ヘンリー(読み)へんりー(英語表記)Patrick Henry

デジタル大辞泉 「ヘンリー」の意味・読み・例文・類語

ヘンリー【Henry】[英国王]

英国王。
(2世)[1133~1189]在位1154~1189。プランタジネット朝の始祖。フランスに広大な土地を領有。行政裁判制度の確立などにより、イギリス封建王政の最盛期を築いた。
(7世)[1457~1509]在位1485~1509。チューダー朝の始祖。薔薇ばら戦争リチャード3世を破って即位。封建貴族を抑圧し、王権の強化と国内秩序の維持に努め、絶対王政の基礎を固めた。
(8世)[1491~1547]在位1509~1547。の次男。アン=ブリンとの結婚問題を契機に、首長令によりイギリス国教会を設立し、ローマ教会から独立。また、修道院を解散。王権の強化に努め、絶対王政を発展させた。

ヘンリー(Joseph Henry)

[1797~1878]米国の物理学者。ファラデーとは独立に電磁誘導を発見。自己誘導の発見、電磁式電信機や電流計の発明、太陽黒点熱放射の観測など業績が多い。

ヘンリー(henry)

国際単位系(SI)のインダクタンスの単位。1ヘンリーは、1秒間に1アンペアの割合で変化する電流が流れるときに、1ボルトの起電力を生ずる閉回路のインダクタンス。名称はJ=ヘンリーにちなむ。記号H

ヘンリー(William Henry)

[1774~1836]英国の化学者。気体の溶解度に関するヘンリーの法則を発見。主著「化学入門」はオランダ重訳本を通して宇田川榕庵の「舎密セイミ開宗」の底本となった。

ヘンリー(Patrick Henry)

[1736~1799]米国独立革命の指導者。印紙条令の反対運動で知られ、「自由か、しからずんば死を与えよ」の演説で英本国との開戦を主張。独立後は、中央集権主義的合衆国憲法に反対する反フェデラリストに属した。

ヘンリー【Henry】[ポルトガルの王子]

Henry the Navigator》[1394~1460]ポルトガルの王子。ジョアン1世の三男。アフリカ西海岸の探検隊の派遣・航海を奨励し、のちのポルトガルの海上発展に寄与した。ヘンリー航海王子。エンリケ。

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精選版 日本国語大辞典 「ヘンリー」の意味・読み・例文・類語

ヘンリー

  1. ( Henry )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) ノルマン朝のイギリス王(在位一一〇〇‐三五)。司法行政制度を改革して王権を伸長し、ノルマンディー公国を併合した。(一〇六八‐一一三五
  3. [ 二 ] ( 二世 ) イギリス王(在位一一五四‐八九)。プランタジネット朝初代の王。ヘンリー一世の孫。イギリス封建王政の盛期を築いた。(一一三三‐八九
  4. [ 三 ] ( 三世 ) プランタジネット朝のイギリス王(在位一二一六‐七二)。ジョン王の長子。大憲章を無視して失政多く、シモン=ド=モンフォールらの反抗を招き、その結果王権を制限したオックスフォード条項を承認した。(一二〇七‐七二
  5. [ 四 ] ( 四世 ) イギリス王(在位一三九九‐一四一三)。ランカスター朝初代の王。百年戦争を継続する一方、国内の反乱、異端鎮定に力を尽くした。(一三六六‐一四一三
  6. [ 五 ] ( 五世 ) イギリス王(在位一四一三‐二二)。ヘンリー四世の長子。百年戦争を再開、一四二〇年フランス王位継承権を獲得。(一三八七‐一四二二
  7. [ 六 ] ( 六世 ) イギリス王(在位一四二二‐六一、一四七〇‐七一)。ヘンリー五世の子。百年戦争終結の二年後(一四五五)に薔薇(ばら)戦争が起こり、敗北して殺害された。(一四二一‐七一
  8. [ 七 ] ( 七世 ) イギリス王(在位一四八五‐一五〇九)。ランカスター家の出。薔薇戦争でリチャード三世を破って即位、チューダー朝を開く。イギリス絶対主義の基礎を築いた。(一四五七‐一五〇九
  9. [ 八 ] ( 八世 ) イギリス王(在位一五〇九‐四七)。ヘンリー七世の次男。王妃との離婚問題を契機にローマ教会から離れ、一五三四年の首長令で英国国教会の首長となり、修道院を解散して財産を没収した。これによって中央集権の実をあげ、絶対主義を確立した。(一四九一‐一五四七
  10. [ 九 ] ポルトガル王ジョアン一世の第三王子。ポルトガル名はエンリケ。探検航海の保護者として、航海者を養成し、近世初頭のポルトガルの海上発展の基礎をすえた。航海王子と呼ばれる。(一三九四‐一四六〇

ヘンリー

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] henry ) 電磁感応のインダクタンスの単位。記号H 一ヘンリーは、毎秒一アンペアの割合で変化する電流を通した時、一ボルトの起電力を生じるような回路の感応係数の値で、109cgs 電磁単位に等しい。電流の自己誘導の発見者J=ヘンリーの名にちなむ。
    1. [初出の実例]「電気誘導はヘンリーを以て単位とす」(出典:逓信省令第百十七号‐明治四三年(1910)一二月二七日)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘンリー」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー(8世)
へんりー
Henry Ⅷ
(1491―1547)

チューダー朝2代目のイギリス王(在位1509~1547)。ヘンリー7世とヨーク家出身のエリザベスElizabeth of York(1466―1503)との間に次男として生まれた。兄アーサーArthur(1486―1502)の早世により、父の王位を継いで即位した。若年時にはルネサンスの学問に少なからぬ関心を示し、トマス・モアと親交があり、エラスムスとも接触を保った。即位年の6月に亡兄の寡婦キャサリン(アラゴンの)Catherine of Aragon(1485―1536)と結婚、スペイン王室との提携を固めようとする父王の願いを満たした。治世の初めには名誉を求める気持ちが強く、フランスの王冠を欲して大陸に兵を進め(1513年8月)、勝利を得たが、諸君主の複雑な駆け引きに災いされて初志を貫徹できなかった。やがて寵臣(ちょうしん)のウルジーがヨーク大司教、枢機卿(すうききょう)、大法官として主君たるヘンリーをしのぐ勢威を示したが、ヘンリーはとりわけイギリス外交を活発に行い、自国の地位向上に努力した。だがカール5世と結んでのフランス侵略(1522~1523)はふたたび失敗した。

 ルターの起こした宗教改革運動にヘンリーは反対であり、ローマ教会を守るための一書を著し、教皇から「信仰擁護者」Defensor Fideiの称号を授けられた(1521)。しかし、キャサリンから王子の生まれぬ不満があり、そのうえにアン・ブリンへの恋情が大きく作用して離婚を決意するに至ったが、教皇はこれを承認する態度をとらなかったため、教皇との親密な関係も長く続かなかった。その結果、ウルジーは罷免されてモアが大法官に就任したが、ヘンリーの意を受けて事を実際に推進したのはトマス・クロムウェルであった。1533年ヘンリーとアンとの結婚が実現、1534年「国王至上法」が議会を通過して、ヘンリーはローマ教皇の支配から離脱したイギリス国教会(イングランド教会)の最高首長となった。彼は、カトリックの正統性を信じ以上の経過を非としたモア、フィッシャーJohn Fisher(1469―1535)らを容赦なく処刑した。さらに彼は、クロムウェルの策をいれて修道院の解散を断行(1536、1539)、その財産を没収して国庫の充実を実現した。むろんこうした政策への抵抗もあり、その最大なるものが「恩寵(おんちょう)の巡礼」(1536~1537)であったが、その鎮圧後はかえって北部イングランドの帰属が確実なものとなった。

 他方、本来保守的なヘンリーは改革の大幅な前進を好まず、「十か条」(1536)や「六か条」(1539)の制定をもって国教会の前進を抑える歯止めとした。彼の目標は、結局イギリス的カソリシズムの定着にあった。王妃の座を得たアンはエリザベスを生んだが、その後姦通(かんつう)の汚名をもって1536年に処刑され、以後ジェーン・シーモアJane Seymour(1508/1509―1537)をはじめとしてさらに3人が王妃の地位を継承した。また、1540年にはクロムウェルが王の希望を十分にかなええなくなったことによって断罪を受け、彼の亡きあとは側近の顧問会議が王を補佐する状況となり、政治は生彩を失った。なお、スコットランドの完全帰服を実現するため、1542年10月開戦した。これがフランスとの衝突をも招来したが、ついに目的を達成しえなかった。彼は、とくに傑出した君主ではなかったが、ルネサンス君主の典型で、国教会の創設はやはり最大の偉業であり、しかもそれが議会の協力を得て行われ、そのため後の議会の、とりわけ庶民院(下院)の成長に役だつことともなった。

[植村雅彦 2018年1月19日]


ヘンリー(William Henry)
へんりー
William Henry
(1774―1836)

イギリスの医師、化学者。マンチェスターの化学工業家の家に生まれる。1795年エジンバラ大学入学。家業手伝いのため中退するが、再入学し、1807年医学博士。医師および家業の経営者として生計をたてながら科学研究をする。伝染病の化学物質原因説のような医学研究もあるが、アンモニア組成研究、ガス産業の発展に貢献した炭化水素混合物分析などの気体研究で大きな業績をあげた。とりわけ、ソーダ水製造のため炭酸ガスの水溶性を調べ、溶解度は気体圧力に比例するというヘンリーの法則をみいだす(1803)。また、彼の気体分析データは友人ドルトンの化学的原子論形成に大きな貢献をした。晩年には幼時に負った重傷がもとで神経を病み、自殺を遂げた。1801年に著した化学教科書は好評で版を重ねた。宇田川榕菴(ようあん)の『舎密開宗(せいみかいそう)』(1837~1847)はオランダ語訳からの重訳である。

[肱岡義人]


ヘンリー(Joseph Henry)
へんりー
Joseph Henry
(1797―1878)

アメリカの物理学者。オルバニー生まれ。貧しい家庭に育ち、苦学してオルバニー・アカデミーで工学を修め、同校で1826年より数学、自然哲学を教える。1829年から電磁石の研究に取り組み、電磁石の改良、電磁式電信機、モーター、電流計の発明を行う。1830年ファラデーとは独立に、電磁誘導を発見、さらに1831年には自己誘導を発見、これらは1832年に発表された。同年ニュー・ジャージー・カレッジ(現、プリンストン大学)の自然哲学教授となる。1846年新設されたスミソニアン・インスティチューションの初代所長となり、同研究所の基礎をつくった。灯台や気象データの収集、予報の組織化を行うなど、アメリカ科学振興のための行政に力を尽くした。太陽放射熱と黒点の研究も行った。

[高田紀代志]


ヘンリー(6世)
へんりー
Henry Ⅵ
(1421―1471)

ランカスター朝最後のイギリス王(在位1422~61、70~71)。ヘンリー5世の子。父の死により生後9か月で即位した。このため国政は後見役の大貴族の手に握られ、貴族の間で抗争が激化した。成人した王は32歳のとき精神に異常をきたし、やがて回復したが、国王支援派の指導者サマーセット公の摂政(せっしょう)就任から対立派ヨーク公が決起し、1455年ばら戦争が始まった。60年王はヨーク公に捕らえられ、公が王位継承者となったものの、翌年戦死したためその子エドワードが王位につき、エドワード4世としてヨーク朝を創始した。ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉され、70年王位に復したが翌年ふたたび捕らえられ、殺害された。ヘンリーは穏和な性格で教育に熱意を示し、イートン校(1440~41)やケンブリッジ大学キングズ・カレッジ(1441)を創設した。

[松垣 裕]


ヘンリー(7世)
へんりー
Henry Ⅶ
(1457―1509)

チューダー朝初代のイギリス王(在位1485~1509)。リッチモンド伯エドマンド・チューダーを父としてペンブローク城に生まれる。母はジョン・オブ・ゴーントの曽孫(そうそん)にあたるマーガレット・ボーフォート。彼の王位請求権はそこから生じた。ヘンリー6世の死によりランカスター派の頭領と認められたが、エドワード4世の圧力を受けて国外で暮らすことを余儀なくされた。1485年ウェールズに上陸、ボズワースの野でリチャード3世を破って即位、ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)と結婚してばら戦争に終結をもたらした。全治世を通じて王権の強化と国内秩序の維持に努め、「星室庁」を設置して強者の横暴を抑えた。とくに家臣に「仕着せ」を与えたり、法廷で家臣のためになされる「訴訟幇助(ほうじょ)」の禁止をもって封建貴族の勢力打破を図り、逆に中産階級の成長のために種々の施策を講じた。重商主義政策の採用はその重要な一環である。また、ヨーマン保護のためにエンクロージャー(囲い込み)を取り締まるための法を定めている。王自身、倹約を守って王室財政の基礎を固めた。外交面では大陸に干渉しないことを方針としていたが、強国スペインの支援を必要とするところから、1501年王子アーサーの妃にスペインの王女キャサリン(のちにヘンリー8世の最初の妃となる)を迎えた。

[植村雅彦]


ヘンリー(2世)
へんりー
Henry Ⅱ
(1133―1189)

イギリス王(在位1154~1189)。プランタジネット朝の始祖。フランスのアンジュー伯ジェフリーGeoffrey(ジョフロア。1113―1151)とヘンリー1世の娘マティルダMatilda(マティルド。1102―1167)との子。1150年母からノルマンディー公領を、翌年父の死後アンジュー伯領を継ぎ、1152年フランス王妃エリナー(アリエノール)と結婚してアキテーヌ公領を加え、さらにウィンチェスター条約によってスティーブンStephen王(1097?―1154、在位1135~1154)の死後イギリス王となり、イギリスとフランス西半分をあわせる広大な領土、いわゆる「アンジュー帝国」を支配した。各地の行政裁判制度を整え、イギリスでは1164年にクラレンドン法を出して教会裁判権を規制し、それに反対するカンタベリー大司教トマス・ベケットを殺害させた。また陪審員制を採用して大巡察制を発展させ、裁判行政の統一を図った。1173年イギリスと大陸で呼応する王子、貴族らの反乱に苦しんだが、晩年、アキテーヌをゆだねていた王子リチャード(後のリチャード1世)がフランス王フィリップ2世と連合して反乱を起こし、リチャードの王位後継を認めさせられて死没した。

[富沢霊岸 2022年12月12日]


ヘンリー(3世)
へんりー
Henry Ⅲ
(1207―1272)

プランタジネット朝のイギリス王(在位1216~72)。父王ジョンの死により9歳で即位したので、摂政評議会が設置され、有力諸侯が統治の実権を握った。王の親政は1234年に始まるが、母方と王妃の縁でフランス人の側近を寵愛(ちょうあい)したので貴族との衝突が絶えなかった。58年、王は末子エドマンドのためにシチリア王位を確保する目的で教皇インノケンティウス4世と協約を結んだ。しかし、これには貴族の支持がなく、同年、教皇アレクサンデル4世に約束の履行を迫られて窮地に立った王は、諸侯の援助と引き替えに大幅な国政改革案を含む「オックスフォード条項」を締結した。この結果王権は大幅な制限を受けたが、この条項の実施をめぐり諸侯の間に分裂が生じたとき、反国王派の急進的指導者シモン・ド・モンフォールは反乱を起こし、64年「諸侯(バロン)戦争」Barons' War(~65)が勃発(ぼっぱつ)した。王はシモンに捕らえられたが、王子エドワード(後の1世)がシモンを破った(1265)ため復権した。王の治世の後半は行政上の改革が相次ぎ、また議会に代議制が導入されるなど、国制史の面で重要な時期にあたる。

[松垣 裕]


ヘンリー(インダクタンスの単位)
へんりー
henry

国際単位系(SI)のインダクタンスの単位。記号はH。固有の名称と記号で表されるSI組立単位の一つ。電流が毎秒1アンペアの割合で変化するとき、1ボルトの自己または相互感応による起電力をつくるような回路のインダクタンスをいう。名称はアメリカの物理学者J・ヘンリーにちなんでつけられた。

[小泉袈裟勝・今井秀孝]


ヘンリー(5世)
へんりー
Henry V
(1387―1422)

ランカスター朝のイギリス王(在位1413~1422)。ヘンリー4世の長男。13歳にして早くも国政に関与し、15歳のとき、実戦の指揮をとった。即位後、初めはロラーズLollards(ウィクリフの教説信奉者)の反乱や貴族の陰謀が相次いだが、やがて反対派を鎮圧して治安を確立すると、念願の対フランス百年戦争を再開し、軍を大陸に進めた。1415年アザンクールの戦いに大勝利を収めて優位にたち、ノルマンディー地方を制圧した。当時、アルマニャック派ブルゴーニュ派との抗争が続いていたフランスは、結局イギリス軍に屈服し、1420年トロア条約を結んだ。これによりヘンリーはフランス王シャルル6世の王位継承者となり、また摂政に任じられて王女カトリーヌCatherine of Valois(1401―1437)と結婚した。しかし、両王国の併合を実現するかにみえたこの成功も長く続かず、条約に従わぬ諸地方の討伐中ヘンリーは病死した。勇敢な武人、有能な為政者として歴代のイギリス諸王のなかでも高い評価が与えられている。

[松垣 裕 2023年1月19日]


ヘンリー(1世)
へんりー
Henry Ⅰ
(1068―1135)

イギリス王(在位1100~1135)。ノルマン朝を開いたウィリアム1世の四男。次兄ウィリアム2世の死後に即位。その戴冠(たいかん)式に善政を誓う自由憲章を発布した。十字軍より帰った長兄ロバートRobert(ノルマンディー公。1054?―1134)と争い、1106年タンシブレーで兄を破ってノルマンディー公領を併合した。フランスの攻勢に備えて娘マティルダMatilda(マティルド。1102―1167)を神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁がせた。財務府を中心に中央政府を整え、四部法典を編纂(へんさん)させ、巡回裁判官を派遣して裁判行政を強化した。1120年王子ウィリアムを海難事故で失い、1125年にはハインリヒ5世が死んでマティルダが帰国。1128年にマティルダをアンジュー伯ジェフリーGeoffrey(ジョフロア。1113―1151)と再婚させたが、晩年は不幸であった。

[富沢霊岸 2022年12月12日]


ヘンリー(4世)
へんりー
Henry Ⅳ
(1366―1413)

ランカスター朝初代のイギリス王(在位1399~1413)。ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの長男。プランタジネット朝のリチャード2世に対する忠誠を疑われて追放されたが、1399年、父が死没し広大な家領を王に没収されるに及んでフランスから急ぎ帰国し、兵を集めて王を降伏させた。ヘンリーは王位継承を要求し、議会もリチャードの廃位を宣言したので、同年9月ヘンリーが即位し、ランカスター朝が創始された。しかし、王位は安定せず、ウェールズ人の蜂起(ほうき)や貴族の反乱が絶えなかった。また、百年戦争を継続し、スコットランドとも戦うために必要な戦費を調達しようとして議会とも反目した。

[松垣 裕]


ヘンリー(Patrick Henry)
へんりー
Patrick Henry
(1736―1799)

アメリカ独立革命期の政治家。1760年以降バージニア植民地で弁護士活動を続け有名となる。65年植民地議会議員となり印紙法反対運動に参加。75年バージニア議会で行った「自由か死かの演説」Liberty Speechで独立を主張した。この演説中イギリスの諸政策を、植民地人の奴隷化を図るものであるととらえて、「私に自由か、しからずんば死を与えよ」と述べた部分はとくに有名。76~79年邦知事を務めた。

[島川雅史]

『今津晃著『アメリカ独立革命』(1974・至誠堂)』


ヘンリー(エンリケ(航海王子))
へんりー

エンリケ(航海王子)


ヘンリー(Robert Henri)
へんりー

ヘンライ

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改訂新版 世界大百科事典 「ヘンリー」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー
Patrick Henry
生没年:1736-99

アメリカ独立革命の指導者。バージニア辺境農民の出身。パトリック・ヘンリーは1760年独学で弁護士資格をとって開業し,63年〈牧師報酬訴訟事件〉で,イギリス国教会牧師の報酬にあてられていたタバコの価格決定権は,バージニア自由人の権利だと雄弁に論じて有名となり,65年同植民地議会議員となった。通貨規制法に反対し,印紙税法反対決議案で全アメリカに著名となり,74年の第1回大陸会議のバージニア代表として各植民地急進派と協力して,植民地人の自由と権利を主張した。75年3月23日のリッチモンド非合法議会で軍事防衛決議案を提出し,〈自由か死かGive me liberty,or give me death.〉の演説を行った。76年バージニア憲法制定会議に参加し,初代知事(1776-79,再選84-86)に選ばれた。合衆国憲法案反対の指導者で,バージニア邦批准会議でも強く反対し,憲法本文修正と権利章典の条件をつけた。G.ワシントンよりの連邦政府国務長官や最高裁判所長官への就任要請も断った。
執筆者:


ヘンリー
Joseph Henry
生没年:1797-1878

アメリカの物理学者。ニューヨーク州オールバニーの生れ。生地で教育を受け,1826年に母校オールバニー・アカデミーの数学,自然哲学の教授となる。強力な作用で注目されたW.スタージョンの電磁石を改良し,さらに強力な電磁石を作り,これを用いた実験から,30年M.ファラデーと独立に電磁誘導を発見,同年振動型の電動機,31年電磁式電信機を製作した。32年にはファラデーに先んじて電流の自己誘導を発見し,その後の電磁気学の発展に大きな役割を果たした。1832-46年プリンストン大学の前身カレッジ・オブ・ニュージャージーの物理学教授を務め,46年にはスミソニアン研究所の初代所長となる。この間ライデン瓶の放電による電磁振動の研究,太陽黒点の熱放射の熱電堆による観測などを行い,とくにスミソニアンでは,アメリカにおける天気予報の基礎作りをはじめとして,科学知識の増加と普及のために努めた。1868-78年アメリカ科学アカデミー会長。
執筆者:


ヘンリー
William Henry
生没年:1774-1836

イギリスの化学者。マンチェスターに生まれ,1795年エジンバラ大学に進み,J.ブラックの化学の講義を聞く。96年マンチェスター文芸・哲学協会会員となり,化学の研究を始めた。1803年に気体の溶解度に関する〈ヘンリーの法則〉を発表した。これは友人J.ドルトンの原子論の形成に示唆を与えたといわれている。09年にはアンモニアの組成などに関する研究を行っている。そして化学の実験的研究を24年まで続けたが,晩年は病におかされ自殺した。なお,宇田川榕菴訳《舎密開宗(せいみかいそう)》(1837)はヘンリーが出版した化学教科書《化学入門An Epitome of Chemistry》(第2版,1801)のオランダ語訳を,さらに邦訳したものである。
執筆者:


ヘンリー
henry

国際単位系における自己および相互インダクタンスの単位。記号H。電流が1秒間に1Aの割合で減少するとき,1Vの起電力を生ずる閉回路のインダクタンスをいう。また1Aの電流を通ずるとき,1Wbの磁束を生ずる回路のインダクタンスでもある。アメリカの物理学者J.ヘンリーにちなんで名付けられた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘンリー」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー
Henry, Joseph

[生]1797.12.17. アメリカ,ニューヨーク,オールバニ
[没]1878.5.13. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの物理学者。ニューヨーク州のオールバニ・アカデミーで学ぶ。同アカデミー教授を経て,プリンストン大学教授 (1832~46) 。ワシントン D.C.のスミソニアン・インスティテューションの初代所長 (46) 。 1829年導線を絶縁することによって強力な電磁石をつくることに成功。 30年,M.ファラデーよりも早く電磁誘導を発見したが,発表が遅れたためその功をファラデーに譲った。しかし自己誘導の発見ではファラデーに先んじていたし,電動機をつくったのもヘンリーであった。ライデン瓶の放電による電磁振動を観察 (42) 。太陽黒点の熱放射が太陽の他の部分よりも少いことを観測 (45~47) 。 S. F. B.モースの電信符号の発展に助力したり,スミソニアン・インスティテューション所長として,天気予報のための気象観測網の設立に努力し,幅広くアメリカの科学振興に尽力した。電磁誘導係数 (インダクタンス) の単位ヘンリーは彼の名にちなんでいる。

ヘンリー
Henry, O.

[生]1862.9.11. ノースカロライナ,グリーンズバラ
[没]1910.6.5. ニューヨーク
アメリカの作家。本名 William Sidney Porter。生地のドラッグストアで働いたのち,1882年テキサス州におもむき,オースティンの銀行に勤めるかたわら,短編を書き,また自分の雑誌を刊行したが,96年銀行の公金横領の罪に問われるという謎の事件が起り,ニューオーリンズからホンジュラスに逃亡。しかし妻の病気の知らせを受けてオースティンに戻り,3年3ヵ月服役。獄中で娘の養育費のために短編を書いて名声を得,出獄後ニューヨークに出て作家生活を始めた。ホンジュラスを舞台にした『キャベツと王様』 Cabbages and Kings (1904) ,ニューヨークの市井の生活を描いた『400万』 The Four Million (06) などに収められた数百に上る短編を書き,特に『賢者の贈り物』 The Gift of the Magi (05) ,『最後の一葉』 The Last Leaf (05) などが有名。独特のユーモア,ペーソス,皮肉,巧みな筋立てと意外な結末が特色。作家としての名声にもかかわらず,病気とアルコール中毒により不幸な晩年をおくった。

ヘンリー
Henry, William

[生]1775.12.12. マンチェスター
[没]1836.9.2. ペンドルバリー
イギリスの化学者。マンチェスター・アカデミーを経て,エディンバラ大学で医学を修め,1807年学位取得。 03年,液体に対する気体の溶解度についてヘンリーの法則を発見。 J.ドールトンとの交友を通じて,原子論の発展に貢献した。ロイヤル・ソサエティ会員 (1809) 。少年時代に事故のため大けがをし,晩年も病気がちで不眠症に悩まされて,ついにみずから命を絶った。著書"The Elements of Experimental Chemistry" (2巻,1799) は,A.イペイのオランダ語訳本 (1808,アムステルダム版。ドイツ語訳本からの重訳) から宇田川榕庵によって『舎密開宗』 (21巻,37~47) として翻訳された。

ヘンリー
Henry, Patrick

[生]1736.5.29. バージニア,スタドリー
[没]1799.6.6. バージニア,ブルックニール
アメリカの政治家,雄弁家,革命家。独学で弁護士の資格を取り,1765年にバージニア植民地議会議員に当選,同年の印紙税法に反対決議案を提出して雄弁をふるい,一躍反英運動の指導者となった。 75年イギリスの抑圧政策に対して戦争準備を訴える演説のなかで「われに自由を与えよ。しからずんば死を」という名文句を吐いた。 74年大陸会議代表,76~79,84~88年バージニア州知事。その間バージニア法改正委員をつとめた。 88年連邦憲法草案の批准会議で強力な反対論を展開,連邦憲法修正 10ヵ条の付加に貢献した。

ヘンリー
Henley, William Ernest

[生]1849.8.23. グロスター
[没]1903.7.11. ウォキング
イギリスの詩人,ジャーナリスト。雑誌記者として出発したが,骨髄結核で片足を切断。入院中に書いた自由詩は『詩の本』A Book of Verses (1888) に収められた。 1889年,保守的な雑誌『スコッツ・オブザーバー』 (のち『ナショナル・オブザーバー』) の主筆となり,キップリングらのグループのリーダーとして活躍した。また R.L.スチーブンソンの友人で,『宝島』のロング・ジョン・シルバーは一部ヘンリーをモデルにしたもの。ほかに『病院にて』 In Hospital (1903) など。

ヘンリー
henry

インダクタンスの SI組立単位。記号はH。 1Hは毎秒 1Aの割合で一様に変化する電流によって 1Vの起電力を生じる電気回路のインダクタンスである。単位名は J.ヘンリーの名にちなむ。

ヘンリー
Henry, Matthew

[生]1662
[没]1714
イギリスの聖書学者。非国教主義者で,多数の説教を書いた。主著『旧約および新約聖書注解』 Exposition of the Old and New Testaments (1708~10) 。

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化学辞典 第2版 「ヘンリー」の解説

ヘンリー
ヘンリー
Henry, William

イギリスの化学者.マンチェスターに生まれる.1795年エジンバラ大学に入学したが,翌年,家業の化学製造業を手伝うためにマンチェスターに戻る.1796年マンチェスター文芸哲学協会に入会し,化学のオリジナルな研究をはじめる.1805年エジンバラ大学に復学し,1807年尿酸に関する研究で医学博士号を取得.気体の溶解度に関する“ヘンリーの法則”(1802年ロイヤル・ソサエティで発表,翌年出版)とJ. Dalton(ドルトン)との交友で知られ,1808年にロイヤル・ソサエティ会員に選出され,同会のコプリ・メダルを授与される.初心者向けの化学実験書An Epitome of Chemistry in Three Parts(初版1801年)はいくども再版され,数か国語に翻訳された.同書のオランダ語版(1803年)は,宇田川榕菴が訳述した「舎密開宗」(1837~1847年)の基本テキストである.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

百科事典マイペディア 「ヘンリー」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー

米国の物理学者。オルバニー・アカデミーに学び,1826年同校教授,1832年―1846年プリンストン大学教授,1846年スミソニアン研究所初代所長。1830年ファラデーと独立に電磁誘導を発見,強力な電磁石を製作,1831年モースより前に電磁方式の電信機を考案,1832年自己誘導を発見。また気象通報を組織化,天気図,科学的天気予報方式を創始,太陽黒点の熱放射を観測。インダクタンスの単位ヘンリーは彼にちなむ。

ヘンリー

英国の化学者。エディンバラ大学で医学を学び,父の設立した化学工場を経営。1803年友人ドルトンとともにヘンリーの法則を発見。彼の著書である化学教科書《Elements of Experimental Chemistry》(1799年)のオランダ語訳は,宇田川榕庵の《舎密開宗(せいみかいそう)》の原本。自殺。

ヘンリー

米国建国期の政治家。植民地議会議員として印紙税法反対を主張,その後反英独立運動の急先鋒(せんぽう)として活躍。独立戦争中バージニア州初代知事(1776年―1779年,1784年―1786年)などを務めたが,連邦政治の舞台では活動しなかった。1775年の〈自由か死か〉の演説が有名。→アメリカ独立革命

ヘンリー

オー・ヘンリー

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知恵蔵 「ヘンリー」の解説

ヘンリー

SIのインダクタンスの単位。固有の名称を持つ組立単位で、米国の物理学者J.ヘンリーの名にちなむ。インダクタンスは、電磁誘導起電力と電流の時間的変化の比を表す量で、その単位ヘンリーは毎秒1 Aの電流変化によって1 Vの起電力を生じるインダクタンス。

(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)

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単位名がわかる辞典 「ヘンリー」の解説

ヘンリー【henry】

誘導係数(インダクタンス)の国際単位。記号は「H」。1Hは毎秒1Aの割合で電流が変化するとき、自己誘導または相互誘導によって1Vの起電力を生じる回路の誘導係数。◇名称は、アメリカの物理学者ヘンリーにちなむ。

出典 講談社単位名がわかる辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のヘンリーの言及

【スミソニアン協会】より

…この理事会が,協会の実際上の最高責任者である所長を選び任命する。 初代所長には電磁気学の研究で有名な物理学者J.ヘンリーが就任した。彼は,知識の増進のために〈独創的な研究能力をもった人々に研究費を提供し〉,知識の普及のために〈科学の諸分野の進歩に関する定期的な刊行物を出版する〉ことによって,スミッソンの遺志の実現に努めた。…

※「ヘンリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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