目次 自然 社会 文化 政治 経済 歴史 19世紀 少数支配の時代 アプラと共産党 旧体制の存続と新たな改革勢力 ペルー革命から80年代の民主化へ 日本との関係 基本情報 正式名称 =ペル-共和国República del Perú 面積 =128万5216km2 人口 (2010)=2946万人 首都 =リマLima(日本との時差=-14時間) 主要言語 =スペイン語,ケチュア語 通貨 =ソルSol
南アメリカ大陸西岸の中央部に位置する共和国。かつてのインカ帝国 の中心であり,16世紀のスペイン人による征服後は,副王制 下にあった南アメリカのスペイン植民地支配の中心でもあった。
自然 ペルーの自然環境の大きな特徴の一つは,海岸砂漠,アンデス高地,モンターニャ (東部森林地帯)という,きわだった環境の違いがアンデス山脈に沿って帯状に成立していることである。高度は西海岸から,山地の最高峰ワスカランの6768m,そして東部低地のイキトスの117mと,著しい差がある。しかも山脈の東西間の幅は比較的狭く,最も広い南部では480kmあるが,リマの東方では210kmになり,北部ではさらに狭くなっている。平均して南部高地は高くまた幅が広く,北へいくにつれて高さ,幅とも減少する。国土の10分の1を占める海岸平地のほとんどは雨が降らない不毛の砂漠である。しかし西斜面を流れる川の河口にはオアシスがあり,灌漑を利用した大規模な集約農耕が営まれ,米,サトウキビ,ブドウ,綿花などを産し,リマをはじめとする大都市が形成されている。湿度は比較的高いが雨が降らないという特異な海岸の砂漠化をもたらす重要な一因はフンボルト海流であるが,これが沿岸を北上するため,ペルーは海産資源に恵まれ,漁獲量は世界有数である。国土の10分の3に相当する標高500m以上の高地部は,東斜面,西斜面,中間山地,あるいは南部と北部で,雨量や植生に違いはあるが,基本的には高度に応じて環境の違いが生じている。500~2300mのユンガ帯では熱帯産の果実,作物,2300~3500mのケチュア帯ではトウモロコシ ,3500~4200mのスニ帯ではジャガイモ類を産し,4200m以上の農耕限界を超えた寒冷高地のプナ帯では,自然の牧草を利用したリャマ,アルパカの飼育が行われる。4800m以上の雪山になるとほとんど人も住まず,土地の利用も限られる。東部低地の年間雨量は2000mmを超え,マラニョン,ウカヤリ,ウルバンバ川など上流アマゾンの森林地帯となっている。これは国土の10分の6を占めるが,人口は少なく,開発も遅れている。
社会 ペルー社会は征服,植民地化の歴史を反映して,先住民(インディオ ),白人(クリオーリョ),および両者の混血(メスティソ )により構成されている。ただし人種的な意味で純粋な先住民は,モンターニャに居住するアラワク語系,パノ語系その他の諸族を別にすれば,ほとんどかあるいはまったく存在しない。一般に今日インディオと呼ばれている人々は,人種的,文化的に先住民の伝統をより多く保持している人々のことである。常用語がケチュア語かアイマラ語であることを基準にすれば,国民の約30%がこれに相当する。一方,純粋な白人は約10%とみなされ,残りはメスティソに分類できる。近代移民による欧米,アジアからの移住者も若干あるが,数の上では1%に満たない。白人,メスティソ,インディオはペルー社会の階層を形成する基盤であり,上層の白人およびメスティソの一部が,政治,経済の実権を有している。下層にはインディオとメスティソの大部分が含まれ,アンデス高地部に住む農牧民が主体である。ただし近年は都市労働者への転化も著しく進行している。中間層はもともと少なかったが,近代化,都市化にともない増大する傾向にある。階層差と地域差には相関があり,白人を含む上層は海岸平地の都市に集中し,インディオを含む下層は南部高地農村地帯に集中している。北部高地の農民はメスティソがほとんどである。ここ数十年間の都市化現象が著しく,1940年代には南北合わせた山地人口がまだ全体の半分以上を占めていたが,70年代になると海岸平地人口が増大し,山地人口と海岸平地人口の比の逆転が生じている。これはペルーの先スペイン期にもなかった現象である。
文化 文化的にみても,ペルーは先住民文化とスペイン文化の伝統が基盤になっている。言語(スペイン語),宗教(カトリック),政治・経済組織をはじめとし,国民文化の統一的側面ではスペイン伝統が強く,またこれが近代化を受容する素地となっている。一方,インディオとメスティソからなる農村地帯では,先住民文化の伝統が強く,スペイン伝統と習合した民俗文化を形成している。たとえば宗教の面で,カトリック信仰の形態をとりながら,地母神パチャママ や山霊アプに対する崇拝が山地農民の間に根強く残っている。市場貨幣経済は全国に浸透しているが,その末端では,ケチュア帯の農民とプナ帯の牧民の間で行われる交換交易が依然として重要な機能を果たしている。同様のことは衣,食,住の全体について,高地農牧民の生活にあてはまる。ただしこの民俗文化にも地域的なかたよりがあり,海岸部には先住民要素はほとんど残っていないし,北部高地ではスペイン伝統が優越した民俗文化が,南部高地では先住民伝統が優越した民俗文化が成立している。 執筆者:友枝 啓泰
政治 1821年共和国として独立して以来,三権分立のたてまえをとってきたが,しばしば行政の停滞と軍のクーデタなど政治不安を招いた。1933年憲法下で任期を全うした文民大統領はプラドManuel Prado(在任1939-45)ただ一人であった。ペルー政治が不安定な理由は,国民統合の遅れ,強大な軍の力,一次産品輸出経済への依存のほかに,伝統的な寡頭勢力が強くアプラ 党(アメリカ革命人民同盟)など急進的改革勢力との鋭い対立が展開されたことによる。
ペルー革命を引き継いだモラーレスFrancisco Morales Berumúdez軍事政権(1975-80)は,民政移管にあたり1978年憲法制定議会を招集,翌79年には新憲法を制定した。79年憲法は,混合経済体制や農地改革が規定されたほか,スペイン語の識字能力を問わず,18歳以上の国民すべてに参政権が与えられるなど,軍の改革が反映されるものとなった。従来の農村部に偏った代表制が改められ,有権者数に応じて下院議員180名は県単位の中選挙区で,上院議員60名は全国区で,いずれも比例代表制により選出されることになり,かつての寡頭的な閉鎖的体制は革命を経て開かれた民主的なものとなった。
1960年代まで主要勢力であった伝統的地主有産層の政党は80年代には姿を消し,中間層を中心とする近代的な政党が主流となった。中道右派にキリスト教人民党(PPC)と人民行動党(AP),中道左派にアプラ党,また共産党ほか左派7政党は統一左翼連合(IU)を結成,ほぼ支持を3分割して拮抗し,後者を除けばいずれも政権につくことになった。
しかし80年代を襲った経済破綻とテロ活動の活発化は,既成政治や政党政治に対する不信をつのらせ,有権者の政党離れが一挙に進んだ。その結果,90年の選挙では無党派層の支持を集めたフジモリ政権が発足した。92年4月には軍のバックアップのもと議会を閉鎖し,非常国家再建政府に移行したが,国際社会からの圧力に対応して,11月には民主憲法制定議会が招集された。翌年93年10月,自由市場経済体制,120名からなる一院制の議会,大統領の連続再選の容認,テロ犯罪への死刑の適用など新憲法案が国民投票で可決されている。95年にはフジモリ大統領は再選された。
この過程でアプラ党はじめ既存政党はいずれも分裂し勢力を失い,与党の〈カンビオ90(新多数派運動)〉のほかは,無党派の弱小政党の多党化傾向が顕著となり,政党地図はきわめて流動化している。また大統領権限の強化,軍の影響力の高まり,司法の独立性の弱さ,長期政権化など,フジモリ政権の民主主義との関係が問われている。 執筆者:遅野井 茂雄
経済 ペルーは地理的にコスタ(沿岸部),シエラ(山岳部),セルバまたはモンターニャ(森林部)に三分されるが,これは経済上の区分でもある。シエラは先住民人口の多い地域で,1969年の農地改革までアシエンダ と呼ばれる大所有地と先住民共有地が並存してきた。おもに国内自給用の穀物(米,小麦,大麦,トウモロコシ)の生産と牧畜(羊,牛,アルパカ,リャマ)が行われる。植民地時代,中・南部は金銀の産地として知られ,また南部のクスコを中心に織物工業が発展したが,独立以降はコスタに対して食糧および労働力を供給する後進地域にとどまっている。20世紀に入ると中部のセロ・デ・パスコ鉱山がアメリカ資本の下に銅,亜鉛の生産を再開し,1950年代,南部のマルコナ(鉄鉱石),トケパラ(銅)鉱山が開発された。独立以降,自由貿易・輸出経済体制が確立し,経済の中心はコスタに移行した。これは輸出関連の商業,交通がコスタの都市に集中したこと,および1840-80年ペルー輸出の最大品目となったグアノ と硝石の生産地が沿岸に広がっていることによる。19世紀後半には世界市場の需要に応じて,綿花および砂糖生産がコスタ中・北部に発展し,これがペルー経済近代化の原動力となった。しかしプランテーションの拡大は,土地所有の著しい格差を生み出した。20世紀初頭にはリマ,カヤオを中心に繊維,食品加工などの国内需要向け工業が興ってくる。その他,北部沿岸に石油が産出し,タララに精油所がある。また1950年代末からアンチョビー漁を中心とする水産業が世界的な漁獲量を誇り,飼料用の漁粉として輸出されている。セルバは20世紀初頭,北部のロレト県において一時的なゴム・ブームにわいたことがあるが,未開拓のジャングル地域であり,経済的には北部の石油,中部プカルパの木材,南部のコーヒー栽培が重要である。
ペルーにおける資本主義の基礎は,19世紀末から20世紀初頭のピエロラNicolás de Piérola(在任1895-99),レギア 両政権による近代化政策(金本位制,勧業省設置,中央準備銀行創設など)および鉄道,道路建設,都市改造などの経済基盤整備により築かれた。しかし20世紀前半を通じて,ペルー経済の基本的特徴である輸出依存,外資依存,近代化の進んだコスタと後進的なシエラとの二重構造,大土地所有制は存続した。ただ貿易はきわめて多角的である。主要輸出産品は,1940,50年代では綿花,砂糖,亜鉛,石油,60年代では魚粉,銅,綿花,70年代では銅,魚粉,砂糖,コーヒー,銀である。80年代以降は鉱業産品(銅,亜鉛,石油,金),魚粉が中心となっている。1968年ペルー革命によって成立した軍事政権は,この従属的,低開発的な構造を是正するため農地改革,外資の国有化,企業・工業改革を実施した。大土地所有制を解体して協同組合化を進めるなど経済全体に国営,公共部門の優位を確立しようとした。しかし経済困難,支持層の分裂などが75年のクーデタを誘発し,この改革は挫折した。85年にベラウンデ・テリー 政権を継いだアラン・ガルシア政権は,前政権の自由開放政策から保護主義政策への転換を図り,債務問題をめぐってIMFと対立する一方,インフレ,財政赤字に苦しみ,また汚職事件を起こすなど,経済的・政治的に破綻して,90年のフジモリ政権の成立を招いた。フジモリ政権は緊縮調整政策と民営化や関税引下げなど,いわゆる新自由主義 政策を実施してインフレを終息させ,94年には13%の経済成長を達成した。しかし,公務員の人員整理やレイオフ,インフォーマル部分の拡大など,失業・半失業率は依然として高く,国民の窮乏感も高まり,2期目のフジモリ政権は新たな危機に直面した。 執筆者:辻 豊治
歴史 1821年の独立から今日にいたるまで,ペルーにおける国民の政治統合は解決できない課題であり続けている。地理的隔絶による地域的多様性という条件に加え,スペイン人による征服・植民地化にともなう歴史的屈折は,階級や人種相互の間に敵対性や不信感をはぐくんだ。また市場を統合し資本主義を強力に推し進めるブルジョアジーも存在せず,このなかで,ペルー国民としての集団的アイデンティティが涵養されることは困難であった。今日でもペルーがあらゆる面で,相互のコミュニケーションを欠く多くの空間の共生するいわば〈群島〉として特徴づけられるのはこのためである。
19世紀 ボリーバルによって独立が宣言された後,半世紀にわたり軍人カウディーリョ による不安定な支配が続いた。しかし,このなかでも奴隷制を廃止したカスティヤRamón Castilla(在任1845-51,55-62)の時代には,比較的政治は安定した。1872年,グアノ産業の隆盛を背景に,共和国史上初めて文民のパルドManuel Pardo(在任1872-76)が政権に就いた。しかし,グアノを担保に外債を導入して経済発展を図ろうとする政策はこのときすでに破綻をむかえており,79年,チリとの太平洋戦争 が勃発するにいたるや,新興の有産貴族階級の政治支配はもろくも崩れさり,ペルー政治は再び軍人の手に移った。ここで太平洋戦争は元来,運命共同体としての意識を国民各層が共有すべき格好の機会であったが,チリとの国民統合の差を露呈するだけであった。
少数支配の時代 1889年,〈グレース協定〉(グレース商会 )で,鉄道,グアノの採掘権など,広範な利権をアメリカ,イギリスの債権者に譲渡することによって,ペルーは太平洋戦争の痛手からしだいに回復した。そして19世紀末には,イギリス,アメリカの外国資本の支配権強化の下で,農・鉱産品の輸出に特化して近代化を進めようとする寄生的ブルジョアジーと,高地の封建的な大地主層との間に,きわめて閉鎖的な少数支配秩序(貴族的共和制〈バサドレ 〉)が形成される。この下で,1895年のピエロラ時代からほぼ20年間,独立後最も安定した文民政権の時代をむかえるが,もとよりこの時代は,国民総体に政治参加の道を閉ざすきわめて排他的性格をもって特徴づけられた。しかし,この寡頭支配階級内の分裂は,ビリングルストの時代(1912-14)にかいま見られ,レギアの11年間の独裁時代(1919-30)に決定的となったが,とくに後者の時期,アメリカ資本がイギリス資本をしのいでペルーで優越性を確保したとはいえ,古い経済社会制度に手がつけられることはなかった。
アプラと共産党 この旧秩序に異議申立てをして1920年代末に登場するのがアプラ党と共産党である。両者とも,ペルーのブルジョアジーが国民統合の歴史的使命を果たしてこなかったという共通認識から出発したが,アヤ・デ・ラ・トーレ に率いられたアプラ 党がその使命を中産諸階級に託したのに対し,マリアテギ はその役割を否定し,社会主義への基軸勢力として労働者・農民階級を考えた。しかしマリアテギの政治構想は,30年,彼が夭逝したため流産し,創設した社会党は,死後,共産党となりモスクワの支配下に入り,革命勢力としてよりはむしろ支配層からアプラ対策として利用されるにいたる。他方,アプラは,海岸部北部の急速な近代化の結果,急進的な改革勢力として誕生したものであり,その誕生はペルー政治全体からみてあまりにも早すぎたといえ,そのため伝統的支配層との間,ことに軍部との間にはぬぐいきれない敵対関係が生まれた。その後アプラの政権獲得の試みは,いくたびとなくクーデタによってさえぎられ,その結果,同党は,初期の改革プログラムを放棄し,1956年には支配体制の一翼を担うにいたった。
旧体制の存続と新たな改革勢力 このように,恐慌後の1930年代の危機は,中産階級の政治運動によって打破されず,寡頭支配体制は,ただ軍と警察の力に依拠するだけであっても存続し続けたのである。実際ペルーでは,他のラテン・アメリカ諸国が民族主義的な工業化路線を選択していた50年代ですら,外国資本の徹底した導入を図り,農・鉱産品の輸出に特化した典型的なレッセフェール(自由放任主義)政策がしかれていたのである。しかし,アプラの方向転換は,50年代の急速な都市化に表される社会変動のなかで,新たな改革勢力としての中間層の登場と急進的な農民運動を促した。56年選挙には,ベラウンデ・テリー の率いる人民行動党(AP),キリスト教民主党(PDC),社会革新運動(MSP)がそれぞれ誕生し,国家権能の強化拡大,開発計画の導入,工業化,農地改革,民族主義といった,従来アプラ党が唱えていた諸改革の実施を目ざそうとした。この改革の流れに,それまで支配階級の〈番犬〉といわれていた軍が合流する。軍の合流は,50年代末からとくに62年に最高潮に達する高地農民の土地回復の急進化といった農村部の危機に強く触発されたものではあったが,62年にはM.プラド保守政権を倒し,農民運動の急進化した地域に農地改革を施すとともに,国家企画庁を創設した。この軍の保護の下に,翌63年にはベラウンデ・テリーが政権に就き,PDCとの連合の下で広範な改革を実施しようとしたが,議会におけるアプラ党と大地主の利益を代表する国民連合(UNO)の反対にあって挫折し,68年には,議会制による改革に見切りをつけたJ.ベラスコ 将軍のクーデタを招いた。
ペルー革命から80年代の民主化へ ベラスコの指導下に実施された急進的な構造改革,とくに徹底した農地改革,経済の基幹部門の国有化を通じて,大地主や外資によって規定された独占的な寡頭支体制は著しく変容したが,軍の急進派は,新秩序を完成するにはいたらず,国内対立が深まるなかで75年8月には穏健派のモラーレス・ベルムデスのクーデタを誘発し,改革路線はその後修正を迫られた。78年には制憲議会が招集され,79年新憲法の完成とともに80年には民政移管が実現し,再びベラウンデ・テリーが政権に返り咲いた。ベラウンデは自由主義路線を進め経済の開放化を図ったが,世界不況と債務危機,自然災害などの厳しい環境のなかで近年にない大不況(マイナス12%成長)を招き,またゲリラ運動(センデロ・ルミノソ)が展開されるなど,新たな民主主義は厳しい試練に直面した。しかし85年,民主主義革命を掲げたアプラ党の若手指導者アラン・ガルシアが圧倒的支持で政権に就き,民族主義の下で,インフレ,経済回復,債務問題への対策とともに,アンデス農村や貧困層の生活改善を目指した改革を進めたが,88年以降は再びマイナス成長に陥ってインフレが激化し,ゲリラ活動も活発化した。90年の大統領選挙では,著名な作家で人民行動党,キリスト教人民党,自由擁護運動が連合した民主戦線のバルガス・リョサ を,〈カンビオ(変革)90〉のアルベルト・フジモリ(日系2世)がアプラ党などの支持も得て破り,当選した。
日本との関係 すでに17世紀初めに日本人の存在したことが文書で認められているが,両国の正式な関係は,1872年の〈マリア・ルース号事件 〉の処理を契機として,その翌年調印される通商友好仮条約をもって始まる。その後1899年4月3日,第1回の日本移民790人が〈佐倉丸〉でカヤオ港に到着して以来,両国の関係は新たな展開を遂げた。しかし第2次大戦勃発後,排日大暴動が起こり,また1942年2月12日,ペルーの対日宣戦布告にともない,外交官を含む1800人もの日本人がアメリカに強制連行されるなど,日系社会は辛酸をなめた。しかし戦後,同社会は7万人以上を擁して着実な発展を遂げるにいたり,79年には,移民80周年をむかえた。また,日本の経済復興にともない,両国の関係も今日,経済面での補完関係のみならず,技術協力,考古学,文化人類学など,学術・人物交流を通じて緊密化している。 執筆者:遅野井 茂雄