江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)作者。本名杉森信盛(のぶもり)。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移(ふい)山人。承応(じょうおう)2年越前(えちぜん)吉江藩士杉森信義(のぶよし)の二男として福井に生まれたが、父が浪人となったため、近松15、16歳のころ家族とともに京都に移り、公家(くげ)の一条恵観(えかん)家(正親町(おおぎまち)家、阿野(あの)家とも)に仕えた。20歳のとき主人の死にあったのを機に主家を辞した。その後作者になるまでの消息は明らかでないが、一時近江(おうみ)国(滋賀県)の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。その時期に和漢の古典を学び、仏教に関する知識も習得したものと思われる。そして1677年(延宝5)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となったらしい。武士の出の近松が、賤視(せんし)されていた芸能の世界へ身を投じたのは、当時としては思いきった転身であったが、結果的には幸いした。以来72歳で没するまでの四十数年間に、歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話浄瑠璃24編を書き、日本最大の劇詩人とたたえられる輝かしい業績を残した。その作家活動は、だいたい四つの時期に分けられる。
[山本二郎]
浄瑠璃作者になってから1692年(元禄5)、近松40歳ごろに至るいわば習作時代である。加賀掾のために書いたと推定される『以呂波(いろは)物語』『赤染衛門栄花物語(あかぞめえもんえいがものがたり)』『世継曽我(よつぎそが)』など十数編の古浄瑠璃、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書いた『出世景清(しゅっせかげきよ)』『天智(てんじ)天皇』『蝉丸(せみまる)』などがある。なかでも1685年(貞享2)の『出世景清』は従来の浄瑠璃に新風を吹き込み、浄瑠璃の歴史を新旧に二分するほどの画期的な作で、それ以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と称するようになった。しかし、このころの近松は、経済的には都万太夫(みやこまんだゆう)座の道具直しや、堺(さかい)で講釈師をして生計をたてるような厳しい生活だった。
[山本二郎]
1693年41歳から1703年51歳ごろまでの、おもに歌舞伎狂言を書いた時代である。近松は貞享(じょうきょう)(1684~88)初年ごろから京都の都万太夫座で歌舞伎作者の修業をしたと伝えられるが、1693年ごろからおもに名優坂田藤十郎(とうじゅうろう)のために歌舞伎狂言を書いた。『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』『夕霧七年忌』『大名なぐさみ曽我』『一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)』『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などを書き下ろし、元禄(げんろく)歌舞伎隆盛の基礎をつくった。それらはだいたい御家騒動の世界を扱い、神仏の霊験譚(れいげんたん)を取り入れてはいるが、中心は廓(くるわ)の場面におけるやつし事、傾城事の世話的な場景を写実的に描いたものであった。こうした、浄瑠璃よりはるかに現代性の濃い歌舞伎での経験は、世話浄瑠璃を創始するうえに大いに役だった。
[山本二郎]
世話浄瑠璃中心の時代で、最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を執筆した1703年51歳から、義太夫(筑後掾(ちくごのじょう))が没した14年(正徳4)62歳ごろまで。曽根崎の心中は事件直後ほうぼうの歌舞伎で上演されたが、近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み、世話浄瑠璃のジャンルを創始した。この作の興行は大成功で、竹本座はこれまでの負債を一挙に返済することができた。これを機にやがて筑後掾は座本(ざもと)の位置を竹田出雲(いずも)に譲ったが、引き続き太夫として活躍、近松は竹本座の座付作者となって浄瑠璃に専念することになった。そしてこの期には『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『五十年忌歌念仏(うたねぶつ)』『心中重井筒(かさねいづつ)』『心中万年草(まんねんそう)』『丹波(たんば)与作待夜(まつよ)の小室節(こむろぶし)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『夕霧阿波鳴渡(あわのなると)』などの世話浄瑠璃16編と、『用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』『傾城反魂香(はんごんこう)』『碁盤太平記』『嫗山姥(こもちやまんば)』などの時代浄瑠璃がつくられた。世話浄瑠璃を確立したことは、その後の浄瑠璃を複雑多彩なものにすることになったのでその意義は大きい。
[山本二郎]
晩年の円熟大成した時代で、竹本政太夫(まさたゆう)(2代目義太夫)をもり立てて健筆を振るった。1714年に筑後掾が没して竹本座は危機を迎えたが、翌年座本出雲の意見を取り入れて書いた『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が、3年越し17か月の大当りをとり、座の経営は安泰した。その後近松はいよいよ円熟した筆で、時代浄瑠璃では『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』『平家女護島(にょごのしま)』『信州川中島合戦』など、世話浄瑠璃では『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』『山崎与次兵衛寿(やまざきよじべえねびき)の門松(かどまつ)』『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』『心中天網島(てんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』『心中宵庚申(よいごうしん)』などの名作を残した。そして24年(享保9)正月に上演された『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』を絶筆として、同年11月22日72歳で没した。尼崎(あまがさき)市の広済寺(こうさいじ)に墓があり、また近松記念館が設けられている。なお、大阪市中央区法妙寺(妻の実家の菩提(ぼだい)寺)跡にも墓だけ残っている。
近松は古浄瑠璃を当世風に改めて浄瑠璃を大成させたが、時代浄瑠璃では本来の夢幻性のなかに浪漫(ろうまん)的な要素と現実的な要素を巧みに調和させ、世話浄瑠璃では義理と人情との相克のうちに生きる庶民の姿を、生き生きとしかも愛情をもって描き、人々の心を動かした。それらの作の多くは不変の人間性を深く追求しているため、現代的生命をもち続けているものが少なくない。またその構想、趣向、文章が後世の戯曲に大きい影響を与えていることも、彼の偉大さを物語るものであろう。ただ『冥途の飛脚』『心中天網島』など上演度の高い作品は、原作のままの上演は初演だけで、その後は後人の入れ事の多い改作物が舞台に上(あが)っていた。これは近松以後の時代には演劇性に富んだはでな作が多くなり、それに対応して改作が行われたものと思われる。第二次世界大戦後は近松再検討の声がおこって原作による上演が増えてきている。なお、穂積以貫(ほづみこれつら)の『難波土産(なにわみやげ)』にみられる「芸は虚(うそ)と実(じつ)との皮膜(ひにく)の間にあり」という近松の芸術観は、彼の演劇に対する態度を明らかにしたことばとして有名である。
[山本二郎]
『『近松全集』全12巻(1925~28・大阪朝日新聞社)』▽『『近松歌舞伎狂言集』全2巻(1927・六合館)』▽『『日本古典文学大系 49・50 近松浄瑠璃集 上下』(1958、59・岩波書店)』▽『『日本古典文学全集 43・44 近松門左衛門集』(1972、75・小学館)』▽『守随憲治訳注『近松世話物集』(1976・旺文社)』▽『広末保著『近松序説』(1957・未来社)』▽『河竹繁俊著『近松門左衛門』(1958・吉川弘文館)』▽『『国語国文学研究史大成 10 近松』(1964・三省堂)』▽『重友毅著『近松の研究』(1972・文理書院)』▽『諏訪春雄著『近松世話浄瑠璃の研究』(1974・笠間書院)』
浄瑠璃作者。歌舞伎作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉,長じて通称平馬。ほかに平安堂,巣林子(そうりんし),不移山人などの号がある。近松は父の杉森信義が越前吉江藩の幼主に仕えて福井に在住していたとき次男として生まれたらしいが,父が浪人したため15~19歳のころに一家とともに京都に移住し,やがて後水尾帝の弟一条恵観(えかん)に仕えた。また正親町(おおぎまち)公通らの公家に仕えたともいう。この間,近松は和漢の古典的教養を身に付けたと思われるが,人形浄瑠璃の世界に接近したのもこの時期であった。当時,公家たちのあいだに人形浄瑠璃の愛好家が少なくなく,近松は正親町公通の使いで宇治加賀掾のもとに出入りしていたことから浄瑠璃を書き始めたとの伝えもある。もっとも,恵観没(1672)後の動静はあきらかでなく,近江の近松(ごんしよう)寺に遊学したともいわれ,近松門左衛門の筆名の由来をそこに見る説もある。いずれにせよ近松の浄瑠璃作者としての活動は加賀掾のもとで始まるが,その加賀掾のために書いた《世継曾我》(1683)が,翌84年(貞享1)大坂道頓堀で旗揚げした竹本義太夫によっても語られて評判になり,作者としての地位を確保する。このころから元禄(1688-1704)初年にかけて加賀掾と同時に義太夫のために作品を書くことになるが,竹本義太夫との出会いは,その後の近松にとって決定的な意味をもつことになる。ちなみに85年,竹本義太夫のために書いた《出世景清》は,古浄瑠璃と当流浄瑠璃とを画す浄瑠璃として評価されている。だが近松は貞享(1684-88)のころすでに歌舞伎作者でもあった。ただし歌舞伎作者として精力的に活躍しだすのは,坂田藤十郎が京都の都万太夫座の座本になり,その座付作者に迎えられた95年(元禄8)ごろからで,《傾城(けいせい)仏の原》(1699)や《傾城壬生大念仏》(1702)が書かれ,それを演じた藤十郎は〈古今濡事の開山,けいせい買の元祖〉と評された。そのころ,人形浄瑠璃よりも歌舞伎が流行していた。伝統的な語り物から発展してきた人形浄瑠璃に比べて歌舞伎の方が,より近世的,より当世風だったからだろうが,そうした動向のなかで近松が歌舞伎作者として活躍できたのは,藤十郎の協力があったからでもあった。歌舞伎の作劇法は役者本位である。そして近松といえども歌舞伎作者である以上,その作劇法から自由ではありえないが,それでも藤十郎は近松の書いた狂言の仕組みを役者のわがままをいれて改変するなどということはしなかった。近松はその藤十郎のもとで自分の能力を最大限に発揮できた。当時としては稀な協力関係がそこには成立していた。しかし近松は再び浄瑠璃作者へと移行していく。
1701年(元禄14)藤十郎は座本の地位を退いたが,やがて病気がちになって芸も衰えが見えはじめる。近松はよき理解者,よき協力者を失うことになるが,折から,竹本義太夫のために書いた《曾根崎心中》(1703)が大当りを取る。しかもそれは彼自身の新しい作劇法の成功を物語るものでもあった。すでにその年の4月,曾根崎の心中事件は歌舞伎に仕組まれ上演されていた。殺しや心中といった生臭い世俗の事件は当世的な歌舞伎によりふさわしい題材であったが,歌舞伎作者でもあった近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み,新しい世話悲劇へと発展させた。一方,《曾根崎心中》の興行的な成功によってそれまでの負債を一挙に返すことのできた義太夫は,それを機会に座本の位置を退き,替わって竹田出雲が竹本座の経営に当たることになるが,近松はその座付作者となり,竹本座再発足の旗揚げとして上演された《用明天王職人鑑》(1705)を書いた。この年のはじめ近松は京から大坂に移住しているが,座付作者として執筆に専念できるようになった近松は義太夫,出雲と協力して,これより本格的な作者活動を展開しはじめる。世話浄瑠璃に,《堀川波鼓》《五十年忌歌念仏》《丹波与作待夜の小室節》《冥途の飛脚》《夕霧阿波鳴渡》《長町女腹切》,時代浄瑠璃に,《用明天王職人鑑》に続いて《雪女五枚羽子板》《傾城反魂香》《百合若大臣野守鏡》《碁盤太平記》《大職冠》《嫗山姥(こもちやまんば)》など。また義太夫没(1714)後は,後継者政太夫(2世竹本義太夫)のために,世話では,《大経師昔暦》《鑓の権三重帷子》《山崎与次兵衛寿の門松(ねびきのかどまつ)》《心中天の網島》《女殺油地獄》《心中宵庚申》を,時代では,《国性爺合戦》《平家女護島》《津国女夫池》《信州川中島合戦》などを書く。政太夫は情を細かく語り分ける太夫だったが,政太夫時代の近松の作品は,その語りくちを生かしている。
時代と世話では作劇法も異なる。しかし両者に一貫した作劇法も指摘できるわけで,それは〈義理〉の作劇法であった。〈某(それがし)が憂(うれい)は義理を専(もつぱ)らとす。芸のりくぎが義理につまりてあはれなれば,節(ふし)も文句もきつとしたる程いよいよあはれなるもの也〉と近松はいう。ここで義理とは,道徳的な意味の義理ではなく,状況と葛藤を,そうなるしかないように積み重ね追い込んでいくという意味での義理だが,近松はこの作劇法によって〈語り物〉を〈ドラマとしての語り物演劇〉へと転換させた。語りのことばをドラマのことばに変革したといってもよい。そしてそれは〈正根なき木偶(にんぎよう)〉に〈情(じよう)〉をもたせるような文句を発明するということでもあった。これら近松の芸論に類するものは浄瑠璃評釈書《難波土産》(1738)によって知られるが,そこには有名な〈虚実皮膜(ひにく)の論〉なども書きとめられている。
近松は作者となったが,それは武士の家に出て,賤視されていた芝居者の世界に身を投じることによってであった。しかもその作者は役者や太夫の背後にかくれた存在であった。二重の意味でそれは,まともな職業ではなかった。近松はすでに貞享年間,作者名を表に出しているが,そのため嘲笑されたりもしている。だが近松にとって作者名を出すということは,作者としての相対的な自立性を主張するということであり,同時に社会的に公認されることのないその職業を自覚的に選びとるということであった。辞世文のなかで近松は自分のことを〈世のまがいもの〉と呼んでいるが,それは既存の秩序,既存の価値体系からはみ出すことによって演劇史の転換期を生きぬいたものの,自嘲めかした自負のことばだったと思われる。
執筆者:廣末 保
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(信多純一)
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(山本健一 演劇評論家 / 2007年)
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1653~1724.11.22
江戸前・中期の浄瑠璃・歌舞伎の作者。本名杉森信盛。号は巣林子(そうりんし)。越前国吉江藩士の次男に生まれたが,父が牢人となり京都に移住。士分を捨てる決意をし,宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで浄瑠璃作者の修業を始める。1683年(天和3)の加賀掾正本(しょうほん)「世継曾我(よつぎそが)」が,確実作の最初といわれる。貞享年間には2歳年上の竹本義太夫との提携を始め,作者としての地位を築いた。93年(元禄6)から約10年間,坂田藤十郎と提携して歌舞伎作者として活躍。1703年,最初の世話浄瑠璃「曾根崎心中」の大当りを機に浄瑠璃作者に復帰,竹本座専属作者として活躍する。作品数は浄瑠璃が90余編(うち世話物が24),歌舞伎が約30編。ヒューマニズムにもとづく人間ドラマに特色があり,「作者の氏神」として後世に多大な影響を与えた。
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…ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。嘉吉の乱【鳥居 和之】
[伝承と作品化]
赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。…
… 最初は1712年(正徳2)春,大坂竹本座初演の《夕霧阿波鳴渡》。近松門左衛門作。世話物。…
…角書〈嘉平次おさが〉。近松門左衛門作。1715年(正徳5)5月大坂竹本座初演。…
…世話物3巻。近松門左衛門作。1721年(享保6)竹本座初演。…
…また富永平兵衛(生没年不詳。延宝~元禄ごろの歌舞伎作者)や近松門左衛門によって,狂言作者が独立の職掌になったこと,役者評判記の記事が容色中心から技芸評へと転換したことなどが,この時期に演劇としての飛躍的な発達を遂げたことを物語っている。
[人形浄瑠璃との交流]
享保(1716‐36)から宝暦(1751‐64)にかけて,歌舞伎は沈滞期を迎えた。…
…芭蕉によってはじめて俳諧も高い芸術性が与えられた。浄瑠璃では,近松門左衛門のそれに以前の古浄瑠璃には見られなかった〈血の通った人間〉が描かれるようになる。彼の人間,社会への認識の深さがそれを裏づけている。…
…5段。近松門左衛門作。1724年(享保9)1月大坂竹本座初演。…
…義太夫は井上播磨掾の系統をひき,宇治加賀掾の技法・曲節を摂取して,人間を語る近世的な浄瑠璃を確立した。1705年(宝永2),座付作者に近松門左衛門を迎えたことも,日本の芸術史上,意義深いものがあった。竹本義太夫の後継者となった竹本政太夫(播磨少掾)によって,人間,とくに情を深く語るという義太夫節の特色がいっそう明確になった。…
…歌論でいう〈花〉は,外面的修飾や理想化されたイメージを意味し,〈実〉は内面的真情やありのままの事実を意味するが,その究極的理想は花実相兼である。その伝統を継ぐ虚実相兼論としては,たとえば近松門左衛門のいわゆる虚実皮膜の論,〈芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。(略)虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。…
…三番続き(3幕)。近松門左衛門作。1695年(元禄8)3月京の早雲座で初演。…
…時代物。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…
…3幕。近松門左衛門作。1699年(元禄12)正月京の都万太夫座上演。…
…三番続き。近松門左衛門作。1702年(元禄15)正月京の都万太夫座上演。…
…5段。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…
…通称《しゃべり山姥》。近松門左衛門作。1712年(正徳2)7月大坂竹本座初演。…
…角書〈源五兵衛おまん〉。近松門左衛門作。《外題年鑑(明和版)》は1704年(宝永1)正月大坂竹本座初演とするが不確実。…
…時代物。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…
…初めは素朴な物語的音楽であり,伴奏には扇拍子や琵琶,後には三味線が使用された。操り人形も加わるにいたって独特の語り物による楽劇形態を完成し,ことに中世諸芸能の統合のうえに,近松門左衛門の詞章,義太夫節の曲節につれて舞台の人形が操られるとき,浄瑠璃は近世的・庶民的性格をもつ音楽・文学・演劇の融合芸能として登場した。近松門左衛門の活躍時代において文学性が最も高くなり,その後人形舞台の発達につれて舞台本位の演劇性を高度にもつにいたる。…
…3巻。近松門左衛門作。1707年(宝永4)末,大坂竹本座初演。…
…人形浄瑠璃。近松門左衛門の最晩年期を代表する作品の一つ。1721年(享保6)8月大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1720年(享保5)大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1710年(宝永7)4月大坂竹本座初演。…
…これらの心中事件は同時に歌謡にもうたわれ,《松の葉》(1703),《松の落葉》(1710)などに収められている。浄瑠璃では,元禄年代の末に上(揚)巻助六の情死を扱った《千日寺心中》などの作品が生まれていたが,1703年に近松門左衛門の世話浄瑠璃の初作《曾根崎心中》が上演されると,浄瑠璃だけではなく,歌舞伎でも歌謡でも空前の心中物ブームが訪れた。近松自身も《心中二枚絵草紙》《卯月紅葉》《心中重井筒(かさねいづつ)》《心中万年草》とたてつづけに心中物の秀作を発表,ライバル関係にあった紀海音も《難波橋心中》《梅田心中》《心中二ツ腹帯》などの作を発表した。…
…世話物。3巻近松門左衛門作。1709年(宝永6)大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1722年(享保7)4月22日大坂竹本座初演。…
…人形浄瑠璃。近松門左衛門作。世話物。…
…3巻。近松門左衛門作。1715年(正徳5)春ごろ大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1707年(宝永4)大坂竹本座初演。…
…鳥辺山(鳥辺野)で心中する男女,源五兵衛・おまんを扱った俗謡が近世初期に流行したが,この2人を主人公とする浄瑠璃や歌舞伎狂言(おまん源五兵衛物),あるいはこの状況を用いた歌舞伎や邦楽が作られている。(1)地歌 近松門左衛門作詞,湖出金四郎作曲,岡崎検校(1684‐1753)改調。1706年(宝永3)正月京都の都万太夫座および同年夏大坂の岩井座で上演された歌舞伎狂言《鳥辺山心中》の道行に用いられた曲を岡崎検校が地歌に移したとされる。…
…3巻。近松門左衛門作。1712年(正徳2)秋大坂竹本座初演。…
…《国性爺合戦(こくせんやかつせん)》《蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)》など9編の浄瑠璃の語釈を記し,必要に応じて文句に対する批評を述べたもの。しかし,本書の価値は発端の部分に収められた近松門左衛門聞書にある。〈芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也。…
…5段。近松門左衛門作。1718年(享保3)2月,大坂竹本座初演。…
…それは語り物とはいえ,ドラマの本質を備えた戯曲を得てはじめて真の達成をみるべきものである。 85年近松門左衛門が義太夫の門出を祝って執筆した《出世景清》は,孤独の勇者景清と彼を愛するゆえに裏切りを犯す阿古屋との深刻な葛藤を扱い,義太夫節の出発点にふさわしい,近世悲劇(広末保《近松序説》参照)の本質を備えた作品であった。1703年(元禄16)近松・義太夫コンビによる最初の世話浄瑠璃《曾根崎心中》が上演され,人形浄瑠璃の現代劇化はいっそう推し進められた。…
…3巻。近松門左衛門作。1718年(享保3)11月20日,大坂竹本座初演。…
…5段。近松門左衛門作。1720年(享保5)8月大坂竹本座初演。…
…享保(1716‐36)ごろの大坂竹本座の作者で,初めは本名の松田和吉で書いたが,1730年2月の《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(竹本座)からは文耕堂の署名となる。作品は1722年9月の《仏御前扇車(ほとけごぜんおうぎぐるま)》が古く,これは翌年の《大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)》とともに,添削者に近松門左衛門の名前があることから,近松に師事していたといわれている。この後30年までは浄瑠璃作品はなく,京都で歌舞伎作者松田和吉として《唐錦妹背褥(からにしきいもせのしとね)》《大和縅男鑑(やまとおどしおとこかがみ)》を書いた。…
…通称《俊寛》。近松門左衛門作。1719年(享保4)8月大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1711年(正徳1)正月以前大坂竹本座初演。…
…3巻。近松門左衛門作。1711年(正徳1)3月《新いろは物語》の切浄瑠璃として初演されたという(《外題年鑑》)が確証はない。…
…略称《寿の門松》。近松門左衛門作。1718年(享保3)正月大坂竹本座初演。…
…最初の外題は《好色橋弁慶》。近松門左衛門作。1717年(享保2)8月大坂竹本座初演。…
※「近松門左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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