久保村(読み)くぼむら

日本歴史地名大系 「久保村」の解説

久保村
くぼむら

[現在地名]緑区三保みほ町・新治にいはる町・霧が丘きりがおか四丁目

東は小山こやま村・だい村で、小山村境の一部は恩田おんだ川。南は白根しらね村・川井かわい村・上川井村(現旭区)、西は十日市場とおかいちば村、西・北は榎下えのした村。恩田川沿いの平地を神奈川宿(現神奈川区)からの八王子道が、台村より恩田川支流のみや川に架かる宮川橋を渡って村内に入り、榎下村に抜ける。明治初期の小名には二四のうち梅田谷うめだやと薬師谷やくしやとなど「谷」のつくもの一四、狼窪おおかみくぼ馬窪ばくぼなど「くぼ」と呼称されるもの三ヵ所がある(字地書上)。「風土記稿」によると、もとは荏下えのした郷のうちであったが、慶長九年(一六〇四)に分郷されたと伝える。

近世初めは幕府直轄領。寛永一〇年(一六三三)旗本植村・比企領の二給。元禄一五年(一七〇二)医師太田法印道寿領と植村領を継承した旗本朝岡領の二給。文化九年(一八一二)以後幕府直轄領および旗本朝岡・富士・西尾領の四給。田園簿では田三〇八石余、畑一〇五石余。


久保村
くぼむら

[現在地名]物部村久保くぼ中内なかうち久保くぼ高井たかい久保くぼどうおか久保くぼ安野尾やすのお久保くぼ上久保かみくぼ久保くぼ沼井ぬるい久保くぼかげ久保くぼ和久保わくぼ

別府べふ村の山を隔てて西方、上韮生かみにろう川最上流の右岸に沿って集落が点在する。北は阿波国。「窪」とも記す。上韮生川と支流の安野尾川に沿って二つの道が阿波側に延びるが、いずれも九十九折の難路である。「土佐州郡志」には「東西二里十二町、南北二里三十町、戸凡百二十余、其土黒、久保・堂之岡・安能・奴留井・中内・日浦、以上惣曰久保村」と記す。

韮生郷に属し(江戸時代後期に分離)、天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳にはクホノ村・北地ノ村・上クホノ村・ヤスノウノ村・ぬる井ノ村・中内ノ村・影ノ村・小浜ノ村・東久万山村・西久万山などの小集落が記され、すべてが窪名とある。


久保村
くぼむら

[現在地名]河内村久保

中直海なかのみ村の南に位置し、集落は直海谷のみだに川左岸の河岸段丘上にあるが、かつては同川沿いの低地にあり、度々の洪水によって安政(一八五四―六〇)頃に高台へ移ったという伝承がある(河内村史)。中世史料にみえる坎保と久武保を同地として当地に比定する説があり、坎は「くぼ」と訓じられる(加賀志徴)。なお、久武を「ひさたけ」と訓じて別個の保とする説もあるが、比定地は未詳。仁治二年(一二四一)三月二五日の関東評定事書(新編追加)によると、「加賀国坎保地頭」の庄田四郎次郎行方は岩本太郎家清との間で、新五郎の盗みの罪がその主人家清に及ぶか否かで訴訟となったが、所従の罪は主人に及ばないという理由から、家清は無罪となっている(「吾妻鏡」同日条)


久保村
くぼむら

[現在地名]千倉町久保、丸山まるやま町久保

川合かわい村の西、瀬戸せと川左岸に位置する。現在、丸山町久保に所在する真野まの寺蔵摩利支天立像の建武二年(一三三五)六月二日付胎内墨書銘に「久保郷」とみえ、同郷住人の男四人・女三人の篤志によって奉納されたものである。また同所東泉とうせん寺旧蔵の弘治三年(一五五七)一一月の鰐口銘にも「房州早三南(朝平南カ)庄久保郷」とみえ、この鐘は「正木左京亮平茂清息未丸宿願成就」によって奉鋳されたとある。慶長二年(一五九七)一一月二〇日の里見義康充行状写(宝珠院文書)によると、安房府中ふちゆう(現三芳村)宝珠ほうじゆ院に対して一四五石余の寺領を与えているが、その中に「弐拾弐石 真野寺領久保村之内」が含まれている。


久保村
くぼむら

[現在地名]港南区大久保おおくぼ一―三丁目・最戸さいど二丁目

東は大岡おおか川を越えて上大岡かみおおか村、西は山を境に相模国鎌倉郡谷上やかみ村、南は松本まつもと村、北は別所べつしよ(現南区)・最戸村。金沢かねさわ道は最戸村から当村を経て松本村に達する。中世は多々久たたく郷のうち、正保国絵図に久保村とある。

近世は寛文二年(一六六二)から同九年の久世(のち下総関宿藩)領を除いて幕府直轄領。元禄四年(一六九一)以後江戸湯島聖堂領。田園簿に高一九八石余、うち田一五三石弱・畑四六石弱、ほかに新田見取場四斗二升、新畑見取場三石余、野銭永四〇〇文とある。


久保村
くぼむら

[現在地名]磐田市中泉なかいずみ国府台こうのだい

中泉村のうち八幡社(現府八幡宮)の社領をさす。東西を中泉村に挟まれ北は見付みつけ宿、南は保六島ほうろくじま村と接し、町に東海道が東西に通る。慶長五年(一六〇〇)八幡社神主秋鹿長兵衛(直朝)は社領安堵の手形(秋鹿文書)を与えられ、同八年には二五〇石を従来どおり寄付する失印状が発給された(「徳川家康社領寄付朱印状写」同文書)。この中泉村内二五〇石の朱印地を久保村と称した(元禄元年「手形帳」秋鹿家文書)。各郷村帳類では中泉村に含まれる。

慶長九年中泉村とは別個に行われた検地の中泉神領御縄打水帳(秋鹿家文書)によると、高二五〇石余のうち本田二二五石余・新田二五石余、反別は本田二二町九反余・新田五町余。


久保村
くぼむら

[現在地名]熊取町久保

小垣内おがいと村の南、見出みで川上流から源流域までと、住吉川支流和田わだ川上流域の丘陵部から山間部に位置する。もと和田・上高田かみこうだ・下高田・みや大浦おおうら・久保の六村からなる(泉州志)。久保の地名は文明一四年(一四八二)一一月二九日の日根野村東方納帳并算用状写(九条家文書)に、「若左近クホ」「三郎クホ」などとみえるのが早く、天文五年(一五三六)一二月一四日の木下左近畠地売券(中家文書)には「熊取窪村」と記される。見出川上流域の高田はすでに元弘三年(一三三三)一二月二日の僧俊蓮畠地売券(同文書)に「熊取庄高田里字入道桓」とみえ、永正一七年(一五二〇)六月一〇日の中新四郎吉貞田畠等売券(同文書)に「熊取庄高田村」、その端裏書には「コウ田」とある。


久保村
くぼむら

[現在地名]津市片田久保かただくぼ

前田まえだ村の西、一志層群丘陵の谷間にあり、伊賀街道が東西に走る。「五鈴遺響」によれば、属邑に上平尾かみひらおがある。中世の片田郷のうちにあり、文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳では「片田村」に含まれる。伊賀街道の傍らに古松一株あり、古くから「ひとつ松」と称されていた。そこに秋山出城(片田城)が築かれ、北畠家の一族権少将源国永の家集に、そこで詠まれた歌が載せられている(五鈴遺響)。北畠国司の家臣野田九郎左衛門尉が城主であったという(来岸寺記)。天和二年(一六八二)以前から薬王寺やくおうじ村・前田村・井戸いど村・田中たなか村・長谷場はせば村・久保村の六ヵ村の立会山を有していて、そのうち久保村分は四ヵ所、一三町三反、山高八石六斗四升五合であった(「片田立会山式法書」田中区有文書)


久保村
くぼむら

[現在地名]宍喰町久保

宍喰浦の北に位置し、南を宍喰川が東流する。北のすずヶ峰に天文二三年(一五五四)銘・永禄五年(一五六二)銘などの三尊石や五輪塔がある。また鈴ヶ峰円通えんつう(現浄土宗)と称される空海開創と伝える寺院があり、応安三年(一三七〇)に性公が再興したという。明応四年(一四九五)恵弘が能書家の三条西実隆に「海部郡鈴峯山円通寺」の勧進帳の作成と清書を依頼している(「実隆公記」同年四月二〇日条)。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「くぼ村」とあり、寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「窪村」の辺りに朱による道(土佐街道)が記される。


久保村
くぼむら

[現在地名]井口村久保

西は西流する赤祖父あかそぶ川を挟んで池尻いけのしり村、南東は池田いけだ村。東西に井波いなみ城端じようはなを結ぶ道が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳では「しやはミ与」に属し、「四間 くほ」とある。明暦二年(一六五六)の山割定書(片山家文書)に「くほ村」「窪村」とある。正保郷帳では高六二四石余、田方四〇町六反・畑方一町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四九二石、免五ツ二歩、小物成は山役一〇三匁(三箇国高物成帳)。文政一三年(一八三〇)当村の三人の百姓が常陸国福田ふくだ(現茨城県笠間市)へ入百姓している(「寺請証文」川崎家文書)。同八年能美組、天保一〇年(一八三九)以降井口組に属した。嘉永四年(一八五一)の井口組々高覚帳(川辺家文書)によれば、用水は赤祖父川・氷谷ひたに(干谷)川懸り、堤は当村山中にあり、蛇喰じやばみ村・池田村、西院瀬見にしいぜみ村・おき(現井波町)三清さんきよ(現福野町)の出合溜井で、各村々から役銀二匁を取立てる。


久保村
くぼむら

[現在地名]岡山市久保・西大寺東さいだいじひがし二―三丁目

西隆寺さいりゆうじ村の南、吉井川下流西岸の村で、南は西大寺村。吉井川対岸の福山ふくやま(現邑久郡邑久町)との間には渡船があり(備前記)鴨越かもごし用水は北東の鴨越堰で吉井川より取水した。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)金岡かなおか庄に村名があり、寛永備前国絵図では高六七三石余、正保郷帳には枝村の鴨越村・佐古さこ村が載る。「備前記」によると山寄りの川端にある集落で、「備前記」では田畠四〇町九反余、家数九〇・人数四九二、猟船・小平太船・高瀬船計八、池一。


久保村
くぼむら

[現在地名]古賀市久保・花見東はなみひがし一―七丁目・花見南はなみみなみ一―三丁目・舞の里まいのさと一―四丁目・千鳥ちどり一―六丁目・中央ちゆうおう一―六丁目・駅東えきひがし二―五丁目・いましよう一丁目

古賀村の北から東に位置し、東は筵内むしろうち村、北東は宗像郡下西郷しもさいごう(現福間町)、北西は玄界灘。元禄国絵図に筵内村のうちとして村名がみえる。筵内久保村とも称した(続風土記拾遺)。「地理全誌」によると高一千一五石余、田六五町六反余・畑一八町二反余・大縄田畑一二町余。


久保村
くぼむら

[現在地名]五城目町久保

馬場目ばばめ川中流右岸の低い河岸段丘上に位置し、対岸に館越たてごし村がある。下流に高崎たかさき村、五十目ごじゆうめ村、上流に馬場目村支郷大釈寺たいしやくじ村がある。北東に広がる台地は薬師やくし山に続く。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「弐百九拾四石六升三合 くほ村」とあり、太閤蔵入地であった。慶長二年(一五九七)の年貢は「七拾石 但弐ツ成四分」であった(「免目録御蔵入御物成納口之帳」秋田家文書)。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「三百八拾三石九斗四升四合 公保村」とあり、慶長六年の秋田実季侍分限(秋田家文書)には「弐百卅三石九斗四升四合 五十目郷内 窪村」とある。


久保村
くぼむら

[現在地名]庄内町西長宝にしちようほう 久保・下久保しもくぼ

大分川左岸に流入する小挟間おばさま川流域に位置し、南は透内すきうち村、北は岩下いわした村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷蛇口組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高三四石余・畑高七七石余、阿南あなん庄に所属。柴山有り。元禄一〇年(一六九七)の府内領郷帳(同記録)では一三〇石余で、うち八石余が新田。旧高旧領取調帳では高一四一石余。


久保村
くぼむら

[現在地名]常葉町久保

常葉村の北、殿上でんじよう(八一〇・七メートル)うつしヶ岳(九九四・五メートル)の鞍部を北境とする山峡の小村。字みやまえに縄文時代後期・晩期の土器・石鏃などを出土する宮ノ前遺跡がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では常盤六千九二四石余に含まれ、本村ほか五ヵ村・二千六九二石余は御蔵入となったと推定される。


久保村
くずくぼむら

[現在地名]富士見町葛窪くずくぼ

高森たかもり村の東方、標高一〇〇〇―一〇二〇メートルの高地帯にあり、信玄の中ノ棒道(→信玄の棒道が通っている。「甲陽軍鑑」に天文一一年(一五四二)大門だいもん峠合戦の時、信玄が「甲信の堺くずくぼに三日逗留」とあるのを初見とする。天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高六拾(四)石八斗九升 葛久保郷」と記されている。

享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数四拾七軒 高百弐拾弐石壱斗五升六勺」とある。葛久保村の穀留番所は文政年間(一八一八―三〇)信玄の中ノ棒道甲州口に増設されたといわれ、天明四年(一七八四)及び天保四年(一八三三)の凶年の際の穀留控に、番所を設けた所の一つとしてあげられている。


久保村
くぼむら

[現在地名]上尾市久保・緑丘みどりがおか三丁目・原新町はらしんまち錦町にしきちよう

かみ村の南、しば川上流の大宮台地上にあり、村域は門前もんぜん村・みなみ村と入会う。西端を中山道が南東から北西に通り、往還の長さ三町二六間余、往還沿いに家並少々と畑がある(宿村大概帳)。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。上村同様、天正一八年(一五九〇)から旗本西尾領で、近世初頭には上村・門前村・南村とともに桶川宿の内に含まれていたらしい。


久保村
くぼむら

[現在地名]君津市久保一―五丁目・南久保みなみくぼ一―三丁目・北久保きたくぼ一―二丁目・久保・高坂こうさかだい二丁目・東坂田ひがしさかだ一丁目・陽光台ようこうだい一―三丁目

台村の北から東に位置し、南を小糸こいと川が西流する。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領等注進状(金沢文庫文書)に「窪去袈裟若分」とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三八八石。寛永年間(一六二四―四四)当村と南東にある杢師もくし村が溜池を造ろうとしたところ、当村の東に位置する北子安きたこやす村が自村の土地であるとして争いになった。寛永一六年当村と杢師村は代償として中田一反を北子安村に渡し、満水で同村の田地に水が掛かる場合は関を外すことが取決められた。


久保村
くぼむら

[現在地名]関川村久保

大石おおいし川左岸にあり、南は鮖谷かじかだに村、北東は蔵田島ぞうだしま村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分窪村」とみえ、本納一四石一斗二升・縄高四六石八斗三升、家三軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領。正保国絵図では高六八石余。万治二年(一六五九)の検地時には高三二石一斗余・田畑二町八反二畝余(「高反別取米書上帳控」平田家文書)。寛政六年(一七九四)の家数一一(うち百姓一〇)・人数四四、馬三(「村明細帳」渡辺家文書)。文政一三年(一八三〇)の村明細帳(同文書)に小物成は夏川役・鉛駄賃・雑木林役・山蝋実正納などが記される。農間稼には大石村・ぬま村などの入会山より材木・薪などを取るとある。


久保村
くぼむら

[現在地名]御宿町久保

須賀すか村の北東、周囲を高所に囲まれた窪地に立地する。御宿村(郷)を構成する一村。中世には金沢称名寺領で、暦応二年(一三三九)二月の上総国久保郷年貢米結解状(金沢文庫文書)に「注進久保郷 建武三・四年御米結解状」とあり、久保郷の年貢米一八六石余のうち鎮守宮秣料・仏物田・山守給・井田免田および不作・川成分などを除いた一三〇石余が定米とされていた。


久保村
くぼむら

[現在地名]岩手町久保

太田おおた川と一方井いつかたい川流域に広がり、東と北は五日市いつかいち村、南は子抱こだき村。元和八年(一六二二)一一月一九日の土川清三郎・久保助次郎宛の南部利直代官申付状(参考諸家系図)に「沼宮内村五日市久保御堂出目四ケ所当年より代官申付候」とみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に蔵入高三〇三石余、七ヵ年平均の免二ツ七分五厘三毛とある。元禄十郡郷帳では沼宮内ぬまくない村に入るとある。元文三年(一七三八)の給人書上では工藤与市右衛門は当村に一八石を知行し、「享保十八年新田願上野竿高ニ而直々御軍役相勤罷有候、于今披揃不申何ニ而も所務不仕候」とみえる。


久保村
くぼむら

[現在地名]相知町大字久保

松浦川と厳木きゆうらぎ川との合流点に近く、松浦川の左岸からきし岳の稜線にかけての谷間一帯の村落。元和二年(一六一六)の検地帳に村名がみえる。

峯家文書によれば、室町時代、松浦党の峯氏が砦を構えて居住した。天文一三年(一五四四)竜造寺盛家を撃破した峯刑部左衛上は、ここの砦主である。峯上の孫順は波多氏の滅亡のとき浪人となったが、寺沢志摩守より梶山かじやま村庄屋に取り立てられた。

集落内にある不動明王祠は鶴田因幡守立を開基とすると伝えられ、その傍らに鶴田立の墓とする五輪塔があり、村人はオタチ様と称している。


久保村
くぼむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 久保

なか村の東、社家しやけ川上流域に位置し、ほん(阿蘇野峠)を経て阿蘇野あその(現庄内町)への道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高六七石余・畑高四五石余、朽網くたみ郷に属し、水損地であった。旧高旧領取調帳では高一六三石余。江戸時代初め当村居住の朽網氏旧臣久保孫右衛門が鶴田組千石庄屋に任じられた。しかし寛文一一年(一六七一)頃孫右衛門が葎原組に所替になったため湯原組に属し、中村小庄屋支配、元禄(一六八八―一七〇四)頃から社家村小庄屋支配となった(「湯原組大庄屋覚書」甲斐家文書)


久保村
くぼむら

[現在地名]いわき市鹿島町久保かしままちくぼ

蔵持くらもち川南岸にあり、南西は船戸ふなど村、東は下蔵持村、北は走熊はしりくま村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にくほノ村とあり、高二九六石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に窪之村とあり、高三六五石余。正保郷帳では田方二七二石余・畑方九二石余。


久保村
くぼむら

[現在地名]三日月町末広すえひろ

東新宿ひがししんじゆく村の南、志文しぶみ川南岸に位置する。集落の後背山地は急傾斜をなし、標高四〇〇メートルの頂上付近で高原状をなしている。慶長国絵図にくぼ村とみえる。江戸期の領主の変遷は細月みかづき村と同じであったが、慶安二年(一六四九)幕府領、弘化元年(一八四四)龍野藩預となり幕末に至る(「年貢免状」淀村文書など)


久保村
くぼむら

[現在地名]邑智町久保

江川の支流早水はやみ川の下流東側に位置し、西は粕淵かすぶち村。中世には佐波さわ郷に含まれ、正平九年(一三五四)一〇月一九日の佐波実連譲状(長門中川四郎氏所蔵文書)では「佐波郷の内くほ・お原両村」が実連の次男善次郎四郎常連に永代譲与されている。永正二年(一五〇五)七月一四日の赤穴郡連置文(閥閲録)の端に赤穴常連の同腹兄弟として「三男久保也」と記されることから、久保村とともに小原おばら村もこの三男の手に渡った可能性がある。


久保村
くぼむら

[現在地名]松阪市東久保ひがしくぼ

櫛田くしだ川右岸にあり、北は乙部おとべ村、東は牛草うしくさ村、南は魚見うおみ村に続く。天文一五年(一五四六)書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)に「久保 西光寺」の記載がみられる。「飯野郡久保村誌」(松阪市役所機殿出張所蔵)によれば、南北朝期に仁木義長に押領され、応仁の乱の際神領を没収された。その後、北畠氏の支配下となる。天正一二年(一五八四)蒲生氏領となり、同一八年から鳥羽九鬼氏領。


久保村
くぼむら

[現在地名]安田町久保

北は沢田新さわだしん村、南東は六野瀬ろくのせ村。天正二年(一五七四)九月の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に「屋敷 くほの道場永光坊」とある。慶長三年(一五九八)村上藩領となり、正保国絵図には二四〇石余とある。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では保田組に属した。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では高三〇八石九斗余。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、享保一四年(一七二九)の村鑑(佐藤家文書)には高四一三石八斗余(うち新田畑高入七六石四斗余)、田一九町二反余(上田五町余・中田五町四反余・下田八町三反余・下々田三反余)・畑二九町八反余(上畑五町余・中畑一二町六反余・下畑一〇町九反余・下々畑一町二反余)・屋敷二町歩とあり、五五軒、男一八一・女一七〇。


久保村
くぼむら

[現在地名]貝塚市久保・小瀬こせ・小瀬一丁目など

津田つだ川沿い、小瀬村東隣の平野部の村で、集落は津田川右岸にある。南郡に属する。集落北西端に式内社阿理莫ありまか神社が鎮座し、「日本書紀」崇峻天皇即位前紀にみえる「有真香邑」に比定される。慶長九年(一六〇四)の検地による村高二七七石余(元和五年「万事入用留」要家文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では三二八石余(うち山年貢八斗余)、ほかに新開田畑三八石余があった(元禄初年泉州志補遺)


久保村
くぼむら

[現在地名]市原市久保

養老ようろう川と平蔵へいぞう川の合流する一帯を村域とする。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七九一石。正保国絵図でも同高であるが、元禄郷帳では高四五八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四七〇石余で家数一〇七、旗本山本領。幕末まで同氏領。


久保村
くぼむら

[現在地名]いわき市好間町よしままち北好間きたよしま

好間川左岸にあり、北は北好間村、東は上好間村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から慶安元年(一六四八)以降飯野いいの八幡宮領。磐城平藩主内藤政長は飯野八幡宮の神領復活を将軍徳川家光に願い、その子内藤忠興のとき慶安元年朱印地四〇〇石を与えられ、小谷作おやさく村・久保村が神領とされたという(いわき市史)。しかし寛永二一年(一六四四)の神領水帳(同書)にはすでに「神領 久保村 小谷作村」とみえるので、藩内では慶安元年以前から神領として認められていたと思われる。


久保村
くぼむら

[現在地名]北条市久保

粟井あわい川の下流北岸の農村。海岸寄りを今治いまばり道が通る。四隣は常竹つねたけ鹿峰かのみね安岡やすおか河原かわらの村々と接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「久保村」とみえ、村高は九五石五斗七升四合、うち田方八八石六斗七升五合、畑方六石八斗九升九合とある。


久保村
くぼむら

[現在地名]豊川市久保町

八幡やわた村と御油ごゆ宿の間にある。「白鳥村誌」によると、古くは国府こう村の中であったが、宝治年間(一二四七―四九)に分村したという。天正一七年(一五八九)の府中之郷御縄打水帳(大社神社蔵)には府中ふちゆう郷のうちである。永正年間(一五〇四―二一)牧野平治の領地となり、天正年間は野田のだ(現新城市)の菅沼織部領、慶長年間(一五九六―一六一五)徳川氏領、元禄一一年(一六九八)松平弾正忠領、同一六年幕府領、宝永七年(一七一〇)諏訪内膳の知行となって明治に至る。


久保村
くぼむら

[現在地名]大飯町久保

佐分利さぶり川の南岸にあり、川を挟んで北は安井やすい川関かわせき両村。佐分利川の支流久保川沿いに集落があり、村内を佐分利街道が通る。「若狭郡県志」は「久保村属佐分利郷、去小浜五里許也、有小村号嶺谷」と記す。現在、岸谷きしだに西谷にしたにの小名がある。


久保村
くぼむら

[現在地名]上勝町生実いくみ

野尻のじり村の西に位置する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「くぼ村」、寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「窪村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 窪村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。


久保村
くぼむら

[現在地名]日高市久保・武蔵台むさしだい一―七丁目

横手よこて村の東、高麗こま川右岸にあり、川越と秩父を結ぶ道が東西に通る。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。田園簿では田一六石余・畑四三石余。幕府領で幕末に至り、旧高旧領取調帳では新見史雄領。検地は寛文八年(一六六八)に行われた。


久保村
くぼむら

[現在地名]大田原市乙連沢おとれざわ

那須扇状地末端部の窪地にある。西は練貫ねりぬき村、南は乙連沢村、東は野間のま(現黒磯市)、北に大輪地おおわじ原が広がる。北部を奥州街道が東西に通る。寛文四年(一六六四)の大田原藩領知目録に村名がみえる。幕末は旗本久世領(旧高旧領取調帳)。宿村大概帳の大田原宿の項によれば、当村・練貫村・野間村はすべて畑地で、用水はない。


久保村
くぼむら

[現在地名]下部町久保

大山おおやま村の北西、西八代台地に立地し、集落は久保川右岸の段丘上と氾濫原にある。村名は澗谷中の窪地形にちなむ(甲斐国志)。慶長古高帳に窪村とみえ高三七石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高四五石余。


久保村
くぼむら

[現在地名]松阪市久保町

垣鼻かいばな村の南にあり、村域内を金剛こんごう川が流れる。古くは神戸かんべ六郷に属した。貞治四年(一三六五)仁木義長に押領され伊勢守護の領するところとなったが、永享年中(一四二九―四一)以降北畠氏の支配下になったとされる(「地誌取調書」神宮文庫蔵)。近世は和歌山藩松坂領。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「久保村」と記されている。


久保村
くぼむら

[現在地名]筑後市西牟田にしむた三潴みづま郡三潴町西牟田

西牟田町の北に位置し、西は大坪おおつぼ(現三潴町)。三潴郡に属し、本高は四一六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三九一石余・役高四一五石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四一六石。文化四年(一八〇七)の畝付帳によると本田二八町一反余・畑田一反余・畑六町七反余・居屋敷四反余。


久保村
くぼむら

[現在地名]竹田市久保

玉来たまらい川北岸にあり、北東は上畑かみはた村、西は西園にしぞの村。正保郷帳では家中かちゆう郷に属し、田方一七石余・畑方一一七石余。弘化物成帳では中角組のうち、村位は中、免五ツ九分、田二七石余(二町八反余)・畑一二七石余(二二町二反余)・屋敷四石余(四反余)で、開田五斗余(二反余)・開畑三石余(七町余)がある。


久保村
くぼむら

[現在地名]丸山町久保、千倉ちくら町久保

安馬谷あんばや村の南、白子しらこ村の西に位置し、大部分は現千倉町(千倉町の→久保村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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