蓮華寺(読み)れんげじ

日本歴史地名大系 「蓮華寺」の解説

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]米原町番場

旧蓮華寺村集落の中央にある。八葉山と号し、浄土宗。阿弥陀如来釈迦如来の二尊を本尊とする。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔創建〕

寺蔵の蓮華寺縁起によれば、推古天皇二三年聖徳太子の発願で建立された法隆ほうりゆう寺を前身とする。のち法相宗の憲宗が寺観を整えたが、建治二年(一二七六)雷火で焼失。草堂のみが存したが、弘安七年(一二八四)北陸遊行中の一向俊聖がこの地に着き、住僧畜能・畜生の好意と箕浦みのうら荘地頭土肥元頼の帰依を受け堂舎を再興し、蓮華寺を創建したという。元頼の援助により鋳造された弘安七年一〇月の銘をもつ梵鐘は国指定重要文化財。延慶二年(一三〇九)には花園天皇より勅願所の綸旨を賜っている(寺蔵文書)。嘉暦三年(一三二八)四月日の箕浦荘地頭藤原某(土肥氏か)の検注勘料受取状(同文書)によると、同荘内に蓮華寺領があり、検注を免除してもらったことに対する謝礼として四貫六七〇文を納めることになっていたが、実際に寺が納入したのは二貫文で、残りは念仏堂への奉加として免除されている。

〔陸波羅南北過去帳〕

元弘三年(一三三三)、元弘の乱で後醍醐天皇方についた足利尊氏が六波羅探題を攻め、探題北条仲時(北)・時益(南)は防戦もむなしく鎌倉へ落ちたが、途中時益は戦死し、仲時一行も番場ばんばまで来たとき京極導誉に退路を断たれ、仲時以下四三〇余人が当地の辻堂で自刃した(「太平記」巻九)

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]度会町棚橋 下の田

棚橋たなはしの西端、牧戸まきどとの境界にある。浄土宗。山号神宮山。旧称法楽ほうらく寺。近世は伊勢山田の梅香やまだのばいこう寺末であった。寺伝によれば、天智天皇の時、千方(藤原)将軍の草創という。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)によれば、平安時代、一条天皇の頃に神宮大宮司大中臣宗幹の娘敦子の夫興胤(法名覚禅)が建立。寺領は宗幹の曾祖父大中臣安則が神宮祭主の時に開発した大橋おおはし御園半分を有した。同紛失記によれば敦子と興胤の後、僧興寿が蓮華寺寺務を執り、平範・宗賢・賢祐と継承し行快に至る。行快は敦子の後夫祭主佐国の娘幸子の養子である。その後弟子行恵・継尊と伝領した。継尊は宗幹の子孫で、大橋御園は彼の継承分と合せて全域が蓮華寺領となった。行恵が寺務を執る頃から真言宗となる。継尊の頃から京都醍醐寺との関係が生じたが、源平の争乱から鎌倉初頭には武士の侵入を受けて衰えた。文治元年(一一八五)一二月二五日夜半には、行恵が平氏の有力家人河田入道貞政の子息であるところから平家の方人という理由で武士の乱入があった。翌年正月一二日にも再び乱入があり、御園所司・住人等も住宅を捨て山林に逃れた。さらに大野木おおのき・棚橋両郷にも侵入があった。これに対して鎌倉幕府は文治二年二月下文を発し、行恵の無実によって本宅に安住すべしとした。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]森町森

森地区北方八形はつけい(旧蓮形山)中腹にある。八形山と号し天台宗。本尊は阿弥陀如来。文武天皇の草創の勅願寺であるという(元亀二年八月七日「正親町天皇綸旨」蓮華寺文書)。別称をはぎの寺ともいう。慶雲元年(七〇四)、行基による開創と伝えられ、天長八年(八三一)天台宗に改宗という。「法然上人絵伝」巻四五に「遠江国蓮華寺乃禅勝房」が熊谷蓮生(直実)の紹介で法然の弟子となったことが記され、この蓮華寺は当寺であるとされる。三倉蔵泉みくらぞうせん寺所蔵の大般若経巻二一は至徳四年(一三八七)八月二二日に「遠州一宮庄内蓮華寺安養寺三位阿闍梨」が書写したもので、三位阿闍梨は巻五四四なども書写している。巻五五三は「蓮花寺若狭阿闍梨」により書写された。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]日出町日出

若宮八幡神社の東にある。愛宕山と号し、本尊千手観音。高野山真言宗。当寺はもと安光あんこう寺と号し大神おおが庄内辻の堂つじのどうにあったが(→大神村、慶長六年(一六〇一)日出に入封した木下延俊が移転再興、円海えんかい寺と命名した。昭和三〇年代に蓮華寺と改称。江戸時代、門前の東には日出藩主の参勤交代の際の御座船の船入りと出港の波止場があり、藩主は円海寺で航海安全の祈願の後に乗船出港するのが通例であった。木下延俊は日出城を築城するにあたり、求菩提くぼて山の慈照院玄海を招いて城の地鎮を行い、安光寺を城地内の須崎すさき(現在地)に移転させて鬼門の守りとするとともに祈祷寺とし、愛宕山円海寺と命名した。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]富山市梅沢町三丁目

大乗山と号し、臨済宗国泰寺派。本尊釈迦如来。安政二年(一八五五)の過去留帳(寺蔵)によれば、元亨年中(一三二一―二四)名越時有を大檀那として、高岡大門に建立され、開山は加賀伝灯でんどう(現石川県金沢市)および放生津ほうじようづ(現新湊市)興化こうか寺の開山たる恭翁運良の弟子呑象運光(仏心円成、観応二年没)であったという。その後神保越中守を開基として新川にいかわ上飯野かみいいのに移り、次に神保長住を開基として婦負ねい長沢ながさわ(現婦中町)に移転、それぞれ七堂伽藍が建立され、一五五石・一七五石が寄進されたと伝える。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]三木市口吉川町蓮華寺

美嚢みの川と支流小川おがわ川に挟まれた丘陵上にある。如意山と号し、真言宗大覚寺派。本尊は十一面観音。空鉢(法道)の草創とされる(文永四年二月一九日「太政官符写」蓮華寺文書)。天暦年中(九四七―九五七)村上天皇の勅願所となったという(美嚢郡誌)。文永四年(一二六七)の前掲太政官符写によると、当寺内の殺生および当寺四至内の寺領、山林の伐取と諸方使の入部を禁じ、住侶に対しては智徳浄行の老僧一六人で寺務を執行、顕密教法を修し、玉体の安穏を祈るよう命じている。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]板野町犬伏

犬伏いぬぶし地区の南西、遍路道沿いにある。金龍山と号する。本尊は十一面観音。もとは徳島工業短期大学南にある蓮花れんげ池の辺りにあり、この池は当寺の蓮池だったといわれる。開創などは不明。長享三年(一四八九)七月二三日の旦那売券(熊野那智大社文書)に「はんさいの蓮花寺引」とみえ、紀伊熊野先達の拠点となっていたことがわかる。また文亀二年(一五〇二)一二月一三日には現鴨島かもじま山路さんじに拠点をもっていた十川先達憲春が弟子の大輔公に、「熊野参詣之檀那」とともに「蓮花寺住持敷」を譲渡している(「旦那譲状」仙光寺文書)

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]鰍沢町 明神町

富士川の西岸、畔沢あぜさわ川とみなみ川とのほぼ中間、旧駿州往還より少し西に入った所に位置する。恵命山と号し、日蓮宗。本尊は十界曼陀羅。慶応四年(一八六八)当寺が提出した由緒取調(寺記)によれば、建武元年(一三三四)寂日房日華を開山に建立、当初は光長こうちよう寺と称し富士派に属していたが、のち鏡中条かがみなかじよう(現若草町)長遠じようおん寺末となる(甲斐国志)。慶長一六年(一六一一)身延二一世日遠により蓮華寺と改められた(「甲斐国志」、前掲由緒取調)

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]水口町松栄

江戸時代の西にし町の南方、もりにある。水口山と号し、真宗高田派。本尊阿弥陀如来。水口の名の起りとする説がある。古くは天台宗に属したという。延宝七年(一六七九)の美濃部水口村検地帳(水口宿文書)によれば、境内は東西三一間・南北二七間三尺。寺伝によると、聖徳太子の所縁によって創立され、のち足利義政によって再建されたが、元亀二年(一五七一)兵火により焼失、天正五年(一五七七)中興され、現宗派に改めたという。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]高松市浜ノ町

高松城跡西、弘憲こうけん寺の北西にある。北側の海浜は大的場おおまとばである。海宝山慈眼院と号し、真言宗御室派。本尊聖観音。境内は若一王子にやくいちおうじ神社とともに篦原のはら郷地頭岡田氏の居館跡といわれ、寺伝によれば文安元年(一四四四)空山が蓮華堂を開創、文明三年(一四七一)岡田氏が保護して蓮華寺とし、十河一存の帰依を受けたが、天正年間(一五七三―九二)の兵火で焼失、岡田氏によって再建され、高松城築城のため八輪やわ島から当地に移った無量寿むりようじゆ院の塔頭となった。承応三年(一六五四)岡田氏の裔で高松藩士であった高島治長により修造され、「讃香東西浜観音堂建立、岡田丹後守清忠再興、同藤左衛門尉吉忠再興、同庄兵衛尉平次、高島左衛門尉治長承応甲午三年初春日」銘の瓦が残る。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]竹野町轟

峰山と号し、本尊聖観音。高野山真言宗。創建は慶雲年中(七〇四―七〇八)と伝えられ、寺域は広大で、四囲の山々が蓮の花に似ているところから寺名がつけられたという。その後光賀律師によって天台宗となったが、鎌倉時代の末、京都東寺(教王護国寺)の杲宝により真言宗に改められ、伽藍・塔頭が整備されたほか山外に数十の門末坊舎が配されたと伝え、但馬の高野山と称されるまでになったという。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]美山町葛原

葛原くずはら川左岸、字奥峠おくとうげにあり、天王山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は聖観音。延喜年間(九〇一―九二三)大倉長者某が観音菩薩を祀って天王てんのう山頂に一宇を建立、天正一〇年(一五八二)山麓に移し再建したという。山号・寺号を定めたのは中興開山瑞雲宗呈。文化二年(一八〇五)八世瑞翁宋祥のとき現在地に移転。瑞翁は本巣もとす祖父江そぶえ(現穂積町)の出身で、知識ばかりでなく腕力・体格も人一倍優れた快僧との逸話が残る。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]院内町小坂

上野畑うえのばたにあり、明王山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。現在の蓮華寺は民家造だが、道を隔てて旧蓮華寺跡がある。旧蓮華寺は真言宗で、養老二年(七一八)行基の開創と伝える。旧蓮華寺跡の中央の小丘陵上に五輪塔・宝塔二〇基ほどが並ぶ。その中心に形のよく整った総高一四七センチの五輪塔が一基ある。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]足和田村大嵐

足和田山の北東麓にある。日蓮宗。山号は持名山、本尊は十界大曼荼羅。当寺の前身は真言宗の精舎でその名を大同山御堂寺といい、大同四年(八〇九)空海開創の伝説をもつ。弘安五年(一二八二)日蓮が武州池上いけがみ(現東京都大田区)に向かう途中、住僧法玄を法論のすえ折伏。法玄は直ちに改宗して日蓮の門弟となり、法玄日領の法名を賜り、寺号も持名山蓮華寺と改めその開山となったという(甲斐国志・寺記)。江戸時代には身延山久遠くおん寺末で、境内除地二町五反四畝四二歩を所持(甲斐国志)、ただしこのうち二町五反は山林と考えられる(寺記)

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]青森市本町一丁目

もとのてら町の東端にあり、西に蓮心れんしん寺がある。広布山と号し、日蓮宗。本尊十界曼陀羅。

京都妙顕みようけん(現京都市上京区)からこの地に来た日住が、承応元年(一六五二)寺屋敷を賜って法華庵を建て開山となった。寛文四年(一六六四)現在地へ移り、蓮華寺と称して妙顕寺の末寺となった(青森市史)。貞享四年(一六八七)の検地では、屋敷地一町八反三畝五歩、高一四・六五三石であった(青森市沿革史)

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]左京区上高野八幡町

帰命山と号し、天台宗に属する。本尊は釈迦如来。もと東塩小路ひがししおこうじ(現京都市下京区)に方一町の寺地をもつ時宗の寺であったが、応仁の乱で荒廃した。寛文二年(一六六二)桂宮別荘(現同市西京区の桂離宮)の完成にも尽力した加賀藩家老今枝民部近義が、八条宮智忠親王に輿入れした藩主の娘(富姫)に従い京に住んだ父今枝内記重直の菩提を弔うため、この地に再興した。再興にあたって近義は木下順庵・石川丈山・隠元禅師・狩野探幽らの助力を得、庭園には近義が建てた同六年九月の年紀銘のある重直顕彰碑がある。延宝九年(一六八一)に蓮華寺を訪れた黒川道祐は「東北歴覧之記」に「本尊ハ釈尊ナリ、古代木仏ナリ、黄檗隠元禅師蓮華寺ト記セル額アリ、堂ノ前ニ井アリ、其ノ水至テ清冷ナリ、名漱玉泉ト、方丈ノ内仏銅像ノ釈尊、同ク千手観音ノ尊像アリ、庭ニ池水アリ、中島ニ石碑アリ、則チ民部カ父今枝宗二ノ碑ナリ、其ノ詞并ニ銘ハ木下順庵是ヲ作セリ、篆額ハ石川丈山筆也」と記し、天明六年(一七八六)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれる。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]岡崎市西本郷町 和志山

矢作川沖積地を一望する碧海へきかい台地の崖端上に位置し、五十狭城入彦命と伝える墳墓に接する。芙蓉山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。寺伝にもと和志王山薬王やくおう寺の再建と伝え、神亀三年(七二六)行基が一刀三体の薬師如来を刻み本尊とし、施薬院に準じ堂宇を創設したといい、霊薬五香湯を施し、上下の信仰を集めた。足利氏の帰依深く供田を寄進、境内数町歩を除地としたという。なお「本朝文粋」慶滋保胤の「晩秋過参州薬王寺有感」の薬王寺を当寺に比定する説もあるが、別郷べつごう廃寺(現安城市)とする説も有力である。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]高遠町大字長藤的場

高遠城下の町続きの猪鹿いろく谷の台地にあり、金沢道から本堂までの参道には老杉が続く。日蓮宗妙法山蓮華寺、本尊は釈迦如来。「長野県町村誌」によれば

<資料は省略されています>

と寺歴の複雑さを記す。高遠藩主保科正之の生母浄光院の菩提寺であり、その後の藩主鳥居家との関係も深かったようである。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]美和町蜂須賀

池鈴山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。弘仁九年(八一八)弘法大師の開基という。大師が熱田神宮に参籠して一千日の護摩を修めた時、大師を急ぎ召すべき勅使があったため、大師は自分の像をつくって熱田にとどめて上京、これを身代り大師といった。勅用を果した大師が再び熱田に参籠中、霊告により高須賀たかすか(蜂須賀)の森に伽藍を創建したのが当寺である。閼伽の井を掘ったところ、五鈷鈴が出て清水があふれ池となり、白蓮華が生じた由縁で池鈴山蓮華寺と称された。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]小田原市千代 石ヶ坪

千代ちよ集落の中央にある。千葉山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦多宝。文永一一年(一二七四)中老日弁の起立と伝える。縁起によれば、もと東大友ひがしおおども村にあり、千代村の柳下氏の寺地寄進により当地へ移転したといい、また文禄―慶長期(一五九二―一六一五)酒匂さかわ大口おおくち土手工事成就の祈祷の功により藩主大久保氏より寺領を寄進されたともいわれる。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]田布施町大字上田布施 真殿

千坊せんぼう山東方にある浄土宗寺院。真殿山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば開山は祖南、中興は順応。開基年代は不詳だが、元禄二年(一六八九)に寺号を許されたという。

同寺の木造地蔵菩薩坐像は千坊山に寺跡を残す真言宗妙相みようそう寺のものと伝える。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]岩内郡岩内町字高台

妙厳山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。妙顕みようけん(現京都市上京区)末僧の日済の開基という。明治初年後藤卜伝が野束のづか村に草堂を構えて北辰妙見菩薩を安置したのが始まりで、明治五年(一八七二)現在地(当時は御鉾内町)に移転。

蓮華寺
れんげじ

[現在地名]爾志郡熊石町字館平

日本海に面した海岸段丘下にある真宗大谷派寺院。山号泥山、本尊阿弥陀如来。創建は元禄二年(一六八九)松前専念せんねん寺七世瑞玄を開基に、「掛所相沼専念寺」を造立したのに始まるといい、蓮花寺と記される(寺院沿革誌)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蓮華寺」の意味・わかりやすい解説

蓮華寺
れんげじ

滋賀県米原(まいばら)市番場にある浄土宗の寺。山号は八葉山(はちようさん)。伝説では聖徳太子の願により、憲崇(けんそう)律師の開基とする。創建当時は法隆寺とよばれた。1284年(弘安7)一向(いっこう)が諸国を巡歴し、当地で念仏を行い、土肥(どひ)入道道日の帰依(きえ)を得て伽藍(がらん)を再興した。この地は八つの峰があるところから山号としたという。1333年(元弘3・正慶2)足利(あしかが)勢に敗れた北条仲時ら430人余が当山の一向堂の前で自害した。境内にそのときの全員の墓がある。またその過去帳(紙本墨書陸波羅南北過去帳)がいまも伝わっており、銅鐘とともに国重要文化財に指定されている。なお、境内には長谷川伸の名作『瞼(まぶた)の母』の主人公である番場の忠太郎にちなんだ忠太郎地蔵尊もある。

[清水 乞]


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事典 日本の地域遺産 「蓮華寺」の解説

蓮華寺

(愛知県岡崎市西本郷町字和志山91-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積7,750【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「蓮華寺」の解説

蓮華寺

青森県青森市にある日蓮宗の寺院。山号は廣布山。1294年、日持が結んだ草庵が起源とされる。1664年現在地に移り、寺号を得る。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「蓮華寺」の解説

蓮華寺

(滋賀県米原市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

蓮華寺

(長野県伊那市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

蓮華寺

(東京都杉並区)
杉並百景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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