自然主義(文芸)(読み)しぜんしゅぎ(英語表記)naturalisme フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「自然主義(文芸)」の意味・わかりやすい解説

自然主義(文芸)
しぜんしゅぎ
naturalisme フランス語
naturalism 英語

元来は自然を唯一絶対の現実とみなす立場をいう哲学用語であるが、文芸上でとくに、写実主義のうちに自然科学の客観性と厳密性を取り入れることを主張して、19世紀後半のフランスでゾラを中心としておこり、ヨーロッパ各国に広がった文芸主潮をいう。自然主義はつまり、写実主義に対立したもの、あるいは別個の潮流ではなく、それを継承し、さらに方法的に推し進めた同じ流れに属するもので、このため、作者および作品の両派の区分がかならずしも明瞭(めいりょう)にされない場合もしばしばある。自然主義はまず、すでに時代遅れとなった虚偽のロマン主義に対する反動としておこったが、時代の科学万能主義の思潮と相まって、単にありのままの現実再現という写実主義に飽き足らず、「総合的真実」を描くために、現実をつくりあげている科学的根拠としての「原因」を追求しようとした。つまり、この現実世界を説明することができる方法はただ一つ、科学しかなく、物理的世界の認識に対して科学がすることを文学のなかで行おうとするもの、たとえば心理学にかわり、人間の行動における生理学的根拠や、感情、性格を決定づける社会環境などが追求される「科学的作品」を創造しようとするもので、コントの実証主義テーヌの決定論、ダーウィンの『種の起原』、クロード・ベルナールの『実験医学序説』、リュカProsper Lucas(1805―1885)の遺伝学などがこの場合の理論的根拠となった。

[加藤尚宏]

ヨーロッパおよびアメリカでの展開

1865年前後のゾラおよびゴンクール兄弟の小説にその最初の表現がみられるが、1868年ゾラが『テレーズ・ラカン』2版の序文で自然主義宣言を行って以来、ゾラを囲んで同調者のグループができて、デュランチらの写実主義文学運動以上に、一つの明確な流派としての運動となった。ついでゾラは、のちに『実験小説論』(1880)のなかで表明する理論に基づきながら、1871年から約20年の計画で連鎖小説『ルーゴン・マッカール双書』20巻を発表し始める。この理論は、クロード・ベルナールの実験医学の観察と実験の原理を文学に応用したもので、社会現象の厳密な観察を土台に、科学的(生物学的、生理学的、医学的)な意味で条件づけられた人間をそれぞれ特定の環境と事件のなかにおいて「実験」を試み、その結果を科学的冷静さで報告するというものである。そして1877年『居酒屋』が発表されるや、この派は時代の潮流を制覇し、そのなかからアレクシス、セアールHenry Céard(1851―1924)、エニックLéon Hennique(1851―1935)、ユイスマンスモーパッサンドーデらの作家が誕生した。しかし、医学が病気を対象とするように、社会の病悪を主たる題材にとる自然主義の小説は、社会(とくに下層の)の醜悪な面、人間の異常な面を強調しながら克明に描写する露悪的でペシミスティックな傾向を強めていくにつれ、一般の反感を惹起(じゃっき)し、あげく、『大地』(1887)が発表されるに及んで、ゾラが弟子たちにまで反旗を翻されるに至った(『五人の宣言』1887)。そして、もともとその科学的理論の根拠の薄弱なことや、ゾラを継ぐ作家たちがこの主義を継承しない(モーパッサン、ドーデは科学性を拒否し、ユイスマンスは反自然主義へ転向する。ゾラ自身も社会主義的理想主義へ転身する)といったこともあり、加えて詩における象徴主義の流行もあって、自然主義の隆盛は1880年代の終わりから急速に衰退した。

 しかし、人間の真実を冷徹にえぐり出し、平凡なあるいは悲惨な庶民生活やマスとしての大衆に目を注ぎ、社会環境(とりわけ下層の)を酷薄に描写する、多くペシミズムに彩られたこの文学は、日本を含め世界各国の文学に(北欧ではとくに演劇に)多大な影響を及ぼした。イギリスでハーディ、ロシアでボボルイキンコロレンコチェーホフノルウェーイプセンビョルンソン、スウェーデンでストリンドベリ、デンマークでヤコブセンポントピダン、オランダでクベールス、ベルギーでルモニエ、スペインでクラリンClarín(レオポルド・アラスLeopoldo Alas。1852―1901)らがその代表的作家である。イタリアでは、ジョバンニ・ベルガの「真実主義(ベリズモ)」およびそれを理論づけたカプアーナらがこれから深い影響を受けた。またドイツでは、コンラートMichael Georg Conrad(1846―1927)のミュンヘン派とハルトHart兄弟(兄Heinrich1855―1906、弟Julius1859―1930)のベルリン派の第一期自然主義を経て、ホルツらのいわゆる「徹底的自然主義」が確立して、ハウプトマンズーダーマンの全盛期を迎え、やがて心理的自然主義の衰退期に入る。新しい国アメリカも他国以上に深くこの文学の洗礼を受け、『居酒屋』をまねた『街の女マギー』のガーランドクレーン、ノリスらを経て、アメリカのゾラというべき代表作家ドライサーを生んだ。

[加藤尚宏]

日本での展開

日本における自然主義運動は、明治20年代以来の写実主義の必然的深化であるとともに、西欧の自然主義の日本的消化の結果であった。すなわち、一方では正岡子規(しき)一派の写生文の運動、島崎藤村(とうそん)の『千曲川(ちくまがわ)のスケッチ』(1912)、徳冨蘆花(ろか)の『自然と人生』(1900)のような試みが進行するとともに、一方では小杉天外がゾラの理論を取り入れて新しい写実小説を主張し始めた1900年代初頭に、「前期自然主義」とよばれる一時期が始まる。いわゆるゾライズムの時代で、天外の『はやり唄(うた)』(1901)、田山花袋(かたい)の『重右衛門(じゅうえもん)の最後』(1902)、永井荷風(かふう)の『地獄の花』(1902)などがその代表的な作品である。評論の面では、長谷川天渓(はせがわてんけい)などが作家の科学的態度を求めて自然主義の主張を展開していた。しかし、そのゾラの理論は根づかず、客観描写への関心だけがやがて花袋の『露骨なる描写』(1904)の主張に結晶して、自然主義文学の方法的準備は整った。

 日露戦後、藤村の『破戒』(1906)の出現によって自然主義文学はほぼ確立し、花袋の『蒲団(ふとん)』(1907)の成功によって決定的となった。島村抱月(ほうげつ)はこの2作を高く評価して自然主義を評論の面から積極的に支持し、実作と評論とが一体となってこの運動を推進し、以後1910年(明治43)ごろまでがこの派の文学の最盛期であった。実作では前記のほか、花袋の『生』(1908)、『田舎(いなか)教師』(1909)、藤村の『春』(1908)、『家』(1911)、徳田秋声(しゅうせい)の『足迹(あしあと)』(1912)、『黴(かび)』(1912)、岩野泡鳴(ほうめい)の『耽溺(たんでき)』(1909)、『放浪』(1910)、正宗白鳥(はくちょう)の『何処(どこ)へ』(1908)、『微光』(1910)などがその主要な収穫であり、評論の面では抱月、天渓のほか、片上伸(かたかみのぶる)(天弦(てんげん))、相馬御風(そうまぎょふう)らが、自然主義の理論的基礎、実行と芸術の問題、描写論、実作批評などに活発な議論を展開した。しかし、自然主義の徹底した傍観的態度は現実暴露の悲哀を感じさせるだけの無解決の文学であったために、1910年にはほぼ運動の頂点を超えた。だが、そこで得られた近代リアリズムの手法は近代日本文学の確立に重要な役割を果たした。したがって、文学思潮としては退潮しても、なお大正中期にも花袋の『時は過ぎゆく』(1916)、『一兵卒の銃殺』(1917)、藤村の『新生』(1918~1919)、泡鳴の五部作(1910~1918)、白鳥の『牛部屋の臭(にお)ひ』(1916)など、自然主義系の優れた作品が数多く書かれた。以後も、大正から昭和にかけて日本独自の文学といわれる心境小説・私(わたくし)小説の成立について、自然主義文学はその原点と考えられ、近代・現代の全般にわたって、その影響は大きい。

[和田謹吾]

『吉田精一著『自然主義の研究』上下(1955、1958・東京堂出版)』『片岡良一著『自然主義研究』(1957・筑摩書房)』『川副国基著『日本自然主義の文学』(1957・誠信書房)』『河内清編『自然主義文学』(1962・勁草書房)』『山川篤著『フランス・レアリスム研究』(1977・駿河台出版社)』『A・ミットラン著、佐藤正年訳『ゾラと自然主義』(文庫クセジュ)』『正宗白鳥著『自然主義文学盛衰記』(講談社文芸文庫)』

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