チリ(英語表記)Chile

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デジタル大辞泉 「チリ」の意味・読み・例文・類語

チリ(chili/chilli)

辛味の強いトウガラシ。また、それからつくる香辛料。「チリソース」
チリコンカルネ」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「チリ」の意味・読み・例文・類語

チリ

  1. ( Chile ) 南アメリカ南西部の共和国。太平洋に面し、アンデス山脈の西側を南北に細長く占める。銅・硝石・金・銀などの鉱産物が豊富。一六世紀初期にインカ帝国の一部となり、中期にスペインの植民地となった。一八一八年独立。首都サンチアゴ。

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改訂新版 世界大百科事典 「チリ」の意味・わかりやすい解説

チリ
Chile

基本情報
正式名称=チリ共和国República de Chile 
面積=75万6102km2 
人口(2010)=1709万人 
首都=サンチアゴSantiago(日本との時差=-13時間) 
主要言語=スペイン語 
通貨=チリ・ペソChilean Peso

南アメリカ大陸南西部に位置する共和国。東はアンデス山脈の稜線,西は太平洋に挟まれた南北4200km,東西平均180kmの細長い国土をもち,北の砂漠から南の氷河地帯まで,多様な地域からなる。ペルー,ボリビアアルゼンチンの3国と国境を接し,巨大な石像モアイで知られる南太平洋のイースター島のほか,フアン・フェルナンデス諸島などを領有しており,南極の一部の領有をも主張している。人口密度は約19人/km2(1996)。

国土は,南北につらなるアンデス山脈の西斜面と海岸山脈,その両者に挟まれた高原または平野からなる。このうちアンデス山脈は,北部からサンチアゴ市に至る部分は高く,標高3000m以上に達し,同市の北東,国境のアルゼンチン側には南アメリカ最高峰のアコンカグア山(6960m)があるが,ここからは南に向かってしだいに低くなる。海岸山脈も北部では2000mを超えるが,中央部,南部では1000mに下がる。アンデス山脈と海岸山脈に挟まれた部分は,北部ではアタカマ砂漠などの高原となっているが,中央部では200~500mとなり,南部ではランコ湖,ヤンキウエ湖などの湖となり,さらにプエルト・モント市の南では海岸山脈とともに海に没し,そのすぐ南のチロエ島をはじめとする多数の島に連なる。この部分はアンデス山脈も2000m以下となるが,氷河でおおわれ,U字谷が形成され,フィヨルドが複雑な海岸線をつくっている。

 このような地形的な相違に加え,南北では気候上の差も顕著で,北の国境からコキンボ(南緯30°)までの北部,その南からビオビオ川(南緯37°)までの中央部と,その南の南部およびパタゴニアに分けることができる。北部はきわめて乾燥しており,アタカマ砂漠,タラパカTarapacá砂漠がある。中央部は地中海式気候で,夏は乾燥し,冬は降雨があって,チリで最も重要な農業地帯となっている。南部は雨量が多く,針葉樹林地帯,穀物生産地帯となっており,さらに南のパタゴニアでは,羊の放牧が行われている。行政上は北からタラパカ(第1地域とも呼ばれる。以下,順次第13地域まで),アントファガスタ,アタカマ,コキンボ,バルパライソ,サンチアゴ首都圏,ベルナルド・オヒギンスBernardo O'Higgins,マウレMaule,ビオ・ビオBío-Bío,ラ・アラウカナLa Araucana,ロス・ラゴスLos Lagos,アイセンAysén,マガリャネスMagallanes・南極の13の地域からなり,各地域は複数の県(プロビンシア)に分かれている。

住民の多くは白人であるが,この中には原住民(アラウカノをはじめとするインディオ)と白人との混血も含まれている。純粋の原住民ないしそれに準ずる人々は少なく,総人口の2%程度にすぎない。白人はスペイン系(バスク,アンダルシア,カスティリャ地方の出身者が多い)が中心であるが,バルディビア市,オソルノ市を中心とする南部にはドイツ人が多い。このほかイタリア,イギリス,フランス,スイス,ユーゴスラビアなどからの移民も多い。公用語はスペイン語であるが,南部ではドイツ語も用いられている。

 少数の大地主と貧しい農民とからなる社会は,20世紀に入ってから大きく変わり,都市中間層の割合がラテン・アメリカ諸国で最も高い国の一つとなっている。北部の工業地帯では,大鉱山を中心に早くから労働者は組織化され,また1930年代以降の工業化にともない,増加した工業労働者の組合運動も盛んとなった。ただし74年以降の軍事政権下では,その活動は極度の制約をうけている。

 都市化も早くから進み,都市人口の割合は1960年の68%から81年の81%に増加した。とくにサンチアゴ市への集中は著しく,同市の人口が国の総人口に占める割合は,1960年の26%から81年に36%へと上昇した。主要都市では高級住宅地から低所得層の住宅地まで,かなりはっきりした住み分けがみられ,また周辺部にはスラムもみられる。

 社会保障制度はラテン・アメリカ諸国の中で最も進んだ国の一つであったが,1970年代の経済危機下でやや後退がみられた。女性の職場への進出も進んでおり,女性の社会的地位も高い。このような社会的進歩や中間層の形成は,工業化の進展にともなうものであるが,教育制度の充実によるところも大きい。教育の水準はラテン・アメリカ諸国の中でも最も高い国の一つであり,義務教育は8年で,高等教育への進学率も高い。大学は国立チリ大学(1738創立),チリ・カトリック大学(1888創立)をはじめ13校あり,一時は他のラテン・アメリカ諸国からの留学生も多かった。文盲率も10%以下にまで低下している。

 芸術・文化活動も盛んで,詩人のガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダが1945年と71年にそれぞれノーベル文学賞を受賞している。《夜のみだらな鳥》で知られるシュルレアリスムの小説家ドノソJosé Donoso(1924-96),ピアノ奏者のアラウClaudio Arrau(1903-91)も,世界にその名を知られている。伝統的な音楽としては舞曲のクエカcuecaなどがあり,ギターの伴奏で,その長調の明るい歌にあわせて男女がペアとなって踊る。サッカーは国民的スポーツであり,また農村では馬に乗った2人のウワソと呼ばれる牧童が牛を追い込むロデオも盛んである。宗教はカトリックの信奉者が多いが,信教の自由は保障され,プロテスタント,ユダヤ教などの信者もいる。
執筆者:

19世紀初頭の独立から1910年代ころまで,チリは銅,硝石,農産物などの輸出国で,大鉱山業主,地主,商人,軍人,カトリック教会などの少数の上層階級が政治を支配していた。他のラテン・アメリカ諸国とは異なって,1833年憲法以来,これらの支配階級の権益を保持しながら,ヨーロッパ型の立憲政治が確立された。その後,保守党,自由党などが結成されて,政党政治が定着した結果,政治は安定し,クーデタ,政変はきわめて少なかった。政治は選挙制度,大統領の権限,宗教・教育・言論などの自由などをめぐり,秩序重視派の保守党と自由尊重派の自由党との二大政党間の対立を軸として展開した。19世紀末から小規模な産業資本の台頭,鉱山労働者を中心とする労働運動の成長がみられ,農産物輸出の不振,合成窒素肥料の出現による硝石産業の衰退などを契機として,1920年には支配層の一部と資本家が連合し,また労働者階級の支持をも得てA.アレサンドリ政権が誕生した。この政権は弱体であったが,支配層の妥協により政教分離,労働三法など進歩的な政策を実施し,政治に新しい傾向を導入した。20年代から30年代にかけて共産党,社会党も結成された。

 大恐慌以降この新しい傾向はさらに促進され,第2次大戦直前の38年には,資本家,中小地主,中間層の政党である急進党の主導で,社会党,共産党も参加した人民戦線政権が成立,以後52年まで急進党が政権を掌握し,工業化政策を中軸として,社会改革を進めた。しかし,同党はインフレの進行,1948年の共産党非合法化策などで,しだいに力を弱めていき,50年代末に至ってチリの政治勢力図は大きく変化する。自由放任資本主義経済を主張する大資本・金融資本グループや大地主など,旧来の保守的支配層(保守党,自由党),修正資本主義・混合経済を主張する中小資本の経営者,地主,公務員などの中間層(キリスト教民主党),社会主義を志向する労働者・農民層(社会党,共産党)という三大政治勢力が形成され,定着した。以後チリの政治はこれらの政治勢力の三つどもえの確執として展開した。

 1958年には少差で保守陣営が政権を握ったが,64年の大統領選挙では,左翼勢力の伸張を恐れた保守陣営が中道支持に踏み切ったこともあって,キリスト教民主党政権が誕生した。同政権は,経済の自立,社会の近代化を大きく前進させたが,銅産業のチリ化(後述)以外は所期の目標を達成することができず,また農地改革で保守陣営の反発を招き,経済成長政策の失敗で左翼陣営の批判を浴びた。そして70年の大統領選では保守・中道・左翼間の激戦の末,左翼連合のアジェンデが少差で当選し,議会での決選投票ではキリスト教民主党の支持を得て大統領に就任した。アジェンデ政権は,ラテン・アメリカにおける,民主的手続による最初の社会主義政権として多くの業績をのこしたが,73年,軍部と警察によるクーデタのため倒れ,ピノチェトAugusto Pinochet Ugarte(1915-2006)の軍事政権が成立。同政権は左派勢力を非合法化するとともに,過酷で徹底した弾圧を行い,国会は閉鎖,政党活動も事実上禁止された。しかし88年の国民投票で軍事政権は不信任され,89年の大統領・国会議員選挙を経て,90年にチリは民政に復帰した。
執筆者:

チリでは中央集権的な寡頭政治による政治的安定が早くから確立しており,経済的にも,はじめは小麦の輸出,次いで銅,チリ硝石の輸出(1879-83年の太平洋戦争における勝利により硝石地帯の領有確定)により,早くから繁栄がみられた。しかし1929年の世界恐慌はこのような一次産品輸出経済に強い打撃を与えた。このため厳しい輸入制限が実施され,39年には産業開発公団(CORFO)も発足して,それまで輸入にたよっていた製品を国内で生産する政策が推進された。しかし50年代に入るとインフレが加速し,成長率はマイナスとなったため,50年代半ばには自由化政策が実施され,ある程度の成果はみられたものの,結局対外債務が増加し,外貨危機が深まった。64年に発足したフレイ政権は〈自由のもとでの革命〉の思想に基づき,農地改革法の実施による自作農の創設,銅産業の〈チリ化〉(外資系大銅山への政府の株式参加の比率を高め,輸出収入の増加を実現する)と産銅倍増計画の実施,製造業に関しては,重化学工業化の推進を行った。しかしこれら構造的改革の成果はすぐには現れず,短期的には成長率の低下,対外収支の赤字などに悩まされた。

 70年末に発足したアジェンデ政権はチリ独自の社会主義の道を標榜(ひようぼう)し,銅産業の完全国有化,農地改革法の短期間における完全実施,銀行に対する国家管理,大企業・中規模企業への国家の介入などの諸政策を実施したが,激しいインフレ,物資不足,国際収支の悪化などに悩まされ,73年半ばには経済危機が深刻化した。

 こうした状態の中でクーデタにより登場したピノチェト政権は,シカゴ大学出身のテクノクラートらにより,自由市場経済の確立を目ざし,貿易,外国からの投資の自由化,多数の公営企業の民間への移管,厳しい引締め政策によるインフレ抑制などを行った。これらの政策は,インフレの抑制,紙・パルプや農産加工品などが非伝統的産品の輸出の拡大には成功したが,雇用の拡大には成功せず,失業率は15~20%に達し,対外債務も増加してその累積額は83年には190億ドルにものぼった。このため1982年以降再び深刻な経済危機に直面するに至った。

チリの主要産業は銅鉱業であり,非伝統的産品の輸出拡大によりその比重は低下したとはいえ,その輸出総額に占める割合は約60%と依然高い。銅の生産ではチュキカマタ(世界一の露天掘銅山),エル・テニエンテ,エル・サルバドル,アンディナのチリ銅公団傘下の大銅山が重要であるが,このほかに外資系企業による開発も進められている。銅以外の鉱業では鉄鉱石,硝石が重要である。製造業は長期にわたる工業化により,消費財の大部分,中間財の一部も国産化され,紙・パルプ,農産加工品などが輸出されている。自動車,電気製品なども一時国産化されたが,自由化政策による輸入品との競争により,国内生産は減退した。農業は農地改革の影響,自由化政策などのため不振が続き,小麦の輸入を余儀なくされたが,ブドウ酒や果実類の輸出は拡大した。南部には豊かな林産資源があり,木材の輸出も増加した。フンボルト海流の影響で豊かな漁業資源にも恵まれ,漁業も盛んであり,魚粉をはじめ海産物が輸出されている。
執筆者:

チリは1541年ペドロ・デ・バルディビアによるサンチアゴ市の建設とともに,スペインの植民地となった。しかし,自然環境は厳しく,南には独立心の強いマプチェ(アラウカノ)族の抵抗があったため,征服・植民事業は困難を極め,植民地時代のチリの領域はコンセプシオンが南限であった。またチリには金などの天然資源が少なかったため,農業,牧畜業が経済の中心となり,17~18世紀には土地貴族が発生した。

 当時のチリはペルー副王領下に置かれていたが,1778年に副王領から離れ,チリ総監領となる。つまり一本立ちの植民地となったのである。しかし,アメリカの独立(1776),フランス革命(1789)成功の知らせは,植民地の人々の自治への願いを大きくふくらませ,植民地政権への不満をつのらせた。そして1808年,ナポレオンイベリア半島を侵略して,スペイン本国の権威に〈かげり〉がみえたとき,チリでも独立へ激しい動きが顕在化する。

 1810年9月,チリに自治政府が誕生し,貿易の自由を宣言し,国民議会を招集。翌年,国民議会は奴隷の輸入を禁ずる決議を行い,奴隷の子として生まれた者すべてを自由とすることを宣言した。本国政府はペルー副王に命じて軍隊を派遣し,土地貴族であったカレラJosé Miguel Carrera(1785-1821),オヒギンスを先頭とする独立運動派との間に,ほぼ全土を戦場とする戦いが始まる。独立運動派は14年にいったんは敗北するが,オヒギンスはアルゼンチンのサン・マルティンの支援を得てチャカブコやマイポでスペイン軍を破り,ついに18年に独立を宣言した。

 独立の初期は政治形態をめぐって支配階級の内部で対立があったが,30年に秩序重視派の保守派が勝ち,制限選挙のもとではあったが,ヨーロッパ型の立憲政治を確立させて,チリの政治は安定した。30年代には北部のペルー,ボリビアとの国境の砂漠地帯で銅,硝石資源が開発され,この時期以降チリ経済は,対外的にはこれらの資源と農産物の輸出を通じて,当時のイギリスを中心とする世界的な資本主義の拡大にともなって大きく発展し,国内的には50年代以降,ヨーロッパ系移民,とくにドイツ系移民を南部に受け入れ,開発を進めた。

 79年には国境の硝石地帯の開発をめぐってペルー,ボリビア両国を相手とする太平洋戦争が起こり,チリはこれに勝利して,タラパカ,アントファガスタ地方を領土とした。だが主要な硝石鉱山はこの戦争中にイギリス資本が買い占めていた。80年代には南部のマプチェ族の抵抗を終息させ,現在のチリの領土が確定し,国家的統合が完成した。

 19世紀末から萌芽的な産業資本の成長がみられる。硝石資源を国有化し,これら民族産業資本を育成しようとしたバルマセダ政権は,イギリス資本と利害をともにする支配層の反対にあい,91年内乱の末に崩壊した。20世紀に入ると,まもなくアメリカ合衆国資本が主要な銅鉱山を購入して開発を始めたため,チリは国家経済の根幹である硝石,銅資源を外国資本に支配される結果となった。そのうえ,第1次世界大戦中にドイツで合成窒素肥料が発明されてからは,硝石産業が衰退し,チリではアメリカ合衆国資本の優位が確立した。この時期に鉱山労働者を中心とする労働運動が台頭し,レカバレンのような優れた指導者のもとで,労働者階級が新しい社会勢力として認識されるようになるが,彼らの運動は厳しく弾圧された。

 1920年には都市資本家層と労働者との支援のもとにA.アレサンドリ政権が登場し,地主,教会などに代表される保守勢力を抑えて,政教分離,労働三法の制定などを骨子とする進歩的な1925年憲法が採択された。しかし,この時期にはまだ資本家層と労働者の力は,ともに十分でなく,27年にはイバニエス保守独裁政権が成立した。

 29年の世界大恐慌は一次産品の輸出国であるチリに甚大な被害をもたらし,イバニエス政権は31年に崩壊,政治的混乱が続いたが,32年アレサンドリ第2次政権以降,チリの政治は安定した。この時期からチリは自由貿易体制を捨てて保護主義を採用し,38年に発足したアギーレ・セルダPedro Aguirre Cerda(1879-1941)の人民戦線政権は,従来輸入にたよっていた工業製品を国内で生産するという政策を積極的に推進し,50年代までにある程度の成果をあげた。この結果,民族産業資本家,中産階級,労働者階級の成長がみられたが,国内の人口が少ないため,工業製品も期待したほどには需要が伸びず,また農業も古い土地制度に手をつけなかったため停滞して,50年代後半に経済は行きづまり,慢性的インフレ,食糧輸入増による国際収支の赤字などが深刻化した。

 58年にはA.アレサンドリの息子のホルヘ・アレサンドリJorge Alessandri(1896-1986)が保守勢力の支持を得て大統領に当選。同政権は,インフレ抑制のため緊縮財政,賃金抑制,外国資本の導入など民間主導の経済政策を実施したが,失業者が増大し,保守政権の地盤沈下をもたらした。64年に成立したキリスト教民主党政権は経済の自立と拡大を目ざして,銅産業のチリ化,農地改革,公共投資の増大などの政策を実施し,種々の改革を推進した。しかし,1960年代後半に経済の停滞とインフレが再燃した。

 70年ラテン・アメリカで,はじめて選挙による左翼政権が成立した。アジェンデ大統領は,反帝国主義,反寡頭制,平和革命を旗印にかかげ,議会による民主的手続による社会主義社会の実現を目ざした。アメリカ合衆国系の産銅会社や民間銀行の国有化,徹底的な農地改革による地主制の解体,主要食糧品の価格の凍結,15歳以下の児童に対する1日0.5lの牛乳の無料配給といった大小さまざまの政策が実行に移された。

 政権発足後1年を経るころから,新しい政策の立案・実施も加速されるが,国の内外でこれを妨げようとする動きも強まる。アメリカ合衆国のニクソン政権は,銅資源の無償国有化に対する報復として,経済援助や融資を停止した。国内でも72年10月のトラック運送業者を中心とする全国的なストライキを契機に,左右両派の対立は決定的となり,ついには73年9月11日の陸海空三軍と警察によるクーデタへと発展する。

 アジェンデ政権が3年弱という短命に終わった理由の第1は,政権の基盤が十分強固でなかったことであろう。与党は議会内で3分の1を少し超える議席数しかもたず,新しい法律を制定することはできなかった。そのため,従来の法律を拡張解釈して政策を強行することになり,これが野党の攻撃の的となった。与党の社会党と共産党の足並みも十分そろわなかった。そのうえ,ニクソン政権をはじめとする外国の干渉があった。アメリカのコルビーCIA長官は,アメリカ上院外交委員会で,1970-73年に800万ドル以上の資金を用いて,チリ国内で反対勢力への援助などの〈不安定化〉工作を進めた事実を認めている。

 新たに登場したピノチェト政権は,基本的には旧来の保守陣営の支持を得ており,アジェンデ以前の,キリスト教民主党政権以来の経済的・社会的改革を,ほぼ白紙にもどして,徹底した自由主義経済の再建を進めている。すなわち,ただちに国有化された銅産業の補償を行って,アメリカ合衆国との関係を修復し,国営企業・農場の返還・民営化を断行するとともに,資本,物価,貿易の自由化を行った。

 その結果,チリ経済は75年に30年代以来の不況(成長率マイナス13%)に陥ったが,76年から回復に向かい,77-81年には年平均7%の高成長を達成した。インフレ率と失業率も,75年には340%と16%であったが,81年にはそれぞれ9.5%と9%にまで収束した。しかし,82年には多くのラテン・アメリカ諸国は,かつてない経済困難に襲われ,チリ軍事政権も再び20%を超える失業,企業の倒産,150億ドルにのぼる対外債務などの経済危機に直面するに至った。

 軍事政権下のチリのもう一つの問題は,〈人権問題〉である。クーデタ直後から戒厳令がしかれ,左派勢力に対する徹底した弾圧が行われた。90年以後の文民政権になってからの調査では軍政16年半における弾圧で3196名が死亡,このうち1102名が行方不明のままとなっている。これに対する国際的非難も強まり,国連総会も1974年から4年連続して,人権問題に関する対チリ非難決議を採択した。

 東ヨーロッパの国々だけでなく,アメリカ合衆国,西ヨーロッパ諸国を含む世界的な批判の中で,77年3月には戒厳令を解除して非常事態宣言に代える措置がとられ,政治的引締めはいくらか緩和された。そして80年9月,新憲法批准の国民投票が行われた。投票不参加者は懲役または罰金刑という厳しい条件のもとで,新憲法は67.04%の賛成を得て採択された(反対30.19%,無効2.77%)。この憲法では,大統領の権限は大幅に強化される一方,労働者のストライキ権や言論,表現の自由には制限が加えられており,共産党などの左派政党は実質的に禁止されている。また付属規定では,81年3月11日以降8年間を〈民主政体への移行期間〉と定め,ピノチェト大統領がこの期間引き続き政権を担当することとした。

 しかし,キリスト教民主党,社会党などの5党は,民主化要求の世論を背景に,1983年8月〈民主同盟〉を結成,ピノチェト大統領の退陣,臨時政府の樹立,1980年憲法に代わる新憲法制定のための制憲議会の招集,検閲の廃止,追放・亡命者の帰国などの要求を決定した。軍事政権はカトリック教会を仲介として〈民主同盟〉との話合いに入り,検閲の廃止,非常事態の解除,追放・亡命者の帰国については受け入れ,議会の早期開設を約束したが,他の要求は拒否したため,この話合いは決裂した。しかし,翌9月には,長い間政治の表舞台には登場できなかった共産党が,社会党とともに〈人民民主運動〉を結成,11月には〈民主同盟〉と共同して大集会を開いた。

 厳しい弾圧にもかかわらず粘り強く行われた民主化要求運動の結果,88年10月の次期大統領国民信任投票でピノチェト将軍が54%で不信任された。そして89年12月の選挙で反軍政17党連合の統一候補エイルウィン(キリスト教民主党)Patricio Aylwin Azócar(1918- )が勝利し,90年3月に大統領に就任,16年半の軍政に終止符を打った。また93年12月には同じ政治潮流のフレイEduardo Frei(1942- )が当選,94年3月に大統領に就任した。
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百科事典マイペディア 「チリ」の意味・わかりやすい解説

チリ

◎正式名称−チリ共和国Republic of Chile。◎面積−75万6096km2。◎人口−1744万人(2012)。◎首都−サンティアゴSantiago(496万人,首都圏人口は668万人,2012)。◎住民−スペイン系白人および白人と原住民インディオ(アラウカノなど)との混血95%,インディオ2%。◎宗教−カトリック90%。◎言語−スペイン語(公用語)。◎通貨−チリ・ペソChilean Peso。◎元首−大統領,バチェレMichelle Bachelet(2014年3月就任,任期4年)。◎憲法−1980年9月国民投票で承認,1981年3月発効,2005年9月改正。◎国会−二院制。上院(定員38,任期8年),下院(定員120,任期4年)(2015)。◎GDP−1695億ドル(2008)。◎1人当りGDP−6980ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−14.9%(2003)。◎平均寿命−男77.1歳,女82.7歳(2013)。◎乳児死亡率−8‰(2010)。◎識字率−99%(2008)。    *    *南米南部,太平洋岸の共和国。国土はアンデス山脈の太平洋側斜面を占め,南北に細長く,長さ4480km,幅74〜320km。北部は乾燥・砂漠地帯。中部のチリ渓谷は,いくつかの盆地に分かれ,温暖な地中海式気候。南緯42度線以南は,冷涼湿潤気候。全体が太平洋岸の寒流ペルー海流の影響を受ける。アンデス山脈中にユーヤイヤコ山,メルセダリオ山などの高峰がある。北部の銅,チリ硝石,南部の石油,石炭のほか金,銀,マンガンなどの鉱産があり,銅が主要輸出品。農業は中部の渓谷地帯で行われ,小麦,ジャガイモ,トウモロコシ,テンサイが主産物。南部には森林資源が多く,漁業も盛ん。牧畜は牛と羊。 もとインカ帝国の一部であったが,1541年スペインの植民地となった。18世紀後半から独立運動が高まり,1810年自治政府が樹立され,1818年サン・マルティンの援助でオヒギンスの率いる独立軍はスペイン軍を破り独立を宣言した。以後1910年代ころまでチリ硝石や銅などの輸出の恩恵をこうむる少数の上層階級が政治を支配してきたが,1920年代にはアレサンドリ政権による進歩的改革がすすめられ,1940年代にも急進党を中核に社会改革が進んだ。1950年代末から保守優位となるが,1960年代に中道左派のフレイ政権のもとで大幅な土地改革,米国系の銅会社の国有化などが行われた。1970年アジェンデが大統領に選出され,中南米で選挙による初の社会主義政権が成立,基幹産業の国有化と土地改革がさらに進められた。しかし,アジェンデの人民連合政権は,1973年9月に軍部・警察のクーデタによって打倒され,ピノチェト軍事政権が成立した。1980年にピノチェト政権は大統領権限の大幅な強化,スト権や言論・表現の自由の制限などを規定した新憲法を制定した。1988年の国民投票でピノチェト大統領は不信任され,1989年の大統領選挙・国会選挙では反軍政派が勝利し,1990年3月,16年半ぶりに民政が実現したが,ピノチェトは1998年3月まで陸軍総司令官の地位にあり,軍部の影響力は依然大きい。民政移管後設けられた人権調査委員会により軍政期の死者・不明者は約3200人とされたが,その2〜3倍の被害者数が推定される。ピノチェトは滞英中にスペインの要請によって1998年逮捕され,2000年帰国してチリで訴追された。南米南部共同市場(メルコスール)と1996年自由貿易協定(FTA)を結んだ。2006年大統領決選投票で当選したバチェレ(社会党)は,チリ初の女性大統領で,4期連続して中道左派政権となった。また,軍政下で制定された1980年憲法は,2005年9月に改正されている。2009年の大統領選では,2005年の決選投票でバチェレに敗れた中道右派のピニエラ候補が中道左派のフレイ候補を破って当選し大統領に就任した。ピニエラ大統領は,2011年に所得格差を背景とした教育改革を求める学生デモへの対応,税制改革,エネルギー政策の転換等国内の諸課題に対し具体的成果を出せず支持率は低迷した。2013年末の総選挙では,従来の中道左派連合に共産党が加わった新多数派(Nueva Mayoria)のバチェレ前大統領が勝利し,2014年3月に第二期政権が発足。バチェレ第二期政権は,前政権中から課題となっている教育制度改革,税制改革,憲法改正などの公約を掲げているが,新多数派(Nueva Mayoria)でも意見の相違があり,バチェレ大統領のリーダーシップが問われている。経済では,メキシコ,カナダ,EU,アメリカ,韓国,中国などとFTAを結び,TPPの原加盟国でもある。近年は,アジア太平洋地域と自由貿易に基づく連携を強化する動きをますます強めている。2012年,メキシコ,コロンビア,ペルーと太平洋同盟を発足させた。プレート境界にあたる海溝由来の地震災害にたびたび襲われており,2010年2月にもマグニチュード9近い地震と津波で大きな被害が出た。
→関連項目経済連携協定

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チリ」の解説

チリ
Chile

南アメリカの太平洋岸南部の共和国。1534年以後ペルーからスペイン人の征服者が侵入したが,アラウカーノ人の強硬な抵抗を受けた。植民地時代にはペルー副王領の僻地で,1565年サンティアゴに設立されたアウディエンシアによって統治された。ラ・プラタ地方に独立運動が起こったとき,サン・マルティンがアンデス越えで進軍し,チャカブコ(1817年),マイプー(18年)の戦いでスペイン軍を破り,チリの独立を達成した。独立後は比較的安定した立憲政治が行われたが,経済的にはイギリスの支配下に置かれ,銅,硝石(しょうせき)などの鉱物資源の開発が行われた。1879~83年,太平洋戦争により北方領土をペルーとボリビアから獲得した。20世紀になると,アメリカ資本の銅産業進出が始まり,また労働運動が起こった。1938年アギレ・セルダの人民戦線内閣が成立し,戦後では70~73年アイェンデの社会主義政権を経験した。これをクーデタで倒したピノチェットの軍事政権は,経済の自由化を行い,90年民政が回復した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「チリ」の解説

チリ
Chile

南アメリカ大陸南西部,アンデス山脈の西側にある共和国。首都サンティアゴ
ヨーロッパ人の渡米前はアラウカニ族が住み,北部はインカ帝国の治下にあった。1541年,スペイン人バルディビアに征服され,植民地となった。独立運動は1810年を期して活発化し,18年に独立を達成。20世紀にはいり,南部の農業と北部の銅・硝石によって工業化が進んだ。1970年にはアジェンデ大統領の左派政権が成立し,アメリカ系銅産企業の国営化など社会主義政策を推進したが,経済危機を招き,73年ピノチェトによる軍部クーデタで崩壊した。1990年に,16年間続いた軍政から民政に移管された。

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世界大百科事典(旧版)内のチリの言及

【漁場】より

…(4)湧昇流域漁場 生産性がひじょうに高い水域で,好漁場となることが多い。ペルーからチリの沖は大規模な湧昇流のある水域で,生産性が高く,1970年にペルーは世界の漁獲量のほぼ1/6にあたる1260万tという世界一の漁獲量を記録したことがあるが,このうち1000万t強がカタクチイワシの漁獲であった。(5)渦流域漁場 潮境の両側にできる渦流,あるいは海底地形や海岸地形によって流れのかげのほうに生ずる地形性の渦などは,生物生産や魚群の分布,移動に関しても重要な意義をもっていると考えられており,こういうところにも漁場が形成される。…

※「チリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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