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フランス映画 フランスえいが

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フランス映画
フランスえいが

リュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明や G.メリエスによるトリック撮影の工夫など,フランスは映画史の初期に重要な役割を果したが,創造性においては遅れをとっていた。飛躍をとげたのは第1次世界大戦後で 1920年代にはイメージの表現力とリズムが重視され前衛映画も多く発表された。

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世界大百科事典 第2版の解説

フランスえいが【フランス映画】

リュミエール兄弟が1895年12月28日に,パリの〈グランカフェ〉で彼らが発明した〈シネマトグラフ〉(撮影機兼映写機)の成果を世界で初めてスクリーンに映写して有料上映会,すなわち興行を行ったときから,真のフランス映画史が始まる。写真家出身のルイ・リュミエール(弟)は実写フィルム(《赤ん坊の食事》《工場の出口》《列車の到着》等々いずれも1895年の製作)を撮ったが,これに対して,〈シネマトグラフ〉の発明に魅せられた奇術師ジョルジュ・メリエスは,数々の夢幻的なトリック映画(《呪われた洞窟》1897,《水上を歩くキリスト》1899,《魔法の本》1900,《月世界旅行》1902,等々)をつくった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フランス映画
ふらんすえいが

フランスは19世紀末に、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって世界で最初に映画を発明し、その後もアメリカと並んで映画の発展にもっとも貢献した国である。娯楽性を追求するアメリカ映画に対して、サイレント期・トーキー期を通じて一貫して映画の芸術性を探求してきたフランス映画は世界的にも高く評価されている。産業面では、伝統的に多数の小プロダクションが分立し、それぞれ小規模ながらも独自な製作活動を展開している。また、第二次世界大戦後は国立映画庁(CNC)の設置や映画助成金制度の制定など、国家による保護育成策が推進されてきた。2000年代後半以降の映画製作本数は年間200~270本(外国との合作を含む)、複合映画館(シネマ・コンプレックス)を含めて映画館数は約2000館(スクリーン数は約5400面)、外国映画をも含めた年間の観客動員数は約2億人、国民1人当りの年間鑑賞回数は約3回で、これは日本の2.3倍強である。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

映画の誕生とサイレント初期

1895年、リュミエール兄弟は映画撮影機と映写機を兼ねる「シネマトグラフ」を発明し、同年12月にパリのグラン・カフェで有料上映会を行って、ここに世界最初の映画が誕生した。撮影を担当したのは弟のルイで、彼は『工場の出口』『列車の到着』など、日常生活の光景を記録した多数の実写映画を撮った。一方、シネマトグラフに注目した奇術師のジョルジュ・メリエスは、舞台での奇術やトリック撮影の技法を使って、『月世界旅行』(1902)をはじめ多くの空想的劇映画をつくった。これらは見せ物として多大な人気を博し、パテ、ゴーモンなどの映画会社も設立されて、映画はたちまちのうちに大衆娯楽として定着した。
 1908年にはフィルム・ダール社が設立され、たわいない見せ物の域を脱して、映画を芸術に高めようとする努力がなされた。同社は高名な劇作家や舞台俳優を招いて、『ギーズ公の暗殺』(1908)ほかの文芸映画を製作したが、それらの作品は基本的には演劇的理念に従うものであった。1910年代には、ルイ・フイヤードLouis Feuillade(1873―1925)が『ファントマ』(1913~1914)などの連続活劇を、またマックス・ランデールが自ら主演して多くの喜劇映画を撮り、それらの人気は広く外国にも及んだ。こうして、フランス映画は世界の映画市場を支配した観があったが、第一次世界大戦とともに映画産業は深刻な打撃を受け、以後はアメリカ映画に王座を奪われた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1920年代のサイレント映画

1920年代にフランス映画は前衛的な映画運動の隆盛をみた。その端緒となったのはルイ・デリュックLouis Delluc(1890―1924)が提唱した「フォトジェニー」photognie論で、これは現実の光景から映画独自の美を抽出することを説き、彼自らも『狂熱』(1921)、『さすらいの女』(1922)などでその理念を実践した。また、ジャン・エプステインはフォトジェニーの概念をさらに発展させ、「機械の知性」としてのカメラの特性を活用して新たな世界観を開拓することを主張し、『アッシャー家の末裔(まつえい)』(1928)などの特異な作品を発表した。一方、アベル・ガンスやジェルメーヌ・デュラックGermaine Dulac(1882―1942)は映画におけるリズムの重要性に注目し、映画を一種の視覚的音楽として構想した。ガンスの『鉄路の白薔薇(しろばら)』(1923)、『ナポレオン』(1927)はそのもっとも壮大な具現である。こうした試みは、一連の斬新(ざんしん)な表現技法、すなわち、意図的な「ぼかし」や画面の歪曲(わいきょく)、急速モンタージュ、スローモーション等を駆使して、文学や演劇の桎梏(しっこく)を脱した「純粋映画」cinma purを実現し、それによって映画固有の美学を構築しようとするものであった。
 さらにこれと並行して、当時の前衛的芸術運動であったダダイスムやシュルレアリスムに加わった映画人たちは、夢と幻想、人間の根源的な狂気や無意識の情念を、挑発的なスタイルで表現した。ルネ・クレールの『幕間』(1924)、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928)はその代表的作品である。これらの「前衛映画」人は、自らの考えをしばしば書物にも著し、芸術としての映画の可能性を理論と実作の両面において模索した。このほか、革命を逃れてパリに亡命した多数のロシア映画人は、アレクサンドル・カメンカAlexandre Kamenka(1888―1969)のおこしたアルバトロス社に拠(よ)ってユニークな創作活動を展開し、アレクサンドル・ボルコフAlexandre Volkov(1878―1942)の『キイン』(1924)などの話題作を生み出した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1930年代のトーキー映画

1920年代末にアメリカでトーキー映画が開発されて大成功を収めたが、フランスでも1930年代初めからトーキー映画の製作が開始された。しかし、おりからの世界恐慌によってパテとゴーモンの二大会社は弱体化し、以後は群小のプロダクションが製作を支えることになった。クレールの『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)は音に対する独創的な処理を試みつつ、下町の人々の生活を情感豊かなリアリズムによって描き出し、1930年代のフランス映画に一つの方向づけを与えた。その流れをくむものとしては、ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、『女だけの都』(1935)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』『舞踏会の手帖(てちょう)』(ともに1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)、『日は昇る』(1939)などがあげられる。いずれも巧みな脚本、入念な照明、精巧なセットといった、優れた職人芸に支えられた映画であり、陰影に富んだその独特の雰囲気は世界中の観客を魅了し、長らくフランス映画といえばこの時期の名作をさすほどであった。
 ジャン・ルノアールもまた、同様の雰囲気をもった『牝犬(めすいぬ)』(1931)、『十字路の夜』(1932)などを撮り、人道主義的な大作『大いなる幻影』(1937)も手がけたが、そのスタイルはより開放的であり、『ゲームの規則』(1939)はそうした彼の資質を最大限に発揮した傑作である。ジャン・ビゴは痛烈な社会風刺を込めた『新学期 操行ゼロ』(1933)や、船上生活者の暮らしをみずみずしい感性で描いた『アタラント号』(1934)によって、希有(けう)な才能を示した。このほか、1930年代には演劇人が映画に進出し、マルセル・パニョルの『パン屋の女房』(1938)やサッシャ・ギトリの『とらんぷ譚(ものがたり)』(1936)などの、自作戯曲を映画化した作品は映画と演劇との融合を図る試みとして興味深い。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

戦時下から戦後映画へ

第二次世界大戦中、ナチスの占領下でフランス映画は低迷したが、ロベール・ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)や、非占領地区の南フランスで撮られたカルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1944)など、いくつかの優れた作品が生み出された。第二次世界大戦後、1946年に国立映画庁が設置され、翌年には映画助成金制度が制定されて、フランス映画は再建に向けて歩み出した。ルネ・クレマンは『鉄路の闘い』(1946)でドキュメンタリー的手法でレジスタンス運動を描き、ジャン・コクトーは『美女と野獣』(1946)で独特の幻想的世界をつくりだした。また、アンリ・ジョルジュ・クルーゾの『犯罪河岸』(1947)やジャック・ベッケルの『現金(げんなま)に手を出すな』(1954)などは、第二次世界大戦後のフランス映画に「フィルム・ノアール」film noir(暗黒映画)のジャンルを定着させた。そして、クレールやクロード・オータン・ララらの巨匠たちは、『夜の騎士道』(1955)や『青い麦』(1954)といった洗練された商業映画によって高い人気を得た。このほか、ブレッソンは『田舎(いなか)司祭の日記』(1950)や『抵抗』(1956)で孤高の創作活動を続け、また、渡米したマックス・オフュルスやルノアールも帰国して、『快楽』(1952)や『フレンチ・カンカン』(1954)などの円熟した作品を発表した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

ヌーベル・バーグの登場と映画の革新

しかし、第二次世界大戦後に映画の復興が進むとともにその弊害も現れてきた。多くの作品は伝統に縛られて自由な発想を欠き、撮影所の閉鎖的な体質は容易に新しい人材を受け入れなかった。そうした状況のなかで、「良質の映画」の伝統に異議申し立てを行い、映画製作に新鮮な活力をもたらしたのが、1950年代末に始まる「ヌーベル・バーグ」nouvelle vague(新しい波)である。その中心となったのは、アンドレ・バザンの主宰する映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から実作に転じた若い監督たちで、彼らはアンリ・ラングロアHenri Langlois(1914―1977)の運営するシネマテーク・フランセーズなどでの豊富な映画鑑賞体験に基づき、確固たる映画史観のもとに、既成の映画作法を打ち破る斬新な作品を発表した。
 その端緒となったジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)などの登場は、映画界のみならず社会的にも大きな反響をよんだ。同じく『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家出身で、『獅子(しし)座』(1959)のエリック・ロメールEric Rohmer(1920― )、『パリはわれらのもの』(1961)のジャック・リベットJacques Rivette(1928―2016)のほか、『死刑台のエレベーター』(1957)のルイ・マル、『二十四時間の情事』(1959)のアラン・レネ、『シェルブールの雨傘』(1963)のジャック・ドゥミなど、多くの才能豊かな監督が輩出した。その後もゴダールの『気狂(きちが)いピエロ』(1965)、トリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)をはじめ意欲的な作品が次々に生み出され、ヌーベル・バーグは1960年代のフランス映画を決定的にリードした。
 ドキュメンタリー映画の分野では、現実への積極的な介入を通して社会の真実をとらえようとする「シネマ・ベリテ」cinma-vritの運動が起こり、ジャン・ルーシュJean Rouch(1917―2004)の『我は黒人』(1958)、クリス・マルケルChris Marker(1921―2012)の『美しき五月』(1963)などの重要な成果がもたらされた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

ポスト・ヌーベル・バーグと作家主義

フランス社会を大きく揺るがした1968年の五月革命は映画界にも波及し、ヌーベル・バーグの集団的な運動は後退して、それぞれの監督が独自の道を歩き始めた。その極端な例はゴダールで、彼はいっさいの商業映画を否定し、『イタリアにおける闘争』(1970)などの戦闘的な政治映画に身を投じた。一方、トリュフォーは『恋のエチュード』(1971)などで円熟した手腕をみせ始め、ロメールは『クレールの膝(ひざ)』(1970)をはじめとする「六つの教訓話」シリーズを連作した。
 また、1970年代には、特異な問題意識とスタイルをもった新たな監督が注目を集めた。女流作家のマルグリット・デュラスは『インディア・ソング』(1975)ほかの作品で映像と言語の関係を鋭敏な感性で追求し、同じく作家のアラン・ロブ・グリエは『快楽の漸進的横滑り』(1973)などで映画における物語構造の解体を企てた。ジャン・ユスターシュJean Eustache(1938―1981)の『ママと娼婦(しょうふ)』(1972)やアンドレ・テシネAndr Tchin(1943― )の『フランスの思い出』(1975)は、フランス社会の根源的な矛盾を鋭くえぐり出した。このほか、『一緒に老(ふ)けるわけじゃなし』(1972)のモーリス・ピアラMaurice Pialat(1925―2003)、『サン・ポールの時計屋』(1973)のベルトラン・タベルニエ、『頭の中の指』(1974)のジャック・ドアイヨンJacques Doillon(1944― )、『一番うまい歩き方』(1976)のクロード・ミレールClaude Miller(1942―2012)など、それぞれに個性的な監督が活動を開始した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

多様性の時代

1980年代のフランス映画は、そうした多様性を継承しつつ、安定した発展をみせた。すなわち、『秘密の子供』(1982)のフィリップ・ガレルPhilippe Garrel(1948― )や『30歳で死す』(1982)のロマン・グーピルRomain Goupil(1951― )がきわめて私的な映画づくりを展開する一方で、ピアラ、タベルニエ、ドアイヨン、ミレールらは中堅監督として認められ、さらに『勝手に逃げろ/人生』(1980)で商業映画に復帰したゴダール、『終電車』(1980)で国民的支持を得たトリュフォー、新たに「喜劇と諺(ことわざ)」シリーズに着手したロメールなど、ヌーベル・バーグ世代はいまや巨匠とみなされるに至った。
 その一方で、1980年代には新しい世代が登場した。『ディーバ』(1981)のジャン・ジャック・ベネックスJean-Jacques Beineix(1946― )、『薔薇(ばら)の名前』(1986)のジャン・ジャック・アノーJean-Jacques Annaud(1943― )、続いて『ニキータ』(1990)のリュック・ベッソンLuc Besson(1959― )、『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックスLos Carax(1960― )、『デリカテッセン』(1991)のジャン・ピエール・ジュネJean-Pierre Jeunet(1953― )とマルク・キャロMarc Caro(1956― )など、一部で新しいエンターテインメントを志向しながら、それぞれが個性的で多様な世界を表現し始めた。
 こうした若い世代の活躍には目を見張るものがあり、製作本数が減少した1990年代前半においても年間20~30本以上の長編デビュー作が製作された。そして、1990年代には、ジャン・ポール・ラプノーJean-Paul Rappeneau(1932― )の『シラノ・ド・ベルジュラック』(1990)やレジス・バルニエRgis Wargnier(1948― )の『インドシナ』(1992)などのように、歴史劇やメロドラマを中心に「良質の映画」の伝統を受け継いだ中堅監督たちが活躍をみせ、さらに『そして僕は恋をする』(1995)のアルノー・デプレシャンArnaud Desplechin(1960― )や『家族の気分』(1996)のセドリック・クラピッシュCdric Klapisch(1961― )をはじめ、マチュー・カソビッツMathieu Kassovitz(1967― )、エリック・ゾンカErick Zonca(1956― )、セドリック・カーンCdric Kahn(1966― )、フランソワ・オゾンFranois Ozon(1967― )、ブリュノ・デュモンBruno Dumont(1958― )といった若い才能が次々と出現した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

現状

2000年代に入ったフランス映画は、全世帯の約80パーセントがビデオデッキを備え、800万世帯以上がケーブル・テレビに加入するほど、新たな映像時代を迎えている。そんな状況の中、ゴダールやシャブロルたち巨匠をはじめ、ベッソンやデプレシャンたち中堅が活躍する一方で、『私はどのように父を殺したか』(2000)のアンヌ・フォンテーヌAnne Fontaine(1959― )、『ヒューマンネイチュア』(2001)のミシェル・ゴンドリーMichel Gondry(1963― )をはじめ、クリストフ・バラティエChristophe Barratier(1963― )、ロバン・カンピオRobin Campillo(1962― )、ステファヌ・ブリゼStphane Briz(1966― )といった若い世代が登場し、新鮮な感性によってフランス映画の幅を広げている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]
 21世紀初頭の最大の特徴は、女性監督の台頭だろう。ベテランのクレール・ドニClaire Denis(1948― )は『ガーゴイル』(2001)、『ホワイト・マテリアル』(2009)など異文化と女性の問題を扱う作品を発表し続け、カトリーヌ・ブレイヤCatherine Breillat(1948― )は『ロマンスX』(1999)などでフェミニズムの追及を続けている。パスカル・フェランPascale Ferran(1960― )は、『レディ・チャタレイ』(2006)で新しいチャタレイ像を示した。さらに若い世代では、バレリー・ドンゼッリValerie Donzelli(1973― )は、『わたしたちの宣戦布告』(2011)で障害のある子どもを育てる若い夫婦を鮮烈に描き、ミア・ハンセン・ラブMia Hansen-Love(1981― )は、『あの夏の子供たち』(2009)で夫の死後生きてゆく若い母の強い生き方をみせた。
 男性監督では、フランソワ・オゾンやベルギー出身のダルデンヌ兄弟Jean-Pierre Dardenne(1951― )、Luc Dardenne(1954― )が評価の高い作品を作り続けている。グザビエ・ボーボワXavier Beauvois(1967― )は『神々と男たち』(2010)がようやくヒットし、クリストフ・オノレChristophe Honor(1971― )は『美しいひと』(2008)など着実につくり続けている。最近では、『アーティスト』(2011)でアカデミー作品賞など7部門を制したミシェル・アザナビシウスMichel Hazanavicius(1967― )や『最強のふたり』(2011)が世界中でヒットしたエリック・トレダノEric Toledano(1970― )とオリビエ・ナカーシュOlivier Nakache(1973― )のコンビのように、海外でもヒットする娯楽作品を手がける監督も増えている。[古賀 太]

俳優

優れた映画製作国の例に漏れず、フランスもまた多くの優秀な映画俳優を生み出した。第二次世界大戦前では、男優のアルベール・プレジャンAlbert Prjean(1894―1979)、ジャン・ギャバン、モーリス・シュバリエ、シャルル・ボアイエ、女優のフランソワーズ・ロゼーらのスターが一世を風靡(ふうび)し、またミシェル・シモンMichel Simon(1895―1975)やルイ・ジューベなどの特異な個性をもった俳優が活躍した。第二次世界大戦後では、男優のジェラール・フィリップやジャン・マレー、ジャン・ルイ・バロー、女優のダニエル・ダリュー、シモーヌ・シニョレSimone Signoret(1921―1985)、ミシュリーヌ・プレールMicheline Presle(1922― )らが充実した仕事ぶりをみせた。1950年代後半にはアラン・ドロンとブリジット・バルドーの二大スターが出現し、またヌーベル・バーグはジャン・ポール・ベルモンド、ジャン・クロード・ブリアリJean-Claude Brialy(1933―2007)、ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナAnna Karina(1940― )、カトリーヌ・ドヌーブらを世に送り出した。1980年代から1990年代にかけては、ジェラール・ドパルデューGrard Depardieu(1948― )、ダニエル・オートゥイユDaniel Auteuil(1950― )、イザベル・アジャーニIsabelle Adjani(1955― )、サンドリーヌ・ボネールSandrine Bonnaire(1967― )、ジュリエット・ビノシュJuliette Binoche(1964― )らが活躍した。その後、2000年代にかけては、ジャン・マルク・バールJean-Marc Barr(1960― )、ブノワ・マジメルBenot Magimel(1974― )、バレリア・ブルーニ・テデスキValeria Bruni-Tedeschi(1964― )、シャルロット・ゲンズブールCharlotte Gainsbourg(1971― )らの個性豊かな演技が目だっている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]
 女優のベテランでは、カトリーヌ・ドヌーブが『幸せの雨傘』(2010)など活躍を続けているが、2010年代、外国でも有名な女優は、マリオン・コティヤールMarion Cotillard(1975― )である。『エディット・ピアフ 愛の賛歌』(2007)がアカデミー賞主演女優賞を得て以来、『インセプション』(2010)などハリウッドへの出演が続く。子役時代から活躍してきたビルジニー・ルドワイヤンVirginie Ledoyen(1976― )もダニー・ボイルDanny Boyle(1956― )監督の『ザ・ビーチ』(2000)ほか外国でも活躍。彼女とともにフランソワ・オゾン監督『8人の女たち』(2002)に出演したリュディビーヌ・サニエLudivine Sagnier(1979― )は、同監督の『ジャック・メスリーヌ』(2008)の評価が高い。そのほかレア・セドゥーLa Seydoux(1985― )は『マリー・アントワネットに別れをつげて』(2012)で主演し、若手の注目株である。
 男優では、マチュー・アマルリックMathieu Amalric(1965― )が『潜水服は蝶(ちょう)の夢を見る』(2007)などアート系の映画で活躍し、『さすらいの女神たち』(2010)で監督・主演を務めた。メルビル・プポーMelvil Poupaud(1973― )も、『ぼくを葬る』(2005)などアート系で活躍。メジャーでは、喜劇俳優のダニー・ブーンDany Boon(1966― )が監督・出演した『シュティスへようこそ』(2008)が、フランス映画最大の2000万人を超すヒット。この映画に主演したアルジェリア系のカド・メラドKad Merad(1964― )も人気抜群である。[古賀 太]
『飯島正著『フランス映画史』(1950・白水社) ▽岡田晋・田山力哉著『世界の映画作家29 フランス映画史』(1975・キネマ旬報社) ▽M・マルタン著、村山匡一郎訳『フランス映画 1943――現代』(1987・合同出版) ▽J・ドゥーシェ他著、梅本洋一訳『パリ、シネマ――リュミエールからヌーヴェルヴァーグにいたる映画と都市のイストワール』(1989・フィルムアート社) ▽村山匡一郎著『映画100年 STORYまるかじり――フランス篇』(1994・朝日新聞社) ▽ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史5 無声映画芸術への道――フランス映画の行方1 1909―1914』(1995・国書刊行会) ▽清水馨著『しねま・ふらんせ100年物語』(1995・時事通信社) ▽中川洋吉著『カルチエ・ラタンの夢 フランス映画七十年代』(1998・ワイズ出版) ▽細川晋監修、遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代 1958―1963』(1999・エスクァイアマガジンジャパン) ▽山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』(1999・ワイズ出版) ▽中川洋吉著『生き残るフランス映画――映画振興と助成制度』(2003・希林館、星雲社発売) ▽山崎剛太郎著『一秒四文字の決断――セリフから覗くフランス映画』(2003・春秋社) ▽中条省平著『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)』

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