バッハ(読み)ばっは(英語表記)Johann Sebastian Bach

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バッハ(Johann Sebastian Bach)
ばっは
Johann Sebastian Bach
(1685―1750)

ドイツ・バロック音楽を代表する作曲家、オルガン奏者。200年にわたり多数の音楽家を輩出したバッハ一族最大の音楽家で、「大バッハ」とよばれる。彼に至る西洋音楽史を集大成するような偉大な存在だが、優秀な息子たちと多くの弟子をもったため、後代の音楽の発展にも重要な影響を及ぼした。とくに19世紀にはパレストリーナと並んで古い音楽伝統の象徴的存在とみなされ、あらゆる音楽家の学習の対象となった。すでにモーツァルトもゴットフリート・ベルンハルト・バン・スウィーテン男爵の影響でバッハを研究しており、それなしには『ジュピター交響曲』や『レクイエム』をはじめとする晩年の傑作の充実は考えられない。少年時代に、師のネーフェの指示でバッハの『平均律クラビア曲集』を学んだベートーベンも、「バッハは小川(バッハ)ではなく大海(メール)である」と述べるほどバッハを尊敬し、大きな影響を受けていた。しかし、バッハに対する一般の評価を決定的なものとしたのは、1802年に出版されたフォルケルによる最初の『バッハ伝』と、1829年に弱冠20歳のメンデルスゾーンによってベルリンで行われた『マタイ受難曲』の歴史的な復活上演であった。さらにブラームスはベートーベンを超克するための創造力の源泉をバッハに求めている。現代音楽への扉を開いたシェーンベルクが、「十二音技法」の理論的支柱をバッハの対位法に求めている点も注目に値する。
 なお彼の作品番号は、今日ではW・シュミーダー編の『バッハ作品主題目録』Bach-Werke-Verzeichnis(略称BWV)(1958)が広く用いられており、ここでもそれに従った。[樋口隆一]

生涯と作品


幼少時代
1685年3月21日、中部ドイツ、チューリンゲン地方の小都アイゼナハで生まれている。父アンブロジウスは同市の町楽師、その従兄(いとこ)ヨハン・クリストフ・バッハ(1642―1703)はセバスチャンが洗礼を受けた聖ゲオルク教会のオルガニストという音楽的な環境に育った。この2人にとどまらず、バッハ一族は中部ドイツを代表する音楽家系であった。9歳となった94年の5月に母エリーザベトを、翌95年2月に父アンブロジウスを失ったバッハは、オールドルフの教会オルガニストだった長兄ヨハン・クリストフ(1671―1721)のもとに引き取られた。この兄はヨハン・パッヘルベルのもとで修業した優秀な音楽家であり、オルガン演奏や作曲など、バッハは彼から多くを学んだことであろう。閲覧を禁じられていた兄所有の曲集を見たい一心で、毎晩夜中に起き出して月の光の下に写譜した、という少年バッハの勉強熱心を伝える逸話も残っている。1700年3月、バッハはオールドルフを後に北ドイツのハンザ都市リューネブルクに向かった。聖ミカエル教会朝課合唱隊に採用され、ミカエル学校で学ぶことができたからである。リューネブルク時代のバッハは、近くのハンブルクではラインケンのオルガン芸術とカイザーらのオペラ、またツェレではフランス音楽に接する機会を得た。リューネブルク聖ヨハネ教会オルガニストだった巨匠ゲオルク・ベームの影響も忘れてはならない。[樋口隆一]
アルンシュタット、ミュールハウゼン時代
1702年春、ミカエル学校を卒(お)えたバッハは、翌03年3月から約半年ワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師を務めたのち、アルンシュタット新教会オルガニストとなった。18歳の青年音楽家にとって、ここでの4年間は矛盾と問題に満ちたものとなった。若いオルガニストは、自分より年上の生徒もいる聖歌隊との折り合いが悪く、ついにはその1人ガイエルスバッハと立回りを演じる始末、さらに4週間の休暇をとって出かけたリューベック旅行も無断で4倍も長いものとなり、聖職会議にたしなめられることとなる。リューベック聖マリア教会のオルガン奏者ブクステフーデの芸術は、若いバッハにそれほど魅力的だったのである。バッハは新天地を求めた。帝国自由都市ミュールハウゼンの教会オルガニストとなるのである。07年4月24日の復活祭に行われた試験演奏では、おそらくカンタータ『キリストは死の絆(きずな)につきたまえり』(BWV4)が上演され、彼の輝かしいカンタータ創作の第一歩が踏み出された。わずか1年間のミュールハウゼン時代には、さらに『深き淵(ふち)より』(BWV131)、『神の時は最上の時』(BWV106)、『神はわが王』(BWV71)のような傑作が書かれた。最初の妻マリア・バルバラとの結婚もこの1707年のことであった。[樋口隆一]
ワイマール時代
1708年6月25日、バッハはミュールハウゼン市参事会に突然辞表を提出し、ワイマール宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となった。よりよい待遇と職業上の可能性とが理由であった。『オルガン小曲集』(BWV599~644)をはじめとする多数のオルガン曲の傑作が生まれた。ビバルディらのイタリアの協奏曲をオルガンやチェンバロの独奏用に編曲したのもこのころだが、それはオランダ帰りの若い公子ヨハン・エルンストの依頼によるものだった。14年楽師長に昇進したバッハは、毎月一曲の割合で新作のカンタータを上演する義務を与えられた。『天の王よよくぞ来ませり』(BWV182)、『泣き、嘆き、憂い、畏(おそ)れよ』(BWV12)、『わが心は血の海に浮かぶ』(BWV199)をはじめとする、いわゆるワイマール・カンタータの数々はこうして生まれるのである。16年12月1日、楽長ドレーゼが世を去るが、後任にはその息子が指名され、バッハは昇進の道を失った。新たな可能性を外に求めた彼にケーテン宮廷楽長への道が開けた。しかしワイマール公は辞職を許すどころか、バッハを1か月の禁錮処分にするのである。[樋口隆一]
ケーテン時代
1717年12月、禁錮にも屈しなかったバッハはケーテンに移籍を敢行した。音楽好きの君主レオポルト侯は優秀な宮廷楽団をもち、バッハもそのために多数の室内楽曲や協奏曲を作曲した。しかし20年、妻マリア・バルバラを失い、音楽予算が削減されるに及び、彼の目はふたたび外に向き始める。その年11月のハンブルク聖ヤコビ教会オルガニストへの応募、翌21年3月のブランデンブルク辺境伯への『ブランデンブルク協奏曲集』(BWV1046~1051)の献呈はその表れで、23年にはついにライプツィヒに移籍することになる。この間、20年には『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』(BWV1001~1006)、22年には『平均律クラビア曲集』の第一巻(BWV846~869)の自筆浄書譜が完成している。また21年にはアンナ・マクダレーナ(1701―60)と再婚している。[樋口隆一]
ライプツィヒ時代
1723年5月5日、ライプツィヒ市のトマス・カントル兼音楽監督に就任したバッハは、トマス学校での教育と、同市の主要四教会への教会音楽の供給に多忙な日々を過ごすことになった。こうして毎週の礼拝に上演されるため、現存するだけでも200曲近い教会カンタータや、「マタイ伝」や「ヨハネ伝」に基づく受難曲が作曲された。とくに27年に初演された『マタイ受難曲』は、そうした活動の頂点を形づくるものといってよい。市の上層部との関係が悪化した30年は、転機であり危機でもあった。すでに前年に指導を始めていた学生音楽団体コレギウム・ムジクムとの活動が増し、宗教曲にかわって協奏曲や『コーヒー・カンタータ』(BWV211)、『農民カンタータ』(BWV212)に代表される世俗カンタータの創作の比重が大きくなった。啓蒙(けいもう)主義の影響による感覚的でわかりやすい音楽の隆盛から流行遅れとみなされたバッハは、しだいに自己の芸術の集大成を目ざすようになった。こうして『クラビア練習曲集』第一部~第四部(1731~42ころ)、『音楽の捧(ささ)げもの』(1747、BWV1079)、『シュープラー・コラール集』(1748、BWV645~650)が出版された。『フーガの技法』(1740年代、BWV1080)が作曲され、『ミサ曲ロ短調』(BWV232)が完成されたのもこの一環としてとらえられる。最後の作品となったこの壮大なミサ曲は、1733年にザクセン選帝侯に献呈したキリエとグロリアをその第一部とし、やはり既存のサンクトゥスを利用しながら、最晩年の48年秋から失明直前の翌49年春にかけて残りの部分を作曲し、完全なミサ曲としたもので、そこには伝統的な声楽ポリフォニー様式から、当時最新の華麗様式(ギャラントスタイル)に至る声楽作曲法のあらゆる可能性が示されている。こうしてバッハは西洋音楽史上の一大記念碑を自らの手で打ち立てたのち、その生涯を終えている。1750年7月28日、そこひの手術の失敗による衰弱と卒中の発作が死因であった。[樋口隆一]
『樋口隆一著『バッハ』(新潮文庫) ▽辻荘一著『J・S・バッハ』(岩波新書) ▽角倉一朗著『バッハ』(1963・音楽之友社) ▽礒山雅著『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(1985・東京書籍) ▽W・フェーリクス著、杉山好訳『J・S・バッハ 生涯と作品』(1985・国際文化出版社) ▽K・ガイリンガー著、角倉一朗訳『バッハ――その生涯と音楽』(1970・白水社) ▽A・シュヴァイツァー著、浅井真男・内垣啓一他訳『バッハ』全3巻(1983・白水社) ▽角倉一朗監修『バッハ叢書』10巻・別巻2(1976~ ・白水社) ▽樋口隆一著『バッハの旅』(1986・音楽之友社) ▽樋口隆一著『原典版のはなし――作曲家と演奏家のはざまに』(1986・全音楽譜出版社) ▽樋口隆一著『バッハ・カンタータ研究』(1987・音楽之友社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

フェロー

イギリスではこの呼称は主として次の3つの場合をさす。 (1) 大学の特別研究員 研究費を与えられ,多くは教授,講師を兼ねる。 (2) 大学の評議員 卒業生から選ばれる。 (3) 学術団体の特別会員 普...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

バッハの関連情報