愛媛県と高知県との境をなす
吉野川の川名の初見は、建仁四年(一二〇四)二月一七日の
本流は三重県との県境、年平均降雨量四五〇〇ミリという
上市東方付近までの上流は山間にV字谷が発達し、吉野郡川上村大字
愛媛県境にそびえる土佐郡
吉野川の名称について「阿波国図鑑」(「大豊町史」所引)に「阿波国大川は、土佐国境より土州分七里のみ、往古は阿土川と云ふ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
徳島県中北部にある市。2004年(平成16)麻植(おえ)郡の鴨島町(かもじまちょう)、川島町(かわしまちょう)、山川町(やまかわちょう)、美郷村(みさとそん)が合併、市制施行して成立。市域は古代から続いた麻植郡のうち、1973年(昭和48)に美馬(みま)郡に移った現在の美馬市旧木屋平村(こやだいらそん)地区を除いた旧麻植郡域とほぼ合致する。東流する吉野川の中流南岸に位置し、南部には四国山地高越(こうつ)山系の山々が連なる。南部山地の諸流を集めた川田(かわた)川が市の西部を北流して吉野川に注ぎ、東部の沖積平野では吉野川の南側を江(え)川、さらにその南側を飯尾(いのお)川が東流する。吉野川に並行してJR徳島線と国道192号(伊予街道)が走り、ほかに国道193号、318号が通じる。吉野川対岸の阿波市とは、阿波中央橋、阿波麻植大橋、瀬詰(せづめ)大橋などで結ばれる。
山川町忌部山(やまかわちょういむべやま)の忌部山古墳群は、古代麻植郡での活動が知られる阿波忌部氏との関連が指摘される。川島町桑村(かわしまちょうくわむら)の上桜城(うえざくらじょう)には室町~戦国時代に阿波国守護の細川氏、同守護代三好氏の有力被官であった篠原氏が拠(よ)った。戦国時代に川島氏の居城であった川島城(川島町川島)は、蜂須賀(はちすか)氏入国後に阿波九城の一つに取り立てられたが、元和の一国一城令で廃城。江戸時代、川島浜(川島町)、三ツ島(みつじま)浜(三ツ島村)、瀬詰浜(瀬詰村)などは吉野川水運の河港として賑わい、なかでも水陸交通の要衝となった川島町は在郷町として発展、麻植郡における商業の中心地であった。吉野川流域ではアイ作が広まったが、麻植郡の反当たり収量は徳島藩領内で最高水準を誇った。特産品は川田村の川田和紙が知られ、幕末になると高越山周辺での凍豆腐作り、川島町の焼物(日用雑器、川島焼)なども始まった。明治初期には山川町楠根地(くすねじ)でのちに県内最大の銅山となる高越鉱山が開坑、周辺でも大内(おおうち)鉱山などが相次いで開坑し、元禄年間(1688~1704)開坑の東山鉱山(太郎鉱山)とあわせ、第2次世界大戦前まで市域では銅山が活況を呈したが、昭和40年代半ばにはすべて閉山。アイ作は明治時代後半には衰退、かわって養蚕が盛んとなり、佐渡製糸場(1907年設立)など器械製糸工場が操業。
麻名用水(あさなようすい)は1906年(明治39)に着工、1908年に通水した。川島の城山下に取水口を設けて吉野川から取り入れて、麻植郡や名西(みょうざい)郡などの1200町歩余を灌漑し、アイ作から水稲栽培への転換に大きな役割を果した。1911年に始まり1927年(昭和2)に竣工した吉野川第1期改修工事では、吉野川の中州である善入寺島(ぜんにゅうじとう)(現阿波市と当市にまたがる)の遊水池化が図られた。約3000人の居住者は移転を余儀なくされ、中州は無人島となった。しかし、洪水時を除けば肥沃な農地であり、現在も旧島民や周辺住民によって耕地として利用されている。川田地区の手漉和紙製造は第二次世界大戦後、機械製紙に押されて衰微したが、1989年(平成1)に阿波和紙伝統産業会館が設立され、伝統技法の継承を図っている。1968年(昭和43)に始まった国営麻植開拓パイロット事業によって、市域の四国山地北麓の傾斜地では果樹園が造成され、ハッサクや温州ミカン、スダチなどが栽培された。1973年から造成された鴨島中央工業団地には電子部品関連工場などが進出。現在の主産業は農林業で、米作のほか蔬菜(そさい)や果樹栽培、畜産などが盛ん。市域東部では県都徳島市のベッドタウン化も進んでいる。
飯尾の藤井(ふじい)寺は四国八十八か所第11番札所。阿波富士とよばれる高越山は役小角(えんのおづぬ)が開いたとの伝承があり、阿波修験道発祥の山とされる。山頂近くには真言宗大覚寺派高越寺がある。美郷地区では川田川上流域を中心に5種類のホタルが生息、「美郷のホタルおよびその発生地」の名称で、山川地区の「船窪(ふなくぼ)のオンツツジ群落」とともに国の天然記念物に指定されている。江川は元来吉野川の分流であったが明治中期に分断され、前述の吉野川改修工事によって完全に本流から締め切られた。現在は廃川敷からの湧水が水源となっているが、湧水は夏に10℃前後、冬は20℃以上という異常水温を呈し、県指定天然記念物。面積144.14平方キロメートル、人口3万8772(2020)。
[編集部]
四国の中央部を流れる川。一級河川。四国三郎(さぶろう)ともよばれる。延長194キロメートルと四万十(しまんと)川よりわずかに短いものの、流域面積は3750平方キロメートルと四国一の大河である。
[村上哲生]
源は高知県いの町の瓶ヶ森(かめがもり)山で、1973年(昭和48)に完成した四国一の規模の早明浦(さめうら)ダムを経て、四国山脈を南から北に貫き名勝大歩危・小歩危(おおぼけこぼけ)の峡谷をつくり、三好市池田町地区から東へ流れ、徳島市を通過して紀伊水道に注ぐ。川幅1キロメートルを超える河口部には、大規模な干潟が発達し、渡り鳥の重要な飛来地となっている。
上・中流部は有数の多雨地帯であるために、しばしば大規模な洪水が発生している。とくに、江戸時代末期1866年(慶応2)の「寅の水(とらのみず)」といわれる洪水は、3万7000人余りの男女が溺れたとの記録が残されている。中・下流部に残る竹林は水害への備えであり、橋も洪水の際には水没する「潜り橋(もぐりばし)」とよばれる造りのものがいまも残っている。一方、頻繁な洪水による肥沃(ひよく)な土砂の供給が、流域でのアイ(藍)の栽培を維持してきたとも考えられる。
[村上哲生]
流域の大部分は山林であり人口密度は低く、常習的な水質汚濁は認められず、環境基本法に基づく環境基準はおおむね達成されている。流域に生息する学術上重要な動物としては、カジカガエル、カスミサンショウウオ、オオサンショウウオ(以上両生類)、アユカケ、ホトケドジョウ、カマキリ、アベハゼ(以上魚類)等があげられる。また、植物では、ミゾコウジュなどの希少種や河口域に広がるヨシ群落は特筆すべきものであろう。水産資源としては、中流部のアユ、下流部のスズキやシジミ、ノリなどが有名である。
[村上哲生]
徳島市付近の吉野川下流は、昔からの流路のままではない。現在の旧吉野川が、本来の流路であった。現吉野川は、江戸時代に、徳島城下への導水や水運のために、別宮(べっく)川という河川に流れをつけ替えたものである。旧吉野川へ一定量の水を流すために吉野川と別宮川の分岐点(第十村。現、石井町)につくられた堰(せき)が、第十堰(だいじゅうぜき)である。堰により旧吉野川に流される水は、水道水源、工業用水、農業用水として利用されている。
第十堰は、固定堰(潜り堰(もぐりぜき))とよばれる形式の石積みの構築物で、水は堰の上を流れる。そのため、水量が多くなると堰の上流部の水位が上がり堤防が破壊される懸念があるとされ、扉門の開閉により流れを調整できる可動堰(吉野川可動堰)への改築計画が提案されている。
堰の改築については、治水効果、費用負担、環境への影響などについて、国土交通省(旧、建設省)と地元住民の間では調整がついていない。従来の環境保護運動の多くは、開発か保護かの対立の図式であったが、この問題については、治水、利水、環境のすべての面について、科学的な根拠をもった住民の疑問が表明されており、河川の保全と開発を巡る独特の運動となっている。環境影響評価法(環境アセスメント法)の手続に基づく住民からの代替案提案、徳島市民を対象とした住民投票の実施など、今後の環境保護運動の方向をうかがう事例としても重要であろう。
[村上哲生]
『芳水康史著『吉野川利水の構図』(1970・芙蓉書房)』
奈良県中央部を流れる川。紀伊水道に注ぐ紀ノ川の上流で、奈良県を流れる間を吉野川という。延長81キロメートル。奈良、三重県境の大台(おおだい)ヶ原(はら)山付近に発し、嵌入蛇行(かんにゅうだこう)して北西流し、吉野町国栖(くず)付近で高見川と合流し、極端な曲流をみせて同町上市(かみいち)に至り、川幅を広げ西に向かい、両岸に河岸段丘を形成する。さらに蛇行して五條(ごじょう)市を西流、左岸から丹生(にう)川をあわせて和歌山県に入って紀ノ川となる。中流以下は西南日本の中央構造線構造谷に沿う。古くから川沿いを伊勢(いせ)と紀州を結ぶ伊勢街道が通じ、現在も国道169号が走る。また川沿いには上市、下市、五條などの市場町が発達した。吉野川渓谷、津風呂(つぶろ)湖周辺は県立吉野川津風呂自然公園に指定されている。
[菊地一郎]
徳島県北部の市。2004年10月鴨島(かもじま),川島(かわしま),山川(やまかわ)の3町と美郷(みさと)村が合体して成立した。人口4万4020(2010)。
吉野川市東部の旧町。旧麻植(おえ)郡所属。人口2万5288(2000)。徳島平野中央部,吉野川中流域南岸に位置する。中心市街はJR徳島線,国道192号,318号線が通る鴨島で,古くから交通の要地として発展した。明治初期まではアイ作の一中心地であったが,明治中期以降養蚕中心となり,製糸業が発達して大小の工場が立ち並ぶようになった。近年まで県下唯一の製糸工場となった筒井製糸があった。農業は米作,野菜を中心とし,酪農も行われる。東部の牛島地区には工業団地がある。四国八十八ヵ所11番札所藤井寺,平康頼創建の玉林寺,鴨島公園,異常水温(夏季10℃以下,冬季20℃以上)の湧水で知られる吉野川遊園地がある。
吉野川市中部の旧町。旧麻植郡所属。人口8416(2000)。徳島平野中部,吉野川中流南岸に位置し,東西に延びた沖積平野と,四国山地の高越山脈北麓を占める。山麓には川島台地と呼ばれる河岸段丘が発達し,台地以西の蓮池,丸池,森池などは一連の河跡沼で,吉野川の古い流路を示す。戦国時代は川島氏の本拠地で,1585年(天正13)蜂須賀氏阿波入国後城山に阿波九城の一つ川島城を再興し,城下町を形成した。寛永年間(1624-44)に一国一城令で城は破却されたが,その後も郡代官所が置かれ,地方政治の中心として栄えた。現在も国や県の出先機関などが置かれている。農業は米作中心であるが野菜,ブドウ,ミカンなどの栽培も盛ん。川島城跡のある城山には,1981年勤労者野外活動施設として建てられた川島城があり,隣接して万葉植物園もある。二ッ森公園,水神ノ滝などもある。JR徳島線,国道192号線が通じる。
吉野川市南部の旧村。旧麻植郡所属。人口1417(2000)。周囲を四国山地の山に囲まれた典型的な山村で,中央部を流れる川田川とその支流東山谷川の谷底,および山地の緩傾斜地に集落が散在する。南西隣の美馬市の旧木屋平(こやだいら)村から北隣の旧山川町への古い交通路が縦断し,現在,その一部が国道193号線となっている。杉,ヒノキ,シイタケなど農林業が主産業であるが,ほとんどが零細な兼業農家である。1982年奥丸地区に旧東山鉱山(硫化鉄鉱)跡からわき出る鉱泉を利用した保養施設が開設された。ゲンジボタルの発生地(天)がある。
執筆者:赤池 享一
吉野川市西部の旧町。旧麻植郡所属。吉野川南岸に位置する。人口1万1673(2000)。1955年川田・山瀬両町と三山村の一部が合体して町制をしいた際に,高越(こうつ)山(1122m)の〈山〉と吉野川の〈川〉をとって町名とした。吉野川の支流川田川の段丘と吉野川の沖積地に集落が発達し,北部の平地部を東西に国道192号線とJR徳島線が並走する。中心地の川田は,南北朝時代に細川氏が館を築き,神社,寺院を創建して町が形成された。高越山は古くから修験者の信仰を集め,頂上には高越神社,頂上から少し下った所に高越寺がある。江戸中期の高越寺の祭礼には川田市(高越市)が立ち,吉野川流域の物資の交流が行われた。藩政時代から和紙の生産が盛んで,近年は民芸紙として京都に出荷される。高越鉱山では含銅硫化鉄鉱が採掘されたが,1969年に閉山した。山瀬は阿波忌部(いんべ)氏との関係が深く,忌部神社がある。高越山の山腹はツツジの名所で,少年自然の家(2006年閉鎖)もある。
執筆者:高木 秀樹
四国の中央部を東流して紀伊水道に注ぐ川。幹川流路延長194kmは四万十(しまんと)川に次いで四国2位,全流域面積3750km2は四国1位で,〈四国三郎〉の異名をもつ。高知県いの町の旧本川村,石鎚山系の瓶ヶ森(かめがもり)(1896m)付近に源を発してはじめは東流する。徳島県に入ると,大歩危(おおぼけ)・小歩危の奇勝を含む横谷をつくりながら四国山地を縦断して北流し,三好市の旧池田町付近からは中央構造線に沿って再び東流して徳島平野(吉野川平野)を形成,徳島市北方で紀伊水道に注いでいる。河口には三角州が発達する。
上流部では,平地は少ないが豊かな降水量を背景に包蔵水力に富み,吉野川総合開発事業の一環として1973年に完成した早明浦(さめうら)ダムをはじめ,高知県域だけで最大合計約75万kWの発電能力をもつ発電所が建設されている。また徳島県池田町にも,74年に多目的の池田ダム(総貯水量1265万m3)が完成した。洪水調節ばかりでなく,讃岐山脈を導水トンネルで抜けて年間2億4700万m3の農業・工業・上水道用水を香川県に送る香川用水などの水源としても利用されている。
一方,中・下流域は徳島県阿波市阿波町岩津付近を境にして,西半は幅2km前後の狭い谷底平野,東半はらっぱ状に広がる沖積低地となっている。この狭隘(きようあい)部の存在のため,古くから吉野川は洪水が多く,1927年に第1期改修工事が完了するまで下流部はたびたび洪水に見舞われ,流路の変遷も激しかった。住民は家,とくに土蔵の土盛りを高くし,軒下には川舟を用意していた。しかし洪水は肥沃な土壌ももたらし,徳島平野は江戸時代以来のアイ(藍)作地として知られ,またサトウキビや桑,ダイコンなどの畑作も盛んであった。明治末期以降,麻名(あさな)用水,板名用水(ともに1912完成),阿波用水(1956),吉野川北岸用水(1983)などの灌漑用水路の開削が進められて,現在では水田面積が畑地の3倍近くになっている。
吉野川は阿波地方の交通上の大動脈でもあり,支流の銅山川が合流する徳島県山城町川口付近から下流は江戸時代から水運が盛んで,高瀬舟によりアイ,タバコ,薪炭などが河口の徳島まで運ばれた。池田はその拠点の一つで,徳島からの上りの際にはひとりの船夫が河原に沿って長い綱で舟をひき,もうひとりは舵をとった。下りは3日でも,帆の利用できない上りは7日もかかったが,それでも舟1隻あれば徳島から池田へ月に1度の往復で一町百姓ほどの収入があり,船頭はいつも米の飯ばかり食べていたという記録がある。川舟1隻で600~1000貫と,陸上の駄馬の20倍もの積載能力があり,これらの舟から藩は通行税を取りたてていた。こうした機能は,現在では徳島線や国道192号線により代替されている。
執筆者:高木 秀樹
奈良県南東部,大台ヶ原山付近に発して北流し,吉野郡,五条市を西流して和歌山県に流入する川。和歌山県に入ると紀ノ川と呼ばれる。紀ノ川の全長136kmのうち吉野川は約80kmで,流域面積は約780km2。吉野町以西は中央構造線に沿って流れ,川の北は内帯,南は外帯となる。流域には河岸段丘が発達し,とくに右岸には伊勢街道が走り,吉野町上市,下市町下市,五条市などは交通・交易の中心地として発展した。上流部ではV字谷が形成され,川上村大滝付近では甌穴(おうけつ)がみられる。吉野杉を主にした林業地域として著名であるが,江戸前期ごろまでは鵜飼いが行われており,古くは,持統天皇吉野行幸のときの柿本人麻呂の歌にも〈上つ瀬に鵜川を立ち 下つ瀬に小網(さで)さし渡し……〉(《万葉集》巻一)とみえる。また花の吉野山とともに歌枕として多くの詠歌がある。いかだ流しによる木材輸送は近代以降も続いたが,やがてトラックによる陸上輸送にかわっていった。川上村には水量調節と発電を目的とした大迫(おおさこ)ダム,また支流の津風呂(つぶろ)川には津風呂ダムがある。大淀町下淵から御所(ごぜ)市樋野までの導水トンネル(長さ5km)で,吉野川の水を奈良盆地に導いて給水する,吉野川分水路によって,盆地南部の用水不足も解消された。
執筆者:高橋 誠一
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…西南日本を地質的に外帯と内帯に分ける中央構造線に沿って廊下状の狭い谷を流れる。上流の奈良県内では吉野川と呼ばれ,和歌山県に入って橋本市より下流が紀ノ川と呼ばれる。水源にあたる大台ヶ原山(1695m)一帯は日本有数の多雨地帯で,樹林の生長がよく,吉野川流域は林業が発達している。…
…大和国(奈良県)吉野郡の吉野川上流地帯を主産地とする杉。奥地の川上郷に代表されるこの地方一帯は,杉の造林に好適な立地条件に恵まれていたため植林の歴史は古い。…
※「吉野川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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