの下の岩盤の下に、数多くの通廊と室がつくられた。このあとの王は、このピラミッドに倣って、王墓をピラミッドとして築くこととなった。死後の王の永生と威厳のためである。ジョセル王の治世の実際の指揮者は宰相イムホテプであり、彼はヘリオポリスの太陽信仰(ラー信仰)の上級祭司の出身であった。こうして、ピラミッドと太陽と王権という結び付きが、ジョセル王の時代に生まれたのである。
 前2600年ごろ、第4王朝が、同じくメンフィスに都を置くスネフル王によって始まった。この王の時代にエジプトは、本来のエジプトの国境を越えた地域に進出した。すなわち、南のヌビア、東のアジア、西のリビアに向かってである。武力行動の場合が多かったものの、平和行動(通商活動)の場合もあった。ビブロス(レバノンの地中海岸にあった港市)との通商はとくに重要であり、木材の乏しいエジプトはビブロスから木材資源を輸入しなければならなかったからである。スネフル王はメイドムのピラミッド、屈折ピラミッド、ダハシュールの低勾配(こうばい)ピラミッドの三つを築いた。その子クフ王はギゼーに大ピラミッドを築いた。エジプトのすべてのピラミッドのなかで最大であるこのピラミッドは、その大きさによってだけではなく、端正な外観上の美しさ、内部構造の複雑さによって、ぬきんでた存在となっている。このピラミッドは、国力、技術、学問の高さの証明である。彼のあと、ジェドフラ、カフラ、メンカウラ、シェプセスカフが相次いで即位し、それぞれのピラミッドを築いた。第4王朝で、ラー信仰は王家の信仰として、したがって国家の信仰として、確立された地位を得た。ミイラを人工的に製作する技術も生まれた。
 第5王朝は前2450年ごろにウセルカフ王で始まった。彼のあと即位した王は、サフラ、ネフェルイルカラ・カカイ、シェプセスカラ・イン、ネフェルエフラ、ネウセルラ、メンカウホル・アカウホル、ジェドカラ・イセシ、ウナスである。ウナス王のピラミッドは、エジプト宗教史のなかで特別な位置を占めている。それは、死後の王の安泰と永生を願うための祈祷(きとう)文書であるピラミッド・テキストが、初めてこのピラミッド内部に刻まれたからである。
 第6王朝では5人の王が知られている。テティ、ウセルカラ、メリラ(ペピ1世)、メルエンラ、ネフェルカラ(ペピ2世)である。ペピ2世の時代には王権が著しく衰弱した。地方の豪族あるいは高官が権力を伸ばし、中央権力は統治力を失った。こうして、第6王朝はペピ2世をもって前2263年ごろに終わった。第3王朝から第6王朝に至る時代はピラミッド時代または古王国時代とよばれる。[酒井傳六]
第一中間期
古王国時代のあとは第一中間期とよばれる混乱期であった。これは第7王朝から第10王朝まで続いた。王朝という名称が便宜上使われているものの、それらの王朝は全土を統治する力をもたない地域的存在にすぎなかった。[酒井傳六]
中王国時代
前2160年ごろ、上エジプトのテーベを本拠とするアンテフ1世がこの混乱を収め、国家再統一の道を開いた。ここに第11王朝が始まる。第11王朝はアンテフという名の王を3人、メントゥホテプという名の王を3人数えることとなるが、完全な国家再統一を実現したのはメントゥホテプ2世である。この王は、上部をピラミッド形とする大形の葬祭殿をデル・エル・バハリに建造した。このピラミッド形の建築様式が示すように、第11王朝の王はいずれも古王国時代の栄光を再現したいという情熱をもっていた。メントゥホテプ3世は、ヌビアの一部をエジプトの支配下に収めた。
 前2000年ごろにアメネムハト(アメンエムハト)1世で始まる第12王朝は、都を下エジプトのイタウイ(現ダハシュール)に移した。この王朝に即位した王は、アメネムハトという名の3人の王、センウスレトという名の3人の王である。アメネムハトという王名が示すように、テーベの地域神であるアメン(アモン)神は、この王朝において王家の神となった。アメネムハト1世は、アジアからの不法侵入者を阻止するため、スエズ地峡に「王子の城」と称する砦(とりで)を築いた。王は晩年に長子センウスレト1世と共同統治をした。エジプト史に現れた共同統治の最初の例である。センウスレト1世は治水事業にとくに力を注いだ。ナイル川の支流を開発して紅海に結び付ける運河(スエズ運河の祖形)をつくったのはこの王である。アメネムハト3世は農業の振興に努力し、下エジプトにダムを築いた。南のヌビア支配についてはセンウスレト1世がとくに活動した。彼の軍はナイル川の第三急流までさかのぼった。ヌビアはこの時代にエジプトの植民地となり、金の産出地としてエジプトの富に寄与した。
 第12王朝はエジプトを行政面と軍事面で整備したが、この王朝はまた文化の面でも栄えた。彫像、絵画のほか文学が開花した。『シヌヘの物語』はその代表である。これはいわば長編歴史小説であり、アメネムハト1世の暗殺、遠征中のセンウスレト1世の帰京即位、センウスレト1世の側近シヌヘの逃亡と帰国というような物語が、シヌヘ自身によって語られている。
 繁栄の第12王朝は前1785年ごろに終わり、第13王朝がこれを継いだ。ウカフ、ソベリホテプ、アメネムハト、セケムレス、ケンジェルという王名が知られているものの、統治力は著しく衰弱していた。第11王朝からこの第13王朝までの時代は中王国時代とよばれる。この時代は前1750年ごろに終わる。[酒井傳六]
第二中間期
中王国時代のあとに国家統一はふたたび破れ、第二中間期とよばれる混乱期に入る。第一中間期が国内的要因で始まったのと違い、第二中間期は国際的な要因で生まれた。アジアからの侵入者ヒクソスという要因である。第二中間期の初期に、エジプト人を王とする第14王朝が名目的に存在した。一方、デルタ地帯に侵入して勢力を伸ばしていたヒクソスは、前1730年ごろアバリス(現、タニス)に都を置く王朝を開いた。これが第15王朝で、このあとの第16王朝もヒクソスの王朝である。ヒクソスというのは「異国の君侯」という意味で、エジプト人の用いた名称である。ヒクソス自身が自らをどうよんでいたかは不明である。ヒクソスは馬と戦車を駆使する尚武の民であり、エジプト人はそれまで馬も戦車も知らなかったので、抵抗できなかった。
 しかし、ヒクソスの支配は全国直接統治ではなかった。下エジプトは直接統治であったものの、上エジプトについては、地方豪族の統治を認める間接統治であった。このような状況のなかで、テーベに本拠を置く領主が勢力を伸ばし、前1680年ごろ第17王朝を開いた。これは当初はヒクソス王朝と併存する王朝であったが、5代目のセクエンエンラ王はヒクソス駆逐の戦いに乗り出した。古代エジプトのナショナリズムの最初の燃え上がりであった。彼は志なかばにして倒れた(著しく負傷したこの王のミイラがテーベで発見されている)。その子カメス王の戦いはヒクソスをかなり制圧し、デルタ地帯の一角に閉じ込めることに成功した。[酒井傳六]
新王国時代
ヒクソスを完全に駆逐するのは次の王アフメス1世で、前1580年ごろのことである。彼によって第18王朝が始まった。第18王朝は、ヒクソス支配のあとに生まれた王朝であるため、エジプトはまったく新しい性格の国家となった。第一に、エジプトは在来の守勢平和の国家ではなく、攻撃的な軍事国家となった。戦争の手段として、ヒクソスの持ち込んだ馬と戦車がもっとも重視された。次にアメン神の勢力膨張である。テーベの地域神であるアメン神は、ヒクソス駆逐を実現してくれた神として、最高の国家神となり、ときには古くからの太陽神ラーを吸収して、アメン・ラーともよばれた。この国家神のために築かれる神殿は豪壮なものとなった。歴代の王が増築するカルナック神殿、ルクソール神殿、デル・エル・バハリのハトシェプスト女王の葬祭殿は、その代表的なものである。王家と国家の増大する勢力は、他方で芸術的活動をこれまでにないほど躍動的なものとした。戦争の場面は、芸術家のモチーフの第一のものとなった。当然に、馬と戦車が華麗に描かれた。
 この王朝では14人の王を数えるが、6代目の王トゥトメス3世はエジプトの支配地をもっとも広くした。彼は、南はヌビアをナイル川第四急流まで完全にエジプト支配下に収め、東は大国ミタンニの南下を阻止して、エジプトの支配をユーフラテス川河畔の一帯にまで及ぼした。
 軍事国家の第18王朝で独自の光を放つのは、第10代のイクナートン王の宗教改革である。際限なく威力を増大するアメン神の膨張に、この宗教改革は一時的な抑止力となったが、この時代は17年間で終わった。そしてその宗教は後代の王によって「邪教」の烙印(らくいん)を押される。しかし、この時代に芸術的に確立された写実主義(アマルナ様式)は、芸術史において特別の立場をもつものであり、そのあとの芸術家の採用する方法となった(アマルナ時代)。
 第18王朝のあと、都をデルタ地帯に置く第19王朝が生まれた。軍人出身のラムセス1世を始祖とするこの王朝は、対外軍事政策を前王朝と同じように推進した。この王朝の9人の王のうち、3代目のラムセス2世は征服王として、また建築王として有名である。アジアの大国ハッティ(ヒッタイト)との、前王セティ1世の時代から引き続く16年間の戦いとカデシュの戦いで、ラムセス2世の勢力は最高潮に達した。そのあとに結ばれた平和条約は、人類が結んだ成文化された平和条約としては最古のものとされる。建築はエジプト国内、ヌビア、アジアの各地にわたっているが、アブ・シンベルの大岩窟(がんくつ)神殿は代表的存在である。
 第20王朝は前1200年ごろサトナクトによって開かれた。この王は短命であったが、その子ラムセス3世は衰え始めた国力の回復に努力した。しかし王家の統治力の衰弱、東のハッティの南下という内外の条件によって、末期は王都の治安維持すら十分でなかった。王家の谷が荒らされるのはこの時代からである。10人の王を数えて、第20王朝は前1080年ごろに終わった。第18王朝から第20王朝に至る時代は新王国時代とよばれる。新王国時代の終わりとともに、ファラオ(古代エジプトの王の呼称)時代のエジプトの真の隆盛期は終わって、それからあとは短命な王朝が続いた。[酒井傳六]
後期王朝時代
タニスに都する第21王朝はスメンデス王をもって始まり、7人の王を数えて終わる。前960年ごろ、この王朝のあとに、リビア人を王とする第22王朝が生まれた。ヒクソス以来、二度目の外国人王朝である。シェションク1世で始まったこの王朝は、シェションク5世で終わった。前817年ごろ同じリビア人の王朝第23王朝がこれを継いだ。サイスに拠(よ)るエジプト人指導者が立ち上がり、前780年ごろこれを倒して第24王朝を建てた。第21王朝から第24王朝に至る時代は末期王朝時代または第三中間期とよばれる。第三中間期のあと、今度はヌビア人ピアンキが王となって第25王朝を開いた。前663年、ふたたびサイスのエジプト人がそれを倒して第26王朝を始めた。これも60年ほどで終わり、前525年、今度はアケメネス朝ペルシアのカンビセス2世がエジプトを占領し、エジプトはペルシア領となった。これが第27王朝である。エジプト人のナショナリズムがまたまた燃えて、アミルトスによってペルシア支配が排除され、第28王朝が前404年に建てられ、続いてエジプト人の王朝である第29王朝と第30王朝が国を統治した。この3王朝は、ファラオ時代のエジプト人王朝として最後のものとなった。その統治期間はわずか63年間であった。[酒井傳六]
プトレマイオス朝時代
前341年、ペルシアのアルタクセルクセス3世がふたたびエジプトを征服したが、前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王によって駆逐された。大王の死後、部将の一人プトレマイオス(1世)はエジプトの統治者となり、都を新しい都市アレクサンドリアに置き、プトレマイオス朝を開いた。この王朝はエジプト固有の文化を尊重し、歴代の王はエジプト風に神殿を建て、エジプト風に聖刻文字(ヒエログリフ)を神殿に刻ませるのを歓(よろこ)びとした。プトレマイオス2世と3世に奉仕したエジプト人祭司マネトーは、王のために『エジプト史』を書いたが、その断片が後代に伝えられ、今日のエジプト学者は、王朝編成をマネトーに倣っている。王家の公用語はギリシア語であったので、王の布告はヒエログリフ、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字の3種の文字で記すのが普通であった。プトレマイオス5世時代のこの種の布告が、ヒエログリフ解読の鍵(かぎ)となった「ロゼッタ石」という石碑である。[酒井傳六]
ローマ帝国領時代
プトレマイオス朝は王位争いのためにローマの介入を求めることが多かったので、ローマはいつの日にかエジプトを併合しようと考えるようになった。前30年、エジプト女王クレオパトラ7世はローマとの戦いに敗れて自殺し、このときからエジプトはローマ領となった。エジプトを征服したオクタビアヌスは前27年に皇帝アウグストゥスとなり、ローマは帝国となった。エジプトはその産物、とくに穀物のゆえに、ローマ帝国のかけがえのない属州となった。ローマは、アレクサンドリアからの穀物輸送のため、特別艦隊を編成するのであった。
 紀元後395年、テオドシウス帝の時代に、ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に分裂し、これに伴ってエジプトはビザンティン帝国領に編入された。ビザンティン帝国はキリスト教国家であったので、エジプトは当然にその枠組みに入った。伝統的な宗教、建築、文字は廃れていったが、それを決定的にしたのはユスティニアヌス大帝(在位527~565)による神殿閉鎖を命ずる勅令であり、このときをもって決定的にファラオ時代の文化伝統は消えることとなった。
 キリスト教は、ビザンティン帝国領となるよりずっと以前にエジプトに入っていた。これらのキリスト教徒(コプト)の言語は、古代エジプト語を継承していたが、ただ発音上不都合があるため、ギリシア文字の音を加えて独自のコプト文字体系をつくった。
 ビザンティン帝国時代のエジプトは、物質的にローマ帝国時代よりも激しく搾取された。一方、宗教的には国家の公認教義と異なる教義をとったので、ビザンティン当局から迫害を受けた。だからエジプトを征服したアラブの軍団は、エジプト人にとっては解放者であった。[酒井傳六]

イスラム以後


 641年、アムル・ブン・アルアースの率いるアラブ軍の征服によって、イスラム時代のエジプト史は開始される。征服後、軍営都市(ミスル)フスタートが建設され、エジプト統治の拠点となった。アラビア語によるエジプトの名称は、軍営都市を意味するミスルである。征服当初のアラブ人は、フスタート、アレクサンドリア、アスワンなどの主要都市に居住し、その活動も貢租の徴収と守備隊の維持に限定されていた。[加藤 博]
ウマイヤ朝、アッバース朝
エジプトのアラブ化、イスラム化が進行するのは、続くダマスカスとバグダードのカリフ権力の支配に服したウマイヤ朝・アッバース朝時代(661~868)においてであった。この時期、原住民コプト系キリスト教徒のイスラム教への改宗、アラブ人の農村部への定住、土着化が、徐々に進行し、統治機構も整備され、8世紀以降にはアラビア語が政府官庁の公用語となった。ただし、このエジプトのアラブ化、イスラム化は平坦(へいたん)な道ではなく、たびたびコプト系キリスト教徒による反乱が起きた。さらに、アッバース朝統治機構全体におけるアラブ人の指導的立場の低下、非アラブ系官吏、軍人、とりわけトルコ系軍人の台頭に呼応して、エジプト統治もこうした非アラブ系官吏、軍人に委託されるようになっていった。[加藤 博]
独立王朝時代
こうした状況下にあって、868年、エジプトに派遣されたトルコ系軍人アフマド・ブン・トゥルーンは、半独立王朝トゥルーン朝(868~905)を樹立した。アフマド・ブン・トゥルーンは877年にシリアを占領し、それを彼の王朝に統合したが、ここに領域国家エジプトの原型が形づくられた。
 短期間のアッバース朝への再統合時代(905~935)、イフシード朝時代(935~969)を経て、969年以降エジプトを支配したのは、チュニジアで旗揚げしシーア・イスマーイール派を奉じたファーティマ朝(909~1171)である。この年、エジプトを攻略したファーティマ朝第4代カリフ、ムイッズの将軍ジャウハルは、フスタートの北東約3キロメートルの地点に新都を建設し、カーヒラ(勝利者)と名づけた。以後現在に至るまで、このカーヒラを旧市街とする都会カイロが、エジプトの首都となっている。この王朝は、スンニー派アッバース朝カリフに対抗して自らのカリフ権の正当性を主張するために、アズハル・モスク建設に代表される活発な宗教・文化活動を展開したが、その背景には、西アフリカ産の金の豊富な流通や、貿易ルート変更による仲継貿易地としてのエジプトの台頭などに裏づけられた経済の繁栄があった。また、この王朝は、その当初にあっては、民事行政部門と軍事部門とを分立させたが、政体の弱体化とともに、軍人勢力の拡張がみられた。ときあたかも十字軍が開始された時代であり、ファーティマ朝はシリアの領有権を徐々に喪失していった。
 こうした状況のなか、1169年にファーティマ朝の宰相となったクルド人サラーフ・アッディーン(サラディン)は、権力を奪い、アイユーブ朝(1169~1250)を樹立した。彼は、対十字軍のための軍隊を再組織し、シリアの領有権を復活させるとともに、対内的には、シーア派にかわるスンニー派の支配体制を敷いた。とりわけ、軍事奉仕の代償として、軍人に対して、それまでの国庫からの俸給支払いのかわりに、封土(イクター)を分与するというイクター制を導入した。このイクター制の導入は、軍人層が都市のみならず農村をも支配する制度的基盤となった。アイユーブ朝の軍隊の主力は、クルド人と、トルコ人、チェルケス人など、いわゆる白人奴隷兵(マムルーク)から構成されていたが、ときとともに、マムルーク勢力の台頭がみられた。
 こうした情勢下の1250年、マムルーク勢力はクーデターによって新王朝を樹立した。この王朝は、バフリー・マムルーク朝(1250~1390)とブルジー・マムルーク朝(1382~1517)とに分けられるが、その名称の由来は、マムルーク軍団の兵舎が、ナイル川(バフル)のローダ島とカイロの城塞(じょうさい)(ブルジュ)にあったことによる。スルタンを頂点としたトルコ系マムルークによる軍人支配体制であるバフリー・マムルーク朝は、十字軍、モンゴル人の侵入を撃退し、繁栄の一時代を築いた。とりわけ14世紀前半のナーシルの時代は、この王朝の最盛期であり、銀の豊富な流通に裏づけられた商業活動の発展とともに、検地の実施によるイクター制の整備が進んだ。しかし、彼の治世以降、ペストの流行、飢饉(ききん)、貨幣の悪鋳などが原因で経済は混乱し、同時に、実権を握るマムルーク有力者たちは、家系ごとに派閥をつくり、政争に明け暮れするようになっていった。こうした政局下に、チェルケス人マムルークのバルクークが政権を握り、ブルジー・マムルーク朝を樹立した。この王朝のスルタンは、家系によらず、有力なマムルークたちの間での互選によって選ばれるのを慣例としたため、マムルーク軍閥間の勢力争いは一段と激しくなった。また、バフリー朝末期にみられた経済混乱は収まらず、1498年のバスコ・ダ・ガマによるインド航路発見に始まる仲継貿易地エジプトの相対的地盤沈下と相まって、経済はますます衰退していった。[加藤 博]
オスマン朝支配下のエジプト
1517年、エジプトはオスマン帝国のセリム1世によって征服され、以後、一属州として、イスタンブールから派遣される総督(ワーリー)によって統治されるようになる。こうして、政治、経済、文化の中心がイスタンブールに移ったため、エジプト社会は停滞期を迎えることとなった。当初、国家官吏による中央集権的徴税体制がとられたが、17世紀後半以降、徴税請負(イルティザーム)制度が普及し、旧支配勢力マムルーク層からなる徴税請負人層が農村の実質的支配者として台頭してきた。そのため、エジプト総督の権限は名目化していき、彼の任務は、一定額の貢租をイスタンブールに輸送するだけとなっていった。マムルークたちは家系ごとに派閥をつくり、対立抗争を繰り返す一方、ときとともにエジプト社会に土着化していった。こうして18世紀後半には、オスマン帝国からの実質的独立を公言する有力なマムルークまで現れるようになった。彼ら有力なマムルークたちを支えたのは、農村からの収入のほか、ヨーロッパ経済の発展とともに、当時活発になりだしたレバント貿易からの収益であった。[加藤 博]
ムハンマド・アリー朝
1798年のナポレオン1世によるエジプト遠征は、エジプト史における新たな幕開きとなった。フランスのエジプト統治はわずか3年で終わったが、近代国家建設の試みは、イスタンブールからアルバニア人不正規軍将校として派遣され、1805年にナポレオン退却後の政局混乱に乗じて権力を握ったムハンマド・アリー(在位1805~1848)に引き継がれた。彼はマムルーク勢力を一掃し、それまでの徴税請負制度を廃止し、検地の実施による一元的農民支配の強化を行う一方、農作物の作付け指定と専売制度、近代工場の設立、徴兵制の実施による近代的軍隊の創設、ヨーロッパの技術修得のための各種学校の設立など、一連の富国強兵、殖産興業政策を実施した。また対外的には、ワッハーブ派掃討のためのアラビア半島への出兵、スーダン征服、ギリシア独立戦争におけるオスマン帝国支援、第一次および第二次シリア戦争などを通して、領土拡張政策をとった。こうした領土拡張政策は、当時オリエント地域に勢力を拡張しつつあったヨーロッパ列強の利害と衝突し、列強の介入による1840年のロンドン四国条約締結によって、スーダンを除く征服地の放棄、およびエジプト国内市場の開放を余儀なくされた。しかし同時に、その代償として、ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督世襲を認められ、ここに、1953年のエジプト共和国成立まで続くムハンマド・アリー朝(1805~1953)が、国際的に承認された。[加藤 博]
イギリス植民地エジプトと独立
ムハンマド・アリーの死後、サイード、イスマーイール統治下において、自由主義的経済体制のもと、スエズ運河開設に象徴される一連の近代化政策が実施された。その間、エジプト財政の外資依存と綿作モノカルチュア(単一耕作)農業構造の進展に伴って、エジプト経済の対ヨーロッパ従属過程が進行した。1876年エジプト財政は破産し、国際管理下に置かれることになったが、こうしたヨーロッパ列強のエジプト内政への干渉が高まるなか、近代エジプト最初の民族主義運動であるアラービーの反乱(1879~1882)が発生した。この運動はイギリス軍によって武力鎮圧され、以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれた。第一次世界大戦後の1919年、サード・ザグルールを指導者とする反英民族独立運動が発生し、この運動の高まりのなかで、1922年イギリスはエジプトの独立を承認せざるをえなかった。しかし、これによって従来のイギリス権益が放棄されたわけではなく、独立は名目的なものであった。その後のエジプト政治は、イギリスからの完全独立の達成という課題をめぐって展開されたが、それは、イギリス、トルコ系大地主貴族階層を支持基盤とする国王・宮廷勢力、ワフド党を中心とした中小地主階層と民族産業資本家階層からなる立憲議会主義勢力、さらには、1930年代以降におけるムスリム(イスラム教徒)同胞団に代表される大衆勢力の利害が、複雑に絡み合う過程であった。[加藤 博]

第二次世界大戦後のエジプト


ナセルからサダトへ
1952年7月23日、ナセルを指導者とする自由将校団は、軍事クーデター(エジプト革命)によってファルークを退位させ、翌年エジプト共和国を宣言した。当初、革命政権は、第一次農地改革、工業化政策などを通して、旧体制の払拭(ふっしょく)に努め、国民統合と自立した国民経済の確立を目ざしたが、1956年のスエズ運河国有化に端を発したスエズ戦争(第二次中東戦争)を境にして、計画経済のもとでの公共部門の拡大を図り、1958年にはシリアと統合しアラブ連合共和国を成立させた。このシリアとの統合は1961年に解消されるが、これを契機に、第二次農地改革、大私企業の国有化措置、社会福祉制度の拡充など一連の社会主義的政策が実施されていった。その間、ナセルは、東西冷戦構造のはざまにあって、自らが推進するアラブ民族主義運動の高揚を背景に、非同盟中立を標榜(ひょうぼう)し、国際政治の舞台で華々しい活動を展開したが、1967年の第三次中東戦争はこうしたナセル政治を挫折(ざせつ)させた。1970年、ヨルダン内戦によるアラブ世界分裂の危機が高まるなかで、ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との和解工作の最中に、ナセルは急死した。
 ナセルの後を継いだサダトは徐々に脱ナセル化を図り、1973年の第四次中東戦争を契機に、経済統制を大幅に緩和し、外資の積極的導入を目的とした「開放」政策を実施した。そのため、建設部門を中心に経済は活気を呈し、国内には物資が豊富に出回った反面、国際収支は悪化し、物価騰貴のなかで、民衆のなかには所得分配の不平等感が広まり、1977年1月には、生活必需品の値上げに端を発した暴動までが発生した。またサダトは、それまでの親ソ路線から親米路線に転換し、1977年11月イスラエルを訪問、翌年のキャンプ・デービッド合意に基づいて、1979年イスラエルとの単独平和条約に調印した。このサダトの外交政策は、中東和平への新たな展開を示したものの、アラブ世界の分裂とエジプトの孤立化を招いた。こうして、サダトの国内政策、外交政策が、ともに行き詰まりをみせるなかで、1981年10月、サダトはイスラム原理主義者によって暗殺され、ムバラクが後任として選出された。[加藤 博]
ムバラク時代
サダトの後を継いだムバラクは、サダト路線を踏襲した。しかし、サダト時代に勢力を増したイスラム勢力を抑えながら、イスラム勢力台頭の温床である、開放経済に伴う国民の不満にどう対処するかに苦心した。そのため、公共部門の民営化にブレーキをかけ、開放経済の行きすぎを抑えた。しかし、国際通貨基金(IMF)などの国際金融機関や先進諸国は、融資・経済援助の条件として、補助金の撤廃など、よりいっそうの経済の自由化を迫った。こうしてインフレは収まったものの、対外債務は増大し、社会の不満を背景にしたイスラム勢力の活動も活発となった。対外的には、ムバラク時代になってエジプトのアラブ世界における孤立化は解消し、アメリカとアラブ諸国の調停役を担うようになった。
 1991年の湾岸戦争はエジプト現代史における一つの分岐点となった。エジプトはアメリカを中心とした多国籍軍に参加し、戦後、その見返りに、それまでの対外債務の帳消しを獲得した。さらに、アメリカ主導の中東安保体制の戦略的要(かなめ)として、国際金融機関、先進諸国からそれまで以上の融資と援助をとりつけた。こうしてエジプト政府は、過激さを増し、テロ行為を繰り返すようになったイスラム原理主義勢力への弾圧を強化した。イスラム原理主義勢力と警察はたびたび銃火を交えた。その一方で、経済の自由化と市場化が精力的に押し進められ、公共部門の民営化が優先政策課題として掲げられた。それとともに、労働法や地主・小作関係法の改正などを通して、法の規制緩和も進められた。この二つの法律は、ナセル時代に労働者と小作人の権利を守るために制定されたが、この改正によって雇用者と地主の権利が強化された。これは、ナセル時代の社会福祉政策が放棄されたことを意味する。
 2001年現在、ムバラク体制は20年以上の長期政権となり、エジプト革命後における3人の大統領の統治のなかで、もっとも長い政権となっている。ムバラク政権は、対内的にはイスラム原理主義をいちおう押さえ込んだ形になっており、対外的にはアメリカ主導の中東和平政策におけるアラブ世界での調停役を買って出ている。この点、政権は安定しているかにみえるが、経済の自由化、市場化による国民間の所得格差と不満は拡大する一方である。しかし、実質的にはムバラクの独裁体制下にあるエジプトは国民の不満を民主的な手続で吸い上げる手段をもたず、そのためイスラム勢力は草の根レベルでの活動を活発化している。21世紀における国政の民主化が望まれる。[加藤 博]
『L・コットレル著、酒井傳六訳『古代エジプト人』(1967・法政大学出版局) ▽川村喜一・酒井傳六他著『世界歴史の旅1 ナイルと古代エジプト』(1968・小学館) ▽鈴木八司著『沈黙の世界史2 王と神とナイル』(1970・新潮社) ▽J・ヴェルクテール著、大島清次訳『古代エジプト』(白水社・文庫クセジュ) ▽S・ソヌロン著、鈴木まどか訳『エジプト学』(白水社・文庫クセジュ) ▽T・G・H・ジェイムズ著、酒井傳六訳『エジプト考古学』(1974・学生社) ▽桜井清彦著『エジプトを掘る』(1977・実業之日本社) ▽P・トンプキンズ著、吉村作治訳『失なわれた王墓』(1981・日本ブリタニカ) ▽酒井傳六著『古代エジプトの謎』(社会思想社・現代教養文庫) ▽前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社) ▽森本公誠著『初期イスラム時代――エジプト税制史の研究』(1975・岩波書店) ▽護雅夫・牟田口義郎著『世界の歴史22 アラブの覚醒』(1978・講談社) ▽板垣雄三編『アラブの解放』(1974・平凡社) ▽吉村作治著『エジプト史を掘る』(1992・小学館) ▽ビル・マンリー著、鈴木まどか監、古田実訳『古代エジプト』(1998・河出書房新社) ▽吉成薫著『エジプト王国三千年』(2000・講談社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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