(読み)しん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

晋(中国の王朝)
しん

中国の王朝。西晋(265~316)と東晋(317~420)に分かれ、司馬炎(しばえん)(武帝)が洛陽(らくよう)を都に西晋をたて、宗室の司馬睿(えい)(元帝)が建康(南京(ナンキン))に東晋を興した。司馬氏は河内(かだい)郡(河南省)の名族で、炎の祖父懿(い)以来、三国魏(ぎ)の国政を牛耳(ぎゅうじ)り、父の昭は蜀(しょく)平定の殊勲をあげて晋王に進んだが急死、炎が後を継いで禅譲(ぜんじょう)革命を続行し、王朝を開いた。武帝は貴族の特権を認めるとともに皇族分封制を行って国の基盤を固め、280年呉を平定して天下を統一し、占田・課田制や戸調式など斬新(ざんしん)な政策を施行した。しかし晩年は女色におぼれて実権を外戚(がいせき)にゆだね、社会にも奢侈(しゃし)や朋党(ほうとう)の風潮が広まった。その子の恵帝は暗愚で、賈(か)皇后の一党が権力をほしいままにし、それに反発して300年趙(ちょう)王司馬倫が挙兵して八王の乱が起こった。この乱を機に、漢人の圧迫に苦しんでいた非漢民族の五胡(ごこ)(匈奴(きょうど)、羯(けつ)、鮮卑(せんぴ)(てい)、羌(きょう))が自立運動を開始して永嘉(えいか)の乱が始まり、南匈奴の劉聡(りゅうそう)が311年洛陽を攻め落として懐帝を捕らえ、その子劉曜も316年愍帝(びんてい)を捕らえて、晋はいったん滅びた。
 これより前、華北の混乱を避けて建康へ移鎮していた琅邪(ろうや)王司馬睿が、名族王導の活躍で亡命貴族や江南豪族の支持を集め、317年東晋を興した。しかし君権は微弱で、初め軍閥王敦(おうとん)の乱や蘇峻(そしゅん)の乱が相次ぎ、371年にも桓温(かんおん)が皇帝を廃立して簒奪(さんだつ)を計った。対外的にも五胡の圧迫に苦しみ、名臣謝安が383年前秦(ぜんしん)苻堅(ふけん)の侵略を(ひすい)の戦いで撃退して、一時国勢を盛り上げたものの、第9代孝武帝の弟司馬道子が政治を乱し、権門の土地占拠や逃亡戸の隠匿が進んだ。このため、399年道教系の民衆反乱である孫恩の乱が起こり、また桓温の子桓玄が司馬道子に対抗して勢力を伸ばし、第10代安帝に位を譲らせて楚(そ)王朝(403~404)を開き、王統はとだえた。これに対して武将の劉裕(りゅうゆう)(宋(そう)の武帝)が桓玄を討って安帝を復辟(ふくへき)したが、南燕(なんえん)や後秦(こうしん)を滅ぼすなど内外に勲功著しい劉裕は、まもなく安帝の弟恭帝(きょうてい)に禅譲を迫り、東晋は11代で滅びた。
 九品官人(きゅうひんかんじん)法が家柄本位で運用されて貴族制が発展し、貴族の間で老荘思想や仏教、自然愛好の風が広まって清談や隠逸(いんいつ)が流行し、山水詩が始まるなど文学、書、絵画が隆盛した。また東晋期、華北から大量の人口が流入して江南地方の開発が急速に進んだ。[安田二郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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