魏(中国、三国の一つ)(読み)ぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「魏(中国、三国の一つ)」の意味・わかりやすい解説

魏(中国、三国の一つ)

中国、三国の一つで、曹操(そうそう)が創設した王朝(220~265)。曹操は後漢(ごかん)末の群雄の一人で、兗州(えんしゅう)(山東省)に割拠し、献帝を洛陽(らくよう)から予州の許に迎えて擁立した。200年、官渡の戦いによって袁紹(えんしょう)を破り、ほぼ華北を統一し、冀州(きしゅう)の鄴城(ぎょうじょう)を根拠地とした。208年、丞相(じょうしょう)となり、荊州(けいしゅう)に南下しようとしたが、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)が同盟して、曹操は赤壁の戦いで敗れた。ついで関中を平定して献帝から魏公の爵位を授かった。さらに外戚(がいせき)の夏侯淵(かこうえん)を派遣して涼州を平定させ、また皇后の伏氏を廃し、娘を献帝の皇后とした。漢中(陝西(せんせい)省)における五斗米道(ごとべいどう)のいわば宗教国家を創始した張魯(ちょうろ)を親征し、爵は魏王に進んだ(216)。曹操は宦官(かんがん)の養子の子で、たいした基盤はなかったが、許をはじめ各地に大規模な屯田(とんでん)を開き、糧食の確保に努め、また募兵、流賊、降卒、降民、流寓(りゅうぐう)の徒を兵戸に編成し専属の軍隊とした。腹心の臣下には荀彧(じゅんいく)、陳羣(ちんぐん)、鍾繇(しょうよう)など法家の伝統が根強い潁川(えいせん)(河南省)出身の者が多く、曹操の施策にもその影響が現れている。曹操の死(220)後、曹丕(そうひ)がたち、官人の登用法を郷挙里選から九品官人法(きゅうひんかんじんほう)にかえた。これは人材を魏に吸収するのが本来の目的であったが、その運営は貴族制度の成立を決定的にした。

 献帝は220年に禅譲し、曹丕は即位して文帝となり、ここに後漢は滅亡し、魏朝が成立した。鄴から洛陽に移り、ここを都とした。また西域(せいいき)の焉耆(えんき)、鄯善(ぜんぜん)、亀茲(きじ)、于闐(うてん)なども従属した。明帝(めいてい)(在位226~239)のときには洛陽(らくよう)宮を整備し、太極(たいきょく)殿と昭陽殿を建立、司馬懿(しばい)を派遣して遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を破り、次の斉(せい)王芳のときに毌丘倹(かんきゅうけん)が高句麗(こうくり)を討ち、領土を東方に拡張した。耶馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が朝貢の使者を派遣したのはこのころである。

 明帝の没後は、斉王芳、高貴郷公髦(ぼう)、陳留(ちんりゅう)王(元帝)奐(かん)の三少帝が継ぎ、曹爽(そうそう)と司馬懿が補佐した。司馬懿は宗室の曹爽や外戚の何晏(かあん)、夏侯玄などを次々と排除し、実権を掌握していった。子の司馬師は斉王を廃し、師の弟の昭は高貴郷公を殺した。昭の子の炎は陳留王の禅譲によって265年に即位し、晋(しん)(西晋)を建国し、魏は滅亡した。文化の面では、朝臣の貴族化が進み、文学、音楽、書画などの芸術を担い、老荘と易の学問である玄学が清談のテーマとなった。

[上田早苗]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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