ギリシア

改訂新版 世界大百科事典 「ギリシア」の意味・わかりやすい解説

ギリシア

古代ギリシア語でヘラスHellas,現代ギリシア語では綴りは変わらないがエラスと発音する。ラテン語ではグラエキアGraecia,現代ヨーロッパ語ではラテン語に由来するものが多いが,ギリシア語に由来する語も併用されている。例えば英語ではグリースGreeceまたはヘラスHellas,ドイツ語ではグリーヘンラントGriechenlandまたはヘラスHellas,フランス語ではグレスGrèceまたはエラドHellade,イタリア語ではグレチアGrecia(ギリシア語起源の語は〈ギリシアの〉の意味でエレニコellenico,ヘレニズムの意味でエレニスモellenismoなどが使われる)。〈希臘〉という漢字はヘラスの音訳である。

今日ギリシアを旅行して感じる文化層の積重なりは,歴史は流れではなく,幾世代にもわたる人々の実際的な旧文化の摂取と創造の繰返しであることを如実に示している。この積み重ねられた文化層とは,大別して第1に前2000年ごろギリシア人の祖先がこの地に移住・定着してから後5世紀ごろまでの古代文化,第2に古代末期から始まって19世紀までのビザンティン文化,第3にギリシア独立後の現代文化,の3層である。約500年にわたるオスマン・トルコの支配は,キリスト教聖堂のモスク化などに見られるとはいえ,上の三大文化層の厚みを大きく変えるものではなかった。このうちビザンティン文化はギリシア正教を精神的支柱として今日まで民衆の生活の中に脈打っている。古代文化は,ギリシア語ギリシア文字としてギリシア人の歴史全体を貫いているが,ポリス政治の中で発達した直接民主政や多神教の宗教思想のような古代に特徴的な生活規範は今日ではまったく消え去っているといってよかろう。もとより古典演劇は今日でも現代風演出のもとで古代劇場において催されているし,古典古代文化の研究は,文学,哲学から歴史学,考古学,碑文学,さらには音楽の復元に至るまで盛んに行われているが,民衆の生活意識の中に古代が生きているといったようなものではない。現代ギリシア人の血統という点では,トルコ人との混血の度合は無視しうる程度のものであったとしても,古代末期以降のスラブ人の大量移住による混血は考慮に値しよう。ギリシア正教会における新約聖書原文(コイネー・ギリシア語)の長期にわたる使用が,何にもましてギリシア語とギリシア文字を古代以来一貫してギリシア人のものとしてきた土台であったと思われる。ギリシア語の発音と文法に多少の変化は認められるが,古代から使われている言葉が非常に多く今日でも使われているのは驚きでさえある。

第1の文化層すなわち古典古代文化は,ヘレニズムとローマ帝国を通じてゲルマン,アラブ,スラブ系の諸民族に影響を与え,ルネサンスを通じて西欧の近代化に役割を果たしたが,世界史の発展過程を巨視的に見れば,オリエント文化の影響下に文明と国家の形成を成し遂げながら,それとは異質の国家・社会をつくりあげ,これを土台として古典文化を創造したという点に,古代ギリシア人の最大の特徴があったといってよい。その異質の国家・社会とは,都市国家とも邦訳されるポリスである。ポリスは前8世紀ごろエーゲ海周辺のギリシア人のあいだに点々と成立し,前7世紀ごろから前4世紀に至る約400年のあいだに典型的に発展した共同体国家である。その特徴は,この共同体の成員すなわちポリス市民が世襲農地(クレーロス)を私有し,共同体自体が公有地をもっているという点にある。クレーロスは〈籤(くじ)〉を意味し,共同体がその占拠した土地を小地片に分割して籤引きで成員に分配したことに由来すると推定される。このような自由な小土地所有者が同時に戦士としての権利・義務をもつのが市民共同体の原則であった。こうした特徴をもつ共同体がギリシアにおいて(ローマの共和政期にも同じような共同体が展開したが)典型的に発展した原因は,大きく見れば,ギリシア人の原始共同体が先進オリエント文明の影響を摂取しつつ自己を文明化したことに求められる。後述するように,ポリスよりも古い形態の国家をつくりあげたミュケナイ文明の世界において,これを支える共同体内部にすでに耕地の私的所有が発生していたことは注目すべきことで,オリエントにおける国家形成が強大な専制君主国家を生んだのとは異なり,ギリシアでは王権の発達が未熟で,やがて王国が没落してポリスが貴族の階級的結集による政権独占として成立しえたのも,これが根本原因であったと推定される。

 ミュケナイ時代から古拙時代への移行は,諸市のアクロポリスから王宮が消滅し,代わって守護神の神殿が建つようになる,という事実に端的に現れた。したがって,ギリシア人がオリエント社会とポリス社会との異質性を意識したのもポリスの段階においてであったが,王権が強大化の一途をたどって広大な領域を支配する専制君主に帰着したオリエントに対して,ギリシアでは王権の強大化が未成熟のうちにとどめられ,やがてそれが否定された。その背後には,諸共同体の結合による集団労働によってしか農業生産の諸条件とくに大河の統制ができなかったオリエントに対し,ギリシアでは共同体の個々の成員たる家族の個別労働が農業生産発展の主要条件であったという,生産条件の違いに由来する労働形態の違いがあった,と考えなければならない。一言でいえば,オリエント社会とギリシア社会が,初めは氏族制的部族を成して生活していたであろう段階から国家形成を始めたのに,このように相異なる社会と国家を生み出した分岐点は,部族的統合の首長権に由来する王権がどのようにして強大化されたかの違いにあり,その基底には共同体の構造差--それは共同体内部における私的土地所有の発展度の違いに現れる--があったのであり,この場合ミュケナイ時代において初めて小王国段階の共同体成員による耕地の私的所有が成立した,という点に求められる。それゆえギリシア史の上でポリスの形成を考えるにあたっては,原始社会からの初めての国家形成の問題として考えるべきではなく,ミュケナイ時代の王国の没落後における国家の変革と再出発の問題として考えるべきである,ということになる。

前3千年紀の初めごろバルカン半島のトラキア,フォキス,ボイオティア,アッティカ,アルゴリス,コリントスなどに新石器文化が始まっていた。その担い手がどこから来たのかはわからないが,前2千年紀の初めごろに古い文化を破壊しつつここに北方から来住したのは,インド・ヨーロッパ語族に属するギリシアの一派(イオニア人,アイオリス人などの東ギリシア方言群の祖先)の言語を話す人々であったと推定される。彼らはしだいに海上に進出してエジプトやメソポタミアの文明,ことにミノス(クレタ)文明を採用して前1600年ころには高度な青銅器文明をつくりあげた。これがミュケナイ文明で,これをつくりだしたギリシア人の支配層は,壮大な城砦と巨大な穹窿墓(トロス)を築き,戦車を駆る貴族層で,その中から卓越した王が,ミュケナイ,ティリュンス,ピュロス,オルコメノス,アテナイなどの城砦の中に華麗な壁画をもつ王宮を営んでいた。前15世紀にはミュケナイ勢力はミレトス,メロス,クレタ,テラ(サントリニ)に及んだ。クレタのクノッソス,ペロポネソス半島南西海岸に近いピュロスから出土した数千枚の粘土板文書(線文字Bと呼ばれる音節文字で書かれた)は,これらのギリシア人の王室文書が中心で,その内容はそれぞれの王国の行政,財政,軍事,祭祀などに関する王の役人の記録である。このこと自体ミュケナイ社会がホメロスの叙事詩に歌われた王国と異質のものであることを示しているが,文書の内容もそれを明らかにしている。

 すなわち文書によると,多数の奴隷の所有と土地所有に卓越した王は,軍事指揮者やその他の役人を従え,支配下のおもな村々にも監督官をおき,村ごとに貢納義務を課した。また非常の場合は村々の鍛冶工を王命による武器生産に従わせるために青銅を配給することがあった。このことはミュケナイ時代の王国がオリエントの古い都市国家に近い形態を備えていたことを示している。しかし一群の土地文書は,共同体の成員が私有地のほか公有地の分割保有にもあずかっていたことを示唆しており,この点で古典古代的共同体の範疇に帰属させることができる。文書はまた当時の主要生産が農業と牧畜であったこと,農業では大麦・小麦の栽培,ブドウ,オリーブ,イチジクなどの果樹栽培が主で,牧畜では羊,ヤギ,豚などの小型家畜の飼育が主で,牛,馬などは比較的少なかったことを示している。2頭立ての牛を繫駕した犂耕が行われ,また上級戦士は戦車を馬に引かせて出陣したり連絡したりするという方法も心得ていた。手工業では鍛冶工と陶工がしばしば文書に見えているほか,〈王の武器作り〉〈弓作り〉〈石工〉といった職業名もあり,ミュケナイ文明の考古学的資料を裏づけている。ミュケナイ文明はピュロスからクレタに至るまで共通した様式によって特徴づけられているが,これは文書の言葉にも見られ,〈ピュロス文書〉と〈クノッソス文書〉に出てくる言葉はほとんど同一であるといってよい。このことは上述したミュケナイ時代のギリシア人の諸王国の社会構造が,基本的には同一であったことを強く示唆している。

 ミュケナイ文明は前12世紀を通じて崩壊したが,その原因は明らかでなく,このころヒッタイト王国を滅ぼしてエジプトに海陸両面から侵入して撃退された〈海の民〉の広範な破壊活動の一環であった公算を否定することができない。ドリス人の南下によってミュケナイ文明が破壊されたことは考古学上否定されており,スパルタにドリス人の居住地が初めて現れたのは前10世紀中葉であった。このころまでのギリシア諸種族の移動の結果,小アジア西岸には北からアイオリス,イオニア,ドリスの諸市ができた。ミュケナイ文明の崩壊から前8世紀ごろまではギリシア史の上で〈暗黒時代〉と呼ばれるが,この間にギリシア社会には大きな変化がおこり,鉄器の使用が始まり,ギリシア語アルファベットが発明された。これらの現象に表れたギリシア社会の発展はポリス社会の形成となって結実した。

エーゲ海周辺のギリシア人の社会にポリスが点々と形成されたのは前8世紀であったが,それは王権の衰微と貴族政の確立を意味した。ポリス国家の成立を引き起こした条件は,土地や奴隷の私的所有に卓越した貴族層が,共同体の一般成員との対抗関係および他の共同体との対抗関係の中で,集住(シュノイキスモス)という形をとった階級的結集を必要としたことであった。ドリス人が支配階級になった場合も,生産労働から解放されて,政治と軍事に専心できる階級の成立したことが前提条件であった。このころアテナイでもスパルタでも英雄崇拝が盛んになったが,それはポリス共同体の成員のみが土地所有者になれるという事情が昔の英雄とのつながりを誇示する行為を生んだためと考えられる。またこのころから約200年のあいだに,ギリシア諸市の植民市(アポイキア)建設活動が活発になり,黒海・地中海沿岸各地に多数のポリスが形成された。これらの植民市は母市から独立したポリスで,植民者は新しい土地で土地所有者となるのが目的であったが,エジプトのナウクラティスのように初めからエジプトとの商取引を目的とした場合もあった。

ギリシア人の植民活動の結果は重大であった。遠隔地との交易は盛んとなり,例えば黒海沿岸からは木材,毛皮,穀物,奴隷などが輸入され,ギリシアからはブドウ酒,オリーブ油,陶器などが輸出された。こうして発展した商工業は,前7世紀に小アジアのリュディア王国から導入された貨幣の鋳造によってますます発展し,その結果ギリシア諸市では貨幣財産にすぐれた平民が土地貴族と対立するにいたった。また手工業の発展により武具も比較的安価に入手できるようになり,これによって馬を養いうる富裕な貴族の騎兵が戦力の中心であった従来とは異なり,今や中小農民から成る重装歩兵の密集部隊が戦力の中心となるにいたった。こうした変化が貴族政を動揺させ,貴族と平民の抗争の中で平民を支持基盤とする独裁者(僭主)が現れる結果を生み,前7世紀末から前6世紀にはミレトス,ミュティレネ,メガラ,コリントス,シキュオンなどに僭主政が成立した。このような経済的・政治的変動の中でギリシア市民の精神構造にも変化がおこり,個人の心情を赤裸々に表現する抒情詩が盛んとなり,世界の神話的説明ではなく,世界を現にこのようなものとしている根本物質(アルケー)は何かを求める哲学(自然学)がおこり,また直接の目撃と伝聞によって歴史の真実に迫ろうとする散文史家たちが現れた。このように貴族政が動揺し,一時的権力集中を経て民主政が成立するまでの過渡期は,広くかつ深い変革が現実にも精神界にもおこった時代であった。

 アテナイにおいても前7世紀後半に僭主政樹立の試みがおこり,これは失敗に終わったが,貴族と平民の抗争が激化する中で前6世紀初めの〈ソロンの改革〉によって民主政への第一歩が踏み出された。すなわちソロンは貴族と平民の双方から調停者に選ばれ改革の全権をゆだねられると,借財の帳消し(これを〈重荷おろし〉という)を断行して借財がもとで隷属状態に陥っていた農民を解放し,かつ以後身体を抵当にしての借財を禁止して,将来にわたって市民が他人に隷属することをなくした。これは小農民たる市民を中心とする民主政のための基礎を据える措置であったと同時に,隷属労働への需要が奴隷によってしか満たされないという状況を生んだ。ソロンはまた国制の上では土地財産からあがる収穫量の多寡に応じて市民を4等級に分け,それぞれの等級に応じて参政権と兵役を定めた。これを〈財産評価による政治(ティモクラティア)〉という。なかでも役人の不法行為を弾劾する権利を民衆に与えたことは,貴族の恣意的な支配を抑えるのに大きな意義をもつものであった。借財の帳消しは,貴族に不満を残し,土地再分割を要求した貧窮市民もまた,改革には不満であった。このためアテナイの政情はふたたび党争と混乱に陥り,アルコンを選出できない状態さえ生じた。

 こうした状況の中で,平地党(大土地所有貴族を支持基盤とする)と海岸党(中流市民を支持基盤とし中道政治を主張する)と山地党(貧窮市民を支持基盤とし最も民主的と思われた)の争いが生じ,山地党を率いたペイシストラトスがアクロポリスを占領して僭主政を樹立した(前561)。僭主政は党争の中で動揺したが,ともかくもペイシストラトスの時代には善政をうたわれた。彼はソロンの国制を変えることなく,勧農と小農民保護を推進し,手工業の発展を図り公共建造物の建設工事をおこすことによって国力の発展とアテナイ市の美化に貢献するところが大きかった。ペイシストラトスが死ぬと(前528),その子ヒッピアスとヒッパルコスが僭主政の中心となった。しかしこのころから僭主政打倒の企ても秘密裡に進められ,中流市民ハルモディオスとアリストゲイトンがヒッパルコスを殺すと,ヒッピアスの政治は苛酷となり,スパルタ軍の援助によってクレイステネスを中心とする民主派がヒッピアス一味を追放して僭主政は終わった(前510)。アテナイは再び貴族派と民主派の党争に引き戻されたが,民主派のクレイステネスが民衆の支持を得て改革を断行した(前508か前507)。彼は貴族の地盤となっていた従来の4部族を廃止し,アッティカ全土を都市部,内陸部,海岸部に分け,各部を10の部分(トリッテュス)に分け,各部の1トリッテュスを籤引きで組み合わせて1部族として合計10部族をつくり,これを行政,政治,軍事の単位とした。これによって市民の地域的利益は混合された。そしてこの新しい部族制度の基礎に区(デーモス)を設置したが,それはだいたいにおいて自然村落を行政村落として組織したもので,新部族制に基づく五百人評議会議員(各部族から50人ずつ選出された)は,だいたいにおいてデーモスの人口に比例して出されることとなった。クレイステネスはまたオストラキスモス(陶片追放)の制度を始めて僭主の出現を防いだ。彼の改革はアテナイ民主政の出発点となった。

 アテナイとは対照的な国制を発展させたスパルタにおいても,アテナイと共通の発展方向が実現された。スパルタでは完全な市民権をもつものはスパルタ人だけで,自由人ではあるが参政権をもたないペリオイコイが多数の村落共同体を形成していた(商工業をも営む農民を中心としていたと考えられる)。スパルタ人はまた先住ギリシア人をヘイロータイと呼ばれる隷属農民の地位に落とし,市民の所有する所領(クレーロス)を数家のヘイロータイに耕作させ,初めは収穫の半分を貢租として主人に納入させたが,後に貢租は定量化したと伝えられる。スパルタ人はラコニアを征服しただけでなく,前7世紀には西隣のメッセニア人を征服してこれをヘイロータイとし,多数のクレーロスを市民間に分配したが,同世紀後半にメッセニア人が反乱をおこし,スパルタ人は苦戦の末に重装歩兵戦術をもってかろうじてこれを鎮圧した(第2次メッセニア戦争)。この危機において,増大した市民間の貧富の差をなくすため,土地の再分配が富裕市民の反対を押し切って断行され,市民は平等者として出陣し,また彼らのあいだから毎年選出されるエフォロス(監督官)が市民を代表するものとして王と並ぶ権威をもち,ときには外征中の王をも召還する権限をもった。市民平等の確立とともに重装歩兵密集隊の戦術も完成され,スパルタはギリシアにおいて最強の陸軍国となった。

 スパルタの特殊な国制,平等者の共同食事,軍国主義教育,貴金属貨幣の使用禁止(鉄銭のみの使用),といった独特の生活様式や生活秩序は,この時の変革によって創設または強化されたものであり,〈リュクルゴスの国制〉とはこれを指したものである。これは,いっさいの生産活動から遊離した市民団の経済的平等を維持することによって強力な軍事力を確保し,数の上ではるかに多いヘイロータイに対する階級的支配と,ペリオイコイの従属とを維持することを目的とするものであった。スパルタ人は全国土の住民の中では少数者にすぎなかったから,その支配は少数者の政治=貴族政と見られたし,スパルタ自身も当時は他国における僭主政や民主化の動きを打倒する国策をとっていた。アテナイの僭主政打倒にもスパルタ人はかかわっていた。

アテナイ民主政が成立してほどなく,ギリシア諸市とアケメネス朝ペルシアは正面衝突することとなった(ペルシア戦争)が,その原因は前6世紀中葉小アジアのギリシア諸市がペルシアの支配下におかれたことにあった。前5世紀の初めミレトスの僭主アリスタゴラスが自己の保身に不安を感じてかえってペルシアへの反乱(イオニア反乱)を企てると,アテナイはこれに援軍を送ったが,反乱軍は一時サルディスを陥れたものの数年にして敗れ,ペルシアは報復としてギリシア本土への侵入を企てるにいたった。ダレイオス1世は前492年ギリシア遠征軍を送ってトラキア海岸を制圧し,前490年アテナイ,エレトリアを討つという名目で大遠征軍をギリシアに差し向けた。僭主政打倒のときにペルシアに亡命したもとのアテナイ僭主ヒッピアスもこれに同行したが,マラトンの戦でアテナイ軍はほとんど単独でこれに勝利した。その後まもなくアテナイの名将テミストクレスの海軍拡張政策がアテナイ人の支持を受けていたとき,ダレイオスの後を継いだクセルクセス1世は前480年自ら陸海の大軍を率いてギリシアに侵入した。この危機にあたってギリシア諸市の態度はさまざまであったが,陸軍強国スパルタと海軍強国アテナイの協力ができたことはギリシア諸市の戦いにとって大きな意義をもった。テルモピュライの戦でスパルタ軍が玉砕し,アテナイはペルシア軍に占領されて焼かれたが,サラミスの海戦でギリシア軍は大勝を博し,クセルクセスはアジアに逃れた。翌前479年にはプラタイアイの戦でペルシア軍を破り,さらにキプロス遠征に勝利し,前449年〈カリアスの和約〉で小アジアのギリシア諸市の独立が認められ,ペルシア戦争は終結をみた。

 この戦争は東方の専制君主制とギリシアのポリスとの対決で,ギリシアの勝利はポリス的自由の勝利を意味した。そしてこの勝利はアテナイの名将テミストクレスの戦略とアテナイ海軍の活躍によるところが大きかったから,アテナイにおける無産市民(軍艦の漕ぎ手として活動した)の政治的発言権が増大し,民主政がいっそう徹底されるとともに,ペルシア軍の再来に備えてアテナイを盟主として結成されたデロス同盟の加盟諸市にも民主政が普及するにいたった。

 一方,西方では前480年ごろカルタゴ軍が,東方におけるペルシア軍の侵入に呼応するかのようにシチリアのギリシア人を攻撃したが,シラクサの僭主ゲロンはヒメラの戦でこれを破り,ギリシア人は東西において異民族の攻撃を撃退したのであった。このような情勢の中でギリシア人の意識も変化し,バルバロイは専制君主を神とあがめる奴隷に等しいものであり,ポリスの人は自由人中の自由人であるという考え方が強くなった。このため前5世紀に頂点に達した古典文明にはこのような民族意識がいろいろな方面に現れることとなるとともに,バルバロイに対する蔑視が強くなっていった。このような気運の中でデロス同盟はアテナイに貢租を義務づけられる〈アテナイ帝国〉の服属国の観を呈し,一方アテナイ市民は国家財政に依存することが多くなっていった。ペリクレスの時代に徹底した民主化が実現され,アクロポリスが美化されえたのもこのような事情があったからであった。奴隷制もまたこの世紀には鉱工業を中心に大いに発展し,奴隷入手も比較的容易になり,小農民でも1~2人の奴隷をもつことができるようになった。このようにアテナイが海上支配の利益を独占して繁栄したことは,同盟諸市の不満を大きくするとともに,ペロポネソス同盟の盟主スパルタの嫉妬と反目をつのらせることとなり,ついに両勢はギリシア世界を二分して衝突することとなった(ペロポネソス戦争。前431-前404)。

 アテナイはペリクレスの指導のもとに住民を城壁内に移らせ,海軍をもってペロポネソス海岸を襲うという戦略を立てたが,スパルタ軍はアッティカに侵入した。かつ開戦2年目にはピレウス港から流行した悪疫はアテナイ住民の約3分の1を死に追いやり,ペリクレス自身もこの悪疫にかかって死に,ペリクレス亡きあとのアテナイの政界は,好戦的な民衆指導者(デマゴゴイ)に動かされることとなった。そしてその結果アテナイは,ペルシアと結んだスパルタによって敗北した。ペロポネソス戦争終結後のギリシアの政治状況は,アテナイ,テーバイ,スパルタなど有力ポリスの覇権を求めての抗争と,これを利用しようとするペルシアの介入とによって複雑な推移を見せたが,やがてこの間に勃興したマケドニアの武力の前に屈した。

 このような政治過程のただ中で古典文明が開花したのであるが,その背後では,ポリス社会の衰退が社会のいろいろな分野に進んでいた。アテナイでは商工業の発展が著しく,これに伴って市民や在留外人(メトイコイ)の所有する製作所(エルガステリオン)において奴隷制が大規模となり,多数の奴隷をラウリオン銀山の採掘請負者に賃貸する者も現れたばかりでなく,中小農民による小規模奴隷制も発展した。しかし市民間の貧富の差も拡大し,土地を失う市民も増大した。スパルタではペロポネソス戦争に勝った後急激にクレーロスの移動がおこって,土地は少数者の手中に集中し,土地所有者を原則とする市民の数も減少し,これがスパルタの戦力を著しく弱めた。アテナイにおいては貧民の離農もおこったとはいえ,中小市民が依然として市民の中心部分にあったが,慢性的戦争状態は傭兵使用を盛んにし,また利己主義の瀰漫(びまん)によりポリスへの献身に生きた市民の共同体意識が弱まり,ポリスの自由・独立の根底をなしてきた市民皆兵の原則が崩れた。メトイコイや解放奴隷の経済活動も活発になり,そのことは市民権付与を増大させ,市民の閉鎖性もしだいにゆるんだ。このようなポリス社会の衰退現象と市民間の党争とが生み出した亡命者や貧民の増大は,プラトンやアリストテレスによる市民の〈一致協力(ホモノイア)〉実現のための理想国家の探求の背後にある事情であった。デモステネスが市民の利己主義をいましめてマケドニアの侵略に市民自身が立ち向かうことを訴え,一方イソクラテスがマケドニアの武力をかりてギリシア諸市の協力により小アジアを占領し,今や支配層にとって危険となった貧民をそこに移すことを唱えたのも,このようなギリシア政界の状況と市民の経済的・精神的状況とのためであった。

 こうした中でギリシア人のオリエント観も変化し,もともとは単に〈非ギリシア語を話す人々〉の意味であったバルバロイという言葉の意味も変化し,ポリスの民主政の発展と,原則として奴隷がバルバロイ出身であるという事実とから,バルバロイは生まれながらの奴隷であるという考えが有識者の間に強くなり,ついにはギリシア人がオリエントを征服するのは悪いことではないという野蛮な意識が生まれるにいたった。そしてこれを軍事的天才アレクサンドロス大王が実現したのであった。

アレクサンドロス大王のオリエント征服(前334)の後,多くのギリシア人,マケドニア人が東方に移住して多くのギリシア風都市をつくり,これを中心としてギリシア文化とオリエントの固有文化との結合が進んでヘレニズム文化が生まれた。それは中央アジアやインドにも影響を及ぼしただけでなく,シルク・ロードを通じて東アジアにまで波及した。ヘレニズム文化はまた,西方ではローマに受容され,ローマ帝国を通じて西欧文化形成の一源流となった。アレクサンドロス大王の武将たちがオリエントの各地に建てた専制国家のもとでは,奴隷制もいちだんと発展したが,オリエントの伝統社会は依然として存続した。圧倒的多数の農民にとってギリシア風都市とヘレニズム文化は,旧来の専制国家体制を改善するものではなく,かえってそれは支配と圧制の象徴であった。

 この広大なヘレニズム世界では,経済的・文化的繁栄の中心はオリエントの都市に移ったため,ギリシア本土はむしろさびれたといってよい。アテナイのクレイステネスの改革によって確立され,民主政の運営の基盤となってきた10部族制度も,支配者が代わると時には11部族あるいは13部族にされたり,五百人評議会の会員数も変化させられることがあっただけでなく,市民権の制限などによって寡頭政の色彩が濃くなったようである。スパルタは例外的に長く独立を保ってきたが,前2世紀中葉にはスパルタも含めてギリシア本土全体が,西方に勃興したローマの支配に服することとなった。こうして古典文化の最盛期を現出させたポリスの独立と直接民主政とは永遠に消滅した。ローマ帝政期には中流市民の没落に伴って,ローマの保護のもとで有産市民が市参事官となって地方自治の実権を握り,帝政後期以降には小作制による大土地所有制が発達していったものと推定される。
ヘレニズム
執筆者:

前2世紀以降,すでにギリシアの地はローマ帝国に編入され,属州アカイア,マケドニアが設けられていたが,330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルが帝国の東の首都と定められ,さらに395年にローマ帝国が東西に分裂すると,コンスタンティノープルを首都としギリシア,バルカンを中心とする東のローマ帝国は,西のローマ帝国とは別の歩みを始めることとなった。東の帝国は一般にビザンティン帝国と呼ばれるが,その歴史は,ローマ帝国理念,ギリシア文化,キリスト教の三つの要素を独自の形で結合させて発展していった。ビザンティン帝国は,1453年にオスマン帝国軍によって首都を奪われるまで1000年以上にわたって存続するが,この間には,4世紀末以降の民族大移動期にゲルマン諸族,アバール,スラブなどの異民族の侵入があり,また7世紀以降は,イスラム教徒がつねに帝国の周辺を脅かした。ビザンティン帝国は,このような新たな文化接触のなかで,新たなギリシア文化の伝統を創造する。したがってビザンティン時代は,単に古代ギリシアの延長でも,古代ローマの延長でもない。このようなビザンティン時代の政治・社会・文化のあり方については,〈ビザンティン帝国〉の項目を参照されたい。
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今日のギリシア人の起源については長い論争史がある。18世紀に親ヘレニズム思想に浸ってギリシアを訪れた西欧の知識人(C.H.L. プックビルなど)は,〈古典古代〉にゆかりある土地で出会う人々に古代ギリシア人の面影を見いだして胸とどろかせたものだが,19世紀の中ごろドイツのビザンティン学者ファルメライヤーJakob Philipp Fallmerayer(1790-1861)は近代ギリシア人=スラブ末裔説を提起して論争をひきおこした。ファルメライヤー説はその後の研究で否定されはしたものの,近代ギリシア人の形成期についてはいまなお論争が絶えない(一部の学者は7~8世紀のギリシア語の方言の中にすでに近代ギリシア語的要素を認めている)。だが人種論はさておき,歴史的にいっそう重要と考えられるのは,ビザンティン帝国やとりわけオスマン帝国の多民族的構造の中で,ギリシアとかあるいは近代ヘレニズムといわれているものが,どのように発展し,またそれらが民族国家ギリシアの形成にどのようなかかわりをもったか,ということである。ここではオスマン帝国支配の時期にしぼりながら,これらの問題をみていこう。

 一般にオスマン帝国のギリシア支配の時期は1453年から1821年までとされているが,1453年(コンスタンティノープル陥落の年)は象徴的な意味をもつものと解すべきである。オスマン・トルコがダーダネルス海峡の両岸に領有地を確立したのは1356年で,14世紀末にはドナウ川南岸のバルカン半島の大部分を支配していたのであり,またアテネおよびペロポネソス(モレア)半島全土の占領は1460年である。さらにギリシア史で重要な役割を果たす島嶼(とうしよ)部は,ロードス島は1522年,キプロス島は1571年,クレタ島は1669年,テノス島は1715年までオスマン帝国に服属していなかったし,近代ギリシア民族運動で先駆的な役割を果たすイオニア諸島はオスマン帝国の支配からはほとんど免れたが,1797年にいたるまで数世紀の間ベネチアの支配下に置かれていた。このほか主要なギリシア人居住地域であったアナトリアの黒海沿岸(トレビゾンド帝国)と東地中海沿岸などを加えるならば,ギリシア人の地が時代とともに変更を被り,決して同一の政治体制の下に置かれていなかったことがわかる。さらにオスマン勢力の進出に伴いさまざまな民族集団の移住・移動が行われたことも考慮しなければならない。たとえばギリシア本土は古来の区分に準じて六つのサンジャク(県)に分けられたが(モレア,ボイオティアとアッティカ,テッサリア,アイトリアとアカルナニア,エピロス,エウボイア),それは必ずしも民族集団の境界を示すものではなくなった。この地方の軍政長官ベイレルベイの下に,ティマール制の導入によって領主階級となったアナトリアのシパーヒーがおり(なかにはイスラムに改宗した旧ギリシア人貴族もいたが),その他アナトリアから移住した農民や牧羊者が多く定着した地域もあった。とくにスルタンに忠誠だった牧羊者(ユリュク)は,トラキア,マケドニア,テッサリアの諸地方では,ギリシア人の村々の間に監視役として移住させられた。またスラブ人(おもにブルガリア人)の南下のほかに,14~17世紀にはアルバニア人,ブラフVlach人の諸部族がエピロス方面から南進して,その痕跡はペロポネソス半島にまで及んでいる。たしかに移住者の多くは時とともにギリシア化され,地名などにその痕跡を残すのみであるが,当時の旅行者はギリシア語のほかにさまざまな言語が話されているのを耳にしたはずである。オスマン帝国の版図の縮小に伴ってトルコ系住民の数も減少したが,このような多民族的状況は近代ギリシアの国家建設にも影響し,その解決は1923年のローザンヌ条約に基づく住民交換までもちこされるのである。

 オスマン帝国の支配期はギリシア人にとって暗黒の時代とみなされている。オスマン帝国の侵攻と圧制のために町や村を捨てて山岳部へ逃れた例も多く,またデウシルメの制度によって村々から徴集される男児との別離を悲しむ史話も数多く伝えられている。しかし総体的にみれば苛斂誅求がきびしさを増し社会の進歩を阻害するのはオスマン支配の後期であり,初期にはキリスト教徒の農民は人頭税を課せられたとはいえイスラム教徒の農民との差別も小さく,そのため農民蜂起も比較的少なかった。古来の共同体も(その起源・形態は地域によってさまざまだが),行政・徴税上の理由からオスマン政府によって存続を認められ,自治的な性格を保持し,ときには服従と引換えに特権が認められたこともあった。共同体の長老は共同体成員間の争いで裁判官の役目をし,そのような場合,〈ヘクサビブロスHexabiblos〉をはじめとするビザンティン法の規定と慣習法にしたがって判決を下すのがふつうであった。共同体はビザンティン文化の伝達者となるとともに,やがては民族解放運動の温床ともなった。宗教については,11世紀のセルジューク・トルコのアナトリア進出以後,同地のギリシア人の間にイスラムへの改宗者が現れた。オスマン支配期のギリシアについては,デウシルメに徴集され改宗を強制された者たちを除けば,17~18世紀にマケドニア地方で多くみられるが,それもおもに人頭税をのがれるための経済的理由によるものであった。オスマン政府は強制的な改宗政策をとらず,ミッレト制の原則にしたがって,オスマン政府のための税の徴収と納税の義務と引換えにギリシア正教会に広範な自治権を認め,その自治体をルーム・ミッレト(ギリシア人のミッレト)と呼んだ。総主教はミッレト構成員に対する課税権や構成員間の民事裁判権をも与えられたから(刑事裁判はイスラム法による),むしろ以前よりも聖俗両界に対する権威を高めることになった。もっとも,このためにのちに商人層が台頭しはじめると,スルタンばかりでなく大商人も総主教の選出に干渉し,オスマン政治の腐敗と同時に教会自体も権力に癒着する傾向を帯びるようになった。なおミッレト制にかかわるもう一つ重要な点は,それが教会別の編成であったために民族的差異は問われず,ギリシア正教会がブルガリア,のちにはセルビアにも勢力を拡張したことである。これは19世紀のブルガリアやセルビアの教会独立の運動をひきおこす遠因ともなったが,他面では正教徒間の交流を促し,近代ヘレニズムの伝播に役立った。近代ヘレニズムはワラキア,モルドバから,とくに15世紀以後のロシアに及んでいる。また近代ヘレニズムを促進した別の要因として,17世紀以降のギリシア人商人の活躍が挙げられる。

 オスマン帝国は商業・外交をおもに外国人の手にゆだね,初めはユダヤ教徒が重用されたが,17世紀以降ギリシア商業の発達に伴いギリシア人がこれに代わるようになった。ギリシアの新興大商人はイスタンブールの一画のファナル地区に群居したためファナリオットと呼ばれたが,彼らの中からスルタンの宮廷の通訳官となって政府の要職を占める者や,ワラキア,モルドバの公に選出される者も輩出した。このほか,この時期には商業の活発化,農村の疲弊のために帝国外へ移住するギリシア人が急増し,彼らのコロニーはブカレスト,ペシュト(現,ブダペスト),ウィーンをはじめ,ライプチヒ,ブロツワフ,モスクワの諸都市,西方ではリボルノ,ベネチア,マルセイユ,ロンドン,アムステルダムから北アメリカへ,そして東はインドのカルカッタで建設された。18世紀末~19世紀初めには,とくにウィーンとオデッサが重きをなした。そこでは商館のほかに教会や学校が建てられ,新聞が発行され,やがていろいろな結社がつくられ,祖国解放のための運動が準備された。フランス革命に共鳴した思想家コライスはパリにいたが,彼はギリシア農民の文化的向上が先決の課題であるとして啓蒙運動を唱え,ワラキアからウィーンへ赴いたリガスは秘密結社をつくり,1797年にギリシア革命のための憲法案を起草した。彼のギリシア共和国の構想によれば,それは狭義のギリシアを範囲とするものではなく,ワラキア,モルドバまでの全バルカンとアナトリアをも包含するもので,それら地域のすべての住民の共闘を呼びかけるものであった。ギリシア本土ではクレフティスKléftisと呼ばれる義賊の活動が盛んであった。オリュンポス山やピンドス山などを避難所にしながら地主やトルコ兵を襲う彼らの活動に手をやいたオスマン政府はアルマトロスarmatolósと称するギリシア人住民からなる討伐軍を設けたが成果なく,かえってアルマトロスが義賊活動を始める場合も多かった。

 18世紀に入るとオスマン帝国軍のたび重なる敗北とオーストリアとロシアの南進政策によって,いわゆる東方問題が生まれた。1770年ロシア艦隊がペロポネソス半島南端のマニに投錨した際には,ギリシア人の義勇兵部隊が結成されロシア軍とともに戦おうとした。これは失敗に帰したが,その後は露土戦争のたびにギリシア義勇兵部隊がロシア軍に加わって戦った。74年のキュチュク・カイナルジャ条約でロシアがオスマン帝国領内のギリシア正教徒に対する保護権を獲得してからは,ロシアへの期待が高まった。このような状況で1814年に,リガスの解放思想に影響された秘密結社エテリアが南ロシアのオデッサで結成されたのは自然ななりゆきであったといえよう。21年のエテリアのバルカン解放を目ざす蜂起は,ファナリオット出身のイプシランディスが指導部を牛耳り,また期待したロシア皇帝の援助も得られず,ルーマニア農民の反乱軍とも不和が生じたためにワラキアでオスマン軍に撃破されることになるが,そのときすでにギリシア本土でも解放戦争が始まっていた(ギリシア解放戦争)。そこでのトルコ兵とギリシア住民の最初の武力衝突が,トルコ兵がオスマン帝国支配下のギリシア人をさすルームということばを投げかけたことに端を発したのは意義深い。ギリシア人のあいだには新しいギリシア〈エラス(古典語ではヘラス)〉への希望がひろまっていたのである。
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基本情報
正式名称=ギリシア共和国Ellinikí Demokratía 
面積=13万1957km2 
人口(2011)=1132万人 
首都=アテネAthínai(日本との時差=-7時間) 
主要言語=ギリシア語 
通貨=ドラクマDrachma(現在はユーロEuro)

ヨーロッパ南東部の共和国。東地中海に突出するバルカン半島の南端にあり,半島状の本土と周囲に散在する大小多数の島々からなる。島嶼部が国土面積の約1/5を占め,半島部もいたるところ入江,岬,小半島のある複雑な海岸線をもつ。本土の西岸はイオニア海,東および北東はエーゲ海に囲まれ,北部は延長約800kmの長い国境によってアルバニア,マケドニア,ブルガリアに,東ではマリツァ(エブロス)川を隔ててトルコに接している。北から南へ走るディナル・アルプスの延長である褶曲帯が,ピンドス山脈の数条の山列となってギリシア本土を東西に分け,ペロポネソス半島に至り,いったん海に陥没して方面を転じ,クレタ島やロードス島の東西の褶曲に続いている。これらの新期褶曲山脈はおもに石灰岩からなり,森林の乏しいことと相まって,各所に白い岩肌を露出している。良質の大理石も多い。ギリシアの最高峰オリュンポス山(2917m)はピンドス山脈の脊梁山地から東に延びる支脈上にある。これら小山脈が国土を縦横に走って地形を細分し,周囲から隔絶した山間盆地,小河谷を数多く形成する。古代ギリシアの都市国家(ポリス)はこうした盆地,小平野に発展した。気候は地中海性で,半島の南部および島嶼部では夏の高温・乾燥が著しい。イオニア海に面した西斜面の方ではいくらか雨量が多いため森林が発達しており,北部とくにマケドニア,トラキア地方の平野部では冬の気温も低下して大陸的気候の性格を帯びる。古来,夏の乾燥をもたらすエテジアイ(北風),冬の温暖なシロッコ(南風)などの地方風が住民の生活に影響を与えている。

 全人口の95%がギリシア人である。現代のギリシア人は歴史上いくたびか繰り返された諸民族の侵入に伴う混血の結果形成されたもので,古代ギリシア人とはその自然人類学的性格をいささか異にしている。しかし,現代ギリシアの諸方言が古代ギリシア語の直系であることは明らかとされている。この,言語の共通性,共有の歴史的文化遺産,そしてギリシア正教,以上三つが現代〈ギリシア民族〉の紐帯といわれる。ギリシア正教会はもはや国教ではないが,いまだに社会生活全般への影響力をもつ。国民の95%を占めるギリシア正教徒は,アテネの総大主教を頂点とする教区制下のいずれかの教会に属している。イスラム教徒(人口比1%)の大部分はトルコ人で,トラキアとドデカネス諸島に集中している。ローマ・カトリックはアテネおよびかつてイタリア領であった西部諸島に多く(人口比0.5%),その他わずかながらプロテスタント,アルメニア正教徒(グレゴリ派),ユダヤ教徒などがいる。ユダヤ人は第2次大戦中のドイツ人による大量虐殺によりその数が激減した。少数民族としてとどまっているのはトルコ人,アルバニア人,およびブルガリア系,ルーマニア系の住民などであり,総計で全人口の5%程度を占めている。

歴史

ギリシア解放戦争後のロンドン議定書(1830)によってギリシアの独立は国際的に認められるところとなり,近代ギリシア王国の成立(1832)は,過去2000年近くも異民族支配下にあったギリシア民族の〈古代以来の政治的再生〉とみなされた。ドイツのバイエルンより迎えた初代国王オソン1世(在位1832-62)は首都をアテネに移し,西欧諸国をモデルにした国家建設に着手したが,バイエルン人摂政影響下での復古主義的な統治は,長年の戦乱で疲弊した経済・秩序を回復するどころか,かえって税制の改革などにより国民の生活を苦しくした。財政難に悩む政府は多額の外債を列強に仰いでその傀儡(かいらい)にも等しく,43年の無血革命により議会が開設されてからは3列強(イギリス,フランス,ロシア)に操られる諸党派の政争が絶えなかった。1861年,ローマ・カトリックである国王一派とギリシア正教会との反目が表面化し,イタリアでの革命も刺激となってギリシアに革命が起こりオソン1世は追放された(1862)。このため63年に,イギリス政府の指名によってデンマーク王子がゲオルギオス1世Geórgios Ⅰ(在位1863-1913)として新たに国王に迎えられたが,これを国民はイギリスがイオニア諸島(1815年よりイギリス領)をギリシアに割譲するという条件の下に承諾したのである。

 独立当時のギリシア領域は,アルタ湾とボロス湾とを結ぶ線以南の本土とキクラデス諸島に限定されており,残されたギリシア人居住区の併合問題は政府の当初よりの懸案であった。国境拡大は唯一の,国民の一致した民族的要求であったが,19世紀後半より,それは旧ビザンティン帝国領域を最大目標とする大ギリシア主義(〈メガリ・イデア〉と呼ばれる)の運動となって展開し,実際,領土は拡大しつつあった。露土戦争(1877-78)でギリシアは中立を維持し,その結果ベルリン会議(1878)においてテッサリアおよびエピロスの一部の併合が認められた(併合は1881)。クレタ島では1866年来本土への併合を要求する反乱が起こっていたが,90年ギリシア政府はこれに介入してオスマン・トルコに開戦。敗北に終わったものの,この結果クレタは列強の管理下に独立し,1913年にギリシア領となった。

 1909年,前年の青年トルコ革命に触発されてギリシアでも青年士官たちが〈軍人同盟〉を結成し,クーデタによって政権を握った。このとき招かれて首相となったのがクレタ島出身のベニゼーロスで,彼はギリシアの近代化と〈メガリ・イデア〉の実現に努め,2度のバルカン戦争(1912-13)を通じてエピロスの大部分,マケドニア南半,トラキア西部を獲得,領土をほぼ2倍にした。13年ゲオルギオス1世はテッサロニキで暗殺され,その子コンスタンティノス(在位1913-17,1922)が王位を継いだが,血縁上親独派の彼は第1次大戦に際して中立を望み,親英派で三国協商側に立つことを主張したベニゼーロスと争った。イギリス,フランス両国の圧力によって王は譲位させられ,17年ギリシアはドイツに宣戦した。戦勝国となったギリシアはヌイイー,セーブル両条約でトラキア,エーゲ海諸島の一部を得,アナトリアのイズミルの管理を約された。しかし,続くイズミル出兵ではケマル・アタチュルクの率いるトルコ国民軍の抗戦に会い,ギリシア・トルコ戦争(1919-22)となって敗北を喫し,23年のローザンヌ条約でイズミルと東トラキアを失った。ここにいたって大ギリシア主義は放棄され,その要因を断ち切るべく大幅な住民交換が行われた。約80万のトルコ人がギリシアを去るとともに約200万のギリシア人が帰還したが,敗戦と帰国者保護のため国家経済は著しく悪化し,国際連盟ならびにアメリカの援助がかろうじて政府を支えた(1925年まで)。

 これより先,1920年11月の選挙でベニゼーロスは失脚し,ついで復位したコンスタンティノスも追われ,ゲオルギオス2世Geórgios Ⅱ(在位1922-24,1935-47)が即位したが,24年の総選挙で共和派が勝利し,王制は廃止された。初代大統領には前海軍大臣のクンドゥリオティスが就任したが,その後も王党派と共和派の政争は続きクーデタが繰り返された。かくして以後半世紀のギリシア政治史は,真の共和制実現へ向けての闘争史として性格づけることができる。

 世界恐慌ののち社会不安が高まる一方であった35年,コンディリス将軍は政権をとるとすぐ国民投票により王政を復活し,ゲオルギオス2世が復位した。ついで36年首相となったメタクサス将軍は王政反対の社会騒擾(そうじよう)を見てとるや戒厳令を発し,ファシスト的独裁制の下に国会停止,共和派の弾圧,言論の統制などを行った。折から第2次大戦が勃発。ギリシアは初め中立を守ったが,40年10月イタリア軍のエピロス侵入を機に参戦,イギリスが救援軍を派遣したが,41年4~5月ドイツ軍の来襲により全ギリシアはその占領下に落ちた。王はロンドンに亡命,政府はカイロに移り,ギリシア国内にも地下活動・レジスタンス組織(EAM民族解放戦線など)ができて,ゲリラ戦が展開された。大戦中より左翼勢力の伸張は著しく,44年11月ギリシア解放直後には左右両派の協調により一時連立政府が成立するまでになった。しかし46年9月に国民投票の結果ゲオルギオス2世が帰国すると,左右の対立は再び先鋭化し内乱状態となった。これに対しては東ヨーロッパで唯一自由主義圏に残ったギリシアのためにアメリカが多額の経済援助と軍事使節団派遣を行い,かくて内戦は政府軍の有利のうちに収拾した(1949年10月)。50年3月の選挙では進歩同盟(中道派)と自由党(右派)との連立政権が生まれ,1911年の王政憲法を改定採用し,52年2月にはNATOに参加して国際的立場も一応の安定をみた。

 52年7月,内戦において共産主義者の討伐で名をあげたパパゴスAléxandros Papágos(1883-1955)元帥が内閣を組織し,55年10月彼の死によりその後継者としてカラマンリスKonstantínos Karamanlís(1907-98)が組閣した。56年1月の総選挙では,新たに結成された国民急進党(ERE。右派)が過半数を制して党主カラマンリスが再び首相となる。ERE内閣は内戦後の復興を着実に実行し,60年代ギリシアは消費ブームを迎えるまでに回復した。この間キプロス問題が対トルコ,対イギリス関係に影をさしたが話合いで解決し,キプロスの独立によってギリシアの対英関係は好転したかに見えた。しかし63年4月訪英中の王妃フレデリカ一行がロンドンで群衆に乱暴される事件が起こり,6月カラマンリスは予定された国王の訪英に反対して辞任した。国内では,続く右派政権の下にあって社会的不平等が民衆の不満となっていた。北部農村にはオスマン・トルコ支配時代に起源する大土地所有制が残存し,外国資本と結託した産業資本家や船主など少数の手に富が集中,半失業,潜在失業者の数も多かった。63年11月および64年2月の総選挙では2度にわたって中央連合(中道左派)が勝利しパパンドレウGeórgios Papandréou(1888-1968)が組閣したが,政府としては弱体で政情は不安定であった。パブロス1世の死により即位したコンスタンティノス2世がパパンドレウ首相を解任(1965年7月)した後,社会不安はとみに高まり,67年4月,左翼の進出を阻むとの理由によるパパドプロスGeórgios Papadópoulos(1919-99)らのクーデタが成功,軍事独裁政権が成立した。

 同年7月,国王は亡命し,憲法と政党活動は停止され,議会も解散された。68年軍事政権は王権を大幅に制限する新憲法を定めたが,73年6月には正式に王制を廃止して共和制とし,パパドプロス自らが大統領となって全権を掌握した。しかし74年のキプロス侵入とその失敗を機に長期独裁政権は崩壊,パリに亡命していたカラマンリスが帰国して文民内閣を復活した。彼は政党活動の再開,共産党の合法化,戒厳令の撤廃など一連の民主化政策を実施し,11月には10年ぶりに行われた総選挙で新民主主義党(ND。中道右派)の党主として大勝して首相となった。同年12月の国民投票で共和制が再確認され,75年6月に採択された新憲法に基づきツァツォスが大統領に選出されて民主制復帰への手続が終了した。

第2次共和制の成立(1974)以来,大統領を元首とする多数政党による民主政治が続いている。おもな政党は全ギリシア社会主義運動(PASOK。左派),新民主主義党(ND。中道右派),共産党(KKE),左翼進歩連合,民主社会運動(DHKKI),政治の春など。

 1974年以来カラマンリスの率いるNDが政権を握り,親EC・NATO政策を推進,NATO軍事機構復帰実現(1980年10月),EC正式加盟(1981年1月)という二大外交課題を解決した。しかし,野党第一党である全ギリシア社会主義運動が,内政面において種々の社会主義経済政策を掲げる一方,外交面においてはNATOおよびECからの脱退,在ギリシア米軍基地の撤去などを主張して大衆の支持を拡大させていき,81年の総選挙で予想を大幅に上回る過半数を獲得し,パパンドレウAndréas Papandréou(1919-96)を首相とするギリシア初の社会主義政権が成立した。しかしながら,この政権は現実の外交では,NATO・EU残留,新米軍基地使用協定など慎重な政策を打ち出した。また経済面における医療保険制度,年金制度改革,〈企業再建機構法〉は,政府の支出を増大させたため財政が逼迫し,さらには88年以降,首相自らをめぐるスキャンダルが発覚し,89年6月の総選挙でPASOKは敗北を喫した。しかし第一党になったNDも過半数を制することはできず,その後2度の総選挙がくり返され,90年4月の総選挙でNDはようやく半数の議席を獲得,中道右派議員の閣外協力を得てND単独政権を樹立し,ミツォタキスKonstantinos Mitsotakis(1918- )が首相に就任した。同政権は,ギリシア経済を立て直すための緊縮経済政策に取り組み,また外交面では米国・EU諸国との同盟強化と隣国トルコに対する協調的な態度を示した。

 93年6月,マケドニア問題をめぐって妥協的解決の立場をとったミツォタキス首相に対立した党内強行派のサマラス外相は,離党して新政党〈政治の春〉を結成した。このためNDは過半数割れとなり,同年10月に総選挙がおこなわれた。この選挙によってPASOKが与党に返り咲き,パパンドレウが再び首相となった。96年1月健康上の理由からパパンドレウ首相は辞職し,彼の独断的な政策に批判的であったシミティス元商業相Constantinos Simitis(1936- )が後継者として首相に選出された。シミティス政権は外交の3本柱として(1)EUへの同等の加盟,(2)バルカンにおける主導的立場,(3)対トルコ政策を掲げ,ギリシアの国際的立場の強化を目指している。その成果としては,近年アルバニア,及び旧ユーゴスラビア・マケドニア共和国(FYROM)との関係改善が進んでいる。大統領はステファノプロスConstantinos Stephanopoulos(1926- 。1995年3月就任,任期5年)が就いた。

観光資源に恵まれているギリシアは,観光と海運業を主とするサービス業が発展している(1993年の産業別労働人口では第3次産業が55%と,21%の第1次,24%の第2次産業を大幅に上回っている)。

 農林水産業はGDPの約14%(1993)を占める。主要産物は大麦,小麦,ジャガイモ,トウモロコシ,果物,オリーブで,タバコ,野菜,果物,オリーブ,ブドウ,綿花が主要な輸出品となっている。国土の60%が山岳地であり,耕地が分散・細分化されているため,小規模経営で,加えて投資不足もあり,生産性は高くない。したがって,食肉,基礎食料品,飼料は一部輸入に依存しており,食糧輸入額は輸出額を上回っている(1995年の食糧輸入額は29万0900ECUで全輸入額の15.3%)。

 鉱業については,クロム鉄鉱,ボーキサイト,褐炭から大理石まで各種埋蔵しているが,その開発はいまだ十分でない。工業部門はGDPの約26%(1993)を占め,食品,飲料,タバコ,繊維,はきもの,木材家具など手工業的消費財産業が中心となっている。

 2度の石油ショックの打撃を受けて以来,国産エネルギーの開発が重要な課題となっている。そのため,火力発電の増強,水力発電の推進,石油の探査開発,天然ガスの導入などをはかり,1991年には自給率を46%にまで高めた。エーゲ海北部の海底油田は1981年に生産が開始され,90年現在1万6000バレル/日を産出している。

 1967年以来7年余りに及ぶ軍事政権下の成長重点政策の結果,国内経済は建築ブームを中心に数年来連続して10%台の高度成長を遂げたが,政情不安に伴い74年は-2%に落ちた。続くND政権により75年以後順調に回復し2%台の成長,78年には5.8%に伸びた。その後79年の第2次石油危機の影響をうけて80年から88年の年平均経済成長率は0.6%にとどまる一方,インフレの高進は続いた。この対策としてND政権は緊縮経済政策を実施し,この路線は現在のPASOK政権まで踏襲されている。91年以降この厳しい財政再建策は効を奏し,1990年には22%を超えたインフレ率も徐々に下降,特にシミティス政権では5.4%(1997年7月)にまで抑えられた。一方財政再建策は経済成長に影響を与え,93年の実質GDP成長率は-0.5%となった。

 貿易は輸出対輸入が1:3の入超である(1993)。相手地域はEUが中心で輸出入ともに全体の約60%を占める。貿易収支は恒常的に赤字(1995年では-171億4600万ドル)であり,これをEU補助金,観光収入,移民者送金,海運業で補塡している。

宗教を軸とする伝統的な社会関係は農村地帯では今も根強く残っている。血縁的・地縁的共同体の結束も強い。他方,人口の大都市への流出により,人口の約40%を占めるアテネ,テッサロニキでは住宅の密集,工場の集中,自動車からの排気ガスによる公害も発生している。教育は国の管理下にあり,公立学校においては無償である。私立の高等教育機関の設置は禁止されている。義務教育は初等,中等前期計9年間で,各種専門学校,単科大学などのほかアテネ,テッサロニキなどに10の総合大学がある。教育においてはギリシアの歴史的文化遺産の啓蒙に重点が置かれている。遺跡の保護に熱心で,古代ギリシア演劇の上演も奨励されている。

 独立直後のギリシアでは新古典主義が盛んで,擬古的な〈カタレブサ(純正語。カサレブサとも)〉が公用語とされたが,1880年代よりプシハリスらにより言文一致運動が進められ,〈ディモティキ(民衆語,口語)〉が文学用語の地位を得た。その後両言語の統一問題は政治上の議論とも絡まって(たとえば軍事政権下ではカタレブサが奨励されるなど)長い間解決を見ていなかったが,1977年のディモティキ使用の法令,82年の政令による単一アクセント方式の採用により言語論争に一応の区切りがつけられた。今日学校教育はディモティキでおこなわれているが,文学作品,学術論文,保守系の新聞等ではいまだにカタレブサが用いられることも多い。散文ではカザンザキス,韻文ではセフェリスエリティス(両者ともノーベル文学賞受賞)などが世界的に知られ,その作品は各国語で紹介されている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギリシア」の意味・わかりやすい解説

ギリシア
ぎりしあ
Greece

総論

ヨーロッパ南東部、バルカン半島の南端部と周辺の島々からなる共和国。ギリシア語ではエラスEllasまたはエラダElladaという。漢字の「希臘」はギリシアの古代名ヘラスHellasの漢訳で、日本では「ギリシア」の当て字として用いられた。日本語の「ギリシア」という呼称は、ポルトガル語のグレーシアGréciaに由来し、古くは「ゲレシャ」といったのが転訛(てんか)したものと考えられる。Greeceは英語。正称はギリシア共和国Elliniki Dimokratia(ギリシア語)/Hellenic Republic(英語)。

 東地中海に突出する本土は、西岸をイオニア海、東岸および北東岸をエーゲ海、南を地中海に囲まれる。北部はアルバニア、北マケドニア共和国(旧、マケドニア共和国)、ブルガリアに、北東部はトルコに接し、それらの国境線の延長は1170.2キロメートルである。面積は13万1957平方キロメートル、うち本土が10万6915平方キロメートル(81%)、残り2万5042平方キロメートル(19%)は大小多数の島々からなる。人口1096万4020(2001年センサス)、1081万6286(2011センサス)。首都はアティネまたはアスィネ、古代名アテナイ、日本ではアテネという。

 現在のギリシア共和国は、19世紀初めにオスマン帝国から独立してペロポニソス(ペロポネソス)半島とキクラデス(古代名キュクラデス)諸島を中心にして成立した王国を起源としており、1910年代から1920年代初め、バルカン戦争からギリシア・トルコ戦争に至る時期に、ほぼ現在の範囲が確定した。

 ギリシアは、近代西欧文明揺籃(ようらん)の地として、また風光明媚(めいび)で温暖な風土のゆえに観光・保養地として、西ヨーロッパなどから多くの外国人観光客を集めている。1981年には「もっとも古く、かつもっとも新しい西欧の一員」として第10番目のEC(ヨーロッパ共同体)加盟国となり、ECから発展して1993年に発足したEU(ヨーロッパ連合)、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に加盟し、近隣諸国との間に困難な問題をかかえながらも、多方面外交を展開しつつ、ヨーロッパの一員としての歩みを進めている。

[真下とも子・清永昭次]

自然

北のディナル・アルプスの延長である第三紀の褶曲(しゅうきょく)帯が、ピンドス山脈の数条の山列となってギリシア本土西側寄りを南北に縦断している。イオニア海に面した西斜面のほうは多少雨量が多く森林に恵まれているが、地形は険しく、山間盆地が孤立している。褶曲は半島南部でいくつかに分かれて、ロードス島やクリティ(古代名クレタ)島の東西方向の褶曲に続いている。これらの新期褶曲山脈はおもに石灰岩からなり、砂岩、片岩などが混じっている。森林の乏しいこともあって、各所に石灰石の白い岩肌が露出し、古代神殿建築の素材ともなった良質の大理石を多く産出する。北部およびエーゲ海南部には、スゥラキ(古代名トラキア)山塊、キクラデス山塊などの古期結晶質岩石からなる古い山地があり、アルプス造山運動の影響を受けて、半島部では山地、丘陵、盆地などの複雑な地形を呈している。ギリシアの最高峰オリンポス(古代名オリュンポス)山(2917メートル)もトラキア山地の西端にある。このほかにも2000メートルを超える山々が各地にそびえており、国土は山岳地が43%、準山岳地が27%、平野地が30%という割合である。キクラデス山地の大部分は、沈降運動の結果、いわゆる多島海となっている。

 ギリシア本土の海岸線は、きわめて複雑な屈曲を示すリアス海岸で、島々を含むギリシアの全海岸線は1万5021キロメートルに及ぶ。本土北部は夏にかなりの降水があり、とくにマケドニア、トラキアの内陸部では冬の気温が低下して大陸性気候の性格を強く示す。半島南部および島嶼(とうしょ)部は典型的な地中海性気候で、冬は温暖で湿度が高く、夏は乾燥して暑い。夏の乾燥が著しいのは、エテジアまたはエティシエ(北西風)やシロッコ(南風)などの卓越した地方風によるためである。

[真下とも子・清永昭次]

地誌

行政的には、アテネの首都圏(大アテネあるいはアティキ/古代名アッティカ)を別として、全国が12の地方に分かれ、それぞれがさらにいくつかのノモスnomos(県)に分かれている。ノモスはフランスの行政区デパルトマンを模したもので、計51のそれぞれに県都がある。アティキ以外の12の地方は、東マケドニアとトラキア、西ギリシア、西マケドニア、イオニア諸島、エピルス(またはイピロス、古代名エペイロス)、中央マケドニア、クリティ(古代名クレタ)、南エーゲ海、ペロポネソス、中央ギリシア、テサリア(古代名テッサリア)、北エーゲ海である(1997)。

 地理的には、全土を以下の5地域に区分することができる。

[真下とも子・清永昭次]

エーゲ海島嶼部

東にエーゲ海北東域から小アジア西岸沿いにかけての諸島、西に北スポラデス諸島とキクラデス諸島、南にクレタ(クリティ)島を中心とする円弧状の島群があり、いわゆる多島海をなしている。ギリシア文明発祥の地で、その遺跡が多く、訪れる外国人を対象とする観光業を除けば産業に乏しく、経済的には後進性が強い。夏の乾燥が激しい地中海性気候下にあり、土地も不毛なため、農業も振るわないが、レスボス島ではオリーブ栽培が盛んである。

[真下とも子・清永昭次]

ペロポネソス半島

ペロポニソスともよばれる。コリント(またはコリンスォス、古代名コリントス)地峡によって一部が本土と結ばれる島状の半島で、その形状から中世にはモレア(「クワの葉」の意)とよばれた。周辺島嶼(とうしょ)部の多くは火山性で、半島部は石灰岩質の岩石からなる。一般に土地がやせ、気候的にも乾燥が激しいので、ブドウ、オリーブ、柑橘(かんきつ)類が主産物となっている。古代都市の遺跡が多く、温暖な気候と相まって、観光業が盛んである。

[真下とも子・清永昭次]

中央ギリシア

半島部のコリント湾以北、エビア(古代名エウボイア)島北西対岸のオスリス山脈あたりまでを含む。ピンドス山脈の南端部にあたり、山岳地帯が多いが、古代より鉱産物に恵まれ、マグネシウム、鉛、亜鉛、大理石などを産する。南東部には首都アテネがあり、その南のピレウス(またはピレエフス、古代名ペイライエウス)とともにギリシアでもっとも発展した地域を形成し、工業地帯でもある。アッティカ平野ではアテネを消費地とする近郊農業が立地する。

[真下とも子・清永昭次]

北部ギリシア

イオニア海側のアルタ(アムブラキス)湾とオスリス山脈を結んだ線から北部国境までの地域である。気候は中央ギリシア以南よりも大陸的で、樹木はオリーブよりカシが多い。中央にピンドス山脈が南北に走って半島を二分しているため、東西両海岸の対照が著しい。西のエピルス地方は山がちで後進的であるが、オリーブ、柑橘類、穀類などが集約的に栽培され、住民の多くは農業に従事する。東のテッサリア地方は、ピニオス川流域の平野を抱え、タバコ、綿花をおもに産する肥沃(ひよく)な農業地帯である。中心都市ラリサや港町ボロスには、化学、造船などの重工業もある。

[真下とも子・清永昭次]

マケドニア・トラキア

西はカルキディキ(古代名カルキディケ)半島がエーゲ海に突出し、東はトルコに接する。1913年および1919年にギリシアに編入された地域で、当時は経済的後進性が強く、トラキアはいまでも近代工業が発展せず、タバコ栽培が行われる。トラキアの中心都市はコモティニ。マケドニアは河川開発による水力発電所やダムの建設で工業化が進み、鉱産物にも恵まれて化学工業の発展が期待されるほか、小麦、トウモロコシ、綿花などの農業も発展するようになった。中心都市はテッサロニキ(古代名テッサロニケ)。

[真下とも子・清永昭次]

歴史

紀元前1900年ごろから、アカイア人やイオニア人などが、クレタ文明を受け継いでギリシア本土を中心にミケーネ文明を築き、古代ギリシアの発祥となった。その後、紀元前1200年ごろ、ドーリス人などが南下してミケーネ文明を滅ぼし、小アジアへ進出する。紀元前750~紀元前700年ごろ多くのポリス(都市国家)が成立し、スパルタ、アテネを中心とするポリスの隆盛期はまたギリシアの最盛期でもあった。紀元前750~紀元前550年ごろには黒海から地中海北西部にかけて植民が行われ、イスタンブール、ナポリ、マルセイユなど、今日も繁栄する地中海沿岸の多くの都市が築かれた。ペロポネソス戦争(紀元前431~紀元前404)を経て都市国家間の抗争が続く間にマケドニアが台頭し、紀元前338年ギリシアはその支配下に入った。以後、ヘレニズム時代、ローマの属州時代、ローマの東西分裂によって東ローマに属したビザンティン帝国時代を経るが、1453年以後の約400年間は異民族であるトルコの支配を受け、ギリシアの苦難の時代となった。1829年、独立戦争に勝利し、現代ギリシア国家の成立を迎えるが、ギリシアの歴史のなかではとくに古代のギリシアがヨーロッパ文化の起源として重要な意味をもっている。

[真下とも子・清永昭次]

政治

民族の独立と民主主義の実現

1832年、列強の援助のもとにバイエルン王子オットー1世Otto Ⅰ(1815―1867、在位1832~1862)をいただく王国ヘラスが成立すると、西欧のフィルヘレネ(ギリシア愛好主義者)や西欧的教養を身につけたギリシア知識人たちは、これを「古典ギリシアの再生」として欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。しかし復古主義的な統治と列強の圧力の下でギリシア経済は改善されず、またエーゲ諸島、エピルス、テッサリアなどギリシア民族の居住する地域の多くがいまだオスマン帝国の支配下にあることとともに国民の不満となっていた。こうして王国成立後のギリシア政治は、ギリシア民族の真の独立――領土回復と列強支配からの脱却――と、ギリシア民主主義の真の実現とを目ざす過程として展開する。1843年9月14~15日のクーデターにより、翌年憲法が制定され、ギリシアは立憲君主制となり、1862年にはオットーは国民により廃された。翌年列強の取決めによりデンマーク出身のゲオルギオス1世Georgios Ⅰ(1845―1913、在位1863~1913)が新国王についたが、これにはイギリスがイオニア諸島をギリシアに譲渡することが交換条件となっていた。領土的には、1877~1878年のロシア・トルコ戦争ののち1881年にテッサリアを得、1912年の第一次バルカン戦争ではクリティを併合、1913年の第二次バルカン戦争ではブルガリアから南マケドニアなどの割譲を受けた。この戦争のすこし前の1913年3月、国王ゲオルギオスはテッサロニキで暗殺され、このためドイツ皇帝の妹を皇后にもつ嗣子(しし)コンスタンティノス1世Konstantinos Ⅰ(1868―1923、在位1913~1917、1920~1922)が襲位した。

 1914年7月、第一次世界大戦が起こると、1917年3月、ドイツ側にたつ国王を首相ベニゼロスが強制的に退位させ、ギリシアは三国協商(イギリス、フランス、ロシア)側にたって参戦した。このころまでにギリシアの領土回復主義は「メガリ・イデア(大理念)」といわれる膨張主義となっていた。そして第一次世界大戦後、ベニゼロスはイギリスの支持の下に小アジアのギリシア人地帯の併合を主張してスミルナ(現在名イズミール)から進撃したが、トルコのケマル・アタチュルクの反撃にあって大敗を喫する(1922)。1923年ローザンヌ条約によりギリシアはスミルナを失い、またこの際、小アジアやブルガリアに残ったギリシア人少数民族をムスリムと交換することが協定された。敗戦と帰国者保護のためギリシア経済は疲弊し、1925年までの4年間、国際連盟ならびにアメリカの援助を受けてもちこたえた。その間1924年、国民投票によりギリシアは共和制になったが、1935年にはふたたび国民投票で王制に復帰した。さらに1936年8月4日には将軍メタクサスIoannis Metaxas(1871―1941)が国王の了解の下に憲法を廃して独裁政権を樹立した(1941年1月の死まで)が、第二次世界大戦下の1941~1944年にはドイツ、イタリアの軍事占領下に置かれた。

 第二次世界大戦中および大戦後、ギリシアでは左翼勢力が伸長したが、そのため左右対立も先鋭化し、一時は内乱状態にまで陥った。その間、1946年9月に、1941年以来亡命していた国王ゲオルギオス2世Georgios Ⅱ(1890―1947、在位1922~1924、1935~1947)の帰国が実現した。1947年以後はアメリカの保護下にあって、共産党は非合法化され、1950年および1951年の選挙以後、右派系政府が続き、1952年にはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に加盟した(1974年にいったん脱退)。さらに1967~1974年にはパパドプロスGeorge Papadopoulus(1919―1999)大佐の下、軍事独裁政権となり、1973年パパドプロスは王制を廃し共和制を発足させた。クーデターが頻発して政情不安であったが、1974年のキプロス事件を機にパパドプロス政権が崩壊し、カラマンリスを首相とする文民内閣が成立して以降は、言論・報道の自由も復活した。

[真下とも子・清永昭次]

政治制度・政党

政体は大統領制議会主義共和制である。憲法については、民主制復帰後、1952年の王国憲法が部分的かつ暫定的に適用されていたが、1974年の国民投票で共和制が確定し、1975年に新憲法が成立した。元首である大統領は国会の3分の2以上の多数によって選出され、任期は5年、再選は1回限りとされている。大統領は、首相をはじめ閣僚の任免権をもち、三軍の最高司令官を兼ねる。議会は一院制、直接選挙による比例代表制で300議席が選ばれ、任期は4年。

 1980年5月にカラマンリスが首相および新民主主義党(ND)党首を退いて大統領に就任した。同月後任ND党首に選出されて政権を引き継いだラリスは、1974年にいったん脱退していたNATOへの復帰実現(1980年10月)、EC正式加盟(1981年1月)という、ギリシアにとって当面の最大の外交課題を解決した。これに対し、パパンドレウの率いる野党第一党である全ギリシア社会主義運動(PASOK(パソク))は、内政面において種々の社会主義的経済政策を掲げる一方、外交面においてはNATOおよびECからの脱退、在ギリシア米軍基地の撤去などを主張して国民の支持を拡大した。1981年10月の総選挙では予想を大幅に上回る過半数を獲得し、ギリシア初の社会主義政権を樹立するに至った。

 PASOK勝利の原因は、長期にわたる保守ND政権の経済政策の失敗とインフレの高進が国民生活を圧迫していたのに対し、PASOKはカリスマ的魅力をもつ党首パパンドレウ指導の下にアラギ(変化)という標語を掲げ、一般大衆に民族主義的政策を強調するとともに、不平等是正の政策を説いたことが、とくに変化を好む若年層、労働者層に共感を与えたためといわれる。

 政権を握って首相の座についたパパンドレウは、中小企業や農民の保護政策を進めたが、厳しい統制経済、財政赤字の増大、閣僚の収賄疑惑などのために人気が低下していった。1985年3月、保守系のカラマンリスにかわって、PASOKの推す最高裁判事サルゼタキスChristos Sartzetakis(1929―2022)が接戦のすえ新大統領に選出され、パパンドレウ政権の基盤は一時的に強化されたが、1980年代後半も政権の人気低迷は続き、ついに1989年6月の総選挙で過半数の獲得に失敗して退陣した。ついで翌1990年4月の総選挙でNDが単独過半数を得て党首のミツォタキスConstantine Mitsotakis(1918―2017)が首相となり、カラマンリスが大統領に返り咲いた。

 しかしマケドニア問題や経済政策をめぐる内部抗争でNDは分裂し、1993年10月の総選挙でPASOKが圧勝し、パパンドレウ党首が首相となって、4年ぶりに社会主義政権が復活した。大統領の権限は1986年の憲法改正で大きく削減されたが、1995年の大統領選挙ではPASOKの支持を受けた保守政治家ステファノプロスKonstantinos Stephanopoulos(1926―2016)が選出された(2000年2月再選)。

 1996年1月には健康悪化のためパパンドレウが辞任し、シミティスConstantinos Simitis(1936― )が後任首相になった。パパンドレウは6月に死去し、かわってシミティスがPASOK党首となった。9月の総選挙では共産党、左翼進歩連合、民主社会運動などの左派政党が軒並み躍進するなかで、PASOKがNDを抑えて単独過半数を確保し、シミティス新政権が発足した。またこの選挙で大統領ステファノプロスの所属する右派政党の「政治の春」は議席を失った。長期政権を維持してきたPASOKであったが、政治腐敗や高まる失業率に対して批判が起こり、2004年3月の総選挙でNDに敗れ、政権が交代し、元大統領の甥(おい)であるNDのコスタス・カラマンリスKostas Karamanlis(1956― )が首相に就任。翌2005年3月にステファノプロス大統領の任期終了に伴い、カロロス・パプーリアスKarolos Papoulias(1929―2021)が大統領に選出された。2007年9月の総選挙でも、NDが過半数を維持し、第二次カラマンリス政権が発足している。

[真下とも子・清永昭次]

外交

新民主主義党(ND)政権は西欧諸国との同盟関係強化を基本方針として、ギリシアのNATOへの復帰、ECへの正式加盟を実現し、隣国トルコとの懸案問題についても協調的態度で対話を続行してきた。これに対して全ギリシア社会主義運動(PASOK)は国益優先を第一とし、東西両陣営のどちらにも属さない非同盟的政策とアラブ諸国をはじめ第三世界諸国との関係強化、協調を、基本政策として掲げたが、政権獲得後は柔軟な態度に変化し、1983年には米軍基地の存続も容認した。1991年に東西冷戦構造が崩壊したのちのギリシアは、EUとNATOに属し、ヨーロッパの一員であることを基本として、多方面外交を展開している。しかし、トルコとはキプロス問題やエーゲ海東部の無人島の領有権問題、マケドニア共和国とはマケドニアの国名問題、アルバニアとは両国民の民族問題があって、これら近隣諸国との間には緊張が続いているが、2008年にはカラマンリス首相がトルコを訪問するなど、関係正常化のための交渉も行われている。

[真下とも子・清永昭次]

 マケドニアの国名問題は、2018年6月にマケドニア共和国が国名を「北マケドニア共和国」とすることで合意が結ばれた。2019年1月にマケドニア共和国で憲法改正案が承認され、2月に「北マケドニア共和国」への国名変更が国際的に承認されて決着した。

[編集部]

経済・産業

ギリシアの経済は、農業部門、工業部門ともその企業規模の小さいことや、新技術導入の遅れなど困難な問題を残している。しかし他方、豊富で質のよい労働力の存在と、3大陸の接点に位置して、EU、中東、東欧、アフリカという巨大な市場および資源供給基地に近接するという地理的条件に恵まれている。このような背景のもとで政府は積極的に工業および農業の近代化政策を進めて経済の振興を図っている。国民総生産における部門別の比率は、農林水産業が14.9%、建設、鉱工業が25.0%、商業、運輸、通信サービス業などが60.1%となっており(1994)、観光関連産業がかなりの比重を占めている。

[真下とも子・清永昭次]

資源・農林

ギリシアには多くの鉱物資源があるが、国内の精錬工業の未発達と採鉱技術の立ち後れなどから未開発の状況にあるものが多い。主要鉱産物にはボーキサイト、ニッケル、マグネサイト、亜炭(石炭化が進んでいない石炭)、マンガン鉱などがある。とくにボーキサイトは豊富に埋蔵されており、ギリシアの主要輸出品の一つになっている。エネルギー源の少ないギリシアでは亜炭は大きな役割を果たしている。石油については、1974年に発見されたエーゲ海北部のタソス島沖合いのプリノス油田の生産が、1981年7月から開始されている。電力は火力発電が主体である。

 山がちで、夏季に乾燥が厳しいという条件にもかかわらず、ギリシアは元来、伝統的に農業国で、主要農産物には大麦、小麦、綿花(以上は平野部に限る)、タバコ、オリーブ、ブドウ、柑橘類などがある。岩肌のみえる山あいの地で、ヤギやヒツジの放牧をしながらオリーブやブドウその他の農産物を栽培し、細々と自給していたのがギリシアの伝統的な農村風景で、今日でも孤立した島々や山間の盆地にこうした伝統的な農村をみいだすことができる。これに対して政府は、生産性の向上を図るため灌漑(かんがい)設備の拡充、農業機械の導入、化学肥料の積極的使用などの施策を進めている。

[真下とも子・清永昭次]

工業・運輸・通信

ギリシアの工業は、食料品、たばこ、繊維、履き物、印刷、非鉄金属など消費材、中間材が中心であるが、化学、金属、機械などの重工業化を志向し、その途上にある。現在も大規模企業の数は少なく、生産性の低い従業員9人以下の小規模企業の数が全体の93.5%と圧倒的に多いが、逆にこうした小規模企業が工業総生産に占める比重は非常に小さい。ギリシア政府は外国企業の投資を優遇しているので、先進工業国から多くの企業がギリシアに進出している。全工業企業の地理的分布をみると、33.6%が大アテネ(アテネ、ピレウスを含む首都圏)に、12.6%がテッサロニキに集中しており、以下ずっと下ってパトレー、イラクリオン、ラリサ、カストリアなどが続いている(1984)。

 運輸・通信業は、製造業、農林水産業と並んでギリシア経済に大きな比重を占めている。ギリシアの工業化推進に伴い、道路網の拡大、高速道路の建設、港湾の拡充、通信施設の拡充が進められている。鉄道、通信ともに国営であるが、ギリシア政府は公的企業の民営化計画を進めている。また、伝統的に海運業が重要な位置を占めており、世界的な海運業者が国内企業に投資する例も多い。大船主オナシスが政府との契約に基づいて経営していた航空会社オリンピック航空は、彼の死(1975)後国営化されたが、のち民営に戻り、2009年に大手金融グループに売却された。

[真下とも子・清永昭次]

輸出入

ギリシアの貿易収支は毎年大幅赤字で、その差額は海運収入、観光収入、移民送金、外資導入などで埋め合わせている。ギリシアの輸出額の7割以上がヨーロッパとアメリカ向けであり、ヨーロッパのなかではドイツ、イタリア、フランス、イギリス、オランダの5か国あてだけで全体の5割を超えている。輸入についても、輸出の場合と同様、ヨーロッパとアメリカに7割弱を依存している。品目としては、工業用原料、燃料、資本財や、自動車、家庭用電気製品など耐久消費材の輸入依存度が高い。他方、輸出は一次産品、食品が大半を占めている(1994)。

[真下とも子・清永昭次]

社会

住民・言語

住民の大部分は大西洋・地中海型人種に属し、多くの方言はあるがギリシア語を話すギリシア人で、そのほかは北部と西部に少数のアルバニア人とブルガリア人が住んでいる。北西部では、ルーマニア系の言語を用いるブラヒとよばれる牧畜民が移牧生活を行っている。また政府の統計には現れないが、トルコ人も北東部に残っている。現代のギリシア人は過去数千年に及ぶ歴史のなかで幾たびか繰り返された諸民族の侵入に伴う混血の結果、形成されており、古代ギリシア人とはその自然人類学的性格はかなり異なっていると考えられる。しかしながら、19世紀前半にドイツの中世史家ファルメライアーJ. P. Fallmerayer(1790―1861)が主張したような極論、すなわち古代ギリシア人は中世初期に死に絶え、現代ギリシア人はスラブ系、アルバニア系の子孫で、「今日のギリシア住民の血管の中には、もはや一脈のギリシア人の血も流れていない」という説は、その後ギリシア内外の歴史家の実証的研究によって修正されている。ギリシア人は、スラブ系、アラブ系、トルコ系などとの混血を経ていることは事実であるが、文化的にはむしろ諸侵入民族に対して影響を与え続けてきたとされる。

 公用語は古代ギリシア語から続いている現代ギリシア語で、擬古的な文語体(「カサレブサ=純正語」という)と口語体(「ディモティキ=民衆語」)とに分かれている。カサレブサは長らく教養人が読み書きする公用語とされており、軍事政権下ではとくにその傾向が強まったが、1976年以降は学校教育にもディモティキが採用され、大学においても法学部など一部を除いて口語が一般的に使用されるようになっている。

[真下とも子・清永昭次]

国民生活

ギリシア人の総人口は、近年あまり増加していない。これは、出生率が低いうえ、伝統的に国外への移民、出稼ぎが多いためである。首都アテネへの人口集中が著しく、同時に地方の過疎化現象がみられる。教育制度は、6歳からの小学校課程6年間に加えて、中学校課程3年間が1976年から義務制となった。伝統的に教育熱心で、それが人口の都市集中の一因ともなっている。

 国民の教育水準は高く、識字率は95%を超えている(2001)。信仰の自由は認められているが、東方正教会(ギリシア正教会)が国民宗教のごとく支配的である。ギリシア正教は、ギリシアがオスマン帝国支配下にあった時代に、言語とともにギリシア人の民族性を維持したといわれる。教育も長らく教会にゆだねられており、近年までギリシア人の生活全般が教会の行事と深くかかわっていた。1982年、全ギリシア社会主義運動(PASOK)政権になって初めて、教会の許可を要しない、届出のみによる「市民結婚」が認められるようになった。

[真下とも子・清永昭次]

文化

海陸ともに東西交流上の要衝に位置するため、東西双方の文明圏への帰属感をもって民族の文化的特質とすることができる。すなわち「西欧文明発祥の地」として西方の、東方正教会の主導的立場として東方の一員とする意識がそれである。現代のギリシア文化には、古代ギリシア文化、中世ビザンティン文化、さらにベネチア、フランク、オスマン帝国支配の影響が重層的に併存する。また気候・風土的条件に加え、相次ぐ異民族支配の経験から、古くよりギリシア人は広く海外へ活動の場を求めて進出する独立、覇気の特性を備えていた。近年でも、大はオナシスのような海運王から小はドイツなどへの季節労働者まで、国外に出て働く人は多く、また彼らの郷土に対する愛着心が強いのも特徴である。こうした人々を現代ギリシア語で「ディアスポラ(離散したギリシア人)」というが、彼らディアスポラたちのこの国の社会、経済、文化への貢献はきわめて大きい。

 ギリシア人は歴史意識、民族意識が強く、豊富な古代、中世の遺跡の保護・管理や、アテネ国立考古学博物館をはじめとする各種博物館の運営が国家的に行われている。民間の遺品コレクションも多い。近年はアテネのアクロポリスを大気汚染から救う問題が国際的に取り上げられている。古代芸術の栄光の陰に見逃されがちであるが、伝統を担って建築・彫刻に秀逸な芸術家が出ている。また文学においては、散文ではカザンザキスが国際的に知られる。より盛んな韻文の分野では1963年にセフェリスが、1979年にエリティスがノーベル文学賞を受けている。伝統的に演劇も市民の人気を集め、アテネだけでも大小100以上の劇場がある。毎年夏にはヘロデス・アッティコス音楽堂およびエピダブロス(古代名エピダウロス)の古代劇場で国立劇団による古代の作品が上演されている。また近年、映画の分野においても、ミハリス・カコヤニスMichael Cacoyannis(1922―2011)、テオ・アンゲロプロス(1935―2012)などの監督が優れた映画を発表し、国際的に注目されている。なお、女優のメリナ・メルクーリMelina Mercouri(1920―1994)が1981年に文化・科学相に就任して話題をよんだ。

 2004年には第28回オリンピック競技大会がアテネで行われた。1896年の第1回大会以来、108年ぶりに古代オリンピック発祥の地であるアテネでふたたび開催された。

[真下とも子・清永昭次]

日本との関係

1899年(明治32)日本とギリシアの間に修好通商航海条約が締結された。以来、両国は友好関係を維持し、同条約は1953年(昭和28)に存続が確認された。現在、東京とアテネにそれぞれ大使館、神戸にギリシア名誉領事を置いて、政治的、経済的、文化的な交流が続いている。貿易関係は恒常的にギリシア側の輸入超過であるが、それはギリシアが船舶、自動車を含む付加価値の高い機械類および金属品を輸入し、輸出は葉タバコを中心に食料品、綿花などが圧倒的であることによる。1995年を例にとると、ギリシアの輸入が6億6000万ドル、輸出が約1億0650万ドルで、ギリシア側の輸入超過は約5億5300万ドルである。このように、両国の関係はそれほど密接なものとはなっていないが、ギリシアは外国企業の誘致に熱心で、日本企業の受け入れにも積極的である。1981年には、日本・ギリシア文化協定が結ばれ、1990年11月には、首相ミツォタキスKonstantinos Mitsotakis(1918―2017)が天皇即位の礼で訪日した。1999年は日本とギリシアの修好100周年にあたり、さまざまな文化行事が行われた。また、2001年に森喜朗首相、2005年に小泉純一郎首相がギリシアを訪問、2005年にカラマンリスKostas Karamanlis(1956― )首相が来日している。

[真下とも子・清永昭次]

『木戸蓊著『バルカン現代史』(『世界現代史24』1977・山川出版社)』『竹内啓一著『ギリシア』(『世界地理6 ヨーロッパⅠ』所収・1980・朝倉書店)』『ロイド・ジョーンズ編、三浦一郎訳『ギリシア人――その歴史と文化』(1981・岩波書店)』『西村太良監修『読んで旅する世界の歴史と文化 ギリシア』(1995・新潮社)』『萩野矢慶記写真・文『エーゲ海だより』(1995・日本交通公社出版事業局)』


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百科事典マイペディア 「ギリシア」の意味・わかりやすい解説

ギリシア

◎正式名称−ギリシア共和国Hellenic Republic。◎面積−13万1958km2。◎人口−1082万人(2011)。◎首都−アテネAthinai(317万人,大アテネ,2011)。◎住民−ギリシア人95%,トルコ人,アルバニア人,ブルガリア人など。◎宗教−ギリシア正教(国教)97%,ほかにイスラムなど。◎言語−ギリシア語(公用語),ほかにトルコ語,アルバニア語,アルメニア語が少数。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,パヴロプロスProkopis PAVLOPOULOS(1950年生まれ,2015年3月就任,任期5年)。◎首相−アレクシス・ツィプラスAlexis Tsipras(2015年1月就任)。◎憲法−1975年6月発効。◎国会−一院制(定員300,任期4年)。2015年1月選挙結果,急進左派連合149,新民主主義党76,黄金の夜明け17,共産党15,全ギリシア社会主義運動13,独立ギリシア人13など。◎GDP−3600億ドル(2007)。◎1人当りGDP−3万534ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−15.2%(2003)。◎平均寿命−男76.9歳,女81.3歳(2007)。◎乳児死亡率−3.2‰(2009)。◎識字率−97.2%(2009)。    *    *ヨーロッパ南東部,バルカン半島南部を占める共和国。国土はイオニア海エーゲ海に囲まれる本土と多数の島からなる。北部の中央をピンドス山脈が走り,その支脈上に最高峰オリンポス山がある。全般に石灰岩の山地,丘陵が多く,耕地は国土総面積の約20%。海岸線はきわめて複雑である。典型的な地中海式気候。農業が主で,小麦,タバコ,オリーブ,ブドウ,綿花を産するが,食糧の自給はできない。鉄,ボーキサイト,大理石などの鉱産もある。繊維,化学肥料,製紙などの工業があるが,重工業の発達は遅れている。国の財源として観光,海運収入も無視できない。〔歴史〕 395年のローマ帝国の東西分裂後,ビザンティン帝国領となり,1453年オスマン帝国の支配下に入った。秘密結社エテリアの活動を先駆として,1821年からギリシア解放戦争を闘い,1830年王国としての独立が国際的に認められた。1924年共和国となったが,1935年国民投票で王政を復活した。第2次大戦中,独・伊軍に占領され,解放後,共和派と王政派の内乱があり,1946年国民投票で亡命していた国王の復位を決めた。1967年クーデタで軍事政権が成立,国王は国外に亡命した。1973年王政を正式に廃止して共和制に移行,1974年民政に移管した。以後,1974年―1981年保守の新民主主義党(ND)政権,1981年―1989年PASOK(全ギリシア社会主義運動)の社会主義政権,1990年―1993年ND政権をへて,1993年からPASOK政権が続いている。この間1952年北大西洋条約機構(NATO)に,1981年ECに加盟した。〔2000年以降〕 1999年発足のユーロ圏には当初条件を満たせず参加できなかったが,2001年1月からユーロ圏入りした。2004年8月,108年ぶりにアテネでオリンピックが開催された。2009年の総選挙で,2004年以来続いていた,カラマンリス政権が敗北し,パパンドレウ率いる全ギリシア社会主義運動に政権交代した。新政権下で,ギリシアの財政赤字が悪化していることを,旧政権が隠蔽していたことが明らかにされた。〔ユーロ危機とギリシア〕 2010年1月,EUの政策委員会である欧州委員会は,ギリシアの財政統計の不備を指摘,従来国内総生産の4%程度とされていた財政赤字が実際は13%にも及んでいるなど,危機的状態にあることが判明。主要格付け会社は相次いでギリシア国債の格付けを引き下げ,デフォルト(債務不履行)寸前という判断を示した。ギリシアの財政危機は一気に,ユーロの下落(ユーロ危機)を招き,ユーロ圏の株価のみならず世界的な株価下落の原因となった。さらに,同じく財政赤字を抱える,ポルトガル,スペイン,イタリアなどのEU諸国にも連動する懸念が広がり,各国国債の金利が上昇,EU諸国のソブリンリスクが現実のものとなった。2010年5月,EUは,ドイツを中心に,ギリシア支援を打ち出し,IMFと協調して6月,7500億ユーロ(1230億ユーロはドイツ負担)の支援策を発表した。これを機に各国とも緊急の財政再建策の表明を迫られた。しかし,ギリシアではギリシア労働総同盟・ギリシア公務員連合がゼネストに入るなど政府が進める歳出削減は難航した。2011年7月,格付け会社は,ギリシア国債をさらに三段階引き下げCaとした。同年10月,政府は財政赤字削減目標が未達成となる見通しと発表,債務不履行となる可能性が明瞭となった。11月パパンドレウ首相が,EUの二度目の金融支援を受けるか否か国民投票を実施すると発言。これにより,国論が分裂状態にあるギリシアを不安視する金融市場に危機感がたかまり,ドイツのメルケル,フランスのサルコジの両首脳が急遽ギリシアを訪問,最悪事態の回避をギリシア政府と協議した。パパンドレウは国民投票を撤回し,内閣の信任投票を行い僅差で信任を得たが,結局辞任し,元ギリシア中央銀行総裁のパパディモスが首相を引き継いだ。パパディモス政権はパパンドレウの全ギリシア社会主義運動(PASOK)と最大野党のサマラス党首の新民主主義党(ND)を中心とする連立で,EUの再支援を受け入れ,公務員削減・増税などの厳しい緊縮策を国民に説得することが期待された。しかし,2012年5月の選挙では,連立政権与党は敗北,過半数を取れず,緊縮策に反対し〈EUからの借入金は返済しない〉という公約を打ち出す野党の急進左派連合(SYRIZA)が躍進するなど,緊縮策反対派が票を伸ばす結果となった。パプリアス大統領の各党首との連立調停は失敗に終わり,6月中旬の再選挙となった。6月の再選挙では,ND,PASOKが過半数を制し(NDが第一党),サマラス首相が率いる連立政権(ND,PASOK,民主左派)が発足した。ユーロ圏17ヵ国は,ギリシアへの支援を続ける一方,緊縮策の実施を強く求めている。ギリシアの債務不履行とともにギリシアがEUから脱退する事態はひとまず回避されたが,緊縮策が着実に実行されていくか否か,依然として欧州債務問題の火だねとなる可能性があり深刻な局面は続いた。2014年12月,大統領選挙が行われたが,与党の擁立したディマス候補(ND)は必要票を獲得できなかったため,憲法に基づき議会が解散され,総選挙が2015年1月25日に実施された。総選挙の結果,急進左派連合(SYRIZA)が過半数近くの議席を獲得して第一党となり,同じく反緊縮を掲げる〈独立ギリシア人〉党(ANEL,右派)と連立政権を発足。SYRIZAのツィプラスが40歳でギリシアの首相に就任し,過去150年間で最年少の首相になった。これまで,EUとの緊縮策合意に基づき,歳出削減と各種増税策による緊縮政策の他,民営化を進めていたが,この政権交代後,ギリシア政府はEUに対し緊縮策の見直しを主張,ギリシアは再び欧州債務問題における危機的な焦点となった。さらに,EUの屋台骨を支えるドイツに対して,ナチス・ドイツによる占領でギリシアが受けた損害の賠償を求める姿勢を示唆し,ギリシアの財務次官はドイツの賠償は2790億ユーロにのぼると発表している。→ギリシア(古代)
→関連項目アテネオリンピック(1896年)アテネオリンピック(2004年)反格差社会運動

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ギリシア」の意味・わかりやすい解説

ギリシア
Greece

正式名称 ギリシア共和国 Ellinikí Dhimokratía。ギリシアでは普通エラス Ellásまたはエラダ Elládhaと呼ばれる。
面積 13万2049km2
人口 1070万2000(2021推計)。
首都 アテネ

ヨーロッパ南東部にある共和国。地中海東部に突出するバルカン半島の南部を中心に,クレタ島をはじめとするエーゲ海諸島,およびイオニア諸島からなり,北はアルバニア北マケドニアブルガリア,東はトルコと国境を接する。地形は全体に山がちで,国土の約 4分の3を山地が占め,バルカン半島部の西寄りを北北西-南南東方向に連なるピンドス山脈が脊梁山脈をなす。最高点はオリンボス山の 2917m。ストルマ川アクシオス川ピニオス川などの流域に比較的広い平野がある。基本的には温帯冬雨気候(地中海式気候)に属し,夏は乾燥し,雨はおもに冬に降るが,複雑な地形の影響で地域差が大きい。住民の 90%以上はギリシア人で,ほかにマケドニア人,トルコ人,アルバニア人,ロムなどが住む。ギリシア正教が国教に定められ,住民のほとんどすべてがこれに属する。言語は従来,公文書,議会,法廷などの公式用語としてはカサレブサと呼ばれる現代ギリシア語文語が用いられてきたが,1976年にディモティキと呼ばれる口語を主とした標準現代ギリシア語が公用語となった(→ギリシア語)。1973年6月,6年間続いた軍事政権に終止符が打たれ,共和制へ移行。立憲君主制への復帰が国民投票で否決されたのち,1975年6月大統領を国家元首とする議会民主制を定めた新しい共和国憲法が公布された。1981年ヨーロッパ連合 EUの前身であるヨーロッパ共同体 ECに加盟。同年 10月社会主義政権が誕生したが,1989年6月議会選挙で敗北し,保守政権が誕生。伝統的に農業国だったが,2009年の農林水産業従事者は 52万人で,食糧自給は達成されておらず,国内総生産 GDPに占める割合も 2.8%にすぎない。主要作物はコムギ,オオムギ,トウモロコシ,タバコ,テンサイ,トマト,各種果樹。牧畜はヒツジ,ヤギの飼育が中心。鉱業生産の半分以上は褐炭により,ほかに鉄鉱,マグネシウム鉱,亜鉛などの採掘が盛んで,近年ボーキサイト,石油,天然ガス生産が増加。主要工業は食品,繊維,化学,鉄鋼,アルミニウム,造船,石油精製などであるが,アテネ,セサロニキに集中して立地するため,政府は他地域の工業化を推進した。交通・宿泊施設の拡充に伴って 1970年代半ば以降に観光業が急成長,2011年の観光収入は約 148億ドルに達し,重要な産業となっている。世界的海運国として,海運業も重要。2010年に財政が著しく悪化,EUと国際通貨基金 IMFの支援を受けた。北大西洋条約機構 NATO加盟国。(→ギリシア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ギリシア」の解説

ギリシア
Hellas[古代ギリシア],Ellada[現代ギリシア],Greece[英]

ギリシアという呼称はラテン語のグラエキア(Graecia)に由来する。古代ギリシア人はヘラスを用いた。現代のギリシアの正式国名はギリシア共和国(エリニキ・ディモクラティア),通常はエラダと称される。19世紀にギリシアがオスマン帝国から独立すると,歴史家パパリゴプロスによって「古代-中世ビザンツ-近代」という直線的に継続するギリシア民族史観が成立した。しかしながら多くの場合,古代と中世ビザンツはそれぞれ完結した世界と認識され,実際,古代から現代までのギリシアを通史としてとらえることはギリシア以外では稀である。とはいえ,歴史を通じて,バルカン半島南端から東地中海,黒海に至るまで,ギリシア語東方正教会を背景にした一種同質的なギリシア世界が形成されていたこともまた事実である。古代ギリシアの都市国家は,前4世紀マケドニアによって征服された。アレクサンドロス大王の死後はヘレニズム3王国の一角を占め,前2世紀にはローマの属州となり,ビザンツ帝国の東方キリスト教世界に入った。ヴェネツィア支配のイオニア諸島など一部を除き,バルカン半島南端地域とエーゲ海島嶼部は,15世紀から約4世紀にわたってオスマン帝国の版図に入った。1830年に独立を果たすと,英仏露の保護のもと近代国家の基盤が整えられた。同時に,戦争や外交によって歴史的ギリシアの地を回復する領土拡張政策が推進された。1947年今日の領土が画定した。第二次世界大戦後は,バルカン唯一の西側の国として戦略的に重要視された。軍事独裁をへた74年に君主政が完全に廃止され共和国となった。81年にECに加盟し,今日ギリシアは政治・経済分野で基本的にEUと共同歩調をとっている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ギリシア」の解説

ギリシア
Graecia (ラテン)
Grécia (ポルトガル)
Greece (イギリス)

バルカン半島の南端にある国。ギリシア人はヘラス(Hellas)と呼んだ。首都アテネ
前2000〜前1200年ごろ南下したギリシア人が,アテネ・スパルタ・テーベなどの多くのポリスをつくった。前8世紀から商工業が発達し,黒海沿岸・イタリア・アフリカ北岸方面にも進出した。前5世紀のペルシア戦争では,アケメネス朝(ペルシア)に勝ち,アテネを中心に古典文化が栄えたが,ペロポネソス戦争後,ポリス間の抗争とポリス内部の闘争により,自由と自治を中核とするポリス的生活がくずれた。前4世紀にはマケドニアのアレクサンドロス大王の支配下にはいり,前2世紀にはローマ領となった。ローマ帝国の分裂後,1453年までビザンツ帝国領で,56年にオスマン帝国領となる。1830年独立が承認され,王国となった。その後,バルカン戦争(1912〜13)や,第一次世界大戦で連合国側にくみし,領土を広げた。1924年国民投票によって共和国となったが,第二次世界大戦後,王政となる。1947年にはギリシア・トルコへの援助をアメリカが声明し,経済援助と軍事使節団を派遣した。1952年には北大西洋条約機構(NATO)にも加盟したが,政情は不安定で,73年王が亡命し,軍部独裁下にあったが,74年7月キプロス紛争の失敗でカラマンリスの文民内閣が誕生した。1975年6月には新共和政の憲法が発効し,カラマンリスの推すツァツォスが初代大統領となった。1981年にはヨーロッパ共同体(EC)に加盟したが,同年10月の選挙で全ギリシア社会主義運動(PASOK)が勝利し,パパンドレウを首班とする社会主義政権が誕生。その後は,1990年に保守派政権,93年にPASOK政権が成立。なおPASOKは1996年の総選挙でも過半数を確保。この間,外交面では,1992年にマーストリヒト(ヨーロッパ連合)条約を批准。トルコとの間でキプロス問題での緊張関係が続くいっぽう,独立したマケドニアとの間でも国名問題で対立が生じた。

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