インド古代祭儀文化をつたえるベーダ文献の中の後期文献に,〈苦(duḥkha)〉という語が,はじめて用いられている。ここにおいて〈苦〉とは,インド古代祭儀文化の円環的周期性が漸次に堕落して無始無終の生死流転(輪廻)の様相を呈するようになってきたときの輪廻の本質を表現する語である。とくに輪廻の過程において生まれてきては老いぼれ死にゆく衆生の存在が〈苦〉であると体験された。古ウパニシャッドを代表する哲人であるヤージュニャバルキヤは,ウパニシャッドのブラフマンすなわちアートマン(梵我一如)の真理を〈知るひとびとは不死の生命を得,そうでないひとびとは“苦”に沈淪する〉という。彼自身が輪廻の〈苦〉に沈淪することを克服するために自己自身の内に梵我一如の真理を体得しようとして出家するごとく,つづく世代の苦行者たちも,輪廻の〈苦〉を感得すること深ければ深いほど,いよいよ〈苦〉から離脱しようとして厳しい苦行をなすようになる。
しかし彼らの極端なまでの苦行主義を初期仏教の仏教者たちは批判する。そのように輪廻の〈苦〉を対象化して逃避しようとするのではなく,輪廻の〈苦〉の根拠を禅定の思惟において探求して個体存在(名色)にあることを究明し,そこに執著する欲望(愛)や所有(取)を放棄せよと説く。ここから多種多様の生老病死などの〈苦〉(苦)を思惟しつつ,〈苦〉の原因(集)が個体存在への欲望や所有にあることを究明してそれを放棄し,〈苦〉の寂滅(滅)を自己自身の内に体得し,〈苦〉の寂滅に至る修行道(道)を実践するという苦集滅道の四諦説が説かれ,さらに衆生が老いぼれ死にゆくという〈苦〉の根拠をつぎつぎに究明して所有や欲望や個体存在や意識の流れ(識)などを見いだし,それらを滅尽させることを教える十二支縁起説が説かれる。つづいて小乗仏教の阿含・阿毘達磨において四諦説や縁起説の〈苦〉が詳細に分析されて,苦苦性(苦しい感情の苦),壊苦性(楽しい感情が失われゆく苦),行苦性(すべての輪廻的存在の苦)の三苦性,生老病死の四苦,後者に愛別離苦(愛するものと別離する苦),怨憎会苦(憎むものに会遇する苦),求不得苦(求めるものが得られない苦),五盛陰苦(5種の根幹存在よりなる輪廻的存在の苦)を加えた八苦ないし百十苦などの〈苦〉の分類学説が発達する。他方,大乗仏教においては輪廻の〈苦〉の海に沈淪する衆生を救済する大悲の思想などが発達する。
このようにインド古代文化の堕落が〈苦〉と体験されるところからインド仏教思想が発達していったのであるが,同様に中国においても古代漢帝国の崩壊につづく分裂と混乱の歴史情況が〈苦〉と体験されるところから中国仏教が展開し,日本においても平安末期以来の戦乱時代が〈苦〉と体験されるところから日本仏教が展開していくと考えられる。
執筆者:荒牧 典俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人生における苦しみ、悩み。苦はすべての人生の根本問題であり、苦を知り体験することによって、人間の生がより深く明らかになる、ということもできる。苦の問題に正面から取り組むのが宗教であり、宗教は、いかに人間の物質生活が満たされても、なお、残る苦の超克を課題として生まれ、成立している。苦の究極の原因は、一言でいえば、人間の有限性にある。キリスト教は被造物としての人間を、仏教は迷いの存在、あるいは人間のもつ自己矛盾・自己否定のあり方を、苦の根底に据える。仏教の四苦八苦はよく知られているが、それは、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五蘊盛(ごうんじょう)苦を加えたものをいう。さらに一切皆(いっさいかい)苦を諸行無常・諸法無我と結び付けてとらえ、あるいは苦を、身体に感ずるものと、心に感ずるもの、また対象にかかわるものと、自らによるものなどに分類する。
つねに有限でしかありえない人間が無限を求めるのは明らかに矛盾であり、この根源的な矛盾を宗教は知的論理を超えて救済ないし悟りに導こうとする。日常の一時的で表層的な苦は、他によって粉飾され、忘れて通過されたりもするが、生そのものの苦はあくまでも深く、純粋な心に基づく信、ある啓示ないし直観による自己の転換、苦の徹底的な自覚、修行への沈潜その他によって、かえってその苦を超克しえた楽の頂もまた高い。
[三枝充悳]
『仏教思想研究会編『苦』(1980・平楽寺書店)』
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…これは現代では心理的影響と考えられるが,有部はこれを物質とみたところに特徴がある。 有部は人間の苦の直接の原因を,誤った行為(業)とみ,その究極の原因を煩悩(惑)と考えた。すなわち人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみる(これを業感縁起という)。…
※「苦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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