ジョンソン(英語表記)Johnson, Boris

デジタル大辞泉 「ジョンソン」の意味・読み・例文・類語

ジョンソン(Boris Johnson)

[1964~ ]英国の政治家。首相。オックスフォード大学卒業後「タイムズ」「デーリーテレグラフ」の記者や雑誌コラムニストを務める。2001年に下院議員に当選。2008年からロンドン市長に転じるが、のちに下院に戻った。記者時代からのEU懐疑派で、ブレグジット決定後の2016年からメイ内閣の外相。EU離脱協定案の批准獲得に失敗したメイの後を受けて2019年、首相に就任した。→トラス

ジョンソン(Ben Jonson)

[1572~1637]英国の劇作家・詩人。気質喜劇の伝統を確立、また宮廷仮面劇も書いた。喜劇「十人十色」「ボルポーネ」「錬金術師」など。

ジョンソン(Samuel Johnson)

[1709~1784]英国の詩人・批評家。独力で「英語辞典」を完成。詩「欲望のむなしさ」、伝記「詩人伝」など。

ジョンソン(Andrew Johnson)

[1808~1875]米国の政治家。第17代大統領。在任1865~1869。テネシー州知事・上院議員・副大統領などを歴任。リンカーン暗殺により大統領に就任。→グラント

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精選版 日本国語大辞典 「ジョンソン」の意味・読み・例文・類語

ジョンソン

  1. [ 一 ] ( Andrew Johnson アンドルー━ ) アメリカ合衆国第一七代大統領(在任一八六五‐六九)。ノース‐カロライナ出身の民主党員。リンカーン暗殺により、副大統領から大統領に昇任。戦後、穏健な南部再建案を示したため、共和党急進派と対立、大統領として初めて弾劾裁判を受けた。(一八〇八‐七五
  2. [ 二 ] ( Samuel Johnson サミュエル━ ) イギリスの詩人、批評家。「英語辞典」の編纂で名高い。詩作のほかに、雑誌「ランブラー」の創刊、紀行文・伝記などの著作を行なう。教訓詩「欲望のむなしさ」、小説「ラセラス」、伝記「英詩人伝」など。(一七〇九‐八四
  3. [ 三 ] ( Ben Jonson ベン━ ) イギリスの詩人、劇作家、批評家。諷刺劇「十人十色」の上演によって一躍その名を挙げ、いわゆる気質喜劇を確立。三大喜劇として「ボルポーニ」「物いわぬ女」「錬金術師」がある。(一五七二‐一六三七
  4. [ 四 ] ( Lyndon Baines Johnson リンドン=ベインズ━ ) アメリカ合衆国第三六代大統領(在任一九六三‐六九)。テキサス出身の民主党員。ケネディ暗殺により、副大統領から昇任。ベトナムへの軍事介入を強化し、国民の不信を招いた。六四年再選。(一九〇八‐七三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョンソン」の意味・わかりやすい解説

ジョンソン(Philip Johnson)
じょんそん
Philip Johnson
(1906―2005)

アメリカの建築家。オハイオ州クリーブランドに生まれる。ハーバード大学で古典文学を学び、1932年、26歳の若さでニューヨーク近代美術館の初代建築部長となり、近代建築の紹介と評価の確立に大きな足跡を残した。同年「インターナショナル・スタイル――1922年以後の建築展」と題された企画展示において、歴史家のヘンリー・ラッセル・ヒッチコックHenry Russell Hitchcock(1903―1987)とともに、バウハウスを中心とした当時のヨーロッパの最新の建築スタイルをいち早くアメリカに紹介した。やがて評論活動に飽き足らず、自ら建築家となることを決意して母校に戻り、バウハウスを代表する建築家の一人であるマルセル・ブロイヤーに師事し、建築家の資格を得てキャリアを再スタートした。ニューヨーク近代美術館で建築部長を務めた時代から、一貫してスタイル(様式)としての建築を追求したが、建築家としての最初の作品は「ガラスの家」とよばれるコネティカット州ニュー・カナンの自邸(1949)であり、そこにはバウハウスから大きく影響を受けた理論家としての意識と、ロマン的傾向とが一体化したさまがみられる。1959年には建築家ミース・ファン・デル・ローエと共同で、ニューヨークに超高層のシーグラム・ビルを設計した。

 1970年代から1980年代にかけては、自ら「インターナショナル・スタイル」とよんだ建築スタイルから、さまざまな材質と色彩を多用した非機能主義的なスタイルへと移行した。この時代の傾向は、彼の代表作の一つであるAT&Tビル(1984)においてとくに開花し、後に「ポスト・モダン建築」とよばれるスタイルを象徴する建築物の一つとなる。1980年代後半、のちに評論家・教育者として活躍するマーク・ウィグリーMark Wigleyと共同で「ディコンストラクティビスト・アーキテクチャー展」(1988)を企画し、それまでのスタイルとは明らかに異なる傾向をもった建築家フランク・O・ゲーリー、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハースらを紹介し、彼らのもつスタイルとロシア構成主義絵画との関連性を示した。

 ジョンソンは、インターナショナル・スタイルからポスト・モダンを経てディコンストラクティビズムの建築へと至る、20世紀の建築の動向を特徴づけたこれら三つの互いにはっきり異なる傾向にそれぞれ関心をもち、移動し、アメリカにおけるそれらの紹介にかかわった。資産家であり大いなる趣味人でもあるジョンソンは、各時代ごとのさまざまな建築スタイルの傾向を、自身の所有する広大な敷地を実験場として自ら設計し実際に建設したという点で、他の一般的な職業建築家とは著しく異なっている。建築文化の一つの側面である表層的なスタイルの問題を、あたかもモードのように扱う姿勢については評価が分かれるところであるが、現実的な影響力は多大であった。1979年、その影響力をたたえられてプリツカー賞の初代受賞者となった。

[堀井義博]

『大江宏・明石乃武文、二川幸夫写真『現代建築家シリーズ フィリップ・ジョンソン』(1968・美術出版社)』『ロバートソン・ブライアン文、二川幸夫企画・撮影『GAグローバル・アーキテクチュア12 フィリップ・ジョンソン』(1972・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『デイヴィッド・ホックニー編、横山正訳『フィリップ・ジョンソン著作集』(1975・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『ヘンリー・ヒッチコック、フィリップ・ジョンソン著、武沢秀一訳『インターナショナル・スタイル』(1978・鹿島出版会)』『中村敏男編、モーラン・マイケル写真『フィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」』(1998・YKK AP)』『John BurgeeArchitecture 1979-1985 ; Philip Johnson(1985, Rizzoli, New York)』『Jeffrey KipnisPhilip Johnson ; recent work(1996, Academy Editions, London)』


ジョンソン(Robert Johnson)
じょんそん
Robert Johnson
(1911―1938)

アメリカのブルース・シンガー、ギタリスト。のちにシカゴ・ブルース(第二次世界大戦後シカゴで根づいたバンド・ブルース)として発展してゆくブルース・スタイルをギター1本でつくり出した。死後50年以上を経てつくられた、全作品を収めたアルバム『コンプリート・レコーディングス』(1990)は世界中で100万セットを越す売り上げを記録、そのミステリアスな人生もあいまって、ブルースの歴史において特異な人気を獲得する。

 ミシシッピ州南部のヘイズルハーストに私生児として生まれる。子供のころは母親の正式の夫、再婚相手、親類らのもとを転々としていたが、上部デルタ(ミシシッピ川とヤズー川にはさまれたデルタの上流地帯)のコマース、ロビンソンビルでの生活でブルースを知る。とくにサン・ハウスSon House(1902―88)とウィリー・ブラウンWillie Brown(1900―52)という、デルタでもっとも活躍していたブルース・コンビが近郷におり、ジョンソンは夜中に家を抜け出しては彼らの演奏を聞きに行った。

 最初はブルース・ハープ(ハーモニカ)を演奏していたが、1930年代初めに故郷に戻ったころ出会ったアラバマ州出身のギタリスト、アイク・ジナーマンIke Zinnermanから強い影響を受ける。このあと、デルタに戻りギターの腕前を披露したところ、その超絶したテクニックにハウスらは驚き、ジョンソンのいう「深夜の十字路で自分の魂を悪魔に売って得たギター・テクニック」が信憑(しんぴょう)性をもって語られるようになる。低音弦でのブギ・ウギ・ピアノを模したウォーキン・ベース(歩くようなゆっくりとしたリズムのベース・ライン)と高音弦での自在なメロディ・ラインの同時奏法は、しばしば聞く者に2人の奏者による演奏ではないかと思われるほどだった。このベース・ライン、ギター・ブギは南部一帯に広がり、やがてシカゴ・ブルースを演奏するバンドが結成されていくなか、高音部のメロディ・ラインと低音部のベース・ラインの分業が進む過程でブルース・サウンドを特徴づけるものとして受け継がれた。また、ジョンソンの鬱屈(うっくつ)したボーカルは悪魔に追いかけられる者の妄想を感じさせ、時にギターのモダンなシティ・ブルース的な奏法と一体となって、ブルースの根源的な力、表情をみせる。

 1936年から37年にかけて、29曲をテキサス州サン・アントニオおよびダラスで録音。のちにブルースのスタンダードとなる「スウィート・ホーム・シカゴ」「アイ・ビリーブ・アイル・ダスト・マイ・ブルーム」「クロスロード・ブルース」といった曲に加え、当時の唯一のヒット(南部で数千枚売れた)となったセックス・メタファーも強烈な「テラプレイン・ブルース」、キリスト教の最後の審判と南部フードゥー(ブーズー教の影響を受けた民間伝承)のシンボリズムが混ざり合った「イフ・アイ・ハド・ポゼッション・オーバー・ジャッジメント・デイ」、地獄の猟犬に追われつづけていると告白する「ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル」、また優美なだけにその孤独さが際だつ「カモン・イン・マイ・キッチン」など、時代がいくら経過しようともけっして古びることのない、歌うことによってのみ救われるかのような名作を、短い生涯の証(あかし)として残した。

 初めての結婚相手を出産で失った後はとくに、このハンサムなギター弾きの行く先々には女性の影がみえていたが、38年にミシシッピ州グリーンウッド郊外で演奏した際、妻を寝取られた嫉妬(しっと)に狂った男によって毒殺されてしまう。それは当時のデルタでは、ミュージシャン仲間は別として、放浪するギター弾きが死んだという程度の話にすぎなかったようだが、61年フォーク・リバイバルの波のなかで初めてのアルバム『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ』King of the Delta Blues Singersがリリースされ、ジョンソンは広く世界に知られる存在となる。エリック・クラプトンが在籍したクリームが「クロスロード」を、ローリング・ストーンズが「ラブ・イン・ベイン」をカバーし、ロックの世界でも知名度を上げ、同時に伝説も増幅されていった。

 全曲集アルバム『コンプリート・レコーディングス』発売時点で初めて、本人の写真も公表され、田舎で寂しいブルースを1人で歌った男というイメージをくつがえすような伊達(だて)男ぶり、ミュージシャンとしての全体像は、世界中のブルース・ファンに衝撃を与えた。マディ・ウォーターズエルモア・ジェームズ、ロバート・ジュニア・ロックウッドRobert Jr. Lockwood(1915―2006)といった、ごく近い距離にいたミュージシャンに影響を及ぼしただけでなく、ダンス・ビートとしてのブルースに革新をもたらし、それ以降のブルースの方向性を明確に示した存在である。

[日暮泰文]

『『ブルース&ソウル・レコーズ』第33、35号(2000・ブルース・インターアクションズ)』『Peter GuralnickSearching for Robert Johnson(1989, Dutton, New York)』『Walter MosleyRL's Dream(1995, Washington Square Press, New York)』


ジョンソン(Randy Johnson)
じょんそん
Randy Johnson
(1963― )

アメリカのプロ野球選手(左投右打)。本名Randall David Johnson。大リーグ(メジャー・リーグ)のモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)、シアトル・マリナーズヒューストン・アストロズアリゾナ・ダイヤモンドバックス、ニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。208センチメートルという長身で「ビッグユニット」の異名をとり、スリークォーターから時速160キロメートル以上の豪速球を投げ込む。1998年から2002年にかけて5年連続300奪三振以上を続けた。

 9月10日、カリフォルニア州ウォルナットクリークで生まれる。南カリフォルニア大学から1985年、ドラフト2巡目指名を受けてエクスポズに入団。1988年に大リーグにデビュー、翌年途中でトレードされ、移籍先のマリナーズで頭角を現した。1990年6月2日の対デトロイト・タイガース戦でノーヒットノーランを達成した。しかし当時はコントロールが悪く、2桁(けた)勝利はあげても、2桁の敗戦と3桁の四球も同時に記録した。尊敬するノーラン・ライアンにアドバイスを仰いでから急成長し、1992年から4年連続奪三振王に輝き、とくに95年は最優秀防御率との二冠王となってマリナーズの球団初の地区優勝に貢献し、サイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)に選ばれた。1998年途中でアストロズへトレードされ、翌年からダイヤモンドバックスへ移籍、以降は4年連続して奪三振王とサイ・ヤング賞を独占、99年と2001年は最優秀防御率との二冠王、02年は自身初の最多勝利も含めた三冠王に輝いた。2001年にはニューヨーク・ヤンキースとのワールド・シリーズで3勝(先発2、救援1)をあげる活躍をみせ、ダイヤモンドバックスが史上最速の球団創設4年目での世界一となる原動力となり、僚友のカート・シリングとシリーズ最優秀選手(MVP)を分け合った。2004年5月には対アトランタ・ブレーブス戦で完全試合を達成、これは大リーグ史上最年長(40歳8か月)記録であった。翌05年1月に交換トレードでヤンキースに移籍して17勝、06年にも17勝をあげて、それぞれ地区優勝に貢献。2007年1月、4選手と交換で古巣ダイヤモンドバックスに移籍した。

[出村義和]

2007年以降

2007年は故障のためにわずか10試合の登板にとどまり、4勝3敗、防御率3.81。

 2007年までの通算成績は、登板試合566、投球回3855と3分の1、284勝150敗、セーブ2、防御率3.22、奪三振4616、完投98、完封37。獲得したおもなタイトルは、最多勝利1回、最優秀防御率4回、最多奪三振9回、サイ・ヤング賞5回。

[編集部]


ジョンソン(Walter Johnson)
じょんそん
Walter Johnson
(1887―1946)

アメリカのプロ野球選手(右投右打)、監督。1907年から27年まで21年間、大リーグ(メジャー・リーグ)のワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)一筋に投げ続けた「ビッグ・トレインBig Train」(人間機関車)の異名をもつ剛球投手で、大リーグ歴代2位の通算417勝をあげた。

 11月6日、カンザス州のハンボルトで生まれる。1907年、マイナー・リーグを経験せずにセネタースに入団。翌08年にはニューヨーク・ハイランダーズ(現ニューヨーク・ヤンキース)相手に3連続完封を演ずる活躍をみせるが、チームが弱く、14勝14敗でシーズンを終えた。しかし、1910年から19年まで10年連続20勝を達成、1912年からは8年連続奪三振王となった。その間、1913年には55回3分の2連続無失点を達成するなど、36勝7敗で初めての最多勝に輝いた。1910年から19年までのセネタースは年平均76勝に対し、ジョンソンはその3分の1にあたる平均27勝をあげていた。1920年の対ボストン・レッドソックス戦で初のノーヒットノーランを達成したが、その直後に右腕を痛めてシーズンを欠場。しかし、翌21年に復活し、24年には23勝で6回目の最多勝を獲得、チームを創設24年目で初のリーグ優勝に導いて最優秀選手(MVP)に輝き、ワールド・シリーズでも初優勝を遂げた。1927年に引退するまで、開幕戦で7回の完封勝利や、2回にわたって無死満塁のピンチを3者3球三振で切り抜けるなどの離れ技を演じた。通算完封勝利110は歴代1位、通算奪三振3508の大リーグ記録は56年間破られなかった。1929年から32年までセネタース、33年から35年までクリーブランド・インディアンスで監督を務めた経験がある。1936年に初めての選考で、ベーブ・ルースらとともに野球殿堂入りを果たした。

 選手としての21年間の通算成績は、登板試合417、投球回5914と3分の1、417勝279敗、防御率2.17、奪三振3508、完投531、完封110。獲得したおもなタイトルは、最多勝利6回、最優秀防御率5回、最多奪三振12回。監督としての通算成績(7年)は、529勝432敗。1936年に野球殿堂入り。

[出村義和]


ジョンソン(Boris Johnson)
じょんそん
Boris Johnson
(1964― )

イギリスの政治家。1964年、ニューヨークで生まれる。父スタンレーStanley Johnson(1940― )はイギリス保守党の欧州議会議員を務めた政治家、母(1979年にスタンレーと離婚)は画家。弟のジョーJo Johnson(1971― )も下院議員を務めた。名門私立学校のイートン校を卒業した後、オックスフォード大学で古典学を学んだ。保守的な『デイリー・テレグラフ』紙のブリュッセル特派員として、EUに批判的な記事を数多く執筆し、注目を集め、また公営放送BBCの風刺番組の出演者として国民的な知名度を獲得する。『スペクテイター』誌の編集長を経て、2001年下院議員に初当選する。2期目途中の2008年、ロンドン市長選に出馬して当選するが、2015年、総選挙で下院議員に復帰する。

 2016年6月に行われたEU残留の是非をめぐる国民投票では、イギリス独立党のファラージNigel Farage(1964― )とともに、離脱派キャンペーンの中心的人物となった。キャメロン首相の辞意表明後に行われた保守党党首選への出馬を見送り、メイ政権で外務大臣を務めたが、メイがEUと結んだ離脱協定案を、イギリスの主権を過度に制約するものだと批判して辞任した。2019年7月、メイが合意案に対する議会の支持を得られず辞任したあと、後任の首相に就任する。

 「EUとの合意なしの離脱も辞さず」と主張する一方、議会を5週間にわたって閉会すると表明して国論を二分する論争となった。これに対して、最高裁判所は議会閉会を違法だと判断した。EUとの新たな離脱案に合意したジョンソンは、自らを国民投票で離脱(ブレグジット)を支持した「一般の人々」の代弁者と位置づける一方、国会議員や裁判官のような「エリート」が民意の実現を妨げているというポピュリズム的なレトリックに訴え、世論の支持を集めた。2019年12月総選挙で、保守党は国民投票でEU離脱を支持した有権者の票を集めて大勝し、2020年1月にイギリスはEUから離脱した。同年2月に始まった新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行では、リバタリアン(自由至上主義者)的な立場から厳格な行動規制に消極的な態度をとり、初動の遅れから多くの犠牲者を出したため、厳しい批判にさらされた。

 毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちた政治家と評される。

[池本大輔 2022年3月23日]

 ロックダウン中の2020年5月に首相官邸でパーティを開くなど、さまざまな不祥事から保守党内の支持を失い、2022年7月に党首を辞任、9月に首相を退任した。

[編集部]

『池本大輔著「イギリス:強硬離脱の原因とその帰結」(『混迷する欧州と国際秩序』所収・2020・日本国際問題研究所)』『池本大輔著「英国:変化を加速させた新型コロナ危機」(植田隆子編著『新型コロナ危機と欧州:EU・加盟10カ国と英国の対応』所収・2021・文眞堂)』


ジョンソン(Samuel Johnson)
じょんそん
Samuel Johnson
(1709―1784)

イギリスの詩人、批評家、辞書編纂(へんさん)家。一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)とよばれる。書店の子としてイングランド中部の田舎(いなか)町リッチフィールドに生まれ、神童の誉れが高かったが、頸部(けいぶ)リンパ節結核に悩み、そのため片方の目を失明。容貌魁偉(ようぼうかいい)が一生彼を苦しめる。やがて心気症の激しい発作にも襲われるようになる。オックスフォード大学に学ぶが、中退。文学を志すも貧乏で世に出るのに苦労する。20歳年上の寡婦と結婚し、郷里の近くに私塾を開くが失敗。そこで教えた、のちに役者となるデイビッド・ギャリックとともにロンドンに出た。詩人たらんとしたが心ならずも雑文を書いて生活を支える。詩としては『願望のむなしさ』(1749)がもっとも優れている。『英語辞典』の計画、出版(1755)をめぐり、時の有力者チェスターフィールド伯とのいきさつが有名。初め伯に後援を求めて断られ、独力で着手、完成まぎわ、伯の側からの援助の申し出があったのを蹴(け)る。これを機にイギリスの出版は後援者と絶縁することになる。この『ジョンソン辞書』は、英語では最初の学問的辞書で、保守的な編集方針により標準英語の確立に貢献した。「からす麦=イングランドでは馬に食わせるが、スコットランドでは人間さまの食べ物」などといった人をくった定義があちらこちらにみられ、辞書の欠点とされたが、いまではかえってそういう箇所に人気がある。母の葬式の費用に困り、1週間で小説『ラセラス』(1759)を書き上げた。このころから文名が高まり、年金300ポンドを受け、文芸クラブをつくり、コーヒー店での談論を楽しみ、文壇の大御所と称された。70歳近くなって『詩人伝』(1779~1781)に着手し、52人の伝記を書き上げる。イギリス伝記文学の白眉(はくび)、ボズウェル『ジョンソン伝』の伝える彼の人柄、不屈の意志、健全な良識などによって、広く敬愛される国民的理想の一人である。

[外山滋比古 2018年6月19日]

『永嶋大典著『ジョンソンの「英語辞典」――その歴史的意義』(1983・大修館書店)』


ジョンソン(Magic Johnson)
じょんそん
Magic Johnson
(1959― )

アメリカのプロバスケットボール選手。8月14日、ミシガン州生まれ。本名アービン・ジョンソンEarvin Johnson。1979年ミシガン州立大学をバスケットボール全米大学チャンピオンに導いたのち、中退してNBA(アメリカ・プロバスケットボール協会)ロサンゼルス・レイカーズに入団。1988年までチームを5回NBAチャンピオンに導き、ファイナルMVPを3回獲得。206センチメートルという長身を感じさせない俊敏な身のこなしと魔術師のような天才的なプレーから「マジック」という愛称がつけられた。1991年11月エイズウイルス感染を理由に現役を引退。1992年復帰し、オリンピック・バルセロナ大会に出場。ラリー・バードLarry Bird(1956― )、マイケル・ジョーダンらが加わった「ドリームチーム」は圧倒的な強さで金メダルを獲得した。同年10月ロサンゼルス・レイカーズとアメリカ・プロスポーツ史上最高の年俸1460万ドル(約17億7000万円)で延長契約を結んだが、11月現役復帰を撤回。1994年3月レイカーズにコーチとして復帰。1995年1月には同チームの選手として復帰するが、1996年5月引退。エイズ研究を援助するマジック・ジョンソン財団の代表を務める。2002年にバスケットボール殿堂入りした。

[編集部]

『アービン・ジョンソン、ウィリアム・ノヴァク著、池央耿訳『マイ・ライフ』(1993・光文社)』『ジョージ・リベイロ著、師岡亮子訳『マジック・ジョンソン エンドレス・マジック』(1997・TOKYO FM出版)』


ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)
じょんそん
Lyndon Baines Johnson
(1908―1973)

アメリカ合衆国第36代大統領(在任1963~1969)。テキサス州南西部の田舎(いなか)に貧しい地方政治家の長男として生まれ、「アメリカの夢」を信じて育った。州立の教育大学を出て、教職、下院議員秘書などを経て、1937年民主党員として同州から下院議員に当選(6期)、大統領ルーズベルトのニューディール政策に協力した。1948年連邦上院議員に当選、1954年再選された。政治家としての天分が下院議長サム・レイバーンらによって磨かれ、1953年には史上最年少の党院内総務となり、議会を操縦した。1960年の党大会でジョン・F・ケネディと大統領候補を争って敗れたが、副大統領候補となり、南部諸州の支持を固めて、ケネディ政権誕生を可能にした。1963年11月、ケネディの暗殺により大統領に昇格、国民の共感をバックに巧みな政治力の行使で、公民権法など多くの進歩的政策を実現し、さらに「貧困との戦争」を柱に広範な社会福祉政策に基づく「偉大な社会」の実現を唱えた。対外的にもハト派の政策を主張し、1964年の選挙には共和党保守派のゴールドウォーター候補を大差で破ったが、その慢心からベトナム戦争を反共の聖戦として軍事介入を強めた。外交の未経験に加えて、国内政治流の秘密主義を戦争遂行に持ち込んだため、国民の不信を買い、人種対立、ドルの低落と相まって国内危機を招いたため、1968年3月、任期満了後の引退を声明した。

[袖井林二郎]

『ニューヨーク・タイムズ編、杉辺利英訳『ベトナム秘密報告』上下(1972・サイマル出版会)』『デイビッド・ハルバースタム著、浅野輔訳『ベスト&ブライテスト』全3巻(1976・サイマル出版会)』



ジョンソン(Douglas Wilson Johnson)
じょんそん
Douglas Wilson Johnson
(1878―1944)

アメリカの自然地理学者、とくに地形学者として著名。ウェスト・バージニア州のパッカーズバーグに生まれ、ハーバード大学を卒業後、1912年以来コロンビア大学教授を務めた。地形学者デービスの後継者として、多くの論文を発表した。とくに海岸地形に関する研究が多い。デービスの海食輪廻(りんね)説を発展させ、合成海岸や海岸線の形態のなかのカスプの形成の仮説の提示、海岸の後退作用に関する研究などは有名である。主著に『海岸の営力と海岸線の発達』(1919)、『ニューイングランド・アカディア海岸』(1925)などがある。晩年には、コロンビア大学から地形学雑誌を発行し、編集にあたった。

[市川正巳]


ジョンソン(Andrew Johnson)
じょんそん
Andrew Johnson
(1808―1875)

アメリカ合衆国第17代大統領(在任1865~69)。貧しい農民の子として生まれ、テネシー州で仕立屋になる。1828年以降、市会議員、州民主党下院議員、州上院議員、連邦下院議員、テネシー州知事、連邦上院議員を歴任した。50年代なかばに自営農地法を支持。南北戦争に際して奴隷制を容認したが、南部の連邦離脱には反対し、戦争派民主党員になった。62年テネシー州軍政官、64年リンカーン政権の副大統領になり、翌年リンカーン暗殺で大統領に就任。就任後、旧奴隷主勢力の復活を許す反動的再建政策を遂行しようとして、共和党急進派提出の諸法案にことごとく拒否権を発動したが、いずれも乗り越えられた。67年成立の官職保有法を犯し、急進派の路線を支持する陸軍長官を罷免したのを契機に弾劾裁判にかけられたが、1票差で弾劾を免れた。

[竹中興慈]



ジョンソン(Eastman Johnson)
じょんそん
Eastman Johnson
(1824―1906)

アメリカの画家。19世紀アメリカの風俗画を代表する一人。メーン州ローウェルに生まれる。1849年渡欧し、デュッセルドルフ、ハーグなどで研鑽(けんさん)を重ねて55年に帰国して以来、健康で穏やかな市民生活を描いた。なかでも『オールド・ケンタッキー・ホーム』(1859・ニューヨーク歴史協会)は奴隷制度の明るい局面をとらえて一般の嗜好(しこう)に投じた。70年代になって集中的に描いた野外の風俗画シリーズのなかには、フランス印象派と並行する光と色の実験の跡がみられたが、ホーマーの画業の陰に隠れた存在になっている。

[桑原住雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョンソン」の意味・わかりやすい解説

ジョンソン
Johnson, Boris

[生]1964.6.19. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
ボリス・ジョンソン。アメリカ合衆国生まれのイギリスのジャーナリスト,政治家。首相(在任 2019~22)。フルネーム Alexander Boris de Pfeffel Johnson。
ニューヨークで生まれ育ち,ベルギーのブリュッセルを経てイギリスに移る。奨学金を得てイートン・カレッジに入学,その後オックスフォード大学ベーリオール・カレッジで古典学を学ぶ。1987年に『タイムズ』(→ロンドン・タイムズ)の記者となるが,引用文を捏造したために解雇される。1989~94年『デーリー・テレグラフ』のヨーロッパ共同体 EC(1993年以降はヨーロッパ連合 EU)特派員。1994年週刊誌『スペクテーター』の政治コラムニストとなり,1999年編集長に就任,2005年まで務めた。その間の 2001年に保守党の下院議員に当選し,2005年再選。
2007年7月,ロンドン市長選挙に立候補し,2008年5月に僅差で勝利した(翌 6月議員辞職)。2012年には市長に再選され,2016年まで務めた。その一方で 2015年に再び下院議員となり,イギリスの EU離脱(ブレグジット Brexit)の是非を問う国民投票において,離脱派の旗振り役となった。2016年6月23日に実施された国民投票では,約 52%が離脱を支持し,デービッド・キャメロンが首相を辞任。後任のテリーザ・メイ首相によって外務大臣に指名された。2018年7月,メイ首相の EU離脱交渉に対し譲歩しすぎであると反発した担当大臣の辞任に呼応して,ジョンソンも辞任。2019年6月7日に離脱交渉の行きづまりをうけてメイ首相が辞任を表明すると,ジョンソンは保守党党首選挙に出馬し,7月23日に党首に選出,翌 24日首相に就任した。EUからの「合意なき離脱」no-deal Brexitも辞さない構えのジョンソンだったが,12月12日に断行した下院の解散・総選挙で保守党を大勝に導き,国民投票からおよそ 3年7ヵ月後の 2020年1月31日にイギリスは正式に EUを離脱した。
2020年以降は世界規模に拡大した新型コロナウイルス感染症(→COVID-19)の対応に追われた。2021年11月,コロナ禍によるロックダウン(都市封鎖)中にもかかわらず首相官邸など政府建物内でパーティが複数回開かれていたことが発覚,「パーティゲート」partygateと称されるスキャンダルに発展した。コロナ関連法違反の疑いで警察の捜査が入り,2022年4月に首相自身に罰金が科せられた。6月6日には保守党内でジョンソンの信任投票が行なわれ,不信任は免れたものの不信任票を投じた党員が約 41%を占める事態となった。さらに,同 23日に行なわれた二つの選挙区での下院補欠選挙で保守党候補が敗れ,ジョンソン続投に不安の声が高まった。その後,性的問題行動により 6月末に辞任した党幹部の起用をめぐって,ジョンソンの説明が二転三転したことをきっかけに,リシ・スナク財務大臣,サジド・ジャビド保健大臣の重要閣僚をはじめ 40人をこす政府高官が相次いで辞任,ジョンソンは孤立無援に陥り,7月7日に辞任を表明した。
著書にエッセー集"Lend Me Your Ears"(2003),小説"Seventy-two Virgins"(2004),"The Dream of Rome"(2006)ほか,『チャーチル・ファクター たった一人で歴史と世界を変える力』The Churchill Factor: How One Man Made History(2014)がある。

ジョンソン
Johnson, Philip Cortelyou

[生]1906.7.8. オハイオ,クリーブランド
[没]2005.1.25. コネティカット,ニューカナーン
アメリカの建築家。ハーバード大学で古典と哲学を学んだのち,ヨーロッパ旅行を通じて得た知見をヘンリー=ラッセル・ヒッチコックとの共著『国際様式』 The International Style,Architecture since 1922 (1932) にまとめて出版。同書は国際様式という呼称を普遍化しただけでなく,1930年代の建築活動の高揚にも貢献した。 1932~54年ニューヨーク近代美術館の初代建築部門部長。 1933年に「アメリカ,スカイスクレーパーの誕生展」とインダストリアル・デザインの展示を企画し,近代建築の普及に画期的な役割を果たした。その間,ハーバード大学大学院でマルセル・ブロイアーのもとで建築を学び,1945年以後設計を行なう。初期の作品はルートウィヒ・ミース・ファン・デル・ローエからの強い影響を示すが,その後古典様式へとロマン主義から重厚な造形を加えていった。 1978年アメリカ建築家協会ゴールドメダル,1979年プリツカー賞受賞。代表作は自邸のガラスの家 (1949,ニューカナーン) ,シーグラム・ビル (1958,ニューヨーク,ミース・ファン・デル・ローエと共同制作) ,アモンカーター美術館 (1961,フォートワース) ,ニューヨーク近代美術館増築および彫刻中庭 (1964) ,ニューヨーク州立劇場 (1964,ニューヨーク,リンカーンセンター,リチャード・フォスターと共同制作) ,AT&T本社ビル (1984,ニューヨーク) 。

ジョンソン
Jonson, Ben(jamin)

[生]1572.6.11. ロンドン
[没]1637.8.6. ロンドン
イギリスの劇作家,詩人,批評家。煉瓦職人の義父に育てられ,大学には進めなかったが,歴史家 W.カムデンの知遇を得て深い古典の学識を身につけた。軍人としてオランダに出征したのち,1597年頃から興行師ヘンズローのために戯曲の創作を始め,同僚の俳優を決闘で殺してかろうじて死刑を免れるなどの事件があったが,98年『十人十色』 Every Man in His Humourがシェークスピアの一座で上演されてから文名があがった。まもなく「劇場戦争」と呼ばれる劇作家間の抗争に巻込まれたが,1605年に『黒の仮面劇』 Masque of Blacknessが宮廷で上演され,舞台装置家 I.ジョーンズと組んで宮廷仮面劇の黄金時代をつくり上げた。公共劇場でも『ボルポーニ』 Volpone (1606) ,『エピシーニ,または物言わぬ女』 Epicoene,or The Silent Woman (09) ,『錬金術師』 The Alchemist (10) など,人間の物欲と愚かさを暴露した風刺喜劇の傑作を発表。また,批評集『森または発見』 Timber or Discoveries (40刊) ,詩集『林』 The Forest (16) などがある。古典主義の信奉者,強大な知性の持主として,当時の劇壇文壇に大きな影響を与えた。 16年ジェームズ1世から年金を受け,事実上最初の桂冠詩人となった。

ジョンソン
Johnson, Samuel

[生]1709.9.18. スタッフォードシャー,リッチフィールド
[没]1784.12.13. ロンドン
イギリスの詩人,批評家,随筆家,辞典編纂者。書店主の子に生れ,オックスフォード大学に進んだが貧困のため中退。小学校の代用教員をつとめてから,28歳のときロンドンに出て,風刺詩『ロンドン』 London (1738) を書いたり,雑誌の編集執筆をしながら,独力で2卷の『英語辞典』 Dictionary of the English Language (55) を完成した。財政援助を拒否したチェスターフィールド伯にあてた辛辣な手紙 (55.2.7) は有名。教訓小説『ラセラス』 Rasselas (59) によって文名を高め,J.レイノルズ,ゴールドスミス,D.ガリックらの画家,文人,俳優を集めて「文学クラブ」をつくり,文壇の大御所として広く敬愛を集めた。批評家としては『イギリス詩人伝』 The Lives of the English Poets (79~81) とシェークスピア全集 (65) の序文として書かれたシェークスピア論が有名。ボズウェルの『ジョンソン伝』 (91) は,よくその性格を伝えている。一面頑固な保守主義者であったが,豊かな人間的感情の持主であり,ジョンソン博士として広く親しまれた。

ジョンソン
Johnson, Magic

[生]1959.8.14. ミシガン,ランシング
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。本名 Earvin Johnson,Jr.。NBAのロサンゼルス・レイカーズを5回にわたり優勝に導いた。「マジック」というニックネームは,その独創的で見る者を楽しませるボールさばきに由来する。 1977年高校で所属していたチームを州大会優勝に,1979年にはミシガン州立大学チームを全米大学体育協会 NCAA選手権大会制覇に導いた。 1979年レイカーズに入団。その後 1980,1982,1985,1987,1988年の5回にわたってチームを王座につかせ,自身は 1987,1989,1990年にレギュラーシーズン最優秀選手 MVPに選ばれた。ポイントガードとして活躍,そのポジションをかつてないほど多様なものにしてみせた。 1991年 HIV感染を理由にいったん引退するが,その時点での通算アシスト数 9921は NBA歴代1位であった。 1992年バルセロナ・オリンピック競技大会にドリームチームの一員として出場し,アメリカに金メダルをもたらした。 1994年に短期間レイカーズのヘッドコーチを務め,1995-96年シーズンに一時期,現役復帰した。 2002年ネイスミス記念バスケットボール殿堂入り。

ジョンソン
Johnson, Lyndon Baines

[生]1908.8.27. テキサス,ギレスビー
[没]1973.1.22. テキサス,サンアントニオ
アメリカの政治家。第 36代大統領 (在任 1963~69) 。 1930年州立サウスウェスト・テキサス教育大学卒業。 37年下院に民主党から立候補し当選,49年には上院議員になった。アイゼンハワー共和党政権下で,野党院内総務として院内の政治的折衝や党内工作にすぐれた手腕を示し,党の指導的地位を固めた。 61年 J.ケネディ政権の副大統領に就任。 63年ケネディ暗殺に伴い大統領に昇格,64年の大統領選挙で勝利を収めた。「偉大な社会」のスローガンを掲げ,黒人に対する公民権政策など内政問題に積極的に取組んだが,64年8月トンキン湾事件,翌年2月北爆開始とベトナム戦争に介入し,内外からの強い批判を浴びた。その結果 68年3月には大統領選挙戦への不出馬を表明し,翌年1月任期満了に伴い政界から引退した。

ジョンソン
Johnson, Andrew

[生]1808.12.29. ノースカロライナ,ローリー
[没]1875.7.31. テネシー,カーターステーション近郊
アメリカの政治家。第 17代大統領 (在任 1865~69) 。 1843~53年連邦下院議員,53~57年テネシー州知事,57~62年連邦上院議員となる。その間 61年にテネシー州の連邦脱退に反対して州の政治家の大勢から離れ,南北戦争中は連邦側に属した。戦後の 65年副大統領,同年4月 A.リンカーンの暗殺により大統領に就任,再建計画の実施にあたり,リンカーンの政策の大綱を踏襲し,南部諸州再建に対して寛大な政策をとった。このため,議会で優勢な共和党急進派の批判を受け,68年5月大統領弾劾の最終投票にかけられ,わずか1票の差で弾劾を免れた。同年の大統領選挙では共和党から指名されず,75年再び連邦上院議員になった。

ジョンソン
Johnson, Paul Emanuel

[生]1898.2.9. コネティカット
[没]1974.9.1.
アメリカの宗教心理学者,牧会カウンセリングの第一人者。ボストン大学,コーネル大学より博士号を受ける。中国の大学で教え (1926~27) ,ボストン大学神学部教授として宗教心理学を講じ (41~63) ,牧会カウンセリングの領域で先駆的な貢献をした。 1963年に来日,東京神学大学,青山学院大学,関西学院大学,同志社大学などで教鞭をとった。宗教と精神衛生学会,臨床牧会教育学会,アメリカ・プロテスタント病院協会などの会員。主著"Psychology of Religion" (45) ,"Psychology of Pastoral Care" (53) ,"Personality and Religion" (57) ,"Person and Counselor" (67) 。

ジョンソン
Johnson, Sir William

[生]1715. ミース,スミスタウン
[没]1774.7.11. ニューヨーク,ジョンズタウン
アメリカのインディアン監督官。ニューヨーク植民地開拓者。 1737年頃アイルランドからアメリカに移住し,39年以来モホーク川北岸に土地購入を始め,アメリカ植民地有数の大土地所有者となった。 39年以後2人のインディアンの女性と結婚,インディアン民族と親交があり,54年イロコイ6民族連盟の監督官,56年再び北部インディアン監督官に就任。北アメリカでの対フランス諸戦争におけるインディアンの中立化,対イギリス友好化などに活躍。 63年のポンティアク戦争でも鎮定に努力し,68年フォート・スタンウィックス条約の成立に貢献した。

ジョンソン
Johnson, Lionel Pigot

[生]1867.3.15. ケント,ブロードステアーズ
[没]1902.10.4. ロンドン
イギリスの詩人,批評家。オックスフォード大学に学ぶ。学生時代に雑誌『ワイクハミスト』 Wykehamist (1884~86) を編集。 1891年カトリックに改宗,『スペクテーター』『アカデミー』誌などに寄稿。『詩集』 Poems (95) ,『アイルランド』 Ireland and Other Poems (97) のほか,『シェークスピアの道化』 The Fools of Shakespeare (87) ,『トマス・ハーディの技法』 The Art of Thomas Hardy (94) などの評論がある。

ジョンソン
Johnson, Hewlett

[生]1874
[没]1966
イギリス国教会聖職者,平和運動家。オックスフォードに学んで聖職者となる (1905) 。社会問題に関心を寄せ『インタープリター』誌を刊行 (05~24) 。マンチェスターの主任司祭 (24~31) ,カンタベリーの主任司祭をつとめる。第2次世界大戦後は平和運動に尽力し,スターリン平和賞を受賞 (50) 。「カンタベリーの赤いディーン (主任司祭) 」と呼ばれた。主著『世界第6社会主義者』 The Socialist Sixth of the World (40) ,『新しき中国』 New Creative China (53) 。

ジョンソン
Johnson, Richard Mentor

[生]1780. ケンタッキー,ルイビル近郊
[没]1850.11.19. ケンタッキー
アメリカの政治家。 M.バン・ビューレン大統領のもとで副大統領。 1802年弁護士開業。 04年ケンタッキー州議会議員。 07~19,29~37年連邦下院議員。 19~29年連邦上院議員。民主党員として A.ジャクソン大統領を忠実に支持。 37~41年異例な形で上院に推されて副大統領に就任したが,民主党内で彼に反対する勢力が増大。 40年の大統領選挙に立候補したがホイッグ党候補 J.タイラーに敗れた。

ジョンソン
Johnson, Ural Alexis

[生]1908.10.17. カンザス,ファルン
[没]1997.3.24. ノースカロライナ,ローリー
アメリカの外交官。 1935~37年日本駐在大使館勤務を振出しに,37~42年ソウル,天津,奉天の各副領事をつとめた。第2次世界大戦後 47~50年横浜総領事に就任。 51~53年国務省北東アジア局長,53~58年チェコスロバキア駐在大使,62~66年国務省政務担当副次官などを経て 66~68年日本駐在大使に就任した。 69~73年国務次官 (政治担当) ,73~77年戦略兵器制限交渉 SALT代表などを歴任。知日派として知られた。

ジョンソン
Johnson, Douglas Wilson

[生]1878.11.30. ウェストバージニア,パーカースバーグ
[没]1944.2.24. フロリダ,セブリング
アメリカ合衆国の地形学者。マサチューセッツ工科大学で地質学,ハーバード大学で自然地理学を教え,のちにコロンビア大学教授となる。デービス学派の一人で,河谷地形および海岸浸食の研究に従事し,特に海岸地形にすぐれた研究を残す。主著『海岸営力と海岸線の発達』 Shore Processes and Shoreline Development (1919) 。

ジョンソン
Johnson, William Ernst

[生]1858.6.23. ケンブリッジ
[没]1931.1.30.
イギリスの論理学者。ケンブリッジ大学に学び,1902年以後同大学教授として道徳哲学を講ず。論理学の課題を「思考の分析と批判」と定義し,すべての学問の規範学とみなした。また経済学にも興味を示し,効用理論などを研究。これはケインズにも大きな影響を与えた。主著『論理学』 Logic (3巻,1921~24) 。

ジョンソン
Johnson, Robert

[生]1583
[没]1633. ロンドン
イギリスの作曲家。 1604~33年イギリス王室のリュート奏者をつとめた。リュート歌曲のほか,戯曲の付随音楽,バージナル曲などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「ジョンソン」の意味・わかりやすい解説

ジョンソン
Samuel Johnson
生没年:1709-84

イギリスの文人,辞書編纂家。18世紀後半の代表的作家で,〈文壇の大御所〉と呼ばれた。中部地方リッチフィールドの本屋の息子として生まれる。オックスフォード大学を中退して,故郷で私塾の教師をするが,1737年教え子D.ギャリックとともにロンドンへ出,《ジェントルマンズ・マガジン》に寄稿して,文筆に従事する。その間,風刺詩《ロンドン》(1738)をローマの風刺家ユウェナリスに模して作る。また当時の交友の中から《リチャード・サベッジ伝》(1744)が生まれた。このような三文文士的な仕事をしつつ力を蓄え,他からの経済的援助もいっさいなく独力で約9年間を要して《英語辞典》(1755)を編集・出版。これは英語辞典編纂の出発点となった記念碑的な出版物である。その間《人間の望みのむなしさ》(1749)を出版,また1750-52年定期刊行のエッセー雑誌《ランブラー》をほとんど独力で発行した。前者はやはりユウェナリスを模して作った風刺詩で,とくに学問的・文学的名声のむなしさについてうたっている。後者は教訓的で重厚さを特徴とし,《スペクテーター》に匹敵する。次いで同じく定期刊行のエッセー《アイドラー》(1758-60)を執筆する。

 59年に出版された哲学的小説《ラセラス》は,母の葬儀の費用を作るために急いで書かれたとされるが,この作品も作者が温めた主題,人間の望みのむなしさを宗教的な諦念をもって整った文体で訴えている。65年かねてからの計画によって《シェークスピア著作集》を編集・出版,序文はすぐれたシェークスピア論となっている。

 1763年のちに彼の伝記を書いたJ.ボズウェルと出会い,翌年にはジョンソンが中心となってE.バーク,O.ゴールドスミスら当時の有名人を会員とする〈クラブ〉(のち文学クラブと改名)を創立する。クラブを中心とした対談家ジョンソンの一面はボズウェルの《サミュエル・ジョンソン伝》に詳しい。そこには伝統を守り,事実を重んじ,時代の流行に対する懐疑的な精神を顕著に示しながら,人間味あふれるジョンソンの本領が示されている。晩年の仕事としては《イギリス詩人伝》(1779-81)があり,伝記と批評とが巧みに結び合わされたものとして彼の文学批評のすぐれた結晶となっている。
執筆者:


ジョンソン
Ben Jonson
生没年:1572-1637

イギリスの詩人,劇作家。ロンドンに生まれ,ウェストミンスター・スクールで古典の素養を身につけたのち,しばらく外国で軍人生活を送って帰国。1598年に侍従長一座によって上演された《気質くらべ》の成功によって世に出た。同種の市民風俗喜劇《気質を捨てて》(1599初演)の執筆後少年劇団の側に転じ,いわゆる〈劇場戦争〉に加わって《へぼ詩人》(1601)などしんらつな風刺喜劇で劇作家マーストンらを攻撃した。その後再び成人劇団側に戻り,遺産相続にからむだまし合いを筋に仕組んだ《ボルポーネ》(1606),極端な音嫌いを主人公とする《物言わぬ女》(1609,これのみ少年劇団用に執筆),錬金術をたねにした詐欺を扱った《錬金術師》(1610),縁日を舞台に多くの騙り(かたり)と茶番の筋が複雑に錯綜する《バーソロミュー・フェア》(1614)と,立て続けに第一級の喜劇をものして劇壇での地位を不動のものにした。しかし,以後の作品は寓意的色彩が強く,構成の弛緩が目だって,詩的想像力の衰えを感じさせる。彼はまた古典的な悲劇の範を示すべく《セジェーナス》(1603)と《キャティライン》(1611)の2作を執筆したが不成功に終わった。さらに卓越した舞台意匠家であったI.ジョーンズと協同して宮廷のために《黒の仮面劇》(1605),《女王たちの仮面劇》(1609),《ジプシーの変身》(1621)など多くの仮面劇を書いた。詩人としては古典的端正と清澄を特徴とする抒情短詩に長じ,3編の詩集を残した。また,古今の書物に関する感想文を集めた《発見録》(1640)その他さまざまな形の散文は,当代まれな学殖によって支えられており,初期文芸批評史における一つの里程標としての位置を占めている。
執筆者:


ジョンソン
Lyndon Baines Johnson
生没年:1908-73

アメリカ合衆国第36代大統領。在職1963-69年。テキサス州出身。1930年代にニューディール派民主党員として政界に入り,37年連邦下院議員補選に出馬して当選,48年には上院に転じた。議会政治家として卓越した手腕を発揮し,53年史上最年少で民主党院内総務に選ばれた。60年の大統領選では民主党候補指名争いでケネディに敗れたが,党の結束を示すため請われて副大統領候補となり当選,63年11月ケネディが暗殺されたため大統領に昇格した。国民にケネディ路線の継承を呼びかける一方,コンセンサスをうたう巧みな議会工作で公民権法の制定,貧困撲滅,社会保障の拡充,学校教育に対する連邦の援助などの政策を次々に実現化し,その指導力を印象づけた。64年の大統領選で圧倒的な支持を得て当選すると教育,福祉,人種差別廃止,環境保全,都市開発など広範にわたる〈偉大な社会〉政策を提唱したが,これらは以後のアメリカ社会を方向づける基本的要素となった。外交面ではソ連やラテン・アメリカ諸国との関係改善に成果をあげたが,65年ころからはベトナム戦争が最大の問題となった。ジョンソンは戦争の早期終結をはかるべく北ベトナム爆撃,アメリカ陸軍の投入などを命じたが,戦争は逆に拡大長期化し,軍事予算の膨張,経済のインフレ化,反戦運動の激化を招く結果となった。内外の批判を浴びたジョンソンは68年の大統領選に再出馬の意思のないことを表明し,混乱のうちに任期を終えた。
執筆者:


ジョンソン
Andrew Johnson
生没年:1808-75

アメリカ合衆国17代大統領。在職1865-69年。ノース・カロライナ州ローリーに生まれ,のちテネシー州グリーンビルに移り,洋服店を開いた。やがて大農園貴族層に反対するジャクソン派民主党員として政界に入り,グリーンビル市長,州議会議員,連邦下院議員,テネシー州知事,そして連邦上院議員となった。彼自身奴隷所有者であり,奴隷制度擁護者ではあったが,南北戦争前の危機に際してテネシー州の連邦脱退に反対し,連邦上院議員の地位も辞さなかった。64年の大統領選挙でリンカンによって副大統領候補に選ばれ,当選したが,翌年4月15日リンカン暗殺により大統領に昇格した。リンカンの戦後南部政策を引き継いだ彼は,その保守性のため共和党急進派の反対に直面し,68年には官職保有法等違反を理由に大統領として初めて上院による弾劾裁判にかけられた。わずか1票差で弾劾を免れた彼は以後政治的影響力を失い,そのまま任期を終えた。
執筆者:


ジョンソン
Douglas Wilson Johnson
生没年:1878-1944

アメリカの地形学者。W.M.デービスの門下の第一人者として多くの論文を発表したが,特に海岸地形に関するものが多い。1912年からコロンビア大学教授。19年に刊行した《海岸の営力と海岸線の発達》は,それまでかなり未開拓で遅れていた海岸地形分野の研究を一気に高め,世界的に知られるようになった。海岸線にはどのような営力が働き,それにより海岸線はどのように変化してゆくか,つまり海岸地形の発達史を解明した理論は,アメリカはもとよりヨーロッパ各地の海岸の実地調査から得られたものである。同書にある優れたブロック・ダイヤグラムはきわめて明快で,今日でも多くの地形学の本に必ずといってよいほど引用されている。現在では古典として扱われているが,新鮮な内容をもつ名著である。晩年にはコロンビア大学から地形学雑誌を刊行した。
執筆者:


ジョンソン
Philip Cortelyou Johnson
生没年:1906-2005

アメリカの建築家。クリーブランド生れ。ハーバード大学卒業後,1930-36年と46-54年,ニューヨーク近代美術館に勤務。自邸〈ガラスの家〉(1949,コネティカット州)で近代住宅設計について名を知られるようになり,その後ペンゾイル・プレース(1976,ヒューストン),AT & Tビル計画案(ニューヨーク)等により,変化に満ちたシルエットを高層ビルに与え,現代建築に大きな影響を与えている。美術館在職中にヒッチコックHenry-Russel Hitchcockと著した《国際様式--1922年以後の建築》(1932)(国際様式建築)でも知られる。
執筆者:


ジョンソン
Lionel Pigot Johnson
生没年:1867-1902

イギリスの世紀末詩人,評論家。アイルランド文芸復興に関心をもち,イェーツらと〈詩人ライマーズ・クラブ〉をつくり,音楽的で知的な詩と鋭い評論を発表した。カトリック伝統美にケルト精神,古典の教養ある詩人だったが,惜しくも泥酔死した。《詩集》(1895),評伝《ハーディ》(1894)がある。誘惑と戦う〈闇夜の天使〉,母校への別れのうた〈オックスフォード〉などは,すぐれた抒情詩である。
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ジョンソン
Pauline Johnson
生没年:1862-1913

カナダのイギリス系詩人。彼女はモホーク族の酋長を父としイギリス婦人を母としてオンタリオ州のインディアン保護地区で生まれた。1890年代にインディアンの衣装をまとって自作詩を朗読,各地を巡回して大いに人気を博し,その名声は一時英米にまで及んだ。詩集に《白いワンパム(貝殻玉)》(1895)や《カナダ生れ》(1905),ほかに散文の《バンクーバー伝説集》(1911)などがある。
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百科事典マイペディア 「ジョンソン」の意味・わかりやすい解説

ジョンソン

米国の政治家。第36代大統領(1963年―1969年)。民主党に属し,下院議員(1937年―1948年),上院議員(1949年―1961年)となり,議会運営のベテランとして知られた。1961年副大統領となり,1963年ケネディ大統領暗殺で昇格,1965年再任。内政面では人種差別廃止や環境保全など〈偉大な社会〉政策を唱えたが,ベトナム戦争(インドシナ戦争)では深刻化を招いた。
→関連項目マクナマラマッカーシー民主党(米国)ラスクロストー

ジョンソン

米国の建築家。クリーブランド生れ。ハーバード大学卒。自邸〈ガラスの家〉(コネティカット州,1949年)をはじめ,作品に〈イェール大学クライン科学センター〉(ニューヘブン,1965年),〈ペンゾイル・プレイス〉(ヒューストン,1976年)などがある。また1930年―1936年,1946年―1954年ニューヨーク近代美術館に勤務し,1932年H.R.ヒッチコックと〈モダン・アーキテクチュア〉展を担当,それにともなう著作〈国際様式〉が世界的な建築傾向となるきっかけを作った(〈国際様式建築〉)。その後はポスト・モダニズム的作品〈AT&Tビル〉(ニューヨーク,1984年)で論議を呼んだほか,1988年には近代美術館で〈ディコンストラクティビズム〉の用語を定着させた〈ディコンストラクティビスト・アーキテクチュア〉展を企画した。

ジョンソン

英国の文人。リッチフィールドの書店の子に生まれ,オックスフォード大学に入ったが中退,後ロンドンに出て文筆活動を始めた。風刺詩《人間の願望のむなしさ》(1749年),教訓小説《ラセラス》(1759年),52人の詩人を扱った《イギリス詩人伝》(1779年―1781年)などを書いたほか,《英語辞典》(1755年)を苦心して刊行した。《シェークスピア全集》の編集でも知られる。ジョンソン博士と呼ばれ親しまれるその人柄はボズウェルによる伝記で有名。
→関連項目伝記バーニーブルーストッキング

ジョンソン

米国のブルース歌手,ギター奏者。ミシシッピ川の中流域を中心に発達したデルタ・ブルースの異才として語られるが,経歴は謎めいたところが多い。《I Believe I'll Dust My Broom》《Crossroads Blues》など,1937年に録音された全29曲によってのみその演奏を聴くことができる。卓越した技術と新しいアイデアに満ちたギター奏法,優れた感覚表現力を持った独創的な歌詞は,後世の数多くのミュージシャンに大きな影響とインスピレーションを与えた。1938年,女性がらみのトラブルが原因で毒殺されたとされる。
→関連項目ウォーターズジェームズ

ジョンソン

英国の劇作家,詩人。シェークスピアの同時代に活躍し,当時の文壇の大御所。学殖豊かで古典主義的戯曲を書いた。《セジェーナス》などの悲劇もあるが,《ボルポーネ》(1606年),《錬金術師》(1610年)などの喜劇がすぐれている。舞台芸術家でもあったI.ジョーンズと協同して宮廷用の仮面劇も多く作った。
→関連項目エリザベス朝演劇マーストン

ジョンソン

陸上選手。ジャマイカ,トリローニー郡生れ。1976年カナダのトロントに移住。1988年ソウルオリンピック100m走決勝において,ルイスを破り9秒79の世界新記録で優勝。しかし,レース後のドーピング検査で,アナボリック・ステロイド(筋肉増強剤。薬品名スタノゾール)が検出され,失格となり,金メダルも剥奪された。また2年間の競技出場停止処分も受ける。彼の事件は,選手の薬物使用の問題や巨額なCM契約料などスポーツの商業化の問題を改めて提起した。

ジョンソン

バスケットボール選手。愛称マジック・ジョンソン。米国ミシガン州出身。1979年,ミシガン州立大学を全米大学チャンピオンに導いた後中退し,NBAロサンゼルス・レイカーズに入団。ルーキーとして初めてファイナルのMVPに選ばれる。以後12年間でチームをNBA決勝へ9回導き5勝。自らも3回MVPに輝くなど,人気,実力共にNo.1のバスケットボール・プレーヤーとなった。1991年エイズ・ウイルス感染を理由に引退。1992年,米国政府エイズ対策研究会委員に就任,その後引退・復帰をくり返し,1996年3度目の引退を表明。エイズ研究を援助するマジック・ジョンソン財団の代表を務める。

ジョンソン

米国の政治家。第17代大統領(1865年―1869年)。テネシー州選出のジャクソン派民主党員であったが,南北戦争に際して奴隷制度擁護者でありながらテネシー州の連邦脱退には反対した。1865年副大統領となり,リンカンの死後,大統領に昇格。南部に対し寛大な政策をとろうとして共和党の激しい非難攻撃を受けた。
→関連項目クリントン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジョンソン」の解説

ジョンソン
Lyndon Baines Johnson

1908~73

アメリカ第36代大統領(在任1963~69)。民主党員。上院院内総務をへて,副大統領に就任。ケネディの暗殺で大統領に昇格。内政で「偉大な社会」をスローガンに公民権,社会福祉などの分野でニューディール以来の画期的な成果をあげた。外交ではソ連との緊張緩和を進めたが,ベトナム戦争への大規模な軍事介入を行って失敗。パリで和平交渉を開始した。ベトナム戦争批判が国内で強くなったため,68年の大統領選挙に出馬せず,引退。

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367日誕生日大事典 「ジョンソン」の解説

ジョンソン

生年月日:1878年11月30日
アメリカの地形学者
1944年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジョンソンの言及

【インドシナ戦争】より

…以後米軍の介入は本格化し,67年末までには派遣兵力50万,韓国ほかの参戦国兵力5万に及んだ。また64年7~8月のトンキン湾事件を機に,米議会よりベトナム問題解決の特別権限を得たジョンソン大統領は,65年2月以降北ベトナム爆撃(北爆)を続行した。しかし3次にわたる大攻勢はいずれも失敗し,かえってベトナム人民の反米抵抗を強化した。…

【近代建築】より

国際様式建築
[ポスト・モダニズム]
 国際様式は世界中の高層事務所建築の主流となったが,その画一的かつ非個性的な空間を嫌う声が60年代から現れてくる。すでにル・コルビュジエのロンシャンに建つ教会(1954),デンマークのウッツォンJørn Utzon(1918‐ )によるシドニー・オペラ・ハウス(1956設計),丹下健三設計の国立屋内総合競技場(1964)などの作品が,機能の充足のみからは説明のできない造形を示していたし,70年代に入るとフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)における設計の伝統であった古典主義的造形を標榜するアメリカのL.I.カーン,またAT & Tビル(1978設計)によって高層ビルに象徴的表現を復活させたP.C.ジョンソンらの影響力が強まった。構造技術の表現,工業生産力の建築への応用という近代建築の一貫したテーマは,J.スターリング設計のレスター大学工学部(1959),ピアノ=ロジャーズ設計のパリのポンピドゥー・センター(1977)などの表現を生んだが,プレハブ建築や工業化された建築部材はすでに先進国の日常生活そのものとなっていた。…

【国際様式建築】より

…インターナショナル・スタイルinternational styleともいう。1932年ニューヨーク近代美術館で現代建築展が企画されたおり,担当したヒッチコックHenry‐Russel HitchcockとP.C.ジョンソンが著した書名に由来するという。20世紀に入り鉄骨造・鉄筋コンクリート造の普及発展,建築工学技術の進歩が著しかった。…

【超高層建築】より


[ポスト・モダニズム]
 第2次世界大戦後の超高層建築の多くは,四角い箱とガラスのカーテンウォールによって表現され,都市のスカイラインを構成してきた。このような中にあって,アメリカのP.C.ジョンソンとJ.バーギーは,1973年,IDSセンターをミネアポリスに,76年にペンジイル・プレイスをヒューストンに完成させ,さらに78年,AT & T本社ビル(ニューヨーク)の計画を発表することによって,ポストモダニズムのデザインの先駆けとなった。これら一連の超高層建築は,林立する超高層群の中で,その存在を誇示するかのように平面形を幾何学的に処理し,頂部,胴,基盤の各部の表現方法の基調を1930年代のスカイスクレーパーに求めており,そしてこれらの表現方法を現代の素材と,高度に発達したコンピューターの構造解析により具現化させたものであった。…

【コリンズ】より

…少年時代に作った《ペルシアの牧歌》(1742)などで文名を知られたが,オックスフォード大学卒業後,ロンドンで文学修業を続けても,文壇に志を得ず,不遇なままで生涯を終わった。しかし当時のロンドン文壇の大御所S.ジョンソンは,性格的に優柔不断な彼の欠点を指摘しつつもその才能を惜しみ,同情に満ちた伝記をその有名な《詩人伝》(1779‐81)に収めた。コリンズのもっとも重要な作品は《オード集》(1746)であるが,のちのロマン派時代に重要な詩的表現様式となる〈オード〉型式を自由に使いこなして,新しい時代への幕を開ける役割を果たしている。…

【辞書】より

…収録語数約4万,語源を重視した一般英語辞典として注目を浴びた。ベーリーは1730年新たに《英国辞典》を刊行したが,収録語数6万,図解を含み,当時最大・最良の英語辞典として,やがてS.ジョンソン博士(S.ジョンソン)が辞書を編集するに当たり,その底本として用いられることになる。 18世紀はヨーロッパを通じ合理主義が風靡(ふうび)し,フランスやイタリアではアカデミーが設立されて,国語の純化と標準語確立のための辞書の編集が行われていた。…

【正書法】より

…(3)権威のある規範が辞書の形になっていること。イギリスでは,S.ジョンソンの辞書(《英語辞典The Dictionary of the English Language》1755)が,ドイツでは,ドゥーデンの辞書(《大ドゥーデンDer grosse Duden:Rechtschreibung der deutschen Sprache und der Fremdwörter》1934)が,アメリカでは,N.ウェブスターの辞書(《ウェブスター新国際英語辞典Webster’s New International Dictionary of American Language》第2版,1934)がつづり字統一の権威ある規範となった。 正書法の理想は,音と字との間に1対1の対応関係があることであるが,現実の正書法ではこの対応関係がくずれているのが普通である。…

【伝記】より

…前者が取り上げたのは,J.ダン,G.ハーバートなどの詩人であり,はでな行動,世間的な名声とは縁遠い生涯の内面をこまやかで落ち着いた筆致でたどってみせ,後者の《名士小伝》(《小伝記集》)は,おそろしく筆まめな逸話集としてナマな人間の体臭をまざまざと伝えてくれる。つづく18世紀がイギリスの伝記のみごとな開花期で,S.ジョンソンが重厚,潑剌たる筆致で《詩人伝》を書き上げた。同時代の詩人五十数人の列伝と批評を試みたもので,伝記的批評としても逸品であった。…

【ボズウェル】より

…エジンバラ,グラスゴー両大学で学び,弁護士となる。1762年より翌年にかけてロンドンに滞在,63年S.ジョンソンと会って以来,彼を崇拝する。その間遊びの遍歴も重ねる。…

【エリザベス時代】より

…初期の歴史劇から晩年のロマンス劇にいたるその複雑な作家的展開の過程において,言語・舞台芸術としての演劇のあらゆる可能性が試され,開花させられていると言って過言ではない。彼と同時代またはその後の劇作家には,風刺喜劇の型を確立したベン・ジョンソン,ロンドンの民情を背景にメロドラマを多作したトマス・デッカー,高揚された詩的表現を用いて迫力に富む流血悲劇を作り上げたジョン・ウェブスター,冷徹皮肉な人間性の観察者トマス・ミドルトン,純化された情念の輝きを耽美的に追求したジョン・フォードなどがいる。彼らの作品は移り変わる観客の嗜好と人気の波にもまれつつ,時に10に及ぶ数の劇場で上演され続けたが,ピューリタン革命勃発後の1642年にロンドン中の劇場が閉鎖されることになって,エリザベス朝演劇はその幕を閉じた。…

【ジョーンズ】より

…ロンドン生れ。最初は劇作家ベン・ジョンソンと組んだ宮廷仮面劇の舞台装置や衣装の製作で名声を得る。そこでの遠近法を用いた背景づくりが,建築設計への志向を高めたとみられる。…

【風習喜劇】より

…広義には風俗を描く喜劇全般を指すが,狭義にはイギリスの社交界の風俗を描いた知的で洗練された喜劇のことである。エリザベス朝のロンドンを舞台にしたベン・ジョンソンなどの喜劇にその根があるが,17世紀後半の王政復古期にフランス趣味に強く影響されて本格的に成立した。チャールズ2世の宮廷を中心とする社交界の人物の男女関係を中心的主題とし,副次的主題として金銭をめぐる争いがからむ。…

【ユーモア】より

…humorという語は,体液そのものから,体液の不均衡によって生じる特異気質を意味するようになり,さらにそうした特異気質をもつ人間,すなわち〈変り者〉をも意味するようになった。16世紀ごろのイギリスの劇作家ベン・ジョンソンは,humourという英語をそのように使っているし,彼の作品はしばしばcomedy of humours(気質喜劇)と呼ばれた。すなわち,特異な気質の人々を描いて笑いを誘う劇という意味である。…

【歴史劇】より

…したがって,ローマ史劇の登場人物は,イギリスの年代記史劇の登場人物より,そのなまなましさが少ないと言えるが,しかし劇的想像力のうえでは,民衆文化の中での〈神話化〉によって,より確かなリアリティをもっているとみることもできる。ベン・ジョンソンの《カティリナ》もローマ史劇の一つであり,サルスティウス,キケロ,プルタルコスなどを資料として書かれたものだが,この芝居は,アナクロニズムを避け,史実に忠実たらんとしたため,かえって,劇としてのダイナミズムに欠ける結果となってしまっている。 ほぼ同時代,スペインではローペ・デ・ベガ,イタリアではアレッサンドロ・マンゾーニが歴史劇を書いていた。…

【錬金術】より

…しかしその一方,錬金術を単なる詐術とみなした風刺家たちが錬金術師を痛烈に批判する戯曲を書いていた。たとえば,B.ジョンソン《錬金術師》やJ.リリー《ガラテア》がその代表作として知られている。 美術の面では〈エンブレム・ブックemblem book〉と呼ばれる寓意図集の制作の流行を背景に,語句よりもむしろ図像によって錬金術の奥義を伝えようとする象徴的図版も多数生みだされた。…

※「ジョンソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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