ドイツに生まれ,イギリスで活動したインド学者,言語学者,宗教学者。ベルリンとパリに学び,1847年イギリスに渡り,50年よりオックスフォード大学の教授を務める。《リグ・ベーダ》の校訂(6巻本,1849-75。4巻本,1890-92),サンスクリット本《大無量寿経》の校訂(南条文雄(なんじようぶんゆう)と共同校訂,1883),ウパニシャッドの翻訳(全2巻,1884),《インドの六派哲学》(1899)などインド学の諸分野で幅広く活躍するとともに,《言語学講義》(1861)で知られる比較言語学の権威であり,また《比較宗教学序説》(1874)で知られる比較宗教学の創始者の一人でもあった。彼は初めて宗教学science of religionの名称を用い,キリスト教を唯一の宗教とみる価値観の反省に基づき,あらゆる宗教を価値判断を抜きにして客観的・科学的に比較研究すべきであると主張した。また,イスラムやイラン,インド,中国の諸宗教の主要な文献を英訳で刊行した《東方聖書》51巻(1879-1904)を編集したことも重要な業績である。ちなみに詩人ウィルヘルム・ミュラーは彼の父親である。
執筆者:高橋 明
ドイツの比較解剖学者,生理学者。解剖学,生理学,発生学,古生物学,医学史など広範な領域にわたって業績をあげた。彼の名を冠するものだけでも,特異的感覚エネルギーの法則,軟骨索,毛毬囊(もうきゆうのう)などあり,生殖器の起源であるミュラー管の記載もおこなっている。組織学でいう結合組織も彼の命名による。コブレンツの靴屋の息子として生まれ,1819年ボン大学に入学,はじめカトリック神学を修めようとしたが,医学に転じた。すでに在学中から生物学の研究をおこない,胎内呼吸についての論文で学部賞をうけた。22年学位をうけ,30年にはボン大学医学部の解剖・生理学正教授,33年ベルリン大学の教授になった。多方面にわたる研究のほかに,T.シュワン,E.H.ヘッケル,H.L.F.vonヘルムホルツ,R.フィルヒョー,E.H.デュ・ボア・レーモンらすぐれた門人を多数輩出,その多くがドイツ各地の大学の医学部教授となってドイツ近代医学の建設に大きな役割をはたした。
執筆者:中川 米造
ドイツの医師。日本がドイツ医学を採用することにしたさい,最初にやってきた御雇医師で,東大(当時大学東校と称した)において医学教育にあたり,日本近代医学の基礎を築いた。マインツで生まれる。ベルリン大学卒,シャリテ病院医官。ハイチ国に招かれたのち普仏戦争に従軍,陸軍軍医正となる。1869年,日本はドイツ医学の採用につき同国に教師の派遣を依頼したが,普仏戦争で来着が遅れ,71年(明治4)にミュラーと,彼が選んだ13歳年少のT.E.ホフマンの2人が来日した。ミュラーは文部卿のすぐ下にあって,他の日本人の指示を受けない絶大な権力をもって医学教育と診療にあたり,予科3年,本科5年の本格的な医育制度を推進した。外科を主とし,エスマルヒ駆血法,気管切開術などを日本に導入したほか,産婦人科や眼科をも教えた。74年満期となり,宮内省御雇に転じ,75年帰国,ベルリンの廃兵院院長となった。
執筆者:長門谷 洋治
東ドイツの劇作家。エッペンドルフ(ザクセン州)の生れ。晩年のブレヒトの教育劇再志向路線に立った現代劇《賃金を抑える者》《訂正》(ともに1958初演)を書いて注目された。60年代には《フィロクテテス》(1964),《プロメテウス》(1969)をはじめ多数の古典戯曲の唯物弁証法的改作を行い,P.ハックスとならぶ東ドイツの重要なブレヒトの継承・発展者としての評価を得たが,その後次つぎと代表作《セメント》(1973,グラトコーフの小説に拠る)や〈ドイツの悲惨〉をテーマにした《戦い》(1974),《グントリング》(1976),《ゲルマニア》(1977)の三部作を発表し,〈言語の錬金術師〉とまで呼ばれる独特の唯物論的・思想的言語を精製して,カフカやA.アルトーへの接近からも,今日もっとも重要な同時代劇作家の一人として国際的な評価を受けている。
執筆者:越部 暹
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(長門谷洋治)
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スイスの化学者.高校卒業後,2年間化学会社に勤めたのち,バーゼル大学に入学.1925年学位を取得してR.J.Geigy社に入社した.はじめ革なめし剤や水銀を含まない種子消毒剤を開発したが,1935年より殺虫剤の研究に着手し,トリクロロエタンの誘導体を中心に350物質を検索して,1939年にDDTの殺虫作用を発見した(DDTそのものの合成は,1874年Othmar Zeidlerによる).DDTは幅広い昆虫に対する接触毒性や長期の残効性など,殺虫剤として理想的と思われた条件を備えており,第二次世界大戦中から戦後にかけて,チフスやマラリアなど昆虫媒介感染症の防疫に効果をあげ,1948年ノーベル生理学医学賞を受賞.農林業用としても戦後大量に使用され,やがてその残留毒性による環境影響が大きな社会問題となった.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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[明治以後の医学]
1870年,新政府は大学東校の医学教師としてドイツから2人の軍医を招聘したい旨,駐日ドイツ大使に申し入れている。なぜこの時期にドイツから,しかも軍医を招聘したのかについては異説が多いが,71年ドイツ陸軍軍医少佐L.B.C.ミュラーと海軍軍医少尉T.E.ホフマンが着任,ドイツの軍医学校のカリキュラムに似た,全科必修の教育システムの基礎がしかれた。その後,この2人の軍医のほかに医学者や科学者がつぎつぎと来日して教壇に立ち,一方,この学校で学んだ卒業生のうち,教授候補に選ばれたものはつぎつぎとドイツへ国費留学させられ,帰国して,ドイツ人の先任者と交代した。…
…明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。…
…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…
…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…
…しかしこのような諸宗教に関する二分法的な類型化には,〈キリスト教〉対〈非キリスト教〉あるいは〈文明の宗教〉対〈未開の宗教〉といった対立の観念が前提とされており,西欧中心の価値観が横たわっていたことも否定できない。 これに対して第2に,さまざまな宗教における開祖の人格や思想,および教義や儀礼や制度を相互に比較し,それによってそれぞれの宗教にみられる共通性と特異性を明らかにしようとする比較宗教学的な試みがF.M.ミュラーによって創始された。それ以後,世界の諸宗教を比較の視点から客観的に記述し類型化する気運が生ずるようになったが,この方面で最大の成果をもたらしたのがM.ウェーバーである。…
…18世紀の啓蒙思想の影響およびヨーロッパ以外の世界諸地域の宗教に関する情報が蓄積されることによって,唯一の真の宗教と単純に考えられていたキリスト教が相対化されはじめ,当時台頭しつつあった観念論哲学との密接な関係のもとに,ドイツで宗教学Religionswissenschaftが確立された。ミュラーFriedrich Max Müllerはイギリスに移ってからscience of religionという言葉を使っているが,この用法は英語圏では定着せず,宗教学に当たるのはむしろhistory of religionsが使われてきている。これに対してコントの影響の残るフランスではsciences religieusesが使われている。…
…15世紀末のインド航路が開かれて以来,インドの事情がしだいにヨーロッパに知られるようになると,ベーダも断片的にではあるが紹介されはじめた。19世紀にいたってようやく本格的なベーダ研究が始められ,F.M.ミュラーなど数多くの学者によって原典の出版,翻訳,各種の研究が行われるようになり,ベーダ聖典の輪郭が明らかになった。しかし,今なお不明の部分の方が多いといっても過言ではなく,現在も各国の研究者により多方面からの研究が続けられている。…
…医学は古代ギリシア以来の歴史をもつが,とくに近世以降になって人体を中心とする解剖学が発展し,これが現代の生理形態学の母体となった。18世紀から19世紀にかけて,この流れの中からビク・ダジールF.Vicq d’Azyr,K.W.J.メッケル,J.P.ミュラーらによって,多くの脊椎動物の構造を比較研究する比較解剖学と,個体の発生過程を比較する比較発生学が生み出された。 形態学のもう一つの系統は博物学(ナチュラル・ヒストリー)である。…
…19世紀前半にF.ウェーラーは尿素を(1828),A.W.H.コルベは酢酸を(1845)無機化合物から合成し,生体を構成する有機物質の合成に生命力は必要でないとする見解に論拠を与えた。しかし生命力あるいはそれに準じる観念は根強く存続し,19世紀前半では大生理学者J.P.ミュラーがそれを代表している。19世紀後半になって生理学および生化学の研究は急速に進み,生命現象の物理化学的解明の成果は累積し,世紀末には生理学的実験的方法を生物学の広範な分野に適用する実験生物学の成立がうながされた。…
…もともと〈自然学〉の意味で使われていたphysiologieを今日の生理学の意味に用いたのは,フランスの医者J.F.フェルネルがその大著のタイトルの一部に用いたのが最初(1554)とされる。近代生理学は,18世紀のW.ハーベーによる血液循環の研究に始まり,A.vonハラーその他の人々によって基本的な枠組みがつくられ,19世紀に入ると,J.ミュラーやC.ベルナールらによって実験生理学が開かれた。とくにベルナールの《実験医学序説》(1865)は今なお一般生理学の古典である。…
※「ミュラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...