日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説
ブラウン(James Brown)
ぶらうん
James Brown
(1933―2006)
アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。黒人ボーカリストの代名詞ともいうべきスターであり、1950年代以降、何度か浮き沈みはあったものの、つねに第一線で活動し、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」の称号をほしいままにする人物であった。
ジョージア州メーコンの貧しい家庭に生まれる。10代のころは強盗をはたらき、矯正施設に入れられたこともあった。荒れた生活を救ってくれたのが大好きだった音楽で、仲間のボビー・バードBobby Byrd(1934―2007)と1955年グループを結成し、まずザ・フレームズを名のり、次にフェーマス・フレームズへと発展していった。
ブラウンは当時からゴスペル・ソングに影響されたエネルギッシュなボーカルを得意としていた。1956年に発売されたデビュー作「プリーズ・プリーズ・プリーズ」も、教会の熱狂が最高潮に達したときの高揚感をラブ・ソングへみごとに移しかえたものである。しかしこのころのブラウンは、歌手としての実力はあってもなかなかヒットが出なかった。「プリーズ…」に続くヒットは、2年も後の1958年の「トライ・ミー」で、このバラードはリズム・アンド・ブルース・チャートの1位に輝いた。
1960年代に入り、ブラウンはバンドのリズム改革を始める。当時のリズムの主流はブギ・ウギの流れをくむビートから、よりビートの強い各楽器のリズムが絡みあうアフリカ系ポリリズム(複合リズム)へと変わりつつあった。これがのちにファンクとよばれるものである。ブラウンはこういった黒人音楽の変化を鋭く察知し、自分たちがその先頭に立とうとしたのだった。1960年の作品「シンク」あたりでは、まだその変化ははっきりとはしないものの、「ビウィルダード」(1961)、「プリズナー・オブ・ラブ」(1963)といった得意のバラードをはさみ、1964年のダンス・ナンバー「アウト・オブ・サイト」になると、ブラウンを中心としてすべての楽器や肉声が大中小さまざまな打楽器のアンサンブルのようになった。そして「パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ」(1965)、「コールド・スウェット」(1967)、「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック&プラウド」(1968)などの歴史的なファンク作品を立て続けに発表していった。1970年には、10年後のラップの出現を予言したともいわれる作品「ブラザー・ラップ」に加え、ブラウン・ミュージックの金字塔「セックス・マシーン」が発売されている。
このようなブラウンのヒット曲のアイディアやエネルギーは、すべて黒人社会から吸収したものだった。上記の作品にしても、路上で生活する者たち(「セックス…」)、薬物(「コールド…」)、黒人としての誇り(「セイ・イット…」「ブラザー…」)と、黒人社会の言葉と文化が濃厚に反映されている。ブラウンは、子供のころから培(つちか)われた自立と反逆の精神をもとに、同胞の黒人に対して「仲間よ立ち上がるのだ」と音楽でメッセージを送り続けていたのである。1968年に公民権運動の指導者であったキング牧師が暗殺された際、ブラウンがラジオに登場し、全米の怒れる黒人たちに向かって冷静でいることを訴えたという逸話からも、この時期の彼がどれほど黒人社会で支持されていたかがわかる。
黄金期のブラウンを支えたのがJBズというバック・バンドだった。このバンドには多くのミュージシャンが出入りしたが、そのなかではアルト・サックスのメイシオ・パーカーMaceo Parker(1943― )、トロンボーンのフレッド・ウェズリーFred Wesley(1944― )、ベースのブーツィ・コリンズBootsy Collins(1951― )らが、その後もジョージ・クリントンの傘下に入るなど話題の多い活動をしている。
1970年代に入って、ブラウンの勢いにも少しずつ陰りがみえ始めた。時代はファンクから比べればずっと単調なディスコ・ミュージック・ブームにさしかかり、ブラウンも時代の波にのみ込まれていった。だがこの時期のブラウンを一変させたのが、ラッパーのアフリカ・バンバータだった。バンバータはブラウンを自分たちのルーツであるといい、シングル「ユニティ」(1984)で共演、これが皮切りとなり映画『ロッキー4』(1985、シルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )監督)に使われた「リビング・イン・アメリカ」の大ヒットでふたたびスターの座に返り咲いた。その後、妻への暴行事件による2年間の投獄やセクハラ裁判など、ときおり私生活の暗部が顔を出したが、晩年まで昔と変わらないたくましく力強いステージを続けた。
[藤田 正]
『ジェームス・ブラウン、ブルース・タッカー著、山形浩生訳『俺がJBだ! ジェームス・ブラウン自叙伝』(1993・JICC出版局)』
ブラウン(Clifford Brown)
ぶらうん
Clifford Brown
(1930―1956)
アメリカのジャズ・トランペット奏者。デラウェア州ウィルミントン生まれ。トランペット、ピアノなど多くの楽器奏法に通じる父親から13歳のときトランペットを贈られる。地元のハワード高校でジャズの普及に尽くす音楽教師からトランペット、ピアノなどの楽器奏法、和声法、作曲・編曲法を学び、短期間で才能を発揮する。このころから彼は「ブラウニー」の愛称で親しまれる。
1948年、デラウェア州立大学に奨学生として進学するが音楽学部がなく数学を専攻。近距離にある大都市フィラデルフィアの、クラブでのセッションに参加。トランペット奏者のファッツ・ナバロFats Navarro(1923―1950)、マイルス・デービス、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972)、ドラム奏者のマックス・ローチといった、当時の最新鋭ジャズ・スタイル「ビ・バップ」の若手ミュージシャンたちと共演の機会を得るとともに、尊敬するナバロから激励され彼のスタイルに傾倒する。
1949年トランペット奏者でビ・バップの立役者のディジー・ガレスピーがフィラデルフィア公演を行った際、ブラウンは臨時メンバーに採用された。そのただならぬ才能にガレスピーは驚き、プロ・ミュージシャンへの道を勧める。同年ブラウンはメリーランド州立大学の音楽学部に奨学生として入学、学生バンドに加わって演奏する。1950年交通事故に遭い1年間療養を余儀なくされる。1951年、回復とともに学業を離れプロ・ミュージシャンの道を歩み出す。同年短期間ながらビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共演し、パーカーをも驚嘆させる。1952年ドラム奏者、歌手のクリス・パウエルChris Powellのバンド「ブルー・フレーム」に加わり、初レコーディング(後に、1956年のブラウン最後の演奏とともに『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』(1952~1956)に収録される)を経験する。1953年ニューヨークを訪れ、ブルーノート・レコードのプロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―1987)の勧めにより早速レコーディングを行い『メモリアル・アルバム』(1953)を制作、ブラウンの初リーダー作となる。同年、編曲者・ピアノ奏者タッド・ダメロンTadd Dameron(1917―1965)のバンドに参加。ついでビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、ヨーロッパ・ツアーの折にハンプトンの目を盗んでレコーディングをし、アルバム『パリ・コレクション』(1953)を制作。1954年ドラム奏者アート・ブレーキーのセッションに参加し、ビ・バップを発展、洗練させた形態である「ハード・バップ」の誕生を告げる歴史的アルバム『バードランドの夜』を録音。同年ロサンゼルスでローチと双頭バンドを結成、この年のジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票により、トランペット新人部門第1位に選ばれる。またエマーシー・レコードと専属契約を結び多くの傑作を録音する。1956年フィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故により25歳8か月の生涯を終える。
代表作は『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(1954~1955)、『スタディ・イン・ブラウン』(1955)、『アット・ベイズン・ストリート』(1956)。彼はガレスピー、ナバロらビ・バップ・トランペッター主流派の系譜に連なり、その卓越した演奏技術と輝くような音色はジャズ・トランペッターの理想とまでの高い評価を受けている。彼の率いた双頭バンドは、同時期のマイルス・デービス・クインテットと並んで、ハード・バップ・コンボの定型を作り上げた。また、リー・モーガン、ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)など多くのハード・バップ・トランペッターが彼の影響を受けている。
[後藤雅洋]
ブラウン(Alexander Braun)
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Alexander Braun
(1805―1877)
ドイツの植物学者。レーゲンスブルク生まれ。カールスルーエ、フライブルク、ギーセン、ベルリンの各大学の教授および植物園長を歴任した。淡水産の藻類のほか、とくにいわゆる顕花植物の研究に力を注ぎ、コケ植物の分類学的位置を明らかにしたうえ、裸子植物・被子植物、双子葉植物・単子葉植物の系統上の位置を明らかにした。この見方は同じドイツのアイヒラーAugust Wilhelm Eichler(1839―1887)やエングラーによって受け継がれ、近代的な植物系統分類学の基礎となった。そのほか、シンパーとともに葉序の配列について解析し、古典的に有名なシンパー‐ブラウンの法則を発見した。哲学者F・W・シェリングの自然哲学の影響を受けていたといわれる。
[佐藤七郎]
ブラウン(Robert Brown、植物学者)
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Robert Brown
(1773―1858)
イギリスの植物学者。スコットランドの牧師の子として生まれ、エジンバラ大学で医学を修めて軍医となる。植物学に興味をもち、博物学者バンクスJ. Banks(1743―1820)の推挙でイギリス海軍の探検船に乗り組み(1801~1805)、南アフリカ、オーストラリア、タスマニア地方の植物を調査して約4000種の標本を持ち帰った。ロンドンのリンネ協会の司書(1806~1822)、バンクスの蔵書や標本の管理者(1810~1820)を務めながら、オーストラリアの植物の記載・分類を行った。バンクスの死後、彼のコレクションが大英博物館に遺贈されるに伴い、ブラウンは同博物館植物学部長となり(1827)、死ぬまでその地位にあった。バンクスが残した家に住み、生涯独身であった。新しい属や科を記載することによって植物分類法を改良し、心皮の有無によって被子植物と裸子植物を明確に区別した。1827年、花粉内部の小顆粒(かりゅう)の不規則な運動(ブラウン運動)をみいだし、同様な運動は水中に浮遊する非生物的な微粒子でもみられることを確かめた。1831年には、植物の生細胞中に1個の核があることを明らかにした。
[檜木田辰彦]
ブラウン(Karl Ferdinand Braun)
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Karl Ferdinand Braun
(1850―1918)
ドイツの物理学者。ヘッセン州フルダの生まれ。マールブルクで学んだのち、1872年棒や弦の弾性振動の研究で学位を取得した。ウュルツブルク、ライプツィヒ、マールブルク、カールスルーエ、チュービンゲンの各大学に勤めたのち、1895年ストラスブール大学の物理学教授・物理学研究所所長となった。1874年鉱物性金属硫化物が一方向のみに電流を伝える性質をもつことを発見(鉱石検波器の原理)、1887年にはル・シャトリエと独立に平衡移動の法則に到達した。その後、電磁気学的研究を進め、1897年には陰極線管をもとに各種の電磁現象を調べるブラウン管(オシロスコープ)を発明した。また送信距離に限界をもつヘルツ発振器(火花放電による)の問題点を指摘、変圧効果によりアンテナと発振器とが同調する無線システムをはじめ、傾斜ビームアンテナなどを開発した。1909年マルコーニとともに無線通信の研究によりノーベル物理学賞を受けた。なおラジオ放送に関する訴訟でアメリカに渡ったが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)のため帰国できず、客死した。
[兵藤友博]
ブラウン(Michael Stuart Brown)
ぶらうん
Michael Stuart Brown
(1941― )
アメリカの遺伝学者。ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。ペンシルベニア大学で化学を学び、1962年に卒業、同大学で1966年に医学博士号を取得した。同年ボストンのマサチューセッツ総合病院で内科のインターンとして勤務し、1968年にアメリカ国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)で遺伝病の臨床研究員となった。1971年テキサス大学サウスウェスタン医学校に移り、1974年同校の準教授となり、1976年教授に昇格、1977年遺伝学教授および遺伝病センター所長に就任した。
ともにコレステロールの研究を行ったJ・L・ゴールドステインとは、マサチューセッツ総合病院時代以来の長期間にわたる共同研究者であった。彼らは、生体内でコレステロールが生成される際の酵素の調整作用に注目し、とくに遺伝疾患である家族性高コレステロール血症について研究を進めた。そしてコレステロールの合成が、LDL(low-density lipoprotein、低比重リポタンパク)レセプターによって統御されているメカニズムを解明した。さらに、このメカニズムは遺伝子によってコントロールされ、遺伝子異常が家族性高コレステロール血症を引き起こすことも明らかにした。この業績によってブラウンは、ゴールドステインとともに1985年のノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部]
ブラウン(Herbert Charles Brown)
ぶらうん
Herbert Charles Brown
(1912―2004)
アメリカの化学者。ロンドンに生まれる。2歳のときに両親とともにアメリカのシカゴに移住した。14歳で父を亡くし、苦学してシカゴ大学で化学を学び、1935年にアメリカの市民権を、また1938年に博士号を取得した。シカゴ大学で助手を務めたのち、1943年ウェイン大学に移り1946年準教授になった。翌1947年にパーデュー大学の無機化学教授となり、1978年まで務めた。
ブラウンは、シカゴ大学時代からホウ素の化学的研究に取り組み、水素化ホウ素ナトリウムNaBH4を発見、それが有機化合物に対して優れた還元力をもつことをみいだした。この化合物は、その後広く還元試薬として利用されている。また、ジボランB2H6の簡単な合成法を発見し、さらにジボランを不飽和炭化水素に反応させ、オルガノボランを合成することに成功した。これはハイドロボレーション反応とよばれ、有機合成において大きな利用価値をもつものであった。これらの業績により、1979年にノーベル化学賞を受賞した。ドイツの化学者ウィッティヒとの同時受賞であった。
[編集部 2018年10月19日]
ブラウン(Charles Brockden Brown)
ぶらうん
Charles Brockden Brown
(1771―1810)
アメリカの小説家。アメリカ最初の職業的小説家としてゴシック(恐怖)小説、心理小説を書き、後のポーやホーソンの先駆となった。『ウィーランド』(1798)では腹話術の声に操られた宗教的狂信者が描かれ、『オーモンド』(1799)では、倫理から解放されたと過信した殺人犯が、犯そうとした女に殺される。『エドガー・ハントリー』(1799)では、殺人、夢遊病、精神錯乱、アメリカライオンとの遭遇、インディアン相手の戦いなどが描かれ、次の『アーサー・マービン』(1799、1800)では、フィラデルフィアの黄熱病流行を背景に、殺人、裏切り、誘惑、自殺未遂、病死などが描かれる。そのほか、女性の結婚を扱った『クララ・ハワード』(1801)と『ジェイン・タルボット』(1801)がある。彼の小説は、異常心理、暗い感情の緊張、恐怖、殺人などの犯罪、そのほか異常なできごとの写実的描写を特色とするが、イギリスのW・ゴドウィンの思想と小説からの影響は否めないものの、ヨーロッパ風のゴシック小説からの脱却、S・リチャードソンにみられない知的女性像の創造など、アメリカ小説史上の意義は大きい。だが、小説としてクライマックスに迫力がなく、プロットのまとまりを欠く欠点がある。ほかに『月刊アメリカ評論』『文芸とアメリカの記録』を編集し、自ら短編小説や文芸批評を掲げた。アメリカの短編・批評の先駆者としても重要な存在である。
[松山信直]
『八木敏雄訳『ゴシック叢書10 エドガー・ハントリー』(1979・国書刊行会)』
ブラウン(Gordon Brown)
ぶらうん
Gordon Brown
(1951― )
イギリスの政治家。イギリス北部スコットランドの牧師の家に生まれた。「経済学の父」アダム・スミスの故郷で、リノリウム製造が盛んだった鉱工業都市カーコルディで青少年期を過ごし、エジンバラ大学に入学、歴史学を専攻。入学直前、ラグビー中のけがが原因で網膜剥離(はくり)となり、左目の視力を失ったが、優秀な成績で卒業、後に博士号も取得した。1976年からエジンバラ大学などで講師を務め、1980年にはスコットランド・テレビの記者となった。
サッチャー保守党政権時代の1983年に、労働党から下院議員に初当選。当初はサッチャー政権の国有企業民営化に反対するなど伝統的左派イデオロギーの信奉者だったが、やがて現実主義路線に転換。1997年に、旧来の左翼でもなく、新自由主義でもない「第三の道」を掲げるブレア労働党政権が成立すると、財務相となり、イングランド銀行に金利決定権をゆだねる自由主義的な政策を発表した。イギリス近代史上において、財務相の在任期間は最長を誇る。2007年6月ブレア首相の退任に伴い首相に就任。2008年の経済・金融危機以来、経済・雇用状況が低迷、また財政赤字の削減が進展しないなかで行われた2010年5月の総選挙で大敗し、第一党の座を保守党に明け渡し退陣。
[宮明 敬]
ブラウン(Ernest William Brown)
ぶらうん
Ernest William Brown
(1866―1938)
イギリス出身のアメリカの天文学者。月の運行表の作製者。ハルに生まれ、ケンブリッジ大学でG・ダーウィンに天体力学を学び、1887年卒業。1889年より特別研究員となったが、1891年にアメリカに渡り、ペンシルベニア州立大学で数学教授に就任、1907年にエール大学数学教授に転じた。そして先達者ヒルGeorge W. Hill(1838―1914)の後継として、月の運行の理論的研究に専念し、1919年その計算方法に基づく『月運行表』を編成した。月の運行は摂動の影響を強く受けるので、天体力学のうちでもとりわけ複雑な計算理論を必要とするが、従来の表よりもはるかに精密であった。
[島村福太郎]
ブラウン(Fredric Brown)
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Fredric Brown
(1906―1972)
アメリカのSFと推理小説の作家。オハイオ州シンシナティ市生まれ。SF短編を1941年から書き始めた。軽妙洒脱(しゃだつ)、ぴりっとした風刺とコミックな落ちの利いた作風は当時としては珍しいもので、のちに短編集『天使と宇宙船』(1954)や『未来世界から来た男』(1961)などにまとめられた。短編とショート・ショートの名手であるが、奇抜な着想と巧みなプロット構成は長編においても同様で、異次元テーマの『発狂した宇宙』(1949)、ユーモアSFの『火星人ゴーホーム』(1955)、エーリアン・テーマの『73光年の妖怪(ようかい)』(1961)などの作品がある。SFと並行して推理小説にも手を染め、私立探偵エド・ハンター・シリーズの第一作『シカゴ・ブルース』(1947)でアメリカ推理作家協会賞を受賞し、同シリーズは7編、ほかに15編ほどの長編と短編集『まっ白な嘘(うそ)』(1953)などがある。
[厚木 淳]
『井上一夫訳『73光年の妖怪』(創元推理文庫)』
ブラウン(Sir Thomas Browne、医師、文人)
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Sir Thomas Browne
(1605―1682)
イギリスの医師、文人。ロンドンに生まれ、オックスフォード大学卒業ののち、フランス、イタリア、ドイツの各大学で医学を修める。ヨークシャーで開業後1637年ノリッジへ移る。1671年、医者としての功績でサーの称号を授けられる。旺盛(おうせい)な知識欲と希有(けう)な記憶力の持ち主で、医業のかたわら著述にも励み、『医師の信仰』(1643)など数編の著書がある。『医師の信仰』は信仰と理性の問題を扱い、科学の支配に抗して宗教擁護の立場をとる代表的著作。一般に『迷信論』の名で知られる『伝染性謬見(びゅうけん)』(1646)は、古今の俗間信仰を科学的に、あるいは詭弁(きべん)を弄(ろう)しつつ、博識を駆使して縦横に批判する。偶然発見された骨壺(こつつぼ)をめぐり独自の死生観、霊魂不滅論を展開する『壺葬論』(1658)も、ユニークな主題で注目に価する。しかし、彼の真骨頂は主題の独自性よりも優れた散文スタイルにあり、形而上(けいじじょう)詩に一脈通ずる大胆な措辞は、近年改めて高い評価を受けつつある。
[玉泉八州男]
『堀大司訳『医師の信仰』(『世界人生論全集4』所収・1963・筑摩書房)』
ブラウン(Samuel Robbins Brown)
ぶらうん
Samuel Robbins Brown
(1810―1880)
アメリカの改革派(オランダ系)宣教師。中国と日本で伝道活動をした。1859年(安政6)来日して数か所で教えたのち、一時帰国。再来日して、1873年(明治6)横浜の山手(やまて)にブラウン塾を開き、英学と神学を教えて横浜バンドの青年たち(植村正久や本多庸一(ほんだよういつ)ら)を育成した。
[川又志朗 2018年2月16日]
ブラウン(Robert Browne、会衆派の創始者)
ぶらうん
Robert Browne
(1550ころ―1633)
イングランドの分離主義者Separatistで会衆派Congregationalismの創始者。ケンブリッジ大学での学業のあと、イギリス国教会(イングランド教会)を批判する過激な説教をしたため、数回の投獄を体験する。移住先のオランダで執筆した論文「ためらうことなく改革を」(1582)に「ブラウン主義」と評価される思想を展開した。ここには初代教会への回帰志向が記述されている。教会を自覚的信仰者の自由な交わりと規定し、自律的な教会訓練を施し聖職者を選ぶべきだと考え、敬虔(けいけん)主義Pietismの先駆をなした。のち仲間から離脱し、国教会の叙任を受け(1591)、42年間聖職禄(ろく)を得たが、獄死説もある。
[川又志朗 2018年1月19日]
ブラウン(Thomas Brown、哲学者)
ぶらうん
Thomas Brown
(1778―1820)
イギリスの哲学者。エジンバラ大学教授を務めた。スコットランド常識学派に属するが、ヒューム、ミルらの伝統との中間的立場を代表する。彼は一方で、ヒュームより進んで因果関係を対象間の斉一的継起と断定するが、他方、外的存在の知識の場合と同様、因果的認識を直覚的、本能的な信念で基礎づける。また、筋肉と触覚の感覚を分け、心的能力の別を能力心理学的でなく、心的なできごとの類型の差とみたのも彼の特色である。著作には、ヒュームの因果論の検討(1805)や『人間精神哲学講』(1820)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
ブラウン(Joseph Rogers Brown)
ぶらうん
Joseph Rogers Brown
(1810―1876)
アメリカの機械技術者。ロード・アイランド州のプロビデンスに生まれる。父も機械工場主であった。1853年ブラウン‐シャープ社(2001年ヘクサゴンABグループにより買収)を創立し、有力な工作機械メーカーに発展させた。測定器具や工作機械の改良に貢献したが、ブラウンが設計しブラウン‐シャープ社が製作した機械は、万能割出し台を備え、螺旋(らせん)状の切削操作、歯車の切削、その他の工程に応じられるもので、万能フライス盤として機械工作技術に革命的な影響を与えた。没後、自動歯切り盤が彼の社で製作された。
[山崎俊雄]
ブラウン(John Brown)
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John Brown
(1735―1788)
イギリスの医学者。スコットランドのバーウィックシャー生まれ。エジンバラ大学に入学し、苦学して医学を修めた。同大学の内科学教授カレンWilliam Cullen(1710―1790)の手厚い庇護(ひご)を受けたが、のちにこれに背き、1779年、44歳のときにようやく学業を終えた。1780年に『医学原理』Elementa Medicinaeを著し、独自の医学理論を明らかにした。彼の理論の要点は興奮性ということにあり、生活体はすべてこれを有しており、健康時にはこれが中等度であって、過度か不足のときには病気であると説いた。そして病気の治療には、アヘン剤やウイスキーなどを好んで使用した。
[大鳥蘭三郎]
ブラウン(Nathan Brown)
ぶらうん
Nathan Brown
(1807―1886)
アメリカのバプティスト派の宣教師。来日前はビルマ(現、ミャンマー)とアッサムで22年間伝道し、『新約聖書』のアッサム語訳を完成。1873年(明治6)同派のゴーブルJonathan Goble(1827―1896)とともに来日し、横浜の山手(やまて)に日本最初のバプティスト教会を創立、死去するまで牧師を務めるかたわら、独力で『新約聖書』の日本語訳を進め、ヘボンらの共同訳より早く1880年に完成した。横浜外国人墓地にある墓碑にはGod bless the Japaneseと刻まれている。
[川又志朗 2018年2月16日]