上野(東京都)(読み)うえの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野(東京都)」の意味・わかりやすい解説

上野(東京都)
うえの

東京都台東区(たいとうく)の西半部、上野公園、不忍池(しのばずのいけ)、上野広小路付近の総称。かつて忍ヶ岡(しのぶがおか)とよばれていたが、江戸幕府が開かれたとき、伊賀国(三重県)上野の城主藤堂高虎(とうどうたかとら)の屋敷があり、高虎が自分の所領伊賀上野をしのんで命名したという伝えがある。しかし、室町時代の1559年(永禄2)『小田原衆所領役帳』に「低野に対する草茂りたる丘」として上野の名がみえ、坂本村(現、下谷(したや)ほか)の1591年(天正19)水帳(みずちょう)に上野郷(ごう)ともある。

 上野の開発は、江戸幕府が江戸城鎮護のため1625年(寛永2)東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)を建立したときより始まり、山手(やまのて)台地末端を京都の比叡山(ひえいざん)になぞらえ、不忍池を近江(おうみ)の琵琶(びわ)湖に見立てて、天台宗本山延暦寺(えんりゃくじ)に対抗できる関東の天台宗本山とするため、延暦寺をしのぐ特権も与えられた。寛永寺には、芝(しば)の増上寺(ぞうじょうじ)とともに幕府歴代将軍の霊廟(れいびょう)がつくられ、霊廟からは寺領が一望にできた。その寛永寺領は寺域120万平方メートル、現在の上野公園はその約半分であることと考えあわせ、実に広大なものであった。また、その寺領は、最盛期1万1790石に達し、その範囲は、田端(たばた)、赤羽(あかばね)にまで及んでいた。さらに諸大名寄進が相次ぎ、堂塔、宿坊が次々に建ち、1698年(元禄11)には根本(こんぽん)中堂を含む大伽藍(がらん)となっていた。根本中堂は、元禄(げんろく)の大火で焼失したが、ただちに再建され、1868年(慶応4)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)(上野戦争)で再度焼失するまでその威容を誇った。支配総祠堂(しどう)は32宇(う)、子院36坊、七堂伽藍を連ねた一大霊域であった。元禄年間(1688~1704)この霊域も一般に開放され、大和(やまと)の吉野山から移植したサクラが、上野をサクラの名所として、今日に及んでいる。

 現在の上野は、東京の北の玄関口としての役割を担っているが、第二次世界大戦後の東京の都市化は武蔵野(むさしの)台地の西方へと発展が著しいため、かつての副都心としての地位は低下した。しかし、上野公園にある東京国立博物館、上野動物園、国立西洋美術館など各種文化施設を中心とした芸術・文化センター、上野広小路周辺の繁華街とアメヤ横丁を中心としたショッピングセンターとしての性格は強く残っている。また、谷中(やなか)や池之端(いけのはた)付近は第二次世界大戦の戦災も受けず、古い江戸の情緒をいまに残して、下町ファンに愛されている。

 上野駅は1883年(明治16)日本鉄道会社の上野―熊谷(くまがや)間の営業開始と同時に開業、現在はJRの東北本線、常磐線(じょうばんせん)、高崎線、京浜東北線、山手(やまのて)線、上野東京ラインや東京地下鉄銀座線・日比谷(ひびや)線、京成電鉄線などが乗り入れるうえ、1985年(昭和60)には東北・上越新幹線(とうほくじょうえつしんかんせん)が、その後、山形・秋田・北陸(長野)・北海道の各新幹線が相次いで通じている。付近には、駅開業とともに日本橋周辺から移った旅館を中心に土産物(みやげもの)店、食堂、映画館、演芸場などが多く独特の雰囲気を醸し出している。

[菊池万雄]

『『上野と浅草 台東区誌』(1951・台東区)』『『上野繁昌史』正続(1963、1968・上野観光連盟)』『酒井不二雄著『東京路上細見3――上野・御徒町・谷中・入谷・根岸』(1988・平凡社)』『新潮社編『江戸東京物語――上野・日光御成道界隈』(1997・新潮社)』


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