池田村の北西部、
元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)によると総家数一千五七一で、うち寺社・蔵・納屋・空屋などを除くと一千四六六となる。人数は五千人くらいであったかと思われる。同絵図によると、商家は二三八を数え、内訳は食料関係として酒屋三二・米屋二一・茶屋七・餅屋七・塩屋七・魚屋六・豆腐屋五・饅頭屋五・茶商四・茶売三・味噌屋二・菓子屋二・他七。衣料・日用品関係では古手屋一五・小間物屋一二・荒物屋七・木綿屋四・油屋四・足袋屋三・割木屋三・布屋二・鍋屋二・瀬戸物屋二・炭屋二・炭商二・小間物売二・他六。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府北西部の市。1939年市制。人口10万4229(2010)。市域の北部は北摂山地,南部は古扇状地と猪名川の沖積地が広がる。古代は渡来系の工人の里で,呉服(くれは)・伊居太(いこた)の両社は機織の祖を祭る。猪名川の谷口集落としての池田は,戦国時代から月に12回の市が立ち,北摂山村の木炭,木材などと平地の農村の米などの商取引が盛んな在郷町であった。とくに池田炭と近世に発展した酒造業で有名であった。1910年箕面有馬鉄道(現在の阪急宝塚線・箕面線)の開通後は大阪の通勤圏に入り,住宅都市となっている。中国自動車道のインターチェンジがある。細河地区は植木,苗木,花の生産地として愛知県の稲沢,埼玉県の安行などと並ぶ。また市内にはダイハツ自動車工場がある。中心市街の北にある城山は旧池田城址で,付近は五月山公園として市民に親しまれている。
執筆者:服部 昌之
摂津国豊島郡に属し,猪名川および能勢街道が北摂山地を出た谷口に位置し,西国街道にも近い交通の要地にあった。《日本書紀》に呉服里と記された地。《和名抄》に秦上・秦下郷が記されるように,渡来人の居住による開発が早くからみられ,平安後期には,院法華堂領呉服荘が成立,中世後期まで呉服の地名も用いられた。この地が池田と称されるようになったのは,南北朝時代,国人池田氏が台頭してからである。呉服荘は池田荘とも称したようで,池田氏はここを本貫として成長したのであろう。以後池田氏は室町後期には,守護細川氏の北摂方面の有力被官となり,塩川・伊丹氏と鼎立(ていりつ),五月山麓に池田城を構えた。応仁の乱には足軽1000人を率いて参加するほどの勢力であり,城下町の形成も進んだものと思われる。しかし1469年(文明1)に西軍大内氏に囲まれて以後,戦国時代を通じて池田城の攻防戦は繰り返された。1568年(永禄11)上洛した織田信長は池田城を包囲し城下に火をかけ,池田勝正は降伏した。
執筆者:熱田 公 池田氏降伏後,その重臣荒木村重が台頭して交替し,1574年(天正2)摂津一国支配の本城として伊丹に移った。このとき重臣,御用商人,寺院の一部が伊丹へ移され,79年村重の信長への反乱の際,池田は一層荒廃した。しかし街道の分岐点でもあるので,周辺の竹木を買い留め,市を立てる新町屋も成立。池田・荒木の旧臣も土着化した本町屋は1614年(慶長19)大坂の陣中,徳川方に兵粮(ひようろう),酒を献上し十二斎市や酒造の認可朱印状を受け,市では米,果蔬(かそ),衣料,器物,諸材,柴,炭などを売買し,酒造仲間は明暦期(1655-58)42株,元禄期(1688-1704)63株,1697年総酒造高1万1238石余,江戸積の酒造特産地として発展した。同年の寺社倉庫を除く総戸数1466戸,うち酒屋33戸,問屋20戸あり,古手屋15戸,小間物屋14戸など商工業者も多く,問屋,酒屋など有力商人は多く東西本町に住む。一方,日用・糸引なども商工業者戸数の26%いた。しかし公認の馬借所も1682年(天和2)困窮のため商札を返上し,運送は猪名川舟運にたより川沿いの新町が発展するが,猪名川は水量変動が激しく不便で,海上交通の便もよく品質改良した灘酒に池田酒は圧迫された。池田炭も生産地から大坂へ直接販売されるようになる。町政は文禄検地後池田村として〈一本庄屋〉であったが,上池田,西池田,中池田,下池田の四村株,1713年(正徳3)近衛家領の池田町株に分かれ,各町村株ごとに村方三役が選出された。しかし株仲間を結成した青物問屋,魚屋,酒屋の多い東西本町の力は強く,酒造年寄が兼帯もする中池田の一本庄屋の権威も幕末ごろまで続いた。
執筆者:中部 よし子
北海道南東部,十勝支庁中川郡の町。人口7527(2010)。根室本線が通じ,北海道ちほく高原鉄道(2006年廃止)を分岐する。道東自動車道のインターチェンジがある。明治中期までは河道改修前の十勝川と十勝利別川との合流点にあたっていた利別が港町として栄えていた。現在の中心市街は1896年侯爵池田伴博が開いた農場に始まり,1904年の鉄道開通以後急速に発展した。畑作物には豆類が多く,酪農と肉牛飼養も盛んである。水田面積は十勝の町村の中では最も広く,35年十勝川本流に設けられた堰堤(えんてい)から用水を得て千代田地区の水田が急増し,この堰堤はサケの遡上を妨げて,採卵用サケの捕獲地となっている。66年に発売された〈十勝ワイン〉は,耐寒性のブドウ栽培,ワイン製造,販売が一貫して町営で行われている。
執筆者:岡本 次郎
岐阜県西部,揖斐(いび)郡の町。人口2万4980(2010)。東端を揖斐川が流れ,西部は池田山系の山地に属し,その東側に濃尾平野北西端に当たる大小の扇状地が開ける。古代~中世は池田荘に属し,室町時代に美濃国守護となった土岐頼忠の本拠地で,本郷に城があった。現在の中心集落は池野。肥沃な水田地帯で良質の池田米を産し,イチゴ,タマネギ,美濃揖斐茶の産地でもある。南端の金生山からは石灰岩を産出する。タイヤ,ゴム製品,紡績,機械部品などの生産も行われている。養老鉄道が通じ,大垣市への通勤者も多く宅地化が進む。池田山麓一帯には願成寺古墳群をはじめ多くの古墳が点在する。また山麓の霞間ヶ渓(かまがたに)公園の桜は名勝・天然記念物に指定され,一帯は伊吹山県立自然公園に属する。
執筆者:上田 雅子
福井県中部,今立郡の町。人口3046(2010)。足羽(あすわ)川上流域を占める山村で,町域の大部分は越前中央山地と越美山地に属する山地からなる。足羽川本支流の合流地点に小規模な盆地が開け,河川沿いに小集落が散在する。古くから越前と美濃を結ぶ交通の要所にあり,町名は鎌倉時代よりこの地を池田郷と称したことに由来する。農林業を基幹産業とし,特に杉材の生産が多い。副業として杉苗,ナメコ,山菜など林産物の生産が行われる。2月15日に行われる水海の鵜甘(うかん)神社の祭礼には,北条時頼が諸国行脚の際当地に伝えたといわれる田楽・能舞(重要無形民俗文化財)が奉納される。室町中期建造の須波阿須疑神社本殿,入母屋造の江戸前期の民家堀口家住宅は国の重要文化財。
執筆者:上田 雅子
長野県北西部,北安曇(きたあずみ)郡の町。人口1万0329(2010)。松本盆地北部に位置し,北は大町市に接する。町域は高瀬川沿いの平地と東部の中山山地からなる。中心集落の池田は近世には千国街道の宿場町として発達し,御他屋と称する松本藩の役所が置かれていた。大正から昭和初期にかけては岡谷,須坂に次ぐ製糸の町として繁栄した。高瀬川沿岸は古くから安曇平有数の米どころで,現在は米作を中心に野菜,花卉,リンゴ栽培,畜産が行われ,都市近郊農村的色彩を濃くしている。また1992年町営のハーブセンターが完成し,生産から販売まで行って地場産業の中心をなしている。精密機械工場など50余の工場が立地しているが,さらに工業団地の造成,工場誘致が進められている。
執筆者:柳町 晴美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大阪府北西端にある市。猪名川(いながわ)を隔てて兵庫県に接する。1939年(昭和14)市制施行。北摂山地の南端五月(さつき)山の山塊と猪名川の古扇状地からなり、市街地は同川の谷口に発達する。阪急電鉄宝塚本線、箕面(みのお)線と国道176号(旧、能勢(のせ)街道)、171号、173号、423号、阪神高速道路池田線などが通じ、中国自動車道中国池田インターチェンジが設置されている。また、隣接する伊丹(いたみ)市、豊中(とよなか)市にかけて、大阪国際空港がある。
五月山山麓(さんろく)は先史時代から開け、縄文、弥生(やよい)時代の遺跡や尊鉢(そんぱち)などの古墳も多い。『日本書紀』応神(おうじん)天皇の条に記載の大陸の渡来人呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)はこの地に機織業を伝えたといわれ、呉服(くれは)、伊居太(いけだ)の両社はこれらの人々を祭神とする。中世には池田氏が築城、その治下となったが、近世廃城後は能勢街道沿いの市場町として、山地の炭、クリ、木材、平地の米、塩、古着などの交易で栄えた。1910年(明治43)箕面有馬電気軌道(現、阪急電鉄宝塚本線・箕面線)が通じてから住宅地化が進み、大阪市の衛星都市となった。産業には、在来の酒造、製材業などのほかダイハツ工業(自動車)、リコー(感光紙、現像液)などの進出をみた。植木栽培は全国に知られる。久安寺(きゅうあんじ)は行基創建と伝えられ、室町時代の楼門は国の重要文化財。また、五社神社にある凝灰岩製の十三重塔も国の重要文化財に指定されている。阪急の創業者小林一三旧邸には逸翁(いつおう)美術館がある。面積22.14平方キロメートル、人口10万4993(2020)。
[位野木壽一]
『『池田市史 概説編』『池田市史 史料編1~9』(1971、1967~1992・池田市)』▽『『新修池田市史』全5巻・別巻(1997~2012・池田市)』
香川県北部、小豆郡(しょうずぐん)にあった旧町名(池田町(ちょう))。現在は小豆島町(しょうどしまちょう)の西部にあたる一地区で小豆島の南西部を占める。1929年(昭和4)町制施行。1954年二生(にぶ)村、三都(みと)村と合併。2006年(平成18)内海(うちのみ)町と合併し、小豆島町となる。主として花崗(かこう)岩からなる山地が海岸に迫り、平地に乏しい。1976年の台風17号による集中豪雨では花崗岩の風化したマサ土が崩れ、土石流災害で多数の死者を出した。高松との間にはフェリーが就航する。国道436号が通じる。手延べそうめんの主産地で、その歴史は古く約400年といわれる。花卉(かき)栽培も盛んで、1950年電照ギクの試作に成功し大産地を形成する。
文化財には農村歌舞伎(かぶき)(県指定無形民俗文化財)の演じられる中山農村歌舞伎舞台(国指定重要有形民俗文化財。春日(かすが)神社境内)や明王寺釈迦(しゃか)堂(国指定重要文化財)などがあり、誓願寺のソテツ、皇子神社社叢(しゃそう)(ウバメガシなど)は国の天然記念物。山間部には石造の猪垣(ししがき)も残る。
[新見 治]
『『池田町史』(1984・池田町)』
徳島県北西部、三好郡(みよしぐん)にあった旧町名(池田町(ちょう))。現在は三好市の北部を占める地域。吉野川の屈曲部に位置する。旧池田町は、1905年(明治38)町制施行。1956年(昭和31)箸蔵(はしくら)村、1959年佐馬地(さまち)村、三縄(みなわ)村と合併。2006年(平成18)三野(みの)、山城、井川の3町および東祖谷山(いややま)、西祖谷山の2村と合併、市制施行して三好市となる。JR土讃(どさん)線、徳島線、国道32号、192号が通じ、近くに徳島自動車道井川池田インターチェンジが設置されている。讃岐(さぬき)、土佐、伊予に通じる交通の要所で、中世末期には吉野川南岸の上野台に大西城が築かれた。寛政(かんせい)年間(1789~1801)ごろから刻みたばこが量産され、1898年(明治31)には池田葉煙草専売所(いけだはたばこせんばいしょ)が設立された(後身である日本たばこ産業池田工場は1990年に閉鎖された)。池田ダムが1975年完成し、香川用水、北岸用水の水利事業が進められている。北部に四国霊場66番札所の雲辺(うんぺん)寺と番外の札所箸蔵寺がある。雲辺寺の絹本著色聖衆来迎図は国指定重要文化財。箸蔵寺は本殿など6棟が国指定重要文化財。黒沢湿原にはオオミズゴケ、サギソウなどの湿原植物群落がみられ、県の天然記念物となっている。
[高木秀樹]
『『池田町史』全3巻(1983・池田町)』
北海道中南部、十勝(とかち)総合振興局管内にある町。1926年(大正15)町制施行。元鳥取藩主池田仲博侯爵所有の農場内に置かれた駅名を町名とした。十勝川、利別(としべつ)川の河谷と標高280メートル以内の丘陵からなり、JR根室(ねむろ)本線、国道242号が通じ、道東自動車道池田インターチェンジがある。JR池田駅より分岐していた北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線は2006年(平成18)に廃止となった。入植開始は1879年(明治12)ごろで、1904年鉄道開通後開拓が進み、利別、池田に市街地が発達した。インゲンマメ、アズキ、サトウダイコン、ジャガイモなどの畑作と、酪農、肉牛飼育、またはこれらを組み合わせた混合農業が主産業。林産加工、食肉加工、食品、縫製、コンクリートなどの工業が行われ、利別工業団地もある。1963年(昭和38)町営でワインの試験醸造に着手し、1967年に十勝ワインの市販を開始。ワイン醸造所のワイン城と、十勝川の秋サケ捕獲場の千代田堰堤(えんてい)が主要観光地。面積371.79平方キロメートル、人口6294(2020)。
[古川史郎]
福井県中部、今立郡(いまだてぐん)にある町。1964年(昭和39)町制施行。足羽(あすわ)川上流の山村で、中心の稲荷(いなり)は、福井市からバス(国道417号)が通じ、南部は魚見坂により越前(えちぜん)市と結ばれるほか、国道476号が通る。いまは過疎地となったが、昔は武生(たけふ)(現、越前市)と奥越(おくえつ)を結ぶ交通の要地であった。スギの育林業が盛ん。稲荷に室町時代の本殿をもつ須波阿須疑神社(すわあずきじんじゃ)、江戸時代中期の民家の堀口家(ともに国指定重要文化財)があり、水海(みずうみ)の鵜甘神社(うかんじんじゃ)は国指定重要無形民俗文化財である田楽(でんがく)能舞を伝える。面積194.65平方キロメートル、人口2423(2020)。
[島田正彦]
『『池田町史』(1977・池田町)』
岐阜県南西部、揖斐郡(いびぐん)にある町。濃尾(のうび)平野の北西部、揖斐川右岸に位置する。1954年(昭和29)町制施行。1955年宮地(みやじ)、八幡(やはた)の2村と合併。1956年養基(やぎ)村の一部を編入。養老鉄道が通じ、大垣へは車で20~30分(国道417号)。農業は米作と野菜栽培が行われ、町の西辺の池田山(924メートル)山麓(さんろく)は美濃揖斐茶(みのいびちゃ)の最大の産地である。工業は地場産品を扱う食料品製造、窯業・土石製品製造、ゴム製品製造、一般機械器具製造に従事する人が多い。古墳が多く、なかでも願成(がんじょう)寺古墳群(県指定史跡)は100基を超える。霞間ヶ渓(かまがたに)のサクラは国の天然記念物で行楽客が多い。面積38.80平方キロメートル、人口2万3360(2020)。
[上島正徳]
『『池田町史』全2巻(1974、1978・池田町)』
長野県北西部、北安曇郡(きたあずみぐん)にある町。松本市の北方に位置し、1915年(大正4)町制施行。1955年(昭和30)会染(あいそめ)村を合併。1957年陸郷(りくごう)村、広津村、明科(あかしな)町の各一部を編入。高瀬川の左岸で、中心部の池田地区は松本盆地の一角を占め、水田農村部の地方的買物町をなす。可耕地の多くが水田であるが、東部は丘陵地帯で果樹林や畑などになっている。明治末期まで糸魚川(いといがわ)街道の宿場町で、昭和初年までは製糸業が盛んで町勢も発展したが、JR大糸(おおいと)線や国道147号が西隣の松川村を通過することや、製糸業の衰退で工業は第二次世界大戦後停滞している。面積40.16平方キロメートル、人口9382(2020)。
[小林寛義]
『仁科宗一郎著『信濃池田町史話』(1964・柳原書苑)』
静岡県磐田市(いわたし)西部の一地区。旧池田村。天竜川下流東岸に位置し、農業地帯。東海道を東へ下る場合の天竜川の渡渉(としょう)地点で、宿駅として鎌倉時代以来紀行文にしばしば登場する。また、松尾(まつのお)神社領遠江(とおとうみ)国池田荘(しょう)の中心地でもある。源範頼(のりより)の母は池田宿長者の娘。平宗盛(むねもり)と長者の娘熊野(ゆや)の悲恋物語は謡曲『熊野』で有名。行興寺の長フジは熊野の長フジといわれ、国指定天然記念物。国道1号が通じる。
[川崎文昭]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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