青森(読み)アオモリ

デジタル大辞泉 「青森」の意味・読み・例文・類語

あおもり〔あをもり〕【青森】

東北地方最北端の県。もとの陸奥むつの大半を占める。県庁所在地は青森市。人口137.3万(2010)。
青森県中央部の市。県庁所在地。青森湾に臨み、江戸廻米かいまいの積み出し港として発展。8月に行われるねぶた祭は東北三大祭りの一。人口29.9万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「青森」の意味・読み・例文・類語

あおもりあをもり【青森】

  1. [ 一 ] 青森県中央部の地名。県庁所在地。青森湾に臨み、青森平野の中心部を占める。寛永二年(一六二五)東廻海運の起点となり、港町、市場町として発達。青函航路や青函トンネルにより、北海道と本州との結節点として機能。八月に行なわれるねぶた祭は有名。明治三一年(一八九八)市制。
  2. [ 二 ]あおもりけん(青森県)」の略。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「青森」の意味・わかりやすい解説

青森(県)
あおもり

本州の北端にある県。北部では、下北半島(しもきたはんとう)と津軽半島が北に突き出て陸奥湾(むつわん)を抱き、特色ある形態を示している。津軽海峡を隔てて北海道と相対し、南は秋田、岩手の両県に接している。また、東は太平洋、西は日本海に面し、三方を海に囲まれており、海岸線は総延長680キロメートルに及ぶ。種々の面で海との関係が深い県といえる。気候的には温帯気候の北限をなしており、夏は短く冬が長い。生物の分布上でも限界を示すものが多く、植物ではアオモリトドマツ、コメツガなどが八甲田(はっこうだ)山を北限としている。また、夏泊(なつどまり)半島先端はツバキの自生北限地である。逆に寒地植物のヒメワタスゲ、カラフトイチヤクソウなどの南限地である。動物ではニホンザル成育地の北限が下北半島山地部にある。

 青森県は首都や大消費地に遠く、交通網や輸送施設の整備が遅れたため、商品の輸送に時間とコストがかかりすぎ、商品の販売や原料入手に不利であった。したがって、八戸(はちのへ)地区を除くと、工業化は遅れており、農業県としての性格が強い。農業においても気候的な制約が大きく、下北地方のように冷害頻度の高い地域や津軽地方の水田単作地帯では出稼ぎ者が多く、社会問題にもなっている。

 2020年(令和2)の人口は123万7984。2020年の自然動態は出生数6837、死亡者数1万7905で、自然増加数はマイナス1万1068であった。2020年の社会動態は転入数1万6967、転出数2万1573で、4606の転出超過であった。これは県内の労働市場の不足を示し、出稼ぎなどの形で転出しているのである。面積9645.64平方キロメートル。

 2020年10月時点で、10市8郡22町8村からなる。県庁所在地は青森市。

[横山 弘]

自然

地形

県の中央部を奥羽山脈が縦走し、これを境にして東西それぞれ異なった地形的特色を示している。東部は火山灰に厚く覆われた三本木原台地(さんぼんぎはらだいち)や海岸段丘が広く分布し、西部は津軽平野の広大な沖積低地と、秋田県境から岩木山麓(さんろく)にかけて広がる出羽山地(でわさんち)の延長が大部分を占めている。主として第三紀層からなる奥羽山脈が、夏泊半島や津軽半島の脊梁(せきりょう)部と下北半島の一部を形成し、奥羽山脈に重なる状態で火山帯が走り、八甲田山、恐山(おそれざん)などの火山を噴出させている。南西部には、出羽山地の延長が白神(しらかみ)山地となって秋田県との境をなしている。南部には十和田火山(とわだかざん)の噴出による大カルデラがあり、これに水をたたえた十和田湖がある。下北半島の恐山火山もその中央にカルデラ湖(宇曾利山(うそりやま)湖)をもっている。

 平野は津軽平野と青森平野以外にあまり大きいものはない。津軽平野は南北に長い盆地状の平野で、主として岩木川の本流や支流によって潤される標高20メートル以下の低平な平野である。青森平野は陸奥湾に面して半月状に開いており、八甲田山に源を発する荒川、駒込(こまごめ)川によって形成された沖積平野である。

 県内の自然景観を代表するものには次のものがある。秋田県境に位置する十和田湖と奥入瀬(おいらせ)渓流、八甲田山を中心とする十和田八幡平(はちまんたい)国立公園、蕪島(かぶしま)、種差海岸(たねさしかいがん)、階上岳(はしかみだけ)などからなる三陸復興国立公園(2013年指定)、特異な風景を展開する恐山や、大間崎、佐井の願掛岩(鍵掛岩)(がんかけいわ)から仏ヶ浦(ほとけがうら)、鯛島(たいじま)などの海岸景観からなる下北半島国定公園、七里長浜などの海岸線、岩木山、十二湖などを主とする津軽国定公園。また県立自然公園として、浅虫(あさむし)夏泊、芦野(あしの)池沼群、岩木高原、黒石温泉郷、名久井岳(なくいだけ)、大鰐碇ヶ関(おおわにいかりがせき)温泉郷、赤石渓流暗門の滝の七つがある。

 また秋田県境の白神山地はブナの原生林地域で、1990年に林野庁ではブナ林の保護のため「森林生態系保護地域」として白神山地を選定した。またユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択(1974)の「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」に基づき自然遺産リストに登録(1993)されていて、この地域は木材生産を目的とした伐採がまったくできない「聖域」となった。

[横山 弘]

気候

温帯気候の北限にあり、短い夏と寒くて長い冬が特徴的である。奥羽山脈を境にして東側は太平洋岸式気候で、夏季に冷たい偏東風(やませ)が吹き付け、稲作にしばしば冷害を与える。冬は積雪が少なく、晴天の日が多いが、寒さは厳しい。西側は日本海式気候で、夏季に偏東風の影響が少なく、梅雨現象も顕著ではない。冬季は季節風が強く積雪も多く、曇天の日が続く。ウィンタースポーツも東側のスケートに対して西側のスキーと、対照的である。北部の下北、津軽両半島の地域は、冷夏厳冬の傾向が著しい。

[横山 弘]

歴史

先史・古代

青森県の先土器時代の遺跡は岩木山麓(さんろく)の弘前(ひろさき)市大森勝山遺跡をはじめとして、数多く発見され、1万年前にすでにヒトが生活していたと思われる。ところが、1992年(平成4)に青森市の三内丸山遺跡が発見され、発掘調査の結果、この遺跡は縄文時代前期から中期にかけて約1500年以上営まれた日本最大の縄文集落と判明、大型掘立て柱建物跡、日本最古の漆器、日本最大の板状土偶などの貴重な発見が相次ぎ、その場所に県営野球場を建設する予定であったがこれを中止し、遺跡の保存を決定した。そのほか縄文文化の遺跡はつがる市木造(きづくり)亀ヶ岡を筆頭として、全県下にわたっている。八戸市是川(これかわ)には縄文前期から晩期にわたる遺跡がそっくり残っている。弥生(やよい)文化は1世紀ごろ、後退しつつあった縄文文化のなかに入ってきた。南津軽郡の田舎館(いなかだて)、垂柳(たれやなぎ)両遺跡出土の土器に籾(もみ)の圧痕(あっこん)が認められ、焼き米も出土している。歴史時代に入って、この辺境の地に中央勢力が浸透し始めるのは7世紀中ごろで、津刈の蝦夷(えみし)が記録にみえる最初は655年(斉明天皇1)で、『日本書紀』に記されている。また、658年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田、能代(のしろ)の蝦夷を討ち、能代、津軽の郡領(こおりのみやつこ)を定めたとあり、北陸、出羽と進攻してきた中央勢力が津軽に及んだことを示している。以後、平安初期は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷(せいい)大将軍として軍事行政を兼ねて東北経営にあたった。その後開拓もしだいに進み、安倍、清原、藤原氏ら地方豪族の台頭をみるに至った。

[横山 弘]

中世

鎌倉時代には幕府の全国支配のもとに、東の糠部(ぬかのぶ)には南部氏が入り、西の津軽には曾我氏(そがうじ)が地頭代として入った。南部師行(もろゆき)は八戸根城(ねじょう)に根拠を置き(八戸南部氏)、子孫は長くこの地を支配し、江戸時代に岩手県遠野(とおの)に移封されるまで続いた。一方、室町末期には一族の三戸南部氏(さんのへなんぶし)が興り、のち盛岡に移り南部宗家を称した。津軽地方は1219年(承久1)曾我広忠が平賀郡岩楯(いわだて)(平川(ひらかわ)市平賀町)の地頭代職に任ぜられて以来、南北朝のころまでこの子孫が勢力を有した。その後、津軽の十三湊(とさみなと)(五所川原(ごしょがわら)市)を根拠地に安東氏が勢力を伸ばしたが、長い抗争のすえ、南部氏が安東氏を駆逐して津軽全域を支配した。さらに15世紀末ごろ大浦氏(後の津軽氏)が台頭し、16世紀末には大浦為信(津軽為信)(初代弘前藩主)が津軽地方から南部氏の勢力を駆逐して津軽統一を達成、それ以後、藩政時代を通じて東の南部と西の津軽に二分された。

[横山 弘]

近世

津軽の統一を果たした為信は、南部との境を苅場沢(かりばさわ)(東津軽郡平内町)とし、秋田の佐竹氏とは比内と西海岸とを交換、領内では津軽平野北部の新田開発を進めた。2代信牧(のぶひら)(信枚)が意志を継いで弘前城を築城し、城下町を成立させた。藩政も中期になると、領国経営に重点が置かれ、殖産興業がその中心となった。4代藩主信政は岩木川下流地帯に新田開発を進め、五所川原(ごしょがわら)、木造、金木(かなぎ)、俵元(たわらもと)の各新田を開発した。それに付随して岩木川の治水、屏風山(びょうぶやま)の植林、貞享(じょうきょう)検地(1684)などが行われた。八戸根城にあった南部22代直義(なおよし)(直栄)は1627年(寛永4)宗家盛岡南部氏の要請により、岩手の遠野に国替となり、津軽領以東はすべて盛岡南部氏の支配となり、八戸には郡代が置かれた。1664年(寛文4)に南部直房が南部10万石のうち2万石を与えられ八戸藩主となり、盛岡南部領と八戸南部領に区別された。八戸城は1601年(慶長6)に築城され、城下町は1620年代に建設された。江戸時代における津軽、南部の凶作は偏東風による冷害であった。ほとんど隔年ごとに不作となる南部地方に比べると、津軽地方は4年に1回で、かなり楽ではあったが、一度大凶作になるとかえってみじめであった。津軽の新田開発に対して、南部では三本木原の開拓があげられる。1855年(安政2)新渡戸伝(にとべつとう)(稲造の祖父)は奥入瀬川の水をトンネルで三本木原に導き開田を計画した。これは明治、大正、昭和と引き継がれ、1966年(昭和41)に終わっている。

[横山 弘]

近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で従来の藩はそのまま県となり、さらに七戸、八戸、斗南(となみ)、黒石、館(たて)(北海道松前)の5県が弘前県に合併された。同年に県庁が弘前から青森に移され、青森県と改められた。ついで東北諸県の再編が行われて、青森県の区域は陸奥国一円および松前とされた。その後、松前は1872年開拓使に移管された。また二戸郡は藩政時代からの歴史的因縁から、地域民の青森県からの離脱運動が絶えなかったため、1876年岩手県に移管された。以上のような経過をたどって現在の県域が定まった。県都としての青森が中央にあり、南部と津軽の対立的気分を一新する役割を果たした。北海道の開拓が進むと、中央と北海道を結ぶ連絡地点として、青森県は重要な役割を果たすことになった。1873年開拓使により、青森―函館(はこだて)間に定期航路が開始され、1891年に日本鉄道東北線上野―青森間が全通、ついで1894年に奥羽線青森―弘前間が開通して、青森は交通的機能を増した。さらに1988年(昭和63)には青函トンネル(せいかんとんねる)が開通し、北海道と鉄道で結ばれた。2002年(平成14)には東北新幹線が八戸まで、2010年に青森まで通じ、東京―新青森駅間の所要時間が最速の列車で3時間10分となった。

 南部地方は藩政時代に馬の牧畜経営に力を入れ、維新後も重要産業として残った。軍馬、馬車用馬の需要に応じて牧馬が盛んになり、元会津藩士の広沢安任(やすとう)の上北郡谷地頭(やちがしら)村(現、三沢市)での洋式牧場経営はその代表的なものであった。津軽地方も綿、絹、漆器工業や農牧業に力を注ぎ、南部の馬に対して津軽ではリンゴ栽培を取り入れた。1875年内務省から苗木が配られ、積極的に栽培が始まった。その後栽培方法の向上、販路の拡大により年々生産高を増し、全国一の生産地となった。津軽の米とリンゴ、南部の馬と畑作、さらに三面海に囲まれての漁業や、藩政時代から育成保護されてきた下北、津軽両半島のヒバ林は青森県の経済的基盤となってきた。第一次産業に主体を置く青森県は昭和初期の金融恐慌の影響を大きく受けた。工業も低開発県であるが、1964年(昭和39)に八戸市が新産業都市に指定され、新工業港の建設により三菱(みつびし)製紙などの大工場が進出し、県の工業の一大拠点となっている。また「むつ小川原開発計画」で漁業権、公害などの問題を抱えつつ、下北、上北両郡は大きく変わろうとしている。

[横山 弘]

産業

産業別就業者の比率をみると、第一次産業14.0%、第二次産業21.4%、第三次産業64.6%(2005)で、年々第一次産業就業者率が低下し、第二次、第三次産業就業者率が高くなっているが、全国の比率と比べると、第一次産業就業者率はまだ高い割合を占めている(全国の第一次産業就業者率は4.8%、第二次産業26.1%、第三次産業69.1%)。それに対して第二次、第三次産業就業者率は全国の比率と比べて、低いことがわかる。第一次産業のなかで農業就業者が全就業人口の12.3%を占め、農業県としての性格を示している。工業は八戸市を中心として近代的工業が発展しているが、他の都市では食料品工業や伝統的工業がわずかにみられるにすぎない。

[横山 弘]

農林業

耕地面積は15万7200ヘクタール(2009)で、耕地別内訳は水田約8.4万ヘクタール、普通畑3.4万ヘクタール、樹園地2.4万ヘクタール、牧草地1.5万ヘクタールである。水田は水田利用再編対策の実施により減少した。水田面積は耕地面積の半分以上を占めており、とくに津軽平野に卓越している。それに比較して東部地方は従来畑作が中心であったが、第二次世界大戦後、開田が進められた。この地方は県内でもっとも冷害を受けやすいところで、豊凶の差が大きく、以前はヒエを中心とした畑作の中心地域であった。しかし、近年は野菜栽培が中心となり、とくにナガイモ、ニンニクなどの栽培が盛んで、全国一の生産地となっている。果樹ではリンゴが主体で、栽培面積は約2.1万ヘクタール(2011)。生産量は約45万トン(2010)で全国の58%を占める。栽培面積は弘前市を中心とする中南農業地域を最大とし、2011年には県の栽培面積の67%を占めた。近年は消費者の高級品志向の影響で栽培品種も変化し、デリシャス系を経てふじ、つがるなどが主流になっている。リンゴはコメとともに青森県の経済的支柱であり、その豊凶は県の経済に重大な影響を与える。黒石市には日本で唯一県立のリンゴ試験場があり、生産性の向上、品種改良などの指導を行っている。リンゴ栽培の作業は2~3月ごろ剪定(せんてい)が始められ、5月以降人工受粉、摘果、袋かけが行われて、8月には早生(わせ)種「祝(いわい)」が収穫され、10~11月に紅玉(こうぎょく)、デリシャス系、陸奥(むつ)、ふじ、国光(こっこう)などの順に収穫される。

 森林面積は県面積の64%(61万5000ヘクタール)で、その61%が国有林である(2010)。主要樹種はスギ、アカマツ、ヒバ、ブナである。民有林は38%でスギ、アカマツを主とする造林を推進している。津軽半島のヒバ林は弘前藩時代以来の造成になり、日本三大美林の一つに数えられている。畜産は、古来から馬産地として知られ、戦前は軍馬の産地として重要であったが、現在では競走馬の育成を中心にかつての姿をとどめているにすぎない。また肉用牛、乳用牛による酪農に力が入れられ、ブタやニワトリの飼育も盛んになった。

[横山 弘]

水産業

三方を海に囲まれた全国有数の水産県で、八戸を基地とする三陸沖の漁場などをもっている。かつては沿岸零細漁業と出稼ぎ漁夫を基盤としていたが、現在では沖合、遠洋漁業への転換促進と陸奥湾を中心とする浅海養殖に力を入れている。沖合、遠洋漁業のうち、とくに北洋のサケ・マス漁業は1964年(昭和39)ごろから本格的となったが、同時に三陸沖のサバ、サンマ漁業も活発となった。おもな漁港は八戸、大畑、大間(おおま)、青森、鰺ヶ沢(あじがさわ)、深浦(ふかうら)など83がある。陸奥湾ではホタテ貝の養殖が盛んである。

[横山 弘]

鉱業

かつての主要鉱産物は砂鉄をはじめとして、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガン、石灰石など多種にわたっていた。開発は大正初期から中期にかけて安倍城(あべしろ)(硫化鉄)、大正(たいしょう)・西又(にしまた)鉱山(銅、錫(すず)など)が活発に稼動、昭和になって上北(かみきた)(銅)、尾太(おっぷ)(銅、亜鉛)、大揚(おおあげ)鉱山(硫化鉱)などで盛況をみたが、1973年(昭和48)のオイル・ショックを契機とする全国的な経済不況の影響で鉱山の経営が困難となった。青森県でも次々と休山を余儀なくされ、2008年時点で、尻屋崎(しりやざき)付近と八戸付近の石灰石を採掘する鉱山が稼動するにすぎない。近年、恐山周辺に金鉱床が発見され、温泉沈殿物の金鉱床としては最高品位といわれている(1989年度の県調査では原石1トン当り最大6500グラム)。

[横山 弘]

工業

工業業種構成を1990年(平成2)の工業出荷額でみると、食料品工業29.3%、電気機器14.0%、鉄鋼8.8%、木材8.2%、金属3.3%となっている。工業の地域別分布をみると、事業所の構成比は、青森市、津軽地域、八戸市を含む南部地域、下北地域の順となっているが、出荷額については南部地域が全体の60%以上を占め、八戸市を中心とする地域が本県工業の中心といえる。

 1969年(昭和44)に「新全国総合開発計画」が打ち出され、それに基づいて、青森県東部の六ヶ所村鷹架(たかほこ)沼および尾駮(おぶち)沼周辺から三沢市北部に至る臨海部の約5280ヘクタールを工業開発地区とした。工業配置は自然の地形を利用して、台地には石油精製所を、太平洋岸の低地には石油化学火力発電を配置し、また輸送需要に対応するため、鷹架沼および尾駮沼を中心とする地区にむつ小川原港を建設することとなった。1979年、むつ小川原地区に石油国家備蓄基地の立地が決定し(1985年完成)、これを契機に企業の誘致を積極的に進めている。また、六ヶ所村に使用済み核燃料再処理工場(年間処理能力800トン)の建設が進められ、最終試運転が行われている。また高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターが1995年4月から操業を開始し、再処理委託先のフランスから返還された高レベル放射性廃棄物のガラス固化体28本が搬入され、30~50年間の一時貯蔵が始まった。東通村では東北電力の原発1号機(沸騰水型軽水炉、出力110万キロワット)が2005年12月に営業運転を開始した。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震により運転停止中。

 津軽、南部両藩主の保護奨励で実を結んだ地方工芸のうち、現代までその伝統を守り続けてきたものに津軽こぎん刺し、南部菱刺し(なんぶひしざし)、津軽塗(以上、国の伝統的工芸品に指定)などがある。津軽こぎんは藩政時代の比較的早い時期に始まったものらしい。麻布に木綿糸で幾何学的模様を刺していく独特のもので、野良(のら)着のほか祭り用の晴れ着、嫁入り用の持ち物などにも刺しゅうしたという。現在では財布、ネクタイなどの小物を製品化している。菱刺しは南部地方の刺し方でこぎんに類似する。弘前市を中心に産出される津軽塗は、津軽藩4代藩主信政の保護と奨励によって始まったもの。木地は津軽特産のヒバを用い、各種の彩漆(いろうるし)を使用して複雑な斑文(はんもん)を描き出すのを特色とし、現在では盆、硯(すずり)箱、座卓、箸(はし)などの製品がある。

[横山 弘]

交通

JR線には東北新幹線(東京―新青森間)、奥羽本線、八戸線、大湊(おおみなと)線、津軽線、北海道新幹線(海峡線)、五能(ごのう)線がある。なお、東北新幹線の開業までは青森県東部を東北本線が走っていたが、2002年(平成14)の同新幹線盛岡―八戸間延伸に伴い、並行する区間は第三セクターに移行し(目時(めとき)―八戸間は青い森鉄道、盛岡―目時間はIGRいわて銀河鉄道)、さらに2010年同新幹線が新青森まで全通した際に東北本線の八戸―青森間も青い森鉄道に移管された。私鉄線には弘南(こうなん)鉄道、津軽鉄道がある。青森と北海道函館を結ぶ青函連絡船(せいかんれんらくせん)は1908年(明治41)以来約80年間、本州と北海道の動脈的役割を果たしてきたが、1988年(昭和63)3月、青函トンネルを経由するJR海峡線(青森―函館間)の開業によってその役目を終えた。トンネル内には吉岡海底駅と竜飛(たっぴ)海底駅が設けられたが、これは列車火災に備えた緊急避難基地に使うもので、世界初めての海底駅である(2014年3月廃止)。自動車交通の発達とともに道路の整備も進み、東北自動車道、八戸自動車道、青森自動車道、津軽自動車道のほか国道4号、7号、45号の動脈路線がある。海上運輸の拠点は青森、八戸の2港で、青森は貿易港として、八戸は全国有数の水揚高を誇る大漁港および工業港として、それぞれ重要な役割を担っている。近年航空交通の発達により航空需要が増大しているが、新青森空港の整備工事が進められ、1987年の第1期工事完成に伴いジェット化空港として一部の使用が始まり、2005年(平成17)には3000メートル滑走路の供用が開始され、大型機の離着陸が可能となった。

[横山 弘]

社会・文化

青森県は本州の最北端にあり、気候的条件も厳しいため、歴史的には開発が他の地域に比べて非常に遅れた。したがって、明治以降も一般に後進地域と考えられてきたが、その後、交通機関やマスコミの発達、教育の普及などにより、県民意識の近代化、生活水準の向上がみられるようになった。県内の太平洋側にある南部地方と、日本海側の津軽地方は風土的条件の違いが生活風習の相違を生んでいる。南部地方は畑作を主とするのに対して、津軽地方は稲作を主とし、農民の祭りにも津軽の「獅子舞(ししまい)」と南部八戸の「えんぶり」との違いがはっきりしている。このような生活や伝統の違いが対立意識を生み、心の底に潜在している。青森の県民性について、南部人は気質が明るく、素直で、建設的であるが、津軽人はしつこく、協調性に乏しいといわれる。しかし、この津軽評はよい面からいうと気骨があり、容易に節を曲げない意地があるということになる。津軽地方からは政界や経済界で名をあげた人こそ少ないが、多くの芸術家が生まれている。

[横山 弘]

教育・文化

弘前(津軽)藩に藩校稽古館(けいこかん)が設けられたのは1796年(寛政8)で、約300人の学生を集めた。その後縮小はしたが、幕末には医学館も創設された。支藩の黒石藩には天保(てんぽう)年間(1830~1844)に朱子学系統の経学教授所が置かれた。一方、八戸藩には1829年(文政12)文武講武所がつくられ明治初年まで続いた。1872年(明治5)稽古館の校舎を利用して菊池九郎らにより東奥義塾(とうおうぎじゅく)が開校した。菊池は慶応義塾の出身であり、福沢諭吉の実学精神とキリスト教精神を基本とする学校であった。菊池九郎はまた青森県における自由民権運動の中心人物の一人で、政治結社「共同会」を結成、国会開設に力を尽くし、また県内各地に政治結社を生む原動力となった。

 2013年(平成25)時点で、高等教育機関には国立の弘前大学(人文、教育、理工、医、農学生命科学の5学部)があって県教育の中心をなすほか、青森公立大学(1993年開学)、県立保健大学(1999年開学)が設立された。私立には青森大学、八戸学院大学、八戸工業大学、東北女子大学、弘前学院大学、青森中央学院大学、弘前医療福祉大学の7大学と北里大学獣医学部、短大6校(公立1・私立5)、国立八戸工業高等専門学校がある。また青森市浅虫に東北大学大学院生命科学研究科附属海洋生物学教育研究センター、青森市荒川(酸ヶ湯(すかゆ))に東北大学植物園八甲田山分園がある。

 県内で最初に発刊された新聞は、1877年(明治10)に発刊の『北斗新聞』であるが、翌年廃刊、1879年同じ発行人により『青森新聞』が刊行されたが、この新聞も経営難により、菊池九郎らに引き継がれ、1890年に『東奥日報』の創刊となった。現在も県内で広く購読されている(2007年4月発行部数約25万6000)。津軽を中心に購読圏をもつ『陸奥新報』は1946年(昭和21)発刊(同5万4000)。このほか南部中心の『デーリー東北』がある(同10万7000)。また放送機関には日本放送協会(NHK)、青森放送(RAB)、青森テレビ(ATV)、エフエム青森、青森朝日放送(ABA)があり、NHKは青森、弘前、八戸の3市に放送局をもち、地域に密着した県域放送をしている。青森放送はラジオとテレビ兼営の民間放送で、県内にラジオ5局、テレビ55局の中継局をもっている。青森テレビは県内52の中継局をもち(2006)、県内全域をエリアとするUHFを使った民間放送局である。

[横山 弘]

生活文化

自然環境が厳しく、藩政時代から昭和初期まで農村の生活や生産様式はあまり変わりばえのしないものであったが、第二次世界大戦後、水稲栽培の技術の向上や農業の機械化によって大きく変化した。かつて10アール当り収穫量は240キログラムであったが、戦後の農地改革に続く品種改良と農薬の普及によって10アール当り収穫量もしだいに高まり、全国並みか、ときにはそれを追い越すほどになり、1979年(昭和54)には全国第1位となった。県内の米どころは津軽であるが、南部の畑作地帯にも米作が急速に浸透していった。津軽ではさらにリンゴ栽培の進歩によって経済的向上を示したが、それとともに県外出稼ぎも多くなった。すなわち、機械化された農作業により能率化し、手順が年内に仕上がるため、農作業が終わると出稼ぎに行くのである。かつては旧正月になって、農業が一段落し、正月をゆっくり楽しんだが、現在は町方と同様に新正月で年を迎えるようになった。

 2月17日から3日間、八戸市を中心に行われる「えんぶり」(国の重要無形民俗文化財)は春の初めにその年の豊作を祈る祭りである。南部の「えんぶり」に対して津軽を代表する民俗芸能に「獅子舞」(県無形民俗文化財)がある。主として8月15日を中心に踊るもので、虫送りの行事などにも加わる。旧暦7月の行事、青森市の歌舞伎人形ねぶた(かぶきにんぎょうねぶた)、弘前市の扇灯籠ねぷた(おうぎどうろうねぷた)の行事はともに国の重要無形民俗文化財。弘前ねぷたは18世紀の初めごろにはすでに行われていたようである。元来は灯籠や人形を川に流すことが主の行事であった。ねぶたはねむた、すなわち睡魔のことで、労働の妨げとなる眠気を払う意味があるとされ、農作業との結び付きが強かったが、現在では東北三大祭りの一つとして観光的色彩が濃い。津軽の農村では村中の田植が終わると、さなぶり休みがある。その休みに虫送りという行事が行われる。田畑の害虫に苦しんだ農民がこれを防除するために、集団で神に祈願したことから始まり、等身大の藁(わら)人形と5~6メートルもある蛇体をつくり、その頭部に木彫りの竜面をつける。行列をつくって村中を練り歩き、村境に人形を立て、その近くの松の枝などに蛇体をかける。これが害虫が外から入るのを防ぐまじないである。旧暦8月1日(前後の3日間)、五穀豊作を祈願して津軽各地から集団で行う岩木山の登拝行事(お山参詣(さんけい))、下北半島(むつ市、下北郡、上北郡)の下北の能舞は、ともに国の重要無形民俗文化財である。南部の各地でみられる駒踊(こまおどり)(県無形民俗文化財)はかつての馬産地にふさわしい民俗芸能である。山伏神楽(かぐら)系統の田子(たっこ)神楽(田子町)、社家によって守られてきた津軽神楽(弘前市)など県内のあちこちに神楽舞が伝えられている。7月末から8月初めに行われる八戸三社大祭の山車(だし)行事(国指定重要無形民俗文化財)は、2016年に「山・鉾(ほこ)・屋台行事」(33件のうちの1件)として、ユネスコの無形文化遺産に登録された。

 文化財としては、国宝に八戸市櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)の赤糸威鎧兜(おどしよろいかぶと)と白糸威鎧褄取(つまとり)兜、八戸市風張1遺跡(かざはりいちいせき)出土の(合掌)土偶の3点がある。国の重要文化財には、弘前城の天守など、最勝院五重塔、岩木山神社拝殿、津軽為信霊屋(ためのぶたまや)、旧第五十九銀行本店本館などの建造物、亀ヶ岡遺跡・是川遺跡出土品などがあるが、1992年(平成4)に青森市三内丸山遺跡が発見されて日本最大の縄文集落として注目されるようになった。そのほかの文化財は津軽、南部の両藩が内政確立を図ったころからのものがほとんどである。国の史跡に、三内丸山遺跡(特別史跡)、弘前城跡、根城跡、浪岡城跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、是川石器時代遺跡、大森勝山遺跡、長七谷地貝塚(ちょうしちやちかいづか)などがある。

[横山 弘]

 2021年(令和3)、三内丸山遺跡など青森県にある八つの遺跡が、ユネスコにより「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2022年1月21日]

伝説

巨人伝説は全国的に分布していて、関東、中部地方ではダイダラボッチ、九州では大人(おおひと)弥五郎とよばれているが、青森県ではオオヒトといい、岩木山、八甲田山(はっこうださん)、梵珠山(ぼんじゅさん)などに隠れ住むと信じ、恐れられた。そのオオヒトから派生したのが鬼(おに)神社の社伝である。巌鬼山(がんきさん)のオオヒトは名を弥十郎といい、九州の大人弥五郎にかかわりがあるといわれている。貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)では安寿・厨子王(あんじゅずしおう)の伝説が岩木山信仰に結び付き、姉弟を酷使した山椒(さんしょう)太夫が丹後(たんご)の人であるため、その国の人が来るのを岩木山の神が嫌って、お山が荒れるという。流離譚ではさらに義経伝説(よしつねでんせつ)や烏頭安方(うとうやすかた)、長慶(ちょうけい)天皇などが知られている。義経は高館(たかだて)で自刃したといわれているが、伝説では逃れて陸奥(みちのく)を流亡し、三廏(みんまや)から蝦夷(えぞ)地へ渡ったと伝えている。外ヶ浜に流された大納言(だいなごん)烏頭安方父子の霊がウトウという鳥になったという。この伝説に取材したのが世阿弥(ぜあみ)の謡曲『善知鳥(うとう)』である。

 津軽では死者の魂は恐山(おそれざん)へ行くと信じられている。死者の魂が霊場に行くという伝説は各地にあるが、恐山は地蔵伝説に支えられていて死者の魂に再会できるという。南津軽郡藤崎町には北条時頼(ときより)の愛妾唐糸(あいしょうからいと)の伝説があり、時頼が愛妾の在所を訪ねると、唐糸は身の衰えを恥じて入水(じゅすい)したという悲話を伝えている。

[武田静澄]

『宮崎道生著『青森県の歴史』(1970・山川出版社)』『『新編青森県叢書』11冊(1974~1980)』『『青森県百科事典』(1981・東奥日報社)』『『青森県の地名』(1982・平凡社)』



青森(市)
あおもり

青森県の中央部にある市。八甲田(はっこうだ)火山を背に青森湾に面する。県庁所在地。1898年(明治31)市制施行。1939年(昭和14)油川(あぶらがわ)町、1951年滝内村、1954年大野村、1955年筒井町と高田、横内、東岳(あずまだけ)、浜館、荒川、新城、奥内(おくない)、原別(はらべつ)の8村、1956年後潟(うしろがた)村、1962年野内(のない)村、2005年(平成17)南津軽郡浪岡町(なみおかまち)と合併。2006年中核市に指定。面積824.61平方キロメートル、人口27万5192(2020)。

 市街地は青森平野の大部分を占め、その中を野内川、堤川、沖館(おきだて)川などが南から北へ貫流する。市街地の中心部は青森湾に沿って東西に帯状に延びる。位置のうえから交通的役割が大きく、鉄道はJR東北新幹線・奥羽本線、第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)の終点であり、津軽線はここから津軽半島北端の三厩(みんまや)に延び、青函(せいかん)トンネルを経て北海道に連結する。また、2016年に新青森駅―新函館北斗駅間が開業した北海道新幹線が通る。道路交通は国道4号と7号が都心部で会合し、東北自動車道の終点にもなっている。ほかに国道101号、103号、280号、394号、青森自動車道、津軽自動車道なども通じる。また東京、名古屋、大阪、札幌、台湾への航空路が開かれている。

 西方にある油川が古くからの港として知られていたが、1624年(寛永1)津軽藩は遠浅の油川を廃して、一寒村である善知鳥(うとう)に藩の外港を開き、名も青森とした。以後港町として発展し、1871年(明治4)には県庁が弘前(ひろさき)から青森に移り、県の政治、経済の中心となった。1873年に北海道開拓使により青森―函館(はこだて)間に定期航路が開始され、1891年に日本鉄道東北線(現、JR東北本線。青森県内は現、青い森鉄道)上野―青森間、1894年に奥羽北線青森―弘前間(現、JR奥羽本線)が開通し、交通都市としての態勢が整った。第二次世界大戦の末期、1945年(昭和20)7月アメリカ軍の空襲により、市街地の約90%が焼失し、多くの死者を出した。

 産業の中心は商業で、商品販売額は県内一であるが、いずれも中小規模の商店である。工業は地場産業の食料品、木材製品が大半で、近代的工業にあげるべきものはない。青森港は、フェリーボートの発着のほか、商港として木材、セメント、石油製品などを移入し、金属、食品などを移出。また木材コンビナートも設置。南部の八甲田北麓(ほくろく)は十和田八幡平(とわだはちまんたい)国立公園の一部で、酸ヶ湯(すかゆ)、八甲田温泉などの温泉も散在。青森湾岸には浅虫(あさむし)温泉がある。文化施設に、青森県の歴史、産業、文化の資料を集めた県立郷土館のほか、青森市文化会館、棟方志功(むなかたしこう)記念館などがある。8月のねぶた祭は東北の三大夏祭の一つで、国指定重要無形民俗文化財(登録名、青森のねぶた)。

[横山 弘]

『『青森市史』(1962・青森市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「青森」の意味・わかりやすい解説

青森[県] (あおもり)

基本情報
面積=9644.58km2(全国8位) 
人口(2010)=137万3339人(全国31位) 
人口密度(2010)=142.4人/km2(全国41位) 
市町村(2011.10)=10市22町8村 
県庁所在地=青森市(人口=29万9520人) 
県花=リンゴ 
県木=ヒバ 
県鳥=ハクチョウ

本州の最北端にあり,北は津軽海峡を隔てて北海道と相対し,南は秋田・岩手両県に接している。東は太平洋,西は日本海に面し,三方を海にかこまれている。

明治以前は陸奥国に属し,江戸時代は南部氏の盛岡藩,八戸藩,津軽氏の弘前藩,黒石藩があったが,戊辰戦争後,盛岡藩は減封され,その支藩の七戸藩と3万石で入封した斗南(となみ)藩(旧会津藩)が置かれた。1871年廃藩置県をへて,北海道の館(たて)県(旧松前藩)を含め弘前県に合併後,青森県となり,翌年旧館県を開拓使に,76年二戸郡を岩手県に移管し,現在の県域が定まった。

先土器文化では,岩木山麓遺跡群の一つで,ナイフ形石器を主とする大森勝山遺跡(弘前市)や,円鑿(まるのみ),木葉形尖頭器など先土器時代終末の石器群を出土した長者久保遺跡(上北郡東北町)などがあるが,全体に研究の日は浅い。

 縄文早期では,尖底・貝殻条痕文の白浜式土器の標式遺跡である白浜遺跡(八戸市)や吹切沢(ふつきりざわ)遺跡(下北郡東通村)などが,前・中期では円筒土器の代表的集落遺跡がある一王寺遺跡(八戸市)などがある。後期では岩木山麓遺跡群の一つ,十腰内遺跡が標式遺跡である。本県は縄文文化,ことに後・晩期の文化が最も栄えた土地であり,なかでも亀ヶ岡遺跡(つるが市)と是川遺跡(八戸市)とは西(津軽)と東(南部)の横綱である。いずれも多種多様で華麗な土器をはじめ土製・石製・骨角製遺物,それに低湿地からは籃胎漆器など漆工品などまで出土している。砂沢遺跡(弘前市)や宇鉄遺跡(東津軽郡外ヶ浜町)は北海道南部の続縄文文化との関連で,縄文晩期から弥生文化への過渡期の様相を伝える興味ぶかい時期の遺跡である。

 米どころ津軽平野南部にある垂柳遺跡(田舎館(いなかだて)遺跡。南津軽郡田舎館村)では,晩期縄文式と弥生式との折衷的な型式の田舎館式土器や弥生系の石器とともに炭化米が出土したことから,長い間稲作の存否が問われていたが,近年になって大規模な水田址が出土して注目を集めた。弥生文化の切り開いたルートを通って,やがて土師器の文化も北上し,各地にその集落を残した。しかし古墳そのものとしては,10基の円墳からなる鹿島沢古墳群(八戸市)がいまのところ本県唯一,本州最北の古墳群であり,しかもその年代は奈良時代で,北進して来た律令政府軍が在地の蝦夷勢力と激しく抗争をくりかえしていたころである。

 前田野目(まえだのめ)窯址(五所川原市)は日本最北の須恵器窯址群,古館(平川市)は北海道系の擦文土器や豊富な鉄器を伴い,いずれも平安時代。先述の岩木山麓から津軽平野にかけては,鳥海山遺跡(平川市)のようにこの時代の鍛冶集落が多く存在する。浪岡城址(青森市),藤崎城址(南津軽郡藤崎町),根城址(八戸市)など中・近世の城館址も多い。なかでも尻八館(しりはちたて)(青森市)では発掘調査の結果,標高170mの丘陵頂部の郭遺構に伴い舶載・国産の優れた陶磁器や種々の金属製品,茶臼,すずりなどが数多く出土し,室町時代に比定されるところから,津軽安東氏との関係が考えられている。
陸奥国

青森県は,日本海側と太平洋側の交通路が出会う地点であるとともに北海道への渡航点として重要な位置を占めている。古くは日本海経由の西廻航路によって北陸,京都と結ばれ,西海岸の鰺ヶ沢(あじがさわ),深浦,十三湊(とさみなと)などの商業港が発達した。1624年(寛永1)青森湊が開港し,太平洋経由の東廻航路が開かれて江戸との交流が盛んになり,東海岸の野辺地八戸も商業港として発達した。この両海運のもたらした江戸文化および北陸・京都の文化の影響は県内の祭り,民謡,工芸品などに残っている。また近世の陸路は,津軽地方には弘前を中心として羽州街道と松前街道,南部地方には陸羽街道(奥州街道)が通じていたが,両地方の間の交流は自由ではなかった。北海道とは当初十三湊が交易基地となっていたが,青森湊開港以降はここが利用された。明治以降北海道の開発が進められるとともに,1873年青森~函館間に開拓使庁の蒸気船弘明丸が運航し,北海道への渡航者や津軽の米など内地からの物資を運んだ。91年東北本線,1905年に奥羽本線が開通して東西の二大幹線が整い,08年国鉄による青函連絡船比羅夫丸および田村丸が就航して青森駅から直接乗船できるようになったため,青森港は本州と北海道の重要な結節点となった。第2次世界大戦後は自動車交通の発達で,荷物輸送もトラック輸送にかわり,今日では北海道との貨物輸送も青森,八戸,大間の各港からフェリーボートが利用されるようになった。また,津軽半島の竜飛(たつぴ)岬と北海道の白神岬との間に,戦後国鉄によって開始され,64年日本鉄道建設公団によって引き継がれた青函トンネル工事が進められ,1988年3月よりJR津軽海峡線が開業し,2002年12月東北新幹線の盛岡~八戸間が開業した(これに伴い東北本線盛岡~八戸間のうち県内分は青い森鉄道の運営となる)。10年12月には同新幹線の八戸~新青森間が開業し,東北本線の八戸~青森間も青い森鉄道の運営となった。また高速自動車道では県中央部に東北自動車道(1986),東部に八戸自動車道(1989)が開通し,交通体系が大きく変化した。

青森県は温帯気候の北限に相当し,短い夏と長い冬が特徴である。生物の分布上でも限界を示すものが多い。植物ではオオシラビソ(アオモリトドマツ),コメツガ,ネズコ,タムシバ,ヒナウチワカエデ,ヒナザクラなどは八甲田山が北限となっており,夏泊半島の先端はツバキの自生北限地である。逆に寒地植物のヒメワタスゲ,カラフトイチヤクソウなどは青森県が南限である。動物ではニホンザル生育地の北限が下北半島山地部にある。なお,日本の生物分布上の境界線の一つといわれているブラキストン線が津軽海峡を通っている。

青森県の中央部を南北に走る奥羽山脈によって,太平洋側と日本海側に分けられる。太平洋側は火山灰に厚くおおわれた三本木原台地や海岸段丘が広く分布している。これに対して日本海側は津軽平野の広大な沖積低地と,秋田県境から岩木山麓にかけて広がる出羽山地の延長の白神山地からなっている。気候も奥羽山脈を境として,太平洋側の表日本型と日本海側の裏日本型に分かれ,冬は大陸からの北西風によって日本海側に積雪が多く,曇天の日がつづく。それに対して,太平洋側は奥羽山脈の山かげになるので雪が少なく,晴天の日が多い。また,梅雨のころ太平洋側の下北,上北,八戸付近では冷たい偏東風(やませ)が吹き,しばしば冷害凶作の原因となる。しかし,山を背にした日本海側ではその影響が少なく,稲作も比較的安定している。日本海側の津軽地方には古くから稲作がとり入れられており,そのことは田舎館村の垂柳地区から弥生時代の炭化米,水田址が出土したことからも証明されている(田舎館遺跡)。それに対して,太平洋側の南部地方はやませの吹く気候条件と,台地が広く水が得にくいという地形条件から,雑穀類,バレイショ,ナタネなどの畑作および馬を主とした畜産が行われてきた。明治以降,津軽地方には稲作との兼業または副業の形でリンゴがとり入れられ,農業の近代化が進められた。南部地方は軍馬の供給地でもあったが,第2次大戦後は,後述のように八戸市を中心とする近代工業が軌道にのり,都市化が進んだため馬に代わって乳牛,肉牛がふえ,豚やニワトリの飼育が盛んになった。古くから稲作を主としてきた津軽と畑作を主とする南部では生活風習の相違が見られる。例えば農民の祭りである津軽の獅子舞や虫送りの行事は稲作と関連があり,南部の〈えんぶり〉は畑作や馬に関連がある。夏祭の〈ねぶた〉も津軽地方では行われるが,南部地方にはない。民芸品でも津軽地方には津軽塗,こぎん,たこ絵,鳩笛などがあるが,南部地方には菱刺,八幡駒など違ったものが見られ,津軽地方のものは西廻海運で運ばれたものが多い。民謡でも津軽地方には《弥三郎節》や《十三の砂山》など稲作に関するものが多い。

南部地方では,大正以降八戸市中部を流れる新井田川支流の蟹沢川,松館川流域の石灰岩と北海道の石炭が結びつき,1919年に八戸に日出セメント工場(現,八戸セメント)が設立されて,工業化が始まった。37年には八戸市北部海岸の浜砂鉄を利用して日本砂鉄鋼業が進出し,金属精錬工場や化学工業などが立地していった。古くから行われていた水産加工を中心とした食料品工業も60年以降本格化した。64年八戸地区が新産業都市に指定され,さらに69年以降三本木原台地ではむつ小川原工業地区の開発が進められ,石油備蓄基地としての役割を担うことになった。しかし,その経済的影響は全県に及ぶものではなく,依然として青森県の経済的基盤は農業にあるということができる。97年の農林水産統計によれば,県の耕地面積約15万4400haのうち水田は45%,リンゴを中心とする樹園地は17%である。水田作付面積は1971年ころから水田利用再編対策のため減少しているが,10a当り収量(1996年産)は全県で589kgで長野,山形に次いで第3位で,中でも津軽地方が高い値を示している。また青森県のリンゴ生産量は全国の50%(1995)を占め,そのほとんどが津軽地方に集中して日本一のリンゴ地帯となっている。青森リンゴは明治中ごろに鉄道が開通して販路が開けたため商品作物として急速に拡大してきた。また品種改良などに県全体として努力してきたため,品質の点では信州リンゴに負けないが,首都圏や大消費地に遠く輸送費がかさむため,市場価格が高くなる短所がある。リンゴの栽培面積は年々増加を示し,新しい品種の伸びが著しく,在来種(国光,紅玉,印度)の減少が目だっている。他方,水田は気候的条件によって単作であるため,稲の収穫が終わると農民は関東方面に出稼ぎにでる。最近は農業の近代化,農業政策の転換による余剰労働力の発生,賃金の地域格差,生活水準の向上など社会経済情勢の変化により出稼者が多くなった。

(1)青森地域 青森平野を中心として,東は夏泊半島から西は津軽半島の東側海岸に面した地域で,気候は裏日本型で,津軽平野と比べて積雪量も多く雪どけもおそい。1871年県庁が青森におかれてから県の政治・経済の中心地となり,東北・奥羽のJR2幹線の結節点として交通の要地ともなっている。しかし,第2次大戦中戦災にあい,それまで青森にあった青森師範や青森医専が弘前に移転したため,県庁都市で国立大学のない都市となっている。

(2)津軽地域 県の中央を走る奥羽山脈と津軽半島脊梁山脈を結んだ線より西側の地域で,岩木川の貫流する津軽平野の南部にある弘前市は古くは城下町として発展し,周辺農村部を背景に農産物の集散地となり,地域経済活動の中心地となった。県内で唯一の国立弘前大学があり,教育文化の中心地でもある。平野の中部を中心とする五所川原市は,江戸時代に新田開発の行われたところで,農産物の集散地として発展した。周辺は水田単作地帯で,農閑期は出稼ぎが多い。また,弘前,黒石,五所川原はリンゴ栽培の中心地で,山地の緩斜面や自然堤防にはリンゴ園が展開している。

(3)南部地域 奥羽山脈の東側に展開する三本木原台地と海岸段丘を含む地域で,気候は表日本型である。北部の野辺地などは別として降雪は少ないが,夏の偏東風の影響で古くから冷害凶作の被害をうけてきた。戦前はヒエを主食としていたところもあるが,近年は水利施設の整備とともに,水稲品種の改良や栽培技術の向上によって開田も進み,水稲を含む農業生産地帯となった。地域の中心都市八戸は古くから日本有数の漁業基地として発展してきたが,1963年新産業都市の指定をうけて以来,臨海工業都市として発展した。今後は工業発展の拠点として,これまでの工業集積の成果を生かしつつ,資源型工業からしだいに高度加工型工業への方向を強めていこうとしている。

(4)下北地域 下北半島の頭部と頸部北半にあたる地域で,気候条件が厳しいため,主要な産業は酪農と林業,漁業である。山地のヒバ材は古くから切り出され,北陸方面に運ばれた。中心地のむつ市はかつて軍港として栄え,現在海上自衛隊の基地がある。70年代に本格化したむつ小川原開発計画は修正され,上北郡六ヶ所村に石油備蓄基地,核燃料サイクル施設が建設された。
執筆者:



青森[市] (あおもり)

青森県中央部にあり,青森湾にのぞむ市で,県庁所在都市。2005年4月旧青森市と浪岡(なみおか)町が合体して成立した。人口29万9520(2010)。

青森市南西部を除く旧市で,県庁所在都市。1898年市制。人口29万7859(2000)。1624年(寛永1)津軽信牧(2代藩主)によって開港され,津軽藩の外港として発展した。開港当時は遠く北陸方面からも移住者を募り,町づくりがなされた。1871年(明治4)県庁が置かれて,県の政治・経済の中心となり,また北海道の開発が進むにつれ,北海道と本州を結ぶ交通の要地として,重要な位置を占めるようになった。73年には北海道開拓使により青森~函館間に定期航路が開始され,91年に上野~青森間に鉄道が開通,次いで94年に青森~弘前間にも鉄道が通じて,交通都市としての態勢がととのった。第2次世界大戦の末期に,空襲で市街地の約9割が焼け野原と化したが,戦後,特別都市計画の指定を受け,復旧が予想以上に早く,面目一新の新市街が形成された。1954年から62年にかけて隣接町村を合併編入し,市域が拡大した。港湾としての機能は第1に青函連絡船の基地として重要性をもっていたが,1988年青函トンネルが開通してその役目を終えた。商港としては木材,セメント,石油製品などを移入し,金属,食品などを移出している。また漁港としても重要で,近海漁業の基地となっている。工業港としては木材積揚地に木材加工場が設置されている。東北自動車道(1986年開通)が通じ,さらに青森自動車道が延長されている。また2010年に東北新幹線が通じて青森市が本州の終点となり,さらに青函トンネルが完成したため,北海道への接続地点として重要性をもつ。産業の中心は商業で,県内一の商品販売額を示しているが,中小規模の商店が多い。工業は地場産業の食料品,木材製品が大半であるが,交通手段の急速な変化によって,先端技術産業の誘致なども進められている。十和田八幡平国立公園への観光拠点であるとともに,ねぶた祭は東北四大夏祭の一つとして多くの観光客を集めている。市域中西部に特史の三内丸山遺跡がある。
執筆者:

1624年津軽藩は寒村善知鳥(うとう)村を青森村と改め港町を開いた。はじめ浜町,本町,米町が開かれ,諸役免除で商人を集め,陸奥湾の商人船の出入りを青森湊に限定し発展を図った。44年(正保1)越前町,64年(寛文4)に博労町,多葉粉町,塩町,71年に堤川端町,新町,柳町,寺町,鍛冶町,大工町がそれぞれ開かれた。町奉行の下に,町年寄,名主,月行事が町政を担当した。漁師町には漁師頭がいた。1625年東廻航路による江戸廻米が始まり,藩の米蔵も設けられた。積出船ははじめ手船で,廻米量の増加により藩内外の雇船が主となった。日本海航路で上方下り荷が入り,蝦夷地交易の中継港としてもにぎわった。にぎわいの中心となった船問屋29名は1703年(元禄16)仲間を結成し,口銭,蔵敷銭などの統一を図り,変遷を経て幕末に及んだ。江戸中期に繁栄期を迎え,1628年700の町戸数は,1788年(天明8)に981戸,1805年(文化2)に1520戸と増え,江戸中後期の成長がうかがわれる。
執筆者:

青森市南西部の旧町。旧南津軽郡所属。人口2万0873(2000)。津軽平野東部に位置し,北部,東部は津軽山地末端の丘陵からなる。室町時代には北畠氏が支配し,浪岡川に臨む高台に石垣と土塁の一部を残した浪岡城跡(史)がある。近世には羽州街道(現,国道7号線)が通じ,五所川原(ごしよがわら)方面への街道を分岐する交通の要衝であった。丘陵や洪積台地では,明治末期から大正期にリンゴ栽培が始められ,町の中心産業となっている。台地は用水不足で溜池が発達しているが,水田に利用されている十(と)川,浪岡川の沖積地ではしばしば洪水の被害を受けた。そのため1971年以降,国営の浪岡川地区灌漑排水事業がすすめられ,上流に浪岡ダムが建設された。奥羽本線が通じるほか,79年東部山麓沿いに東北自動車道が通じ,浪岡インターチェンジが設けられた。山岳信仰で知られる梵珠(ぼんじゆ)山(468m)は県民の森に指定されている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「青森」の意味・わかりやすい解説

青森[県]【あおもり】

本州最北端にあたる東北地方の県。県庁所在地は青森市。9645.59km2。137万3339人(2010)。〔沿革〕 古くから〈みちのく〉と呼ばれ,かつての陸奥(むつ)国の一部分を占める。平安末期に安倍貞任の子孫が津軽に入り安東氏と称し,蝦夷(えぞ)管領となった。1585年には津軽氏が弘前(ひろさき)に居城して津軽地方を統一,江戸時代に黒石藩も合わせ治めた。県の東部は鎌倉時代以来,南部氏が統治し,江戸時代南部領であったが,明治維新によって弘前県に統合され,1871年,黒石県とともに現在の青森県となった。〔自然〕 北部は津軽海峡に面し,東部に下北半島,西部に津軽半島が突出し,間に陸奥湾を抱く。中央に奥羽山脈があり,東部は三本木原の洪積台地,西部は岩木川のつくった津軽平野が開ける。中央を南北に走る那須火山帯には恐山(おそれざん),八甲田山,十和田の諸火山が,西部の鳥海火山帯には岩木山がある。寒冷で,特に東部は〈やませ〉と呼ぶ寒冷な偏東風が吹き,冷害を受けることがある。〔産業〕 産業別人口構成は第1次14.0%,第2次21.4%,第3次63.7%(2005)で,第1次人口比率は全国一。農業は津軽平野を中心に産する米とリンゴが代表的な作物で,リンゴは全国の収穫量の50%(2003)を占める。東部の三本木原などの台地では畑作が行われる。県の面積の6割を国有林が占め,ヒバの美林は有名で,各地で製材が盛ん。太平洋岸の八戸(はちのへ)は三陸沖をひかえた漁港で水産加工が活発であり,1963年新産業都市に指定されて鉄鋼・セメント工業も立地,工業港としても発展している。一方1970年代に本格化したむつ小川原開発計画は修正され,上北郡六ヶ所村に石油備蓄基地,核燃料サイクル施設の建設が進められた。十和田湖,八甲田山を含む十和田八幡平(はちまんたい)国立公園下北半島国定公園津軽国定公園のほか,種差(たねさし)海岸,城下町弘前などが代表的な観光地である。1993年白神山地が世界遺産条約の自然遺産リストに登録された。〔交通〕 青森市は東北新幹線,北海道新幹線,奥羽本線,津軽線の発着点で,津軽半島の竜飛(たっぴ)崎を経る青函トンネルによって北海道と結ばれ,郊外には青森空港もあり県交通の中心をなす。県中央部を南北に東北自動車道(1986年開通),東部を八戸自動車道(1989年開通),東北新幹線(2010年新青森まで全通)が走る。下北半島部は大湊線が通じるが,まだ不便である。80年間就航した青函連絡船は,青函トンネルの開通により,1988年3月廃止された。また青函トンネルはその後改築され,2016年には東北新幹線を延長する形で北海道新幹線が新函館北斗まで開通している。 2011年3月,東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生,太平洋側を中心に大きな津波の被害に襲われた。
→関連項目青い森鉄道[株]いちご煮東北地方

青森[市]【あおもり】

青森県中部,青森平野と周辺山地,津軽平野東部を占める市。1898年市制。県庁所在地。青森湾に面する中心市街は津軽藩の港として発達。明治以降は青函連絡船,上野〜青森間の鉄道の開設によって,本州と北海道を結ぶ交通の要地となった。1988年青函トンネルが開通して青函連絡船が廃止された現在も,東北新幹線,北海道新幹線,青い森鉄道,奥羽本線,津軽線が発着し,青森空港がある交通要地で,東北自動車道,青森自動車道,国道7号線が通じる。また県の行政・経済の中心である。青森港は1万トン岸壁をもつ商港,近海・遠洋漁業根拠地。工業は地場産業としての製材・水産加工や出版・印刷工業が盛ん。東部に浅虫温泉,西部に三内丸山遺跡,南東部には八甲田山酸ヶ湯(すかゆ)があり十和田八幡平国立公園に属する。年中行事のねぶたは東北三大祭の一つとして有名。新青森駅まで東北新幹線が2010年12月開業し全通したほか,これを延長した北海道新幹線が2016年3月に新函館北斗まで開業。2005年4月南津軽郡浪岡町を編入。東日本大震災で,市内において被害が発生。824.61km2。29万9520人(2010)。
→関連項目青森[県]

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