ミュラー(読み)みゅらー(その他表記)Johannes Petrus Müller

デジタル大辞泉 「ミュラー」の意味・読み・例文・類語

ミュラー(Wilhelm Müller)

[1794~1827]ドイツ‐ロマン派の叙情詩人。作品「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」は、シューベルトの作曲で知られる。

ミュラー(Friedrich Max Müller)

[1823~1900]英国の言語学者・宗教学者。ドイツ生まれ。比較言語学の立場から宗教学・神話学の科学的方法論を唱え、「リグ‐ベーダ全集」「東方聖典」などサンスクリット聖典を英訳・刊行。

ミュラー(Paul Hermann Müller)

[1899~1965]スイスの化学者。DDTに強い殺虫力があることを発見した。1948年ノーベル生理学医学賞受賞。

ミュラー(Johannes Peter Müller)

[1801~1858]ドイツの生理・解剖学者。血液成分、分泌腺の働き、腫瘍しゅようの構造、生殖器官の発生など、広い分野の研究で、多くの業績がある。著「人体生理学便覧」。

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精選版 日本国語大辞典 「ミュラー」の意味・読み・例文・類語

ミュラー

  1. [ 一 ] ( Adam Heinrich von Müller アダム=ハインリヒ=フォン━ ) ドイツの政治哲学者、国家学者。ロマン主義の立場から反動的な有機体説的国家理論を唱え、メッテルニヒ時代の反自由主義陣営の理論的指導者となる。主著「国家学要綱」。(一七七九‐一八二九
  2. [ 二 ] ( Wilhelm Müller ウィルヘルム━ ) ドイツの後期ロマン派の民衆詩人。「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」などがシューベルトによって作曲された。(一七九四‐一八二七
  3. [ 三 ] ( Paul Hermann Müller パウル=ヘルマン━ ) スイスの化学者。合成接触殺虫剤の研究を行ない、一九三九年にDDTを完成。四八年ノーベル生理学・医学賞受賞。(一八九九‐一九六五
  4. [ 四 ] ( Friedrich Max Müller フリードリヒ=マックス━ ) ドイツ生まれのイギリスの比較言語学者、宗教学者。[ 二 ]の子。オックスフォード大学教授。サンスクリット学者として「リグ‐ベーダ全集」「東方聖典集」を公刊し、古代東洋文化研究の基礎を築いた。(一八二三‐一九〇〇
  5. [ 五 ] ( Benjamin Carl Leopold Müller ベンヤミン=カール=レオポルド━ ) ドイツの陸軍軍医。明治四年(一八七一)来日、医学教育と治療にあたり、日本の近代医学の確立に貢献した。(一八二二‐九三
  6. [ 六 ] ( Johannes von Müller ヨハネス=フォン━ ) スイスの歴史家。スイス史の古典「スイス連邦史」を書いた。ロマン主義的中世復興の先駆者とみなされる。(一七五二‐一八〇九
  7. [ 七 ] ( Johannes Peter Müller ヨハンネス=ペーター━ ) ドイツの生理学者。解剖学・生理学・発生学など広範囲にわたって研究し、腺や骨の微細構造に関する研究やミュラー管の発見で知られる。著「人体生理学叢書」ほか。(一八〇一‐五八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー(ドイツの生理・解剖学者 Johannes Petrus Müller)
みゅらー
Johannes Petrus Müller
(1801―1858)

ドイツの生理・解剖学者。当時フランスの占領下にあったコブレンツの靴屋の息子として生まれる。1819年ボン大学に入学、医学を学ぶ。1820年にはすでに動物実験を行い、1823年「胎児の呼吸」の研究で大学から賞金を授与された。1823年から1年半ベルリン大学の解剖学教授ルドルフィKarl Asmund Rudolphi(1771―1832)の指導を受けたのちボンに帰り、1824年ボン大学講師、1833年ベルリン大学の解剖・生理学教授に任ぜられた。この年『人体生理学叢書(そうしょ)』第1巻を刊行し、引き続き巻を重ねた。彼の指向したのは自然哲学からの脱却と、観察・実験であった。実験生理学よりも形態学研究に傾斜し、比較解剖学、動物分類学に興味を抱いた。また病理学とくに腫瘍(しゅよう)の研究に顕微鏡を応用した先駆者であった。そのほかベル‐マジャンディの脊髄(せきずい)神経の法則の実験的証明(1831)、カエルのリンパ心臓の発見(1834)、そのほか赤血球、分泌腺(せん)、声帯の運動、単一視・複視の生理、形態、化学に関する数多くの研究を行い、ドイツ生理学界の指導者となった。1796年ライルJohann Christian Reil(1759―1813)によって創刊された『生理学雑誌』(のち『解剖学、生理学雑誌』と改称)の編集を、1834年から死去するまで主宰した。彼の門下からは、組織学のシュワン、病理学のウィルヒョウ、生理学のデュ・ボア・レイモン、ヘルムホルツら著名な学者が輩出した。のちにベルリン大学総長に就任したが、1848年の革命に遭遇し、困難な立場にたたされ、同年辞職したが、精神的にも肉体的にも疲労の極に達していた。これより10年後急死するが、自殺ではないかといわれている。

[中山 沃]


ミュラー(ドイツの心理学者 Georg Ellias Müller)
みゅらー
Georg Ellias Müller
(1850―1934)

ドイツの心理学者。ザクセン州のグリマの生まれ。1873年ゲッティンゲン大学のロッツェのもとで、哲学で学位をとった。1876年ゲッティンゲン大学講師、1880年ツェルノウィッツ大学哲学教授。1881年にロッツェがベルリン大学に移るとその後任となり、1921年まで40年にわたってゲッティンゲン大学の心理学研究室を主宰し、あとをアッハNarziss Kasper Ach(1871―1946)に譲った。おもな研究領域は精神物理学、視知覚、記憶などで、厳密な思索による理論を重視すると同時に優れた実験家であり、フェヒナー、ヘリング、エビングハウスの研究を発展させた。彼のもとにはカッツ、スピアマン、イェンシュErick Rudolf Jaensch(1883―1940)、ルビンなど多くの研究者が集まってきた。

[宇津木保]


ミュラー(スイスの物理学者 Karl Alex Müller)
みゅらー
Karl Alex Müller
(1927―2023)

スイスの物理学者。バーゼルに生まれる。チューリヒのスイス連邦立理工科大学で物理学を学び、1958年に同大学で博士号を取得した。ジュネーブのバッテル記念研究所で磁気共鳴の研究に従事したあと、1963年IBMチューリヒ研究所に入所し、1982年にフェロー(上級研究員)となった。ニューヨークのIBMトーマス・ワトソン研究所に2年間在籍した以外は、IBMチューリヒ研究所で研究を続けた。

 ベドノルツとともに強誘電体および超伝導の研究を行った。超伝導とは、カマーリン・オネスによって発見されたもので、ある温度以下で、金属や合金の電気抵抗がゼロになる現象である。当時わかっていた臨界温度は20K(零下253℃)ぐらいであったが、彼らは1986年にランタン、銅、バリウムを含む酸化物のセラミックスが、30Kを超える温度で超伝導状態を示す物質であることを発見した。この現象は高温超伝導とよばれた。ミュラーとベドノルツは翌1987年に、発見から1年目という異例の早さでノーベル物理学賞を受賞した。このセラミック超伝導体の発見によって、「超伝導フィーバー」ともいえる超伝導体開発競争が展開されることになった。

[編集部]


ミュラー(ドイツの哲学者 Adam Heinrich von Müller)
みゅらー
Adam Heinrich von Müller
(1779―1829)

ドイツの政治哲学者、社会哲学者。ベルリン官吏の子として生まれる。最初プロイセン官吏となり、『対立論』(1804)を著したが、その「動的思考」はヘーゲルにも影響を与えたといわれる。1805年ウィーンでカトリックに改宗。シュレーゲル兄弟らのロマン主義者と交わり、その思想とF・ゲンツ、E・バークの保守主義思想とを結合させて政治的ロマン派の代表的理論家となった。1809年主著『国家学綱要』を著し、国家有機体説に基づきカトリック的、身分制的国家擁護を説いた。ベルリンでハルデンベルクによる改革への反対運動を行ったのち、1811年ウィーンに移り、以後メッテルニヒに仕えた。ライプツィヒ駐在総領事(1818~1827)としてプロイセンの関税政策に抵抗する一方、ウィーン体制イデオローグとして活発な言論活動を行い、1826年「君主的原理と宗教」に対するその功績により貴族に列せられた。

[岡崎勝世 2015年4月17日]


ミュラー(ドイツの小説家 Herta Müller)
みゅらー
Herta Müller
(1953― )

ドイツの小説家。ルーマニア西部ニツキードルフに、18世紀のドイツ系入植者バナート・シュワーベン人の末裔(まつえい)として生まれる。父はナチ武装親衛隊員として戦争犯罪に荷担、母は第二次世界大戦末期にソ連軍に強制連行された被害経験をもつ。ティミショアラ大学卒業後、機械工場で通訳として勤務。秘密警察(セクリターテ)への協力を拒否して1979年に失職、以後は臨時雇いで糊口(ここう)をしのぐ。多感な少女の視点から、ドイツ人の純血主義が孕(はら)む暴力性を農村風景に読み取っていく散文作品集『澱(よど)み』が1984年に西ドイツで発表され注目を浴びる。しかしルーマニアでは執筆禁止、尾行、尋問、家宅捜索などの迫害に苦しむ。1987年に西ドイツへ出国。この前後の絶望的な疎外状況は『人間はこの世の大いなる雉(きじ)』(1986)や『片脚(かたあし)だけの旅人』(1989)に詳しい。1989年末のチャウシェスク独裁政権崩壊を機に、秘密警察の監視下に生きる恐怖と絶望を主題とした長編小説を次々に発表した。独裁末期の市民の困窮を描いた『狙(ねら)われたキツネ』(1992)のほか、『心獣』(1994)と『今日は自分には会いたくなかったのに』(1997)は1970年代末のつかのまの民主化とそれに続く反動の時代に捧げられている。ただし、ミュラーの小説はプロットよりも不条理なイメージの積み重ねを重視しており、その意味で、新聞や雑誌の文字や写真を切り貼(ば)りした超現実主義的なコラージュ詩の試み――『監視人が櫛(くし)を手に取る』(1993)、『紙の結び目に住むご婦人』(2000)、『コーヒーカップを持つ青ざめた紳士たち』(2005)――に通じるものがある。長編『息のブランコ』(2009)では自伝的な主題を離れ、聞き取り取材を重ねて、ソ連ラーゲリでのドイツ系住民の強制労働という歴史の闇(やみ)に光をあて新境地を開いた。2009年ノーベル文学賞受賞。

[山本浩司]

『山本浩司訳『狙われたキツネ』(1997・三修社)』


ミュラー(スイスの化学者 Paul Müller)
みゅらー
Paul Hermann Müller
(1899―1965)

スイスの化学者。DDTの殺虫効果を発見したことで有名。オルトンの生まれ。ドレイフス電気機械会社の実験助手、ロンザ社の補助化学者を経て、バーゼル大学に学び、学位を得た。ガイギー皮なめし会社(現、ノバルティス)に入って皮なめし剤の合成研究を行い、新製品「イルガタンFL」および「FLT」を開発(1930)した。ついでガの駆除剤を研究、既知物質の通称ジクロロジフェニルトリクロロエタンに強い殺虫力を発見した(1939)。これがDDTである。以降農薬の研究が盛んになった。この業績に対して1948年にノーベル医学生理学賞が贈られた。DDTは一時期広く使われたが、強い毒性のために使用は禁止されている。

[川又淳司]


ミュラー(ドイツの動物学者 Fritz Müller)
みゅらー
Fritz Müller
(1821―1897)

ドイツの動物学者。のちにブラジルに渡る。ベルリン、グライフスワルト両大学で医学と博物学を修め、1852年以来ブラジルに移って事業を営み、かたわら昆虫類、甲殻類などの生態学的研究を行い、とくにチョウの擬態や昆虫のはねの起源に関する研究でよく知られる。C・R・ダーウィンの進化論をいち早く受容して主著『ダーウィン賛同』(1864)を書き、また発生学ではE・H・ヘッケルに先だって生物発生原則を唱えた。

[八杉貞雄]


ミュラー(ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者 Friedrich Max Müller)
みゅらー
Friedrich Max Müller
(1823―1900)

ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者。ライプツィヒ大学サンスクリット語を学び、パリのビュルヌフのもとで『ベーダ』の研究を行う。イギリスに渡り、1850~1876年の間オックスフォード大学で文学、言語学などを講じた。1870年ロンドンの王立協会で行った講演のなかで、宗教学science of religionという表現を用い、あらゆる宗教を客観的、科学的に比較研究する必要を力説した。ここからミュラーは一般に近代宗教学の始祖とみなされる。彼の宗教学は、おもに神話など歴史上の宗教思想を資料とし、比較言語学の方法を範として、宗教の起源と発達の系譜をたてることを目的とした。それは「無限なるもの」が順次に物的対象、人的事象、そして心的自己を通じて認知される過程だという。彼はまた東洋諸宗教の聖典を同僚の協力を得て英訳し、『東方聖典』Sacred Books of the East51巻を編集した。

[田丸徳善 2018年8月21日]


ミュラー(ドイツの画家 Otto Müller)
みゅらー
Otto Müller
(1874―1930)

ドイツの画家。シュレージエンのリーバウに生まれる。石版画を修めたのち、1896~98年ドレスデン美術学校で絵画を学んだ。1908年ベルリンに住み、10年ヘッケルの誘いで表現主義のグループ「ブリュッケ(橋)」に加わった。15~18年第一次世界大戦による兵役ののち、20年ブレスラウ(ブロツワフ)の美術学校に迎えられ、同地で没するまで教鞭(きょうべん)をとった。ロマ(かつてはジプシーとよばれた)を母親にもつ彼は、しばしばハンガリー、ルーマニアなどを旅行してロマの生活を画題に取り上げた。筆触は粗く、色彩は淡く夢幻的で、妖精(ようせい)を思わせる裸婦の作が多い。代表作『ポーランドの家族』(エッセン、フォルクワング美術館)など。

[野村太郎]


ミュラー(ドイツの政治家 Hermann Müller)
みゅらー
Hermann Müller
(1876―1931)

ドイツ社会民主党の政治家。マンハイムに生まれる。党新聞の編集者を経て1906年党幹部会に入り、1916年帝国議会議員、1918年の革命ではベルリン労兵協議会および中央協議会の執行委員会委員となった。1919年6月外相としてベルサイユ条約に調印。1920年3月首相(~6月)、1928年5月ふたたび首相となったが、失業保険の醵金(きょきん)額をめぐる対立から1930年3月辞職、翌1931年3月20日死去した。

[松 俊夫]


ミュラー(スイスの歴史家、政治家 Johannes von Müller)
みゅらー
Johannes von Müller
(1752―1809)

スイスの歴史家、政治家。1786~92年にマインツ選帝侯の宮中顧問官および司書、93~1800年ウィーン宮廷の枢密顧問官となった。1800~04年皇帝図書館管理官を務め、04年ベルリンに招かれて史料編纂(へんさん)官となったが、ナポレオン1世に目をつけられ、08年に新王国ウェストファーレンの教育長官となった。彼の著書『スイス連邦史』五巻(1786~1808、初版1780)は同時代の人々に傑作として広く愛読され、シラーの戯曲『ウィリアム・テル』に大きな影響を与えた。しかし、政治活動に深入りしたためもあって、『スイス連邦史』は15世紀末までの叙述で未完に終わり、24巻本の『世界史』も生前には刊行されなかった。

[森田安一]


ミュラー(ドイツの劇作家 Heiner Müller)
みゅらー
Heiner Müller
(1929―1995)

ドイツの劇作家。ケムニッツの近くのエッペンドルフに生まれる。ベルリーナー・アンサンブルの主任文芸員。数多くの劇作品を書く。妻インゲ(筆名インゲボルク・シュウェンクナー)の協力も特筆に値する。ブレヒト流の教育劇を得意とし、旧東ドイツの社会主義の発展途上に現れる諸問題を主題とした。古典劇を現代的にアレンジする試みも行った。前者では『建築』(1965)、後者ではソフォクレスの悲劇を翻案した『ピロクテテス』(1968)が代表作。ほかに『戦闘』(1975)、『ゲルマーニア、ベルリンでの死』(1978)、『ハムレット機械』(1979)などがある。1990年(平成2)9月ドイツ文学国際学会出席のため初来日。

[宮下啓三]


ミュラー(ドイツの陸軍軍医 Benjamin Carl Leopold Müller)
みゅらー
Benjamin Carl Leopold Müller
(1824―1893)

ドイツの陸軍軍医。ミュルレルともいう。ボン大学、ベルリン大学で外科を学び、軍医学校教官、シャリテ病院高級医官を経てハイチ国陸軍病院総監督などを歴任した。1869年(明治2)日本政府は中央の官立学校へドイツ人教師2名を招くこととし、その結果1871年プロシア陸軍軍医正のミュラーと海軍軍医のホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)が来日した。二人のプロシア軍医は、医学校改革の全権を与えられて、プロシア陸軍軍医学校を模した厳格な教育体制を確立し、日本医学教育制度の今日にまで引き継がれる原型となった。1875年帰国。

[神谷昭典 2018年8月21日]


ミュラー(ドイツの詩人 Wilhelm Müller)
みゅらー
Wilhelm Müller
(1794―1827)

ドイツの詩人。ベルリン大学で学んだのち、生地デッサウで高校教師を勤めながら詩作、翻訳などの文学活動に従事した。『旅する角笛(つのぶえ)吹きの遺稿詩集』(1820~24)に収められた民謡調の叙情詩のうち、『美しい水車屋の娘』と『冬の旅』はシューベルトの作曲で知られる。ギリシア独立戦争に共感して書いた『ギリシア人の歌』(1821~26)もある。ほかに旅行記やエッセイなども多い。

[石井不二雄]

『W・ミュラー、J・W・ゲーテ他著、瀧崎安之助編訳『ドイツ・リート詞華選』(1983・新地書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー
Müller, Johannes Peter

[生]1801.7.14. コブレンツ
[没]1858.4.28. ベルリン
ドイツの生理学者,解剖学者。父は靴屋。ボン大学で医学を学ぶ (1819~22) 。卒業論文には自然哲学への傾倒ぶりがうかがわれる。次いでベルリン大学に移り,解剖学者 K.ルドルフィに師事。その影響で自然哲学の支配を脱する。 1824年よりボン大学で生理学および比較解剖学講師をつとめ,助教授 (26) ,教授 (30) となる。その間,26年に『視覚の比較生理学』 Zur vergleichenden Physiologie des Gesichtssinnesを著わし,さまざまな感覚器はそれぞれ固有の様式で外界からの刺激を受容する,たとえば視神経はどのような方法で刺激しても,光の感覚しか起さないことを指摘した。これはミュラーの法則とも呼ばれ,感覚生理学の発達に多大の影響を与えた。また,外界は感覚器の作用を媒介にしてのみ認識されると説いて認識論の分野にも影響を及ぼした。彼は生理学から解剖学の広い領域にわたっておびただしい業績を上げているが,この時期のものでは,ミュラー管の発見が著名である。ルドルフィの後任としてベルリン大学教授となる (33) 。『人体生理学概論』 Handbuch der Physiologie des Menschen für Vorlesungen (2巻,33~40) を著わして,機械論に基づく生理学の確立を促すとともに,現場の医療活動と生理学研究との間に情報交換のための道を開く役割も果した。また,弟子の T.シュワンによる細胞説提唱後は,腫瘍の細胞学的研究を行い,病理組織学という新しい研究領域を開拓した。 40年以降は比較解剖学や海産動物の記載分類を行なった。彼の門下には,シュワンのほか,E.デュ・ボア=レイモン,H.ヘルムホルツ,E.ヘッケル,R.レマーク,R.ウィルヒョーらがいる。

ミュラー
Müller, Herta

[生]1953.8.17. ニツキドルフ
ルーマニア生まれのドイツの作家。両親はルーマニアのドイツ系少数民族。1973年から 1976年まで,ティミショアラ大学でドイツ文学とルーマニア文学を専攻し,独裁体制下で表現の自由を求めるドイツ語作家のグループ「バナート行動隊」に参加。卒業後,技術翻訳の仕事についたが,秘密警察セクリタテアへの協力を拒んだために解雇され,その後は幼稚園教師や家庭教師として生計を立てた。1982年,民族間の不寛容や,腐敗と排除が横行する村の生活の偽善性を描いた短編集『澱み』Niederungenでデビュー。当初は検閲により修正されたが,1984年に未検閲版がドイツ連邦共和国(西ドイツ)で出版され,1999年には独英 2ヵ国語版が『どん底』Nadirsのタイトルで発行された。しかしニコラエ・チャウシェスクの独裁政権を公然と批判したことから,ルーマニアでの出版活動を禁止された。1987年,ルーマニア政府から出国許可を得て西ドイツに移住。1989年の『一本足での旅』Reisende auf einem Beinは亡命生活と同化の難しさをテーマにした作品。半自伝的小説『ヘルツティーア』Herztier(1994)は,マイケル・ホフマンにより英訳され,1998年に国際IMPACダブリン文学賞を共同受賞した。ミュラーの傑作の一つに数えられるこの作品は,ルーマニアでの残虐行為やいやがらせを逃れてドイツに移住し新生活に踏み出した女性が語り手。次作『自分はできれば自分に会いたくはなかった』Heute wär ich mir lieber nicht begegnet(1997)も女性が語り手で,国家に寄生する破壊分子とみなされたミュラーが受けた屈辱と冷遇が語られている。政治的抑圧への抵抗や,脅迫と恐怖,迫害によって引き起こされる人間存在の苦悩を鮮明に,説得力のあることばで描き出し,2009年に女性としては 12人目,ドイツ人作家としては 1999年のギュンター・グラス以来となるノーベル文学賞を受賞した。

ミュラー
Müller, K. Alex

[生]1927.4.20. バーゼル
[没]2023.1.9. チューリヒ
K.アレックス・ミュラー。スイスの物理学者。フルネーム Karl Alexander Müller。ある物質がこれまで考えられていたよりも高い温度で超伝導現象を示すことを発見し,1987年に J.ゲオルク・ベドノルツとともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を受賞した。
1958年スイス連邦工科大学で博士号を取得。1963年に IBMチューリヒ研究所で固体物理学の研究を始め,物理学研究部門を数年間率いたのち 1982年に IBM上席研究員。酸化物として知られるセラミック化合物の専門家として 1980年代初めから超伝導体の研究に着手,当時物質が電気抵抗を失う温度は最高で絶対温度約 23K(-250℃)だったが,1986年にバリウムランタンの混合酸化物が 35K(-238℃)で超電導状態(→高温超伝導)になることを後輩のベドノルツとともに見出した。この発見は世界中の科学者に衝撃を与え,酸化物の研究が進み,その後 1年足らずで 100K(-173℃)での超電導が達成された。発電や電力輸送の可能性が示され,経済的にも重要な発見とされた。

ミュラー
Müller, Georg Elias

[生]1850.7.20. ライプチヒ近郊グリマ
[没]1934.12.23. ゲッティンゲン
ドイツの心理学者。ツェルノビッツ大学教授を経てゲッティンゲン大学教授。 40年近くもゲッティンゲン大学の研究室を主宰し,その業績は精神物理学,知覚,記憶など広範囲に及び,しかもその成果は高く評価され,現代の実験心理学の基盤となっている。理論的には,統一的全体としての心的複合の特性を重視する複合説をとる。主著『精神物理学の基礎』 Zur Grundlegung der Psychophysik (1876) ,『記憶研究の実験的寄与』 Experimentelle Beiträge zur Lehre vom Gedächtnis (1900,共著) ,『記憶作業と表象過程の分析』 Zur Analyse der Gedächtnistätigkeit und des Vorstellungsverlaufes (11~17) ,『複合説とゲシュタルト説』 Komplextheorie und Gestalttheorie (23) 。

ミュラー
Müller, Leopold

[生]1824.6.24. マインツ
[没]1893.10.13. ベルリン
ドイツの陸軍軍医。ボン大学,ベルリン大学で医学を学び,1847年王立シャリテ病院医官,56年からハイチ国の軍医として招かれ,12年間同国の軍隊および陸軍病院の軍医総監をつとめ,70年の普仏戦争で活躍。 71年ドイツ軍軍医正。同年8月,前年に日本がプロシアとかわした医育契約に基づき,海軍軍医 T.ホフマンとともに来日,東校 (東京大学医学部の前身) の教官となり,文部卿に次ぐ権限をもって明治初年の日本の医育制度を一挙にドイツの陸軍軍医学校の方式に改めた。すなわち,全寮制として制服を着せ,予科 (3年,翌年から2年となる) ,本科 (5年) を分け,定員は本科 40名,予科 60名とした。本科生には,みずから解剖学,外科学,婦人科学,眼科学を講義,ホフマンが内科学を担当した。 74年任期満了,翌年帰国に際し,勲四等旭日章を贈られた。帰国後はベルリン廃兵院院長となった。半身像が東京大学構内にある。

ミュラー
Müller, Friedrich Max

[生]1823.12.6. デッサウ
[没]1900.10.28. オックスフォード
ドイツに生れ,イギリスに帰化した東洋学者,比較言語学者。詩人 W.ミュラーの子。ベルリン大学で学んだのち,パリで印欧比較言語学の権威 E.ビュルヌフに師事。イギリスに渡って,1850年オックスフォード大学教授。『リグ・ベーダ』をはじめとする東洋古典に関して数々の校訂,翻訳,研究書を刊行。古代東洋文化,特にインド学の幅広い分野にわたって,科学的・批判的学問研究の基礎を築くとともに,比較言語学,比較神話学を確立した。主編著書『東方聖書』 The Sacred Books of the East (50巻,1879~1910) ,『インド六派哲学』 The Six Systems of Indian Philosophy (1899) など。

ミュラー
Müller, Otto

[生]1874.10.16. リーバウ
[没]1930.9.24. ブレスラウ
ドイツの画家,版画家。1890~95年ブレスラウで石版画の修業をし,のち1896~98年ドレスデンの美術学校に学ぶ。1907年ベルリンでエーリッヒ・ヘッケルを知り,1910年ドレスデンで「ブリュッケ」の同人らと作品を発表,その後 1913年までブリュッケに参加。1919年以降はブレスラウの美術学校教授。エジプト美術,ルーカス・クラナハ,ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーガンを賛美し,細身の少女の裸身やロマを描き,文明に毒されぬ楽園を表現しようと努めた。(→表現主義

ミュラー
Müller, Paul Hermann

[生]1899.1.12. オルテン
[没]1965.10.12. バーゼル
スイスの化学者。バーゼル大学に学び,1925年,同地のガイギー研究所に入り,染料と皮なめし剤の研究にあたった。 39年ハエ,カ,シラミなどに強力な殺虫効果をもつ接触毒ジクロロジフェニルトリクロロエタン DDTの合成に成功した。 DDTは同年9月に大量生産され,アメリカでは,コロラドハムシに有効でジャガイモの増産に役立つことが証明され,さらにイタリア戦線でアメリカ軍に使用,シラミが媒介する発疹チフスの流行を食止めた。また太平洋戦線でも,病気を媒介する害虫への強力な武器として役立った。 DDT開発の功により 48年ノーベル生理学・医学賞受賞。しかし,その後その残留毒性が問題となり,各国で使用禁止,日本でも 70年禁止措置がとられた。

ミュラー
Müller, Heiner

[生]1929.1.9. ザクセン,エッペンドルフ
[没]1995.12.30. ベルリン
ドイツの劇作家。 1950年代から執筆活動を始め,社会主義における生産現場を描いた『トラクター』 (1955) ,『賃金を抑えるもの』 (58) や,東ドイツ建国期を題材にした『ゲルマニア,ベルリンの死』 (57) などを発表。その後上演禁止処分を受けたが,60年代後半からはギリシア演劇の古典やシェークスピア劇などの改作を行う。 90年のドイツ統一後も活動を続け,95年3月以来ベルリナー・アンサンブルの芸術担当の演出家をつとめていた。代表作『ハムレットマシーン』 (77) にみられる典型的な手法は,幻想的・暴力的なイメージの断片を積重ねて政治批判を示すというもので,その解釈も上演する側の自由にまかせ,テキストとしては確定させない姿勢がうかがわれる。

ミュラー
Muralt, Béat Louis de

[生]1665.1.9. ベルン
[没]1749.11.19. ヌーシャテル,コロンビエ
スイスの道徳学者。国外に出,フランス,イギリスを経たのちベルンに帰ったが,1701年敬虔主義のゆえにベルンを放逐された。以後コロンビエに居住し著述に専念。イギリスの思想,政体をフランスに紹介することによって,ボルテール,J.-J.ルソーなどに影響を与えた。『イギリス人,フランス人に関する手紙』 Lettres sur les Anglais et les Français (1725) ,スイスの独立思想を論じた『狂信的書簡』 Les lettres fanatiques,自己の信条である神秘的理性論を論じた『人類に勧告する神の本能』 Instinct divin recommandé aux hommes (27) などの著書がある。

ミュラー
Müller, Karl Otfried

[生]1797.8.28. シュレジエン,ブリーク
[没]1840.8.1. アテネ
ドイツの古代学者。ブレスラウで学んだのち,ベルリンで A.ベックに師事し,1819~39年はゲッティンゲン大学の古代言語学の教授をつとめた。古代ギリシア史を組立てるために神話を広く適用し,政治,芸術,宗教,文学,一般史を含む古代ギリシア文明の包括的理解を目標とした。主著『ギリシア民族と都市の歴史』 Geschichte hellenistischer Stämme und Städte (1巻,1820,2巻,24) ,『美術考古学便覧』 Handbuch der Archäologie der Kunst (30) ,『エトルリア人』 Die Etrusker (32) 。

ミュラー
Müller, Wilhelm

[生]1794.10.7. デッサウ
[没]1827.9.30. デッサウ
ドイツの詩人。ベルリン大学に学び,デッサウのギムナジウムの教師,図書館長となった。民衆的心情のこもったロマンチックな詩を多く書き,特に『美しき水車小屋の娘』 Die schöne Müllerin (1821) ,『冬の旅』 Die Winterreise (23) はシューベルトの作曲で有名。また対ナポレオン戦争に志願兵として参加するなど戦士的情熱もあわせもち,ギリシア解放戦争の感激を歌った『ギリシア人の歌』 Lieder der Griechen (21~24) は彼の声価を一躍高め,「ギリシア人ミュラー」と称された。

ミュラー
Müller, Johannes von

[生]1752.1.3. シャフハウゼン
[没]1809.5.29. カッセル
スイスの歴史家。2年間のスイス滞在後マインツ大司教に招かれ顧問官 (1786~92) ,フランス革命軍の進入直前にウィーンに移って枢密顧問官 (93~98) をつとめ,最後にナポレオン1世に起用されてウェストファリア王国の教育長官となった。啓蒙主義的な世界観に立って広くヨーロッパの歴史を研究。主著『スイス連邦史』 Geschichten Schweizerischer Eidgenossenschaft (86~1808,未完) 。

ミュラー
Müller, Fritz

[生]1821.3.31. ウィンディシュホルツハウゼン
[没]1897.5.21. ブラジル,ブルメナウ
ドイツ生れの動物学者。ベルリン大学で医学を学び,在学中 J.P.ミュラーから影響を受ける。 1852年以降ブラジルで動物学の研究に従事。クルマエビが発生の過程でいくつかの異なる形態をとり,それぞれの形態が他の種類の甲殻類の成体に類似することを指摘して,個体発生と進化の歴史との並行性を説いた。これは E.ヘッケルによる生物発生原則の先駆をなすものであった。

ミュラー
Müller, Hermann

[生]1876.5.18. マンハイム
[没]1931.3.20. ベルリン
ドイツの政治家。 1899年社会民主党地方機関紙の編集長。 1916年国会議員。第1次世界大戦敗戦後,ワイマール共和政第2代の G.バウアー内閣の外相としてベルサイユ条約に調印。 20年首相。同年以降社会民主党国会議員団団長。 28年再度首相に就任,賠償に関するヤング案に調印。 30年3月失業問題を処理しきれず辞任。 (→ドイツ賠償問題 )  

ミュラー
Müller, Karl von

[生]1852.9.3. ランゲンブルク
[没]1940.2.10. テュービンゲン
ドイツのプロテスタント神学者,教会史家。ハレ,ギーゼン,ブレスラウ,テュービンゲンの各大学教授を歴任。特に近世教会史の研究に貢献した。主著『教会史』 Kirchengeschichte (1892~1919) ,『ルターとカルルシュタット』 Luther und Karlstadt (07) ,『ルターの教会・社会・主権観』 Kirche,Gemeinde und Obrigkeit nach Luther (10) 。

ミュラー
Müller, Friedrich

[生]1749.1.13. クロイツナハ
[没]1825.4.23. ローマ
ドイツの詩人。シュトゥルム・ウント・ドラング運動に参加し,『羊毛刈り』 Die Schafschur (1775) などの牧歌をはじめ数多くの抒情詩やバラードを書く一方,戯曲にも情熱を傾け,『ファウストの生涯』 Fausts Leben dramatisiert (78,未完) などを残した。画家としても有名で,「画家ミュラー」の通称で知られる。

ミュラー
Müller, Adam Heinrich

[生]1779.6.30. ベルリン
[没]1829.1.17. ウィーン
ドイツのロマン主義的政治思想家。 1813年以後オーストリア政府に用いられ,後年メッテルニヒの助言者となる。 E.バークとシェリングの影響を受け,主著『国家学綱要』 Elemente der Staatskunst (1810) においてアトム的個人を前提とした機械論的国家観に対して,中世的秩序をモデルとした有機的国家観を主張した。

ミュラー
Müller, William John

[生]1812.6.28. ブリストル
[没]1845.9.8. ブリストル
ドイツ生れのイギリスの風景画家。生地で J.パインに風景画を学ぶ。 1833年イギリスのロイヤル・アカデミーに初出品。 34年フランス,スイス,イタリア,38~39年ギリシア,エジプトを旅行。帰国後ロンドンに定住し定期的に作品を発表。 43年古代大理石彫刻の調査隊に同行して小アジアを旅行し,多数の水彩の風景画を制作した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー
Friedrich Max Müller
生没年:1823-1900

ドイツに生まれ,イギリスで活動したインド学者,言語学者,宗教学者。ベルリンとパリに学び,1847年イギリスに渡り,50年よりオックスフォード大学の教授を務める。《リグ・ベーダ》の校訂(6巻本,1849-75。4巻本,1890-92),サンスクリット本《大無量寿経》の校訂(南条文雄(なんじようぶんゆう)と共同校訂,1883),ウパニシャッドの翻訳(全2巻,1884),《インドの六派哲学》(1899)などインド学の諸分野で幅広く活躍するとともに,《言語学講義》(1861)で知られる比較言語学の権威であり,また《比較宗教学序説》(1874)で知られる比較宗教学の創始者の一人でもあった。彼は初めて宗教学science of religionの名称を用い,キリスト教を唯一の宗教とみる価値観の反省に基づき,あらゆる宗教を価値判断を抜きにして客観的・科学的に比較研究すべきであると主張した。また,イスラムやイラン,インド,中国の諸宗教の主要な文献を英訳で刊行した《東方聖書》51巻(1879-1904)を編集したことも重要な業績である。ちなみに詩人ウィルヘルム・ミュラーは彼の父親である。
執筆者:


ミュラー
Johannes Peter Müller
生没年:1801-58

ドイツの比較解剖学者,生理学者。解剖学,生理学,発生学,古生物学,医学史など広範な領域にわたって業績をあげた。彼の名を冠するものだけでも,特異的感覚エネルギーの法則,軟骨索,毛毬囊(もうきゆうのう)などあり,生殖器の起源であるミュラー管の記載もおこなっている。組織学でいう結合組織も彼の命名による。コブレンツの靴屋の息子として生まれ,1819年ボン大学に入学,はじめカトリック神学を修めようとしたが,医学に転じた。すでに在学中から生物学の研究をおこない,胎内呼吸についての論文で学部賞をうけた。22年学位をうけ,30年にはボン大学医学部の解剖・生理学正教授,33年ベルリン大学の教授になった。多方面にわたる研究のほかに,T.シュワン,E.H.ヘッケル,H.L.F.vonヘルムホルツ,R.フィルヒョー,E.H.デュ・ボア・レーモンらすぐれた門人を多数輩出,その多くがドイツ各地の大学の医学部教授となってドイツ近代医学の建設に大きな役割をはたした。
執筆者:


ミュラー
Leopold Benjamin Carl Müller
生没年:1822-93

ドイツの医師。日本がドイツ医学を採用することにしたさい,最初にやってきた御雇医師で,東大(当時大学東校と称した)において医学教育にあたり,日本近代医学の基礎を築いた。マインツで生まれる。ベルリン大学卒,シャリテ病院医官。ハイチ国に招かれたのち普仏戦争に従軍,陸軍軍医正となる。1869年,日本はドイツ医学の採用につき同国に教師の派遣を依頼したが,普仏戦争で来着が遅れ,71年(明治4)にミュラーと,彼が選んだ13歳年少のT.E.ホフマンの2人が来日した。ミュラーは文部卿のすぐ下にあって,他の日本人の指示を受けない絶大な権力をもって医学教育と診療にあたり,予科3年,本科5年の本格的な医育制度を推進した。外科を主とし,エスマルヒ駆血法,気管切開術などを日本に導入したほか,産婦人科や眼科をも教えた。74年満期となり,宮内省御雇に転じ,75年帰国,ベルリンの廃兵院院長となった。
執筆者:


ミュラー
Heiner Müller
生没年:1929-95

東ドイツの劇作家。エッペンドルフ(ザクセン州)の生れ。晩年のブレヒトの教育劇再志向路線に立った現代劇《賃金を抑える者》《訂正》(ともに1958初演)を書いて注目された。60年代には《フィロクテテス》(1964),《プロメテウス》(1969)をはじめ多数の古典戯曲の唯物弁証法的改作を行い,P.ハックスとならぶ東ドイツの重要なブレヒトの継承・発展者としての評価を得たが,その後次つぎと代表作《セメント》(1973,グラトコーフの小説に拠る)や〈ドイツの悲惨〉をテーマにした《戦い》(1974),《グントリング》(1976),《ゲルマニア》(1977)の三部作を発表し,〈言語の錬金術師〉とまで呼ばれる独特の唯物論的・思想的言語を精製して,カフカやA.アルトーへの接近からも,今日もっとも重要な同時代劇作家の一人として国際的な評価を受けている。
執筆者:


ミュラー
George Müller
生没年:1805-98

ドイツ生れのイギリスの牧師,社会事業家。ハレ大学で学んだあとイギリスに渡り(1829),プリマス・ブレズレンPlymouth Brethren(1830年ダービーJ.N.Darbyによってプリマスに創設されたキリスト教団体)の牧師となる。1836年にブリストルで孤児院を設立し2000人にのぼる孤児を収容保護し,神への祈りによって精神的なものだけではなく物質的な必要も与えられると信じ,祈りと篤志家の献金によって孤児の世話を続けた。晩年の17年間は夫人とともに世界各国に伝道旅行し,祈りの力を説いた。
執筆者:


ミュラー
Adam Müller
生没年:1779-1829

ドイツの思想家。友人ゲンツFriedrich Gentzを通じて,E.バークの保守主義の影響をうけ,ベルリンのロマン主義者の仲間に入る。1808年クライストとともに雑誌《フェーブスPhöbus》を発刊,ドイツ・ロマン主義者の代表者となった。主著《国家学要綱》3巻(1809)では,啓蒙主義的国家観を排し,国家有機体説を鼓吹した。プロイセンの自由主義的改革に反対し,後にはメッテルニヒに用いられ,復古期の保守的反動的思想家の代表として知られている。
執筆者:


ミュラー
Wilhelm Müller
生没年:1794-1827

ドイツの詩人。ベルリン大学在学中以外はずっと生地デッサウを離れず,ギムナジウムの先生をしながら,詩作,翻訳,編集等の文学活動に携わった。シューベルトが彼の連作詩《美しき水車小屋の娘》(1820)と《冬の旅》(1824)に作曲したことで知られ,民謡調の詩に近代的人間感情を盛った手法はハイネに影響を与えた。自由を愛し,ギリシア独立戦争を支持して多くの詩を発表する側面もあった。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ミュラー」の解説

ミュラー

没年:1893.10.13(1893.10.13)
生年:1824.4.21
明治期,最初に来日したお雇い外国人。ドイツ人医師。マインツ生まれ。生年を1822年とする説もある。ベルリン大卒。陸軍軍医。1856年より12年間ハイチ国にあり,いったん帰国。明治2(1869)年,わが国はドイツ医学を採ることとなり,プロシア公使フォン・ブラントに依頼。最初のドイツ人教師として,公使館付という破格の条件でホフマンと共に4年8月に来日,大学東校(東大)に着任し,わが国の医学,医学教育の基礎を築いた。外科のほか婦人科,眼科を講じた。大学東校との3年間の契約期間中に,予科3年,本科5年,ラテン語とドイツ語を主とする新しいカリキュラムを推進した。その講義は『治験録』『医院雑誌』として出版された。エスマルヒ駆血法,気管切開術などを導入,穿頭器を持参した。文部省の指示がおよばない絶大な権限と高給を得,7年宮内省御雇いとなる。8年帰国。ベルリン廃兵院長を務めた。東大構内に胸像がある。<著作>『東京―医学』(翻訳公刊)<参考文献>酒井シヅ「ミュルレルとホフマン」(『医学近代化と来日外国人』)

(長門谷洋治)

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百科事典マイペディア 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー

ドイツ生れの英国のインド学者,言語学者,宗教学者。インド学の基礎を築いたほか,比較言語学の権威として,また比較宗教学の創始者として活躍した。初めて〈宗教学science of religion〉の名称を用いたことでも知られる。ベルリン,パリ両大学で学び,1847年英国に帰化,《リグ・ベーダ》の校訂などを行った。1850年以後オックスフォード大学教授。1875年以後《東方聖書》全51巻の編集・刊行を行った。著書《言語学講義》《比較宗教学序説》など多数。
→関連項目ラング

ミュラー

ドイツの生理学者,解剖学者。ボン大学教授を経てベルリン大学教授。感覚器官などの研究から,特殊感覚エネルギーの説などを提唱。のち生殖器官の発生(ミュラー管),血液やリンパに関する発見等多数の業績をあげた。著書に《人体生理学便覧》2巻がある。門下からは,シュワン,デュ・ボア・レーモン,ヘルムホルツ,フィルヒョー,ヘッケルら著名な医学者が輩出した。
→関連項目ケリカーシュワンデュ・ボア・レーモン

ミュラー

ドイツの劇作家。ザクセン州エッペンドルフに生まれた。《賃金を抑える者》(1958年)などの教育劇的な現代劇により注目を浴び,《フィロクテテス》(1964年)をはじめとする古典の改作も行った。代表作は《セメント》(1973年,原作はロシアの作家グラトコーフの小説),《戦い》(1974年)にはじまる三部作など。ブレヒトの系譜を受け継ぐ劇作家として国際的評価を受けている。

ミュラー

ドイツの国家学者,哲学者。E.バークの影響を受け,啓蒙主義や自由主義に反対してロマン主義的・神秘的な国家有機体説を唱えた。ドイツ・ロマン派の復古的・反動的側面を代表する思想家。主著《国家学要綱》(1809年)。

ミュラー

スイスの化学者。バーゼル大学卒業後,同地のガイギー会社に入り,染料の研究に従事。のち殺虫剤の仕事を行い,1939年DDTの殺虫性を発見,その大量生産に成功した。1948年ノーベル生理医学賞。

ミュラー

スイスの物理学者。IBMチューリヒ研究所員。1986年ベドノルツとともに,バリウム,ランタン,銅の酸化物セラミックスが35K以下で電気抵抗が急減することを発見。この酸化物高温超伝導体の発見により,1987年ベドノルツとともにノーベル物理学賞。

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化学辞典 第2版 「ミュラー」の解説

ミュラー
ミュラー
Müller, Paul Hermann

スイスの化学者.高校卒業後,2年間化学会社に勤めたのち,バーゼル大学に入学.1925年学位を取得してR.J.Geigy社に入社した.はじめ革なめし剤や水銀を含まない種子消毒剤を開発したが,1935年より殺虫剤の研究に着手し,トリクロロエタンの誘導体を中心に350物質を検索して,1939年にDDTの殺虫作用を発見した(DDTそのものの合成は,1874年Othmar Zeidlerによる).DDTは幅広い昆虫に対する接触毒性や長期の残効性など,殺虫剤として理想的と思われた条件を備えており,第二次世界大戦中から戦後にかけて,チフスやマラリアなど昆虫媒介感染症の防疫に効果をあげ,1948年ノーベル生理学医学賞を受賞.農林業用としても戦後大量に使用され,やがてその残留毒性による環境影響が大きな社会問題となった.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ミュラー」の解説

ミュラー Müller, Benjamin Carl Leopold

1822-1893 ドイツの軍人。
1822年4月21日生まれ。陸軍軍医正。明治4年(1871)政府にまねかれ,海軍軍医ホフマンとともに来日。東校(東大医学部の前身)で外科,婦人科,眼科を中心に医学教育と診療にあたり,ドイツ式による日本の医学教育制度の基礎をきずいた。8年帰国。1893年9月13日死去。71歳。マインツ出身。自伝に「東京―医学」。

ミュラー Müller, Caspar

1835-? スイスの製糸技術者。
横浜のシーベル-ヘグナー商会社員として滞日中,明治3年(1870)前橋藩の速水堅曹(はやみ-けんそう)にまねかれ,藩営の前橋製糸場の創設を指導。つづいて小野組の築地(つきじ)製糸場の開業にもかかわり,日本にイタリア式製糸技術をつたえた。7年帰国。

ミュラー Müller, Albert

1865-? ドイツの蹄鉄(ていてつ)技術者。
1865年12月31日生まれ。ベルリン蹄鉄学校でまなび,陸軍下士官となる。明治23年(1890)政府にまねかれて来日。東京農林学校,後身の帝国大学農科大学の獣医学科で蹄鉄技術をおしえた。28年帰国。マクデブルク出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ミュラー」の解説

ミュラー(アダム)
Adam Heinrich von Müller

1779~1829

ドイツの国家学者。ロマン主義に根ざす保守的社会観と有機体説的国家理論をもって,メッテルニヒ時代,反自由主義陣営で指導的な役割を演じた。その学説は後年ナチスのイデオロギーにも影響を与えた。


ミュラー(ヘルマン)
Hermann Müller

1876~1931

ヴァイマル共和国時代ドイツ社会民主党の幹部。外相(在任1919),首相(在任1920,28~30)となり,ことに彼の2度目の内閣は議会多数派に支持された共和国最後のものであった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「ミュラー」の解説

ミュラー

生年月日:1821年3月31日
ドイツの動物学者
1897年没

ミュラー

生年月日:1850年7月20日
ドイツの心理学者
1934年没

ミュラー

生年月日:1797年8月28日
ドイツの古代学者
1840年没

ミュラー

生年月日:1876年5月18日
ドイツの政治家
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のミュラーの言及

【スイギュウ(水牛)】より

…染色体数が沼沢水牛の2n=48に対し,2n=50と異なるが,両者間の交雑は可能で,雑種の染色体数は2n=49となる。用途は乳用と肉用で,改良の進んだミュラー種murrah,ニリ・ラビ種Nilli‐Raviでは年間4000kgも泌乳するものがあるが,ふつうは2000~3000kgで,乳脂肪率は7.6%くらい。ギーgheeという調味用バターを製造する。…

【レギオモンタヌス】より

…ドイツの天文学者,数学者。本名はミュラーJohannes Müllerで,ケーニヒスベルクのミュラーとも称され,ケーニヒスベルクをラテン語化したレギオモンタヌスの名で知られる。ウィーン大学で学び,1457年同大学に奉職。…

【医学】より


[明治以後の医学]
 1870年,新政府は大学東校の医学教師としてドイツから2人の軍医を招聘したい旨,駐日ドイツ大使に申し入れている。なぜこの時期にドイツから,しかも軍医を招聘したのかについては異説が多いが,71年ドイツ陸軍軍医少佐L.B.C.ミュラーと海軍軍医少尉T.E.ホフマンが着任,ドイツの軍医学校のカリキュラムに似た,全科必修の教育システムの基礎がしかれた。その後,この2人の軍医のほかに医学者や科学者がつぎつぎと来日して教壇に立ち,一方,この学校で学んだ卒業生のうち,教授候補に選ばれたものはつぎつぎとドイツへ国費留学させられ,帰国して,ドイツ人の先任者と交代した。…

【手術】より

…明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。…

【インド学】より

…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…

【インド学】より

…これは19世紀ヨーロッパにおける最大の研究成果である。またオックスフォード大学のミュラーF.Max Müller(1823‐1900)の功績も著しく,《リグ・ベーダ》の原典を注釈とともに出版し,比較宗教学を創始し,権威ある翻訳叢書《東方聖典Sacred Books of the East》全50巻を監修した。その後,ベーダ研究の領域ではオルデンベルクH.Oldenberg(1854‐1920),ヒレブラントA.Hillebrandt(1853‐1927)らの俊秀が輩出した。…

【宗教】より

…しかしこのような諸宗教に関する二分法的な類型化には,〈キリスト教〉対〈非キリスト教〉あるいは〈文明の宗教〉対〈未開の宗教〉といった対立の観念が前提とされており,西欧中心の価値観が横たわっていたことも否定できない。 これに対して第2に,さまざまな宗教における開祖の人格や思想,および教義や儀礼や制度を相互に比較し,それによってそれぞれの宗教にみられる共通性と特異性を明らかにしようとする比較宗教学的な試みがF.M.ミュラーによって創始された。それ以後,世界の諸宗教を比較の視点から客観的に記述し類型化する気運が生ずるようになったが,この方面で最大の成果をもたらしたのがM.ウェーバーである。…

【宗教哲学】より

…18世紀の啓蒙思想の影響およびヨーロッパ以外の世界諸地域の宗教に関する情報が蓄積されることによって,唯一の真の宗教と単純に考えられていたキリスト教が相対化されはじめ,当時台頭しつつあった観念論哲学との密接な関係のもとに,ドイツで宗教学Religionswissenschaftが確立された。ミュラーFriedrich Max Müllerはイギリスに移ってからscience of religionという言葉を使っているが,この用法は英語圏では定着せず,宗教学に当たるのはむしろhistory of religionsが使われてきている。これに対してコントの影響の残るフランスではsciences religieusesが使われている。…

【ベーダ】より

…15世紀末のインド航路が開かれて以来,インドの事情がしだいにヨーロッパに知られるようになると,ベーダも断片的にではあるが紹介されはじめた。19世紀にいたってようやく本格的なベーダ研究が始められ,F.M.ミュラーなど数多くの学者によって原典の出版,翻訳,各種の研究が行われるようになり,ベーダ聖典の輪郭が明らかになった。しかし,今なお不明の部分の方が多いといっても過言ではなく,現在も各国の研究者により多方面からの研究が続けられている。…

【形態学】より

…医学は古代ギリシア以来の歴史をもつが,とくに近世以降になって人体を中心とする解剖学が発展し,これが現代の生理形態学の母体となった。18世紀から19世紀にかけて,この流れの中からビク・ダジールF.Vicq d’Azyr,K.W.J.メッケル,J.P.ミュラーらによって,多くの脊椎動物の構造を比較研究する比較解剖学と,個体の発生過程を比較する比較発生学が生み出された。 形態学のもう一つの系統は博物学(ナチュラル・ヒストリー)である。…

【生命】より

…19世紀前半にF.ウェーラーは尿素を(1828),A.W.H.コルベは酢酸を(1845)無機化合物から合成し,生体を構成する有機物質の合成に生命力は必要でないとする見解に論拠を与えた。しかし生命力あるいはそれに準じる観念は根強く存続し,19世紀前半では大生理学者J.P.ミュラーがそれを代表している。19世紀後半になって生理学および生化学の研究は急速に進み,生命現象の物理化学的解明の成果は累積し,世紀末には生理学的実験的方法を生物学の広範な分野に適用する実験生物学の成立がうながされた。…

【生理学】より

…もともと〈自然学〉の意味で使われていたphysiologieを今日の生理学の意味に用いたのは,フランスの医者J.F.フェルネルがその大著のタイトルの一部に用いたのが最初(1554)とされる。近代生理学は,18世紀のW.ハーベーによる血液循環の研究に始まり,A.vonハラーその他の人々によって基本的な枠組みがつくられ,19世紀に入ると,J.ミュラーやC.ベルナールらによって実験生理学が開かれた。とくにベルナールの《実験医学序説》(1865)は今なお一般生理学の古典である。…

※「ミュラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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