( 1 )さし絵入りの本(冊子)は、絵巻形式を簡便化した、室町末期の奈良絵本を最初とする。
( 2 )一八世紀中葉以後、赤本・青本・黒本などが流行した。特に江戸では、赤本が大量に出版され、後に表紙の色も内容も変化して大人向けの絵本となるが、当時は「草双紙」と呼ばれ、「絵本」は①②の意で用いるのが普通であった。
日本では、古くは絵巻、絵手本、絵草紙(えぞうし)などを絵本と称し、時代の変遷につれ、絵を中心とする子どもの本を意味するようになった。表現形式、内容ともに多様であり、絵のみで表現するものに始まり、絵を柱として数語のことばを添えたもの、絵と文章が対等に補完しあい、一つの物語を語るもの、さらに文章の比重が増え、それに挿絵をつけた絵物語形式のものまで含まれる。取り扱う題材も、昔話や創作の物語に限られず、文字、ことば、自然、科学、社会などあらゆる領域にわたっている。また、グラフィック・アートの発展とともに表現形式、内容が高度化し、読者を子どもに限らず大人をも対象とするようになった。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
子ども時代に始まる読書習慣の形成に関して、だれもが口にするようになった表現であるが、「絵本は、人間の長い読書生活のなかで、初めて出会う本である。子ども時代に、その子が、絵本のなかに楽しみをみいだすかどうかで、生涯、本好きになるかどうか決まる」(ドロシー・ホワイトDorothy Neal White、1915―1995)とさえいわれる。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
遊びに動機や型がないように、幼い子どもが絵本に接することに動機や型はない。のびやかに絵本を眺め、ページをめくり、読み手の声に耳を傾け、笑い、驚き、あるいは考える楽しさで、その子の内面生活が広がっていく。本来子どもの遊びは、体を動かす遊びでも、空想的な遊びでも、自由奔放である。優れた絵本は、子どもを遊ばせ、日常の束縛から子どもを解放する。『ぐりとぐら』(中川李枝子(りえこ)文、大村百合子(ゆりこ)絵・1963)、『わたしのワンピース』(西巻茅子(かやこ)文・絵・1969)、『しょうぼうじどうしゃじぷた』(渡辺茂男文、山本忠敬絵・1966)、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(バートン文・絵、村岡花子訳・1937)、『ひとまねこざる』(レイ文・絵、光吉夏弥訳・1954)、『どろんこハリー』(ジオン文、グレアム絵、渡辺茂男訳・1964)などその例である(括弧(かっこ)内の数字は初版発行年。以下同)。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
子ども時代の特徴は、現実と空想の間を自由に行き来することである。縫いぐるみの動物に話しかけ、花や石に話しかけるのは、相手を自分と同じように生きているとみる幼い時代の感性である。小さな主人公が、森の中で、ライオンやクマやコウノトリやサルやウサギや、そのほかの動物たちに出会い、いっしょにピクニックをしたり、かくれんぼをしたりすることは現実にありえないとしても、『もりのなか』(エッツ文・絵、間崎ルリ子訳・1963)は、読者の子どもを森の中で遊ばせてくれるばかりか、大人の童心をもよみがえらせる。『てぶくろ』(ウクライナ民話、ラチョフ絵、内田莉莎子(りさこ)訳・1965)のように、ネズミやカエルやオオカミやクマなどの大小の動物たちが、森の中に落ちていたたった一つの手袋に入れるはずはないが、読者は、なんの不思議も感じないどころか、動物たちのように手袋の中に入って、暖かさを感じたりする。この秘密は、空想力豊かな画家の絵筆の動きにあり、その表現力が、世にも不思議なできごとをリアルにみせるのであり、この芸術が子どもの空想力を育てる。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
鳥羽(とば)僧正の作といわれる『鳥獣人物戯画』であれ、コールデコットRandolph Coldecott(1846―1886)の絵本であれ、躍動する素描の描き出す姿態と表情、構図と色彩によって、絵がみごとに物語を語る。文字を読めない幼い子どもでさえ、このような優れた絵本を絵によって読むことができる。完成度の高い絵本では、絵と文章が一体となって、物語の起承転結すべてを語る。物語の動きに従い、流れに沿って、絵本は、その感情の起伏やリズムを連結して表現し、流れをとぎらせない。このような絵本は子どもの興味をひきつけて離さない。
子どもに初めて絵本を与えるとき、その何冊かは、混じりけのない、明るい、晴れ晴れとした色の絵本がよい。そして、構図の優れた、明確な線と形。子どもにとって初めての美的経験を色と形で与える。たとえば『ちいさなうさこちゃん』(ブルーナ文・絵、石井桃子・松岡享子(きょうこ)訳・1964)シリーズ。明るい赤、目の覚めるような緑、晴れやかな黄、澄んだ青、混じりけのない白、これに太い黒線で形を与えている。子どもの色彩感覚は、他の感覚同様、与えられたもので育つ。単純明快な色や形の組合せばかりでなく、濃淡の陰影、目もあやな華麗な色彩、力強くよどみのない線、また精緻(せいち)微妙な線にも美しさを感ずるようになる。絵本は、その成長を助ける。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
子どもたちは、素朴な、力強い、そして明るく響きのよいことばを愛する。欧米ではコールデコットの絵本をはじめとして、マザーグースの歌(わらべうた)の絵本で優れたものが多く、幼い子どもたちのための楽しいことばの本としての位置を占めているが、翻訳が困難なため日本にはほとんど紹介されていない。日本の絵本では『かばくん』(中谷千代子絵・1962)をはじめとした岸田衿子(えりこ)(1929―2011)のいくつかの作品、また『ことばあそびうた』(瀬川康男(やすお)絵・1973)をはじめとした谷川俊太郎のいくつかの作品、そして『なぞなぞえほん』(中川李枝子作、山脇百合子絵・1988)などあるが、わらべうたの絵本で、これという作品はまだ生まれていない。これからの課題の一つである。
絵本の主人公がなんであれ、優れた絵本は、絵と文章ともに力があり、生命を感じさせる。優れた文章は、ほんの数行抜き書きしただけでも、この力を感じさせる。たとえば『おおきなかぶ』(ロシア民話、内田莉莎子再話、佐藤忠良絵・1962)における「ねずみが ねこを ひっぱって、ねこが いぬを ひっぱって、いぬが まごを ひっぱって、まごが おばあさんを ひっぱって、おばあさんが おじいさんを ひっぱって、おじいさんが かぶを ひっぱって――うんとこしょ どっこいしょ」がその一例である。
擬音をむやみに使わずに、ことばの意味と語感を生かして簡潔であるのが、よい文章である。そこから快い響き、リズムが聞こえてくる。また、適度の繰り返しも物語の調子を高める。このような文章は、子どもの、ことばに対する感覚を養いながら、物語の世界に引き入れていく。絵本の題材に生命力を吹き込むのは物語性であり、骨組みのしっかりした物語が優れた絵本をつくる。『かにむかし』(木下順二文、清水崑(こん)絵・1959)、『きかんしゃやえもん』(阿川弘之(ひろゆき)文、岡部冬彦絵・1959)、『やまんばのにしき』(松谷みよ子文、瀬川康男絵・1969)などその例である。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
子どもが空想を楽しみ、美しさを楽しむ絵本は、子どもの情感に働きかける。人間の情感は、豊かに揺れ動き、そこに愛が芽生え、詩や文学が生まれ、芸術が育ってきた。『しろいうさぎとくろいうさぎ』(ウィリアムズ文・絵、松岡享子訳・1965)、『ゆきのひ』(キーツ文・絵、木島始訳・1969)などの細やかな愛情、『ねむりひめ』(グリム童話、ホフマン絵、瀬田貞二訳・1963)の神秘感、『11ぴきのねこ』(馬場のぼる文・絵・1967)のユーモアや『わたしとあそんで』(エッツ文・絵、与田凖一訳・1968)の優しさは、子どもの情緒をはぐくむ好例である。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
図鑑や写真集は、子どもの知的好奇心を満足させるが、個性的な絵本は、子ども大人を問わず、知的な楽しみを与えてくれる。『ふしぎなえ』(安野光雅(あんのみつまさ)絵・1971)、『旅の絵本』(同・1977)、『わたし』(谷川俊太郎文、長新太絵・1981)などその好例である。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
日本の絵本の源は、平安時代12世紀前半の絵巻にある。あでやかな色彩で屋内の男女の出会いを描いた『源氏物語絵巻』と、躍動する淡彩の筆の動きで山野の動物の楽しいふるまいを描いた『鳥獣人物戯画』は、最古の物語絵の二大傑作である。同時代後半に、これら2作に比すべき『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』と『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』の傑作が生まれた。
南北朝時代と室町時代の、庶民芸能の勃興(ぼっこう)と発達の流れのなかで、教科書の始祖とも考えられる『庭訓往来(ていきんおうらい)』をはじめとする往来物が書かれ、御伽草子(おとぎぞうし)が流行する。およそ500編を超える通俗的な短編物語が書かれ、その内容も昔話、伝説、冒険談など多種多様であった。室町時代、奈良の絵師たちが、これらの御伽草子を題材として絵巻物に仕立てたり冊子本につくったりして、やがて奈良絵本と呼称されるようになった。絵巻物の御伽草子や絵巻物のサイズをそのままに冊子にした初期の大型本は、上質の紙に能筆で書かれた物語に朱、緑、黄、金銀箔(はく)など用いて極彩色の挿絵を入れた美麗な本で、上流社会の女性の読み物であった。1615年(元和1)から1630年代(寛永)にかけて、これらを模して版本とし、丹緑(たんろく)(朱と緑)の2色、ときには黄を混ぜて、一刷毛(はけ)の手彩色を施して、庶民の手に渡ったのが丹緑本であった。
17世紀に入ると、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)など当時の美術家の手になる豪華な嵯峨本(さがぼん)がつくられ、『嵯峨本伊勢(いせ)物語絵巻』は、初めての挿絵入り文学本となった。嵯峨本に刺激された丹緑本の普及は、江戸での庶民文化の開花とともに赤本を生み出すことになるが、同時に教化的な試みのなかから中村惕斎(てきさい)による『訓蒙図彙(きんもうずい)』(1666)が生まれた。『訓豪図彙』は図解百科の嚆矢(こうし)ともいうべきもので、『人倫訓蒙図彙』を経て、やがて『和漢三才図会(ずえ)』(1713)に集大成される。
17世紀末から菱川師宣(ひしかわもろのぶ)により浮世絵の時代が始まる。師宣は、絵を主、文章を従とし、物語を追いながら絵そのものを楽しむ浮世絵絵本をつくり、日本初の絵本作家となった。そして作品を通じて「浮世絵」という風俗絵画のジャンルを開いた。同じころ中国の絵画をもとにして絵手本もつくられた。17世紀と18世紀の境の40年間が赤本の草創発展の時期であり、とくに享保(きょうほう)時代(1716~1736)が黄金時代といわれる。時代の影響で、有能な絵本作家が、子ども絵本の赤本に競って腕を振るったことも一つの原因である。おもな作家は、近藤清春(きよはる)(生没年未詳)、奥村政信(まさのぶ)、西村重長(しげなが)(1697?―1756)、西川祐信(すけのぶ)、北尾重政(しげまさ)、北尾政美(まさよし)などであった。赤本に続き、表紙の色の変化により黒本(黒色)、青本(萌黄(もえぎ)色)などの草草紙(くさぞうし)が出現し、内容も大人を意識したものに変わり始め、18世紀後半の黄表紙に至ると完全に大人の絵本になる。
またこの時代、同じ絵師たちにより、影絵、目付(めつけ)絵、文字絵、嵌(はめ)絵、両面絵、凧(たこ)絵、判じ絵などの遊び絵、あるいはおもちゃ絵のジャンルが始められた。
そのほか、正統的な画本や、華美な装飾風の錦絵(にしきえ)の伝統なども、古来の絵本芸術を形成する重要な部分であるが、黄表紙、読本(よみほん)などの庶民芸術のなかから、葛飾北斎(かつしかほくさい)の『北斎漫画』『絵本冨嶽(ふがく)百景』、歌川広重(ひろしげ)の『絵本江戸土産(みやげ)』その他数多くの傑作浮世絵絵本が生まれた。北斎は「画を好む児童の為(ため)にとて、成し安き彩色のみをくり出して一小冊となし」と『絵本採色通(さいしきつう)』を子どもに贈り、広重も子ども向きの絵手本『草筆画譜』をまとめ、多くの双六(すごろく)やおもちゃ絵「新板かげぼしづくし」などを描いた。また同時代の歌川国芳(くによし)は、おもちゃ絵、武者絵の奔放な傑作を多くものし、幕末の武者絵本に影響を与えた。
江戸時代の子どもの本は、これまでに触れた往来物、絵手本、武者絵本、おもちゃ絵、そして赤本以来続く物語絵本であった。この最後の形式が『桃太郎』『花咲爺(はなさかじじい)』『猿蟹(さるかに)合戦』『かちかち山』『舌切り雀(すずめ)』の、いわゆる五大咄(ばなし)や、『文福茶釜(ちゃがま)』『金太郎』などの昔話を送り続け、明治に引き継がれる昔話絵本の典型となった。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
江戸時代から引き継がれたおもちゃ絵の伝統は、明治の文明開化の流れのなかで、西洋印刷術の導入や国民教育の開始と相まって教育錦絵となり、教科書の補助教材として重用された。また洋画法を教える絵手本も図画の教科書として採用された。
1885年(明治18)五大咄をはじめ数多くの日本昔話が、B・H・チェンバレン、フローレンツKarl Florenz(1865―1939)など在日外国人の訳文で小林永濯(えいたく)(1843―1890)その他の挿絵を添え、長谷川武次郎(はせがわたけじろう)(1853―1938)経営の弘文堂から、外国人の土産(みやげ)用に縮緬本(ちりめんぼん)として出版されたのは、絵本史のうえからも翻訳史のうえからも特筆に値する。また挿絵の側面からも重要なのは、イギリスの児童誌『リトル・フォークス』をモデルにした『少年園』(1888)、アメリカの『ヤング・ピープル』をモデルにした『少国民』(1889)の2冊の児童雑誌が相ついで発刊されたことで、小林清親(きよちか)、武内桂舟(けいしゅう)らの優れた画家が挿絵をつけた。
明治中期以降の石版、網目写真版、三色刷、亜鉛版(ジンク版)印刷など新しい印刷術と挿絵技法の関連する発展過程のなかで、子どもの本の挿絵が特別の分野として考えられるようになった。また内容的には、巌谷小波(いわやさざなみ)を先導とする児童文学の隆盛が挿絵の進歩にも大きく影響した。小波の処女作『こがね丸』の武内桂舟の口絵に始まり、小波編集の『少年文学叢書(そうしょ)』『日本昔噺(むかしばなし)』『少年世界』などに挿絵をかいた清親、鏑木清方(かぶらききよかた)その他当時の著名な画家の仕事が大きな刺激となり、多くの画家が『少年知識画報』『少女知識画報』『幼年画報』などに画筆を振るい、『幼年画報』からは、独立した小型の絵本、中西屋の『日本一ノ画噺(えばなし)』全35冊が生まれた。
大正時代、子ども雑誌の全盛とともに、『日本少年』『新少女』と竹久夢二、コマ絵の渡辺与平(1888―1912)、『子供之友』と北沢楽天、『コドモ』と川上四郎・河目悌二(かわめていじ)(1889―1958)、『模範家庭文庫』と岡本帰一、『赤い鳥』『コドモノクニ』『キンダーブック』と清水良雄(よしお)・村山知義(ともよし)・武井武雄など、雑誌のイメージづくりに画家が一役を買い、同時に優れた仕事を残した。やがてこれらの画家を中心として、1927年(昭和2)日本童画家協会が設立された。
児童雑誌の発展、幼児教育の普及を背景に生まれ、保育観察絵本の典型となった『キンダーブック』は、童画と幼児絵本のイメージを昭和初期の子どもたちに、はっきりと刻みつけた。これと対(つい)をなす絵本の典型となったのが「講談社の絵本」であり、昔話、内外の古典的名作、動物、乗り物、童謡など素材も多岐にわたり、日本画家、洋画家、商業美術家、漫画家のベテランを網羅して読者を魅了した。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
第二次世界大戦後の日本の絵本は「着色菓子のようなもの、ピラピラしたもの、けばけばしいもの、おどかすだけのもの、支離滅裂なもの」(瀬田貞二、1916―1979)が横行し、戦前のいくつかの優れた絵本のレベルにも到底及びがたかった。しかし、戦後のアメリカやヨーロッパの絵本の流入は、そうした日本の絵本の世界に衝撃を与え、その様相を一変させた。1953年(昭和28)に岩波書店から創刊された「岩波の子どもの本」の絵本シリーズは、バナーマンHelen Bannerman(1862―1946)原作の『ちびくろ・さんぼ』(差別表現をめぐり1988年に絶版し、のち復刊)などの古典をはじめとして、『おかあさんだいすき』(フラック文・絵、光吉夏弥訳・1954)、『こねこのピッチ』(フィッシャー文・絵、石井桃子訳・1954)、『動物会議』(ケストナー作、トリヤー絵、高橋健二訳・1962)、『ちいさいおうち』(バートン文・絵、石井桃子訳・1965)、『海のおばけオーリー』(エッツ文・絵、石井桃子訳・1974)など、イギリス、アメリカの絵本を中心に、日本の作家による創作絵本も含め、多くの名作を世に送り出した。大人のひとりよがりではない、純粋に子どものための、新しく楽しく、かつ高い芸術性をもった絵本の世界が展開された。それは、絵本を通しての新たな子どもの発見といってよく、シリーズで刊行された絵本は、親、幼稚園や保育園、小学校の教師を経由して広く子どもたちに受け入れられていった。それと同時に、これまで子どものために絵本を描くことのなかった画家や作家、詩人、そして科学者や写真家にも、絵本という新たな表現の場所と形式を示すことになり、かれらを巻き込みながら1960年代、1970年代の絵本の黄金期を迎えていくことになる。
1960年代、1970年代以降日本国内で高く評価され、広く子どもたちに受け入れられた絵本は、すでに記した作品のほかにも数多くある。物語絵本では、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(加古里子(かこさとし)文・絵・1967)、『100万回生きたねこ』(佐野洋子文・絵・1977)、『はじめてのおつかい』(筒井頼子(よりこ)文、林明子絵・1977)、『じごくのそうべえ』(田島征彦(ゆきひこ)文・絵・1979)、『はせがわくんきらいや』(長谷川集平文・絵・1976)、『ひろしまのピカ』(丸木俊(とし)文・絵・1980)、『おふろだいすき』(松岡享子(きょうこ)文、林明子絵・1982)などがある。
知識の絵本としては、『海』(加古里子文・絵・1969)、『ちのはなし』(堀内誠一文・絵・1978)、『まめ』(平山和子文・絵・1981)、写真絵本の『はるにれ』(柿崎一馬写真・1981)、『みず』(長谷川摂子(せつこ)文、英伸三(はなぶさしんぞう)写真・1987)など。
また、詩の絵本も試みられ、『もこもこもこ』(谷川俊太郎作、元永定正絵・1977)、『ころころころ』(元永定正作・絵・1984)、『かぞえうたのほん』(岸田衿子文、スズキコージ絵・1990)などがある。さらに0歳から2、3歳児のための絵本、いわゆるファーストブックには、『どうぶつのおやこ』(藪内(やぶうち)正幸絵・1960)、『ちいさなねこ』(石井桃子文・横内襄(じょう)絵・1967)、『いないいないばあ』(松谷みよ子文、瀬川康男絵・1968)、『くまくんの絵本』(渡辺茂男文、大友康夫絵・1980)、『いちご』(平山和子文・絵・1989)などがある。以上はほんの一例にしかすぎないが、数多くの秀作が刊行されたのである。
この時期に多くの秀作が生まれた要因はいくつか考えられるが、なんといっても、翻訳版のみならず原書で外国の絵本に接することが可能となったことから、画家、作家、編集者らの創作意欲が非常に高まり、「岩波の子どもの本」シリーズに続いて現れた福音館(ふくいんかん)書店の月刊絵本『こどものとも』、至光社の『こどものせかい』などを舞台に、日本の伝統的表現形式、美意識を根底に、外国の絵本から学んだイラストレーションやグラフィック・デザインの技法を駆使した新しいイラストレーターが数多く輩出したことによる。ブラチスラバ世界絵本原画展(Biennial of Illustrations Bratislava:BIB)をはじめとする国際的なコンテストの場でも、日本の画家のイラストレーションは高い評価を受けた。国際的に名声を博したイラストレーターは、瀬川康男(せがわやすお)(1932―2010)、赤羽末吉(あかばすえきち)(1910―1990)、安野光雅、田島征三(たしませいぞう)(1940― )、いわさきちひろ、太田大八(おおただいはち)(1918―2016)、梶山俊夫(かじやまとしお)(1935―2015)、杉田豊(ゆたか)(1930―2017)、中辻悦子(なかつじえつこ)(1937― )など枚挙にいとまがない。1980年(昭和55)に赤羽末吉が、1984年に安野光雅が、画家の全業績に対して与えられる国際アンデルセン賞画家賞を受賞したことは、日本の絵本が世界的に認められたできごとであると同時に、「岩波の子どもの本」から始まった第二次世界大戦後の日本の絵本の、一つの到達点を示すものでもあった。
1980年以降、1960~1970年代に登場した作家・画家たちに、林明子(1945― )、片山健(1940― )、スズキコージ(1948― )、さとうわきこ(1935―2024)、いわむらかずお(1939― )、五味太郎(1945― )などが加わり、絵本のすそ野は広がった。だが一方で、日本の経済成長とともに絵本の出版が産業化され、絵本としての成熟をもたないものが大量に出版され始め、たちまち絵本の洪水となり、質の低下をもたらすようになった。同時にテレビのアニメーション放映、またそのビデオ化が進み、子どもたちの絵本離れが懸念されている。
[渡辺茂男・斎藤惇夫]
西欧における絵本の始祖は、コメニウスの『オービス・ピクタス』(世界図絵)Orbis Pictus(1658)とされているが、現代の感覚でいう絵本は19世紀に始まったといってよい。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
トーマス・ビューイックによって発展した版画の技法をジョージ・クルックシャンクGeorge Cruikshank(1792―1878)がさらに前進させ、石版(リトグラフ)や銅版(エッチング)による優れた挿絵で『グリム童話』『ロビンソン・クルーソー』『シンデレラ』を子どもの本に仕立てた。これらの作品にやや遅れてエドワード・リアの『ナンセンス・ブック』(1870)、ハインリヒ・ホフマンの『もじゃもじゃペーター』(1845~1847)の2冊が天才的創意から生まれ、著者による挿絵入りの古典となった。
子どもたちに本を読む純粋な喜びを与えたのは、ビクトリア朝後期の優れた印刷家エドマンド・エバンズEdmund Evans(1826―1905)の手によって送り出された3人の画家による絵本の傑作の数々だった。昔話の世界を様式的な構図と背景で描いたウォルター・クレーンWalter Crane(1845―1915)、イングランドの風土を背景に朽葉色を基調に、躍動する力強い線で童唄(わらべうた)の人間模様を描いたランドルフ・コールデコット、それに女性的な繊細さで甘美さを加味したケート・グリーナウェーKate Greenaway(1846―1901)の3人である。同時代、フランスでギュスターブ・ドレが『ドン・キホーテ』『ペロー童話集』などに、そしてM・ブーテ・ド・モンベルMaurice Boutet de Monvel(1850―1913)が、石版の技術を駆使して『ジャンヌ・ダルク』その他に精妙な挿絵をつけていた。ドイツではウィルヘルム・ブッシュが『マックスとモーリッツ』を出版し、スイス出身のエルンスト・クライドルフErnst Kreidolf(1863―1956)が『花のメルヘン』を描き始めていた。アメリカではハワード・パイルが、自ら再話した中世の騎士物語に銅版画の劇的な絵を添えていた。この時代に絵本は、表現形式が多様化し、魅力を増し、比較的廉価になり、技術的にも高度のものとなり、幼い読者を急速に増やしていった。
[渡辺茂男・斎藤惇夫 2019年2月18日]
20世紀に入ると、写真製版その他の印刷技術の進歩により、絵本は目覚ましく進歩した。みずみずしい水彩画による小動物の傑作絵本ビアトリクス・ポターの『ピーター・ラビットの絵本』や、沈んだ色調で幻想的な妖精(ようせい)物語の世界を描いたアーサー・ラッカムArthur Rackham(1867―1939)、細密画的手法を用いたエドモン・デュラックEdmund Dulac(1882―1953)などによる芸術的な絵本が生まれた。ユーモラスなしぐさで動物たちに物語を語らせたレズリー・ブルックLeslie Brooke(1862―1940)の『カラスのジョニーの庭』などは、絵が物語を語る絵本の傑出した例といえよう。20世紀前半の絵本の特徴の一つは、絵と文章の調和であり、マージョリー・フラックMarjorie Flack(1897―1958)の『アンガスとあひる』のように、絵が文章の語る物語を補い、あるいはワンダ・ガーグの『100まんびきのねこ』のように、絵が物語のリズムをとり伴奏を奏でていた。オフセット印刷の発明も、このような物語性豊かな絵本作家を育て続け、『チムとゆうかんなせんちょうさん』のエドワード・アーディゾーニ、『ちいさいおうち』のバージニア・リー・バートン、『ぞうさんババール』のジャン・ド・ブリュノフや、スイスで昔話絵本を描くハンス・フィッシャーHans Fischer(1909―1958)、フェリクス・ホフマンFelix Hoffmann(1911―1975)など、優れた絵本作家が輩出した。
また情感豊かに子どもの体験を描いた『もりのなか』のマリー・ホール・エッツ、『海べの朝』『すばらしいとき』のロバート・マックロスキー、『ゆきのひ』のエズラ・ジャック・キーツEzra Jack Keats(1916―1983)などは愛情と安らぎの子ども時代を描き、同時期の絵本の一つの典型を示した。フランスの優れた知識絵本「ペール・カストールの本」も、同じ温かい教育的観点から創造されていた。
20世紀後半、電子印刷の開発、グラフィック・アートの進歩、国際的な交流などにより絵本は、テーマに関しても表現形式に関しても、これまでにみられなかった多様性を示し始めた。モーリス・センダックは、これまで絵本で扱われてきた幼児の情緒的安定感を根底から揺るがした。『かいじゅうたちのいるところ』『まよなかのだいどころ』などで、子どもの無意識に潜むフラストレーションや恐れを正面切って取り上げた。表現形式では絵と文章の比重が大幅に絵に偏り、絵が文章と独立したメッセージを語るようにさえなった。伝統的なイラストレーションにかわり、コラージュ、ポイント、ナイーブ、漫画、サイケデリック、印象、抽象、写真、幾何学的描線など現代・超現代のさまざまな表現法を用いて社会の現実が投影される傾向が強まった。そのような傾向が、読者側の要求からきたものなのか、このようにつくられる絵本が読者対象を選ぶのか、早急に決めがたいが、もはや絵本は幼い子どものための本の範疇(はんちゅう)を脱しつつあるのが現状である。
センダックとほとんど同時期、あるいはその後に発表された絵本のなかで、芸術的な評価も高く、広く子どもたちに受け入れられたものの一例をあげると、トミー・アンゲラー(ウンゲラー)Tomi Ungerer(1931―2019)の『すてきな三にんぐみ』、アーノルド・ローベルArnold Lobel(1933―1987)の『ふたりはいつも』、レイモンド・ブリッグズRaymond Briggs(1934―2022)の『スノーマン』、ユリー・シュルビッツUri Shulevitz(1935― )の『よあけ』、ビネッテ・シュレーダーBinette Schroeder(1939― )の『ラ・タ・タ・タム』、イブ・スパング・オルセンIb Spang Olsen(1921―2012)の『つきのぼうや』、レオ・レオニLeo Lionni(1910―1999)の『あおくんときいろちゃん』、エリック・カールEric Carle(1929―2021)の『はらぺこあおむし』、ガブリエル・バンサンGabrielle Vincent(1928―2000)の『アンジュール』、アイリーン・ハースIrene Haas(1929― )の『サマー・タイム・ソング』などがある。これらの絵本を子細にみると、いずれも表現形式としては多様であるが、基本的には、コールデコットなどが築き上げた絵本の伝統的なあり方、制作の方法を踏襲してつくられていることがわかる。モーリス・センダックは以下のように述べている。「コールデコットの業績は、現代絵本の幕開けを高らかに告げるものでした。彼はことばと絵を対位法的に併置する天才的なやり方を考案しましたが、それは以前にはまったく見られなかったものでした。ことばが省かれ、それを絵が語る。ひとことでいえば、これこそは絵本の発明でした」。
つまり、表現形式としては、たしかに絵本はすでに子どもの本の範疇を脱しつつあるが、子どものみならず大人にも喜びをもって広く受け入れられ、なお長く生き延びていく絵本は、その本質において、コールデコットの時代からいまに至るまで変わっていないということである。1990年代以降は絵本の電子化も開始されており、さらなる子どもの絵本離れが懸念されているが、実は、絵本離れの真の理由は、子どもたちが絵本を読んでもらっていないという単純なことである。懸念すべきことは、絵本のアニメーション化でも電子化でもなく、大人と子ども、とりわけ親と子の乖離(かいり)の問題である。
[渡辺茂男・斎藤惇夫]
『松居直著『絵本とは何か』(1973・日本エディタースクール出版部)』▽『渡辺茂男著『絵本の与え方』(1978・日本エディタースクール出版部)』▽『『日本の童画』全13巻(1981・第一法規出版)』▽『瀬田貞二著『落穂ひろい』上下(1982・福音館書店)』▽『セルマ・G・レインズ著、渡辺茂男訳『センダックの世界』(1982・岩波書店)』▽『堀内誠一編『絵本の世界・110人のイラストレーター』全2巻(1984・福音館書店)』▽『長谷川摂子著『子どもたちと絵本』(1988・福音館書店)』▽『M・センダック著、脇明子・島多代訳『センダックの絵本論』(1990・岩波書店)』▽『中村柾子著『絵本はともだち』(1997・福音館書店)』▽『渡辺茂男著『心に緑の種をまく――絵本のたのしみ』(1997・新潮社/のち新潮文庫/岩波現代文庫)』▽『ブライアン・オルダーソン著、吉田新一訳『6ペンスの唄をうたおう――イギリス絵本の伝統とコールデコット』(1999・日本エディタースクール出版部)』
広義には絵を中心とした本,あるいは絵ばかりの本を指すが,こういう定義には,古い彩色絵入りの写本類から浮世絵本,新しい画集もひとしく含まれてしまう。英米ではピクチャー・ブックの語は慣用にすぎず,性格的にはイラストレーテッド・ブックと規定されており,厳密には,挿絵によって絵が主題を統一的に表現する構成をもった本を意味している。
日本では,江戸時代の劇場番付挿絵本と通称されていたが,一般には通俗的な,おもに婦女子向きの読物の挿絵本を絵本と呼んだ。歴史的には,平安時代末から室町時代末におよぶ多くの絵巻物は,絵が物語を表現する形式としては世界に比類ないが,その推移を見ると,内容が細分化するに従って絵は衰弱し,巻子本はついに冊子本に変わる。その境めの安土桃山時代初めに民衆画が現れて御伽(おとぎ)草子類を飾り,庶民に奈良絵本として売られたと考えられる。やがて印刷が始まり,衆に先がけて京都の角倉了以が本阿弥光悦とともに,いわゆる嵯峨本を刊行し(1608),その挿絵は以後の印刷本の見本になった。ヨーロッパでコメニウスが教育的図鑑《世界図絵》(1658)を出版したのにややおくれて,京都の儒者中村惕斎(てきさい)は同様の考えから《人倫訓蒙図彙(きんもうずい)》(1666)を著し,多くの追随者を生んだ。そのころから江戸では出版が盛んになり,やがて赤表紙をつけた子ども相手の5~6枚の中本や小本が現れた。それは赤本と呼ばれて1678年(延宝6)のころから18世紀半ばにかけてもてはやされた。内容は昔話,歌,なぞ,年中行事,鳥獣談などである。民間には浮世絵が流布し,そのうちに18世紀末から子ども用一枚絵が出回るようになった。下って歌川国芳(くによし)とその門下によって,切って折れば物語絵本となる連続こま絵などの一枚絵が盛んに描かれ,〈手遊び絵〉(今日ではおもちゃ絵ともいう)と呼ばれた。赤本の系統は,庶民の草双紙となり,各ページに絵を入れて文字を散らし書きに刷りこんだ絵本が一般的になった。
明治維新後早くも1872年(明治5)に学制がしかれ,アメリカの読本によった国語読本が翌年に出るが,その体裁と版式は江戸時代と異ならず,民間ではやはり草双紙本が作られていた。そのうち1885-92年に20冊の多色木版私装本《日本昔噺(むかしばなし)シリーズ》が長谷川武次郎によって出版された。内容は江戸時代の日本の昔話を在留外国人に諸国語に訳させ,小林永濯(えいたく)らの絵で挿絵をつけ,和紙をちりめん紙に加工して,外人のみやげ物とし,海外にも売り出したものである。訳者のうちにヘボン,チェンバレンがおり,のちに小泉八雲(L. ハーン)も加わった。これが俗に〈ちりめん本〉と呼ばれるものである。〈お伽のおじさん〉と呼ばれた巌谷小波(いわやさざなみ)は,長谷川本を受け継いで《日本昔噺シリーズ》(1894)を出したほか,《お伽画帖》(1908),さらに洋装本35冊の《日本一ノ画噺》(1911-15)に発展させた。後者は杉浦非水らのデザインが美しい。この《日本一ノ画噺》や鹿島鳴秋の《オハナシ》5冊(1913)を出した中西屋がそのころの良質の絵本出版を代表する。
ついで大正中期に模範家庭文庫を出した冨山房で,楠山正雄の《画(え)とお話の本》3冊(1925-26)を出したが,その画家たちは,大正中期に輩出した絵雑誌のプールに負っている。1914年に《子供之友》,21年に《コドモノクニ》,23年に《コドモアサヒ》が出て,岡本帰一,清水良雄,武井武雄,川上四郎,初山滋,村山知義,本田庄太郎たちがそれらによって活躍した。武井武雄は,彼と彼の影響に立つ画家たちの様式性の強い画風を立てて,24年に童画と呼ぶに至り,27年に日本童画家協会を設立,対立的に新ニッポン童画会もできたが,両会とも写実をもたない安易な類型に陥ったにすぎなかった。しかしそのなかでは,欧風に徹してやわらかな情感を生かした岡本帰一(1890-1930)が子どもの魂をつかんだのが目だつ。またデッサンの美しい端正な線で新鮮な画面を構成した清水良雄(1891-1954)や,豊かなデザイン感覚で独自のモダンな世界をつくりあげた武井武雄が印象的である。岡本の作品は《岡本帰一傑作集》2巻(1933-34),武井の初期の作品は《武井武雄画噺》3冊(1928)などに見られる。26年の幼稚園令公布をきっかけに,翌27年幼稚園向けに発行された《キンダーブック》は,月刊保育絵本のさきがけをなすものとして見逃せない。また36年には,日本の絵本史に一時期を画した〈講談社の絵本〉が現れる。一方,大正から昭和にかけて主導的な役割を果たしていた絵雑誌《コドモノクニ》は,37年ころからいちじるしく読物性を強め,また色面による単純化の多い木村俊徳たちが活躍するようになるが,この画家たちによって37年に執筆された《小学科学絵本》(12巻)は,科学ものの先駆的な業績として注目される。これはアメリカのペーターシャムの影響ともみられる。
1938年に内務省警保局から絵本浄化の通告がおこなわれ,官僚統制が強化される反面,はびこっていた赤本がすこしく影をひそめたおりに,39-40年鈴木仁成堂の〈幼児標準絵本〉,金井信生堂の〈幼児国民ヱホン〉,41年に誠文堂新光社の〈幼年科学絵本〉,戦時下の43年にかけて,帝国教育会出版部の〈新日本幼年文庫〉が出た。そのほか筑摩書房から〈世界傑作絵本シリーズ〉として,めずらしく外国絵本が3冊移植されたりしたが,第2次世界大戦はあらゆる文化活動の息の根をとめた。
しかし終戦後は,戦前にまさる絵本の隆盛をまねいた。講談社の絵本の復活,小峰書店の〈小学生文庫〉,新潮社の〈世界の絵本〉,トッパン,主婦之友社,小学館の絵本の刊行などぞくぞくとつづいたが,おおむね大会社の絵本は,読者を安定した家庭に求めているだけに,生活に即した力強さがなく,古い夢ににぎやかな衣装を着せているだけであり,一方,大阪方面の小出版社から出ている,画家の名さえ記さない安価なかき版の赤本が,おどろくほどはびこっていた。しかし,福田豊四郎の《笠地蔵様》(1946),茂田井武の《あたらしい船》(1948),藤城清治らの《ぶどう酒びんのふしぎな旅》(1950),六浦光雄の《イコちゃんの遊覧バス》(1954)のような単行本絵本にすぐれたものがあり,また外国絵本の紹介を中心として,岩波書店の〈岩波の子どもの本〉,日本評論社の〈科学の絵本〉(ノイラート),法政大学出版局の《もののなかはどうなっているか》(ジム)が,再現に良心的で,刺激するところが大きかった。また戦後は幼児教育への関心が全国的に高まり,それにともなって月刊保育絵本が復活し,《キンダーブック》の復刊のほかに数種類が創刊され,幼稚園,保育園をとおして広く全国の家庭に普及することになった。これによる底辺からの絵本に対する意識の掘起しは,のちの絵本ブームの基盤をなすものといえよう。そのなかで福音館書店の月刊物語絵本《こどものとも》は,日本の創作絵本の発展に大きな役割を果たし,それを舞台に赤羽末吉,瀬川康男,梶山俊夫,田島征三,中谷千代子,長新太,加古里子,安野光雅たちが登場した。赤羽は1980年に日本人として初めて,続いて84年に安野が国際アンデルセン賞画家賞を受賞,世界的に日本の絵本の評価を決定することになる。
絵本の祖は前述したボヘミアの人コメニウスの《世界図絵》(1658)であるが,絵本の伝統はイギリスで根強いものがある。
ぶっきらぼうな教科書だった板本のホーンブックhornbookが16世紀に始まり,17世紀から18世紀にわたって行商人の持ち歩く通俗本チャップブックchapbookがはびこるのであるが,イギリスでは子どもを心から愛したニューベリーJohn Newbery(1713-67)が1744年に《小さなきれいなポケット本》を出してから,子どもの本の伝統がきずかれた。ビューイックThomas Bewick(1753-1828)が木版で素朴な田園風景と動物とを生かし,W.ブレークがエッチングで内的な世界をひらき,ついにE.リアが石版で《ナンセンスの本》(1846)を著して,常識をこえたおかしさへ子どもを誘いこんだ。美術愛好家だったコールHenry Cole(1808-82)が《家宝集》(1841-47)を出して当代一流の画家に描かせたり,グリム最初の英訳(1823)に奇才G.クルックシャンクが生き生きした絵をつけたりして,やがて19世紀後半に,イギリスの本格的絵本が3人の天才挿絵画家の手で生まれる。装飾的な優美さをもったW.クレーン,風俗をリアルにおどらせたコールデコットRandolph Caldecott(1846-86),みずみずしいしとやかさを示したK.グリーナウェーがそれだ。彼らは出版者ウォーンをひかえた彩色木版の名手E.エバンズの協力がなかったならば育ちえなかったろう。こうした人たちの後で,《ちびくろ・さんぼ》(1899)を作ったバンナーマンHelen Bannerman(1863-1946),《ピーターラビットのおはなし》(1902)を出したB.ポッターが世紀の変りめに活躍,つづいて,世紀末芸術の影響下に,やや高踏的なぜいたくさをもったA.ラッカムとE.デュラック,K.ニールセンが現れる。それ以後は,子どもと遊ぶようなブルークLeslie Brooke(1862-1940)をとおって,近代的な木版家のニコルソンWilliam Nicholson(1872-1949)を大きな星として,しょうしゃなペン画水彩のアーディゾーニEdward Ardizzoneやクレヨンをうまく使うヘールKathleen Haleたちの時代に入った。イギリスで特筆すべきことは,ソ連の絵本にヒントを得て画期的な安価絵本〈パフィン・ピクチャー・ブック〉のシリーズがきわめて美しいオフセット印刷で出ていることで,その高度の編集と印刷と画風は範とするにたるものがある。1960年代に入るとキーピングCharles Keeping,ワイルドスミスBrian L.Wildsmithが目もさめるような華麗で独創的な手法をみせ,多血質で騒々しいブリッグズRaymond Briggs,それぞれに違ったコミックな画風のバーニンガムJohn BurninghamとオクセンバリーHellen Oxenburyなどが現れ新風をおくる。
ドイツでは早くから民衆的な親しみをただよわせるリヒターLudwig Richter(1803-84)によるベヒシュタインやグリムの挿絵本があり,ほかに詩人W.ブッシュの漫画絵本《マックスとモーリッツ》(1865)や,きわめて生活的な教訓にみちたホフマンHeinrich Hoffmann(1809-94)の《もじゃもじゃペーター》(1848)が,世界的な影響をあたえた。このころはドイツの安い石版印刷が世界市場にはんらんした時代である。1920年代には自由な様式化と彩色,大胆な構図でフォン・フライホルトK.F.von FreyholdやアイスグルーバーElsa Eisgruberが活躍した。ケストナーの作品の挿絵で知られたトリヤーWalter Trier(1890-1951)の漫画風な絵本も有名である。戦後世代ではR.ツィムニック,G.オーバーレンダー,リーロ・フロム,それにE.H.ヤーノシュ,B.シュレーダーと多士済済である。東ドイツにはパステル画法を使って効果をあげているウェルナー・クレムケがいる。スイスには20世紀初めのクライドルフErnst Kreidolf(1863-1956)などをはじめとして清純な画風の人々が多く,ポスターで活躍するかたわらアルプスの山村を舞台にした生活感あふれた絵本を描くカリジェAlois Carigiet,軽妙洒脱な線描のフィッシャーHans E.Fischer,重厚な写実でグリム童話を絵本化するホフマンFelix Hoffmannなど,いずれも美しく気品のある最高に芸術的な絵本をおくりだしている。
フランスでは,ブッシュにも影響をあたえたロドルフ・テプフェル(1799-1846)を先導として,達者なカリカチュアを描いたG.ドレがあり,ド・モンベルBoutet de Monvel(1850-1913)が《ジャンヌ・ダルク》(1896)その他の絵本を描くにいたって,ついにフランスの絵本が世界を支配した。ついで手描きの型紙で彩色したアンドレ・エレやエディ・ルグランが,1930年代に入り《ペール・カストールの画帖》にフョードル・ロジャンコフスキーF.S.Rojankovsky,ナタリー・パランが石版画により新鮮な写実的画風で成功を収める。同じころブリュノフJean de Brunhoff(1899-1937)は《ぞうさんババール》もので世界市場をおさえ,物の乏しい戦争中にサミベルSamivelが2色刷りであかぬけした絵本を作った。
ロシアは帝政時代にビリビンIvan Bilibinが中世風の暗い熱情をおりなしてクルイロフなどの挿絵を描いた伝統は,革命後にも継承される。ソ連国立児童図書出版所では一流画家を動員して美しい写実的な絵本を作らせたが,どこかひなびた素朴さと民族的特質を失わない。V.V.レベデフ,Yu.A.ワスネツォフ,E.M.ラチョフ,マブリナなどが著名である。チェコスロバキアでも民族的なかおりの高い絵本が作られている。土のにおいのするラダJosef Lada,人形劇の世界をユーモラスで幻想風な絵本に移しかえたJ.トルンカは国民的な絵本画家といえる。その後に民芸風な味わいのものから前衛的な画風までの幅広い数多くの画家がいて,その層はきわめて厚い。ポーランドの現代の絵本の出発点といわれるのがヤン・レビットとジョージ・ヒムの描いた《機関車》(1938)であるが,2人は翌1939年にイギリスへ去り,その後はイギリスを舞台に活躍する。音楽の絵本《ドレミ》(1955)を書いたマルチン・シャンツェル,ポーランドの親と子の趣味を典型的に生かすオルガ・シェマシュコ,グラフィック・デザイン出身のアダム・キリアン,格調の高い哲学的な画風のストロミーオなどがいる。北欧ではスウェーデンのラルソンCarl Larsson,ベスコフElsa Beskowはすでに古典といえる。フィンランドのヤンソン,デンマークのペーテルセン,マチーセンEgon Mathiesen,スパン・オールセンIb Spang Olsen,スベン・オットー。イタリアでは奇抜なしかけを見事にこなした絵本を生みだすムナーリBruno Munari。その他,オランダ,オーストリア,ハンガリーなどにも近年注目すべき画家たちが現れている。
アメリカは古くJ.J.オーデュボンの《アメリカの鳥類》(1827-38)を遠い先駆として,近代的な絵本の展開はガアグWanda Gág(1893-1946)の《100まんびきのねこ》(1928),そしてアンガスのシリーズのフラックMarjorie Flackまで待たねばならない。そのころから全国的な公共図書館活動とオフセット印刷の普及,ディズニーのアニメーション映画の大成功に刺激されて,絵本は表現に飛躍的な発展をみ,一時に花ひらいた。またとくにヨーロッパからきた芸術家たちの個性にささえられるところも大きい。ハンガリーのポガニーWilly Poganyやペーターシャム夫妻,スイスのドーレアー夫妻,ロシアのボリス・アルツィバシェフ,オーストリアのベーメルマンスLudwig Bemelmansというように。しかし画家たちはここに根づき,アメリカ人として,ローソンRobert LawsonやマクロスキーRobert McLoskey,バートンVirginia Lee Burton,スース博士Dr.Seuss,レンスキーLois Lenskiたちとともに,一種にぎやかな楽天的な絵本の世界をきずきあげている。1930年代,それにつづく40年代はアメリカの絵本の黄金時代と呼ぶにふさわしく,つぎつぎと傑作が作られた。50年代はますます多様化がすすむ一方,60年代以降は技巧的・内向的になり停滞気味となる。そのなかではセンダックMaurice Sendak(1928-2012)の絵本が独自の世界を形づくって目をひく。
その他の地域では,イギリスの伝統を受け継いだオーストラリアやカナダの躍進が注目される。ラテン・アメリカではブラジル。アジアは,中国には,前衛漫画家の張光宇の傑作《西遊漫記》のような作品もあるが,主流は小型のペーパーバック絵本で,大量に印刷され,そのなかにはすぐれた技法の挿絵も見られる。近代的な絵本づくりに意欲的なのは,シンガポール,マレーシア,韓国,イランである。一般に発展途上国は,作家,画家,編集者も乏しく,資材の不足,印刷や製本技術の遅れ,流通機構の不備,識字率の低さ,購買力の絶対的不足などの難問が複雑に積み重なって,絵本の発展を阻害している。しかし近年,ユネスコがこれら発展途上地域の子どもたちのため,図書開発計画を立案・実施していることは意義がある。
絵本は,子どもがこの世の経験をのばすにあたって,初めに出会う知的・芸術的体験と教化の手段であり,人間形成の根になる感覚と創造力の腐葉土となる。消耗品としておそろしく短命な絵本の残す印象が,その実,子どもたちの生涯におよぶことはまれではない。それゆえ絵本はあくまで子どものものでなければならない。そうした絵本に望まれる点は,(1)絵と本文とがつねに一致して同質のものを語ること,(2)子どもの感覚,心理,想像力の要求にふさわしい内容と表現であること,(3)絵については,はっきりしていること,動きのあること,細かい部分まで確かなかきこみがされていること,主題のもつ雰囲気にあっていること。この場合,子どもの絵本の絵は成人の美術と同じには考えられない。なぜなら子どもの感受性は主体的で,成人の美意識とは違う。意味あいとして絵をうけとるのだから,絵がお話をしかけてくることが肝要である。おとなの感覚のデフォーメーションは不適格で,あくまでリアルで誠実な表現のうちに語りかけてくるような絵でなければ,よい絵本は作りえない。(4)本文のことばは,ふくらみとひろがりをもち,文体にリズムがあり,声に出して読まれるにふさわしくなければならず,耳で聞いて眼に見えるようにイメージがわきでる文章であることがたいせつである。要するに,子どもと合作したといえるほどに子どもの感興をひかなければ絵本としての資格はない。様式だけを,あるいは新奇さだけを追い,おとなのひとりよがりになって,子どもの読者を忘れた絵本が,おのずから趣味的なおとなのおもちゃにすべりこむ危険はつねにある。挿絵にかえて写真を使う絵本は,新しい可能性をもっているが,とくに留意しないと写真集に終わってしまうことがある。アニメーションの絵本化もまったく異質な表現形態のものをむりに絵本にすることになるので成功しにくい。
執筆者:瀬田 貞二+松居 直
20世紀は〈映像の文明〉の時代といわれる。ことばと絵を組み合わせて本という形で表現する絵本は,現代人の表現活動に新しい可能性を提供したことは確かである。したがって絵本は,今までの子どもの本としての位置づけと枠をこえて,より自由な表現を追求していくことになると予想される。しかもそれは,一回性の傾向の強いテレビ,映画の映像表現よりは継続的な伝達の手段であり,しかも手軽に手にし,所有することが可能でもある。書物と映像,文学と美術の重なりあい,交わりあった絵本表現は,印刷技術の進歩とあいまって,今後ますます多面的に展開されることになるだろう。
執筆者:松居 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…戦前に《日暦》《人民文庫》の同人であり,《無花果》(1935)などを発表したが,本格的に認められたのは《落城》(1949)に代表される戦後の歴史小説によってである。さらに半自伝的作品《足摺岬(あしずりみさき)》(1949),《絵本》《菊坂》(ともに1950)などを収めた短編集《絵本》(1951)によって毎日出版文化賞を受賞。胃癌で死んだ妻千代との書簡集《愛のかたみ》(1957)は広く読まれた。…
※「絵本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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