ピント
〘名〙 (brandpunt から)
※造化妙々奇談(1879‐80)〈
宮崎柳条〉五「物像〈略〉又束小し尖
(とがり)て点
(ピント)の如く一中枢を合成し、其尖点
(ピント)、恰
(ほどよ)く脳筋衣に達すれば即ち善く明らかに見ゆる也」
②
物事のいちばん重要な点。中心点。また、考えや
気持などが集中する一点。
※終りの火(1948)〈
檀一雄〉「気持のピントがぼやけてきたやうに思はれた」
[語誌](1)柳河春三訳「写真鏡図説‐初」(
一八六七)に「尖枢。英にては『ホキュス』。和蘭にては『ブランドピュント』と云ふ。物影不透明版
(くもりいた)に映じて最鮮明なる処」とあり、この「ブランドピュント」が省略されて「ピント」になったといわれる。
(2)
訳語として当初は「燃点」を当てたが
定着はせず、英語 focus の訳語「焦点」の方が一般的であった。
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デジタル大辞泉
「ピント」の意味・読み・例文・類語
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ピント
Pinto, Frei Heitor
[生]1528? コビリャン?
[没]1584?
ポルトガルの神学者,著述家。古典主義初期の神秘文学の第一人者。 14歳でジェロニモス修道会に入会。コインブラ大学で神学を学ぶ。 1571年,修道会の地方局長となり,5年後にコインブラ大学で聖書を講じる。 80年スペインのポルトガル統治に反対して亡命し,スペインで死去。主著『キリスト教生活のイメージ』 Imagem da Vida Cristã (2巻,1563,72) ,聖書原典の解説と注釈『イザヤ書注解』 In Isaiem Prophetam Commentaria (61) ,『ダニエル書,ナホム書,エレミヤ書注解』 In Danielem,Nahum et Jeremiam Prophetas Commentaria (79) ,『エゼキエル書注解』 In Ezechielem Prophetam Commentaria (68) 。
ピント
Pinto, Fernão Mendes
[生]1509頃.モンテモルオベリョ
[没]1583.7.8. アルマダ
ポルトガルの冒険商人。 1537年インドに船出し,以後 21年間,アジア,アフリカ諸国を遍歴,フランシスコ・ザビエルを伴って日本にも訪れ,波乱に富む体験を重ねた。 58年9月帰国し,『放浪記』 Peregrinação (1614) の執筆に専念,80年に完成した。自伝的作品で,空想と現実がみごとに織り交ぜられ,16世紀の最も興味ある旅行記である。
ピント
Pinto, Aníbal
[生]1825. サンチアゴ
[没]1884. バルパライソ
チリの政治家,法学者。大統領 (在任 1876~81) 。 F.ピント大統領 (在任 27~29) の息子。弁護士,大学教授,国会議員,内相を経て,1876年大統領に就任。鉄道建設,軍の近代化に努め,ペルー,ボリビアとの太平洋戦争 (79~84) の緒戦を有利に展開させた。自由主義者で,中等・大学教育を無償とし,新興中間層の文化水準の向上に貢献した。
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ピント
Fernão Mendes Pinto
1514?~83
ポルトガルの冒険商人。一攫(いっかく)千金を夢見て東洋に出発,数々の苦難をへて商人として財をなし,日本にも数度到来。ザビエルと親交があり,イエズス会に入会したがすぐに脱会,帰国後著した『東洋遍歴記』(1614年)は,体験や伝聞と空想を織りまぜ,鉄砲伝来など当時の東洋におけるポルトガル人の活動を描き,16世紀ポルトガル文学の傑作となり,ヨーロッパ諸国で版が重ねられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ピント【Fernão Mendes Pinto】
1514?‐83
ポルトガルの冒険商人。生年ははっきりせず,1509年,10年説もある。ポルトガル中部のモンテモル・オ・ベーリョに生まれた。21年リスボンに上京して何度か貴族の館へ奉公にあがったが,37年一攫(いつかく)千金を夢みてインドに渡った。ポルトガルの東南アジア支配の拠点マラッカで当地の要塞司令官に仕え,使節,商人,海賊として各地を巡歴した。その後,中国交易に従事し,44年初めて日本を訪れた。51年3度目の日本訪問で布教中のフランシスコ・ザビエル神父と親交を結んだ。
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ピント Pinto, Fernão Mendes
1509?-1583 ポルトガルの探検家,商人。
1537年ごろインドへわたり,その後約20年間東南アジアや中国,日本を放浪,その間の見聞を「東洋遍歴記」としてまとめた。日本には天文(てんぶん)13年(1544)ごろはじめて来航,20年の3回目の来航の際,ザビエルにあった。弘治(こうじ)2年4回目の来日をし,同年離日。1583年7月8日死去。74歳?
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ピント
ポルトガルの冒険商人。海賊に捕らえられ,奴隷に売られるなどの難にあいながら,約20年もアフリカ,アジアの各地を流浪,日本にも4回訪れた。1558年帰国後に書いた《東洋遍歴記》は誤記や誇張もあるが,興味深い側面史として重んじられる。
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