改訂新版 世界大百科事典 「フィンランド」の意味・わかりやすい解説
フィンランド
Finland
基本情報
正式名称=フィンランド共和国Suomen Tasavalta/Republic of Finland
面積=33万6861km2
人口(2010)=534万人
首都=ヘルシンキHelsinki(日本との時差=-7時間)
主要言語=フィンランド語,スウェーデン語
通貨=マルッカMarkka(1999年1月よりユーロEuro)
ヨーロッパの北部を占める共和国。フィンランドは英語名で,自称名はスオミSuomi。国土の面積は日本より少し小さい。その約3分の1は北極圏にあり(最北端は北緯70°05′30″),アイスランドに次いで世界で最も北に位置する国である。南北の長さ最大1160km,東西の最大幅540km。国境は西のスウェーデン側586km,北のノルウェー側716km,東の旧ソ連側1269kmである。
自然
地形
土壌は主として氷河時代の氷河が残したモレーン(氷堆石)から成り,通常は薄い。地形は太古の岩盤の等高線に従っている。国土の大部分は低地で,南南西から北北東に向かってしだいに高くなり,ラップランドの高原につながっている。最高点は北西隅のハルチャ山で標高1324m。平らな低地はなく,岩肌の丘の起伏の間に谷や湖があって,変化に富む。湖は国土の約9%を占め,とくに南半の内陸部の湖沼地帯では20~50%が湖で,サイマー,パイヤンネ,イナリ,カラベシなど,周囲100kmを超える湖は60を数える。ボスニア湾とフィンランド湾に臨む海岸線は1100kmで,屈曲が多く,散在する島の数は3万に上り,南西岸に密集している。またトゥルクの東方100km余りの海上にアハベナンマー(オーランド)諸島がある。
気候
メキシコ湾流とバルト海の影響で,フィンランドの平均気温は同緯度に位置している他の国よりも温和である。ただ,国土が北に偏し緯度が高いため,夏と冬の日照時間の差が著しい。南フィンランドでは真夏の日照時間が1日19時間になる。すなわち日没から日の出までわずか5時間しかない。北フィンランドの北緯70°地点では夏に太陽の沈まない日が73日間,逆にクリスマスの頃には果てしない夜が51日間も続く。平均気温が10℃を超える夏は,南部で110~122日間,北部で50~85日間を数える。また南部では1年のうち約5ヵ月,ラップランドでは7ヵ月もの間雪に覆われる。このためラップランドは夜のない5月にスキーを楽しむことができる。気温は7月の平均が13~17℃で最高が30℃,また2月の平均が-3~-14℃で最低は-30℃に達する。平均湿度は83%,冬の沿岸部で86~92%,夏の内陸部で65~70%である。年降水量は南部と中部で平均620mm,北部で520mmとあまり差がない。降水量のうち雪の占める割合は30~40%。北西部のラップランドでは9月中旬から,南部のヘルシンキでは10月末ころから雪になる。積雪量は前者で70cm,後者で40cmくらい。要するに沿岸部の雪の量はたいしたことはない。しかし湖と川と海は冬季は結氷する。その期間は南西部で18週間,ボスニア湾の奥では24週間に及び,砕氷船により水路を開かなければならない。
動植物
〈森と湖の国〉と呼ばれるフィンランドでは森林は重要な資源であって,陸地の71%を覆っている。マツ(53%),エゾマツ(トウヒ。28%)のような針葉樹が中心で,カバノキ(17%)もよく見かける。南西部はナラの樹林地帯でヨーロッパの中央部に類似している。これら森林の下生えから各種の野イチゴ類やキノコ類が採れ,食用に供される。北に進みラップランドに入るとマツ科の木もなくなり,全体が背の低いカバノキ系統の樹木となる。
動物としてはクマやオオカミは東部国境地帯やラップランドの未開地帯に限られる。ラップランドにはトナカイの大群が飼育されており,3万頭以上の大鹿もいる。毛皮獣ではリス,テン,キツネなどが生息する。猟鳥としては各種のライチョウやカモ類が多い。河川ではサケ,マス,湖ではコイなどがとれる。
住民,言語
住民
フィンランド人は一般に色白で,ひとみは青もしくは灰色が多く,フィンランド語を話す男性の86%,女性の81%が青もしくは灰色のひとみをもつ。また男性の76%,女性の82%は金髪もしくは亜麻色の髪をしている。フィンランド人はほとんどのヨーロッパ人と同じように人種的には混血で,主として東バルトおよびノルディック人種(北方人種)の血を受け継いでいる。平均身長は男性が168.7cm,女性が157.4cmである。出生率は19世紀末以来下がる傾向にある。第2次世界大戦後わずかに上昇したが,1958年には再び1000人当り18.5人に下がり,88年は12.8人。死亡率も19世紀末から急速に下がってきて,平均寿命は男73.8歳,女77.2歳(1996)。また男女の割合は女100人に対し男96.0人と女性のほうが多い。
言語
この国の人口の92%がフィンランド語を話すが,フィンランド語はウラル語族のフィン・ウゴル語派に属し,西部のスウェーデン語や東隣のロシア語とはまったく系統を異にする。発音は明快で,語形が複雑に変化する個性的な言語である。なお,フィンランドには6.6%ほどスウェーデン語を母国語として話す住民がいる。このためフィンランド語とスウェーデン語がフィンランド共和国の公用語とされている。さらにフィンランドの北辺ラップランドには2240人ほどのサーミ人(ラップ人)が住んでいる。サーミ人は人種的にフィンランド人と異なっているのに,サーミ語は言語的にフィンランド語に近い。
フィンランド人の国民性は温和で気まじめ,しかも粘り強い性格にある。フィンランド人の精神構造は,言語と民俗がウラル語系でありながら,歴史的・社会的にはゲルマン系の北欧文化国家に組み込まれるという複合性に基づいているといえよう。
政治
政治制度
1919年7月17日に制定された憲法によれば,立法権は大統領と国会に属し,最高執行権は大統領にあって内閣が補佐する。大統領は任期6年で,直接選挙で選ばれる。初代大統領はストールベリKaarlo Juho Ståhlberg(1865-1952。在任1919-25)。第2次世界大戦中の政局は5代目のリュティRisto Ryti(1889-1956。在任1940-43)が,その末期の混乱期はマンネルヘイム元帥(在任1944-46)が担当した。続いてパーシキビ(在任1946-56)が2期務め,56年からケッコネンが5選され25年間も大統領の座にあった。1982年以降はコイビストMauno Koivisto(1923- )が第9代大統領の職にあった。1994年にはアハティサーリMartti Ahtisaariが大統領に選出されている。
大統領は国会の解散および総選挙を命じることができ,内閣の閣僚(18名以内)を任命する。国会は定数200の一院制で,任期は4年。18歳以上の男女が選挙権をもち,20歳から被選挙権が与えられる。フィンランドは,すでに帝政ロシアの自治大公国時代の1906年に普通選挙の比例代表制をとる国会改造に伴い,ヨーロッパで最初に婦人参政権が認められた国である。比例代表制のため独立以来議会で一つの党が絶対多数を占めたことはない。ほとんどの政府が連立または少数派の内閣である。政党としてはイギリスの労働党に似たフィンランド社会民主党,左派のフィンランド人民民主同盟,農民と中間派に支持されている中央党,保守の国民連合党,スウェーデン人民党などがある。95年の総選挙では,社会民主党が63,中央党が44,国民連合党39,左派連合が22議席を獲得した。なお,200議席のうち女性が67議席を占めている。
外交
戦後,自由主義国家と共産主義国家との対立から,フィンランドは経済と政治の間に明確な線引きが行われ,西側と東側の利益の均衡が保たれる限りにおいて,経済分野では西欧への協力参加が可能であったが,政治的には中立を余儀なくされた。まず,フィンランドは1955年に国際連合と北欧会議に加入した。北欧会議の加入国の国民は,自由にスカンジナビア諸国に滞在して働くことができ,社会的給付を受けられるようになっている。また北欧地域内をパスポートなしで旅行できるし,自国以外に居住する場合でも,その国の地方自治体選挙の投票権が与えられている。61年にはヨーロッパ自由貿易連合に参加し,政治的にも経済的にも北欧諸国の一員となった。
フィンランドの外交は,いかなる強国にも依存しない中立と,相互信頼の上に築かれた隣接諸国との友好関係を保持することを根幹とし,この平和的中立政策は1975年ヘルシンキで開催されたヨーロッパ安全保障協力会議のいわゆるヘルシンキ宣言の中に生かされ,国際的にも広く認められるところとなった。
だが,ドイツの統一,ソ連の崩壊,ヨーロッパにおけるイデオロギーの分裂が消滅したので,95年にはヨーロッパ連合(EU)の加盟国となった。なお,北大西洋条約機構(NATO)にあっては平和のための協調協定(PFP)の枠内で協力している。さらに,エストニア,ラトビア,リトアニアのバルト3国との接触を深め,その経済と政治の安定に尽力するとともに,EU内で,ロシアとの関係を積極的に築きあげている。
国防
17~60歳の男子は,国民全員を対象とした徴兵制度に従って,すべて兵役義務をもつ。20歳で入隊し普通徴兵の場合は8ヵ月,特別任務の場合は11ヵ月の訓練を受ける。1947年のパリ条約により,核兵器,ミサイル,爆撃機,潜水艦の保有と製造・実験は禁止され,陸海空の兵力も総数4万1900人,艦艇1万トン,航空機60機までと制限されている。現有総兵力3万2500人。しかし,フィンランド人は愛国心に富み,忍耐強く勇敢であって,58年に制定された民間防衛組織により補習訓練を受けた50万の予備兵からなる予備軍が国土防衛のために組織されている。
経済,産業
経済
フィンランドは19世紀中ごろまで農業を主体としていたが,第1次世界大戦までに工業化が急速に進んだ。1917年に独立して共和国となるに及び,海外貿易の新しい機会が生じ,両大戦間期の20年間に経済は目ざましい発展を遂げた。30年代初めの世界恐慌も早めに乗り越え,30年代末期には再び繁栄の時期を迎えた。とくに木材および紙製品の生産と輸出において世界有数の国となった。フィンランドの豊かな森林資源は国民経済の中で最も重要な地位を占めていたが,その状況は現在も変わっていない。鉱物資源や石油・石炭のような燃料資源を欠いてはいるが,金属工業,土木建築産業の面が著しく進展した。農業も近代化,集約化され,第2次世界大戦直前には穀物は自給が可能となり,乳製品の輸出も行われた。
しかし第2次世界大戦はフィンランドに深刻な打撃を与えた。生産能力と資源の10分の1を失い,40万以上の人々が家と土地を奪われた。しかも賠償金として3億ドル相当の製品をソ連に支払わなければならなかった。しかし,戦後の復興は目ざましく,52年には賠償金を完済したうえ,同年ヘルシンキで第15回オリンピック大会を主催する余裕を示した。これ以来,工業化は一段と速度を増し,50年代および60年代におけるフィンランドの総生産高は平均5%,工業生産高は6%の伸びを示している。とにかく1957年の平価切下げにより戦後は終わったといえる。経済は70年代初めも快調な伸びを続けたが,75年に後退期に入った。諸種の経済対策が効を奏し,80年には成長率6%まで回復したが,西側市場の低迷と対ソ輸出の停滞から景気は再び底をついた。しかし現在では安定した状態を取り戻している。88年の国民総生産は920億ドルで1人当り国民総生産1万8610ドルとなっている。
産業
フィンランドの経済は私有制度と自由企業に立脚している。国家はアルコール飲料の専売や国有鉄道のほかに森林の28.5%を管理している。
(1)農林業 農業人口は総人口の約15%にのぼるが,農業生産は国民総生産中約5%を占めるにすぎない。耕地面積10ha,森林面積35haの小家族農場がフィンランド農業の特徴となっている。農業収入の45%は乳製品,34%が食肉,11%が穀物販売から得られている。小麦,ライ麦,大麦,カラス麦,ジャガイモ,テンサイ,野菜などの栽培は生育の北限まで行われ,砂糖を除き国内消費をまかなうことができる。酪農製品は輸出される。森林はフィンランド第1の天然資源である。森林面積は2200万haで国民1人当り約5haとなる。立木総量は15億0100万m3(樹皮を含む),年間出荷量は5400万m3で,松やトウヒはパルプ産業および製材産業に向けられている。森林資源の4分の3が個人所有で手入れもよく行きとどいている。
(2)鉱工業 第2次世界大戦以前はフィンランドは工業化の初期段階にある農業国であった。1938年における輸出生産は,林産加工業のみで輸出総額の80%以上を占めていた。工業製品の多様化と輸出の増大が第2次大戦後の興隆を特徴づけている。すなわち化学工業の役割が増大し,金属・機械部門が成長してきた。林産加工業の製材および紙・パルプ部門は完全に国際市場と連結していて,製品の80%以上が輸出される。フィンランドはヨーロッパにおけるパルプの19%,紙32%,木材22%,合板42%のシェアをもっている。フィンランドのパルプ工場は規模が大きく近代化されていて,輸出収益の36%を占め,林産加工業の工場も統合され,加工工程が一つの生産複合体にまとめられているので効率がよく,輸出収益の約50%を稼いでいる。1995年金属・機械工業部門は輸出総額の40%を占め,森林資源工業がこれに続き,ハイテク製品の輸出も盛んである。
フィンランドは銅,ニッケル,コバルトの産出国で,とくにコバルトは世界の供給量の約5%に達している。金属・機械工業では生産高の60%が国内市場に出され,40%は輸出されていて全輸出額の32%を占める。おもな輸出国はスウェーデン,ロシア,ノルウェー,イギリス,ドイツで,船舶,機械,金属,電気製品がおもな輸出品目である。とくに木材加工機械の生産は世界有数であり,造船業では砕氷船,豪華客船,貨物船,カーフェリー,石油採掘装置などがつくられている。また繊維衣料工業および家具,陶器,ガラス製品から建築や都市計画に至るまでのフィンランドのデザインは世界でも高く評価されていて,外貨獲得に一役買っている。このようにしてフィンランドは1人当りの所得が世界で最も豊かな15ヵ国の中に入り(1980年市場経済工業国では14位),国内総生産高(GDP)の67.4%をサービス業,28%を工業が占めている。最近は通信機器類,コンピューターなどのハイテク産業が急成長し,1994年度の輸出総額は240億フィンランド・マルッカに達している。
交通
フィンランドには7万3500kmに及ぶ公共道路があり,そのうち3万km以上が舗装されている。路上車両の登録台数は100万台で,その5分の4が乗用車である。また,全土にバス網が整備されており,ラップランドではケミヤルビKemijärvi以北には鉄道がないので,これが唯一の陸上交通手段である。鉄道はほとんどが国営で,鉄道網の建設は1862年に開始された。軌道の長さは約6000kmに及ぶ。鉄道はもっぱら大型貨物の輸送や融通性のある長距離輸送および人口密集地と首都圏の交通を結ぶ高速乗客輸送を受け持っている。
海上交通での貿易港は中世のハンザ同盟の頃につくられたが,19世紀に木材商品の輸出のため活況を呈した。港の凍結は砕氷船により克服されている現在,貨物と乗客の国外への輸送はおもに海上交通によっている。また湖を運河によって結ぶ内陸水運も盛んである。船の数483隻,総トン数247万9000トン(1981)となっている。国内航空網では空港が25あり,その半分に定期便が発着している。運航の中心はフィン・エアFin-Airで,1984年にはヘルシンキと成田が国際線で結ばれるようになった。現在,東京と大阪からヘルシンキへ直行便が週2回運行している。
社会
社会保障
フィンランドの社会保障は社会保険,社会補助,社会福祉の3本立てで,このための支出は国民所得の5分の1を占めている。社会保険では,国民年金法(1937制定,72改正)により,フィンランドに永住する者は最小限度の生活を保障される国民年金を受ける権利をもち,年金は生活費(給与)の指数に比例する。老齢年金の支給は65歳で開始されるが,職業により差がある。身体障害者年金も老齢年金とほぼ同額で,遺族年金は孤児と未亡人に支払われる。雇用年金制度としては,公務員に自営業や農民も含めて1970年代に年金制度が定められ,雇用年金の最高額は退職時の給料の60%とされている。疾病保険は1964年に実施され,被保険者の収入にある程度基づいて保険金を支払うことになっている。病気の場合は医療費は不要であるが,特定の疾患については患者が経費の一部を負担する。また,1ヵ月の有給休暇があり,夏はいなかでバカンスを楽しむ人が多い。以上のほかに家族手当と軍人手当があり,前者の児童手当(1948制定)では17歳以下のすべての児童が児童手当を受けている。後者は傷病軍人,戦争未亡人,軍役服務者の最近親者で,資力をもたない者に給付される。退役軍人には兵役年金が支払われる。社会福祉では妊産婦と児童のための福祉センターが全国的に組織化され,老人や身体障害者を対象としたホームヘルプ・サービスが活発に行われている。
教育
1970年に総合義務教育法が施行され,新しい学校制度に転換した。7歳から16歳までの国民が義務教育として9年制の総合学校で教育を受けている。給食,医療,通学,そして必要ならば宿舎まで無料である。総合学校は初級の6段階と上級の3段階に分かれ,二つの外国語が必修とされる。第1外国語は第3段階,第2外国語は第7段階から始められるが,英語とスウェーデン語が中心である。中等教育は3年制の高等学校と各種の職業学校や専門学校によって施される。
大学進学は4月に全国一斉に行われる大学入学資格試験による。大学は21で,総合大学10校,単科大学11校がある。1640年創立のトゥルク大学が最も古く,1828年から始まったヘルシンキ大学が最も大きい。ほかに図書館学のタンペレ大学や教育専門のユバスキュラ大学,それにオウル大学などがある。ヘルシンキ工科大学やヘルシンキ商科大学のような有名な専門別の高等教育機関もある。1992年には全日制高等学校460校,それに約520校の職業専門学校において職業訓練が行われている。他に93校もの市民大学で北欧式成人教育が行われている。さらに全国に2万以上もの公共図書館が設立されていて,その設備と利用状況は世界でも最高の水準にある。
宗教
1923年以来,完全な信教の自由が認められているが,国民の88%が福音ルター派教会,1%未満がフィンランド正教会に属している。国は8大教区に分けられ,それぞれに監督1名と聖職会が置かれている。1817年以来トゥルク大教区が大監督の地位を占め,中教区72,小教区592に分かれている。各小教区は信徒全員,会社その他の組織から税金を徴収する権利をもち,牧師を選出する。牧師は信者の出生,結婚,葬儀に関与するだけでなく,地区の民生や社会活動をも指導している。
フィンランド正教会は東方正教会系で,コンスタンティノープルの総主教に忠誠義務を負っている。教会はカレリアとヘルシンキの2主教区に分立し,これが25教区に分かれている。現在はカレリアのクオピオKuopioの主教が大主教を務めている。
文化
文学
フィンランド文学の創始者はトゥルクの主教M.アグリコラで,彼の著した《ABC読本》(1543)はフィンランド語で書かれた最初の文献である。また彼の訳した《新約聖書》(1548)はフィンランド文語形成の基盤をつくった。次にペトラエウスEskil Petraeusを中心とする委員会による《決定訳聖書》(1638)は信仰面だけでなく語法の定立に大きく作用している。19世紀前半,民族主義が高揚する中で,医師リョンロートが東カレリア地方で伝承されている詩歌を採録してまとめた叙事詩《カレワラ》(1835。増補改定版1849)の発表は,フィンランド人の祖国愛を刺激し,民俗学や神話学に尽きない研究素材を与え,美術や音楽に華麗な主題を供した。
19世紀前半の前期ロマン主義時代では国民的詩人ルーネベリと,愛国的歴史小説および児童文学作家トペリウスがスウェーデン語でフィンランド固有の魂を鼓吹した。後期ロマン主義時代にはA.キビにより真の意味のフィンランド文学が出現した。彼の代表作の長編小説《7人兄弟》(1870)は各国語に訳され広く読まれているし,6編の戯曲のうち喜劇《寒村の靴屋》(1864)が親しまれている。続いてフィンランドに写実主義が波及し,M.カントは《労働者の妻》(1885)のような労働者や女性が耐えてきた不平等について訴えた。文豪アホは自然主義の流れに沿って《鉄道》(1884)や《牧師の娘》(1885)を発表した。またパッカラTeuvo Pakkala(1862-1925)には心理的洞察により貧困と子どもたちを扱った《子どもたち》(1895)がある。さらにリンナンコスキは《真紅の花の歌》(1905)などで巧みに人間性を表出しているし,レヒトネンJoel Lehtonen(1881-1934)は東部フィンランドの農民生活を描いている。女流作家としてはタルビオが才筆を振るい,ヨトゥニは短編に優れている。またカッラスAino Kallas(1878-1956)のエストニアに取材した作品も忘れてはならない。
フィンランド文学の最高峰とされるノーベル賞作家シッランパーの作風は人間を生態的,自然神秘的にとらえる点に特色がある。代表作に《聖貧》(1919)と《若くして逝く》(1931)がある。前者は独立直後の内戦期のある貧農の運命を,後者は農家の清純なひとり娘シリヤが胸を病んで死ぬまでを描いている。世界的に高名なワルタリは歴史小説が得意で,《エジプト人シヌヘ》(1945)などを著した。両大戦間期は,農民や自然の動物を素朴に力強く表現したハーンパーや,工業化された社会を批判したペッカネンが活躍した。最近ではリンナが《無名戦士》(1954)で戦争と階級に正面から取り組み,彼の農民小説三部作《ここ北極星の下で》(1959-62)ではフィンランドの盛衰を歴史的断面図法でとらえている。またメリはユーモラスな戦争小説で名声を得た。また,アンッティ・トゥーリAntti Tuuri(1944- )の歴史小説《ポホヤンマー》(1982)が注目されている。なお,スウェーデン語の児童文学作家ヤンソンの幻想的な《ムーミン物語》は日本でも愛読されている。
詩作面では,まず女流詩人ソーデルグランがフィンランドとスウェーデンの近代詩に大きな影響を与えた。20世紀に入ると抒情詩人レイノが多くの詩作を発表したが,代表作として民族風の美しい詩集《ヘルカの歌》(1903-11)を挙げることができる。次にコスケンニエミは明るいロマン的な作品を残した。さらにヘッラーコスキAaro Hellaakoski(1893-1952)とイユルハYrjö Jylhä(1903-56)は簡潔な男性的文体を特徴としている。現代フィンランド詩壇ではハービッコPaavo Haavikko(1931- )が活躍している。
執筆者:小泉 保
音楽,舞踊
フィンランドの音楽と舞踊の歴史・現状は,固有の伝統にアイデンティティを見いだそうとする意識と,近隣諸民族や西ヨーロッパとの葛藤や交流を通じて表現を多様化しようとする努力という二つの柱をもっている。原初的な芸能は,シャマニズムによる儀礼的な身体運動によるパフォーマンスであったと思われる。少数民族である北部のラップ人や東部のカレリア人は狩猟に関連した呼び声や語り物に繊細な音楽性を発揮してきた。主要民族としてのフィンランド人はスウェーデンからの移住者と共有する輪舞,哀悼歌,バイオリンなどの伝統をフォークロアとして伝承してきたが,最も貴重で影響力が大きいのは叙事詩《カレワラ》の歌唱である。無伴奏あるいはカンテレkantele(チター属の撥弦楽器)伴奏による歌唱,あるいはカンテレタルと呼ばれるカンテレ伴奏の別の声楽が,後世の音楽創造上のよりどころを提供した。他の伝統楽器としてはヨウヒッコ(カンテレから発達した弓奏の楽器),樺(かば)皮のらっぱ,角笛,柳笛,クラリネットなどがある。
西ヨーロッパからの影響はキリスト教化から始まり,グレゴリオ聖歌その他が歌われていた記録がある。16世紀には独自の聖歌や世俗歌曲もフィンランド風の味をつけてつくられるようになり,19世紀にはドイツ人との交流により,ヨーロッパ音楽文化圏の中に徐々に入っていくことになる。しかし,西ヨーロッパに同化するのではなく,シベリウスに代表される国民音楽の様式,キルピネンYrjö Kilpinen(1892-1959)のようにドイツ・リートの雰囲気を強く残しながらわずかにフィンランドらしさを示す方法,さらに最近ではアジア的色彩をフィンランドと関連づけようと試みるノルドグレンPehr Henrik Nordgren(1944- )の模索のように,作曲家たちの主張が明確である。演奏の分野でもレベルが高い。他方,地方に根強く残存する民俗音楽,民俗舞踊を,特定の共同体に限定するのでなく,交流を通じてさらに活性化するために,中部の町カウスティネンで毎夏盛大な民俗音楽祭が催されている。カウスティネンには公立の民俗音楽研究所もあり,ドキュメンテーションを綿密に実行し,ヘルシンキ大学の音楽学者との連携が進んでいる。
執筆者:山口 修
美術
フィンランド美術協会(1848設立)が,フィンランドにおける近代美術の発展に大きく寄与した。〈デュッセルドルフ派〉に心酔したフィンランド最初の風景画家はホルムベリWerner Holmberg(1830-60)により代表される。フィンランド近代美術の黄金時代は19世紀末に始まり,その最初の著名な画家はエーデルフェルトAlbert Edelfelt(1854-1905)で,日常生活の描写や肖像画を通じて同国に新しいフランス絵画の息吹きを紹介した。民族主義的ロマン主義の第一人者ガレン・カレラは,《カレワラ》の精神を色と線で表現することに成功した。ヤールネフェルトEero Järnefelt(1863-1937)も抒情的風景画家で肖像画にも長じている。サリネンTyko Sallinen(1879-1955)は男女を野性的な力強さで描き,表現主義を標榜する〈11月グループ〉(1917結成)を率いた。〈11月グループ〉の精神的遺産を受け継いだ〈10月グループ〉(1933結成)の中ではカネルバAimo Kanerva(1909-91)が傑出し,これに近いコイスティネンUnto Koistinen(1917-94)は幻想的表現主義の作風を示している。
彫刻と建築には,色彩よりも立体的造形を好むフィンランド人の国民性がよく反映されている。彫刻の巨匠アールトネンWäinö Aaltonen(1894-1966)は堂々たる造形美と簡素な抒情主義に特色を見せている。《アレクシス・キビの座像》(1939)や《パーボ・ヌルミの走る姿》(1924)がその代表作である。古典主義を代表するルーネベリWalter Runeberg(1838-1920)の作品として《J.L.ルーネベリ像》(1885)がある。現代の彫刻家ではヒルトゥネンEila Hiltunen(1922-2003)がヘルシンキのシベリウス記念建造物で大胆な想像力と変化に富んだ技術を見せている。またトゥキアイネンAimo Tukiainen(1917-96)の《マンネルヘイム元帥馬上像》(1960)も優れている。
フィンランド建築において国民的ロマン主義を代表するサーリネン(父)は洗練されたヘルシンキ駅(1914)を建てたが,1923年にアメリカへ渡り学校建築などに手腕を発揮した。機能主義に拠りながら,北欧の風土に根ざした造形を探求しつづけた建築家アールトーは,都市計画,地域計画,室内装飾と工芸にも影響を及ぼした。白大理石のフィンランディア・ホール(1971)は彼の優美な記念碑で,またヘルシンキ郊外のタピオラは田園都市計画の見本とされている。
学術研究
フィンランドでは民間伝承や民俗信仰に関する資料が全国で組織的に収集されていて,これに基づき民話を地理的・歴史的に比較考証してその原型と伝播経路を探究する民俗学的研究法がクローンにより打ち立てられた。またアールネの提起した昔話分類法は世界的に利用されている。さらにU.ハルバはウラル・アルタイ語系諸民族の民俗と神話を広く論究した。
言語学者カストレンMathias Alexander Castrén(1813-52)はサモエード諸語とアルタイ諸語の研究に,ラムステッドはアルタイ諸語の比較研究に大きな業績を残している。カヤンデルの森林形態理論とウェスターマークの婚姻と道徳の起源に関する研究が有名である。
天文学ではバイサラYrjö Väisälä(1895-1971)が基線測定に貢献し,スンドマンKarl Frithiof Sundman(1873-1949)は〈三体〉問題を解決した。フィンランド数学は関数理論で世界のトップレベルにある。生化学のビルタネンはノーベル化学賞を受けた。またユルッポArvo Ylppö(1887-1992)は小児科および未熟児の研究で先駆的仕事をしている。
スポーツ
スキー,ボート,陸上競技,レスリングなどでフィンランドは長い伝統をもつ。1870年代にスポーツは組織化された。オリンピックで9個の金メダルを獲得したヌルミは国民的英雄である。フィンランド選手は槍投げやマラソンに強く,冬のスポーツではジャンプやスケートなどで活躍している。また,フィンランド人は野球を変形したペサパロpesäpalloを好む。投手は打者のかたわらでボールを投げ上げ,これを打つ。1塁,2塁,3塁と進むほど塁間は遠くなる。
行事と習俗
宗教行事ではクリスマスと復活祭を盛大に祝う。季節的行事としては2月28日にカレワラ祭,2月5日にルーネベリ祭がある。5月1日の〈バップVappuの日〉には男女の大学生および卒業生が白い覆いの学生帽をかぶって街を練り歩く。バップは780年代に殉教したカトリックの聖女の名バルプリValpuriの縮約形で,彼女の記念日と異教時代のゲルマンの夏祭とが混和して発生したものである。また夏至の日に催される聖ヨハネス祭では大きなかがり火をたき,まわりで民族衣装を着た男女が歌い踊る。国家的祝日は12月6日の独立記念日である。
フィンランドの東カレリアの奥地にはキリスト教改宗以前の異教信仰が残存している。万物が精霊と結びつけられ,家には守護霊がすみ,サウナは神聖な場所とされる。森の神タピオTapioは猟人の獲物を管理し,水の神アハティAhtiは川や湖を支配する。人びとは雷神ウッコUkkoに雨と豊饒を祈り求める。天地は宇宙卵より発生し,冥府トゥオネラTuonelaの川には白鳥が泳いでいると民族詩《カレワラ》は述べている。
歴史
原フィン人の時代
フィンランド人の起源はウラル語族の主流フィン・ウゴル語系集団に求められる。ウラル山脈の西のボルガ川流域がフィン・ウゴル語系集団の原郷と推定されるが,ここから西へ向かい,前500年ころバルト海沿岸に進出したのが原フィン人Kantasuomalaisetである。彼らは移動中に農耕を習得したが,バルト・スラブ族と接触してその文化を吸収し,さらにゲルマン人と遭遇して社会制度や生活様式を学び取った。原フィン人はやがて主力のスオミ族(フィンランド)とエストニア族(エストニア),それにオネガ湖付近のベプス族,イングリア(現在のロシアのレニングラード州西部)のボート族,クールランド(現在のラトビアのリガ湾南岸,南西岸地方)のリボニア族に分裂していった。
スオミ族Suomalaisetは現在のエストニアの地からいくつかの集団を組んで船で北上し,フィンランドの南西部に上陸した。ここから先住民のラップ人を追いながら東方へまた北方へと広がっていったが,この部族をハメ人Hämäläisetという。その頃カレリア人Kalialaisetはラドガ湖の周辺に定着していた。やがて両者が接合した部分にサボ人Savolaisetが発生し,ここに3部族が鼎立する形となった。そして堅実なハメ人,音楽好きなカレリア人,陽気なサボ人と部族的気風も育ってきた。こうした原始部族時代のフィンランドは後に東西二大勢力の衝突の場となった。
スウェーデン時代
スウェーデン王エーリク9世Erik Ⅸ(?-1160)は1155年北方十字軍の名の下にフィンランドに兵を進め,トゥルクに根拠地をつくった。そのとき王が伴った司教ヘンリックはフィンランドにカトリック信仰の基を開いた。王はさらに勢力を東へ伸ばしビボルグまで達したが,これに対し東方正教会の勢力の強いノブゴロド公国は,東からのモンゴル人の侵入に押され,カレリアの東半を保持するにとどまった。かくて両国の間にパハキナサーリの和議(1323)が成立し,フィンランドの南半はスウェーデンの支配下に入った。1397年ノルウェー王ホーコン6世の妃マルグレーテの下でデンマーク,ノルウェー,スウェーデン3国の国家連合としてカルマル同盟が結成されたが,これもその後の内紛により崩壊した。これから離脱自立したスウェーデンのグスタブ1世(在位1523-60)は宗教改革を断行してルター派を受け入れ,フィンランドにおける勢力を北方へ伸ばすとともに領内をルター派に改宗させていった。次いでヨハン3世Johan III(在位1568-92)は1581年フィンランドを大公国に格上げしてロシアに対抗しようとした。またカール9世Karl Ⅸ(在位1599-1611)は重税のために蜂起したフィンランドの農民一揆〈棍棒戦争〉を利用してフィンランド貴族を一掃し(1599),ここに王権を確立した。
次に勇王グスタブ2世のもとで強力となったスウェーデンは,武力によってロシアを封じ込め,1617年ストルボバの和議により東カレリアとイングリアを手に入れ,エストニアを合して,さらにポーランドを押さえ,リボニアまで手中に収めた。かくて北方戦争に突入したが,これら対外戦争で先頭に立って勇猛に戦ったのはフィンランド人であった。このためスウェーデンとフィンランドは政治的・軍事的に深く結びついていった。
スウェーデン人のフィンランド総督ブラヘPer Brahe(1602-80)の時代には工業が興り,交通が整備され,トゥルク大学が設立(1640)された。しかしカール12世はピョートル1世の率いるロシア軍と戦い,1709年ポルタワで大敗を喫した。スウェーデンが兵を引き揚げたため,フィンランド人の必死の抵抗も空しく,ロシア軍はフィンランドを侵略し,戦火と飢饉により住民は30万に減ったといわれる。21年ニースタードの和議でスウェーデンは17世紀に獲得したすべての土地を失った。
ロシア時代
ナポレオン戦争において,ナポレオンはスウェーデンをイギリスに対する大陸封鎖に参加させるため,ロシアがフィンランドを占領してスウェーデンに圧力をかけることを認めた。そのためロシア皇帝アレクサンドル1世は,1808年フィンランドに出兵した。フィンランド人は善戦したが,スウェーデン人が援兵を送らなかったので,フィンランド全土をロシアに占領された。09年ハミナの講和でフィンランドは正式にロシアに割譲された。ロシア皇帝はフィンランド大公を兼ねたが,フィンランドには自治を許した。しかし,しだいにロシア化が強行されるようになる。それに伴ってフィンランド人に民族的自覚が燃え上がり,独立の気運が高まった。ロシア側の圧力に耐えかねて,1904年にはロシア総督が暗殺されるという事件が発生した。そして17年のロシア革命による帝政ロシアの崩壊に乗じ,同年12月フィンランドはついに宿願の独立を達成した。
独立時代
独立と同時に,都市の資産階級と農民を代表する白衛軍と,労働者・小作農を中核とする赤衛軍との間で内戦が生じ,前者の勝利に終わった。このようにしてフィンランドは自由主義の国家として繁栄の道を突き進んだ。しかし,1939年第2次世界大戦が始まると,ソ連はレニングラード防衛の見地からカレリア地峡の土地を要求してきた。これを拒否されたソ連は50万の大軍を動員してフィンランドに攻め込み,フィンランド人はよく防戦した(ソ・フィン戦争)。41年ナチス・ドイツの対ソ戦が始まると,これに巻き込まれたフィンランドはドイツ軍に協力し,ソ連と戦うことになる。しかし,戦局の不利から44年にソ連と休戦条約を結び,戦線から離脱した。このためフィンランドは47年の講和でソ連へのカレリア地方,バレンツ海に臨むペッツァモ(現,ペチェンガ)地方の割譲,バルト海北岸のハンコ半島とポルカラ地区の貸与を余儀なくされ,さらに,国民所得の1割に及ぶ巨額な賠償金を支払わされることとなった。44万人の引揚者も受け入れねばならなかった。しかし,短期間で世界各国が驚くほどの経済復興を遂げ,以後,努めてソ連と友好を保ちながら,西側陣営に接近する政策をとってきている。
日本との関係
日本が初めて接触したフィンランド系の人物はA.ラクスマンで,漂流民大黒屋光太夫らの送還と通商交渉のため,1792年(寛政4)ロシアの使節として根室を訪れた。彼の父キリル・ラクスマンはフィンランド生れの博物学者で,イルクーツクに滞在中の光太夫と親しくなり,エカチェリナ2世に日本への使節派遣を進言した人物である。
次いで日露戦争の頃,帝政ロシアの内部攪乱工作の任務に就いていた明石元二郎は,フィンランドの活動家ツィリアクスKunni Zilliacusと1904年に協議している。フィンランドはロシア革命に乗じて17年に独立したが,帝政の崩壊は日露戦争により促進されたと考えられており,またアハベナンマー(オーランド)諸島の帰属が問題となったとき,国際連盟で日本がフィンランド側を支持したということで,フィンランド人の対日感情はきわめてよい。1919-29年初代駐日公使を務めたラムステッドは,日本語と朝鮮語をアルタイ諸語系として位置づけた著名な言語学者であり,言語と民俗の研究面で日本の関係者に直接大きな影響を与えた。そしてシベリウスの音楽や,ヌルミらのスポーツ選手の活躍を通じて,この国はしだいに一般の日本人にも身近に感じられるようになった。森本覚丹が訳出した《カレワラ》(1937)も,フィンランド文化の認識を深めるのに,小さくない役割を果たしている。
執筆者:小泉 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報