高麗(読み)こうらい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高麗(朝鮮の王朝)
こうらい

朝鮮の王朝(918~1392)。9世紀末以後、朝鮮半島は各地に地方豪族が台頭し、対立、抗争する動乱状態に陥った。そのなかで、開城の豪族王建は、初め有力豪族弓裔(きゅうえい)に臣事したが、やがて弓裔を倒して、自ら王位につき、開城を都として高麗王朝を建てた。当時、朝鮮半島内は依然として、南東部の新羅(しらぎ)、南西部の有力豪族甄萱(しんけん)の後百済(ごひゃくさい)の二大勢力をはじめとして、大小の豪族が各地に割拠する状勢が続いていた。王建は種々の手段で彼らに対する征服、統制を推進し、935年新羅、936年後百済をそれぞれ滅ぼして、半島の統一を達成した。高麗の統一は、単なる新羅の旧領域の復旧にとどまらず、当時の東アジアの国際情勢にも助けられた、北方への積極的領域拡張をも伴っていた。
 王朝成立の初期には、まだ地方豪族に対する統制も十分ではなく、王権も確立されるに至らなかったので、政治情勢は不安定であった。しかし、やがて第6代成宗の即位(981)とともに、王権の強化と支配体制の整備が本格的に開始された。おりから東アジアの国際情勢の変化により、11世紀初めにかけて三度契丹(きったん)の侵略を被ったが、それをも政治的、文化的発展、強化の機会や契機として積極的に取り込みつつ、その努力は続けられた。その過程で地方豪族の勢力は、一方では中央の官僚として、また一方では在地の地方行政実務担当者の郷吏として、高麗の支配体制内に吸収されていった。こうして、第11代文宗のとき(11世紀末)までの約1世紀間に、中国(おもに宋(そう)および宋を介しての唐)の制度に倣いながら、各種の制度が整備され、国王を頂点とする中央集権的官僚制国家として確立された。
 高麗の支配体制の中枢を占めたのは文武の官僚で、両班(ヤンバン)と総称されたが、国家の発展、安定とともに、文臣が重んじられるようになり、また門閥の形成とともに、高位高官を占める家柄がしだいに固定化していった。彼らは有力門閥との通婚、とくに王室の外戚(がいせき)となることを推進して、勢力の増大を図った。[北村秀人]

武臣政権とモンゴルの支配

12世紀に入ると、門閥文臣官僚による政治にもようやく陰りがみられるようになり、文臣の隷属下に置かれた武臣や、増大する国家の収奪に苦しむ農民などの不満が高まった。1170年武臣はクーデターで一挙に文臣勢力を倒して政権を握り、それとともに74年から全国で農民の一揆(いっき)、反乱が爆発的に起こった。96年以後は武臣崔(さい)氏が、高揚した農民の動きも抑えて、4代60年間政権を維持したが、おりから北方でモンゴルが勃興(ぼっこう)した。そして、1231年以後約30年間、高麗はモンゴルの執拗(しつよう)な侵略を受け、多大の被害を受けた。崔氏政権は江華島に遷都して難を避けつつ、本土での対モンゴル抗戦を指揮した。実際各地で挙族的な激しい抗戦が展開されたが、1258年の崔氏政権の滅亡を機に、ふたたび政治の中心に復帰した高麗王室はモンゴル(のち元)に服属し、やがて開城に都を復した。これ以後約1世紀間、元の2回の日本遠征(元寇(げんこう))の主要基地とされて多大の負担を課せられたのをはじめとして、政治的、経済的な重圧を受けた。しかもこの時期には、親元的権勢家や仏教寺院などによる大土地私有が進展し、また14世紀中ごろからは南の海上からくる倭寇(わこう)の侵入が始まって、しだいに激しさを増すなどの動きもみられ、国勢はいっそう衰えた。1368年中国で明(みん)が元を北方に追って支配者となると、高麗朝廷内部では、外交方針をめぐって、親元、親明両派の政治的対立が強まった。そのなかで、咸興(かんこう)の豪族出身の李成桂(りせいけい)が、倭寇の撃退、親明方針の主張、土地制度改革の実行などによって勢力を確立し、1392年高麗を滅ぼして自ら王位につき、李(り)氏朝鮮王朝を建てた。[北村秀人]

文化

高麗時代の文化面でまず注目されるのは仏教の盛行である。仏教は国家鎮護の法とされて、高麗一代を通じて国教の地位を占め、寺院の造営、大規模な法会、行事の挙行などが国家の主導下になされた。『大蔵経』の刊行も2回(11世紀、13世紀)行われ、8万余枚に及ぶ第二次大蔵経の版木は現在も慶尚南道海印寺に完全に保存されている。なお、第二次大蔵経とほぼ同時期に金属活字による活版印刷術も開発され、実用化されており、注目される。儒教も国家の政治、儀礼の原理として尊重され、それに対応して、中国式科挙制度の採用、中央、地方の学校制度の整備なども早くから行われた。末期には、元との関係を通して朱子学が伝えられ、新興官僚層の思想的よりどころとされるに至り、そのなかから仏教排撃論、田制改革論などが打ち出され、李朝初めにかけて政治、社会、思想の革新が図られた。
 次に工芸面では、陶磁器とくに青磁が有名である。宋の手法の模倣から始まったが、やがて翡翠(ひすい)色の釉薬(ゆうやく)、象眼(ぞうがん)などの独自の技法を生み出し、その優美さは宋人をも感嘆させている。この青磁は、当時の地方行政組織の一環をなす磁器所という特殊な行政区画の住民の、国家から課せられた身分的、世襲的負担として作製された。[北村秀人]
『朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(1974・三省堂)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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