愛媛(県)(読み)えひめ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「愛媛(県)」の意味・わかりやすい解説

愛媛(県)
えひめ

四国地方の北西部にある県。瀬戸内海や宇和海(うわかい)に散在する大小の島々を含む。東は香川、徳島県、南は高知県に接し、瀬戸内海を隔てて広島、山口の2県と相対し、芸予、防予(ぼうよ)の諸島のうち南部は愛媛県に属す。日本最長の佐田岬(さだみさき)半島は九州(大分県)に相対している。県庁所在地は松山市。面積は5676.19平方キロメートルで、四国4県のうち高知県に次ぎ、人口は133万4841人(2020)で、他の3県をはるかにしのいでいる。四国山地を主とする山地地域が広く、県面積の4分の3を占めるため、交通が不便で、産業、経済、文化の発達は、瀬戸内海沿岸の松山平野など狭小な平野に集中し、しかも分散している。これは近世に伊予八藩と天領など分割統治下にあったためで、伊予が愛媛県として行政の統合をみたものの、地域性の強い県となっている大きな理由である。土地利用では、平野や山間の盆地では米、麦を主に、一部では野菜栽培をみるが、愛媛県を代表するのは、中部、南部の沿岸傾斜地の柑橘(かんきつ)栽培である。山地では杉、ヒノキの良材生産があり、海岸では宇和海の真珠、ハマチ、マダイ養殖が全国有数の生産を誇っている。近代工業は瀬戸内海沿岸のごく限られた地域に発達し、資源型の重化学工業が多いが、タオル、縫製、紙などは地場産業から成長したものである。経済水準は全国的にも中進県の域を脱することができない状態にある。

 1920年(大正9)の第1回国勢調査による愛媛県の人口は約105万。その後増加を続けてきたが、1957年(昭和32)から1970年までは減少傾向となり、1971年以降増加をみたものの1990年からふたたび減少した。

 2002年4月には12市11郡44町14村からなっていたが、平成の大合併を経て、2020年10月時点では11市7郡9町に再編され、村はなくなっている。

[横山昭市]

自然

地形

東端の四国中央市から西の佐田岬半島まで、東西に走る中央構造線によって、地質、地形は二分される。北側の瀬戸内海沿岸は領家(りょうけ)変成岩や花崗(かこう)岩類、和泉(いずみ)層群などからなっていて、中部の高縄(たかなわ)山地は主として花崗岩類からなり、一部に安山岩が現れている。高縄半島の一部および島嶼(とうしょ)は瀬戸内海国立公園に含まれる。中央構造線を切るように河川が瀬戸内海に注ぎ、その下流に平野をみる。国領(こくりょう)川下流の新居浜(にいはま)平野、加茂川・中山川下流の周桑(しゅうそう)平野(広義の新居浜平野で道前(どうぜん)平野ともいう)、蒼社(そうじゃ)川下流の今治(いまばり)平野、重信(しげのぶ)川・石手(いして)川流域の松山平野(道後(どうご)平野)などが比較的広い平野であるが、全体的に扇状地性で、海岸には砂丘や浜堤(ひんてい)をみる。これらの河川には中・下流で天井川をなすものも多い。中央構造線の南側には四国山地の西半部を占める石鎚国定公園(いしづちこくていこうえん)域があり、西日本最高峰の石鎚山(1982メートル)とその周辺には、東西約50キロメートル、南北約20キロメートルにわたって火山岩類が分布している。山地を切って流れる河川のうち、瀬戸内海(伊予灘(なだ))に注ぐ肱(ひじ)川流域には宇和、野村、内山、大洲(おおず)などの小盆地があり、四万十(しまんと)川の上流である広見(ひろみ)川には鬼北(きほく)盆地、仁淀(によど)川上流の久万(くま)川には久万盆地がある。松山市には、花崗岩の割れ目から湧出(ゆうしゅつ)する日本最古の道後温泉があり、また高知県境には、日本最高地のカルスト地形である大野ヶ原がある。愛媛県は全国第5位の海岸線(1716キロメートル)をもち、宇和海沿岸は沈降性の複雑なリアス海岸となっていて、足摺(あしずり)宇和海国立公園に含まれる。なお、肱川、金砂(きんしゃ)湖、奥道後玉川、篠山、四国カルスト、皿ヶ峰連峰、佐田岬半島宇和海の7県立自然公園がある。

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気候

全般に温暖であるが、とくに瀬戸内海沿岸では冬でも暖かく多照で、雨は少ない。島嶼(とうしょ)部は冬に季節風が吹き、春から夏に霧が発生する。また瀬戸内海の気候の特色として朝凪(あさなぎ)・夕凪現象があり、とくに夏の夕凪現象は「伊予の夕凪」といわれるほどで、非常に蒸し暑くなる。瀬戸内海沿岸でも四国中央市から新居浜市にかけての地域では、晩春に多いフェーン現象を伴うやまじ風(南寄りの強風)が吹くため、屋根を低くしたり、風に強い根菜類を栽培する。四国山地は冬は寒く、積雪をみる。夏は冷涼であるが、仁淀川上流や大野ヶ原、銅山(どうざん)川流域などは年降水量が多く3000ミリメートルを超す所がある。宇和海沿岸は温暖で、冬でも霜をみない所もあって亜熱帯植物のアコウの自生する地区がある。ハマチの養殖が宇和海沿岸に限られているのは、瀬戸内海に比べ冬の水温が2℃ほど高いことによる。なお、松山市の年降水量は1315ミリメートル、平均気温16.5℃である(1981~2010年平均)。

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歴史

古代

県域のほぼ全域は古代の伊予国にあたる。伊予は『国号考』によると温湯(ゆ)をさす語で、ユがヨとなり、発語のイをつけてイヨになったとするなど諸説がある。県名は『古事記』に「伊予国を愛比売(えひめ)と謂(い)う」とあることから愛媛とされた。道後温泉は『伊予国風土記(ふどき)』逸文に、法興(ほうこう)6年(596年=推古天皇4)に聖徳太子が来湯したと記され、『日本書紀』には639年(舒明11)に舒明(じょめい)天皇が皇后とともに伊予温湯宮(ゆのみや)に行幸したとある。松山市の来住廃寺跡(きしはいじあと)(国史跡)は、古代にこの地方が仏教文化の影響下にあったことを物語っている。大化改新ののち伊予国は南海道の一国となり、国府は今治市の南郊にあったとされている。太政官道(だいじょうかんどう)がここから大和(やまと)へ北四国を通過したことから、道前(どうぜん)、道後(どうご)(松山)の地域名がおこった。国の下の郡制では平安初期に13郡、『和名抄(わみょうしょう)』に14郡があり、現在の喜多(きた)郡は866年(貞観8)に宇和郡から分かれた。条里制は松山平野をはじめ北条、今治などの諸平野に施行され、坪付(つぼつけ)名が残っている。瀬戸内海の水軍の活躍は史上有名であるが、平安中期、伊予国司(掾(じょう))でもあった藤原純友(すみとも)が、任期後、宇和海の日振島(ひぶりしま)に拠(よ)って海賊を集めて活躍、讃岐(さぬき)の国府を攻め、内海一帯に威力を示したことは純友の乱として知られる。

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中世

室町時代の伊予国は河野氏(こうのうじ)の支配下にあり、その居城は湯築城跡(ゆづきじょうあと)(国指定史跡)として道後温泉の近くにある。戦国時代には東部、中部を河野氏、喜多郡を宇都宮氏、南の宇和郡を西園寺(さいおんじ)氏が支配したが、1585年(天正13)土佐の長宗我部(ちょうそがべ)氏によって伊予全土が平定された。この年の6月、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の全国統一の一部としての四国平定が始まり、小早川隆景(たかかげ)が討伐にあたって、伊予一国35万石を受領、最初の近世大名として道後の湯築城に入った。

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近世

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで徳川方についた正木(まさき)城(松前(まさき)町)城主加藤嘉明(よしあき)と板島城(宇和島市)城主藤堂高虎(とうどうたかとら)が、それぞれ20万石を得て中予、南予を領有した。加藤氏は松山城主となり、藤堂氏は今治に築城した。その後加藤氏は会津へ転封し、松山藩は蒲生(がもう)氏、松平(久松)氏が継承した。藤堂氏も伊勢(いせ)へ移封し、今治城へは松山藩主の弟松平定房が入った。いわゆる伊予八藩が成立するのは、外様(とざま)大名の転封と親藩大名の新封の曲折を経た17世紀前半ごろであった。八藩の配置は、親藩大名である松山藩15万石、今治藩3万5000石、西条藩(松平氏)3万石は、瀬戸内海沿岸の肥沃(ひよく)な地方を領有し、東北の伊達(だて)氏の一統である宇和島藩10万石と、その分家の吉田藩3万石、加藤氏の大洲藩6万石と分家の新谷(にいや)藩1万石、東予の小松藩(一柳(ひとつやなぎ)氏)1万石は、ほとんどが盆地や宇和海沿岸の僻地(へきち)にあって、徳川幕府の巧妙な統治政策をみせた。このほか幕府直轄の天領は、東予地方の48か村にわたった。そのなかでも、別子(べっし)には日本有数の銅山があり、桜井(今治市)には国府、国分寺跡があって、ともに重要な土地であった。川之江は土佐との交通の要地となっていた。伊予の総石高は200年の間にわずか6万石余の増加にすぎず、1834年(天保5)に46万0997石を数えた。新田開発は西条藩の貞瑞(ていずい)新田の干拓が有名で、同藩は多喜浜(たきはま)塩田の開発を行い、宇和島藩は沿岸漁村を新浦として開き、その段畑耕作は歴史的景観として現存している。しかし、山地の多い伊予では、農林業の生産性は低く、近世に多くの農民一揆(いっき)や農民の他領への逃散(ちょうさん)をみた。一揆は1587年(天正15)から1867年(慶応3)までに110件に及び、とくに宇和島藩が多く44件、松山藩28件、大洲藩19件、吉田藩15件と中・南予地方に多発した。一揆に逃散を伴ったものが多いのは、8藩分立し一揆が団結できず、また他藩へ逃げ込むのに有利であったことによる。

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近代

幕末には、伊予八藩のうち外様大名であった宇和島藩は公武合体論を推進するなど改革に積極的な姿勢をみせた。1871年(明治4)の廃藩置県で伊予八藩は8県となり、松山藩預りの幕府領は倉敷県、のちに丸亀県となった。県の規模を整えるために松山平野の重信川から東の諸藩と丸亀県を合併して松山県とし、同川以西では宇和島県に合併し、県庁をそれぞれ松山と宇和島に置いた。しかし旧藩間の感情対立もあって、1872年に松山県を石鎚山にちなんで石鉄県(せきてつけん)、宇和島藩を出石(いずし)の旧称によって神山県(かみやまけん)と改称した。さらに翌年両県が合併して愛媛県が成立した。1876年には香川県が廃されて愛媛県に合併したが、1888年に香川県が分離し伊予一国の愛媛県となった。翌年の市町村制の施行で松山市が生まれ、県内は1市18郡12町284村となったが、後の郡の統廃合によって12郡が成立、その後7郡となった。

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産業

産業別就業人口の割合は、2005年(平成7、かっこ内は1995年の値)第一次産業9.0%(12.0%)、第二次産業24.9%(30.3%)、第三次産業65.2%(57.5%)で、第一次、第二次の割合の減少が続いている。県内総生産は2003年(かっこ内は1995年の値)で4兆6788億円(4兆9543億円)で全国第27位、四国4県ではもっとも多い。しかし、県民1人当りの所得は232万円(255万円)で全国平均の約80%、第42位と低く、四国でも徳島県、香川県に次いで第3位である。愛媛県は気候温暖で面積も四国の30%、人口も約130万人(2020)を数えるが、経済的には中進県である。それは、産業の発展にとって山地が多く土地利用に制約が大きく、交通条件も不利で、近くに有力な市場がないことによる。しかし、全国的に優位を誇る産品が多く、特産地化が進んでいる。温州(うんしゅう)ミカンやイヨカンなどの柑橘(かんきつ)類をはじめ真珠、ハマチなどの水産養殖、新居浜市や松山市の化学工業製品、今治市周辺の造修船、四国中央市のパルプや紙製品、県内各地に立地した電機製品などの生産は全国的に知られている。これらは、急傾斜地への適作に努めたり、伝統的技術をもとに近代化したり、鉄道や国道の整備、海運の発達などに支えられている。

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農林業

農業生産では、東予が稲作に加えて野菜、果樹栽培、島嶼部では畑作や果樹栽培が多く、松山平野から西では果樹栽培が主で、とくに宇和海沿岸はその主産地である。内陸の大洲、宇和、野村、鬼北(きほく)などの盆地では、稲作のほかにクリやタバコの栽培などが多く、かつては養蚕も盛んであった。稲作が東予に多いのは、平野に恵まれていることと、ミカン栽培が気温低下で不適なことによる。松山平野から東では、降水量が少ないため灌漑(かんがい)用の溜池(ためいけ)が多いことも特色である。愛媛県はミカン王国といわれるが、その栽培は、明治に入って南予の畑作地帯に温州ミカンが導入され、温暖な気候、傾斜地の利用、それに青果農協組織による出荷調整と販売拡充体制の確立などによって発達した。1956年(昭和31)には第二次世界大戦前の栽培面積をしのぎ、1968年には静岡県を超えて全国一の生産を達成した。しかし温州ミカンは、九州の新興産地による過剰生産や価格変動が大きいため、生産調整が図られ、また甘夏柑(あまなつかん)やイヨカンなどの晩柑類への転換が進んでいる。最近ではキウイフルーツの生産が全国第1位となっている。クリの生産は全国的にも優位にある。県中部の伊予市中山町、内子町など山間部では赤中(せきちゅう)種などが栽培される。とくに伊予市中山町のクリは、かつて大洲藩主が徳川家光に献上し賞美されたといわれる。

 林業は四国山地の山林地帯で盛んで、とくに久万盆地や周辺の内子町、宇和盆地が知られている。久万高原町は久万林業の中心で、近世初期から植林が始まり、明治に入って吉野から植林技術が導入された。町域の約9割が山林で、スギ、ヒノキの良材を産出、「久万材」として知られる。民有林の多い内子町内の旧小田町地域では、小田林業として銘木づくりが進んでいる。材木のほとんどは建築用材で、林業が盛んであるにもかかわらず家具工業は少ない。林産物としてはシイタケ生産が増加し、農家の有力な収入源となっている。高知県境の大野ヶ原は、カルスト地形の高原地帯であるが、第二次世界大戦後の開拓者の努力により酪農地として発展し、県内でも優れた生乳産地となった。肉牛は伊予牛として知られ、南予地方で多く飼育される。

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水産業

海岸線の長さ、漁港数、経営体数、真珠の母貝養殖経営体数、ハマチ養殖経営体数などでは全国十指に数えられる水産県である。瀬戸内海沿岸では、タイ、ヒラメ、カレイ、イワシなどの漁獲が多く、とくにタイは魚価上昇が漁獲量の減少を補って、漁民に高収入をもたらしている。またタイの人工孵化(ふか)と稚魚の放流なども行われている。近世以降、イワシ網漁が盛んであったが、乱獲の結果衰退した。南部の宇和海では、カツオ、サバ、ブリ、イワシなどを漁獲するが、イワシ漁業は近世からの伝統をもち、高知県との間で宿毛(すくも)湾の漁場紛争があることでも知られる。カツオ漁業は南部の愛南(あいなん)町深浦を中心に発達し、八幡浜(やわたはま)市は豊後(ぶんご)水道におけるトロール漁業の基地となっている。真珠養殖は、1957年(昭和32)に三重県の業者が進出して本格化した。海水がきれいで、リアス海岸のため養殖用筏(いかだ)の適地が多く、労働力も豊富であったことから真珠生産は全国第2位を誇っている。ハマチ養殖も全国有数で、1959年に宇和海の由良(ゆら)半島南岸で始まり、1965年ごろから各地に広まった。近年過剰生産や過密養殖による海水汚濁が生じている。ハマチ養殖は餌(えさ)を大量に消費するため、水産物流通ルートが大きく変化し、ハマチの産地は冷凍イワシなどの餌の一大消費地ともなった。また、マダイの養殖が増えており、2005年では全国一となっている。瀬戸内海では西条市がノリ養殖地の中心である。かつての瀬戸内沿岸十州塩田の一つとして知られた愛媛県の塩田は、1683年(天和3)の松山藩による波止浜塩田(はしはまえんでん)(63町4反)、1723年(享保8)西条藩による多喜浜塩田(たきはまえんでん)(240町)などがあったが、1972年のイオン交換樹脂膜式への転換で、塩田は工場用地や住宅地に転用された。

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鉱工業

銅の産出では秋田県に次いで第2位を誇った愛媛県は、別子をはじめ佐々連(さざれ)、新宮、大久喜(おおぐき)、千原、広田、出石(いずし)などの銅山があったが、安価な輸入鉱と競合できず、いずれも閉山した。秋田県の阿仁(あに)、尾去沢(おさりざわ)とともに日本の三大銅山であった別子銅山は、1690年(元禄3)に鉱脈が発見され、翌年採掘を開始し、1973年(昭和48)の閉山に至る282年間の採鉱量は2500万トン、産銅量は70万トンに及んだ。別子銅山は住友財閥の拠点で、新居浜市が重化学工業都市として発展した基礎は、住友系の金属鉱山、機械、化学工業が立地したことによる。

 近世から地場工業として成長したものに製紙、タオルがあり、伝統産業としては砥部焼(とべやき)、伊予絣(いよがすり)などがある。山村の多い愛媛県は、商品作物としてのコウゾ、ミツマタの栽培が多く、とくにコウゾによる紙漉(かみす)きは各藩が専売とするほどであった。宇和島藩の仙貨紙、大洲藩の大洲半紙、西条藩の奉書紙などが知られ、大洲半紙、国安(くにやす)(西条市)の奉書紙はいまも生産されている。西日本最大の紙・パルプ工業の集中立地をみる四国中央市の製紙も文政(ぶんせい)年間(1818~1830)の半紙生産に起源をもつが、明治中期のリーター機による機械漉き和紙生産で、手漉きは衰退した。昭和初期に洋紙生産が着手され、1953年の柳瀬(やなせ)ダム完成による工業用水の確保で飛躍的発展を遂げ、多くの中小工場が集中し、新聞紙、段ボールのほか衛生用品など多種品目を開発した。和紙を用いた水引細工の生産も全国第1位で、妻鳥(めんどり)、村松(四国中央市)地区に工場が多い。今治市はタオルを主とする繊維工業都市として知られる。繊維業は、江戸中期の白木綿の生産に始まり、明治中期に織機を導入し、その後、織機改良や先晒単糸(さきさらしたんし)タオル生産などに成功して急増した。中小企業が多いが、豊かな労働力、洗色用水利の便などで全国一の産地となっている。松山藩では江戸中期に農家の副業として縞木綿(しまもめん)の生産があったが、京都西陣の高機(たかばた)の導入後、今出(いまず)(松山市)の鍵谷(かぎや)カナが考案し、伊予絣と名づけられて、松山は久留米(くるめ)、備後(びんご)とともに絣の大産地となった。第二次世界大戦後は染料の質の低下、問屋機能の衰退などで生産は減少した。松山市南郊の砥部は四国最大の陶磁器砥部焼の産地で、陶石を原料とした磁器生産に特色がある。大洲藩の奨励により始まったもので、中四国の農山村に販路を開拓、第二次世界大戦前は東南アジアにまで輸出した。今治市菊間(きくま)町の特産菊間瓦(がわら)は、松山藩の保護のもとに株仲間組織で生産を行い、明治初期には皇居造営用にも供したほどである。最近は真空瓦方式で工程を短縮した。

 近代工業は、新居浜市の住友系企業が先駆で、1930年(昭和5)住友肥料製造所(現、住友化学)が過リン酸石灰や配合肥料の生産を開始、ついで人絹(じんけん)、スフ生産の大江製造所、アルミニウムの菊本製造所、別子鉱業所から独立した住友機械製作(現、住友重機械工業)などが立地し、瀬戸内海沿岸で唯一の財閥系コンビナートとなった。このうちアルミニウムの磯浦工場(いそうらこうじょう)は生産過剰のため、1982年に操業休止となった。昭和10年前後から川之江町(現、四国中央市)の明正紡績(のち富士紡績。現、フジボウ)、南予の三瓶(みかめ)町(現、西予市)の敷島紡績(現、シキボウ)など瀬戸内海沿岸に紡績工場が立地した。これは労働力、海運、用水の便を求めたものであったが、現在は松前町の東レなど数工場が操業しているにすぎない。第二次世界大戦後、松山市臨海部に化学繊維の帝人が進出し、また石油精製の工場の立地をみたが、これら近代工業の多くは一次加工品の生産が主で、最終製品の生産は行わず、地元産業との結合をみないため、地域への波及効果は薄い。大正初期におこった造船業は、今治市波止浜や同市大西町に集中立地し、輸出用船舶も生産するなど有力な産業となった。電機産業は、松下(現、パナソニック)系列などの組立て工場が西条市、東温(とうおん)市、大洲市に進出し、雇用促進に役だっている。

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開発

東予地方5市12町村が1963年(昭和38)に新産業都市の指定を受けて、燧灘(ひうちなだ)沿岸の埋立てや産業道路、港の建設が進んだ。さらに松山市周辺と新産業都市の大部分の地域が1988年(昭和63)に、愛媛テクノポリス開発計画の承認を受けた。これらによって中東予地方には、従来の機械・化学・紙の諸工業に加え、三菱電機や松下寿電子工業(現、パナソニックヘルスケア)などが立地、日新製鋼やアサヒビールの進出も決まり、関連して技術高度化支援の東予産業創造センターが完成した。松山空港と松山港の近くには、全国最初のFAZ(ファズ)(輸入促進地域)構想の指定によって、輸入促進と保税施設などが完成し、四国最大の貿易地域に転じた。南予地方では、第三セクターの南予レクリエーション都市による日本庭園や運動施設などが完成、また宇和海や伊予灘沿岸は新マリノベーション構想の指定によって、漁場の改善と漁村の整備が進んでいる。主要河川では、鹿野川(かのがわ)や野村、笠方、柳瀬など多くのダムが完成し、さらに富郷(とみさと)ダムが2000年(平成12)完成、南予では山鳥坂(やまとさか)ダムの計画がある。これらにより、すでに道前道後農業用水や南予用水が完成、生活や工業用水の安定供給が進んでいる。また県では、2004年に県内の18都市計画区域において「都市計画区域マスタープラン」を策定している。

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交通

JR四国の旅客輸送の約50%を占める予讃線(よさんせん)が、旧国鉄時代に高松市から松山市に開通したのが1927年(昭和2)で、宇和島市まで全通したのは1945年であった。しかし、松山市では日本最初の民間軽便鉄道(伊予鉄道、通称「坊っちゃん列車」)が外港の三津浜と結んだのは、1888年(明治21)と早かった。松山市は四国の主要国道の起終点であるが、中国、九州とのフェリー航送の重要な港でもある。四国縦貫の松山自動車道も2004年(平成16)西予市まで、2012年宇和島市まで開通している。1999年には芸予諸島を結ぶ本州四国連絡橋尾道(おのみち)―今治(いまばり)ルートの西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)の全橋梁(きょうりょう)が完成し、今治と本州の尾道が結ばれた。松山空港は年間約240万人(2010)が利用する四国最大の空港である。

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社会・文化

教育・文化

四国4県のなかで、宰相の出ない県は愛媛県だけである。これは明治期の薩長土肥(さっちょうどひ)と異なり藩民が官につくより、学界や司法界、文学界に進んだことによる。藩政時代に各藩は教育に熱心で、大洲藩の中江藤樹(とうじゅ)による明倫(めいりん)堂、宇和島藩の明倫館、今治藩の克明(こくめい)館、松山藩の明教館などの藩校が有名であった。県民性も教育熱心で、大学進学率は52.1%(平成21年度)に達する。2012年(平成24)現在、松山市には、四国最大の6学部をもつ愛媛大学、2004年開学した県立医療技術大学、私学として歴史の古い松山大学をはじめ松山東雲女子大学、聖カタリナ大学(2004年4月に男女共学化し、聖カタリナ女子大学から改称)ほか3校があり、そのほか短大は国立が1校、私立が5校、国立高等専門学校が2校ある。

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生活文化

文化活動などを通して、愛媛県ではその地域性を評して「南高、東低、中だるみ」といわれる。南とは旧宇和島藩や旧大洲藩のあった南予地方で、宇和島、大洲の城下町や、商港として栄えた八幡浜などがその中心である。藩政時代から士族子弟の教育に熱心な所で、とくに宇和島藩主伊達(だて)氏が幕末に政界で活躍、その開国開明派の立場は、村田蔵六(大村益次郎(ますじろう))、高野長英などの登用にみられ、また蘭方医(らんぽうい)二宮敬作、女医楠本(くすもと)イネ(シーボルトの娘)などの活躍をみた。宇和島藩が奥州伊達氏仙台藩の分家であることから伊達氏の文化が導入され、八鹿(やつしか)踊りのような民俗にも継承されており、文禄(ぶんろく)の役で加藤清正が使用したともいわれる牛鬼(うしおに)とともに高知県南部にまで伝承されている。また、遍路への茶の接待や地区の人々の憩いの場としての茶堂(ちゃどう)(国の選択無形民俗文化財)も多く、山村の風物詩となっている。宇和島市や北宇和郡の神社の春祭に演じられる伊予神楽(かぐら)は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 中予地方は旧松山藩領が主で、教育熱心な伝統がある。明治時代には秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟で代表されるように文人的武人が多く出、また近代俳句の祖となった正岡子規(しき)や放浪の俳人種田山頭火(たねださんとうか)が住んだ所が松山市であった。城下町と日本最古の温泉である道後があり、穏やかな風土のなかに文人を育てた。新派の名優井上正夫、ノーベル賞作家大江健三郎などは松山市近郊の出身である。松山市立子規記念博物館は全国の俳句愛好者にとっての聖堂の観がある。伊予万歳は藩政時代から伝承されてきた無形文化財である。愛媛県民は祭り好きといわれるが、松山市と周辺の秋祭は地方祭(ちほうさい)とよばれて学校や企業は休みとなるほどである。四国八十八か所の札所のうち中予地方には名刹(めいさつ)が多く、四国山地の中の45番海岸山岩屋寺(いわやじ)は奇岩のそびえる景勝の地にあり、付近には久万高原(くまこうげん)ふるさと旅行村があって、山村の民俗を知ることができる。石鎚山(いしづちさん)は山岳信仰の霊峰であるが、夏は一般登山客でにぎわう。

 東予地方は、今治藩の城下町今治市をはじめ、瀬戸内海に面した狭長な県東部の地域である。住友財閥の発祥の地である別子銅山に起源をもつ新居浜市は企業城下町であるが、銅山の歴史を伝える別子銅山記念館は半地下式の独特の建造物である。この地方の秋祭は盛大で、とくに新居浜市や西条市の太鼓台とだんじり(山車(だし))の華やかさと勇壮さは圧巻である。東予地方は工業化や商業活動が盛んで、文化活動は熱心ではないといわれる。それは、小藩分立と幕府直轄領などが入り組んでいた歴史にもよるが、地場産業としては、伝統技術による紙加工、水引、和紙、タオルなど全国的に誇るべきものが多い。西条市は小城下町のたたずまいを残し、民芸館は全国の民芸品の収蔵で知られる。今治市の海岸には瀬戸内海沿岸でも数少なくなった石風呂(いしぶろ)があって、住民にいまも愛好されている。芸予諸島中の大島には「島四国八十八か所」巡り(しましこくはちじゅうはっかしょめぐり)があり、善根宿(ぜんこんやど)とよばれる民宿が残っていて人情の厚さを伝えている。大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の秋の大祭には周辺から船に乗って多くの氏子が集まり、神事の一つ一人角力(すもう)は県の無形民俗文化財。ここの宝物館には、全国の国宝・重要文化財指定の武具甲冑(かっちゅう)の約8割が収蔵され、神社が武人の守護神でもあったことをしのばせる。

 これらの島々や今治市の周辺には弓祈祷(きとう)の系統があって、一つの文化圏をつくっている。また、瀬戸内海から南予の宇和海の沿岸には祭神が港内外を巡航する渡御(とぎょ)の祭りの「櫂練り(かいねり)」「櫂伝馬(かいでんま)」が伝えられる。松山市の鹿島、大三島の宗方(むなかた)などの櫂伝馬は豪快で、松山市の興居(ごご)島や忽那(くつな)諸島などの船踊りなどは、神輿(みこし)の船渡御を芸能化したものである。

 瀬戸内海と外洋の宇和海沿岸ならびに内陸山村には、それぞれ海と山の食習慣がある。そのなかで産業として発展したものに、瀬戸内海の小魚(こざかな)を主原料とした「珍味」がある。松山市の南郊の松前(まさき)町を中心に生産され、小魚のほかにエビ、カワハギ、海藻なども使われる。これは福岡県の儀助煮(ぎすけに)の技術が導入されたもので、原料の新鮮さが有名である。南予地方はカツオ漁が盛んで、高知県のカツオたたきの食文化圏に入る。

[横山昭市]

伝説

屈曲した海岸線と離島をもつ愛媛の伝説は、他と異なる持ち味があってその数も豊富である。四国には弘法大師(こうぼうだいし)(空海(くうかい))にまつわる伝説が多いが、よく知られているのは「衛門三郎(えもんさぶろう)」である。強欲無頼の三郎も大師の教化によって迷夢から覚め、遍路1号になったという。三郎の遍路の順路は「逆(ぎゃく)うち」といって逆に回るが、逆うちはその途中で大師に会えるといまも信じる者がいる。宇和島藩士の「山家清兵衛(やんべせいべえ)」は冤罪(えんざい)によって非業(ひごう)の死を遂げた。その祟(たた)りを恐れて建立された和霊神社(われいじんじゃ)の夏祭は、四国、九州から漁船が集まりにぎわいをみせる。「おたちきさん」は西条市木曳野(こびきの)にあり、氷見(ひみ)高尾城主と従臣を祀(まつ)る。謀殺された主従7人の怨霊(おんりょう)は「七人みさき」になって夜行し、これに会うと病にかかるという。大洲城の首なし馬も「七人みさき」と同工。討ち死にした祖母井(おぼい)城主の霊が首なし馬になって現れる。平家落人伝説(おちゅうどでんせつ)も多く、「袖姫(そでひめ)」は宇和島の堂崎山観音堂に身を隠したが、源氏方に殺された。その墓は観音堂の傍らにある。「清姫(きよひめ)」は上浮穴(かみうけな)郡面河(おもご)(現久万高原町)で大岩に小袖をかけて命を絶った。そののち大岩を「小袖岩」とよぶようになった。西条市中ノ池の「筋神さん(すじがみさん)」も筋(すじ)の病で死んだ平家の女官で、同病の者が祈願すると御利益(ごりやく)があるという。杏の里(あんずのさと)の八幡浜市合田(ごうだ)は、梶原景時(かじわらかげとき)の娘ちどりが難を逃れて隠れた所。アンズは、ちどりがもっていた種子から増えたといい、「ちどり塚」が残る。悲しい女を祀る祠(ほこら)は西条市壬生川(にゅうがわ)にもある。大海に流された「藤御前(ふじごぜん)」の舟はこの浜に漂着したが、村長(むらおさ)の暴行を拒んだため蛇(へび)責めにあい自害した。それを里人が哀れんで建てたのが藤御前の祠である。屈曲に富む内海の浦里はひそかに舟を寄せるのに絶好の地で、多くの落人が上陸して奥地に隠れた。その足跡は各地にある。伊方(いかた)町河内には彼らが祀ったと伝える「安徳帝の祠」がある。また八幡浜市の宮内川の上流の谷間に隠れた平家の落人が、白鷺(しらさぎ)の群れを源氏の白旗と見誤って一村ことごとく自刃して果てたという。この平家谷(八幡浜市保内(ほない)町)にはいまもなお平姓を名のる家が残っている。

[武田静澄]

『『愛媛県史 概説』2巻(1961・愛媛県)』『『日本地誌18 愛媛県』(1969・二宮書店)』『『愛媛県の地名』(1980・平凡社)』『『角川日本地名大辞典38 愛媛県』(1981・角川書店)』『『愛媛県史 地誌Ⅰ 総論』(1983・愛媛県)』『『愛媛県史・地誌Ⅱ~Ⅴ』(1988・愛媛県)』『横山昭市他監修『愛媛県風土記』(1991・旺文社)』『横山昭市監修『愛媛の風土と観光』(1993・愛媛県)』『内田九州男他著『愛媛県の歴史』(2003・山川出版社)』


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