山形(県)(読み)やまがた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山形(県)」の意味・わかりやすい解説

山形(県)
やまがた

東北地方の南西部に位置する県。北西部は日本海に面し南北約153キロメートル、東西約97キロメートルで、よく人の横顔に例えられる形をしている。北部は鳥海(ちょうかい)山、丁(ひのと)岳山地、神室(かむろ)山で秋田県と境し、東部は南北に走る奥羽山脈を境に宮城県および福島県と接し、南部は吾妻(あづま)山地、飯豊(いいで)山地の両山地で福島県と、南西は朝日山地と飯豊山地で新潟県と境している。面積は9323.15平方キロメートルで、東北6県では5番目であるが、全国では9番目に大きな県である。県庁所在地は山形市。

 四方を山地で囲まれているため他地域との隔絶性が強く、近世までは峠越えの陸路よりも、県内を縦貫して日本海に流出する最上川(もがみがわ)の舟運が物資交流の大動脈で、西廻(にしまわり)海運による上方(かみがた)との結び付きが強かった。県土の約75%を流域とし、しかも県内だけを流れる最上川は、まさに山形県の「母なる川」として、産業や県民生活に現在も大きな役割を果たしている。

 県内は、県中央西寄りを南北に横たわる出羽(でわ)山地を境にして、日本海に面し庄内(しょうない)平野を中心とする庄内地方と内陸地方に大別され、さらに内陸地方は、米沢(よねざわ)盆地、山形盆地、新庄盆地を中心とした、それぞれ藩政期までの歴史的背景も異なる置賜(おきたま)、村山、最上の三つの地域に分けられる。

 人口は2020年(令和2)国勢調査では106万8027。1950年(昭和25)の136万をピークとしてその後青少年層の県外流出によって減少の一途をたどり、とくに山村地域での過疎化が急速に進行して、1973年には121万となった。しかし、1974年以降は自然増加が社会減少を上回り、増加傾向に転じていたが、1989~1993年(平成1~5)の間はふたたび微減し、1994年、1995年は微増し、1996年以降は減少している。人口分布をみると市部が80.5%を占め、地域別では村山(むらやま)地域が県人口の49.8%を占めている(2020)。とくに山形市と天童(てんどう)市などの県都周辺地域への人口集中による増加がみられる一方で、山村地域を控えた町村での減少傾向には歯止めがかからず、人口高齢化現象も顕著になってきている。

 2002年(平成14)4月には13市9郡27町4村からなっていたが、平成の大合併を経た2020年10月時点では13市8郡19町3村となっている。

[中川 重]

自然

地形

県域の4分の3を山地、丘陵が占めているが、標高1000メートル以上の山地は8%にすぎない。県域の東縁を限る奥羽山脈は、第三紀層の基盤岩の上に、船形(ふながた)火山、蔵王(ざおう)火山、吾妻火山などが覆った連峰から形成されている。県北半部の中央を走り県域を庄内と内陸に二分する出羽山地は、第三紀の堆積(たいせき)岩からなる丘陵で、鳥海山や月山(がっさん)などの火山がそびえる。その南部には花崗(かこう)岩からなり壮年期の険しい山容を示す朝日山地と飯豊山地が越後(えちご)山脈の北端を占めている。

 奥羽山脈と出羽山地の間には断層による陥没地溝性の米沢盆地、山形盆地、新庄盆地が南北に並んでいる。前二者は堆積盆地で、山形盆地東部には馬見ヶ崎(まみがさき)川扇状地などの大きな扇状地が形成され、後者は低丘陵地が広く分布する開析盆地という特徴がある。県の南端吾妻山地に源を発する最上川は、これらの盆地群をちょうど数珠(じゅず)をつなぐように北流し、新庄盆地西部から出羽山地を最上峡によって横断し、庄内平野に入り、酒田付近で庄内砂丘を切って日本海に注いでいる。庄内平野は、かつての潟湖(せきこ)が最上川や赤川などによって形成された三角州や扇状地などからなり、県内の盆地、平野のなかで最大の平地である。

 自然公園には、ブナなどの原生林が残る朝日山地、飯豊山地や、山岳信仰で知られる出羽三山が磐梯(ばんだい)朝日国立公園の北半を占めるほか、火口湖のお釜(かま)と樹氷で知られる蔵王国定公園、出羽富士ともよばれ日本海に裾野(すその)を引く鳥海山と、日本海の孤島飛島(とびしま)からなる鳥海国定公園、ブナの原生林や滝の多い神室山地が含まれる栗駒(くりこま)国定公園があり、県立自然公園は御所山(ごしょざん)、庄内海浜、県南、加無山(かぶやま)、天童高原、最上川の六つがある。自然公園の総面積は県土の約17%を占めている。

[中川 重]

気候

内陸の盆地気候と庄内の海岸気候とに大別される。内陸の年平均気温は10℃内外であるが、昼夜の気温較差が大きいだけでなく、夏の暑さと冬の寒さがともに厳しい。山形市では1933年(昭和8)7月25日に40.8℃を記録し、これは2007年(平成19)8月16日に岐阜県多治見(たじみ)市と埼玉県熊谷(くまがや)市が40.9℃を記録するまでは日本における観測史上最高気温であった。年降水量は1100ミリメートル程度(山形市)で比較的少ないが、冬の季節風が吹き込む米沢盆地や新庄盆地は雪が多く、根雪期間も100日を超える所も多い。一方、庄内は対馬(つしま)海流の影響で平均気温は内陸より2℃ほど高く、日照時間も長く比較的温和な気候を示すが、風の強い日が多く、とくに冬の季節風による激しい地吹雪(じふぶき)はしばしば道路交通を渋滞させる。

[中川 重]

歴史

先史・古代

県内では約50か所以上もの旧石器遺跡が確認されており、その最古の遺跡は飯豊町上屋地B遺跡(かみやちびーいせき)で、3、4万年前の前期旧石器時代のものとされる。縄文期遺跡は前期から晩期にわたり広範囲に散在しているが、東北最古の土器とともに大量の遺物が出土した高畠(たかはた)町日向洞窟(ひなたどうくつ)(国の史跡)や、貯蔵用のフラスコ状の小竪穴(たてあな)が発見された前期終末の大石田町角二山遺跡(かくにやまいせき)、遊佐(ゆざ)町吹浦遺跡(ふくらいせき)が著名である。弥生(やよい)期遺跡は米沢盆地や山形盆地の沖積地の微高地に多くみられ、籾圧痕(もみあっこん)や石包丁が出土している。5世紀に入ると米沢盆地や山形盆地では巨大墳墓の築造がみられ、8世紀ころまで続いた古墳文化の様相は山形市嶋(しま)遺跡や米沢市戸塚山古墳群などからよくうかがえる。

 708年(和銅1)越後(えちご)国の一郡として出羽郡(いではぐん)が置かれ、出羽柵(いではのき)が設置された。712年には陸奥(むつ)国から最上、置賜の2郡を分け出羽郡に合併して出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれている。11世紀中ごろの前九年・後三年の役を経て、平泉(岩手県)に奥州藤原政権が成立するが、その勢力は飽海(あくみ)郡の遊佐荘(ゆさのしょう)、最上郡の大曽禰荘(おおそねのしょう)、置賜郡の屋代荘などにまで及んだ。

[中川 重]

中世

1189年(文治5)源頼朝(よりとも)の奥州征伐後、地頭(じとう)職として大江広元の長男親広(ちかひろ)(生没年不詳)が寒河江荘(さがえのしょう)、次男長井時広(ときひろ)(?―1241)が長井荘、武藤氏平(うじひら)が大泉荘に任じられ、それぞれ西村山、置賜、庄内一帯を領有支配した。南北朝時代には各地で一族間の激しい対立がみられたが、1356年(正平11・延文1)北朝方の斯波兼頼(しばかねより)(?―1379)が羽州探題として山形に入部、村山一円を支配下に収めて最上氏を名のった。天正(てんしょう)年間(1573~1592)には山形の最上義光(よしあき)、米沢の伊達政宗(だてまさむね)、庄内の武藤氏らの領国をめぐる抗争が相次いだが、庄内は検地一揆(いっき)を起こした武藤氏を平定した越後の上杉氏の支配するところとなった。また、伊達氏は1591年(天正19)米沢から岩出山(いわでやま)(宮城県)へ移った。関ヶ原の戦い(1600)以後最上義光は現在の村山、最上地方と庄内全郡に領国を拡大し一大戦国大名に成長した。なお、平安末期から鎌倉時代にかけては、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山(ゆどのさん))などの山岳信仰が栄え、羽黒修験(しゅげん)の最盛期であった。

[中川 重]

近世

「出羽百万石」ともいわれ、東北の雄藩となった最上氏山形藩は義光死後内紛が続き、1622年(元和8)改易に処せられ、その後最上氏領は山形に鳥居忠政(ただまさ)(1566―1628、22万石)、鶴岡に酒井忠勝(14万石)、新庄に戸沢政盛(まさもり)(1585―1648、6万石)、上山(かみのやま)に松平重忠(しげただ)(1570―1626、4万石)といずれも譜代(ふだい)大名が入部し、とくに村山地方はその後寒河江、谷地(やち)、尾花沢などの幕府直轄領も加わり、藩領と天領が錯綜(さくそう)する非領国的な地域となった。そのうち庄内藩(鶴岡藩)と新庄藩は幕末まで定着するが、山形藩と上山藩は領主交代が激しかった。とくに山形藩は幕末までに13回もの交代があり、そのたびに減封されたために、最上時代に整備された広大な城下町も郭内はさびれる一方であった。一方、関ヶ原の戦いで豊臣(とよとみ)方についた上杉景勝(かげかつ)は会津120万石を没収、1601年(慶長6)米沢藩30万石に移封され幕末に至った。このほかに江戸中期以降、天童藩2万石、庄内藩の支藩松山藩などが立藩している。

 近世の初頭は庄内の青竜寺川や因幡堰(いなばぜき)、北楯(きただて)大堰、村山の高松堰、置賜の諏訪(すわ)堰、長堀(ながほり)堰などの用水堰の開削と新田開発が盛んに行われ、各藩の農業経済的な基礎が固められた。近世中期以降になると村山・置賜両地方では青苧(あおそ)、紅花(べにばな)、漆蝋(うるしろう)などの特産物が庄内米とともに最上川の舟運で酒田港まで下り、さらに西廻航路(にしまわりこうろ)で京・大坂へ出荷され、藩の財政を支える重要な商品作物となった。最上川舟運の発達は酒田を東国随一の港町に成長させるとともに、最上川流域には大石田や左沢(あてらざわ)、谷地(やち)など豪商の活躍する河港や河岸(かし)が発展した。近世後期になると、米沢は養蚕業が発達し織物の町として栄え、山形は紅花商人でにぎわい、鶴岡は魚問屋や米商人の多い所となるなど、地域の産業の中心的な機能を果たした。

[中川 重]

近・現代

庄内藩が官軍に降伏し戊辰(ぼしん)戦争が終わり、明治維新後いくつかの行政区画の変遷を経て、1871年(明治4)の廃藩置県後、置賜県、山形県、酒田県の3県になった。1875年酒田県が鶴岡県となり、翌年9月3県が合併して現在の山形県が成立した。初代県令三島通庸(みちつね)は県内の基幹道路や宮城県や福島県とを結ぶ峠路の隧道(ずいどう)開削などの改修工事を推進して、現在の道路網の基礎をつくった。また、山形県庁を中心とした新市街地を建設するとともに、青苧や紅花などの藩政期の特産物にかわって桑、茶、コウゾのほか果樹や蔬菜(そさい)類の試験栽培を行わせた。これが現在本県を代表する果実のサクランボ、西洋ナシ、ブドウ、リンゴなどの栽培が普及する端緒となっている。また庄内平野では明治中期ごろには乾田馬耕(かんでんばこう)の導入に伴う耕地整理事業が進み、米の品種改良や購入肥料の導入によって生産性が高まり、全国的な米作単作地帯として知られるようになった。1903年(明治36)奥羽線が新庄まで開通し、酒田線(現、陸羽西線)新庄―酒田間が1914年(大正3)に開通すると、商品輸送は完全に最上川舟運から鉄道に転換し、さらに大正年間には新庄線(現、陸羽東線)、長井線(現、山形鉄道フラワー長井線)、左沢線が開通し、灌漑(かんがい)用揚水機や織物工場などの産業用と電灯利用に供する電気事業が盛況を呈するに及んで、県内の地域経済社会は近代化へと大きく歩み始めた。第二次世界大戦後、1954年(昭和29)から町村合併促進法に基づいて町村合併を実施し、合併前の5市25町193村が1968年には13市27町4村になった。戦後いち早く策定された総合開発計画(第一次計画、1949~1953)により「やまがた総合発展計画」(2005~2015)が進められた。そこでは、人口減少、環境問題、経済のグローバル化などの時代の変化に対応した新しい施策を打ち出している。とくに地域力、経済力、基盤力を高めることを目標としている。

[中川 重]

産業

長い間、山形県の産業の主体は稲作を中心とした農業であった。しかし、1970年以降に造成された工業団地を中心に電気機器工業などの工場立地が進んでいる。2005年度の産業別就業人口をみると、就業者総数64万2580人のうち、第一次産業は11.1%(全国5.0%)、第二次産業34.8%(29.5%)、第三次産業54.1%(64.3%)となっている。さらに県内総生産(2004)の総額4兆1163億円のうち、第一次産業はわずかに3.1%を占めるにすぎず、第二次産業が27.8%、第三次産業が69.0%で、総額では20年前の1.5倍以上に増加しているにもかかわらず、第一次産業は大幅に減少している。このように本県の産業は農業依存から脱皮して、第二次、第三次産業への構造転換が急速に進行している。

[中川 重]

農林業

農家戸数は1960年の11万7146戸をピークに減少を続け、2005年には6万1567戸となり、1995年の7万5060戸から10年で1万3000戸の減少をみている。そのうちの専業農家は2000年までは著しく減少していたが、以後は微増傾向に転じ、占める割合も1995年の8.1%から2005年には13.1%に増加している。兼業農家では第一種兼業が25.6%、第二種兼業が61.3%で、第二種兼業の割合が減少している。農家人口も減少を続け、1995年の約37万人から2005年には約28万人と、10年間で25%減となっている。また、販売農家世帯員における65歳以上の割合は30.1%に達し、年々高齢化が進んでいる。経営耕地面積は12万4500ヘクタール(2006)で、内訳は田が9万7800ヘクタール、普通畑が1万2100ヘクタール、樹園地が1万1500ヘクタールで、いずれも減少傾向にある。耕作放棄地は3200ヘクタール(2005)に達し、農地の荒廃も進んでいる。農家1戸当りの生産農業所得は138万3000円(2005)で、全国平均より24万円上回っている。農業産出額(2005)のうち、米の占める割合は44.8%で、全国平均の23.0%を大きく上回っている。そのほか、果実20.0%、畜産15.0%、野菜14.3%となっていて、畜産の占める割合が上昇している。米の生産量は41万9000トンで全国第5位(2006)。稲作単作地帯として知られる庄内平野を中心に、10アール当りの収穫量はつねに600キログラム前後であり、全国のトップ水準を保持している。

 かつて養蚕業を支えた桑園にかわった果樹栽培は、本県の気候や土壌が落葉果実の栽培に適し、さらに第二次世界大戦以後、食料品缶詰工業が立地し果実加工が容易になったことから発展した。全国生産量の70%近くを占めるサクランボや西洋ナシが全国第1位のほか、ブドウが第3位、リンゴが第4位、モモが第5位以内と主要な落葉果実類が全国生産量の上位を占めている。果樹栽培の中心は山形盆地と米沢盆地の扇状地上や丘陵斜面で、カキは庄内地域が多い。

 畜産は、肉用牛の飼育が最上地域や置賜地域の山村地帯、ブタの飼育が庄内地域で盛んであったが、1980年代後半より飼育戸数・頭数ともに減少傾向にある。林業は全国一の蓄積量を誇る金山杉で知られる最上地域で盛んであるが、かつての薪炭生産にかわって山菜採取やナメコなどのキノコ栽培が盛んになり、山村地域の主要な所得源となっている。

[中川 重]

水産業

海岸線が約100キロメートルと短く、また単調で出入りが少ないので、酒田港以外に大規模港湾がなく、水産業は不振。漁業経営体数、魚獲高は東北地方で最下位である。沿岸漁業のスルメイカ・カニ類・タラ漁などが主で、ほかにアユやニジマス、ヤマメなどの内水面養殖が盛んになってきている。

[中川 重]

工鉱業

第二次世界大戦前には米沢織、鶴岡織や、置賜地域の製糸業、山形市の鋳物、打刃物生産などの在来工業のほかは、酒田市大浜地区や小国(おぐに)町の電力指向の化学工業がみられるにすぎなかった。大戦後は山形鋳物がミシン部品の製造に導入されて発展し、また食料品加工や木製家具製造などの地元資源利用の新しい工業が主として村山地域に芽生えた。1960年代に入り、栗子(くりこ)トンネルなどの主要幹線道路が整備されてからは、置賜地域を中心に電気機器工業などの弱電関連工場の進出立地が多くみられるようになり、業種構成に大きな変化が生じてきている。

 2005年(平成17)の製造品出荷額は2兆6702億円で、1995年の2兆6214億円から微増している。業種別にみると、情報通信23.5%、電子部品14.8%、一般機械と食料品がともに10.2%などとなっている。1980年と比べると食料品、繊維が減ってエレクトロニクス関連や機械類が著しく伸長している。この要因は、機械金属工業などの一定の集積や豊富な労働力、工業団地の造成や道路改修などの基盤整備が企業誘致に結び付いたものといえる。

 従業者4人以上の事業所数3428(2005)、総従業者数11万2472人のうち、村山地域がともにもっとも多く、それぞれ全体の43%前後を占めている。山形市を中心に電気機器、機械金属、食料品、木製家具など各種の工場立地がみられ、県内最大の工業地区を形成している。工場数、従業者数ともに約27~28%を占める置賜地域は、米沢織の盛んな米沢市や長井市に繊維工業がみられるほか、電気機器工場が各地に進出している。また、本県唯一の貿易港をもち、かつては県内第一の工業生産額があった酒田市を中心とした庄内地域の工業は、現在工場数、従業者数とも約22~23%を占めている。しかし、酒田大浜臨海工場地区の化学工業が停滞し、1974年に開港した酒田北港の臨海地区への工場立地も予定どおり進まず、県内での工業生産比率をこれ以上低下させないよう、精密工業などの工場誘致を積極的に行っている。

 全国的にみて県内生産量が比較的多い特産品とその主産地としては、全国生産量の大半を占める天童市の将棋駒(こま)と木工家具、山形市の鋳物・打刃物・仏壇、山形・寒河江両市と山辺(やまのべ)町のメリヤスと山辺町のじゅうたん、河北(かほく)町のスリッパなどが数えられる。山形鋳物、山形仏壇、置賜紬、天童将棋駒、羽越しな布は国の伝統的工芸品に指定されている。

 山形県の鉱業は、エネルギー革命までは全国有数の生産量を誇った最上地域の亜炭鉱山や金属鉱物を採掘する鉱山があったが、1970年代までにほとんど閉山・廃鉱となり、現在は非鉄金属の採掘がわずかにみられるにすぎない。

[中川 重]

開発

農業県といわれてきた本県の開発は、第二次世界大戦までは主として耕地整理や農業用水堰(ぜき)の開削であった。戦後の1960年代までは積雪量が多い朝日山地赤川水系の水力発電開発などが盛んに行われた。1970年代後半に入り工業立地が盛んになるとともに、山形市の立谷川(たちやがわ)工業団地をはじめとする多くの工業団地の造成がみられるようになった。とくに県内の4地区ごとにそれぞれ大規模な拠点工業団地を造成し、工業化を促進する計画が進められ、米沢八幡原(はちまんばら)、東根(ひがしね)大森、新庄福田、酒田遊佐、鶴岡中央の5拠点工業団地が誕生した。とくに東根大森工業団地は県内でもっとも工業集積の進んだ村山地域に位置し、山形空港にも近く交通条件に恵まれ、ハイテク関係の企業立地が進んだ。1987年(昭和62)には山形テクノポリス地域が指定され、先端型工業の開発拠点として整備されることとなった。

[中川 重]

交通

周囲を山地で囲まれ、また出羽山地によって内陸と庄内とに隔てられている本県では、近代的な交通網の発展は地形上の障害の克服と冬季間の豪雪との闘いによって可能となったともいえる。藩政時代の最上川舟運にかわって、明治前期には栗子峠や関山峠などの開削工事が行われ、現在の道路網の基礎が築かれた。鉄道は1901~1904年にかけて奥羽本線が開通、その後大正年間に陸羽西線、羽越本線をはじめ現在のJR線網が形成されたが、電化や複線化などの輸送力の増強が図られたのは第二次世界大戦後であった。一方、1960年代後半からは峠路の道路改修工事が進み、県外との広域的な経済圏の拡大に寄与した。東北横断自動車道酒田線(山形自動車道)の山形―寒河江(さがえ)間が開通。東京、大阪、札幌、名古屋、福岡の5路線(開港当時)がある山形空港に加えて、庄内空港の開港(1991)や奥羽本線のミニ新幹線が開業(1992)するなど、ようやく高速交通体系網に組み入れられた。2000年には山形ミニ新幹線は新庄まで延伸された。山形自動車道は鶴岡ジャンクションで日本海東北自動車道と接続し(一部は国道112号)、東北中央自動車道とは山形ジャンクションで接続している。

[中川 重]

社会・文化

教育文化

江戸時代の藩校は1697年(元禄10)に米沢藩で興譲館(こうじょうかん)が開設されたのがもっとも早く、ついで新庄藩の明倫堂(めいりんどう)、庄内藩の致道館(ちどうかん)などが開設され、寺子屋や私塾は数百に達していたといわれる。明治に入ると鶴岡の洋学所や米沢の洋学舎ができ、一方、置賜地方では郷学校がつくられ、1872年(明治5)の学制発布後の小学校の基盤となった。1889年鶴岡の私立忠愛小学校では全国最初の学校給食が開始され、明治末から大正にかけては女学校生徒数の人口比が全国一を占め、小学校就学率が全国上位に位置するなど、有数の教育県といわれる基礎が固められた。昭和初期には村山俊太郎(としたろう)(1905―1948)、国分一太郎(こくぶんいちたろう)らが「生活綴方(つづりかた)」教育を実践して北方性教育運動をおこし、その伝統は第二次世界大戦後に全国で爆発的な反響を呼び起こした無着成恭(むちゃくせいきょう)(1927―2023)の『やまびこ学校』を生んだ。

 高等教育機関としては、1920年(大正9)山形高等学校が創立され、戦後、新制大学として誕生した国立の山形大学(人文、理学、地域教育文化、工学、農学、医学の6学部)の母体となった。1992年(平成4)には公設民営の東北芸術工科大学(山形市)が開校し、その後も1993年に県立産業技術短期大学校(山形市)、2000年(平成12)に県立保健医療大学(山形市)、2001年に東北公益文科大学(酒田市)が、2010年には、私立山形短期大学を発展的改組させる形で東北文教大学が短期大学部をあわせて新設された。ほかに短期大学には県立米沢女子短期大学、羽陽(うよう)学園短期大学と、鶴岡工業高等専門学校がある。大学数が増えたため、高卒の進学率は向上したが、2008年は45.1%で全国平均の52.8%より下回っている。なお、大学のほかに慶応義塾大学先端生命科学研究所、産学官連携有機エレクトロニクス事業化推進センターが設置されている。文化、社会教育施設としては、県立図書館、教育資料館分室をもつ県立博物館や県郷土館(文翔館)のほか、私立の山形美術館、本間(ほんま)美術館(酒田市)、致道博物館(鶴岡市)などがあり、また各地に郷土、歴史、民俗等の資料館がある。

 新聞は『山形新聞』が1876年に発刊されたのをはじめ、『庄内新聞』『米沢新聞』などが明治初期に発刊されたが、その後昭和初期まで諸紙の合併、廃刊が繰り返された。戦時統合(第二次世界大戦時)で一県一紙となった『山形新聞』は、県内で最大の発行部数21万0147部(2007)をもつ。ほかに米沢市の『米沢新聞』、鶴岡市の『荘内日報』の日刊紙がある。放送機関としては、NHK山形放送局、山形放送、山形テレビ、テレビユー山形、エフエム山形、さくらんぼテレビジョンなどがある。

[中川 重]

生活文化

置賜、村山、最上の内陸3盆地と庄内平野は地理的条件や歴史的背景が異なり、それぞれ独自の文化圏を形成してきた。方言をみても、敬語の発達した置賜地方、使用地域が狭い語がみられる村山地方、北奥・南奥両方言の特色をもつ最上地方、濁音訛(か)が多く関西的な語尾の「ノー」使用がみられる庄内地方というように地域的特色がみられる。

 伝統的な民俗文化や民俗芸能を年中行事でみると、200年以上の歴史をもつ山形市の初市(1月10日)、中世から受け継がれてきた鶴岡市(旧櫛引(くしびき)町地域)の農民芸能黒川能(国の重要無形民俗文化財)が奉納される王祇祭(おうぎさい)(2月1~2日)や、酒田市黒森の農民が演ずる黒森歌舞伎(かぶき)(2月15~17日)、東北一の植木市でにぎわう山形市薬師祭(5月8~10日)、酒田の総鎮守日枝(ひえ)神社の山王祭(5月19~20日)、またぎの習俗を伝える小国町長者原の熊(くま)祭り(5月中旬)、独特の謡と舞が奉納される遊佐町の杉沢比山(すぎさわひやま)(国の重要無形民俗文化財)、豪華な山車(やたい)とリズミカルな囃子(はやし)が街を練り歩く新庄まつり(8月24~26日。山車行事は国指定重要無形民俗文化財で、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録)、9世紀末からと伝える一子相伝の林家舞楽(国の重要無形民俗文化財)が奉納される河北町谷地どんが祭り(9月敬老の日を含む3連休)などがある。また、出羽三山では五穀豊穣(ほうじょう)などを願う行事の花祭り(7月15日)、八朔祭り(はっさくまつり)(8月31日)、松例祭(しょうれいさい)(大晦日(おおみそか)。国の重要無形民俗文化財)が行われ、多くの信者が参拝、山岳信仰の深さを物語る。

 このような伝統を継承する民俗的行事に加えて、蔵王樹氷祭り(2月上旬)、全国一の将棋駒の生産地天童市の人間将棋(4月下旬)、川中島合戦が催される米沢上杉祭り(4月29~5月3日)、100万本のアヤメが咲き競う長井あやめ祭り(6月下旬~7月上旬)、花笠音頭(はながさおんど)パレードが繰り広げられる山形花笠まつり(8月5~7日)、数百のかかしが展示される上山かかし祭り(9月上旬)など、観光的な祭りも盛んである。

 国指定重要文化財のうち著名なものは、国宝では羽黒山五重塔があり、出羽三山にはほかに羽黒山正善(しょうぜん)院黄金堂(重要文化財)、羽黒山三神合祭殿及び鐘楼(重要文化財)、祭殿前の御手洗(みたらい)池から出土した銅鏡190面(重要文化財)、羽黒山スギ並木(特別天然記念物)などがあり、かつて栄えた三山信仰がしのばれる。芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』の「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」で有名な山寺立石寺(りっしゃくじ)(山形市)は国の名勝・史跡に指定され、中堂や三重小塔(いずれも重要文化財)がある。

 そのほか、国の重要文化財としては、行基の開山と伝えられる本山慈恩寺本堂(寒河江市)や若松寺観音(かんのん)堂(天童市)、多層民家の旧渋谷家住宅(鶴岡市致道博物館)など5棟の民家、1878年医学教育施設として創建された木造三層楼の旧済生館本館(山形市)などがある。また同じ重要文化財である旧県庁舎および県会議事堂が修復されて、県政や県土のあゆみなどを展示した県郷土館「文翔館」として公開されている。国指定史跡には日向洞窟(どうくつ)(高畠町)、出羽国府跡といわれる城輪柵跡(きのわのさくあと)(酒田市)、東北有数の銀山だった延沢銀山遺跡(のべさわぎんざんいせき)(尾花沢市)などがある。

[中川 重]

伝説

出羽三山を開山したのは崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子「蜂子皇子(はちのこのみこ)」と伝えられる。皇子は父帝を蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺され、自らも一命が危うくなったので陸奥(みちのく)に逃れ、羽黒山で難行苦行を積んでついに神仙になったという。その御陵は羽黒山頂にある。その奇跡伝説は羽黒山、湯殿(ゆどの)山、月山(がっさん)の三山にわたっている。蜂子皇子の伝説は貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)であるが、「順徳上皇(じゅんとくじょうこう)」伝説も同様である。討幕に失敗した上皇は佐渡に配流された。機をみて島を脱出し出羽国西置賜(にしおきたま)郡小国(おぐに)町舟渡(ふなと)に至り、さらに村山地方へ移り尾花沢市正厳(しょうごん)、のちに御所(ごしょ)神社となった所に宮居(みやい)を定めた。丹生(にう)の天子塚は上皇の御陵と信じられている。「義経伝説(よしつねでんせつ)」も多い。平泉へ落ちる義経一行のなかに北の方がいたが、途中で産気づき、弁慶が瀬見(せみ)温泉で若君に産湯をつかわせたという。上山(かみのやま)市石崎神社の境内には義経休み石があり、最上と庄内との境の酒田市柏谷沢(かしわやざわ)には弁慶がぬれた腹巻を干したという腹巻岩がある。弁慶の大笈(おおおい)が西村山郡朝日町の大沼浮島稲荷(いなり)に保存されているという。西村山郡西川町本道寺(ほんどうじ)の八楯山(やつたてやま)は陸奥(みちのく)鎮定の命を受けた八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)と安倍貞任(あべのさだとう)の軍勢の激戦地だった所で、矢立て石、八幡坂、弓張平(ゆみはりだいら)、矢引沢(やびきさわ)、征矢形(そやがた)などの地名が残っている。安倍貞任は大鳥川沿いの茅峰(ちのみね)で討ち死にしたという。貞任には娘があり義家に恋慕していたが、父が討たれたのを知って恨み長井市西根の三淵(みつぶち)に身を投げたという。その霊を鎮めた宮が総宮(そうみや)神社である。米沢市小野川には「小野小町(おののこまち)」の伝説がある。小町は行方が知れぬ父の出羽郡司小野良実(よしざね)を訪ねて小野川郷に至り、霊夢で温泉を発見し、それが現在もある共同浴場尼(あま)の湯のおこりといわれ、小野川温泉も小町にちなむ地名という。この地で父に巡り会い、薬師堂を建てたといわれる。米沢市塩野にある美女塚は小町の墓所と伝える。東田川郡庄内町に「千河原(ちがわら)」という所があるが、かつては血河原とよばれ、応神(おうじん)天皇の皇子大山守皇子(おおやまもりのみこ)ゆかりの地である。皇子は皇位をねらったという疑いをかけられて陸奥に流され、舟で最上川を下り千河原に上陸したところを刺客に討たれ、河原を血で染めた。慰霊のために里人が建てたのが余目(あまるめ)の千河原八幡宮であるという。山形市山寺に立石寺(りっしゃくじ)を開いた慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)の伝説も数多い。山寺はもと死後他界の山の信仰があった地で、大師伝説とまたぎの祖「磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)」伝説との混交がみられる。大師お手かけ石、笠(かさ)投げ石、独鈷(どっこ)水、大師つぶて石、対面石、磐次矢とぎ清水、弓かけの松、矢投げ沢などがある。独鈷水は、大師が独鈷を持って加持祈祷(きとう)すると一夜のうちに清水が山上に湧(わ)いたという伝説である。高僧伝説は慈覚大師だけではない。弘法(こうぼう)大師空海(くうかい)の足跡もこんな所までにと思うほど広い。米沢市の塩野は塩の乏しい所で、大師が錫杖(しゃくじょう)を持って井戸を掘ると塩水が出たという。鶴岡市田麦俣(たむぎまた)の柳清水、同市の八久和(やくわ)川と梵字(ぼんじ)川の合流点の舟岩など、その影響は多い。

[武田静澄]

『『山形県史』通史編全5巻・各論編6巻・資料編20巻(1968~1987・山形県)』『『山形県の文化財』(1972・山形県教育委員会)』『『角川日本地名大辞典6 山形県』(1981・角川書店)』『『新山形風土記』全3巻(1982・創土社)』『『山形県大百科事典』(1983・山形放送)』『『日本歴史地名大系6 山形県の地名』(1990・平凡社)』『横山昭男他著『山形県の歴史』(1998・山川出版社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android