デジタル大辞泉 「リスト」の意味・読み・例文・類語
リスト(list)
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ハンガリーの作曲家,ピアニスト。民族的にはハンガリー(マジャール)人ではなく,両親は南ドイツ出身である。エステルハージ家の執事であった父に7歳のときからピアノを習い,1820年9歳のときに早くも公開演奏会を開くほど上達した。翌21年リストはハンガリー貴族の援助を得てウィーンへ移り,チェルニーにピアノを,サリエリに作曲を学ぶ。ここで,シューベルト,ベートーベンらに紹介された。22年ウィーンでの演奏会に成功,23年各地で演奏会を開きながらパリへ向かい,24年パリ,ロンドンなどで成功し演奏家としての地位を固めた。また作曲家としても唯一のオペラ《ドン・サンシュ》(1825)で成功を収めている。31年パガニーニの演奏会を聴いて感動し,〈ピアノのパガニーニ〉となる決意をする。ショパンと親交を結んだのもこの年であった。35年ダグー伯爵夫人マリーとの恋愛でスイスに逃避行,ジュネーブ音楽院でピアノを教えるかたわらピアノ曲集《旅人のアルバム》(1836),《パガニーニによる超絶技巧練習曲》(1838)などを作曲する。リストの第1期はマリーとともに過ごした39年までで,彼女との間にコジマCosima(1837-1930。のちにH.vonビューロー,次いでR.ワーグナーの夫人となる)を含む3子をもうけた。
第2期(1839-47)はピアノのビルトゥオーソ時代で,ヨーロッパ全土を演奏旅行し,各地で熱狂的に迎えられた。全19曲からなるピアノのための《ハンガリー狂詩曲》(1885)に着手したのもこの時期であるが,重要な作品は少ない。47年ウィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーネと恋愛に陥り,2人は翌年からワイマールで新生活を始める。
第3期(1848-61)はワイマール時代と呼ばれ,ワイマール宮廷楽団の指揮者,作曲家として活躍。彼のもとにはビューロー,P.コルネリウス,C.タウジヒらが集まった。ピアノ曲集《巡礼の年》第1年(1854),第2年(1849),《超絶技巧練習曲》(1851)および《ピアノ・ソナタ》(1853),管弦楽曲では交響詩《前奏曲》(1848),《タッソー》(1849),ピアノと管弦楽のための《死の舞踏》(1849),《ダンテ交響曲》(1856),《ファウスト交響曲》(1857)のほか2曲のピアノ協奏曲(《第1番》1849,《第2番》1861)など主要作品が多い。作曲技法として主題とその変容による単主題的作法を確立,シェーンベルクの〈発展的変奏〉技法の先駆をなした(《ソナタ》《前奏曲》など)。また自ら命名した〈交響詩〉や標題付きの交響曲に新境地を開き,〈標題音楽〉という名もリストが論文《ベルリオーズのイタリアのハロルド》(1855)のなかで定義づけたものである。
第4期(1861-69)はローマ時代と呼ばれる。61年にカロリーネと結婚するためワイマールの公職を去ってローマへ向かったが,カロリーネの離婚許可が得られず,彼女は宗教生活に入り,リストもローマにとどまって宗教音楽を多く作曲した。65年には聖職者の資格を得て以後僧衣をまとうようになる。
第5期(1869-86)はローマでの活動のほか,ワイマール宮廷からの招きとブダペスト音楽アカデミーの招きで,この3ヵ所を一年間に往来する生活で教授・作曲活動を再開する。この時期の弟子は多く,M.ローゼンタール,E.vonザウアー,A.I.ジローティらのピアニストや,F.ワインガルトナーらがいる。作品には《巡礼の第3年》(1877)があるが,第3期に行った形式上の革新に加えて,この時期には和声上の革新を行い,機能和声法を超えた新しい和声法によってドビュッシーの印象主義の先駆をなした。その試みは,朗読とピアノによる《憂いに沈む僧》(1860)に早くもみられるが,晩年にはピアノ曲《不幸》(1880以後),《灰色の雲》(1881),《R.ワーグナー--ベネチア》(1883),《無調のバガテル》(1885),《葬送前奏曲と行進曲》(1885)など機能和声法によらない革新的な小品を多く書いた。しかし生前には発表されなかった。
リストの音楽上の業績は,ピアノのビルトゥオーソとして演奏技巧の従来にない拡大があげられるが,より重要なのは第3期以降にみられる交響詩などの標題音楽の新形式と,半音階的和声法である。また晩年の機能和声を脱した小品は生前に発表されなかったため直接的影響はもたなかったが,リストの革新的性格をよく伝えている。
執筆者:佐野 光司
ドイツの経済学者。歴史学派の先駆者とみなされる。南ドイツのビュルテンベルク公国ロイトリンゲンに生まれる。地方官吏から身を起こし,チュービンゲン大学で学を修めて公国の中央官吏となる。新憲法制定にさいしてのビュルテンベルク憲法論争において進歩的陣営につき,自由主義的な大臣バンゲンハイムに請われて1817年チュービンゲン大学の国家学教授となる。憲法改革を推し進める一方,フランクフルト・アム・マインに創設されたドイツ商工業同盟を指導して領邦間関税の撤廃を唱え,対外的には保護貿易を主張した。彼の言動はビュルテンベルク議会に進出するやますます急進性を帯び,そのため保守勢力の強い反発を招いて25年には国外亡命を余儀なくされた。亡命先のアメリカで著した《アメリカ経済学概要》(1827)は,持論の保護主義を初めて体系的に論じたものである。本書によって名声を得,事業面でも成功を収めたものの,故国への思いは断ちがたく,32年にアメリカ領事としてドイツに戻った。旧勢力の抵抗にあいながら関税同盟成立と鉄道網建設に向けて尽力し,それらによって国内市場の形成,統一化を図るが,関税同盟の成立後,彼の活動の重心は再び保護主義の擁護へと移っていき,国民経済の観点から保護貿易の位置を論じるようになった。一時の亡命先フランスで書かれた《経済学の自然的体系》(1837)とその発展である《経済学の国民的体系》Das nationale System der politischen Ökonomie(1841)において生産力理論を体系化し,後進国ドイツにとって保護貿易の必要なことを主張した。ドイツ資本主義の確立と自立をめざす彼の活動は旧勢力の迫害にあって挫折し,満身創痍の彼は46年オーストリアにおいてピストル自殺をとげた。
生産力理論はリストの経済思想の中心部に位置している。彼のみるところアダム・スミスらの古典派経済学は私経済を念頭においた交換価値の理論にほかならず,国際面では自由貿易を帰結とするようなものであった。自由貿易主義においては各国の特殊性は考慮に入れられず,ために国民や国家といった観点の入り込む余地はない。古典派のこのような経済的自由主義に対して彼は国民主義を唱え,イギリスとは発展段階を異にするドイツでは国民的・国家的観点から経済を把握する必要があり,またそのような観点に立った政策をとる必要のあることを説いた。このためリストは,国民や企業家の自由な創造心に基づく国内生産力の増進とそれに結びつく限りでの保護主義を主張したのである。彼はけっして偏屈な愛国者ではなかった。自由貿易にしても彼はそれを当時遅れをとっていたドイツの立場から批判したのであって,自由貿易は究極的にはドイツがそれに向かって進むべき目標であった。保護措置はあくまでも一時的な性格のものであり,彼の保護関税は国内産業が発展するまでの一時的な育成関税というものであった。
執筆者:間宮 陽介
ドイツの刑法学者。ウィーン生れ。同名の音楽家フランツ・リストはいとこにあたる。ウィーン大学に学び,とくに私法学者イェーリングからは思想形成上大きな影響を受けた。グラーツ大学私講師,ギーセン,マールブルク,ハレ各大学の教授を経てベルリン大学教授となり,刑法,刑事訴訟法のほか,国際法,法哲学を講義した(1917年退職)。1882年,マールブルク大学への就任に際して発表した《刑法における目的思想》(マールブルク綱領)は彼の刑法思想の基本をなすものであると同時に刑法における学派の争いにおいて彼の率いる新派刑法学(近代学派。〈刑法理論〉の項参照)の指導理念を明らかにしたものである。旧派刑法学(古典学派)は刑罰を犯罪行為への応報と考えたのに対し,彼は実証主義の見地から刑罰は犯人の改善を目的とすべきであるとし,目的刑を主張した(〈罰せられるべきは行為ではなく,行為者である〉)。彼は新派刑法学の立場から刑法改正運動を国際的規模で展開しようとして,1889年,ベルギーのA.プリンス,オランダのG.A.vanハメルとともに〈国際刑事学協会〉を設立した。彼は具体的な行為者を中心とする実質的合法性を強調し,形式的合法性に基づく近代刑法学を転換して現代刑法学への道を開いた点で刑法学史上重要な地位を占めている。その刑法思想はかつて彼の下に留学した牧野英一等を通じて日本にも影響を与えている。
執筆者:堀内 捷三
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ドイツの経済学者。ウュルテンベルク公国の帝国都市ロイトリンゲン市のなめし革匠の家に生まれる。チュービンゲン大学教授として当時のウュルテンベルク憲法論争に参加、進歩的言動で当局ににらまれて辞職、1819年ドイツの分立状態を克服し経済的統一を目ざす「ドイツ商工業同盟」を指導したが、オーストリアの宰相メッテルニヒに迫害されて挫折(ざせつ)、新憲法下の立憲議会に立候補、当選したが、急進的立場のために政府に逮捕され、25年アメリカに亡命した。アメリカでは炭鉱経営者として成功し、1827年ペンシルベニア商・工業者層の利害を反映した『アメリカ経済学綱要』Outline of American Political Economyを公刊し、名声を得た。これはアメリカ経済学史上、制度学派の先蹤(せんしょう)として重要な位置を占めている。
1830年七月革命を機にリストはハンブルク駐在のアメリカ領事となって帰国、鉄道建設に努力した。ライプツィヒ―ドレスデン鉄道はその一成果である。彼の鉄道論はドイツ国内市場形成のリスト構想にとって基礎的な重要性を有するものである。リストはその構想を実現すべく34年南西ドイツの産業資本の利害を反映する「ドイツ関税同盟」を結成し、中心人物の1人となって活躍したが、ライン工業地帯を支配するに至ったプロイセンとの争覇戦に敗れ、最後の構想である「英独同盟論」もイギリス政府の拒否にあってつぶれてからは、積年の亡命・流浪・遍歴の生活による神経的疲労と厭世(えんせい)感にさいなまれて、イタリアへの療養の旅の途中、ドイツとの国境の町、クフシュタインでピストル自殺を遂げた。46年11月30日早朝のことであった。
リストの主著は、1841年に刊行された『経済学の国民的体系』Das nationale System der politischen Ökonomieである。これは、当時支配的な学説であったイギリス古典学派の経済学、とくにアダム・スミスおよびそのフランス版J・B・セーの全面的批判を意図したものであった。ドイツ産業資本の主導下にドイツ国民経済の確立を図ろうとする政策路線を推進したリストにとって、イギリス古典学派の自由貿易論は、すべての国民経済に妥当するという一般理論の名目でイギリス産業資本の利害を貫徹する思想にみえたのであって、リストはドイツの国益を防衛すべく保護関税=貿易理論を本書で展開したのである。その構成は、自らの生産力理論を要約した「緒論」、第一編「歴史」(近代資本主義発達史)、第二編「理論」(古典学派批判と生産力論の展開)、第三編「学説」(批判的経済学史)、第四編「政策」(ドイツをはじめ後進諸国の保護貿易政策論)、さらに自らの半生を回顧しつつドイツの現状を批判した「序文」を付す形になっている。リストのドイツ国民経済確立論は、統一的国内市場の形成を基盤とするものであったが、それにはドイツ諸邦の分立を支える封建的な土地制度の打破が必須(ひっす)の要件であり、晩年のリストは自らの構想実現の最終の環として封建的土地所有の廃止、その土台である村落共同体の解体、近代的な独立自営農民の創出を目ざす農地改革を主張する『農地制度論』Die Ackerverfassung, die Zwergwirtschaft und die Auswanderungを1842年に発表した。ただ、リストは、近代資本主義形成史上で決定的な役割を演じたイギリスの独立自営農民層ヨーマンリーの意義は正確に認識していたが、当面の敵プロイセンの国力を支えるユンカー地主階級の実態把握について不十分であったことが、本書のうちにもうかがわれ、晩年のリストの失脚も予知できるものがある。なお、『リスト全集』はナチス治下に刊行され、A・ゾムマーをはじめとする編集者が種々苦労をなめたことは、リストの思想の今日的評価につながるといってよいであろう。
[住谷一彦]
『正木一夫訳『アメリカ経済学綱要』(1942・改造社/1966・未来社)』▽『小林昇訳『経済学の国民的体系』(1970・岩波書店)』▽『小林昇訳『農地制度論』(岩波文庫)』▽『『小林昇経済学史著作集Ⅵ~Ⅷ フリードリッヒ・リスト研究(1)~(3)』(1978~79・未来社)』▽『大河内一男著『スミスとリスト』(1943・日本評論社)』▽『『大河内一男著作集Ⅲ スミスとリスト』(1969・青林書院新社)』▽『高島善哉著『経済社会学の根本問題』(1941・日本評論社)』▽『板垣与一著『政治経済学の方法』(1951・勁草書房)』▽『住谷一彦著『リストとヴェーバー』(1969・未来社)』▽『松田智雄著『ドイツ資本主義の基礎研究』(1967・岩波書店)』
ドイツの有機化学者。フランクフルト・アム・マイン生まれ。1993年ベルリン自由大学卒業、1997年ヨハン・ウォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン(フランクフルト大学)で博士号取得後、渡米し、スクリプス研究所で博士研究員として研究を始めた。1999年スクリプス研究所の助教授に就任。2003年にドイツに帰国し、マックス・プランク石炭研究所教授となった。2005年からマックス・プランク石炭研究所所長。2005年(平成17)学習院大学客員教授。2018年から北海道大学化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD(アイクレッド))の主任研究者、2020年(令和2)から同大学特任教授となった。
身の回りの医薬品、化学製品などの多くは、化学合成によってつくられる。その化学合成に欠かせないのが、自らは構造を変えず、化学反応を促進する触媒である。化学合成でつくられる物質のうち、右手と左手のように、鏡に映すと同じように見えても、面対称となり実像は重ならないような化合物は「鏡像異性体」とよばれ、どちらか一方を選択的に合成することが求められる。鏡像異性体は、構造は似ているが、性質はまったく異なっていて、どちらか一方は有益であるが、他方は生体に有害になることが少なくないからである。鏡像異性体のどちらか一方を選択的に合成することを「不斉合成」とよび、それに用いる触媒(不斉触媒)をどう選ぶかが注目されていた。リストは、この不斉触媒の研究で、従来にない画期的な成果をあげた。
1990年代まで、不斉触媒は、生体内で作用する酵素(タンパク質)と、金属錯体を用いた触媒(金属触媒)しかなかった。何百ものアミノ酸が連なる酵素は、生体内で、安全に化学合成にかかわり、生体分子をつくりだすが、人工的につくるのはむずかしかった。一方、金属触媒は人工的には製造しやすいが、湿気や酸素に弱く、産業化には大量の重金属を使うため、廃棄する際には環境に有害になるという欠点があった。
これを解消したのが、リストらである。金属触媒と同じ働きをもち、金属を使わない「有機触媒」を開発し、2000年2月に発表した。リストはもともと、タンパク質の一種で、生体内の免疫反応に関係する「抗体触媒」に着目し、別々の分子の炭素結合を促す「アルドール反応」の研究を行っていた。巨大なタンパク質である抗体が、触媒として作用する際、反応を促すのはほんの一部であることをつかみ、抗体の結合部位にあるアミノ酸「プロリン」に着目。さまざまな実験を続けた結果、プロリンは、アルドール反応だけでなく、不斉合成にも有効な触媒であることをつきとめた。実は1970年代に、プロリンが不斉触媒になる可能性を示唆した論文はあったが、その後、研究がされなかった。プロリンは、金属触媒や酵素に比べ、構造が簡単で、製造しやすく、安価で環境にやさしいという利点がある。合成反応の工程を著しく短縮させ、多くの医薬品、化学物質の合成に応用されている。
ほぼ同時期の2000年1月に、アメリカのプリンストン大学教授(当時)のデービッド・マクミランらも同様に、金属を含まない新たな不斉触媒「有機分子触媒organocatalysis」を開発し、発表した。二人の研究成果の発表以降、不斉有機触媒の研究は広がり、産業界でも化学製品、医薬品、農薬などの製造に幅広く使われるようになった。たとえば、抗インフルエンザ治療薬「タミフル」や、エイズ治療薬、抗うつ剤などの合成で、従来より少ない工程で製造されている。
2009年トムソン・ロイター引用栄誉賞、2013年有機合成化学分野で、新しい方法論を開拓した研究者を顕彰する向山(むかいやま)賞、2016年ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ賞を受賞、2018年ドイツ科学アカデミー会員となった。2021年「不斉有機触媒の開発」に貢献したとしてマクミランとともに、ノーベル化学賞を受賞した。
[玉村 治 2022年2月18日]
ドイツの刑法学者。ギーセン、マールブルク、ハレ、ベルリンの各大学教授を歴任。作曲家フランツ・リストの従弟(いとこ)にあたる。ウィーンの名門の家に生まれ、ウィーン大学在学中イェーリングから法の目的思想、ワールベルクWilhelm Emil Wahlberg(1824―1901)から進化論的刑法観を学ぶ。これを基礎として独特の実証主義刑法学を築き上げ、これをひっさげて伝統的な古典学派の学者たちと論争を重ね、名実ともにドイツ近代学派の総帥となった。マールブルク大学での就任講演『刑法における目的思想』(1882)は「マールブルク大学綱領」ともよばれ、数ある彼の作品のなかでも、26版を重ねた『ドイツ刑法教科書』(1882)と並ぶ名著とされている。1881年ハレ大学教授ドヒョーAdolf Dochow(1844―1881)と組んで『全刑事法雑誌』を発刊。1889年オランダのハメルGerard Anton van Hamel(1842―1917)、ベルギーのプリンスAdolphe Prins(1845―1919)と共同して国際刑事学協会(IKV)を設立した。1902年ベルリン大学教授カールWilhelm Kahl(1849―1932)と協力して刑法改正事業の開始に端緒を与え、1909年に政府の刑法改正予備草案が公表されると、カール、リリエンタールKarl von Lilienthal(1853―1927)、ゴールトシュミットJames Paul Goldschmidt(1874―1940)と4人の連名で「対案」を発表するなど、その学界活動も群を抜いて華々しかった。
[西原春夫]
スイス生まれのフランスの経済学者、銀行家。モンペリエ大学教授を経て、1920年以降パリ大学経済学・経済学史教授。フランス銀行副総裁(1926~29)、ルーマニア国立銀行顧問(1928)、オーストリア国立銀行顧問(1931)などを歴任し、1934年からは雑誌『経済評論』Revue d'économie politiqueの編集にもあたった。貨幣・金融問題について多くの著書があるが、C・ジードと共著の『経済学説史』Histoire des doctrines économiques(1909、第七版1947)がおそらくもっとも著名。
[早坂 忠]
『宮川貞一郎訳『経済学説史』(1936~38・東京堂出版)』
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1789~1846
ドイツの経済学者。テュービンゲン大学の最初の経済学の教授となったが(1817年),ドイツの経済的統一をめざす政治運動を主導,追われてアメリカに渡り(20年),文筆家として活躍。帰独(32年)後も,「生産力の理論」にもとづき鉄道網の建設,保護関税制の導入,中農保護の実施の必要を力説,歴史学派の先駆者となった。主著『政治経済学の国民的体系』(41年)。
1811~86
ハンガリー生まれの作曲家,ピアニスト。両親は南ドイツ出身。10歳からウィーンでピアノを学んで注目され,その後ヨーロッパ各地でピアノの演奏をする。1848年からヴァイマルやローマなどで指揮者,作曲家として活躍。独特の作曲技法で新境地を開いた。作品には「ハンガリー狂詩曲」「巡礼の年」「ダンテ交響曲」「ファウスト交響曲」などがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…列の先頭の要素の番地と列の要素の個数は別に記録しておく必要がある。 リストは,k番地とk+1番地を組として扱い,この二つで列の要素一つを表現する。k番地には要素の値を入れ,k+1番地には列の次の要素の番地を入れる(このように別のデータの存在位置(番地)を示すデータのことを一般にポインターと呼ぶ)。…
…政策史的には,ナポレオンの大陸制度,18世紀ドイツの領邦諸国家で〈官房学Kameralismus〉の名称で知られる経済・財政政策,本源的蓄積政策としての意義をもった1834年のドイツ関税同盟や1789年以後のアメリカの工業保護制度などが注目される。重商主義者としては,イタリアのA.セラ,フランスのJ.ボーダンやA.deモンクレティアン,ドイツの官房学者J.J.ベッヒャーとJ.H.G.vonユスティ,保護主義者としてはフランスのF.V.D.deフォルボネ,J.A.シャプタル,ドイツの〈新重商主義者〉と呼ばれるF.リスト,〈アメリカ体制論者〉のA.ハミルトン,D.レーモントらが注目される人たちである。【時永 淑】。…
…独立革命中はワシントンの副官として活躍,戦後はニューヨークで弁護士を務めた。強力な中央政府確立の必要を主張し,合衆国憲法の制定運動に尽力,その批准の際にはJ.マディソン,J.ジェーの協力を得て,アメリカ政治思想史上著名な《フェデラリスト》(1787‐88)を著して憲法を擁護した。89‐95年ワシントン政権の初代財務長官を務め,《公信用に関する報告書》《国立銀行に関する報告書》(ともに1790)などを連邦議会に提出,戦時公債全額を額面どおり連邦政府公債に借り換え,第一合衆国銀行を創設し,蒸留酒消費税(これに反対してウィスキー一揆が起こる)などの新税制を整備し,貨幣法を制定するなど,財政金融上の重要な政策をやつぎばやに遂行して,公信用ならびに連邦政府の財政的基盤を短時日に確立した。…
…
[歴史学派の生成と展開]
歴史学派は,ロマン主義の影響を受けつつ,当時勃興期にあったドイツ資本主義の特殊な事情を背景において成立した。その先駆者はF.リストである。19世紀に入るとドイツにも産業革命の波が押し寄せてくるが,ドイツ国内はいまだ領邦国家に分裂しており,封建的束縛が至るところに存在していた。…
…さらに,フェッリは,犯罪社会学的方法に重点をおいて犯罪の原因を人類学的原因,社会的原因,物理的原因に分け,意思の自由を前提とする後期旧派的な〈道義的責任〉を実証的に証明できない幻想にすぎないとして否定し〈社会的責任〉を主張するとともに,従来の〈責任〉と〈刑罰〉の概念を排斥して犯罪者の〈危険性〉と〈制裁〉の概念を用いた刑法草案(1921)を起草したのである。このようにして形成された新派理論を整理し体系化して展開し,新派の代表的主張者となったのは,ドイツのリストであった。リストは,犯罪の社会的原因の除去については社会政策の重要性を強調し,また刑事政策固有の課題である犯罪の個人的原因の除去に関しては,偶発犯人に対し短期自由刑の弊害を強調して執行猶予の導入,罰金刑の拡充を,改善可能な慣習犯人に対し相対的不定期刑による改善を,改善不能な慣習犯人に対しては無期または不定期の拘禁を提案したのである。…
…19世紀半ばに確立された管弦楽による標題音楽の一種。リストがはじめ序曲として作曲した《タッソー》を1854年に交響詩symphonische Dichtungと呼んだのが最初である。交響詩の先駆としては,管弦楽による標題音楽,とくに標題交響曲(ベルリオーズの《幻想交響曲》など)があるが,これが多楽章形式なのに対して,交響詩は一般に単一楽章形式の場合に用いられる。…
…19世紀後半のポーランドや西ウクライナの民謡収集家(コルベルクOskar Kolberg(1814‐90)など)が農民の不幸な運命を歌った抒情的民謡を一般にドゥムカと呼ぶようになった。器楽曲ではF.リストのピアノ曲《ボロニンツェの落穂拾い》(1848)が早い例であり,ドボルジャークはピアノ曲《ドゥムカ》作品35(1876)と12(1884?)や《ピアノ三重奏曲ホ短調》(1891)などに広く用いている。その流れを汲んで,チェコではヤナーチェク,スーク,ノバークVitězslav Novák(1870‐1949)らもこの曲名を用いている。…
…都市では首都ブダペストが最大で人口193万,次いでデブレツェン(21万),ミシュコルツ(18万),セゲド(17万),ペーチ(16万)という四つの大学都市が続く(人口はいずれも1995)。 国民の大多数がキリスト教徒である。そのうちカトリックが67.5%で多く,プロテスタントは改革派(カルバン派)が20%,福音派(ルター派)が5%で,合わせて25%を占める。…
…神秘的・象徴的な台本に加えて複雑な和声を多用,対位法的で非ロマン的な論理性に貫かれた音楽である。(f)ゲーテの詩劇の登場人物の性格描写を各楽章で行ったリスト作曲の《ファウスト交響曲》(1857),そのほかゲーテの《ファウスト》の中の歌詩を選んで,ベートーベン,シューベルト,メンデルスゾーン,ムソルグスキーらが作曲している。リストには,N.レーナウの詩による管弦楽曲《レーナウの“ファウスト”からの二つのエピソード》(1860以前)もある。…
…この間,デトモルトではいくつかの合唱曲のほかに2曲の管弦楽曲《セレナード》(1858,59),《弦楽六重奏曲第1番》(1860)を,またハンブルク時代にはピアノ変奏曲の金字塔ともいうべき《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》(1861),全5集の歌曲集《マゲローネ》の最初の2集(1861,62)などを作曲し,また《ピアノ協奏曲第1番》(1858)の初演を行った。60年彼はF.リストを中心とする新ドイツ派と呼ばれた革新的なグループに対して,彼らと芸術的・美学的信条を異にする旨の宣言文をヨアヒムらと連名で発表し,のちにR.ワーグナーたちからの非難を招くことになる。 62年9月生活の本拠をウィーンに移し,64年まで同市のジングアカデミーの指揮者を務める。…
…ドイツの作曲家。F.リストの助手を務めたのち,1856年よりウィースバーデンでピアノ教師。77年よりフランクフルト・アム・マインのホーホ音楽院院長。…
…台本は1845年に完成,48年総譜が完成した。50年8月ワイマール宮廷劇場で,リストの指揮により初演。 物語は10世紀のアントワープ付近。…
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
※「リスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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