神戸郷(読み)かんべごう

日本歴史地名大系 「神戸郷」の解説

神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載がない。神亀六年(七二九)の志摩国輸庸帳(正倉院文書)に「神戸参所」として「伊勢大神宮」「粟島神戸」「伊雑神戸」が記され、大同元年牒(新抄格勅符抄)は伊勢大神の封戸一千一三〇戸のうちに志摩六五戸と記し、他に粟島神・伊雑神各二戸を記す。「神宮雑例集」は志摩国の伊勢神宮の神戸を六六戸とし、「伊雑神戸、国崎本ノ神戸、鵜倉神戸、慥柄神戸」を記す。

志摩国旧地考」は神亀の輸庸帳、大同元年牒によって神戸は粟島あわしま伊雑いぞうの「二処タル事分明ナリ」とし、川を境に川東の五知ごち沓掛くつかけ山田やまだ下之郷しものごうを伊雑神戸、川西の恵利原えりはら上之郷かみのごう迫間はさま築地ついじ穴川あながわを粟島神戸と考え、のち両者を併せて伊雑神戸と称したとみている。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「神戸」と記すが、訓はない。「続風土記」は熊野の神領で「今の奥熊野の地なり」とし、現東牟婁ひがしむろ郡の古座川こざがわ町・古座こざ町の一部を除く一円と、現新宮市、現三重県南牟婁郡・熊野市・尾鷲おわせ市・北牟婁郡一帯に比定。「日本地理志料」は「即熊野ノ神戸也、未今之何地、拠図按之、大田ノ荘、領十六村、大田即大御田、猶神田也、盖亘那智邑川ノ二荘三十村、其郷域也」と記し、現東牟婁郡那智勝浦なちかつうら町・太地たいじ町・古座町の東部に比定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本は郷名の記載を欠く。「皇太神宮儀式帳」に「次飯高県造乙加豆知、汝国名何問賜、白、忍飯高国、即神御田并神戸進」と由来が記され、国造貢進の六処神戸の一つ。「延喜式」伊勢太神宮によれば封戸三六。「太神宮諸雑事記」天喜六年(一〇五八)条によれば、当神戸預河内惟(維)清が二度の御神酒闕怠により解任(治暦元年九月復任)され、同六年八月二日に検非違使河内重清が補任されている。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に二ヵ所の神戸郷を記す。「大日本地名辞書」は魚住うおずみ(明治二二年成立)かとし、中尾なかお(以上現明石市)住吉神社があるので当郷は摂津住吉社の神封であろうという。「住吉大社神代記」に載る同社領のうちに「明石郡魚次浜一処 四至 東限大久保尻限、南限海棹及際、西限歌見江尻限、北限大路」とある。魚次は魚住の古名との説が有力である。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本には郷名の記載を欠く。「皇太神宮儀式帳」に「而飯野高宮坐、彼時、佐奈乃県造御代宿禰、汝国名何問賜、白、許母理国志多備国、真久佐牟気草向国、即神御田并神戸進」とその由来がみえ、国造貢進の六処神戸の一つ。「三代実録」元慶七年(八八三)一〇月二五日条には「飯野郡神戸百姓秦貞成向官、愁訴太神宮司大中臣貞世犯用神物、并不多気郡擬大領麻績連公豊世故殺人」とある。長承二年(一一三三)五月の伊勢国大国庄田堵住人等解(東寺百合文書)によれば、神戸里の封戸秦石丸が飯野郡一一条六井於里二八坪所在の大国おおくに庄の田一六〇歩を押領している。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載がない。「神宮雑例集」は志摩国神戸を六六戸とし、四ヵ所を記すが、うち伊雑いぞう国崎くざき答志とうし郡に属し、「按ルニ英虞郡神戸ハ鵜倉・慥柄両所ノ神戸ナリ」(志摩国旧地考)とされる。「神鳳鈔」には慥柄たしからは記されるが鵜倉うぐらはみえず、「志摩国旧地考」は慥柄に合併したと考えている。現度会わたらい南島なんとう町に慥柄があり、同地を含めにえ東宮とうぐう奈屋なやの四村は明治二二年(一八八九)合併して鵜倉村と称している。しかしこの地は道潟みちかた郷の中心とされる同町道方みちかたに近接しており、「日本地理志料」は慥柄説を否定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「加无倍」と読む。天慶九年(九四六)八月二六日に伊賀神戸長部解(光明寺古文書)が出される。伊勢神宮の伊賀神戸にちなむ郷名といわれる。天喜四年(一〇五六)二月二三日付散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)には郷内と考えられる「古郡村」「上津田原村」が阿我あが郷内に記されている。「三国地志」は「阿我は神戸の旧名にして、神戸は大神宮遷幸以降の名なり」とするが、阿我郷の中に神戸郷が吸収されたとも考えられる。


神戸郷
かんべごう

中世の国衙領。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文に「神戸郷 三拾四町七反百十六分」とみえ、「地頭太田次郎左衛門尉政直跡」「白川三位家跡」「雖被召上、所相触鬱訴也」と注記がある。田畠の内訳記載はない。地頭太田政直は但馬守護太田氏の一族。白川三位家が出石郷と同様に権利を主張して太田政直に代わっていったん地頭職を得たものの召上げられ、太田文作成当時なお相論が続いていたらしいことが、注記によって判明する。白川三位家が権利を主張できたのも、当郷が出石大社(出石神社)と関係が深かったことによるものと思われる。鎌倉時代と推定される神戸郷図(神床文書)は断簡ではあるが、鳥居から出石川に架かる橋を通って直線に延びる参道を中心に、その左右に条里制によって整然と区画された田畠を示している。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはこの郷名がみえないが、流布本に「神戸」と記し、同名の郷は諏訪郡にもある。高山寺本にないのは「余部郷」などと同様、特に省略したためで、この郷の存在は疑うべきでなく、諸国の例と同じく「かんべ」と訓ずべきであろう。

信濃地名考」に「神戸村存す。其辺の神封の地なるべし」とあり、「日本地理志料」には「神戸村存、呼曰我宇度(中略)図亘中村・小見・犬飼・和栗・鴨ケ原・稲荷・高石・小菅・前沢・野沢・平林・虫生・七ッ巻・大滝・箕作・志久美ノ諸邑、蓋其地也」と記し、現下高井郡木島平きじまだいら村の北部から現飯山市の東部、野沢温泉のざわおんせん村にかけて千曲川下流の右岸一帯をさしている。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本には記載がなく、東急本・刊本では九番目に載る。羽咋はくい郡神戸郷同様、訓はない。郷域については一宮気多神社と関連させて、現田鶴浜たつるはま町にあてる説(日本地理志料)と、現鹿西ろくせい町の西部金丸かねまるから東部能登部のとべにかけての地域を想定する説(寺家遺跡発掘調査報告II)がある。前者の説を傍証するものとしては、大永六年(一五二六)一〇月書写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)に、田鶴浜などの地名がみえることをあげることができる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本に記載はないが、東急本に「神戸」と記し、訓を欠く。「土佐幽考」は「未詳、蓋神田也、続日本紀云孝謙天皇神護景雲二年十一月戊子土佐郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂」とする。「日本地理志料」は「訓義見上、盖都佐神社ノ封戸也(中略)図、亘神田・石井ノ諸邑、為其郷域」とする。これは現高知市市街地の西南部の神田こうだ石立いしたて町付近にあたる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本にはみえず、東急本・刊本ともに訓を欠く。「和名抄」に訓注のある郷名はないが、「日本書紀」などの古訓に従う。郷域は、現志賀しか町南西部の甘田あまだ地区にあてる説(三州志)、同町中央部の堀松ほりまつ地区から北西部の熊野方くまのかた地区まで及んでいたとする説(日本地理志料)、現羽咋市北西部のいちみや地区から現志賀町甘田地区まで及んでいたとする説(大日本地名辞書)などがあり、いずれにせよ現羽咋市北西部から現志賀町南半にかけての外浦沿岸地域にもとめられていた。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。高山寺本にはみえない。神戸郷は、山田・愛智の各郡にも存在し、「神戸」は、尾張地方に設定された伊勢神宮の封戸で、その名称が郷名となったのであろう。「新抄格勅符抄」に「伊勢大神 封戸卅戸 尾張国十戸 参河国十戸(下略)」とみえる。

郷域について、「大日本地名辞書」は現一宮市今伊勢いまいせ本神戸ほんかんべ新神戸しんかんべおよび馬寄うまよせから現尾西びさい開明かいめいを含む地域と推測する。「日本地理志料」は本神戸・馬寄に加えて、「新神戸、一色、宮後、新開、開明、奥、七ツ寺、宮、小信、中島、起、五城、富田」をその郷域とし、現一宮市今伊勢町・おく町から現尾西市域の北半分を占める、より広範な地域に比定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本・元和古活字本に「神戸」とあり、ともに訓を欠く。郷域について、「大日本地名辞書」は、現瀬戸市上水野かみみずの町・下水野町の辺りを想定する。「日本地理志料」は「按図亘愛智郡高針、藤森、猪子石いのこし、及春日井郡猪子石原、印場いむば、大森、大森垣外、小幡諸邑、称山田、是其域也」として、現名古屋市名東めいとう区から守山もりやま区の一部、および尾張旭市の西部にかけての一帯に比定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠く。「皇太神宮儀式帳」には「壱志県造等遠祖、建呰子、汝国名何問賜、白、完往呰鹿国、即神御田並神戸進」と由来が記される。「太神宮諸雑事記」では国造貢進の六処神戸の一つにあげられ、「延喜式」伊勢太神宮にみえる封戸は二八。「神鳳鈔」には「神戸二百五十町三段六十歩 御神酒六荷 白塩一石二斗 祭料並造酒米二石 懸力稲四十束、荷前御調糸四 同絹三疋」とみえる。


神戸郷
こうべごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本とも訓を欠く。訓は「大日本地名辞書」による。現神戸市中央区の生田いくた神社の神戸に由来するという(同書)。郷域について「摂津志」は神戸村(現中央区)に、「日本地理志料」は神戸・二茶屋ふたつぢやや走水はしうど北野きたの花熊はなくま(現同上)の諸邑にあて、「大日本地名辞書」は生田郷の西、宇治うじ郷の東、ほぼ現もと町の南北で、西は再度ふたたび筋に至るとする。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本では郷名の記載を欠く。「皇太神宮儀式帳」には「鈴鹿小山宮坐、彼時、川俣県造等遠祖、大比古、汝国名何問賜、白、味酒鈴鹿国、其即神御田并神戸進」と記す。「延喜式」伊勢太神宮では鈴鹿郡の封戸一〇。「外宮神領目録」には諸神戸祭料として「二石鈴鹿神戸」、「神鳳鈔」には「神戸御神酒三缶、副米九斗并造酒米一石、懸力稲二十束、荷前御調糸三」とある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本には記載がない。諸本とも訓を欠く。「大日本地名辞書」は「古語拾遺」に「天富命 即於其地、立太玉命社今謂之安房社 故其神戸 有斎部氏」とあることから、神戸は安房神社の封戸(神戸)であったことに由来するという。同社は「延喜式」神名帳に安房坐あわにます神社とあり、現館山市大神宮だいじんぐうに鎮座することから、当郷の比定地は近世の大神宮村を中心とした旧神戸村および旧富崎とみさき村の一帯としている。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本に記載がなく、流布本にのみ「神戸」と記し、訓を欠く。東は石井いしい郷、西は伊予郡余戸あまるべ郷、南は浮穴うけな井門いど郷、北は天山あまやま郷に接する。「続日本紀」によると、天平神護二年(七六六)に「久米郡伊予神」に神階従五位と二戸の封戸を授けている。「三代実録」によると、貞観四年(八六二)に「伊予村神」を従四位下、同八年に正四位下、同一二年に正四位上に叙している。


神戸郷
じんごごう

神戸を遺称地とし、吉井川左岸の院庄いんのしよう二宮にのみやを含む一帯に比定される。鎌倉期の様子は不明であるが、守護館があったとされる。応安六年(一三七三)一二月二二日、箕浦千俊は岩原彦太郎跡の郷内次男分地頭職を足利義満より与えられる(「細川頼之施行状」辻文書など)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」では北高田庄などと合せて三貫文、神戸郷嫡男分二ヵ所として五貫七七五文を伊勢因幡入道が納めている。また享禄三年(一五三〇)六月二一日の幻住庵に神光寺分八反のうちを寄せた中村之治・大蔵秋清連署寄進状写(幻住寺文書)には「神戸郷三界分之内」とある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」流布本にのみ郷名がある。「日本地理志料」は「天平神護二年紀、伊予神充神戸二烟即此」とし「伊与村宮封戸田六町八段半、未今之何地」とし南山崎みなみやまざき地区(鵜崎うのさき両沢りようざわ上唐川かみからかわ・下唐川・大平おおひら)をそれにあてるが、確証はない。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本に記載がなく、流布本にのみ「神戸」と記され、訓を欠く。式内大社野間のま神社に奉仕する封戸を中心とし、現今治いまばり市の神宮かんのみや・野間・矢田やた山路やまじ付近と推定される。

野間神社は建長七年(一二五五)一〇月日の伊予国神社仏閣等免田注進状案(国分寺文書)に「乃万宮 十四丁三反半」とあり、大山祇神社に次ぐ封戸田を有している。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本・元和古活字本に「神戸」とし、ともに訓を欠く。郷域などについて、「大日本地名辞書」は、現名古屋市中川区の中部一帯にあて、伊勢神宮の神戸とする。「日本地理志料」は熱田社の神戸とし、「尾張志云、神戸方廃、今熱田駅上神戸町、下神戸町盖其遺名、按図亘西熱田、熱田東組、熱田西組、千年、野立諸邑、其故区也」と述べ、現名古屋市熱田区神戸ごうど町を遺称地とし、同区西部から中川区東南部に至る一帯にあてる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「神戸」と記し、その慶安元年板は「カムヘ」と仮名を付す。「日本地理志料」は住吉神戸すみよしかんべと読むべきであるとして、嘉年上かねかみ(現阿東町)神田こうだはその遺名とし、郷の範囲を「亘上嘉年、下嘉年、徳佐市、上中下徳佐諸邑」とする。この説をうけて「防長地名淵鑑」は「強て説を立つれば、嘉年・徳佐・地福の三村は神戸郷なるべし」として、現阿武郡阿東あとう町の東部一帯を郷域に比定している。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、カンベであろう。「遠江国風土記伝」が上吉田かみよしだ以下の四村および外窪とのくぼ(外久保)以下の八村、すなわち現吉田よしだ住吉すみよし神戸かんどから現榛原町坂口さかぐち坂部さかべ付近にかけての地に比定する。「大日本地名辞書」は吉田町神戸付近とし、「静岡県史」もこの説を採る。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「今曰佐味荘」とし、水野みずの村・東佐味ひがしさび村・南佐味村・桜井さくらい村・神通寺じんどじ村・福西ふくにし村の六村を佐味荘と記しているので、現御所ごせ市大字東佐味・西佐味・鴨神かもがみに比定。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「神戸」と記し、その慶安元年板に「カムヘ」と仮名を付す。隣接する厚狭あさ郡にも同名の郷がみられる。「日本地理志料」は現豊浦郡豊北ほうほく町の神田上かんだかみ・神田下をその遺名とみて、「亘滝部、寺地、浦田、矢玉、田代、大庭、和久、荒田、土井、阿川、粟野諸邑」とするが、この地域は豊浦郡の神田郷の郷域にあてられ、この比定は無理なところがある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本は「神戸」と記し、その慶安元年板に「カムヘ」と仮名を付す。

「新抄格勅符抄」に収められた大同元年(八〇六)の牒に、摂津国住吉すみよし社の封戸二三九、そのうち長門六六戸とあるのがこの神戸郷で、現宇部市の上宇部かみうべ・中宇部・沖宇部おきうべ小串こぐし中山なかやまにわたる地域とするのが通説になっている(日本地理志料、大日本地名辞書、防長地名淵鑑)


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはなく、東急本にみえ、訓を欠く。「続風土記」は天野丹生あまのにう明神(現かつらぎ町の丹生都比売神社)の神領で「其地は紀川の南、今の高野領の地なり」と記し、志富田しぶた四村よむら三谷みたに志賀しが・天野(現かつらぎ町)の各庄に比定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」諸本とも訓を欠き、「かんど」あるいは「かど」とよんだとも推定される。郷名は神社に与えられた封戸に由来するとされ、郡中の大社で、また一国の旧社といわれる現日南にちなん宮内みやうちの東西両楽々福ささふく神社の神戸であったとする考え方もある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載がなく、流布本にのみ「神戸」と記し、訓を欠く。「続日本紀」天平神護二年(七六六)四月二〇日条に「伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、並授従四位下、充神戸各五烟」、また「新抄格勅符抄」の神封部に「伊曾乃神 十五戸 伊与」とある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本も訓を欠く。所在地は不詳。「大日本地名辞書」は、伊勢外宮豊受大神の天降りの故地と伝承する磯砂いさなご(足占山・比治山とも)北麓(現中郡峰山町)に比定するが根拠はない。また、当郡の名神で、神戸七戸を有した(新抄格勅符抄)大宮売おおみやめ神社(祭神大宮比売命)が現中郡大宮町にあり、鎮座地周枳すきに北接して河部こうべ(辺)の地名が残るので、この地にあてる説(中郡誌稿)もある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「神戸」と記し、刊本(慶安元年)は「カムヘ」と仮名を付す。

天平一〇年(七三八)の周防国正税帳(正倉院文書)に玉祖神税天平九年定穎稲三千八三四束を神命をもって天平八年から同一〇年に至る三ヵ年間田租三九石二斗八升を免ずるとあるが、玉祖たまのや神社(現防府市大崎)に隷属する神戸と考えれば、そこから比較的近い所に集落があったと推測できる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」に記載されない。「出雲国風土記」によれば出雲郡八郷以外として神戸郷とあり、郡家の北西二里余で、八郷には里が各三あったが、当郷は二里置かれていた。杵築大社(出雲大社)・熊野大社の神戸が設定されていたという。天平一一年(七三九)の出雲国大税賑給歴名帳(正倉院文書)の当郷と考えられる項に、賑給の対象となる神奴部・鳥取部・若倭部・海部など二五人が書上げられている。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載なく、東急本に「神戸」と記す。「紀伊続風土記」は「熊野の神領にして今の奥熊野をいふに似たり、神武記に神邑とある即其地ならん」という。「日本地理志料」は「即熊野ノ神戸也、(中略)蓋亘那智(色カ)川ノ二荘三十村、其郷域也」と記して、現和歌山県東牟婁ひがしむろ郡の東南部に比定する。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載がなく、流布本に「神戸」と記し、訓を欠く。「日本地理志料」は「有北条郷、領北条、三津屋二邑、其地与周敷村鄰、即周敷社神戸也」とする。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記載がない。諸本とも訓を欠くが、「日本書紀」などの古訓に従ってカムヘであろう。郷名は古代文献に所見がない。神戸郷という以上神社の封戸から発展したものであることは確実だが、「大日本史」国郡志・「日本地理志料」は京都上賀茂社の安曇河あどがわ御厨があったことからその神戸とし、「大日本地名辞書」は水尾みお神社(現高島町)の神戸とするが、決しがたい。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・東急本とも「誰戸」と記し訓を欠くが、神戸の誤記と考えられる。「続風土記」は「一説に和名抄忌部の下誰戸あるを以て忌部神戸とするへしといふ、然れとも神戸の上神名を称する例と異なる故に取らす」とし、「国懸二字を外に出し神戸を誰戸と誤る、今考定して合せて一所とす」とする。しかし国懸くにかかす神戸とするには無理があり、「和名抄」の「誰戸」の上に記載された忌部と結び付ける説を否定するが、「新抄格勅符抄」にみえる大同元年牒に忌部神二〇戸のうち「紀伊十戸」とみえ、公郷としての忌部郷のほかに忌部神戸も存在していたことがわかる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本は郷名を欠き、東急本は神郷とし訓はない。元和古活字本に神戸郷が載る。「播磨国風土記」にはみえない。同書の揖保里の条にみえるかみ山は現揖保川いぼがわ町北部の神戸山にあたるとして神戸郷域をその付近とする説がある。康平二年(一〇五九)七月二〇日の播磨国東大寺領畠注進状(東大寺文書)に「揖西郡揖保郷神戸村」とある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「神戸」と記すが、訓は欠く。「続風土記」は天野丹生あまのにう明神(現伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社)の神領で「今の神野猿川毛原長谷の四荘即其地なるへし」と記し、現在の海草郡美里みさと町域に比定。「日本地理志料」も同説をとる。「大日本地名辞書」は「今貴志村大字神戸あり、此郷は中世貴志庄と称したる地なるべし、十四村、近年合同して中貴志村西貴志村東貴志村調月村丸栖村等と為す、野上川の両岸に渉り、北は荒川埴埼の二郷に接す」と記し、現在の貴志川きしがわ町を中心とする地域に比定。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本・元和古活字本にみえるが、高山寺本・名博本には記載されない。両本とも訓を欠くが、カンベであろう。「出雲国風土記」では郷名としてはみえないが、意宇郡内に郡家の南西二里余に置かれた出雲神戸が記されており、当郷にあてる説がある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、流布本に「神戸」と記し、訓を欠く。現諏訪市に神戸ごうどという集落があるので、この地を中心とする地域を神戸郷にあてる説が多い(信濃地名考・諸国郡郷考・大日本史国郡志)

しかし、この神戸村の神戸は「ごうど」と読むことから「かんべ」とは異質のものとし、むしろ「新抄格勅符」に大同元年(八〇六)諏訪神に神封七戸を進められたことがみえるので、その封戸のあった集落にあてるべきだとし、諏訪大社上社周辺の諏訪湖南岸の地を想定し、さらに茅野ちの市の南西部、上諏訪市の南部辺りの最も地味肥沃の地をこの郷に比定すべきだという説もある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、カンベであろう。「遠江国風土記伝」は伊勢神宮領鎌田かまだ御厨(現磐田市)にあて、旧版「静岡県史」もこれに従う。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」刊本にみえるが訓を欠く。他にみえずいっさい不明。

古代神戸郷との関係はともかく、近世に書かれた「横山硯」に、明智光秀横山よこやま(福知山城の前身、塩見信房の居城)を陥れた時、荒河あらが(現福知山市)にあった支城「中山の城も数万勢に取巻かれ、主も家来もあやうきながら、取巻多勢を切抜かんと打合ひ、互に大刀疵を蒙りて神戸庄へ逃げ行きけり」とみえる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「已廃存疋田大畠二村」として現北葛城郡新庄町大字疋田ひきだ當麻たいま町大字大畑おばたけに比定。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本にみえる郷名。訓を欠くが、カンベであろう。比定地については、神戸を富士山本宮浅間大社の神戸として現富士宮市みや町・大宮おおみやなどの一帯とする説(旧版「静岡県史」)、神戸の地名から現富士市神戸ごうど付近とする説(「駿河志料」など)がある。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠く。「延喜式」伊勢太神宮にみえる封戸のうち「河曲郡卅八戸」、「神宮雑例集」にみえる「川曲神戸卅八戸」は当郷をさす。また「太神宮諸雑事記」治暦三年(一〇六七)一二月条には「河曲神戸預太鹿武則」の名がみえる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」は諸本とも訓を欠くが、「日本書紀」などにみえる神戸の古訓に従えばカムベ(カンベ)であろう。郷域は諸書の多くが不詳とするが、「日本地理志料」は現多賀町の中央部とし、「大日本地名辞書」は多賀神社の神戸として同社のある田可たか郷に隣接する旧久徳きゆうとく(現多賀町西部)をあてる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「延喜式」神名帳の城上郡の志貴御県坐しきのみあがたにいます神社は現桜井市大字金屋かなやに比定されるが、この神戸が城上郡内に設定されていたので、神戸郷はそれを示すと考えられる(桜井市の→志貴御県坐神社


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本は郷名の記載を欠く。郡南端の砂見すなみ川上・中流域、現鳥取市旧神戸かんど村の地域に比定される。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」刊本に神戸郷があるが、訓を欠く。比定は困難。「日本地理志料」は「大原・新井・菅野・本坂・野村・本荘上・本荘宇治・長延・蒲入・本荘浜・野室・津母・井室・泊・六万部」にあてる。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本にはみえない。東急本は訓を欠く。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。建暦二年(一二一二)九月日付越前気比宮政所作田所当米等注進状(越前気比宮社伝旧記)に「少神戸」の地名が散見されるが、郷名の遺称か。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本には記されず、刊本も訓を欠く。

郷域・実態は不明。「日本地理志料」は「中山・水間・蒲江・油江・神埼・白杉・青井・吉田・大君・喜多・新宮」の諸村(現舞鶴市)にあて、「大日本地名辞書」は「河守上村」(現加佐郡大江町)とする。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、カンベであろう。「出雲国風土記」に記載はないが、同書にあげる賀茂かも神戸である可能性が高い(「日本地理志料」など)


神戸郷
かんべごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「已廃存橋本村」として現桜井市大字橋本はしもとに比定。


神戸郷
かんべごう

「和名抄」東急本にはみえるが高山寺本は不載。「新抄格勅符抄」に引く大同元年牒に「若狭比古神 十戸若狭」とあり、関連が考えられるが所在地は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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