クラーク(読み)くらーく(英語表記)T. J. Clark

デジタル大辞泉 「クラーク」の意味・読み・例文・類語

クラーク(William Smith Clark)

[1826~1886]米国の教育家。マサチューセッツ農科大学長。1876年(明治9)来日。札幌農学校の初代教頭となり、キリスト教精神に基づく新教育を実施。在日1年足らずだったが、内村鑑三新渡戸稲造にとべいなぞうらの学生に深い感化を及ぼした。離日に際して残した「Boys, be ambitious(少年よ大志を抱け)」の言葉は有名。

クラーク(Colin Grant Clark)

[1905~1989]英国経済学者。1941年に「経済的進歩の諸条件」を著し、第一次産業第二次産業第三次産業の分類を考案。経済成長とともに第三次産業の経済規模や就業人口が増していくという「ペティクラークの法則」を提唱した。

クラーク(〈ロシア〉kulak)

ロシアの農村にみられた富農層。十月革命後、1929年から行われた農業経営の集団化により消滅した。

クラーク(clerk)

事務員。職員。吏員。また、販売員。「医療クラーク

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精選版 日本国語大辞典 「クラーク」の意味・読み・例文・類語

クラーク

  1. [ 一 ] ( Samuel Clarke サミュエル━ ) イギリスの哲学者、神学者。神の存在、霊魂の不滅、意志の自由を論証することに努め、唯物論、無神論と戦う。ニュートン物理学の解釈をめぐってライプニツと論争した、「往復書簡集」がある。(一六七五‐一七二九
  2. [ 二 ] ( Alvan Clark アルバン━ ) アメリカの天文観測器械製造家。肖像画家から、息子のバセット、グレアムとともに望遠鏡製作会社を設立し、近代天文学の発展に貢献した。一八六二年口径四六センチメートルの望遠鏡によるシリウスの伴星(白色矮星)発見は有名。(一八〇四‐八七
  3. [ 三 ] ( William Smith Clark ウィリアム=スミス━ ) アメリカの教育者。マサチューセッツ農科大学学長。学長在職中日本政府に招かれ、明治九年(一八七六)札幌農学校(現在の北海道大学)初代教頭となる。熱烈なキリスト教主義による教育精神は、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らに大きな影響を与えた。(一八二六‐八六
  4. [ 四 ] ( John Bates Clark ジョン=ベーツ━ ) アメリカの経済学者。限界原理に基づく経済理論の体系を樹立し、また分配論上の限界生産力説を展開して、アメリカ近代経済学の創始者といわれる。主著「富の分配」「富の哲学」「経済理論の本質」。(一八四七‐一九三八

クラーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [ロシア語] kulak ) ロシアの裕福な農民、富農。本来は買占人、不正仲買人、高利貸などを意味した。歴史的には封建制末期から現われた農村ブルジョア層をさし、十月革命のさい、多くは反革命の陣営に立った。コルホーズの確立によって消滅。〔モダン辞典(1930)〕

クラーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] clerk ) 書記。事務員。また、店員。〔外来語辞典(1914)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク(T. J. Clark)
くらーく
T. J. Clark
(1943― )

イギリスで生まれアメリカで活動する美術史家。専門は西洋近現代美術史。美術作品を当時の社会との関連において検討する独自の研究方法で知られる。ブリストル生まれ。ケンブリッジ大学とロンドン大学コートールド・インスティテュートに学ぶ。1966年から1年間パリに留学し、その後いくつかの大学で教鞭をとったあと、80年ハーバード大学美術学部の美術史の教授に就任。さらに87年以降はカリフォルニア大学バークリー校教授。

 後のクラークの業績を考えれば、アカデミックなキャリアもよりも60年代に彼が参画していた社会運動のほうが注目される。当時クラークはシチュアショニスト・アンテルナシオナル(SI=Situationniste International)のイギリス支部員だった。ギイ・ドゥボールGuy Debord(1931―94)主導のもと57年にパリで結成されたこの社会・芸術運動集団は、消費社会を徹底的に批判するとともに、その消費社会にどっぷり浸かった都市の日常生活=「状況」の再構築を目指した。「芸術の社会史」という構想を早くから抱いていたというクラークはこのとき、ドゥボールやSIのいう「都市」や「スペクタクル」の問題に鋭く対峙したのである。

 その最初期の著作『民衆のイメージ』Image of the People(1973)で、クラークは、ギュスターブ・クールベがどれだけ都市パリの「市民」と故郷オルナンの「民衆」、それぞれの政治的な立場を同時に相手にし、またその両者との駆け引きから活力を得ながら、大作『オルナンの埋葬』(1849~50)をはじめとする作品を描き上げたかを明らかにした。また84年の著書『近代生活の絵画』The Painting of Modern Lifeでは、エドゥアール・マネをはじめとする画家たちが、当時のパリに氾濫していた、「スペクタクル」としての都市あるいは女性にどのように応じつつ作品を描いたかを論じている。ドゥボールのいう「スペクタクル」とは、そこに具体的に存在する社会的な問題や矛盾を抽象化し、またその状態があたかも自然なものであるかのように見せる偽装工作、またその結果としての、見栄えのいい、あるいはそれゆえにすんなりと理解できるイメージのことである。それに対してたとえばマネは、『オランピア』(1863)や『1867年パリ万博の光景』(1867)で、当時の観客にとってマネがなにをいいたいのかよくわからない、不自然な女性像や都市の姿を描いている。それらを通じて、逆になじみのある「自然な」女性や都市のイメージこそが「スペクタクル」、つまり偽装された自然にすぎないことを気づかせるために描かれたとクラークは論じる。

 こうしたクラークの立場を要約するなら、次のようになるだろう。あらゆる美術作品は、芸術家とそれを取り囲む社会との意識的あるいは無意識的な「取引」の産物である。つまりそれはたえず両者の緊張関係のなかで、「創造」ではなく「生産」され、「鑑賞」ではなく「消費」される。クラークは作品を、そして同時に作品や同時代の社会に関わるあらゆる資料を微視的に分析し、また記号論や精神分析などの手法も取り入れてゆくことで、そうした相互的な「取引」の状況を明らかにする。もちろん「生産」や「消費」といった語の選択は、彼のマルクス主義への傾倒からくるものである。だが従来のマルクス主義的な美術史学の多くが、ある美術作品はそれを生んだ社会状況を(一方的に)「反映」している、と見なすに留まるのに対し、クラークはあくまで個々の作品の成り立ちに則しつつ、その相互作用的な「生産」と「消費」の状況を執拗に記述する。彼のこの姿勢は、アメリカの第二次世界大戦後の美術などを対象としたその後の研究でも一貫している。

 同時にこのクラークの立場は、芸術は社会から独立した自律的なものであると主張する、モダニズム/フォーマリズム(形式主義)のそれとも真っ向から対立するものでもある。モダニズム/フォーマリズムの陣営を代表するクレメント・グリーンバーグを批判的に読解した彼の一文「クレメント・グリンバーグの芸術理論」Clement Greenberg's Theory of Art(1982)は、グリーンバーグ直系の批評家、美術史家マイケル・フリードとの論争を引き起こした。この論争は近代芸術をめぐるもっとも重要な論争の一つとなっている。

[林 卓行]

『上田高弘訳「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」(『批評空間』臨時増刊号『モダニズムのハードコア』所収・1995・太田出版)』『Image of the People; Gustave Courbet and the 1848 Revolution (1999, University of California Press, Berkeley)』『The Paintings of Modern Life; Paris in the Art of Manet and his followers (1999, Princeton University Press, Princeton)』


クラーク(Sonny Clark)
くらーく
Sonny Clark
(1931―1963)

アメリカのジャズ・ピアニスト。ペンシルベニア州に生まれ、4歳でピアノを習い始める。ブギ・ウギ・ピアノのピート・ジョンソンPete Johnson(1904―1967)が好きで、6歳のときにラジオのアマチュア参加番組でブギ・ウギ・ピアノを演奏。14歳のころラジオで放送されるデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団の演奏を聴いて本格的にジャズに興味をもち、ジャズ・ピアノの巨匠アート・テータムの演奏をレコードで聴く。高校時代はビブラホーン、ベースも演奏し、少年バンドに所属する。母子家庭に育ったため、1951年に母親が亡くなると、ピアニストの兄とともにロサンゼルスの叔母のもとに身を寄せる。ちょうどこの時期、ジャズ・シーンの中心はイースト・コーストから軍需産業、映画産業で好況を迎えた西海岸へと移りつつあり、ウェスト・コースト・ジャズが活況を呈し始めていた。ロサンゼルス滞在中、テナー・サックス奏者のワーデル・グレイWardell Gray(1921―1955)、ドラム奏者のシェリー・マンShelly Manne(1920―1984)、ギター奏者バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、アルト・サックス奏者アート・ペッパーといった一流ミュージシャンたちと共演する。

 1953年ベース奏者オスカー・ペティフォードOscar Pettiford(1922―1960)のトリオに加わり、バンドの移動に伴ってサンフランシスコに赴(おもむ)く。ここでクラリネット奏者のバディ・デフランコBuddy DeFranco(1923―2014)に出会い、彼のカルテットのメンバーとなりレコーディングに参加する。1954年にはジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather (1914―1994)率いる「ジャズU. S. A.」の一員としてヨーロッパに公演旅行を行う。1956年ふたたびロサンゼルスに戻り、白人ベース奏者ハワード・ラムゼーHoward Rumsey(1917―2015)のバンド、ライトハウス・オールスターズのピアニストとなるが、これは典型的な白人ジャズマンによるウェスト・コースト・ジャズで、黒人のクラークの感覚にはあわなかった。

 そこで1957年ニューヨークに移り、ベース奏者サム・ジョーンズSam Jones(1924―1981)、ドラム奏者アート・テーラーArt Taylor(1929―1995)とピアノ・トリオを組み、ジャズ・クラブ「バードランド」に出演。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのアルバム『サウンド・オブ・ソニー』吹き込みに参加する。続いて彼にとって大きな意味をもつジャズ・レーベル、ブルーノートとの契約を果たす。ブルーノートでは彼の代表作である『ソニー・クラーク・トリオ』(1957)、『クール・ストラッティン』(1958)といったアルバムを出している。ほかにもいわゆるブルーノート・ハード・バップの名盤とよばれる多くの作品にサイドマンとして名を連ねており、彼の評価はこのレーベルの存在を抜きにしては考えられない。

 1962年、脚気(かっけ)と心臓病のため入院、1963年退院したものの、麻薬の過剰摂取のため心臓発作を起こし死去。ブルーノート以外の代表作に、タイム・レーベルの『ソニー・クラーク・トリオ』(1960)がある。彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を強く受けたもので、比較的地味な印象を与えるためか、アメリカではさほど一般的人気はなかった。だが、ミュージシャンの間での評価は高く、彼の死後セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972、トランペット)らによってメモリアル・コンサートが催された。また、その哀調を帯びたタッチから、日本のジャズ・ファンの人気は非常に高い。

[後藤雅洋]


クラーク(Larry Clark)
くらーく
Larry Clark
(1943― )

アメリカの写真家、映画監督。オクラホマ州タルサ生まれ。乳幼児専門の写真家であった母親の仕事を手伝うことで写真に興味を抱く。1963年、オクラホマ・シティのレイトン美術学校を卒業後にタルサに戻り、幼なじみの不良仲間を撮影し始める。ドキュメンタリー映画のように「セックスとドラッグとロックン・ロールの日々」をストレートなドキュメントとして綴(つづ)った写真は、1971年に写真集『タルサ』Tulsaにまとめられ、同時代の写真表現に決定的といえるような衝撃を与えた。互いに薬を打ち合う男女、警察の密告者への暴行など、たしかに暴力的でセンセーショナルなイメージが多いが、全体としては抑制され、静まりかえった印象を受ける。とりわけ、自然光を巧みに生かしたライティングにより、むしろ古典的といえるような味わいさえ生じている。

 クラークは、『タルサ』によって一躍アメリカ写真界の寵児となるが、その後ドラッグと酒に溺(おぼ)れ、1975年から暴力事件とピストル不法所持によって5年間の刑務所暮らしをおくる。1983年に刊行された『ティーンエイジ・ラスト』Teenage Lustは、彼の再起を期した写真集であり、より自伝的な要素が強まっている。巻末の長文インタビューを含めて、子供のころの家族写真、傷害事件の新聞記事、裁判の調書などがアトランダムに挿入されたコラージュ的な構成のなかでとくに目だつのは、10代の男女のポルノグラフィーすれすれの性行為の描写である。しかし、そこには覗(のぞ)き見趣味的ないやらしさはなく、むしろ写真家自身もその状況のなかに巻き込まれていくことで、彼らの生命力の発露が肯定的な眼差しでとらえられている。

 『ティーンエイジ・ラスト』で試みられたコラージュ的な構成は次の写真集『1992』Larry Clark;1992(1992)では、より徹底的に突き詰められている。『1992』は断ち落としの写真が300ページ以上も続く写真集で、自殺ごっこをしている少年のさまざまなポーズを執拗(しつよう)に追い続けている。このようなティーンエイジャーの性と死と暴力に対する強いこだわりは、1993年の写真集『完璧な少年時代』The Perfect Childhoodでも、さらに追求されることになる。ここでは、成熟が遅く、性的に正常ではないというコンプレックスに悩んでいた彼自身の少年期の記憶が、殺人や強姦(ごうかん)の罪を犯した少年たちの犯罪記事やテレビの映像から二重映しに浮かび上がってくるような構造をとっている。それはある意味で、写真やコラージュによる自己回復の試みとみなすこともできるだろう。

 1995年には、彼の映画監督第一作である『キッズ』が公開された。スケートボーダーたちの日常を、エイズの影を絡ませて淡々と描いた『キッズ』は、1996年(平成8)に日本でも上映され、カルト的な人気を集めた。1998年には映画監督第二作の『アナザー・デイ・イン・パラダイス』が公開されるなど、プライベート・ドキュメンタリーの手法を生かした映画の作り手としても注目を集めるようになってきている。

[飯沢耕太郎]

資料 監督作品一覧

KIDS キッズ Kids(1995)
アナザー・デイ・イン・パラダイス Another Day in Paradise(1998)
BULLY ブリー Bully(2002)
獣人繁殖 Teenage Caveman(2002)
Ken Park ケン パーク Ken Park(2002)
ワサップ! Wassup Rockers(2005)

『「特集ラリー・クラーク」(『デジャ=ヴュ』No.13・1993・フォト・プラネット)』『「特集ラリー・クラーク」(『美術手帖』1996年8月号・美術出版社)』『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』『Tulsa (1971, Lustrum Press, New York)』『Teenage Lust (1983, Millerton, New York)』『Larry Clark;1992 (1992, Thea Westreich, New York/Gisela Capitain, Cologne)』『The Perfect Childhood (1993, Scalo Verlag, Zürich)』


クラーク(Colin Grant Clark)
くらーく
Colin Grant Clark
(1905―1989)

イギリスの経済学者、統計学者。オックスフォード大学で化学を学んだが、のちに経済学や統計学の研究に転じた。ハーバード大学助手、ケンブリッジ大学講師などを経て、1937年オーストラリアに渡り、メルボルン、シドニーなどの大学の客員講師を歴任し、またオーストラリア労働産業省の次官などの官職についたこともある。その後53年にイギリスに帰り、オックスフォード大学農業経済学研究所所長になった。彼は、主著『経済進歩の諸条件』The Conditions of Economic Progress(1940)において、各国の統計を利用して国際単位という統計学的操作によって国民所得の国際比較を行ったが、そのなかで産業を第一次、第二次、第三次の三つに分け、経済発展に伴って産業構造が第一次から第二次へ、さらに第二次から第三次産業へと比重を移していくことを実証的に明らかにし、ペティの法則と名づけた。

[志田 明]

『大川一司他訳篇『経済進歩の諸条件』上下(1968・勁草書房)』『杉崎真一訳、馬場啓之助監修『人口増加と土地利用』(1973・農政調査委員会)』


クラーク(William Smith Clark)
くらーく
William Smith Clark
(1826―1886)

札幌(さっぽろ)農学校(北海道大学の前身)の創設者。アメリカのマサチューセッツ州に生まれる。アマースト大学およびドイツのゲッティンゲン大学に学び、鉱物学、化学を専攻。帰国後母校のアマースト大学の化学教授に就任し、南北戦争では義勇軍に入隊し大佐に昇進した。1867~1879年アマーストのマサチューセッツ農科大学学長となる。北海道開拓事業をつかさどる政府機関である開拓使の懇望により同大学長のまま、1876年(明治9)6月来日し、8月開校の札幌農学校初代教頭に就任。事実上の創設者となった。

 彼は細かな学則を否定して「予がこの学校に臨む規則は、Be gentleman!只(ただ)この一言に尽くる」といい、故意に規律を守らない者に対しては、「只退学あるのみ」といった。また厳格なピューリタンとしてキリスト教精神に基づく人間教育を行い、内村鑑三(うちむらかんぞう)はじめ多くの人材を出した。在職1年、1877年4月帰国にあたり、“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)の名言を残したことは有名である。1886年3月9日アマーストで61歳の生涯を閉じた。

[梅溪 昇 2018年8月21日]

『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』



クラーク(John Maurice Clark)
くらーく
John Maurice Clark
(1884―1963)

アメリカの経済学者。父は著名な経済学者J・B・クラーク。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれる。1905年アマースト大学を卒業し、コロンビア大学で修士号と博士号を取得した。コロラド、アマースト、シカゴの各大学を経て、26年コロンビア大学の経済学の教授となる。アメリカ経済学会第37代会長。

 クラークは、父の経済学の衣鉢を継ぎ、新古典派の完全競争理論を手掛りに、それを現実の経済に近づけるうえで制度学派的接近方法を採用し、重要な貢献も少なくない。とりわけ、完全競争にかわる有効競争workable competitionの概念を提出し産業組織論の分野を開拓したこと、加速度原理と景気循環に関する先駆的研究、社会的費用と私的費用の区別、会計上の費用と経済学者の費用概念の区別などの貢献はよく知られている。主著に『地方の運賃差別に関する合理的基準』Standards of Reasonableness in Local Freight Discriminations(1910)、『間接費の経済学の研究』Studies in the Economics of Overhead Costs(1923)、『景気循環の諸要因』Strategic Factors in Business Cycles(1934)、『動態的過程としての競争』Competition as a Dynamic Process(1961)などがある。

[佐藤隆三]


クラーク(Arthur C. Clarke)
くらーく
Arthur C. Clarke
(1917―2008)

イギリスのSF作家。キングズ・カレッジで物理学と数学を専攻。1946年、短編『太陽系最後の日』を発表してデビューした。初期の作風の特徴は、豊富な科学技術の知識を駆使して現代科学の発達を可能な限り正確に予測した近未来を描くことにあり、『火星の砂』(1952)、『海底牧場』(1957)などがそれにあたるが、20世紀末、突如出現した外宇宙からの宇宙船団によって地球が支配され、人類の文明が新たな進化に向かう過程を描いた『地球幼年期の終わり』(1953)は単にクラークの代表作にとどまらず、1950年代のSFを代表する名編。

 1979年『楽園の泉』の発表を最後に隠退を声明したが、おもな作品には、ほかに『銀河帝国の崩壊』(1953)、同名の映画化とタイアップして書かれた『2001年宇宙の旅』(1968)、自伝的エッセイ集『スリランカから世界を眺めて』(1978)など多数ある。

[厚木 淳]


クラーク(Alvan Clark)
くらーく
Alvan Clark
(1804―1887)

アメリカの望遠鏡製作者。1824~1844年は肖像画家として働いていたが、1846年光学会社を設立、もっぱら望遠鏡の製作に従事し、大型かつ精密な望遠鏡の提供により、近代天文学の発展に貢献した。彼の製作になるおもな望遠鏡は、プリンストン大学(口径23インチ)、海軍天文台およびバージニア大学(26インチ)、プルコボ天文台(30インチ)などに設置された。

 長子グラハムAlvan Graham Clark(1832―1897)も父の技(わざ)を継ぎ、1862年製作の18インチ望遠鏡は、その試観測の機会にシリウスの伴星(白色矮星(わいせい))を発見、検出した。ついで1888年にリック天文台に36インチ鏡を、さらに1889年にヤーキス天文台に40インチ鏡を設置した。後者は現在でも世界最大の屈折鏡である。

[島村福太郎]


クラーク(John Bates Clark)
くらーく
John Bates Clark
(1847―1938)

アメリカの経済学者。ピューリタン。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれる。アマースト大学卒業後、3年にわたりドイツに留学し、K・クニースのもとでドイツ前期歴史学派の影響を受ける。帰国後、カールトン大学で教鞭(きょうべん)をとる。制度学派の創始者T・ベブレンはそのときの学生。その後、スミス、アマースト大学を経て、1895年コロンビア大学の教授となる。アメリカ経済学会第3代会長。

 1870年代の、W・S・ジェボンズ、C・メンガー、L・ワルラスにはやや遅れをとったが、クラークは独自に、86年に限界効用理論を、99年にはさらに限界生産力的分配論を展開し、いわばアメリカにおいて限界革命の一翼を担った。また、クラークは、比較静学的分析の先駆者でもあった。しかし、歴史学派の洗礼を受けたクラークには社会倫理的視点も鮮明であり、効率と同時に公正を重視する点が特徴となっている。主著には『富の哲学』The Philosophy of Wealth(1886)、『富の分配――賃金・利子および利潤の理論』The Distribution of Wealth : A Theory of Wages, Interest and Profits(1899)、『トラストの統制』The Control of Trusts(1901)などがある。

[佐藤隆三]


クラーク(Frank Wigglesworth Clarke)
くらーく
Frank Wigglesworth Clarke
(1847―1931)

アメリカの地球化学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で分析化学を学び、シンシナティ大学教授となる。1883年合衆国地質調査所に移ってから岩石・鉱物の化学組成を研究し、多くの分析を行うとともに資料を集め、1908年に『Data of Geochemistry』(地球化学データ)を著した。また地殻の平均化学組成を試算し、元素の地殻存在度を推定した。クラークの算出した数値はそれぞれの元素のクラーク数とよばれ広く用いられた(現在の存在度はクラーク以後に計算されたもの)。万国原子量協会International Committee on Atomic Weights(ICAW)の議長を長年にわたって務めた。

[橋本光男]


クラーク(Samuel Clarke)
くらーく
Samuel Clarke
(1675―1729)

イギリスの神学者、哲学者、イギリス国教会の司祭。ケンブリッジ大学卒業。独学でニュートン物理学を学び、その信奉者となった。宮廷付きの司祭を20年務め没す。ニュートン物理学の解釈をめぐるライプニッツとの往復書簡(1715~1716)は有名。唯物論や汎神(はんしん)論に対し、正統的キリスト教を擁護する『神の存在と属性』(1704)では、理性の強調と数学的方法による神の存在と属性の論証を試みた。また道徳の客観性を強調し、それを数学規則とアナロジカルな事物・行為そのものの普遍的「適合性」に求めた。ライプニッツとの論争では、ニュートンの絶対空間・時間を神の感覚器官とする説を擁護し、引力の概念をスコラ的にではなく、実証的に解釈すべきことを主張した。

[小池英光 2015年7月21日]


クラーク(ロシアの富裕な農民)
くらーく
кулак/Kulak ロシア語

ロシアの富裕な農民、農村ブルジョアジー。1861年の農奴解放後に成立し、20世紀初めには農家の5分の1を占めた。ロシア政府は、1905年革命後、ストルイピン改革によってクラークを育成強化し、農村における政権の支柱としようとした。17年の十月革命後、国内戦期には反革命の社会的基礎となったが、食糧徴発制によって打撃を受けた。21年以後のネップ(新経済政策)期において、土地国有という条件やソビエト政府の政策によってその力は制限されていたが、27年には農家の4~5%、すなわち100万戸以上になっていた。ジノビエフ、トロツキーらは、この力を過大に評価してネップの速やかな変更を求め、一国社会主義論争の論点の一つとした。スターリンは反対派を敗北させたのち、穀物危機に直面して政策を転換、29年末からクラークの激しい抵抗を排して農業経営の集団化を強行、クラークを階級として清算し、農業、家畜などの生産手段をコルホーズの財産とした。

[木村英亮]


クラーク(Sir Kenneth Mackenzie Clark)
くらーく
Sir Kenneth Mackenzie Clark
(1903―1983)

イギリスの美術史学者、美術評論家。オックスフォード大学に学び、のちフィレンツェに渡ってベレンソンに師事。イタリア・ルネサンス美術の専門家と認められるようになって、ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長(1934~45)となる。さらにオックスフォード大学教授のほか、イギリス美術協会会長、大英博物館理事、独立テレビ放送協会会長などの要職を務め、広く評論や啓蒙(けいもう)活動も行い、1969年男爵に叙せられた。主著に『ゴシック・リバイバル』(1925)、『レオナルド・ダ・ビンチ』(1939)、『風景画論』(1949)、『ザ・ヌード』(1956)などがある。

[鹿島 享]

『高階秀爾訳『絵画の見方』(1977・白水社)』『丸山修吉・大河原賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1981・法政大学出版局)』


クラーク(Jim H.Clark)
くらーく
Jim H.Clark
(1944― )

アメリカの実業家。ユタ大学博士課程を終了後、スタンフォード大学準教授を経て、1982年シリコングラフィックス社(SGI)を設立。映画『ジュラシック・パーク』のCGなどを手がけて成功を収め、年間収益22億ドルの企業に育て上げる。1994年同社を辞職し、23歳のマーク・アンドリーセンMarc Andreessen(1971― )を副社長に迎え新ソフト会社モザイク・コミュニケーションズを設立、会長兼最高経営責任者(CEO)。ホームページ用の閲覧ソフト「ネットスケープ・ナビゲーター」を開発。社名をネットスケープ・コミュニケーションズに改称。アメリカのベンチャー企業の旗手的存在である。

[編集部]


クラーク(Michel de Klerk)
くらーく
Michel de Klerk
(1884―1923)

オランダの建築家。14歳からE・カイペルスのもとで設計を修業し、1910年代に入って独立。ファン・D・メイ、L・クラメルと協同して、海運ビルをアムステルダムに完成(1916)させて以来、有機的で視覚的変化に富んだいわゆる「アムステルダム派」特有の建築を次々と発表して注目され、同派の中心的存在となった。なかでも彼の建築家としての真価は集合住宅の設計において発揮され、アイヘン・ハール集合住宅地や、デ・ダヘラート集合地に実現した建物などに、その天才的な構想力と情感あふれる意匠力が今日に至るまで伝えられている。

[長谷川堯]

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改訂新版 世界大百科事典 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク
kulak

ロシア語のクラーク(拳)から出た言葉で,ロシア農村の富裕な層をさす。もともとは主として高利貸,買占人,投機業者などを意味したが,1890年代以降は,農村の資本主義的関係の発展を背景として,他人を搾取する富農を意味するようになった。しかしロシアの大半の富農は,ヨーロッパ的な意味での農業資本家とは異なって,みずから農作業に従事する農民という性格を維持していた。20世紀初頭に最高数(全農家の1/5)に達したとされる。帝政は1906年のストルイピン改革によって,富農の成長の妨げとなる共同体を破壊しようとしたが,ロシア革命の過程で共同体は強力に復活し,土地保有規模は著しく均等化された。さらに19年に導入された食糧徴発制度も富農に対する強力な打撃となった。20年代には全農家の5~7%がクラークであるといわれた。20年代末に農村から穀物を買い付けることに失敗したソビエト政権は,多量の穀物を保有しているとみられたクラーク層に対する攻撃を開始し,この動きが29年秋からの全面的集団化運動に接続するとともに,ソビエト政権は〈クラークの階級としての絶滅〉の政策をうちだした。絶滅されたクラークの資産は,コルホーズの不可分フォンドに収容された。この過程で行使された暴力は,クラークばかりでなく中農や貧農にまで及んだ。クラークの運命はさまざまであり,ソビエト権力に最も敵対的なクラークは収容所に送られ,その他のものはカザフやシベリアなどの遠隔地へ,残りのものは同じ行政的地区内部で村の外へ追放された(このグループもその後再び遠隔地へ追放された)。遠隔地に送られた旧クラークの多くは,特殊なコルホーズ(定款をもたず,理事会は外から任命されたものが構成した)に組織された。このコルホーズは1938年になってやっとふつうのコルホーズと同じ資格をあたえられた。絶滅されたクラークの総数に関する公式の資料はなく,一説では1929年から33年のあいだで数百万農家,1000万人をこえるといわれる。
農業集団化
執筆者:


クラーク
Kenneth Mackenzie Clark
生没年:1903-83

イギリスの美術史家。ロンドンで富裕な有閑階級に生まれ,永年,イギリス美術史界の中枢の地位にあった。まずウィンチェスターおよびオックスフォード大学に学んだ後,フィレンツェの美術史家ベレンソンのもとで修業。ついでオックスフォードのアシュモリアン美術館管理官を経て,1934-45年ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長の職にあり,またほぼ同時期に王室絵画監督官も務めた。第2次世界大戦中は情報省で働き,戦後は,オックスフォード大学のスレードSlade美術史講座教授として教鞭を執った(1946-50)。内外の美術関係機関の要職を務め,レジヨン・ドヌールをはじめ数々の栄誉を受けている。主要著書は《ウィンザー城王家コレクション蔵レオナルド・ダ・ビンチ素描目録》(1935),《風景画論》(1949,邦訳1967),《ピエロ・デラ・フランチェスカ》(1951),《絵画の見方》(1960,72,邦訳1977)など。彼は固定的な方法論にとらわれることのない美術史家で,その柔軟な思考力と鋭い美的感受性のうかがわれる平明な語り口を好む読者は多い。テレビの美術番組でも活躍し,親しまれた。
執筆者:


クラーク
John Bates Clark
生没年:1847-1938

アメリカの経済学者。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれ,1872年にアマースト大学を卒業後ドイツに留学し,おもにハイデルベルク大学とチューリヒ大学に学び,主としてK.クニースの指導を受けた。75年に帰国し,カールトン,スミス,アマーストの諸大学を経てコロンビア大学(1895-1923)で教えた。アメリカ限界主義の父と呼ばれ,アメリカ経済学会の創設にも貢献し,その第3代会長を務めた。はじめ《富の哲学》(1886)において歴史学派の影響下に古典派経済学を批判したが,W.S.ジェボンズ,C.メンガー,L.ワルラスとは独立に,社会的観点を強調した限界効用価値論に到達した(〈限界革命〉の項参照)。しかしのちには,限界主義分析を分配論に拡充し,主著《富の分配》(1899)において,社会的観点に力点を置いた限界生産力的分配論を展開し,限界主義理論の体系化に貢献した。主著での静学理論に加えて,《経済理論綱要》(1907)では独自の動学部門を加えた。ほかに独占や平和問題の研究でも貢献をした。
執筆者:


クラーク
Colin Grant Clark
生没年:1905-89

イギリスの経済学者,統計学者。南イングランド,コーンウォールのプリマスで商人の子として生まれた。ウィンチェスター校を経て,オックスフォード大学のブレーズノーズ・カレッジに学ぶ。1931年より37年までケンブリッジ大学の統計学講師。37年オーストラリアに渡り,メルボルン,シドニー,ウェスタン・オーストラリアの各大学の訪問教授,次いでオーストラリア連邦政府労働産業省次官,クイーンズランド州財政顧問などを歴任。第2次大戦後オックスフォード大学に戻り,53年より69年まで同大学農業経済学研究所所長を務めた。代表的著作《経済進歩の諸条件》(1940)においてクラークは,産業を第1次産業,第2次産業,第3次産業に区分し,経済発展に伴い一国の産業構造の比重が第1次産業より第2次産業へ,ついで第3次産業へ移るという経験法則を発見,〈ペティの法則〉(ペティ=クラークの法則ともいう)と名づけた。ほかに《人口増加と土地利用》(1967)など著書多数。
執筆者:


クラーク
William Smith Clark
生没年:1826-86

アメリカの化学者,教育家。アマースト大学,ゲッティンゲン大学に学び,アマースト大学で教え,マサチューセッツ農学校の校長になった。1876年日本政府の招きで来日し,札幌農学校教頭となり,2人の有能なアメリカ人教授とともに,北海道開拓に必要な人材養成に尽くした。内村鑑三,新渡戸稲造ら多くの人々が彼の残したキリスト教の遺産や科学的精神を自覚的にうけとり,日本の宗教,教育,北海道開拓の指導者となった。札幌滞在8ヵ月の後,77年の離日に際して〈青年よ,大志を抱けBoys,be ambitious〉と言い残した,という。帰国後,学生を船に乗せ,世界を巡遊して教育する計画を立てたが実現せず,鉱山経営にも失敗して,晩年は不遇であった。
札幌バンド
執筆者:


クラーク
Samuel Clarke
生没年:1675-1729

英国国教会の聖職者。ケンブリッジ大学に学び,そこでニュートンの影響を受けた。ノリッジの主教J.ムーアに才能を認められ,彼のチャプレンchaplainとなる(1698)。1704年と05年に二つのボイル・レクチャー(物理学者であり清教徒であったR. ボイルの設立した講演)をおこない,J.ロックの経験論に反論を加えた。06年ロンドンのセント・ベネット教会,09年ピカデリーのセント・ジェームズ教会牧師となる。彼はニュートンの立場を受けつぎ,ライプニッツと時間と空間の問題をめぐって文通するなど,すぐれた知識人であり聖職者であったが,理神論を批判しつつもそれに共鳴するところをもち,その三位一体論におけるユニテリアン的傾向を問題にされたこともある。
執筆者:


クラーク
Arthur Charles Clarke
生没年:1917-2008

イギリスのSF作家。1956年以後はスリランカに移住,海洋と宇宙を舞台に未来のテクノロジー社会を扱ったシリアスな作品を書き続け,代表作《幼年期の終り》(1953)は人類的視点に立った新しい形而上学として話題を呼んだ。《海底牧場》(1957),《宇宙のランデブー》(1973)などのほか,映画の小説版として書かれた《2001年宇宙の旅》(1968)や科学エッセー《未来のプロフィール》(1962)の著者としても知られている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク
Clark, Helen

[生]1950.2.26. ハミルトン
ニュージーランドの政治家。首相(在任 1999~2008)。ハミルトン西のテパフの牧場で育つ。オークランド大学で政治学を専攻して 1971年に学士号,1974年に修士号を取得し, 1973~81年同大学で教鞭をとった。1971年にニュージーランド労働党に入党し,1981年の議会選挙で初当選した。1987年に労働党のデービッド・ロンギ首相のもとで住宅大臣,自然保護大臣,労働大臣,保健大臣を歴任した。1993年に労働党党首に選出され,ニュージーランドの主要政党で初の女性党首として議会で野党代表を務めた。1999年の議会選挙で労働党が勝利し,労働党連立政権が成立すると首相に選出され, ニュージーランドで初めての選挙によって就任した女性首相となった。みずから芸術文化大臣を兼務したほか,女性 11人とマオリ系(→マオリ族)4人を含む多様な顔ぶれの内閣を樹立し,マオリ系の権利問題,同性愛者の事実婚,売春(2003合法化)など論争の的となる多数の政策課題に取り組んだ。米英主導のイラク戦争には反対の姿勢をとった。2002,2005年と,ニュージーランドでは初めて 3期連続で首相を務めた。不景気に見舞われた 2008年の選挙で,与党労働党がジョン・キー率いるニュージーランド国民党に敗退したのをうけて首相と党首を辞任。2009年に国連開発計画 UNDP総裁に任命された。1986年にデンマーク平和財団から平和賞を贈られ,2009年 ニュージーランド勲章を授与された。

クラーク
Clarke, Samuel

[生]1675.10.11. ノーウィッチ
[没]1729.5.17. レスター
イギリスの神学者,哲学者。ケンブリッジ大学でデカルト哲学を修め,同時にそこで知ったニュートンの物理学の新説を深く研究し,その流布に貢献したが,またニュートンにも影響を与えた。彼は神の存在の証明を可能なかぎり数学的方法によって行おうとし,また道徳の原理は数学的命題と同程度に確実なものであるから理性だけでも知りうるとした。このような考えは 18世紀イギリスの思想に大きな影響を与え,D.ヒュームによる宗教批判なども,部分的にはクラークのこうした神の存在証明に対する不満から出発したものである。また道徳哲学におけるその主知主義的な理論は W.ウォラストンや R.プライスらによって支持された。 1715~16年に自然哲学の原理と宗教との関係について G.ライプニッツと論争が起り,その書簡は 17年にまとめて公刊された。主著"A Demonstration of the Being and Attributes of God" (1705) ,"A Discourse concerning the Unchangeable Obligation of Natural Religion" (06) ,"The Scripture Doctrine of the Trinity" (12) 。

クラーク
Clarke, Sir Arthur.

[生]1917.12.16. イギリス,マインヘッド
[没]2008.3.19. スリランカ,コロンボ
イギリスの SF作家。フルネーム Sir Arthur Charles Clarke。 1945年今日ある通信衛星を予見,近未来を扱った『地球光』 Earthlight (1955) ,『渇きの海』A Fall of Moondust (1961) などのほか,彼の短編をもとにしたスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』 2001: A Space Odyssey (1968) の制作に協力。また海洋に興味をもち,1956年スリランカのコロンボに居を構えてダイビングによる探査に従事,写真やレポートを発表,資源問題を掘り下げた小説『海底牧場』 The Deep Range (1957) などを書いた。ほかに『幼年期の終わり』 Childhood's End (1953) ,『宇宙のランデブー』 Rendezvous with Rama (1973,ネビュラ賞,ヒューゴー賞) ,『楽園の泉』 The Foutains of Paradise (1979,ネビュラ賞,ヒューゴー賞) など。

クラーク
Clark, John Bates

[生]1847.1.26. ロードアイランド,プロビデンス
[没]1938.3.21. ニューヨーク
アメリカの経済学者。アマースト大学卒業後ドイツに留学 (1872~75) ,K.クニースを中心に歴史学派に学ぶ。帰国後カールトン大学,スミス・カレッジ,アマースト大学教授を経て 1895年コロンビア大学教授,1923年同名誉教授。この間 1893~95年アメリカ経済学会会長,1911年以降カーネギー国際平和財団の経済・歴史部門理事。アメリカにおける限界革命の遂行者となり,今日のアメリカ経済学の隆盛の基礎を築いた一人。処女作『富の哲学』 The Philosophy of Wealth (86) 以来,調和的社会観に基づく独自の限界効用理論を展開し,主著『分配論』 The Distribution of Wealth (99) で限界生産力説,特に完全分配定理の初期の包括的定式化を行なった。ほかに『独占問題』 The Problem of Monopoly (1904) ,『経済理論の本質』 Essentials of Economic Theory (07) など著書多数。

クラーク
Clark, Joe

[生]1939.6.5. ハイリバー
カナダの政治家。首相(在任 1979~80)。本名 Charles Joseph Clark。アルバータ大学で 1960年歴史学の学士号,1973年政治学の修士号を取得。1957年から進歩保守党の支持者として政治活動に携わり,1962~65年進歩保守学生連盟の全国委員長,1967~70年同党党首ロバート・スタンフィールドの秘書を務めた。1972年の選挙で下院議員に初当選し,1976~83年進歩保守党党首を務めた。1979年の選挙で進歩保守党が第一党となり,カナダ史上最年少の首相に就任したものの少数与党内閣だったため,半年後に予算問題で不信任案が可決され,解散に追い込まれた。翌 1980年の選挙ではピエール・エリオット・トルドー率いる自由党に敗北。1984年にマルルーニー政権が誕生すると,1984~91年外務大臣,1991~93年枢密院議長を歴任。1993年に政界から離れたが,1998年に再び進歩保守党党首に選出され,2000年に下院議員に復帰した。2004年に議員を引退。2006年にマギル大学発展途上地域研究センター教授に就任した。

クラーク
Clark, Colin Grant

[生]1905.11.2.
[没]1989.9.4.
イギリスの経済学者。オックスフォード大学卒業後,ハーバード大学の助手を経て,1931~37年ケンブリッジ大学で統計学を講義。その後オーストラリアに渡り,メルボルン,シドニーなどの大学の客員講師をつとめるかたわら,労働産業省次官,産業局長,クイーンズランド財務省顧問などの官職を歴任。 53年帰国してオックスフォード大学農業経済学研究所所長に就任。国民所得の統計的実証的研究の世界的権威で,特に主著『経済進歩の諸条件』 The Conditions of Economic progress (1940) のなかで展開した,第1次,第2次,第3次産業の区分と,経済発展に伴う産業構造の重点の移行の実証は有名。これは W.ペティの発見した経験法則を再確認するものであり,その後の経済発展研究を,1人あたりの国民所得の上昇をその背後の産業構造の変化によって説明するという方向へ導いた (→ペティ法則 ) 。

クラーク
Clark, Walter van Tilburg

[生]1909.8.3. メーン,イーストオーランド
[没]1971.11.10. ネバダ,レノ
アメリカの小説家。少年時代をネバダでおくり,ネバダ大学,バーモント大学を卒業後,教職を経て作家生活に入った。西部を舞台にしながら,いわゆる西部物にみられる類型的人物に人間的解釈を加え,独創的な鋭い洞察に富んだ悲劇的作品を著わした。 1885年に起ったリンチ事件に取材した『オックスボウ事件』 The Ox-Bow Incident (1940) は,1942年に映画化されて好評を博した。代表作に T.ウルフの作品に比せられる『震える群葉の町』 The City of Trembling Leaves (45) ,超自然的な猛獣の追跡を扱った象徴的な作品『ピューマの足跡』 The Track of the Cat (49) ,短編集『警戒する神々』 The Watchful Gods (50) 。ほかに詩集がある。

クラーク
Clark, John Maurice

[生]1884.11.30. マサチューセッツ,ノーサンプトン
[没]1963.6.27. コネティカット,ウェストポート
アメリカの経済学者。 J.B.クラークの子。 1905年アマースト大学卒業後コロラド,アマースト,シカゴ,コロンビアの各大学で教鞭をとり,第2次世界大戦中は物価安定局をはじめ多くの官職をつとめた。 35年アメリカ経済学会会長。アメリカ制度学派の一人であるが,同時に加速度原理の体系的説明者としても高く評価され,また晩年は有効競争の概念を展開した『有効競争の理論』 Competition as a Dynamic Process (1961) を著わすなど,理論の分野においても大きな貢献をした。ほかに『間接費の経済理論』 Studies in the Economics of Overhead Costs (23) など著書多数。

クラーク
Clark, William Smith

[生]1826.7.31. マサチューセッツ,アッシュフィールド
[没]1886.3.9. アマースト
アメリカの教育家で化学鉱物学者。アマースト大学卒業後,ドイツ,ゲッティンゲン大学で博士号を取得。帰国後,母校の教授などを経て,1867年マサチューセッツ農科大学の学長に就任。 76年,北海道開拓使長官黒田清隆に招かれて来日。北海道大学の前身である札幌農学校の草創期に教頭として活躍した。8ヵ月という短期間に,キリスト教的感化によって佐藤昌介,大島正健,中島信之,内村鑑三新渡戸稲造,宮部金吾などの直接間接の弟子を育成した。決別に際して学生たちに残した"Boys,be ambitious"という言葉とともに,その徳化は長く日本の教育界に伝えられている。帰国後は不遇のうちに過した。

クラーク
Clarke, Frank Wigglesworth

[生]1847.3.19. ボストン
[没]1931.5.23. ワシントンD.C.
アメリカの地球化学者。ハーバード大学で化学を学ぶ。コーネル大学助手 (1869) 。ボストン歯科大学化学講師 (70) 。ハーバード大学化学および物理学教授 (73) 。シンシナティ大学教授 (74) 。合衆国地質調査所主任化学者 (83~1924) 。火成岩,堆積岩,海底堆積物などの分析値から,地殻の化学的組成を推定し,地下 16kmまでの元素を重量百分率で示したクラーク数 (→元素の存在度 ) で知られる。クラーク数そのものは,彼の地殻の定義が不明確であったため,現在はあまり用いられていないが,彼の業績は地表近くの化学過程を解明する基礎を与えたものとして評価される。著書『地球化学のデータ』 Data of Geochemistry (1908) 。

クラーク
Clark, Sir Kenneth

[生]1903.7.13. ロンドン
[没]1983.5.21. ケント
イギリスの美術史家。オックスフォード大学で美術史を学んだのち,フィレンツェに渡って B.ベレンソンに師事しイタリア美術を研究。 1934年より 11年間ロンドンのナショナル・ギャラリーの館長。 46~50年,61~62年オックスフォード大学教授。 53~60年までアーツ・カウンシル会長。ロンドン図書館長などの要職を歴任し,69年に貴族に叙せられた。主著は『ゴシックの復興』 Gothic Revival (1928) ,『レオナルド・ダ・ビンチ』 (39) ,『風景画論』 Landscape into Art (49) ,『ザ・ヌード』 The Nude (56) ,『レンブラントとイタリア・ルネサンス』 Rembrandt and the Italian Renaissance (66) 。

クラーク
Clark, Barrett Harper

[生]1890.8.26. トロント
[没]1953.8.5. ニューヨーク
アメリカの演劇学者,劇評家。シアター・ギルドの文芸部や『ドラマ・マガジン』誌編集の仕事にたずさわるかたわら,多くの著書,編書を出版。主著『現代フランスの劇作家』 Contemporary French Dramatists (1915) ,『今日の英米演劇』 British and American Drama of Today (15) ,『ユージン・オニール,人と作品』 Eugene O'Neill,the Man and His Plays (29,増補版 47) ,『ヨーロッパ演劇理論』 European Theories of the Drama (47) など。

クラーク
Clark, Mark Wayne

[生]1896.5.1. ニューヨーク,マジソンバラックス
[没]1984.4.17. サウスカロライナ,チャールストン
アメリカの陸軍軍人,大将。 1917年陸軍士官学校卒業,第1次世界大戦に参加。第2次世界大戦では,42年 D.アイゼンハワー司令官代理として,連合軍の北アフリカ進攻作戦中,各連合国軍との折衝に活躍。 43年1月からイタリアでアメリカ第5軍の司令官となり,ローマ入城を果した。 44年第 15軍団の司令官となり,45年5月北イタリアでドイツ軍を降伏させた。大戦後勃発した朝鮮戦争では,M.リッジウェーの後任として,52年5月在韓国連軍最高司令官に就任。 53年7月の休戦協定締結まで,司令官として韓国政府との交渉および軍事面に活躍した。

クラーク
Clarke, Charles Cowden

[生]1787.12.15. ミドルセックス,エンフィールド
[没]1877.3.13. ジェノバ
イギリスの批評家。キーツの友人。『チョーサー物語』 Tales from Chaucer (1833) ,『シェークスピアの劇中人物』 Shakespeare Characters (63) などの著書があり,夫人メアリーとの共著に『作家の思い出』 Recollections of Writers (78) ,『シェークスピアを開く鍵』 The Shakespeare Key (79) がある。夫人は『シェークスピア全用語索引』 Complete Concordance to Shakespeare (44~45) の編者として有名。

クラーク
Clark, Alvan Graham

[生]1832.7.10. マサチューセッツ,フォールリバー
[没]1897.6.9. マサチューセッツ,ケンブリッジ
アメリカ合衆国の天文学者。父と兄弟とで天体望遠鏡の製作会社を経営。1897年,当時世界最大口径の 40インチ (約 102cm) のレンズを製作,シカゴ大学ヤーキズ天文台に納めた。1862年にはシリウスの伴星白色矮星のシリウスB)を発見し,フランスの科学アカデミーからラランデ賞を受賞した。

クラーク
kulak

「げんこつ」を意味するロシア語。ロシアの富農をさす。 1861年の農奴解放 (→農奴解放令) 以後階級として形成され,十月革命以前には農村ブルジョアジーとして大きな勢力をふるっていた。革命後ソビエト政権は各地に貧農委員会を組織してクラーク撲滅をはかったが,ネップ (→新経済政策 ) 期にその政策は一時中断された。 1920年代後半からの急激な集団化のなかで急速に消滅した。

クラーク
Clark, Francis Edward

[生]1851.9.12. カナダ,ケベック
[没]1927.5.25.
アメリカの会衆派教会牧師。キリスト教青年運動の指導者。ポートランド教会牧師 (1876) ,フィリップ教会牧師 (83) を歴任。「統一キリスト者共励協会」 United Society of Christian Endeavorを組織し (81) ,青年運動を各地に広め,のちに国際的な組織となった「世界キリスト者共励協会」 World's Society of Christian Endeavorの会長をつとめた (87) 。

クラーク
Clark, Edward Warren

[生]1849
[没]1907
御雇外国人。勝安芳 (→勝海舟 ) の依頼で,1871年来日,3年間静岡藩の教師をつとめ,次いで 73~74年東京開成学校の教師をつとめた。 75年いったん帰国,再び来日して勝安芳から『幕府始末』を聞き,また『勝安房伝』 Katz Awa,the Bismark of Japan (1904) を著わした。ラトガース大学出身,W.グリフィスの同級生であった。

クラーク
Clark, William

[生]1770.8.1. バージニア,カロライン
[没]1838.9.1. ミズーリ,セントルイス
アメリカの軍人,探検家,行政官。 1789年軍隊に入り,対インディアン戦闘に従軍。 M.ルイスとともに「ルイス=クラーク探検」に着手。 1803年以来3年を費やしてミズーリ,コロンビア両川流域を経て太平洋岸にいたる道程を調査。晩年,ルイジアナ地方のインディアン監督官,ミズーリ地方の総督を歴任。

クラーク
Clark, Abraham

[生]1726.2.15. ニュージャージー,エリザベスタウン
[没]1794.9.15. ニュージャージー,エリザベスタウン
アメリカ独立革命期の政治家。独立宣言署名者の一人。 1776年ニュージャージー植民地から大陸会議代表に選出された。 87年フィラデルフィア合衆国憲法制定会議に出席。 91~94年連邦下院議員として活動。

クラーク
Clarke, Jeremiah

[生]1674頃.ロンドン
[没]1707.12.1. ロンドン
イギリスの作曲家,オルガニスト。初め王室礼拝堂の聖歌隊歌手をつとめた。 1692年ウィンチェスター・カレッジ,95年セント・ポール大聖堂,1704年王室礼拝堂の各オルガニストに任命された。アンセン,オード,付随音楽,チェンバロなどの作品があるが,チェンバロ曲『デンマーク王子の行進曲』 (別名『トランペット・ボランタリー』) が有名。

クラーク
Clarke, Alexander Ross

[生]1828.12.16. サザンランドシャー
[没]1914.2.11.
イギリスの測地学者。簡単な三角測量の方法を考案し,1861年,イギリスで最初の測地学的調査の結果を刊行した。なお扁平楕円体としての地球の長径,短径を計算 (1866) ,のちに測地学,物理学国際連合でこの数値が採用された。著書『測地学』 Geodesy (80) は最もすぐれた測地学の教科書として多くの国で使用された。

クラーク
Clark, George Rogers

[生]1752.11.19. バージニア,シャーロッツビル
[没]1818.2.13. ケンタッキー,ルイビル近郊
アメリカ独立戦争期のバージニア民兵司令官。1774年ダンモア卿戦争に参加。独立戦争ではバージニア民兵を率い,アレガニー山脈の西部を転戦して戦功を立て,戦後は北西部の土地割当て業務やインディアンとの交渉にあたった。

クラーク
Clark, William Andrews

[生]1839.1.8. ペンシルバニア,コネルスビル
[没]1925.3.2. ニューヨーク
アメリカの産業資本家,政治家。 1863年以来コロラドおよびモンタナ地方で鉱山を経営。 99~1900年モンタナ州選出の連邦上院議員となったが選挙詐欺行為の疑いで告発された。上院調査委員会から合法性の結論を得たが辞職。 01~07年再度連邦上院議員。

クラーク
Clarke, John

[生]1609.10.8. サフォーク,ウエソープ
[没]1676.4.28. ロードアイランド,ニューポート
アメリカのバプテスト派牧師。 1637年イギリスからボストンに移住し,39年ロードアイランド植民地建設に参加。 51~64年イギリスでロードアイランドの立場を弁護し,その自由主義的な政治機構を維持して本国の干渉を防ぐことに努力した。

クラーク
Clarke, Edward Daniel

[生]1769.6.5. サセックス,ウィリングトン
[没]1822.3.9. ロンドン
イギリスの鉱物学者,旅行家。ヨーロッパから小アジアまで旅行し,鉱物や古代の遺物を収集,またその見聞録を刊行。最初のケンブリッジ大学鉱物学教授 (1808) 。

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大学事典 「クラーク」の解説

クラーク
William Smith

札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭。アメリカ,マサチューセッツ州生まれ。アムハースト・カレッジ卒業後,ドイツで博士号を取得。アムハースト・カレッジの化学教授在職中,南北戦争で武勲を輝かす。1867年モリル法によって創設されたマサチューセッツ農科大学の初代学長に就任。その手腕により,同大学は全国的に注目される。1876年(明治9)学長在職中に日本政府の招きで札幌農学校の創設に尽力。わずか9ヵ月余の滞在にもかかわらず,アメリカの農科大学のモデルを定着させ,農学校の基礎を確立した。付属農園長として実験農場を経営管理し,北海道の経済発展にも寄与。「Be gentleman!(紳士たれ)」を教育方針に据え,キリスト教に基づく徳育を開拓使長官黒田清隆と激論の末黙認させた。酒・煙草,食欲・情欲の抑制,実地に沿った指導と人格教育,兵式教練や運動会の実施など,自ら行動で示した教導により,生徒たちに多大な感化を与えた。帰国時に残した「Boys, be ambitious!(少年よ,大志を抱け)」は有名。直接指導を受けていない新渡戸稲造,内村鑑三など有為な人材を輩出したことにも影響力は及ぶ。
著者: 杉谷祐美子

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百科事典マイペディア 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク

英国の美術史家,評論家。ロンドン生れ。オックスフォード大学で学んだ後,フィレンツェでベレンソンに師事し,ルネサンス美術を研究する。1933年から1945年までロンドンのナショナル・ギャラリーの館長,その後もアーツ・カウンシルの議長を務めたり,美術に関するテレビ番組の制作に参加するなど,美術界全般にわたって指導的役割を果たした。主な著作に《ゴシック・リバイバル》(1925年),《レオナルド・ダ・ビンチ》(1939年),《風景画論》(1949年),《ザ・ヌード 裸体芸術論》(1956年)がある。また,収集家としても優れた見識を備えており,ヘンリー・ムーアやビクター・パスモアなど同時代の芸術家たちの無名時代を支えた。

クラーク

英国の経済学者,統計学者。産業を農林漁業等の第一次産業,鉱工業等の第二次産業,サービス業等の第三次産業に分け,国民所得の増大,経済の発展につれ第二次,第三次へと産業の重点が移行することを統計的に実証した(ペティの法則)。主著《経済進歩の諸条件》。
→関連項目産業分類

クラーク

米国の経済学者。コロンビア大学教授。ドイツ歴史学派の影響も受けたが,限界効用学派の立場から限界理論を生産と分配の全分野に適用し,資本の限界生産力が賃金や利子を決定するという分配論を展開し(《富の分配》),アメリカ近代経済学の創始者となった。競争や独占の経済制度を究明した制度学派のジョン・モーリス・クラーク〔1884-1963〕は彼の子。
→関連項目限界生産力説利子

クラーク

ロシア農村の富裕な層。ロシア語の原意は拳(こぶし)。もともと高利貸,投機業者などをさしたが,1890年代以降は他人を搾取する富農を意味するようになり,20世紀初頭に全農家数の5分の1に及んだとされる。ロシア革命後,1920年代末に穀物調達に失敗したソビエト政権は,1929年以降全面的な農業集団化を打ち出し,〈階級としてのクラークの絶滅〉の方針をとった。その結果,資産をコルホーズに没収され,収容所送りになった者も少なくない。

クラーク

米国の科学者,教育家。アマースト農業大学の初代学長(1867年―1878年)。その間1876年―1877年招かれて札幌農学校(北海道大学の前身)教頭として滞日。そのキリスト教精神は内村鑑三新渡戸稲造らに影響を与えた。別離の言葉〈少年よ大志を抱け〉は有名。

クラーク

英国のSF作家。科学者としての啓蒙的な著作も多い。《幼年期の終り》(1953年)は初期の代表作。《ラーマとのランデブー》(1973年)にはじまる連作,《楽園の泉》(1979年)など。映画《2001年宇宙の旅》(1968年)の原案でも名高い。
→関連項目SF

クラーク

米国の天体望遠鏡製作者。1846年2子と光学器械の会社をつくりワシントン天文台(口径66cm),プルコボ天文台(76cm)等の屈折望遠鏡を製作。子オルバン・グレアム・クラーク〔1832-1897〕は父の仕事を継いでリック天文台(91cm),ヤーキス天文台(102cm,世界最大)の屈折望遠鏡を製作。また1862年自作の望遠鏡でベッセルの予言したシリウスの伴星を発見。

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朝日日本歴史人物事典 「クラーク」の解説

クラーク

没年:1886.3.9(1886.3.9)
生年:1826.7.31
アメリカの教育者。明治初期来日したお雇い外国人教師。マサチューセッツ州の医師アサートンと妻ハリエット・スミスの子に生まれた。アマースト大学,ドイツ・ゲッチンゲン大学に学び化学,鉱物学を専攻。帰国後,アマースト大の化学教授となり15年間勤務。この間,北軍士官として2年間南北戦争に参加。1867年,マサチューセッツ農科大学長に就任。明治9(1876)年,北海道開拓使の招きで来日。札幌農学校(北海道大学)の初代教頭として実験農場での実際的教育,聖書に基づく人格教育をめざす。翌年帰国に際し,「少年よ,大志を抱け」と学生を励ました。わずか8カ月余りの期間であったが,彼の教育者としての能力が最高度に発揮され,1期生から佐藤昌介(のちの北海道帝国大学長),内田瀞(北海道農業の基礎確立の功労者),直接教えてはいない2期生からも内村鑑三,新渡戸稲造ら日本を代表するクリスチャンを生む。帰国後は鉱山事業に失敗し,晩年は不遇。

(吉家定夫)


クラーク

没年:1907.6.5(1907.6.5)
生年:1849.1.27
明治初期に来日したアメリカ人教師。化学者にして宣教師。ニューハンプシャー生まれ。明治4(1871)年,静岡県に外人教師を招く際,勝海舟の斡旋で福井・明新館で教えていたグリフィスの友人クラークが選ばれた。契約書のなかに宣教を禁じる項があったが,岩倉具視の計らいで,静岡学問所で英学と自然科学を教えながら,自宅に学生を招いて伝道にも尽くした。こうした宣教はのち,山路愛山,山中共古(笑)らを育む静岡バンドになっていった。また『自由の理』の訳者中村正直に感化を与え,その序文を書いた。そこで政府の中央集権政策を批判している。同6年東京開成学校に移り化学,バイブルを教える。<著作>飯田宏訳『日本滞在記』

(芝哲夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

化学辞典 第2版 「クラーク」の解説

クラーク
クラーク
Clarke, Frank Wigglesworth

アメリカの地球化学者.ハーバード大学のローレンス科学校で化学を学ぶ.1874年からシンシナチ大学の化学と物理学の教授になる.1883年にはアメリカ地質調査所(ワシントンD.C.)の主任化学者に任じられ,1924年の引退まで勤めた.かれの指導のもとに何千という岩石,水,大気が分析され,地表近くの化学過程が解明された.データは“地球化学データ”The Data of Geochemistry(初版1908年,第5版1924年)にまとめられた.とくに地表から10マイル(約16 km)の平均化学組成を試算し,元素の地殻存在度を推定したことは有名(クラーク数のはじまり)である.これらの業績から,かれは,地球化学の創始者の一人といわれる.アメリカ化学会の設立にも貢献した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「クラーク」の解説

クラーク Clark, William Smith

1826-1886 アメリカの教育者。
1826年7月31日生まれ。母校のアマースト大教授をへてマサチューセッツ農科大学長。明治9年(1876)開拓使にまねかれ,札幌農学校(現北大)初代教頭となる。キリスト教にもとづく人格教育をおこない,内村鑑三,新渡戸稲造(にとべ-いなぞう)らに影響をのこした。10年帰国。1886年3月9日死去。59歳。マサチューセッツ州出身。
【格言など】少年よ,大志を抱け

クラーク Clark, Edward Warren

1849-1907 アメリカの教育者。
1849年1月27日生まれ。グリフィスの推薦で明治4年(1871)来日。勝海舟(かいしゅう)の招きにより静岡学問所で英学,物理,化学を,6年開成学校(現東大)にうつり化学をおしえた。8年帰国,牧師として活動。1907年6月5日死去。58歳。ニューハンプシャー州出身。ラトガーズ大卒。著作に「日本滞在記」「勝安芳(やすよし)」など。

クラーク Clarke, Edward Bramwell

1874-1934 イギリスの教育者。
明治7年1月31日横浜生まれ。ケンブリッジ大卒業後,明治30年日本にもどり,慶応義塾,一高,三高,京都帝大などで英語,英文学を講義。ケンブリッジ大ラグビー選手の経験をいかし,慶応義塾の学生に日本ではじめてラグビーをおしえた。昭和9年4月28日京都で死去。60歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「クラーク」の解説

クラーク
William Smith Clark

1826.7.31~86.3.9

アメリカの植物学者・教育者。アマースト大学卒。母校で教授。マサチューセッツ農科大学学長。1876年(明治9)御雇外国人として札幌農学校に招かれ,1年間教頭を務める。帰国の際に,見送りの人々に「Boys, be ambitious」(青年よ,大志を抱け)と言い残したことで知られる。キリスト教にもとづく全人教育と,理論と実地を重視する科学的農業教育を主眼とした。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「クラーク」の解説

クラーク
William Smith Clark

1826〜86
アメリカの科学者・教育家
マサチューセッツ州立農科大学学長時代に開拓使の招きで1876(明治9)年に来日。札幌農学校教頭として約8か月の在職中,キリスト教精神とアメリカ式教育により大きな成果をあげた。弟子に内村鑑三・新渡戸稲造らがいる。別離に際して残した,"Boys,be ambitious!"(少年よ大志を抱け)の言葉は有名。

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旺文社世界史事典 三訂版 「クラーク」の解説

クラーク
kulak

ロシア農村の富農階級
ロシア農業の資本主義的発展のにない手となった農村ブルジョワ層で,19世紀末には全農民の20%に達し,十一月革命ではその多くは反革命の立場で,ソ連政府に弾圧されたが,ネップ時代に復活した。しかし,ソヴィエト政権は1929年,クラーク絶滅計画をうちだし,30年代前半の農業コルホーズ化政策によってほぼ完全に消滅した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「クラーク」の解説

クラーク
kulak

ロシア語の原意は「握り拳」。ロシア革命後のソ連農村の富農をさす。ソヴィエト政府はクラークの成長抑制政策をとっていたが,1929年その撲滅を決定し,財産を没収して辺境へ追放した。

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デジタル大辞泉プラス 「クラーク」の解説

クラーク

《Clark》MLBに加盟するプロ野球チーム、シカゴ・カブスのチーム・マスコット。カブス初の公式マスコットとして2014年に登場。モチーフはクマ。

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367日誕生日大事典 「クラーク」の解説

クラーク

生年月日:1804年3月8日
アメリカの天文機械製造家
1887年没

クラーク

生年月日:1847年1月27日
アメリカの経済学者
1938年没

クラーク

生年月日:1884年11月24日
オランダの建築家
1923年没

クラーク

生年月日:1884年8月17日
アメリカの化学者
1964年没

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世界大百科事典(旧版)内のクラークの言及

【産業】より

…これらの総体を産業という。
【分類】
 産業を大きく第1次産業,第2次産業,第3次産業と分類したのは,フィッシャーAllan G.B.Fisherであったが,C.G.クラークはこれに広範な統計的裏づけを与えた。クラークの定義は次のとおりである。…

【産業構造】より

…したがって産業構造のあらわし方は,いろいろな産業分類や,産業指標によるのであり,一義的なものはない。 1940年イギリスの経済学者C.G.クラークは産業を第1次産業,第2次産業,第3次産業の三つに分類し,一国の経済の発展につれて労働人口,所得の比重が第1次産業から第2次産業へ,さらに第3次産業へ移動する(ペティの法則)という歴史的な傾向を実証した。日本についても図のように同じことがいえる。…

【ペティの法則】より

C.G.クラークは,産業を三つの種類に区別して,それぞれ第1次,第2次,第3次産業と名づけた。第1次産業は農業,林業,水産業などから成り,経済発展に伴いその比率は低下し,製造工業を中心とする第2次産業の比率が高まるという現象がみられる。…

【開拓】より

…歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。【岡田 泰男】
[日本]
 日本における耕地の歴史については〈〉〈〉の項目を参照されたい。…

【札幌農学校】より

…同校は75年札幌に移転して札幌学校と改称,さらに翌76年札幌農学校と改称した。アメリカ人教師が指導したが,とくに初代教頭として就任したマサチューセッツ農科大学長W.S.クラークの影響は大きく,技術者のみならず内村鑑三,新渡戸稲造らの思想家を生んだ。その後,1907年に東北帝国大学農科大学となり,18年北海道帝国大学の創設にあたり,その中核として北海道帝国大学農科大学となった。…

【宇宙人】より

…それらの中には炭素のかわりにケイ(珪)素を主成分とし,砂を食べて砂に戻るような異色の生物も含まれており,それが知的生物であるのかどうかついにわからないまま物語は終わる。はたしてどういう生物を知的と認めるかという問題はその後のSFの重要なテーマとなっており,A.C.クラークは,《幼年期の終り》(1953)において,現代人が宇宙文明の中でまだ知的存在に達していないという,思い切った推論を展開した。またオールディスB.W.Aldissは《暗い光年》(1964)で,異なった知性への無理解が生み出す悲劇を扱っており,宇宙人の問題は知性をどうとらえるかという形而上学に発展している。…

※「クラーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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