熊本(県)(読み)くまもと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊本(県)」の意味・わかりやすい解説

熊本(県)
くまもと

九州本島のほぼ中央に位置する県。北・東・南の三方は山地によって福岡・大分・宮崎・鹿児島の各県と境し、西は天草灘(あまくさなだ)に臨み、有明(ありあけ)海、島原湾を隔てて長崎県と相対している。県庁所在地は熊本市。県の中央から南西に突き出た宇土半島(うとはんとう)が有明海と八代海(やつしろかい)とを分け、その南西に天草諸島が浮かんでいる。したがって、この位置は九州地方の地理的中心にあたり、明治維新を契機に誕生した中央集権国家日本の形成期には「鎮西(ちんぜい)(九州地方)」の行政中心県として機能した。県名は県域の大半を占めた熊本藩の名を継承したが、クマは本来屈曲した川によりできた平野で、山に囲まれた所を意味し、古くは隈本の字をあてた。北界をなす八女(やめ)・万年山(はねやま)両山地、東界をなす九重(くじゅう)・阿蘇(あそ)両火山地ならびに九州山地、南界をなす九州山地に縁どられ、東シナ海の波浪に洗われる島嶼(とうしょ)を西界となすこの範域は、まさしく自然的境界に縁どられた地理的単位であり、7世紀後半に火(肥)の国を二つに分けて成立した肥後国の範囲もこれと同じであった。この中にあって、三方の山塊に源を発する諸河川のほとんどは、盆地、火口原などで合流したのち、ほぼ西走する大河となって、中・下流域に洪積台地や沖積低地を展開させ、最下流域の海民(うみのたみ)、上流域の山民(やまのたみ)とは異なった生活様式を営む里民(さとのたみ)に主要な生活の舞台を提供してきた。この土地環境と深くかかわりあった生活の基本型は、交通網の整備が進み、技術革新の著しい現代においても、大きな変化はなく、それぞれの主導産業の性格的違いに形を変えて現れている。

 人口の推移をみると、第1回国勢調査が行われた1920年(大正9)には123万3233人、1950年(昭和25)には182万7582人となった。しかし漸増傾向をたどったのは1955年までで、当時の189万5663人は県人口としては最大規模のもので、高度経済成長の終焉(しゅうえん)期の1970年には170万0229人と約20万人の減少をみ、過疎問題に悩む市町村が多数発生した。2000年以降、総人口は漸減傾向にあり、また、県内での人口移動は特定の傾向、すなわち農山漁村から熊本市ならびにその隣接町村への流入・定着をもって激化し、過疎問題はむしろ深刻化している。

 2020年(令和2)国勢調査の人口は173万8301人、2020年10月現在、14市9郡23町8村からなる。

[山口守人]

自然

地形・地質

山麓(さんろく)地も含めると、熊本県の面積(7409.46平方キロメートル)の4分の3は山地ならびに火山地である。荒尾(あらお)丘陵、関町丘陵、菊鹿(きくか)盆地、迫間(はざま)丘陵、小国(おぐに)盆地、阿蘇盆地、矢部盆地、砥用(ともち)盆地ならびに人吉盆地(ひとよしぼんち)を除けば、残りの4分の1に相当する平地は、阿蘇外輪山・高原地に西接する洪積台地と、有明海・島原湾、八代海(不知火(しらぬい)海)に臨む位置に菊池川、白川、緑川、球磨川(くまがわ)などによって形成された菊池・熊本・八代の沖積平野とからなっている。平地が広く分布することとも関連して、県北半の山々の山稜(さんりょう)は概して丸みを帯びており、県南半の高峻(こうしゅん)な山容に比べて、際だった対照をなす。この地形にみる南北性は地質にも認められる。すなわち、県央を東北東から西南西に走る臼杵(うすき)‐八代構造線(西南日本を内・外帯に分ける中央構造線の南西端)は、県域を、主として変成岩類からなる県北と、主として堆積(たいせき)岩からなる県南とに二分させ、さらにその構造線上には、県北半の東半だけでなく、県南半の北東部にも大量の火山性噴出物を降下させ、地形にも多大な影響を与えた阿蘇火山がある。また、八代海に没した構造線は、九州山地の西縁に断層海岸を形成させ、西に八代海を隔てて浮かぶ大小110余りの天草諸島の錯綜(さくそう)した海岸とは異なった趣(おもむき)を呈している。県下の多様な地形・地質を大まかにまとめると次のようになる。まず、福岡県との境界をなす低山性の八女・玉名地塊、次に、溶岩・火山性噴出物からなり大きなカルデラを有する阿蘇火山地塊、それに西接し熊本県におけるもっとも中心的な産業地域である熊本平野・益城(ましき)低山地地塊、九州本島部にあたる熊本県域の南半をほとんど占める壮年期山地の九州山地地塊、半島・島嶼(とうしょ)からなり、全域ほぼ標高500メートル以下でありながらも、起伏の激しい山容を呈する宇土・天草低山地塊、以上の5地塊になる。

 県内には、大分県にまたがる阿蘇火山を中心とする阿蘇くじゅう国立公園、海洋と島嶼の公園雲仙天草国立公園の天草地区、また起伏が大きく山容の険しい九州中央山地国定公園や耶馬日田英彦山国定公園(やばひたひこさんこくていこうえん)などがある。県立自然公園には、奥球磨、金峰(きんぽう)山、小岱(しょうだい)山、芦北(あしきた)海岸、三角(みすみ)大矢野海辺、矢部周辺、五木五家荘(いつきごかのしょう)がある。

[山口守人]

気候

九州のなかでもっとも内陸的な気候で、8月の日最高気温が薩南(さつなん)諸島に匹敵するかと思えば、冬季の霜日数は九州最多で、山岳部の寒冷さはおよそ暖国とは思えない。年降水量の4分の3は4~9月に集中し、なかでも梅雨、台風による降雨はこの期間の降水量の約75%に相当し、毎年のように発生している洪水の主因となっている。また風については、多量の降水をもたらす台風を除けば、三方を山に囲まれた熊本県の地形的特徴から、強く吹くことはほとんどまれである。むしろ「まつぼり風」(春秋に、阿蘇の火口原から火口瀬に向けて急に吹く最大風速20メートル前後の強風)や「肥後のこち風」(夏に、阿蘇から熊本平野に吹くフェーン現象をもたらす東風)とよばれる局地風が、土地の人々の生活に大きな影響を与えている。

[山口守人]

歴史

先史

甲佐(こうさ)町、西原(にしはら)村、山鹿(やまが)市長沖などからの数少ない遺物から、熊本県下にも旧石器時代人の生活が展開していたことは確実であるが、その全容については、なお今後の研究の成果をまたねばならない。しかし、それに続く縄文時代となると、生活の場自体も台地・丘陵だけでなく、五木村頭地(とうじ)や山都(やまと)町菅尾(すげお)などのような山奥にも広がり、いわゆる狩猟・漁労・草実採集に依存する日本文化の基礎的形態が認められる。とはいえ、宇土市宇土で初見のいわゆる曽畑(そばた)式土器とよばれる幾何学文様の土器は、朝鮮半島南部にも類似したものがあり、明らかに東日本の縄文式土器と異なった別系統の縄文文化の存在を示唆している。この系統の文化が大陸から伝来したと考えられる稲の栽培を育成・拡大伝播(でんぱ)させたか否かは別として、縄文晩期に玉名市岱明(たいめい)町高道、同町山下や大津(おおづ)町大林の沖積地域に稲の栽培が行われていたようである。稲の栽培は生産力の飛躍的な上昇をもたらし、集落内には富の蓄積による階級社会が存在するようになり、その支配者は、当時、渡来品であったと思われる金属器を保持することにより、ステータス・シンボル(地位・身分を表す象徴)とすると同時に、村落共同体の祭器にもしたと考えられる。宇土市宇土、阿蘇市一の宮町で出土した銅鉾(どうほこ)はこの類のものと推測され、畿内(きない)を中心とする銅鐸(どうたく)文化圏とは異なった熊本県下の弥生(やよい)文化のよすががしのばれる。

[山口守人]

古代

古墳時代に入るや、地方豪族の萌芽(ほうが)が、おもに阿蘇盆地、菊鹿盆地、菊池平野、肥後台地南西部、豊田(とよだ)分丘山地(宇土半島基部)、八代平野山麓部、人吉盆地などに分布する規模の大きな墳墓からうかがい知れる。これらの豪族のうちでは、ヒ(氷川町)のキミ、アソ(阿蘇市一の宮町)のキミ、アシキタ(八代市日奈久(ひなぐ))のキミなどが有力であったほか、古代山城鞠智(きくち)城跡から発見された木簡の「秦人忍口(米)五斗」の文字などから渡来人である秦氏の常住も確認されている。中央(大和(やまと))支配が伸展すると、国造(くにのみやつこ)として遇されるが、彼らの古墳の特徴である、装飾の施された幾何学文様、守護神と推定される石人・石馬の存在、家族墓的性格を推し量らせる合葬風習などから、なお先史と同様、大和文化圏との文化の異質性を認めうる。県(あがた)、屯倉(みやけ)(熊本市西区春日(かすが)付近ほか)の設定、多数の部(べ)の存在、ヒのキミ(火の君、肥の君)の急速な勢力拡張などから、大和政権の勢力強化の状況がうかがい知れるとともに、肥の国の地域中心が八代郡から益城(ましき)郡、さらに託麻(たくま)郡、飽田(あきた)郡へと移っていくのをたどることができる。すなわち、7世紀末の益城国府の建設、8世紀初めの筑後守(ちくごのかみ)道君首名(みちのきみおびとな)の肥後守兼任、7世紀なかばから9世紀初めの国府移転(益城国府→託麻国府→飽田国府)、肥後14郡(玉名、山鹿、山本、菊池、合志(こうし)、阿蘇、飽田、託麻、益城、宇土、八代、葦北(あしきた)、球磨(くま)、天草(あまくさ))における郡家(ぐうけ)の設置などがそれである。中央支配は大宰府(だざいふ)を介して行われ、それまでの海路(有明海・島原湾)を経ての筑紫(つくし)との結び付きが、陸路(肥後路=15駅家)を主とするようになる。10世紀初めに編纂(へんさん)された『延喜式(えんぎしき)』によれば、当時、九州管内から大宰府に集められた租庸調(そようちょう)・中男作物(ちゅうなんさくもつ)(養老令では17~20歳、757年の改制後は18~21歳の男子が納めた貢納品)のうち、肥後が最大を誇っていたものは、米・絹・綿紬(わたぎぬ)で、雑魚腊(ざこほじし)・鯛腊(たいほじし)・煎海鼠(いりこ)などの海産物もこれに準ずる量であり、「額髪(ぬかがみ)を染木綿(しめゆう)で結わえる風習」(『万葉集』)を有するヒヒト(肥人)の経済活動の一端が知れる。

[山口守人]

中世

荘園(しょうえん)化は、肥後では10世紀末の玉名荘・合志荘(大宰府安楽寺領)の誕生をもってその嚆矢(こうし)とするが、11世紀に入ると、その勢いは公領地にも及び、在地領主形成の基盤となり、やがて領国経済圏成立の素地を形づくっていく。たとえば、国造から大宮司家となった阿蘇氏は荘園化した阿蘇社領の預所(あずかりどころ)代官として、また、大宰府の府官の有力家来として下向土着化した菊池氏は天満宮領の荘官として、さらに、相良(さがら)荘(静岡県榛原(はいばら)郡)の館主から多良木(たらき)荘に預けられた相良氏は鎌倉御家人(ごけにん)の優位性を利用して、球磨郡下の惣(そう)地頭として、それぞれ領主的地位を確立し、封建的主従関係を介して武士団を統括する。この過程で古代の豪族である肥(ひ)(八代郡下)や真上(まがみ)(益城郡下)らは、中央または大宰府と主従関係を結んだ土豪らに圧倒され、阿蘇、菊池、相良3氏の鼎立(ていりつ)するなかにあって、新たに形成をみる武士団の群立によって、さらにその存在を薄めていく。と同時に、それまで原則として総領である本家の統制にあった庶子が分家独立し、単独で守護と結び付き、守護大名の成立を促し、菊池氏を肥後守護に導く。しかし、阿蘇・菊池・相良3氏の鼎立、菊池氏のかたくなな南朝支持、在地土豪の家臣団編入の徹底化の遅れなどから、結果的には肥後では、薩摩(さつま)の島津氏、豊後(ぶんご)の大友氏に比定されるような守護大名の戦国大名化はみられず、これら両氏に肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏を加えた国外勢力の伸張の場と化して近世を迎える。とはいえ、群立する土豪らは、しだいに肥後の有力豪族である阿蘇・菊池・相良・名和氏(なわうじ)に統合され、それぞれの領国が形成され、そこに統一的な経済圏が誕生していく。すなわち、領国内では、余剰生産物の商品化のために各地に市場が立てられ、中心集落自体も領主居住地、交通要衝地、門前町、港町というように分化する。流通物資は、年貢の銭納が肥後で一般化する14世紀以降からは、大豆・菜種(なたね)・胡麻(ごま)などにかわり、とくに荏胡麻(えごま)は京都大山崎離宮八幡(はちまん)の油座商人の独占購入品になる。それだけに、緑肥・灰・厩肥(きゅうひ)・糞尿(ふんにょう)などの投入、養蚕・牛馬耕の普及も盛んとなり、農業生産力は著しく増大するとともに、農業経営面でも、下人(げにん)・奴婢(ぬひ)、さらに小作人を多数使用する豪農(名主(みょうしゅ))経営が発生してくる。この豪農の群立はまた、先の武士団の群立とも絡み、当時の荒廃した京文化の受け皿となり、肥後文化の向上に大きく寄与し、その影響は連歌(れんが)、茶道、能楽、琵琶(びわ)などに現れている。この華やかさとは対照的に、豪農経営下の農民の生活は、生産力の向上のわりには苦しく、領主居住地・交通要衝地ほか「町」とよばれる消費地へ向けての「柴(しば)売り」商売はこのような農民の生活補充手段の一つであった。さらにまた、当時、倭寇(わこう)として恐れられた人々のなかには、相当数の肥後人が「雇い下働き人」として加わっていたといわれる。

[山口守人]

近世

隣国に本拠を置く戦国大名(大友氏、龍造寺氏、島津氏)らの肥後での争いは、いくつかにまとめられつつあった領国を、ふたたび土豪の群立する状況に陥れ、いわゆる国侍(くにざむらい)あるいは国人(こくじん)とよばれている中世的な城塞(じょうさい)に拠点を置く局地的な領主の誕生を促した。52人を数えたこれらの肥後国侍は、つねに勢力の強い戦国大名にくみすることによって、その地位を保ち、豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定にあたっても巧みに立ち回って、所領を半減されながらも、その旧領を安堵(あんど)され、族団協同体の中核であり、自らも家父長的農業経営者である名主層を給人(きゅうにん)化して、近世大名たらんとした。しかし、平定後に入国した佐々成政(さっさなりまさ)の施策に対する国侍の反発(国人一揆(いっき))は、成政だけでなく、国侍自らも近世大名への発展を阻害する結果となり、天草五人衆と相良氏を除けば、そのほとんどが、成政にかわって入国した加藤清正(きよまさ)・小西行長(ゆきなが)の家臣団に編入され、その後に農奴主的豪農と化していく。残った国侍も家臣化遂行への抵抗(天草五人衆)や国侍支配復活への嫌疑(阿蘇氏)などからその勢力をそがれた。ここに、肥後の近世的一円領主制が成立をみ、関ヶ原の戦い(1600)の結果、加藤領およそ52万石(熊本藩)、相良領およそ2万石(人吉藩)という形で確定をみる。新領国の誕生により、加藤・相良の両大名は、すでに生産者としての性格を失っている武士を城下に集めるために、新たな城下町建設を始めたほか、消費者化した城下の住人に安定した物資の供給を行うために、灌漑(かんがい)・治水を自らの統制下に置き、交通整備に力を注いだ。たとえば、清正による熊本城築造、城下町建設、白川・菊池川などの堤防・井手筋(堰(せき))建設、城下への水路・陸路の建設・整備はその代表であり、清正の手によったといわれる新田は肥後領内だけでもおよそ2万5000ヘクタールに及んでいる。これにより清正は、それまで旧土豪を介して間接的に支配していた農民層を、土地(新田)と用水(井堰)から直接支配する機構をつくりあげようとしたが、彼の急逝により、肥後の近世大名の統治機構の確立は、1632年(寛永9)に新領主となる細川氏に託される。この年より、相良・細川両大名による肥後(天草を除く)支配は明治維新まで続くわけであるが、戦国末期からここまでに至る農民の生活は、土地を通して貫徹される領主の地方(じかた)支配によって、しだいに惨めさを増した。これら農民による封建支配に対する抵抗は支配者のもっとも恐れるところで、相良領においては、加賀における一向一揆(いっこういっき)の影響を恐れ、16世紀初めに真宗禁制を、加藤領では16世紀末にキリシタン禁制を政策の中心に置いている。いずれも宗教統制に形を借りた農民支配であった。また唐津(からつ)城主寺沢広高は領地天草の生産力を過大評価し過重な年貢を課したが、これがキリシタン弾圧と重なって、農民たちの反発を招き、島原・天草一揆を引き起こすに至った。世に「島原の乱」とよぶこの一揆は、その終了の翌年(1639)に鎖国令を発せさせ、1670年(寛文10)には「戸田の破城」を幕府に認めさせた。以来、天草は天領となり、熊本藩(細川氏)、人吉藩(相良氏)とともにいわゆる肥後の3領国という支配構造が固められた。

 まず、肥後の大半を領有する細川氏は、加藤領時代に例外的に認められた一国二城(熊本城・八代城)をそのまま継承し、自らは熊本城に、八代城には大名格世襲家老松井氏を配して、藩主を頂点に、家老、中老、大奉行(ぶぎょう)、大目付、旅家老、奉行、目付、横目などの藩庁組織を整備するとともに、地方支配にあたっては、各郡に年貢収納役の代官、山林経営の支配役、井樋(いひ)の支配役などを設けた。農民統制のためには、すでに庄屋(しょうや)、頭(かしら)百姓、脇(わき)百姓、作人(さくにん)、名子(なご)などの身分に分かれていたムラをおよそ30~40集めて、「手永(てなが)」(およそ1万6000石)とし、先に家臣団化された土豪・国侍らも惣(そう)庄屋に据えて、その支配にあたらせた。町民統制のためには、熊本・八代・高瀬・高橋・川尻(かわしり)の5か所(1756年に宇土・鶴崎の2町追加)にのみ特権的機能を与え、これ以外の町は村扱いとして最小限のものしか商わせないような組織を整えた。さらにまた、「地侍(じざむらい)」「郡筒(こおりづつ)」「地筒(じづつ)」「在中御家人」とよばれる武士を郷村に居住させ、要地・辺境の警護に備えさせるとともに、近世中期以降、藩財政が窮乏すると、この身分(郷士)を、金品を多額に寄付する富農にも与え、農村内に蓄積される富の吸収と農民意識の分断に利用した。これらの組織は本藩である熊本藩はもとより、支藩格の松井氏支配地、支藩の宇土藩・高瀬藩にも適用された。

 次に、鎌倉初期から球磨地方を支配してきた相良氏の人吉藩では、藩庁組織そのものには熊本藩と異なる点は少なかったが、地方支配となると大きな違いが認められる。すなわち、藩士は、知行取(ちぎょうとり)城下士、知行取外城(とじょう)士、扶持米取(ふちまいとり)城下士、扶持米取外城士、ならびに郷士(農民ではあるが、身分上のみ)に分けられ、とくに知行取外城士は、居住している地域の土地と農民を直接支配する状況にあった。このため、領内の大規模な土木工事も藩自ら企画することは少なく、人吉城下の特権商人や水不足に悩む農民自身によって行われている。いいかえれば、当時においてもなお、相良藩主は領内農民の直接支配を徹底せず、中世的な社会構造のうえに領主制を存続させていたといえる。事実、年貢・公役(くやく)のほかに、古代の庸・調・徭役(ようえき)に相当する、田畑、山林、加工品を対象とした公事(くじ)が課せられ、有力な財源となっていた。

 これらの私領に比べ、1671年(寛文11)から天領となった天草では、代官支配と、本途物成(ほんとものなり)(年貢)より小物成(雑税)・運上(営業税)のほうが多い土地柄で、さらに肥前、筑後、肥後、薩摩の経済圏の交錯する要衝でもあることなどから、肥後のなかではもっとも早くから農民層の分解が進んだ。このため、商いによって蓄えられた資本は、高利貸を介して土地の兼併に用いられ、「銀主(ぎんしゅ)」とよばれる高利貸資本は、自らも大地主に成長し、零細農民の憎悪の的となり、一揆のたびに打毀(うちこわし)の対象になった。幕府は、繰り返される一揆ごとに疲弊する天草農民を救うために、三度にわたって「百姓相続方仕法」を発布するが、深化する農民分解を防ぐことはできなかった。貨幣経済の浸透により、封建権力と結び付いた商人資本に対する農民ならびに下級武士の抵抗は、いずれの藩にも生起し、幕藩体制を動揺させた。肥後の細川・相良両藩でも、この動揺を防ぐため、財政・産業の改革、思想統制としての文教制度の確立を行った。たとえば細川藩では、1757年(宝暦7)に「地引(じひき)合せ」を行い、「定免(じょうめん)制」を導入して収入の安定化を図るとともに、近世初頭に朝鮮から移入した紙漉(かみすき)・陶窯、在来から盛んであった養蚕・製蝋(せいろう)などを奨励することによって、産業の振興を図り、それらの専売仕法も検討された。また、相良藩でも、中世的名主・土豪の農業経営が強く残るなかで、紙・楮(こうぞ)・苧(お)の座を人吉城下に設け、産業の育成にあたったが、「茸山(なばやま)騒動」(1841)とよばれる一揆を誘起している。

[山口守人]

近・現代

幕藩体制の動揺は、佐幕であれ尊王であれ、絶対主義的な傾向のなかで、幕藩政の改革に結び付いていった。その形は、相良藩では、藩主の血縁にあたる中級武士以上の山鹿流軍学派(尊王攘夷(じょうい)派)と下級武士・豪農層からなる洋式派(佐幕開国派)の対立を生みながら、改革の成果もないまま、しだいに倒幕へと藩論が統一されていった。下級武士・郷士らは大きな不満と深刻な生活苦にあえぎながら、1871年(明治4)には、長崎県に編入されていた天草とともに結成された八代県(人吉藩・人吉県時代の米良(めら)地方は宮崎県へ分離)の住民として、さらに1873年には、1876年に熊本県民に変わる白川県の住民として新政府の施策に期待していく。また細川藩でも、改革の指導権争いが、藩校での学問の本質の位置づけの異なりからくる学校党(上・中級武士層)と実学党(中・下級武士層と郷士層)との間で行われたが、当時一般的にみられた上士的地盤の公武合体派に対する下士・豪農的地盤にたつ尊攘派の挑戦という構図はとらず、ともに幕藩体制の崩壊を防ぐことを意図した主流派と非主流派との関係でとどまり、真の対立は新政府樹立後における士族・農民の動揺に対する国政ならびに県政の施策のなかで現れた。すなわち、横井小楠(しょうなん)の「士民の利益」の思想を、維新後の熊本藩独自の士民救済体系である「損上益下」にまで具現化させた実学党は、熊本洋学校の設立、公選民会開設運動への参画を介して、階層分解を激化させている新施策にしだいに反対の立場を鮮明にさせていった。

 これに対し、旧藩政の主流派であった学校党は、実学党の急進性を恐れた中央政府の意向をくみ、その代弁者である県権令(ごんれい)を支持することによって、その勢力基盤の安定と拡張を計ったのである。士民の動揺は、郷士上村孫三らの県庁襲撃(未遂、1872)、天草郡崎津での血税一揆(1873)、神風連の乱(しんぷうれんのらん)(1876)、西郷軍への加担と地租改正反対・政府軍軍夫徴集反対の暴動(1877)、山鹿郡下での地主・高利貸襲撃(1883)などに代表されるような形で現れ、これらのなかに、いわゆる御一新を介して期待した士民の国家づくりの二つの方向、主権在民か天皇主権かの姿を読み取ることができる。これら近世から継承された二つの流れは、その後、紆余(うよ)曲折をたどりながらも、学校党→紫溟(しめい)会→熊本国権党→憲政会、実学党→公議政党→九州改進党→政友会とつながり、政争県熊本の風土を醸成していく。また産業面にもこの二つの流れは影響を及ぼす。すなわち実学党は、士族授産金を、肥後の伝統的な特産品であった絹生産の機械化に向けさせることに尽力し、一時的ではあるがその製品「熊本生糸」を輸出させるまでに至らせたが、繭生産に対する肥後農民の副業的姿勢が災いして、原料繭不足を招き、地場企業としての成長が望めなかった。一方、学校党は、幕末になり藩財政打開のために盛んとなった有明海・八代海の干拓事業を継承し、そこに地主勢力の拡張の場を求め、1908年(明治41)には収納米・小作米を独占販売する肥後米券(べいけん)倉庫株式会社を設立し、小作人との対立を深めていく。しかし、これらの二つの流れも県民全体の意識のなかで高揚されてきたものではなく、旧熊本藩のなかにおける政策論の延長線上にあるもので、おもに山村経済に依存する旧人吉藩球磨地方、おもに漁業経済に依存する旧天領天草地方では、地域利害的な立場からの流れもあった。このことは、国政選挙になると、地主層を巧みに掌握した政党がつねに勝ったことからもいえる。

 したがって地主層の成長は着実に進展し、1941年(昭和16)には本県の総耕地の約54%を占める田の小作地率は60%を超え、稲作立県の根幹を掌握していたことがうかがえる。1945年から1946年にかけて実施された農地改革は、熊本県政に大きな影響力を有していた地主層を壊滅に導いたが、政友会から自由党、憲政会から民主党へと変わり、やがて自民党に合同する政治集団を強く支持する県民の政治的意識の保守性まではぬぐい去れなかった。この保守性は、大正末の日本窒素肥料(現、チッソ)と水俣(みなまた)村漁民との間に取り交わされた、工場排水による魚介類水揚量の急減に対する見舞金受け取り条件(今後、永久に苦情の申立てを行わない)の設定、その後の数回に及ぶ永久の漁業補償の締結などにもうかがうことができる。しかし1968年(昭和43)に水俣病の原因がメチル水銀化合物であることが認められて以降、新設工場だけではなく、既設工場の環境保全に対する施策の強化を求める姿勢が県民の意識のなかに著しく高揚してきている。

[山口守人]

産業

農林業

米麦にサツマイモ・雑穀・養蚕を加えた熊本県農業の伝統が大きく崩れ始めたのは、「主産地形成」が具体化する昭和30年代末のことで、地域の自然条件を巧みに生かした産地化は、島嶼・海岸部における花卉(かき)(フリージア)・野菜(レタス・キュウリ)・柑橘(かんきつ)類(温州(うんしゅう)・甘夏ミカン)、水田地帯の裏作としての施設園芸(トマト・メロン・イチゴ)・タバコ・イグサ(八代平野に集中)、常畑地帯の酪農・スイカ、高冷地帯のキャベツ・ハクサイなどの特化を生み出し、伝統農業には期待できなかった高収益性をもたらしている。とくにこの傾向は、1969年(昭和44)に始められた「米の生産調整」以降、顕著になったが、この激しさが新たな生産過剰を招き、機械化・施設化に伴って高投資となった農家経済に大きな不安感を与え、専業農家の増大を阻んでいる。林業は、耕地の乏しい天草地方、芦北(あしきた)地方、小国(おぐに)地方ならびに球磨(くま)地方の基幹産業であるが、薪炭・坑木の需要がほとんどない近況では、その需要は建築用材に限られている。これも外材の進出によって圧迫を受け、林家経済を危機に陥れている。本県はとくに、広葉樹林伐採後にスギ・ヒノキの造林を大規模に推し進めたため、その危機の深刻さはたいへんなもので、未成熟林を皆伐し、クヌギ(シイタケの原木用)・クリに植え換える林家や、投下資金回収のため転売する林家も増えている。

[山口守人]

水産業

漁業は、有明海の採貝・刺網・小型定置網・ノリ養殖、八代海の吾智(ごち)網・打瀬(うたせ)網・刺網・ノリに加えて、タイ・クルマエビ・真珠などの養殖、天草西海の巻網(イワシ・アジ・サバ)、小型機船底引網(ヒメジ・イトヨリ)、潜水漁業(アワビ・ウニ・イセエビ)、ハマチ・タイ・真珠などの養殖と多種多様であるが、養殖業を除けば不振である。このため漁業振興策として、人工魚礁の設置、魚付き林の設置、さらに稚魚放流など栽培漁業の方策がとられている。

[山口守人]

工・鉱業

昭和30年代前半までの本県の工業は、荒尾、八代、水俣、熊本の4市に立地しているもので代表されるように、地方資源、あるいは都市成長に伴って開発された局地市場に依存しているものが多く、このことが製造品出荷額などに占める食料品・繊維・化学・木材・パルプなどの業種の比重を非常に高めていた。この構造に大きな変化を与えたのは、新産業都市の指定による各種産業基盤施設の整備や、地元県市町村の工業団地造成による企業の積極的な誘致策もあるが、それにもまして大きなものは、高度成長期を経る過程で、労働力市場が買い手市場から売り手市場に転換したことである。具体的には、昭和30年代末には中小の繊維・衣服関連工場が、同40年代のなかばには中小の電子部品工場が、また同年代の後半には大手の電気機械が、さらに同50年代の初めには大手の輸送機械や金属製品などの工場が、それぞれに本県の豊かな労働力市場を求めて、企業によっては下請・関連企業を伴って進出してきたことからもうかがい知れよう。しかも、進出企業の労働力に対する要求も、賃金の地方格差を利用した「量」的なものから、「質」的に均一なものへと変化してきている。

 とくに昭和50年代なかばから、素材生産同様、地元にほとんど市場を有しないIC生産を、地元・誘致企業がその質的転換を図るために活用しようとする構想(テクノポリス構想)が浮上した。県は、それまでの誘致企業(166社)による波及効果が、1982年(昭和57)には直接・間接の雇用も含めて11.5万人に達したと発表して、テクノポリス構想による開発の促進に自信を深めている。近年の立地特性としては、業種を問わず高速道路インターチェンジから10キロメートル圏内への新設・移転があげられる。しかし、農業用地、工業用地、さらに住宅用地等の土地利用上の調整では、幾多の問題点を残している。本県の天然資源、なかでも地下資源(石炭、石灰石、陶石、銅、マンガン、ドロマイト、石綿など)はいずれもその鉱業としての性格を失っている。昭和20年代末にピークを迎え、従業員も3000人近くを擁していた天草炭田(志岐(しき)・魚貫(おにき)・河浦)では、石炭鉱害事業団の手によって、1995年(平成7)までに、すべての炭鉱跡地に植林や芝の植え込みがなされ、22年前まで採炭が行われていたことを示すものは、まったくない状況である。

[山口守人]

交通

1964年(昭和39)の九州横断道路の開通、翌年の国道3号最難所「三太郎峠」のトンネル開通などに端を発し、既成の国道網の間隙(かんげき)を縫う形で、国道325号、212号、265号、445号、387号などが山間部に、国道266号、324号、389号などが島嶼部に、改修・敷設された。さらに、これらの機能を高めたのが九州縦貫自動車道と天草五橋である。鉄道では県下を通るJR幹線に鹿児島本線と熊本―大分を結ぶ豊肥本線(ほうひほんせん)、九州新幹線がある。そのほか、鹿児島本線から三角(みすみ)線、肥薩(ひさつ)線などが分岐し、JR以外では熊本電気鉄道、南阿蘇鉄道、くま川鉄道、肥薩おれんじ鉄道がある。現在、熊本空港(阿蘇くまもと空港)から、東京、大阪(伊丹)、名古屋(小牧・中部)、沖縄、天草などに国内定期便が運航している。国際定期便はソウルなどへの便がある。

[山口守人]

社会・文化

教育文化

肥後の文化は、細川氏初代の藤孝(ふじたか)や2代忠興(ただおき)など武将にはまれな文学・茶道に優れた文化人によって培われ、藩校時習館を中心に学問が盛んとなり、他藩からも熊本藩に留学する者が多かった。幕末にかけて熊本洋学校、古城(こじょう)医学校が開かれ、明治中期以後、医学・薬学専門学校、第五高等学校、高等工業学校などができ、当時の九州ではもっとも高等教育機関の多い県であった。これらの多くは現在の熊本大学の前身にあたる。また日本文教史上特記すべき教育勅語の作成と発布に尽力した元田永孚(もとだながざね)と井上毅(こわし)を生んでいる。1910年(明治43)福岡市に九州帝国大学が設立されて、熊本は九州における最高学府の主導校を福岡に譲る形となった。2012年(平成24)現在、熊本大学のほか公立大学2、公立短期大学1、国立高専1があり、私立では1998年開学の九州看護福祉大学を含め8大学と2短大がある。平成20年度学校基本調査による上級校進学率は中学校98.6%、高等学校41.6%である。

 マスコミ関係では、地方紙『熊本日日新聞』があるほか、中央紙ならびにブロック紙の各支社があり、放送ではNHKのほか民放の熊本放送(RKK)、テレビ熊本(TKU)、くまもと県民テレビ(KKT)、熊本朝日放送(KAB)、FM熊本がある。

[山口守人]

生活文化

茶道の「肥後古流」、園芸の「肥後六花」(ひごシャクヤク・ひごキク・ひごツバキ・ひごハナショウブ・ひごサザンカ・ひごアサガオ)、工芸の「肥後象眼(ぞうがん)」などは、「肥後の鍬形(くわがた)」ともいわれる孤高性を好み、時流に流されない肥後気質によって初めてつくりあげられたもので、「肥後琵琶(びわ)」「肥後にわか」とともに郷土性の支柱になっている。また肥後犂(すき)・肥後鍬は、明治初期に、土づくり(馬耕による深耕・暗渠(あんきょ)排水)、稲作栽培の改良(施肥改善・植え付け技術の改良)によって、広く全国各地に伝播(でんぱ)した「肥後農法」の根幹農具で、役肉用牛である「肥後のあか牛」とともに、肥後農業の先進性をうかがわせる。さらに「肥後守(ひごのかみ)」の商標で今日も親しまれている折り畳み式のポケットナイフは、熊本藩の御用鍛冶(かじ)が「廃刀令」後に開発した新製品であった。

 県の民俗および芸能としては、神仏信仰に由来する「荒神」「山の神」「大黒」「恵比須(えびす)」や、神霊観を表す「怨霊(おんりょう)鎮め」、さらに聖地信仰に由来する「水神・竜神」「柴神(しばがみ)」「自然神」などに対する祭礼が、ほぼ県下全域で行われている。また、地搗唄(じつきうた)・田植唄・木挽(こびき)唄や神楽(かぐら)も県下全域で数多く歌い舞われているが、なかでも国指定重要無形民俗文化財の「阿蘇の御田植(農耕祭事)」「菊池の松囃子(まつばやし)」「球磨神楽」「八代妙見祭の神幸行事」をはじめとして、「長野の岩戸神楽」「中江の岩戸神楽」「吉原の岩戸神楽」「久連子(くれこ)の古代踊」などは国の選択無形民俗文化財となっており、「肥後琵琶」は国の選択無形文化財として継承が図られている。

 文化財・記念物としては、本県下には国指定のもの134件、県指定のもの387件がある(2019)。江田船山古墳(えたふなやまこふん)(和水(なごみ)町)から出土し、東京国立博物館に所蔵されている国宝指定の銀象眼のある「銀装素環頭大刀(ぎんそうそかんとうたち)」には、日本最古に属する「記録された文字」が刻まれている。湯前(ゆのまえ)町にある明導寺(みょうどうじ)にはともに寛喜(かんき)年間(1229~1232)の刻銘を有する「阿弥陀堂(あみだどう)」「九重石塔」「七重石塔」「木造阿弥陀如来(にょらい)及両脇侍(わきじ)像」の重要文化財指定4件が保存されている。さらに熊本市には、「石を積み上げた100基の石塔などの遺構が古代寺院のなかでも際だっている」と評価され、1997年(平成9)に国指定史跡となった「池辺寺跡(ちへんじあと)」や、封建大名の権力の強大さやその趣味の贅饒(ぜいじょう)さを示す「熊本城ならびに同城跡」「水前寺成趣園(じょうじゅえん)」が数えられる。このほか、玉名市の広福寺、菊池市の菊池神社、熊本市の本妙寺・大慈寺、山江村の高寺院、多良木町の青蓮寺(しょうれんじ)などにも国指定の重要文化財が保管されている。また、古代人の思想や芸術観をうかがわせる彩色や彫刻による文様を伴った装飾古墳が多くあり、この石造文化が、中世には塔碑に、近世には城郭や眼鏡橋(めがねばし)の石組に生かされ、肥後独自の文化となっている。なかでも、塔身の四周に仏像を彫り出した「十三重塔」、前述の「九重石塔」「七重石塔」は「人吉塔」ともいわれ、独特の様式である。サイホン原理を応用した通水管(農業用水用)を埋設している「通潤橋(つうじゅんきょう)」(重文、山都町)は、日本近世後期の土木技術の白眉(はくび)ともいわれ、肥後流眼鏡橋の優秀さを示している。

[山口守人]

 2016年(平成28)4月に発生した熊本地震では、熊本城をはじめとする文化財にも甚大な被害が発生。熊本県では被災文化財の復旧・復興のための取り組みが進められている。

 なお2018年には、天草下島(しもしま)の崎津集落が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2018年9月19日]

伝説

熊本市中央区横手(よこて)に五郎大明神という巨大な木像が祀(まつ)られている。この祭神は「横手五郎」といって怪力の持ち主。豪雄木山弾正(きやまだんじょう)(?―1589)の子で、父の仇(あだ)の加藤清正の命をねらい、熊本築城のおり石運び人夫に加わって機をうかがったが、見破られて城内の井戸で殺されたという。「後藤又兵衛(基次(もとつぐ))」は大坂落城で戦死したというが、脱出して九州落ちをし、旧泉(いずみ)村の地(現、八代市)で余生を送ったとされている。同地にその墓がある。阿蘇市一の宮町には羽衣(はごろも)伝説がある。田鶴原神社(たづはらじんじゃ)は天女を祀った社(やしろ)という。阿蘇地方には雄大な国づくりの伝説を伝えている。太古の阿蘇山の外輪山には野尻(のじり)湖という広大な火口湖があった。健磐竜命(たけいわたつのみこと)は湖を干拓して耕地をつくろうと思い立ち、外輪山の壁を蹴(け)破った。そのときにできたのが「数鹿流(すがる)ヶ滝」であるといわれている。曽我(そが)兄弟の死後、尼僧になった「虎御前(とらごぜん)」の足跡は諸国にあるが、県下にも虎女(とらじょ)が建立したという塔が各地にある。宇城(うき)市松橋(まつばせ)町の言い伝えによると、この地にきて病死したという。その墓は同市古保山(こぼやま)にある。悪七兵衛(あくしちびょうえ)とよばれた平景清(かげきよ)は、平家滅亡のあと球磨の山奥に逃れた。その父の後を追ってきた娘が、岡原(おかはる)村(あさぎり町)まできたときゴマ畑で転び、ゴマがらで目を突いて盲目になった。もはや道中もかなわぬと思い自害した。この地方ではそれゆえゴマがらを村に持ち込まなくなったという。

 長者伝説で有名な「米原長者(よなばるちょうじゃ)」は山鹿(やまが)市菊鹿(きくか)町米原にあり、その屋敷跡と称するものが残る。人柱伝説もいくつかあるが、玉名市横島町の「本田大明神」は、清正が小田牟田(おだむた)の干拓工事を行ったおり、人柱になった庄屋(しょうや)を祀った社として知られている。美里(みさと)町の城主後藤兵衛(ひょうえ)は、敵に包囲され籠城(ろうじょう)してもちこたえていたが、放火によって落城した。兵衛を祭神とする岩尾野(いわおの)の岩尾神社は、そのゆえに火を嫌って、供米も炊かず、いっさい煮たものは供えないという。

 天草島は「景行(けいこう)天皇」の九州征伐、「平家落人(おちゅうど)」「島原・天草一揆」などにまつわる伝説が数多く散在する。五家荘(ごかのしょう)の葉木(はぎ)・久連子(くれこ)・椎原(しいばる)は、落人「平清経(きよつね)(?―1183)」らが定住した地で、山中では緒方(おがた)姓を名のったという。久連子は古文書「由来書」を伝承している。八代市本町の前川橋ぎわには「河童(かっぱ)渡来の地」という自然石の碑がある。

[武田静澄]

〔2016年熊本地震〕2016年の熊本地震では、4月14日21時26分の地震で益城町で震度7、4月16日1時25分の地震では益城町、西原村で震度7を計測するなど、県中北部の熊本地方、阿蘇地方を中心に大きな揺れに見舞われた。熊本城では石垣が崩れ、大小天守の屋根瓦が落ち、南阿蘇村を走る国道325号の阿蘇大橋は崩落、宇土市、八代市、益城町、大津町などでは本庁舎が損壊、または倒壊の恐れがあることから役場機能を移した。この地震による県内の被害は関連死を含め死者264名(うち、警察の検視によって確認された死者は50名、同年6月の豪雨被害における地震関連死者は5名)、重傷者1177名、住家全壊8643棟、公共建物の損壊439棟にのぼり、罹災世帯数は8万0400を数えている(平成30年5月11日『平成28(2016)年熊本地震等に係る被害状況について【第272報】』熊本県危機管理防災課ほか)。

[編集部]

『森田誠一著『熊本県の歴史』(1972・山川出版社)』『牛島盛光著『日本の民俗43 熊本』(1973・第一法規出版)』『日本地誌研究所編『日本地誌20 佐賀県・長崎県・熊本県』(1976・二宮書店)』『荒木精之他著『日本の伝説26 熊本の伝説』(1978・角川書店)』『熊本日日新聞社編・刊『熊本県大百科事典』(1982)』『『朝日百科 世界の地理 熊本・大分』(1984・朝日新聞社)』『九州活構造研究会編『九州の活構造』(1989・東京大学出版会)』『『くまもと自然大百科』(1995・熊本日日新聞社)』『山田安彦、山崎謹哉編『歴史のふるい都市群12 南九州地方の都市』(1997・大明堂)』


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