ミュラー

デジタル大辞泉 「ミュラー」の意味・読み・例文・類語

ミュラー(Wilhelm Müller)

[1794~1827]ドイツ‐ロマン派の叙情詩人。作品「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」は、シューベルトの作曲で知られる。

ミュラー(Friedrich Max Müller)

[1823~1900]英国の言語学者・宗教学者。ドイツ生まれ。比較言語学の立場から宗教学・神話学の科学的方法論を唱え、「リグ‐ベーダ全集」「東方聖典」などサンスクリット聖典を英訳・刊行。

ミュラー(Paul Hermann Müller)

[1899~1965]スイスの化学者。DDTに強い殺虫力があることを発見した。1948年ノーベル生理学医学賞受賞。

ミュラー(Johannes Peter Müller)

[1801~1858]ドイツの生理・解剖学者。血液成分、分泌腺の働き、腫瘍しゅようの構造、生殖器官の発生など、広い分野の研究で、多くの業績がある。著「人体生理学便覧」。

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精選版 日本国語大辞典 「ミュラー」の意味・読み・例文・類語

ミュラー

  1. [ 一 ] ( Adam Heinrich von Müller アダム=ハインリヒ=フォン━ ) ドイツの政治哲学者、国家学者。ロマン主義の立場から反動的な有機体説的国家理論を唱え、メッテルニヒ時代の反自由主義陣営の理論的指導者となる。主著「国家学要綱」。(一七七九‐一八二九
  2. [ 二 ] ( Wilhelm Müller ウィルヘルム━ ) ドイツの後期ロマン派の民衆詩人。「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」などがシューベルトによって作曲された。(一七九四‐一八二七
  3. [ 三 ] ( Paul Hermann Müller パウル=ヘルマン━ ) スイスの化学者。合成接触殺虫剤の研究を行ない、一九三九年にDDTを完成。四八年ノーベル生理学・医学賞受賞。(一八九九‐一九六五
  4. [ 四 ] ( Friedrich Max Müller フリードリヒ=マックス━ ) ドイツ生まれのイギリスの比較言語学者、宗教学者。[ 二 ]の子。オックスフォード大学教授。サンスクリット学者として「リグ‐ベーダ全集」「東方聖典集」を公刊し、古代東洋文化研究の基礎を築いた。(一八二三‐一九〇〇
  5. [ 五 ] ( Benjamin Carl Leopold Müller ベンヤミン=カール=レオポルド━ ) ドイツの陸軍軍医。明治四年(一八七一)来日、医学教育と治療にあたり、日本の近代医学の確立に貢献した。(一八二二‐九三
  6. [ 六 ] ( Johannes von Müller ヨハネス=フォン━ ) スイスの歴史家。スイス史の古典「スイス連邦史」を書いた。ロマン主義的中世復興の先駆者とみなされる。(一七五二‐一八〇九
  7. [ 七 ] ( Johannes Peter Müller ヨハンネス=ペーター━ ) ドイツの生理学者。解剖学・生理学・発生学など広範囲にわたって研究し、腺や骨の微細構造に関する研究やミュラー管の発見で知られる。著「人体生理学叢書」ほか。(一八〇一‐五八

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改訂新版 世界大百科事典 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー
Friedrich Max Müller
生没年:1823-1900

ドイツに生まれ,イギリスで活動したインド学者,言語学者,宗教学者。ベルリンとパリに学び,1847年イギリスに渡り,50年よりオックスフォード大学の教授を務める。《リグ・ベーダ》の校訂(6巻本,1849-75。4巻本,1890-92),サンスクリット本《大無量寿経》の校訂(南条文雄(なんじようぶんゆう)と共同校訂,1883),ウパニシャッドの翻訳(全2巻,1884),《インドの六派哲学》(1899)などインド学の諸分野で幅広く活躍するとともに,《言語学講義》(1861)で知られる比較言語学の権威であり,また《比較宗教学序説》(1874)で知られる比較宗教学の創始者の一人でもあった。彼は初めて宗教学science of religionの名称を用い,キリスト教を唯一の宗教とみる価値観の反省に基づき,あらゆる宗教を価値判断を抜きにして客観的・科学的に比較研究すべきであると主張した。また,イスラムやイラン,インド,中国の諸宗教の主要な文献を英訳で刊行した《東方聖書》51巻(1879-1904)を編集したことも重要な業績である。ちなみに詩人ウィルヘルム・ミュラーは彼の父親である。
執筆者:


ミュラー
Johannes Peter Müller
生没年:1801-58

ドイツの比較解剖学者,生理学者。解剖学,生理学,発生学,古生物学,医学史など広範な領域にわたって業績をあげた。彼の名を冠するものだけでも,特異的感覚エネルギーの法則,軟骨索,毛毬囊(もうきゆうのう)などあり,生殖器の起源であるミュラー管の記載もおこなっている。組織学でいう結合組織も彼の命名による。コブレンツの靴屋の息子として生まれ,1819年ボン大学に入学,はじめカトリック神学を修めようとしたが,医学に転じた。すでに在学中から生物学の研究をおこない,胎内呼吸についての論文で学部賞をうけた。22年学位をうけ,30年にはボン大学医学部の解剖・生理学正教授,33年ベルリン大学の教授になった。多方面にわたる研究のほかに,T.シュワン,E.H.ヘッケル,H.L.F.vonヘルムホルツ,R.フィルヒョー,E.H.デュ・ボア・レーモンらすぐれた門人を多数輩出,その多くがドイツ各地の大学の医学部教授となってドイツ近代医学の建設に大きな役割をはたした。
執筆者:


ミュラー
Leopold Benjamin Carl Müller
生没年:1822-93

ドイツの医師。日本がドイツ医学を採用することにしたさい,最初にやってきた御雇医師で,東大(当時大学東校と称した)において医学教育にあたり,日本近代医学の基礎を築いた。マインツで生まれる。ベルリン大学卒,シャリテ病院医官。ハイチ国に招かれたのち普仏戦争に従軍,陸軍軍医正となる。1869年,日本はドイツ医学の採用につき同国に教師の派遣を依頼したが,普仏戦争で来着が遅れ,71年(明治4)にミュラーと,彼が選んだ13歳年少のT.E.ホフマンの2人が来日した。ミュラーは文部卿のすぐ下にあって,他の日本人の指示を受けない絶大な権力をもって医学教育と診療にあたり,予科3年,本科5年の本格的な医育制度を推進した。外科を主とし,エスマルヒ駆血法,気管切開術などを日本に導入したほか,産婦人科や眼科をも教えた。74年満期となり,宮内省御雇に転じ,75年帰国,ベルリンの廃兵院院長となった。
執筆者:


ミュラー
Heiner Müller
生没年:1929-95

東ドイツの劇作家。エッペンドルフ(ザクセン州)の生れ。晩年のブレヒトの教育劇再志向路線に立った現代劇《賃金を抑える者》《訂正》(ともに1958初演)を書いて注目された。60年代には《フィロクテテス》(1964),《プロメテウス》(1969)をはじめ多数の古典戯曲の唯物弁証法的改作を行い,P.ハックスとならぶ東ドイツの重要なブレヒトの継承・発展者としての評価を得たが,その後次つぎと代表作《セメント》(1973,グラトコーフの小説に拠る)や〈ドイツの悲惨〉をテーマにした《戦い》(1974),《グントリング》(1976),《ゲルマニア》(1977)の三部作を発表し,〈言語の錬金術師〉とまで呼ばれる独特の唯物論的・思想的言語を精製して,カフカやA.アルトーへの接近からも,今日もっとも重要な同時代劇作家の一人として国際的な評価を受けている。
執筆者:


ミュラー
George Müller
生没年:1805-98

ドイツ生れのイギリスの牧師,社会事業家。ハレ大学で学んだあとイギリスに渡り(1829),プリマス・ブレズレンPlymouth Brethren(1830年ダービーJ.N.Darbyによってプリマスに創設されたキリスト教団体)の牧師となる。1836年にブリストルで孤児院を設立し2000人にのぼる孤児を収容保護し,神への祈りによって精神的なものだけではなく物質的な必要も与えられると信じ,祈りと篤志家の献金によって孤児の世話を続けた。晩年の17年間は夫人とともに世界各国に伝道旅行し,祈りの力を説いた。
執筆者:


ミュラー
Adam Müller
生没年:1779-1829

ドイツの思想家。友人ゲンツFriedrich Gentzを通じて,E.バーク保守主義の影響をうけ,ベルリンのロマン主義者の仲間に入る。1808年クライストとともに雑誌《フェーブスPhöbus》を発刊,ドイツ・ロマン主義者の代表者となった。主著《国家学要綱》3巻(1809)では,啓蒙主義的国家観を排し,国家有機体説を鼓吹した。プロイセンの自由主義的改革に反対し,後にはメッテルニヒに用いられ,復古期の保守的反動的思想家の代表として知られている。
執筆者:


ミュラー
Wilhelm Müller
生没年:1794-1827

ドイツの詩人。ベルリン大学在学中以外はずっと生地デッサウを離れず,ギムナジウムの先生をしながら,詩作,翻訳,編集等の文学活動に携わった。シューベルトが彼の連作詩《美しき水車小屋の娘》(1820)と《冬の旅》(1824)に作曲したことで知られ,民謡調の詩に近代的人間感情を盛った手法はハイネに影響を与えた。自由を愛し,ギリシア独立戦争を支持して多くの詩を発表する側面もあった。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ミュラー」の解説

ミュラー

没年:1893.10.13(1893.10.13)
生年:1824.4.21
明治期,最初に来日したお雇い外国人。ドイツ人医師。マインツ生まれ。生年を1822年とする説もある。ベルリン大卒。陸軍軍医。1856年より12年間ハイチ国にあり,いったん帰国。明治2(1869)年,わが国はドイツ医学を採ることとなり,プロシア公使フォン・ブラントに依頼。最初のドイツ人教師として,公使館付という破格の条件でホフマンと共に4年8月に来日,大学東校(東大)に着任し,わが国の医学,医学教育の基礎を築いた。外科のほか婦人科,眼科を講じた。大学東校との3年間の契約期間中に,予科3年,本科5年,ラテン語とドイツ語を主とする新しいカリキュラムを推進した。その講義は『治験録』『医院雑誌』として出版された。エスマルヒ駆血法,気管切開術などを導入,穿頭器を持参した。文部省の指示がおよばない絶大な権限と高給を得,7年宮内省御雇いとなる。8年帰国。ベルリン廃兵院長を務めた。東大構内に胸像がある。<著作>『東京―医学』(翻訳公刊)<参考文献>酒井シヅ「ミュルレルとホフマン」(『医学近代化と来日外国人』)

(長門谷洋治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー

ドイツ生れの英国のインド学者,言語学者,宗教学者。インド学の基礎を築いたほか,比較言語学の権威として,また比較宗教学の創始者として活躍した。初めて〈宗教学science of religion〉の名称を用いたことでも知られる。ベルリン,パリ両大学で学び,1847年英国に帰化,《リグ・ベーダ》の校訂などを行った。1850年以後オックスフォード大学教授。1875年以後《東方聖書》全51巻の編集・刊行を行った。著書《言語学講義》《比較宗教学序説》など多数。
→関連項目ラング

ミュラー

ドイツの生理学者,解剖学者。ボン大学教授を経てベルリン大学教授。感覚器官などの研究から,特殊感覚エネルギーの説などを提唱。のち生殖器官の発生(ミュラー管),血液やリンパに関する発見等多数の業績をあげた。著書に《人体生理学便覧》2巻がある。門下からは,シュワン,デュ・ボア・レーモン,ヘルムホルツ,フィルヒョー,ヘッケルら著名な医学者が輩出した。
→関連項目ケリカーシュワンデュ・ボア・レーモン

ミュラー

ドイツの劇作家。ザクセン州エッペンドルフに生まれた。《賃金を抑える者》(1958年)などの教育劇的な現代劇により注目を浴び,《フィロクテテス》(1964年)をはじめとする古典の改作も行った。代表作は《セメント》(1973年,原作はロシアの作家グラトコーフの小説),《戦い》(1974年)にはじまる三部作など。ブレヒトの系譜を受け継ぐ劇作家として国際的評価を受けている。

ミュラー

ドイツの国家学者,哲学者。E.バークの影響を受け,啓蒙主義や自由主義に反対してロマン主義的・神秘的な国家有機体説を唱えた。ドイツ・ロマン派の復古的・反動的側面を代表する思想家。主著《国家学要綱》(1809年)。

ミュラー

スイスの化学者。バーゼル大学卒業後,同地のガイギー会社に入り,染料の研究に従事。のち殺虫剤の仕事を行い,1939年DDTの殺虫性を発見,その大量生産に成功した。1948年ノーベル生理医学賞。

ミュラー

スイスの物理学者。IBMチューリヒ研究所員。1986年ベドノルツとともに,バリウム,ランタン,銅の酸化物セラミックスが35K以下で電気抵抗が急減することを発見。この酸化物高温超伝導体の発見により,1987年ベドノルツとともにノーベル物理学賞。

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化学辞典 第2版 「ミュラー」の解説

ミュラー
ミュラー
Müller, Paul Hermann

スイスの化学者.高校卒業後,2年間化学会社に勤めたのち,バーゼル大学に入学.1925年学位を取得してR.J.Geigy社に入社した.はじめ革なめし剤や水銀を含まない種子消毒剤を開発したが,1935年より殺虫剤の研究に着手し,トリクロロエタンの誘導体を中心に350物質を検索して,1939年にDDTの殺虫作用を発見した(DDTそのものの合成は,1874年Othmar Zeidlerによる).DDTは幅広い昆虫に対する接触毒性や長期の残効性など,殺虫剤として理想的と思われた条件を備えており,第二次世界大戦中から戦後にかけて,チフスやマラリアなど昆虫媒介感染症の防疫に効果をあげ,1948年ノーベル生理学医学賞を受賞.農林業用としても戦後大量に使用され,やがてその残留毒性による環境影響が大きな社会問題となった.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ミュラー」の解説

ミュラー Müller, Benjamin Carl Leopold

1822-1893 ドイツの軍人。
1822年4月21日生まれ。陸軍軍医正。明治4年(1871)政府にまねかれ,海軍軍医ホフマンとともに来日。東校(東大医学部の前身)で外科,婦人科,眼科を中心に医学教育と診療にあたり,ドイツ式による日本の医学教育制度の基礎をきずいた。8年帰国。1893年9月13日死去。71歳。マインツ出身。自伝に「東京―医学」。

ミュラー Müller, Caspar

1835-? スイスの製糸技術者。
横浜のシーベル-ヘグナー商会社員として滞日中,明治3年(1870)前橋藩の速水堅曹(はやみ-けんそう)にまねかれ,藩営の前橋製糸場の創設を指導。つづいて小野組の築地(つきじ)製糸場の開業にもかかわり,日本にイタリア式製糸技術をつたえた。7年帰国。

ミュラー Müller, Albert

1865-? ドイツの蹄鉄(ていてつ)技術者。
1865年12月31日生まれ。ベルリン蹄鉄学校でまなび,陸軍下士官となる。明治23年(1890)政府にまねかれて来日。東京農林学校,後身の帝国大学農科大学の獣医学科で蹄鉄技術をおしえた。28年帰国。マクデブルク出身。

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367日誕生日大事典 「ミュラー」の解説

ミュラー

生年月日:1821年3月31日
ドイツの動物学者
1897年没

ミュラー

生年月日:1850年7月20日
ドイツの心理学者
1934年没

ミュラー

生年月日:1797年8月28日
ドイツの古代学者
1840年没

ミュラー

生年月日:1876年5月18日
ドイツの政治家
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のミュラーの言及

【医学】より


[明治以後の医学]
 1870年,新政府は大学東校の医学教師としてドイツから2人の軍医を招聘したい旨,駐日ドイツ大使に申し入れている。なぜこの時期にドイツから,しかも軍医を招聘したのかについては異説が多いが,71年ドイツ陸軍軍医少佐L.B.C.ミュラーと海軍軍医少尉T.E.ホフマンが着任,ドイツの軍医学校のカリキュラムに似た,全科必修の教育システムの基礎がしかれた。その後,この2人の軍医のほかに医学者や科学者がつぎつぎと来日して教壇に立ち,一方,この学校で学んだ卒業生のうち,教授候補に選ばれたものはつぎつぎとドイツへ国費留学させられ,帰国して,ドイツ人の先任者と交代した。…

【手術】より

…明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。…

【インド学】より

…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…

【インド学】より

…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…

【宗教】より

…しかしこのような諸宗教に関する二分法的な類型化には,〈キリスト教〉対〈非キリスト教〉あるいは〈文明の宗教〉対〈未開の宗教〉といった対立の観念が前提とされており,西欧中心の価値観が横たわっていたことも否定できない。 これに対して第2に,さまざまな宗教における開祖の人格や思想,および教義や儀礼や制度を相互に比較し,それによってそれぞれの宗教にみられる共通性と特異性を明らかにしようとする比較宗教学的な試みがF.M.ミュラーによって創始された。それ以後,世界の諸宗教を比較の視点から客観的に記述し類型化する気運が生ずるようになったが,この方面で最大の成果をもたらしたのがM.ウェーバーである。…

【宗教哲学】より

…18世紀の啓蒙思想の影響およびヨーロッパ以外の世界諸地域の宗教に関する情報が蓄積されることによって,唯一の真の宗教と単純に考えられていたキリスト教が相対化されはじめ,当時台頭しつつあった観念論哲学との密接な関係のもとに,ドイツで宗教学Religionswissenschaftが確立された。ミュラーFriedrich Max Müllerはイギリスに移ってからscience of religionという言葉を使っているが,この用法は英語圏では定着せず,宗教学に当たるのはむしろhistory of religionsが使われてきている。これに対してコントの影響の残るフランスではsciences religieusesが使われている。…

【ベーダ】より

…15世紀末のインド航路が開かれて以来,インドの事情がしだいにヨーロッパに知られるようになると,ベーダも断片的にではあるが紹介されはじめた。19世紀にいたってようやく本格的なベーダ研究が始められ,F.M.ミュラーなど数多くの学者によって原典の出版,翻訳,各種の研究が行われるようになり,ベーダ聖典の輪郭が明らかになった。しかし,今なお不明の部分の方が多いといっても過言ではなく,現在も各国の研究者により多方面からの研究が続けられている。…

【形態学】より

…医学は古代ギリシア以来の歴史をもつが,とくに近世以降になって人体を中心とする解剖学が発展し,これが現代の生理形態学の母体となった。18世紀から19世紀にかけて,この流れの中からビク・ダジールF.Vicq d’Azyr,K.W.J.メッケル,J.P.ミュラーらによって,多くの脊椎動物の構造を比較研究する比較解剖学と,個体の発生過程を比較する比較発生学が生み出された。 形態学のもう一つの系統は博物学(ナチュラル・ヒストリー)である。…

【生命】より

…19世紀前半にF.ウェーラーは尿素を(1828),A.W.H.コルベは酢酸を(1845)無機化合物から合成し,生体を構成する有機物質の合成に生命力は必要でないとする見解に論拠を与えた。しかし生命力あるいはそれに準じる観念は根強く存続し,19世紀前半では大生理学者J.P.ミュラーがそれを代表している。19世紀後半になって生理学および生化学の研究は急速に進み,生命現象の物理化学的解明の成果は累積し,世紀末には生理学的実験的方法を生物学の広範な分野に適用する実験生物学の成立がうながされた。…

【生理学】より

…もともと〈自然学〉の意味で使われていたphysiologieを今日の生理学の意味に用いたのは,フランスの医者J.F.フェルネルがその大著のタイトルの一部に用いたのが最初(1554)とされる。近代生理学は,18世紀のW.ハーベーによる血液循環の研究に始まり,A.vonハラーその他の人々によって基本的な枠組みがつくられ,19世紀に入ると,J.ミュラーやC.ベルナールらによって実験生理学が開かれた。とくにベルナールの《実験医学序説》(1865)は今なお一般生理学の古典である。…

※「ミュラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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