デジタル大辞泉 「帯」の意味・読み・例文・類語
たい【帯〔帶〕】[漢字項目]
[学習漢字]4年
〈タイ〉
1 おび。おび状のもの。「衣帯・眼帯・
2 身につける。おびる。「帯出・帯電・帯刀・帯黒色/拐帯・携帯」
3 そばに伴う。「帯同/妻帯・所帯・付帯・連帯」
4 ある範囲の地域。おび状の範囲。「一帯・温帯・寒帯・地帯・時間帯・植物帯」
〈おび〉「帯革/角帯・腰帯・腹帯・
[名のり]たらし・よ
[難読]
「えび」の「え」はヤ行のエの万葉がなで表記されており、「おび(帯)」の東国なまりならばア行のエの方がふさわしいはずであるとして、「えひ」と清音によんで「ゆひ(結ひ)」の変化したものと解する説もある。
衣服の一種。現在の和装では着物と同格とされ、和服を着装するうえに欠くことのできないものである。着物の左右の前の重なりを押さえ、身幅(みはば)の緩みと身丈(みたけ)を調節し整える。実用性と装飾性とを兼ね備えたものである。とくに女子の帯は特異な存在である。帯の種類には女子用、男子用、子供用とがある。女子の帯には丸帯、袋帯、名古屋帯、袋名古屋帯、腹合(はらあわせ)帯、単(ひとえ)帯、半幅帯があり、礼装、正装、街着、浴衣(ゆかた)、普段着用にそれぞれ用いられている。ほかに比翼帯、軽装帯(付け帯、改良帯)、お染め帯などがある。特殊なものには打掛(うちかけ)の下の掛下に締める掛下帯がある。男子の帯には角帯、兵児(へこ)帯、軽装帯がある。
[藤本やす]
帯幅の2倍の幅に織られ、これを二つに折って縫って仕立てた帯。女子の礼装、正装、盛装に用いられる。格が最上の重厚なもので、絵緯糸(えぬきいと)による多彩な吉祥(きっしょう)紋様を主体として豪華に織られ、全通しといい帯1本全体に一方向に紋様が織り出されている。今日は主として婚礼衣装、日本舞踊、正式な会合などに用いられる。
[藤本やす]
袋織によってつくられ、帯の丈の両端を絎(く)けて仕立てる。1918年(大正7)ごろから生産され第二次世界大戦後普及し、今日は丸帯にかわって用いられる傾向にある。帯幅の両端が輪になっているものであるが、最近表側と裏側とを別々に織り、幅の両端に縫い目をつけたものも生産されている。袋帯は全通しもあるが、普通は胴を巻く下回りは地色で無地に織り、帯丈の八分に紋様のあるものを八通(はちつう)、六分のものを六通(ろくつう)という。織り紋様は表側にのみあり、裏側は無地である。ときには両面に異なった紋様を織り出して、両面使い分けのできるものもある。
[藤本やす]
お太鼓を帯幅に、胴回りはその2分の1の幅に縫って仕立てた帯。1918年(大正7)経済不況の際、腹合帯を経済的に改良して考案された帯で、太鼓結びの二重太鼓を一重太鼓に、9寸幅(34センチメートル)をそのまま仕立てていた胴回りを半幅にしたものである。紋様づけは、六通か八通にしたものと、帯を締めたときに見える部分の胴回りとお太鼓に単独紋様を配置したものとがある。なお従来の仕立て方によらず、帯を締めやすくまた融通のきく松葉仕立てといわれる、お太鼓と胴回りの帯幅を同寸に仕立てたものも用いられている。これは胴回りの裏に白羽二重(はぶたえ)または白シンモスをつける。名古屋帯には織りの帯と染めの帯とがある。織りの帯は丸帯、袋帯に準じて紋様が織り出されている。染めの帯には更紗(さらさ)、塩瀬(しおせ)、紬(つむぎ)、羽二重などが用いられる。また刺しゅうを施した凝った帯もある。染めの帯、刺しゅうをした帯は、趣味に、またおしゃれ用として用いる。
[藤本やす]
かがり名古屋、八寸名古屋ともよんでいる。名古屋帯は九寸名古屋ともいい、帯幅9寸の帯地を8寸(30センチメートル)に仕立てたものであり、八寸名古屋は8寸幅のできあがりに織り上げた帯で、前者と後者を区別してつけられた呼び名である。袋名古屋帯は胴回りは単、お太鼓は垂端(たれはし)で裏太鼓を折り返し、表太鼓と裏太鼓とを2枚あわせ、幅をかがり縫いをして1枚のように仕立て、手の端は25センチメートルぐらい幅を二つに折って手先を縫い、幅をあわせてかがり縫いにする。袋名古屋帯には高級な織りの帯があるが、名古屋帯の染めの帯と同格に考えて締める。
[藤本やす]
単の帯で、夏の帯としてもっぱら用いられる。夏の単帯の代名詞ともなっていた献上博多(はかた)は、いまなお人々に好まれて用いられている。最近これも袋名古屋帯用に織り出しがつけて織られ、夏帯ではあるが、形態的には純粋な単帯ではなくなったものもある。普段着用の帯には普通幅のもの、中幅のものなど、紬風で厚手に織られた織りのものと、染めのものとがあり、縦縞(たてじま)、横縞、格子縞など縞物が多い。
[藤本やす]
全体が半幅(約17センチメートル)の帯。帯幅を二つ折りにして丸帯形式に仕立てたものと、初めから半幅に織られたものとがある。普段着用、家庭用、浴衣に締める。帯結びは若い人は文庫に、年輩の人は矢の字または貝の口に結ぶ。
[藤本やす]
付け帯とも改良帯ともいう。胴回りとお太鼓とを分離してつくられたもので、胴回りの部分を胴に巻いて紐(ひも)を結び、形づくられたお太鼓を背に負い、帯揚、帯締をして帯付きの姿とする。家庭における普段着用として、また簡略化された喪服の帯、旅行や急場に対応できるなどの長所はあるが、お太鼓の膨らみに布味が発揮されていないなどの欠点もある。帯結びのよさに自然美を求め、改良が重ねられてきたが、今日の世情では需要が少なくなっている。
[藤本やす]
男子の帯を代表するもので、普段着用、礼装の袴(はかま)下に幅広く締められている。角帯は丸帯形式の絎(くけ)帯であったが、最近は主として袋織のものが用いられている。また単帯もあり、幅9センチメートル前後、丈は4メートル前後である。布地は献上博多、緞子(どんす)などである。
[藤本やす]
男子の普段着に締める柔らかい芯(しん)なしの帯である。主として金紗(きんしゃ)の広幅物を用い、帯の両端に絞りのあるもの、または総絞りのものが用いられる。紬も軽くて締めやすい。色は黒、ねずみ、茶、紺などがある。
[藤本やす]
兵児帯と同じ布地を用い、胴回りに芯を入れ、ほかの部分は芯なしにする。前からは角帯的にみえるが、後ろは兵児帯と同様に両輪奈(わな)に結ぶ。普段着用として用いる。
[藤本やす]
衣服の発達史上、帯はもっとも古くから人類とのかかわりあいをもって発達した。衣服を着用する以前は紐を腰に締めて結び、性的呪術(じゅじゅつ)として性器の保護、性別、婚否を表現し、護身用に、また腰の装飾のために用いた。日本の古い記録では、『古事記』に帯のことを「タラシ」といっており、結び垂らしているという意である。古墳時代の埴輪(はにわ)の人物像に締められている帯は、前または横で結んでいる。高松塚古墳の壁画に同様の姿がみられる。飛鳥(あすか)・奈良時代は中国文化を摂取吸収した時代で、それを受け、固有の文化へと消化し発展させたのは平安時代である。わが国の服飾発達途上において、庶民は前時代の服装形態をそのまま存続し、衣服の前合わせを細い紐状の帯を締めて押さえていた。貴族社会において発達した束帯(そくたい)、女房装束では、外観から帯を見ることはできないが、袍袴(ほうこ)、裙(くん)を着用したころから革帯(かわのおび)、綺帯(かんはたのおび)、紕帯(そえのおび)、石帯(せきたい)、裳(も)の腰などによって前合わせを押さえており、今日風の帯は使用していなかった。
武家の勃興(ぼっこう)とともに袴の簡略化が行われ、女房装束の大袖(おおそで)衣の表着を脱ぎ、下着に着用していた小袖(こそで)が表着になるのに伴って、小袖の前合わせを幅の狭い帯で押さえるようになり、帯が表面に現れてくる。室町時代には小袖の発達とともに、小袖、帯の姿となる。武家婦人は、打掛の下の間着の上に帯を締めているから、帯が完全に表面化したとはいえない。庶民においては、帯が完全に表面化しているようすを『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』『太閤(たいこう)吉野花宴図』などにみることができる。
桃山時代から江戸初期における庶民の帯は、男帯、女帯ともに差がなく、同様のものを締めていた。一幅の布を8等分にし、これを幅二つ折りにして絎けた八つ割帯で、幅の狭い絎帯であった。長さは約2メートルぐらいのもので、布地はとくに帯地という固定したものではなく、表着などの布地や切り売りの布地を利用していた。この細帯のほかに、豊臣(とよとみ)秀吉が文禄(ぶんろく)の役(1592)に本営を九州の名護屋(なごや)(佐賀県)に構えたときに、高麗打(こまうち)(韓組(からぐみ))という組紐技術によってつくられた組紐の帯を名護屋帯といい、平組み(平打ち)、丸組み(丸打ち)の2種がある。紐先に30センチメートルほどの房のついている名護屋帯を幾重にも巻き、のちに両輪奈に結び垂らしている姿を『彦根(ひこね)屏風』『湯女(ゆな)の図』『機織(はたおり)図』などにみることができる。
[藤本やす]
男帯は初めは帯幅に織られておらず、織物の裂(きれ)を裁ってこれを幅二つ折りにして芯を入れ、絎けて製したものを締めていた。布地は元文(げんぶん)(1736~41)のころは丹後琥珀(たんごこはく)、昼夜織(ちゅうやおり)、寛保(かんぽう)・延享(えんきょう)(1741~48)のころは上田縞、小倉(こくら)木綿の白い帯を用い、ほかに縞繻子(しまじゅす)、緞子(どんす)、博多(はかた)織、綸子(りんず)、繻珍(しゅちん)、斜子織(ななこおり)、黒飛紗綾(くろとびさや)、紬縞などが用いられた。天明(てんめい)(1781~89)のころには緋(ひ)色の博多帯、緞子の帯を締めることが流行した。これを腹切り帯と称した。そのころまでは黒飛紗綾が一般に多く用いられていたが、年を経るにしたがって紗綾は用いなくなり、博多帯を貴賤(きせん)、貧富、老若の別なく用いた。博多帯は筑前(ちくぜん)博多が本物で、本博多といって高価であった。多くの人々は値段の安い模造品の博多帯を用いていた。博多帯は白地に黒の縞文(しまもん)があり、中央の文は仏具の独鈷(どっこ)形を織り出している。博多帯はこの独鈷の紋様を主として用い、江戸時代将軍家へ献上したことからこれを献上博多とよんだ。この文の1条のものを一本独鈷、2条のものを二本独鈷という。独鈷のほかにさらに縞筋がある。地色と文の色とが同一のものを共(とも)独鈷という。男帯の丈は1丈(以下、1尺は約38センチメートル。1丈は10尺。1尺は10寸)、幅は1寸8分。この幅が普通幅で八分山といった。普通幅より広い幅2寸のものを広幅、1寸7分幅の狭いものを細帯といった。本博多は唐糸や上質の糸を用いているから、年月がたっても伸びるようなことはないが、模造品は良質の糸でないために伸びる欠点がある。天保(てんぽう)(1830~44)ごろは媚茶(こびちゃ)地が流行したが、その後は紺地が流行した。また格子と縞と無地とで織り出した船越(ふなこし)形が1852年(嘉永5)から流行した。安政(あんせい)(1854~60)ごろは船越形が廃れ、献上博多だけが流行した。その後、表と裏とを異色異文に織ったものが流行した。
しかし武士や町人がともに、礼装および晴(はれ)の場合には本博多を用い、普段着用には綿の博多帯を用いた。本博多の地色は紺、赤、萌黄(もえぎ)などで、献上博多が用いられた。1852年ごろから模造品の使用者が多くなり、模造品を売る店が増加した。豊前(ぶぜん)小倉で織られた綿の小倉帯は革色、茶色、紺色の無地や縞のもので、独鈷は織られていない。中流以下の人々は、綿の茶地に紺の縞の平打ちの真田帯(さなだおび)を用いた。この帯の幅は約6センチメートルぐらいである。天保以前、武家に雇われた人の長や芝居木戸番は羅紗(らしゃ)帯を締めた。色は白、萌黄、黄、茶などで、なかでも黄色が多く用いられた。また八丈島で産する黄縞の八端(はったん)織なども用いられた。天保初年には雇夫や農夫のなかには黒のへると帯を用いたものがあった。
男帯は腰の位置で背に結ぶ。その結び方は『類聚(るいじゅう)近世風俗志』によれば、羅紗帯、へると帯は神田結びにする。帯の芯が柔らかく、結んだ端がだらりと下がる結びを猫じゃらしといった。武家の雇夫などは神田結び、工匠、平の武士は貝の口、武士は竪(たて)結びまたは駒下駄結びをもっぱら用いていた。江戸の鳶(とび)の者は三尺帯か六尺帯を締めた。三尺帯は背に結ばず、左の前か右の前のいずれかで結ぶ。1877年(明治10)の西南戦争で、薩摩(さつま)(鹿児島県)の兵隊たちが腰に締めた白い綿織物のしごきを兵児帯と称した。これが一般の人たちの間に広まり、普段着用の帯として用いられるようになり、布地は縮緬(ちりめん)などで、白または色物が用いられた。その後、広幅の金紗を用い、帯の両端に絞りをしたものや総絞りのものが用いられた。兵児帯に対し、芯を入れて仕立てた帯を角帯といい、礼装の袴下に、また平常用として広く用いられている。兵児帯は普段着用として用いているが、布地を異にして子供用の帯にも用いられている。
[藤本やす]
女帯は、小袖が表着化し、小袖帯として用いられた当初、六つ割といって布の一幅を6等分し、これを幅二つに折り、芯に反古紙(ほごがみ)を入れて絎けた幅の狭い細い帯であった。東山文化の時代には、八つ割のさらに狭い帯が用いられた。安土(あづち)桃山時代には、この後を受けてそのまま大きな変化はなかった。このころは表着の布地と同様のものを帯にも用いていた。武家、富裕な上層階級の人々は繍箔(ぬいはく)、摺箔(すりはく)、唐織(からおり)などを用い、小袖の華やかさと同様に華やかな帯が用いられた。当時は室町時代より明(みん)との貿易による影響が大きく、織物も新しく珍しいものが用いられた。のちにいう渡り物である。また室町時代に絞りと描き絵による辻が花(つじがはな)染めが生まれ、桃山時代から江戸初期にかけて全盛をみた。高度な技術による染織は、小袖を豪華な方向へといざなった。これに伴って帯も、自然に華美なものへと発展することとなる。
文禄(ぶんろく)年間(1592~96)は金襴(きんらん)を用い、黒地に梅桜松を縫い付け、帯幅は2寸ほどで芯に和紙を用いた。江戸時代に入ると帯幅は2寸5分と広くなった。遊女の帯幅は5寸の幅広いものが用いられた。帯の布地は唐織、厚板(あついた)、繻珍(しゅちん)、繍箔や摺箔を施したものなどが用いられた。寛永(かんえい)(1624~44)ごろまでの遊女は帯の端を差し込んでいたが、明暦(めいれき)・万治(まんじ)(1655~61)のころから前で結ぶようになり、島原(しまばら)の傾城(けいせい)、茶屋遊女たちも前帯になった。前帯はしだいに京の町女、田舎(いなか)へと伝わったが、武家の奥方の間では老若いずれも前帯にすることはなかった。寛文(かんぶん)(1661~73)ごろには、帯の結び目の位置は後ろ結び、前結び、横結びの三様が行われ、後ろ結び(後ろ帯)は元服前の結び方で娘の代名詞となり、前結び(前帯)、横結びは既婚者を表すようになった。寛文の末ごろから漸次、帯の幅が広くなり、延宝(えんぽう)(1673~81)のころには緞子三つ割、二つ割の幅の広い帯がもっぱら用いられるようになった。長さも6尺5寸であったものが、1丈2、3尺と倍ほどに長くなった。
延宝のころ帯の結び方に歌舞伎(かぶき)芝居の女方(おんながた)上村吉弥(うえむらきちや)が始めた帯結びが流行した。これを吉弥結びといい、3寸幅の帯の端を唐犬(からいぬ)の耳が垂れているように、片輪奈に結んで垂れ下げた帯結びである。帯屋が心得て、吉弥結び用の丈長の帯をこしらえるほどであった。さらに吉弥結びの帯端に鉛を入れて、垂れ下がりに趣向を凝らした。帯結びは歌舞伎役者、芸者による影響が大きかった。吉弥結びの垂れ下がりを役者の身長にあわせて長く垂れ下げたのは歌舞伎役者の女方水木辰之介(たつのすけ)で、これを水木結びといい、寛保(かんぽう)(1741~44)以後に流行した。また江戸若女方(わかおんながた)瀬川菊之丞(きくのじょう)路考(ろこう)の結んだ帯結びにより、路考結びがはやった。
帯幅が広くなり、帯の製作の仕方に変化がみられるようになる。帯は本来、布幅を二つ折りにして絎けた絎帯(現在にいう丸帯形式のもの)であったが、1683年(天和3)ごろに鯨(くじら)帯の初めの形態が現れ、87年(貞享4)腹合せの名称でよばれるようになった。貞享(じょうきょう)から元禄(げんろく)(1684~1704)ごろに帯幅が広くなり、帯幅の狭いときは腰のあたりに帯を締めていたが、宝永(ほうえい)(1704~11)ごろは胸高に締めるようになる。延享(えんきょう)(1744~48)ごろは帯幅8、9寸の広さとなり、先の腹合帯は両面帯と称され流行した。この帯は明和(めいわ)(1764~72)ごろ鯨帯といい、天明は昼夜帯、文化(ぶんか)年間(1804~18)には腹合帯といい、名称は異なっているが同一形態の帯である。これは両面異なった色、布地を用いた片身替わりの帯である。初め片面に黒繻子やビロード、他の面に白地の繻子などを用い、2種の異なった布地を縫い合わせて仕立てたので鯨の背と腹、昼と夜に例えてよばれたものといわれる。一般には白と黒に限って用いられたのではなく、また片面に黒を用い、他の面には縞、更紗、または金襴や緞子などの古代裂を継ぎ合わせたものなどを用いるという凝ったものも行われた。異なった布を縫い合わせた帯は平常用のもので、好みの布が用いられ、庶民の間に好んで用いられた。
明和のなかばから天明のころには、帯が衣服以上に重要な位置を占めるようになり、さまざまな好みも多く現れた。そのころ流行したものは黒ビロード、続いて萌黄ビロードの帯であり、ほかに親和染や菊寿模様、変わり八丈、渡り物に風通毛織、金なしモール、更紗などである。文化・文政(1804~30)には一段と奢侈(しゃし)となり、江戸芸者は、渡り物の更紗、輪奈天(わなてん)、呉絽服連(ごろふくれん)、羅紗などを用いて、江戸の意気地をみせ、着捨ても惜しまないという社会世相を生んだ。これらの渡り物は非常に高価であり、たびたび奢侈禁止令、倹約令が出され、違反して入牢(じゅろう)、押収などの科(とが)を受ける者が出た。しかしこれらの禁令は、ないのと同じで、天保以後にもなお、おごった着服はさらに甚だしくなった。しかし江戸末期には奢侈の風も落ち着き、片側に黒繻子を用いたものが多くなった。
[藤本やす]
腹合(はらあわせ)帯は江戸時代より引き続き、明治、大正、昭和初期ごろまで用いられた。片側に黒繻子(くろじゅす)を用いていたが、白、クリーム、納戸色(なんどいろ)、えび茶、紫など、年齢および好みによる色物の繻子も用いられた。これにあわせる片側の帯の布地は繻珍(しゅちん)、博多、琥珀(こはく)、黄八丈、八端、羽二重(はぶたえ)、縮緬(ちりめん)など、いろいろな組合せがあった。黒繻子に金糸や銀糸、色糸を用いて刺しゅうを施して用いたり、大正・昭和初期には、繻子に油絵の具で絵画模様を描いたものが出て、人の目をひき、流行した。夏帯用として片側に繻子を用い、片側は柔らかい唐織、糸錦(いとにしき)、絽(ろ)繻珍、友禅羽二重、絞り羽二重、更紗羽二重、絽縮緬、紗(しゃ)など、広い範囲の布地が用いられた。広く一般に用いられた腹合帯は、丸帯よりも軽く、用途の範囲も広く、表裏の両面の用い方によってユニークで多様に装うことができた。
1918年の不景気の影響を受け、腹合帯も改良の対象となり、一女性の考案による帯がデパートで売り出されブームをよんだ。これは胴回りを半幅に、お太鼓も一重太鼓へと大幅に倹約された帯で、名古屋帯という。丸帯、腹合帯の帯丈は4メートル余もあり、二重太鼓に結んだ。名古屋帯は普段着用、晴れ着用にと、第二次世界大戦後は腹合帯にかわって用いられ、また従来の帯を名古屋帯へ仕立て替えたりして、腹合帯は自然に用いられなくなった。
帯幅の広い帯結びは引き抜きを用いていたが、1813年(文化10)江戸・亀戸(かめいど)天神の太鼓橋の再建完成を機に、太鼓結びが行われるようになった。これは、深川の辰巳(たつみ)芸者が太鼓橋にちなんで結んだのが最初である。その後、この結び方を変形して多種多様の帯結びもでき、帯留、帯締、帯揚、帯枕(おびまくら)などの小物が用いられるようになった。大正において、訪問着用に染め模様の丸帯が流行した。布地には羽二重、塩瀬、綸子が用いられた。また大正には、袋織の袋帯が新しく織り出された。袋帯は第二次世界大戦後クローズアップされ、現在は丸帯にかわって用いられる傾向にある。帯の中に入れる帯芯は、太鼓結びの流行に伴って、厚地の三河木綿を用いていたが、今日では薄手のものを使用している。夏の紗、絽などの帯地には二枚芯を用いる。帯芯も年代とともに変化している。第二次大戦後にできた合成繊維の不織布の帯芯は、軽くて弾力性があり、しわにならないなどの長所があるが、織物の帯地としっくりいかないなどから、今日では既製の軽装帯などに用いられている程度である。
[藤本やす]
現在、普通に婦人が締めている帯は、もともと礼装のときのものであったが、江戸の元禄(げんろく)(1688~1704)のころからしだいに一般女性の間に平常用として普及してきた。昔は幅広い帯を結ぶのは、冠婚葬祭の儀礼と、正月、田植などのハレの日に限っていて、日常生活では一筋の紐(ひも)というべき幅の狭いものであったという。絵巻物の絵でも、働いている女性の帯は一筋の紐に描かれている。帯には、用途によって生地(きじ)、仕立て方だけでなく、結び方でもさまざまな種類が知られているが、これもおそらく江戸中期以後の風俗であろう。もともと帯を締めるのはハレの日で、平素は前に述べたような細紐のようなものであったと思われるが、幅のある帯を締めることが普通になっても、形によってハレとケ(日常)とを区別しようとしていたこと、さらには、それによって人妻か娘か、または年齢までも表現しようとしていたようである。
帯は服装のうちでもたいせつな意味をもっていたので、通過儀礼と名づけられている、人の成長段階の儀礼においても、それぞれ重要な意義をもって使われている。帯祝いは胎児の成長を祈るとともに母親の身祝いでもある。子供の側としては七五三の祝いがあるが、3歳は女児の祝いと考えている地方が多く、帯結び、帯はじめといって母親の実家から帯を贈られる。地方によっては紐解(ひもとき)、帯解などといい、これは、いままでの着物についていた付け紐を除いて、別に帯を締める年齢に達したという、お祝いであった。帯を前で締めるのを前帯というが、前帯の風は祭礼の礼装や婚礼、葬送のときに残っている。また、祭りの際のお稚児(ちご)さんの前帯、祭りの頭人(とうにん)の妻のもっている最上の帯を、選ばれた少女が肩にかけて神饌供奉(しんせんぐぶ)の役を勤めるなど、帯が神役を象徴するものとされた。伊豆大島では近年まで礼装の際は前帯であったし、神奈川県江の島でも昭和初年まで、新嫁を連れて近所へ挨拶(あいさつ)回りする婦人は前帯を締めた。葬式のときに喪主の妻が前帯にしたのは岐阜県高山市。佐賀県では後家(ごけ)帯といって夫を亡くした妻は3日間前帯を締めたという。帯によって、さまざまな人の思いを表していたことがわかる。
[丸山久子]
『喜田川守貞著『類聚近世風俗志(守貞漫稿)』(1928・文潮書院、復刻1963・東京堂出版)』
胴のまわりに巻いて衣服の前開きを防ぐための服飾品。本来は腰にものを帯びるためのもので,現代の未開社会の裸族たちの間にも腰紐一本だけを体に巻き,これに武器や獲物をぶらさげ,つねに両手の自由を確保しておく風習が残っている。さらに,妊婦の岩田帯や武士の下帯のように,呪術的目的や保温衛生上の目的から帯が用いられることもある。しかし,服飾品としての最大の目的は装飾のためであった。帯の位置によって上半身と下半身のプロポーションが定まるばかりでなく,これに装飾をほどこすことによって服装全体の美的感覚を強調する効果がある。
古代中国には朝廷の公式儀礼服に用いる大帯(だいたい)と革帯(かくたい)があった。大帯は紳(しん)とも呼ばれるやわらかい絹の帯で,主として祭服および女子の礼服用とされた。革帯はなめし革に金銀や玉石,または亀の甲やサメの皮などの装飾をほどこしたかたい帯で,両端に金銀製金具をつけて使用した。これは北方遊牧民族の服装からとり入れたもので,男子の朝服に用いられた。現代の洋式ベルトもこの系統である。大帯,革帯いずれにも各種の佩(はい)飾品を垂れ下げたが,儀礼用の佩飾品として綬(じゆ),佩玉,長剣,また紐などの結び目を解く(くじり)などがあった。朝服の革帯に垂れ下げるものは小刀,大刀,火打石,針筒,矢筒,弓弦などの実用品が主で,このような佩飾品も遊牧民族の服装様式から伝えられたものである。日本の宮廷服飾にとり入れられた革帯や石帯(せきたい)も,中国唐代の朝服の革帯に由来する。
執筆者:杉本 正年
日本の帯も,衣服を身体に固定する目的や,刀やその他のものを腰につるすための機能本位の紐から発達したが,後世小袖(こそで)が社会の中心的衣服となるに至って,とくに女帯にあってはそうした機能をこえて,小袖を基本とした和装美の重要な構成要素となった。その結果,帯地としての特色ある織物や意匠も生まれ,また結び方にもさまざまなくふうがこらされ,世界に類のない独特の服飾品としての発達をみた。
機能的な帯は,埴輪(はにわ)にもみられるように古墳時代以来,重要な役割を果たしてきたが,中世末に女性が袴(はかま)を脱し小袖が服飾の主体をなすようになると,衣を固定する帯の意味はきわめて大きくなってきた。しかし,当初の帯は,内衣の紐が表面にあらわれたという程度であって,小袖も対丈(ついたけ)で身幅も広い仕立てであったから,幅も狭く,長さもさほど長いものではなかったと考えられる。また,結び方も結び目も一定ではなく,地質も表着のあまり裂(ぎれ)を利用し,平ぐけにするというのが普通であったようである。しかし,桃山時代から江戸時代初期にかけては,平ぐけ帯のほかに,名護屋帯と呼ばれる組紐の帯も用いられた。これには丸組みも平組みもあり,紐の両端には十数cmの房がついていた。
江戸時代になってから,小袖は身幅もしだいに狭くなり,また丈も長くなったが,寛文(1661-73)前ころまでは,依然として一般の女帯は2寸ないし2寸5分幅で6尺5寸くらいの長さであったようである(単位は鯨尺。1尺=曲尺(かねじやく)1尺2寸5分(約38cm)。以下同じ)。そしてその結び方は,突込(つきこみ)帯といい帯の端を巻きつけた帯の間にはさみ込んだ簡単なものか,花結びくらいであった。しかし,寛永(1624-44)ころから,遊女たちはすでに5寸ほどの広幅の帯を用いていたようである。寛永~延宝(1624-81)のころから,この広幅の帯は一般にも流行し始め,とくに当時人気のあった歌舞伎役者の上村吉弥(1660-80年ころ京で活躍した女形)が舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって,広幅,尺長(しやくなが)の帯が広く用いられるようになったといわれている。結び方も,この吉弥のそれをまねて,帯の両端に鉛の鎮(しず)を入れ,結びあまりがだらりと垂れるようにしたのを〈吉弥結び〉といい,非常な流行をみたと伝えられている。
このように,しだいに幅広となっていった帯は,元禄時代(1688-1704)になるとさらに広い9寸近い幅のものが用いられるようになり,一般には5寸幅,後家は一幅を三つ割りにした3寸ほどの細帯であったといい,長さは8尺から1丈2尺となった。地質も繻子(しゆす),綸子(りんず),モール,ビロード,緞子(どんす),繻珍(しゆちん),唐織などいろいろの種類があり,織物ばかりでなく友禅,ししゅう,絞(しぼり)などのはなやかな文様のものもあったようである。結び方も吉弥結び,水木結び,かるた結び,はさみ結び,ひっかけ結び,御所結びなどの種類があり,帯の締め方も前結びと後結びとがあった。前結びは前帯ともいわれ,おもに既婚者が結んだところから,主婦の代名詞にもされたが,それに対して後帯は少女の姿を意味していた。
1丈2尺に9寸幅というのは,ほぼ享保(1716-36)以後,帯の基準となり,結び方もさらに種類が増えていった結果,帯が女装美の中心となり,ここに独特の和装の美が生まれることになったのである。現在でも行われている文庫結びは宝暦・明和(1751-72)のころに始まったと伝えられているし,また,最も一般に普及している太鼓結び(お太鼓結び)は,1813年(文化10)江戸亀戸天神の太鼓橋が再建されたとき,芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形であるといわれている。また後帯が年齢にかかわらず多くなったのも,文化・文政(1804-30)からであり,帯留をするようになったのも,ほぼこのころからである。ちなみに《都風俗化粧伝》(佐山半七丸著,速水春暁斎画。1813刊)に載っている帯の結び方には,さげ下結び,小竜結び,よしお結び,路考(ろこう)結び,引上げ結び,引結び,しんこ結び,はさみ結び,高雄結び,引締め,文庫結び,吉弥結び,小万結び,立結び,島原結び,一つ結び,だらり結び,文庫くずし,千鳥結び,おいそ結び,おたか結びの21種があるが,実際にはもっといろいろな結び方があったようである。
武家では打掛(うちかけ)下に締める帯をとくに掛下帯といい,5寸前後の中幅で,多くは繻子地に美しい草花の文様がししゅうされていたが,中にはビロード地にししゅうしたものもあった。白地の掛下帯は主として婚礼に使われていたようである。掛下帯に対して,夏の帷子(かたびら)には10cm前後の幅の細帯が用いられ,これを付帯(つけおび)といった。付帯は両端に30~60cmほどの長さの芯(しん)を入れて使用したところに特徴がある。これは帯の端に丸みをもたせると同時に,ある程度の重みを与えて帯がきれいに結び垂れるためだったと考えられるが,また横一文字に結んで,それに上級武家婦人の夏の礼装である腰巻を,袖を通してひっかける特殊な着装法にも利用されたのである。
帯の古い遺品は小袖類に比してはなはだ少ないが,仙台の伊達家に伝えられた4代藩主綱村の生母,浄眼院三沢初子所用の帯12条は,江戸時代初期の遺品として貴重なものである。白綸子地雪輪に春草文様帯は,絞と描絵(かきえ)によるもので,幅は13cm,長さは273cmである。また花鳥文様繻珍帯は,当時モール織と呼ばれたように,異国風意匠の珍しいもので,幅は11.5cm,長さは273cmである。
明治時代になると,東京遷都のため首都であり織物の中心地であった京都はひどくさびれた。しかし西陣産業への奨励などもあり,西陣ではヨーロッパから技術導入を試み,新しい織物産業の時代に入った。結び方も,既婚者には〈ひっかけ〉といって,江戸時代の一つ結びを太鼓に折り曲げない形のもの,娘たちの間には貝の口,晴着用にははさみ結びなどが流行したが,いずれも大正期にすたれた。それ以後は太鼓結びが広く愛用され,戦後は太鼓結び,ふくら雀(すずめ)結びのほか,着物への魅力を増すべくさまざまの新しい結び方が考案されるようになった。また大正期に服装改善運動の中で考案された名古屋帯は,その合理性と結びやすさから女帯の主流を占めるようになり今日に至っている。
古墳時代の埴輪の男子像を見ると,上衣の胴に細い帯を一重に巻き,前からわきに結び垂らし,この帯に剣などを下げ,庶民は農具をさしたりしている。このように古代の男帯はもっぱら実用性を主眼としたものであった。飛鳥・奈良時代になると,服制が定められ,官服の帯には倭文布(しずり),綺(かんはた),組帯,錦帯,革製の腰帯などが用いられた。この制度は平安時代前期まで続いた。平安時代の後期に完成した束帯(そくたい)では文官,武官ともに平緒(ひらお),石帯(せきたい)が用いられた。石帯とは革帯が変化し形式化されたもので,平緒は太刀を佩用(はいよう)するための帯であった。公卿の平服である直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ),水干(すいかん),白張(はくちよう)などには共布(ともぎれ)の3寸幅の宛帯(あておび)が用いられた。
近世になってから,武士も庶民も日常小袖を着用するようになり,女性の場合と同様,男帯も機能だけでなく,装飾性をもあわせもったものに発達した。男帯は刀をさすのでおのずから幅や厚さにも限度があり,著しく幅広のものにはならなかったが,享保年間には幅2尺5寸を三つ割りにした,かなり幅広いものが用いられた。長さは通常6尺5寸~7尺5寸くらいだった。江戸時代中期には博多織,緞子,繻子,繻珍,斜子(ななこ),紗(しや),綾,八丈,ビロード,琥珀(こはく),真田(さなだ)など種々の材質のものが用いられた。色は黒とか紺,とんび,ねずみ,紫,青茶などが普通だったが,天明(1781-89)ころ緋色の博多帯が一時流行し,腹切帯と呼ばれた。結び方には,四角結び,おさらば結び,猫じゃらしなどというのがあった。後期の時代には長さ1丈,幅は1寸8分を標準とし,羅紗(らしや)や八端(はつたん)も利用され,結び方には貝の口があらわれた。また袴を着用する武士には,かさばらない駒下駄(こまげた)結び,さむらい結び,はさみ込み結びなどが行われた。小児や少年には3尺の紺木綿を四つ折りとした三尺帯が用いられた。
明治維新以後は和服の需要が減少した結果,正装には従来の板帯,角帯が締められたが,一般には兵児(へこ)帯,三尺帯が普及し,現在に及んでいる。
執筆者:北村 哲郎
農山村,漁村の婦人たちが仕事着を着用したとき用いる帯は,初期のものは幅が狭く,江戸中期に書かれた農学書《奥民図彙》によれば〈帯たな〉と呼ばれていた。しかし明治以降の農村一般では,15cm内外の半幅(はんはば)帯が多く用いられていた。また地域によっては30cmの幅の広い帯も使用した。メリンス,木綿地の美しい色柄物が多く,中に芯を入れ普通一般の帯と同様に仕立てた。また古い布から更生した裂織(さきおり)の帯も使用した。
関東一帯の農村では,半幅の帯を〈野良帯〉と呼び,農家の嫁は,嫁いできた当初,毎日野良帯を取り替えて田畑へ出る習慣があり,周囲の人もそれを楽しみにした。そのため嫁ぐ際,帯の色柄,材料を考えて多くの野良帯を行李いっぱい持っていったという。秋田県中央部地帯には,〈田帯〉といって田仕事の際,野良着を着装した上から長さ150cm,幅30cmの一重の帯で,腹部から腰部を巻く習慣があった。これは田植時の婦人達の腹部および腰部を保温するためであったが,一方,農作業の際に体に一種の緊張感を与えるためでもあった。
執筆者:日浅 治枝子
帯は日常生活だけでなく,人生儀礼や祭礼でも重要な役割をはたしている。妊娠5ヵ月目の帯祝(おびいわい),七五三の祝いでの帯解きや帯始め,成年式として褌(ふんどし)や腰巻をつける下帯祝のほか,婚姻でも帯は新しい身分の獲得のしるしとして使われる。とくに帯には魂を結ぶものという面もあって婚姻とは縁が深く,仲人を通して男女が帯を贈りあって婚約とする地方もみられたし,今日でも結納金を帯料として贈ることが多い。また〈常陸帯(ひたちおび)〉といって,かつて鹿島神宮の祭日に男女の名を別々に書いた帯を神官に結んでもらい,男女の縁を占う風習もみられた。葬式でも生前使っていた帯を枕にして棺に入れたり,妻に死なれた夫が自分の帯を半切りにして入れる所がある。このため,帯を枕にしたり切ったりすることを忌む所は多い。なお,嫁入りや葬式の際に花嫁や喪主の妻などが帯を前結びにする風があるが,これは古態を示すものであり,遊女は長くこの前帯の習慣を残していた。
静岡県島田市の大井神社の帯祭では,大奴が嫁にきた者の最上の帯を太刀にかけて練り歩く。また近江の宮座祭祀では,頭人の妻が持つ最上の帯を娘や親戚の少女が肩から後ろにかけて神饌を運んだり,頭人の妻が帯を手にかけて参拝する風がある。これは古く女性が社寺参詣の際に用いた赤い掛帯と同様に物忌のしるしと考えられる。
帯には帯取池などの伝説や俗信も多く,帯で人をたたくと蛇になるとか,帯で作った着物を着ると寿命が縮むといわれ,夜に帯を贈ったりまたいだりすることも嫌われる。
執筆者:飯島 吉晴
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…中世における帯商人の座。帯座の成立は1488年(長享2)ごろと考えられる。…
…さらにインドのモヘンジョ・ダロ遺跡や南アメリカのペルー北部のワカ・プリエッタ遺跡で発見された綿布の断片は,ともに紀元前3000‐前2500年ころとされている。中国では1958年に浙江省呉興銭山漾の新石器時代遺跡第4層内の竹筐(ちくきよう)の中から,平織の小裂(こぎれ)や撚糸,組帯が発見されている。その素材は家蚕の絹糸とされているが,この地層から併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており,この時点で中国では養蚕がなされ,絹織物を製織していたことになる。…
…晴着は常着と衣料や形に変わりはないが,浄衣であることが必要な条件である。帯祝,袴着(はかまぎ),三つ身祝,四つ身祝には,それぞれの年齢にふさわしい新しい制服が晴着である。晴着は,このようにきわめてひろい意義をもつが,きびしい意味の正装,忌衣には二,三の特色のあることが認められる。…
…服装は個人的なものではあるが,そこに多分に社会的要素をもっている。【宮本 馨太郎】
【日本】
[概観]
日本は海に囲まれた島国で,温帯に属した東アジアの季節風地域にあり,その温暖湿潤気候は日本人の生活文化に強い影響を与えてきた。稲作農耕を生活の基盤とするようになった弥生時代より,貫頭衣(かんとうい)式のちはやや横幅衣(よこはばのころも)の腰巻のような南方系の衣服を基本形とするものを着用している。…
※「帯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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