日本古来の山岳信仰に基づき、山中で厳しい修行をして、悟りや超人間的な験力を得ることを目的とする宗教。
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( 1 )山岳を霊地として崇拝する信仰に、主に密教の思想が習合して平安中期ごろにできたものと考えられる。畿内では葛城・吉野・熊野等の山岳、また、それ以外の地域でも、羽黒山、白山、彦山等が拠点として古くから知られていた。
( 2 )中世に最盛期を迎えたが、江戸時代に入って、幕府は、各地を遊行することの多かった修験者を本山・当山いずれかの派に所属させ地域に定住させ修験道を統制しようとした。また、江戸中期には、庶民の中にも山岳信仰が広まり、富士講、木曾御嶽講等など各地の修験者を先達とする講が盛んになった。
( 3 )明治五年(一八七二)の廃止によって本山・当山両派はそれぞれ天台宗と真言宗に所属させられたが、同一八年に再興し、第二次大戦後には、各種の修験教団の独立が相次いだ。
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修験道は,日本古来の山岳信仰が外来の密教,道教,儒教などの影響のもとに,平安時代末に至って一つの宗教体系を作りあげたものである。このように修験道は特定教祖の教説にもとづく創唱宗教とは違って,山岳修行による超自然力の獲得と,その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを旨とする,実践的な儀礼中心の宗教である。
日本では古来山岳は神霊のいる他界としてあがめられてきた。しかし奈良時代になると外来の仏教や道教の影響をうけた宗教者たちが山岳で修行したうえで,陀羅尼(だらに)や経文を唱えて呪術宗教的な活動に従事するようになっていった。のちに修験道の開祖に仮託された役小角(えんのおづぬ)(役行者)も,葛城山で修行した山林修行者の一人である。平安時代になると,最澄,空海による山岳仏教の提唱もあって,密教僧たちも好んで山岳修行を行った。醍醐寺を創建した真言宗の聖宝(しようぼう),比叡山の回峰行(かいほうぎよう)を始めた相応(そうおう)などはとくに有名である。そして山岳修行の結果,加持祈禱においていちじるしい効験をあらわした密教僧は,修験者と呼ばれるようになった。修験者は山に伏して修行したことから山伏とも呼ばれた。修験者は中央では吉野の金峰山(きんぷせん)や熊野を拠点として大峰山に入って,山上ヶ岳,小笹,笙(しよう)の岩屋,深仙,前鬼などの霊地で修行した。彼らは,皇族や貴族の御嶽詣(金峰山参詣)や熊野詣の先達もつとめた。
鎌倉時代初期には,中央では熊野を拠点とした熊野山伏,金峰山で修行した大和の諸大寺に依拠した回国修験者の二つの修験集団が形成された。このうち前者の熊野山伏は三井寺の増誉が熊野三山検校になったのを契機として,鎌倉時代末には,聖護院を総本山とする本山派とよばれる修験教団になっていった。一方後者の回国修験者も興福寺の後だてのもとに当山派と呼ばれる教団を作りあげた。しかし室町時代中期ごろから醍醐三宝院の管轄下に入り,聖宝を中興の祖に仮託して真言系の修験教団となっていった。また羽黒山,彦山(英彦山)など諸国の山岳に依拠した山伏も,それぞれ独自の宗派(羽黒派,彦山派)を形成した。修験者は中世期を通じて全国各地の山岳で修行し,また村々を遊行して,修行,呪術宗教的活動,芸能などの伝播から,はては間諜としてなど,多方面な活動を行った。近世に入ると江戸幕府の政策もあって,全国各地の山伏は本山派か当山派のいずれかに所属させられた。また遊行が禁止されたことから町や村に定着し,もっぱら加持祈禱や呪法などの呪術宗教的活動に従事した。このころには修験者の影響もあって大峰山,富士山,木曾御嶽,白山,立山,出羽三山,石鎚山,彦山など全国各地の霊山で,庶民たちの講による登拝がしきりに行われた。
近代初頭,修験道は明治政府によって廃止され,本山派の修験者は天台宗,当山派の修験者は真言宗に所属させられた。このときに神職になったり,帰農した修験者も多い。しかし,第2次世界大戦後,真言宗醍醐派(総本山三宝院),本山修験宗(総本山聖護院),金峰山修験本宗(総本山金峯山寺(きんぷせんじ))などの修験教団が相ついで独立し,修験道はふたたび活況を呈している。
修験道の思想や儀礼は,峰入り修行による〈即身成仏〉という眼目を中心として展開する。まず依経は,教義上は山中の森羅万象そのものを経とするというように,特定の経を立てないことを旨とする。しかし実際には,《般若心経》,《法華経》とくに普門品,本覚讃,陀羅尼,宝号などが好んで用いられた。次に崇拝対象は,基本的には大日如来と金剛界・胎蔵界の曼荼羅(まんだら)(両界曼荼羅)とされているが,実際には大日如来の教令輪身といわれる不動明王や,その両童子が崇拝された。また金峰山では役小角が感得した金剛蔵王権現,大峰八大童子,熊野山では熊野権現があがめられた。
修験道では峰入り修行が行われる山岳は,大日如来の金胎の曼荼羅で,山中の自然現象はすべて,大日如来の説法であるとされる。そして修験者は全体として大日如来と自己の成仏の可能性を示す衣体を身につけて山中に入り,崇拝対象をあがめて,成仏過程になぞらえられた十界修行をし,その最後の〈正灌頂〉で金剛界,胎蔵界の秘印を授かることによって即身成仏しうる,と教えられたのである。即身成仏するということの意味は,正灌頂とあわせて授けられる〈柱源(はしらもと)供養法〉などによると,修験者自身が天と地を結ぶ柱になることを意味していた。またこうした峰入り修行によって成仏したことをよりリアルに受けとめさせるために,峰中修行の際に,死,受胎,母胎内での生育,誕生を示す儀礼も行った。
峰入り修行をおえた修験者は峰中で獲得した験力を示すために,火渡り,刃渡り,護法や動物霊を操作するなどの験術を行った(験競べ(げんくらべ))。羽黒山の〈烏とび〉,吉野の〈蛙飛び〉などはこの例である。またその験力を用いて,小祠の祭,加持祈禱,卜占,巫術,調伏,憑きものおとしなど多様な活動を行った。
→山伏
執筆者:宮家 準
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日本古来の山岳信仰が、外来の密教、道教、シャーマニズムなどの影響のもとに平安時代末に至って一つの宗教体系をつくりあげたものである。このように修験道は特定教祖の教説に基づく創唱宗教とは違って、山岳修行による超自然力の獲得と、その力を用いて呪術(じゅじゅつ)宗教的な活動を行うことを旨とする実践的な儀礼中心の宗教である。
修験道の淵源(えんげん)は、奈良時代に仏教や道教の影響を受けて、山岳に入って修行し、陀羅尼(だらに)や経文の一部を唱えて呪術宗教的な活動を行った在俗の宗教者に求めることができる。のちに修験道の開祖に仮託された役小角(えんのおづぬ)もこうした宗教者の一人である。平安時代になると山岳仏教の隆盛とも相まって、天台・真言の密教僧のうち加持祈祷(かじきとう)の能力に秀でた者は、験を修めた者――修験者――とよばれた。また山伏ともよばれた。中央の修験者は熊野(くまの)や吉野(よしの)の金峰山(きんぶせん)を拠点として、ここから大峰山(おおみねさん)に入って修行した。
中世期になると、このうち熊野の修験者は天台宗寺門派の聖護院(しょうごいん)を本山にいただいて本山派とよばれる宗派を形成した。また金峰山を拠点として大和(やまと)(奈良県)の諸社寺に依拠した回国修験者は、中世末には真言宗の醍醐(だいご)三宝院の後ろ盾のもとに当山(とうざん)派とよばれる宗派を形成した。このほか、羽黒山(はぐろさん)、英彦山(ひこさん)など諸国の山岳にもそれぞれ独立の宗派が形成された。これらの宗派は、それぞれ峰入(みねいり)を中心とした儀礼や、その意味づけとしての教義や独自の組織をつくりあげて、宗教面のみならず政治的にも軍事的にも大きな力をもっていた。しかしながら近世以降、修験者は地域社会に定着し、庶民の現世利益(げんぜりやく)的な希求にこたえて、加持祈祷、呪法、符呪などの呪術宗教的な活動に従事した。近代初頭、修験道は明治政府の修験道廃止令によって廃止され、修験者は天台・真言両宗に包摂された。しかしながら第二次世界大戦後相次いで独立し、現在は本山修験宗(総本山聖護院)、金峯山(きんぷせん)修験本宗(総本山金峯山寺)、真言宗醍醐派(総本山三宝院)、修験道(総本山五流尊滝院(そんりゅういん))などの教団を中心に活発な活動を行っている。
[宮家 準]
『宮家準著『修験道――山伏の歴史と思想』(1978・教育社)』▽『和歌森太郎著『修験道史研究』(1972・平凡社)』▽『五来重著『修験道入門』(1980・角川書店)』
日本古来の山岳信仰が道教・儒教・密教などの影響をうけ,平安末期頃に実践的な宗教体系を作りあげたもの。山岳修行による超自然的霊力の獲得と,呪術宗教的活動を行う山伏(やまぶし)に対する信仰も含む。7~8世紀頃の役小角(えんのおづの)を開祖とする。鎌倉・室町時代に,熊野三山を拠点とする熊野山伏と吉野金峰山(きんぶせん)を中心とする山岳寺院に集う廻国修験者の2大集団が形成され,前者は聖護院を総本山とする本山派に,後者はまず興福寺などの援助により当山派を形成し,のち醍醐寺三宝院の管轄下に入った。出羽三山,九州彦山,四国石鎚山など地方でも独自の修験集団を形成した。江戸幕府は全国の修験者を天台系の本山派か真言系の当山派に所属させ,廻国を禁止したため,町や村に定着し加持祈祷などの呪術的活動をもっぱらにした。1872年(明治5)の修験道廃止令により,諸派は天台宗や真言宗に帰属させられた。第2次大戦後,本山修験宗,真言宗醍醐派,金峰山修験本宗など修験教団はあいついで独立をはたした。
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…生没年不詳。役小角(えんのおづぬ),役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。《続日本紀》によると,699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。…
※「修験道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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