開山は宗峰妙超。播磨国浦上氏出自の妙超は正和四年(一三一五)に俗甥の赤松則村から
後醍醐天皇は隠岐から帰洛後の元弘三年(一三三三)八月二四日、当寺を本朝無双、宗峰門徒一流相承の禅林とした(後醍醐天皇宸翰置文)。建武元年(一三三四)一月二八日、五山第一の京都南禅寺と同列とし、五月六日には寺域四至として「東限船岡山東崎、南限安居院大路、西限竹林、北限同山後社」を安堵している(後醍醐天皇綸旨)。なお寺領は正中二年一〇月中御門経継から播磨国
建武四年八月建武政権が崩壊、直後に花園上皇から大灯国師号(同時に宗峰門弟相承・他門入住禁止)を与えられた妙超が(花園法皇宸翰置文)、門弟の徹翁義亨(大徳寺第一世)に後事を託して同年一二月に没した。この後北朝光厳天皇の外護は得たものの、宗峰派と対立関係にあった夢窓疎石門派に帰依する足利尊氏政権下においては、寺勢の維持は困難であった。
家松山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もとは
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京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山。開山は大灯国師宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)である。1315年(正和4),妙超が赤松則村の帰依を受けて,雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのが当寺の草創であるという。そののち花園・後醍醐両帝の厚い外護(げご)のもと,妙超は寺域を拡大し,24年(正中1)禅苑として堂舎を整え,竜宝山大徳寺と号した。翌25年花園天皇の勅願寺となり,33年(元弘3)には後醍醐天皇の祈願所となって〈本朝無双之禅苑〉なる勅額を下賜され,五山の第1に列せられた。また妙超に深く帰依した花園天皇は,当寺の住持について,ほかの五山のように法系に関係なく器量の僧を天下に求めて住持に補するいわゆる十方住持制(じつぽうじゆうじせい)をとらず,妙超の禅風をつぐ彼の門派の僧に限ることを定めた。このため,峻烈な禅風で知られる大灯の禅が,ながく当寺に伝えられることとなった。
だが,室町時代に入って,足利将軍家が彼の門派と対峙していた夢窓門派の禅に帰依したので,五山派の禅苑では夢窓門派が隆盛した。足利義満が86年(元中3・至徳3)に改定した五山十刹制(五山・十刹・諸山)では大徳寺は十刹の9位にまで落とされ,ついに1431年(永享3),当寺はみずから室町幕府の保護下にある五山派を離れ,在野の立場に立ついわゆる林下(りんか)の禅寺の道をえらんだ。こうして室町期の大徳寺は,権勢に密着して世俗化し坐禅を捨てて漢詩文や学問の世界に沈潜した五山の禅を鋭く批判し,みずからは兀々(ごつごつ)と坐禅一道に徹して峻厳枯淡の大灯の禅を護持して,当時の禅宗界に独自の立場をうちたてた。応仁の乱で炎上したが,乱後に住持となった一休宗純は,その反骨の大徳寺禅を堺の町衆社会にひろめ,彼ら豪商の外護で方丈や法堂(はつとう)など伽藍の復興をなしとげた。
また村田珠光は,侘茶の創始にあたって一休に参禅し,これ以後,茶人の大徳寺禅への傾倒が盛んになり,当寺は近世侘び茶の隆盛の結節点の役割を果たし,大徳寺の〈茶づら〉と世間に評されるようになった。近世の初頭,武人数寄(すき)の流行と相まって,諸大名の当寺への帰依は著しく,大名らがつぎつぎと塔頭(たつちゆう)を山内に建て,寺運は隆盛をきわめた。江戸時代,寺領は2000石余,諸堂も増建されて七堂伽藍が整備された。塔頭は江戸時代に56院を数えたが,明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしやく)の嵐のなかで,廃絶したものも多く,現在は24院である。
執筆者:藤井 学
寺地東辺の大宮通りに東面する総門を入ると,南から北に勅使門,山門(三門),仏殿(本堂),法堂(はつとう),寝堂が一直線上にならび,妙心寺とともに近世禅宗寺院の代表的伽藍配置をもつ。山門(重要文化財)は純粋の禅宗様山門としては最古のもので,下層は連歌師宗長の寄進(1529),上層は千利休の寄進(1582)になり,利休が自分の木像をこの楼上に安置したため,豊臣秀吉の怒りにふれて自決に追いこまれる一因となった。唐門(国宝)は前後に軒唐破風をつけた四脚門で,聚楽第遺構と伝えられ,彫刻装飾には桃山風の豪華な意匠がみられる。寝堂の斜め後方にある方丈(1636,国宝)は近世初期における大規模な禅宗方丈の好例で,内部には狩野探幽筆で《山水図》《禅会図》など83面からなる障壁画(重要文化財)がある。なお本坊の宝物のうちには,日本に伝わる牧谿(もつけい)の代表作として有名な《観音図》《猿鶴図》(ともに南宋時代,国宝),建武1年(1334)の自賛のある《大灯国師像》(国宝)や,後醍醐天皇宸翰置文(1333,国宝)などがある。
山内には24院の塔頭が伽藍の南,北,西に分布する。庫裏の北にある大仙院の本堂(1513,国宝)は山内塔頭のうち最古で,大灯国師墨蹟(1330,国宝)などを蔵する。真珠庵には曾我蛇足筆といわれる《山水図》《花鳥図》(ともに室町時代,重要文化財)が,聚光(じゆこう)院には狩野永徳筆とされる《花鳥図》などの方丈障壁画(国宝)がある。伽藍の南にある竜源院の本堂(重要文化財)は大仙院本堂に次ぐ古さで,黄梅院の庫裏(1589,重要文化財)は年代の判明する禅宗塔頭庫裏では最古の遺構であり,また同時期の方丈(1588,重要文化財)とそろって残る例として珍しい。伽藍の西に所在する高桐(こうとう)院には《山水図》(南宋時代,国宝),竜光院には燿変天目茶碗(南宋時代,国宝),小堀遠州の設計になる四畳半台目茶室密庵(みつたん)(密庵席)をもった書院(江戸初期,国宝),孤篷(こほう)庵には古来より大名物として知られる井戸茶碗(銘喜左衛門。李朝時代,国宝),茶室忘筌(ぼうせん)(忘筌席。重要文化財)などがあり,いずれも禅宗美術や茶道美術の宝庫となっている。
執筆者:谷 直樹
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京都市北区紫野(むらさきの)大徳寺町にある臨済(りんざい)宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1324年(正中1)の創建で、開基は赤松則村(のりむら)、開山は大燈(だいとう)国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。花園(はなぞの)上皇・後醍醐(ごだいご)天皇の祈願所となり、1326年(嘉暦1)開堂の式をあげた。ついで1333年(元弘3・正慶2)後醍醐天皇より「本朝無双禅苑(ぜんえん)」の勅翰(ちょっかん)を賜って五山の第一位に推されたが、1386年(元中3・至徳3)足利義満(あしかがよしみつ)により十刹(じっせつ)の第九位に下された。1431年(永享3)十刹の位を辞し、厳粛な禅風を守り在野的立場をとった。1453年(享徳2)火災により堂宇の大半を焼失、再建後まもなく応仁(おうにん)の乱にあってふたたび諸堂を失った。1474年(文明6)一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が入住し第48世の住持となり、堺(さかい)の豪商の援助を得て再興に力を尽くした。1582年(天正10)豊臣(とよとみ)秀吉が織田信長を当寺に葬り、菩提(ぼだい)所総見(そうけん)院を寺内に建立して寺領を寄進し、これより浅野幸長(よしなが)、黒田長政(ながまさ)、前田利長(としなが)らの諸大名も寺内に諸院を寄進したため、ようやく諸堂完備し盛観を呈した。また千利休(せんのりきゅう)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)といった茶人も山内に庵(いおり)を結び、ために茶道との縁由を深め、現に多くの茶室・茶庭が造営され今日に伝えられている。
江戸時代には、寺領2000石余の朱印を有して寺門すこぶる繁栄したが、明治維新後は寺領を失って衰微。1876年(明治9)9月独立して大徳寺派を公称した。広大な寺域には、唐(から)門、方丈(ほうじょう)(ともに国宝)、勅使(ちょくし)門、三門(山門)、仏殿、法堂(はっとう)、寝堂、庫裡(くり)、経蔵、鐘楼(以上、国重要文化財)などの伽藍(がらん)が建つ。そのうち、三門は1589年(天正17)千利休の修造したもので、このとき楼上に自像を安置したため、豊臣秀吉の不興を買い、ついに死を賜る原因となったことで知られる。また勅使門は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に造構された皇居の南門を移したものといわれ、唐門は聚楽第(じゅらくだい)の遺構で華麗な桃山建築である。また方丈庭園は特別名勝・史跡に指定されている。寺宝は非常に多く、本坊には牧谿(もっけい)画の代表作として知られる『観音(かんのん)図』『猿鶴(えんかく)図』(ともに南宋(なんそう)代)をはじめとする宋元画や、絹本着色大燈国師像(鎌倉時代)、後醍醐天皇宸翰(しんかん)御置文、虚堂智愚墨蹟(南宋代)などの国宝、竜虎(りゅうこ)図、五百羅漢像、楊柳(ようりゅう)観音像など多くの国重要文化財を所蔵している。
塔頭(たっちゅう)はしだいに増加し、江戸時代には約60を数えたが、現在は黄梅院、真珠庵(あん)、孤篷(こほう)庵、竜源院など22院のみである。末寺は204か寺あり、境内は6万8000余坪(2244アール)あって、織田氏その他の諸大名や村田珠光(じゅこう)などの茶人といった著名な人々の墓碑も多く、達磨(だるま)峰、瑞雲(ずいうん)軒、看雲(かんうん)亭などは名勝の地として十勝の称を与えられている。
[平井俊榮]
『『古寺巡礼 京都16 大徳寺』(1977・淡交社)』▽『源豊宗・坂本万七著『大徳寺』(1958・朝日新聞社)』▽『佐藤虎雄著『大徳寺系譜』(1939・河原書店)』▽『恩賜京都博物館編『大徳寺名宝集』(1933・便利堂)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
京都市北区にある臨済宗大徳寺派の大本山。竜宝山と号す。赤松則村が,宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に帰依して,雲林院の故地に堂を建立したのが始まりという。宗峰は,花園・後醍醐両天皇の帰依をうけ,のち大灯国師の号を贈られ寺も勅願寺となる。鎌倉末~南北朝初期に隆盛したが,足利尊氏が宗峰派に対立する夢窓疎石(むそうそせき)派を後援したため冷遇され,五山制度のもとでは十刹(じっさつ)の9位。1431年(永享3)には十刹の地位を放棄し,林下(りんか)といわれる在野の禅寺となった。それ以後,独特の禅風を開き,戦国期には戦国大名だけでなく村田珠光(じゅこう)ら多くの茶人が参禅した。重文の「大灯国師像」ほか多くの文化財がある。方丈および玄関は国宝,寛永期作庭の方丈庭園は国史跡・国特別名勝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。…
…京都市北区にある臨済宗大徳寺の塔頭。1509年(永正6)古岳宗亘(こがくそうこう)の開山。…
…19歳で出家し,上洛して建仁寺の鏡堂覚円(きようどうかくえん),南禅寺の通翁鏡円(つうおうきようえん)に参じたが,五山の禅風にあきたらず,東山の雲居(うんご)庵に隠棲していた宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)(大灯国師)の門に入り,その法を継いだ。妙超が大徳寺を開くとこれに随い,妙超没後の1338年(延元3∥暦応1),勅により大徳寺2世として入寺し,別に寺前に徳禅寺を建立した。大徳寺七ヵ条制法や徳禅寺法度を定めるなど,寺の運営に力を注ぎ,大徳寺の寺基を固めるとともに,大灯門派興隆の基礎をつくった。…
… 五山の僧侶の間にひろまった五山文学の世界では,景徐周麟,横川景三(おうせんけいざん)らが詩文で知られたが,この時期には詩文よりも経史に比重が移り,この分野では九州へ下り宋学を講じた桂庵玄樹の名が知られる。将軍家の保護を得た五山にかわり,林下の大徳寺が社会各層の帰依を得て隆盛に向かうのも,応仁・文明の乱前後からで,《狂雲集》を著した一休は,後世にも大きな影響を及ぼした。 さて武家社会では,将軍家を中心に,諸分野にわたる芸能者がこれに近侍奉仕したのが特徴で,猿楽の音阿弥や作庭の善阿弥・小四郎・又四郎3代,同朋衆では唐物奉行に当たった能阿弥・芸阿弥・相阿弥代,香,茶の千阿弥,立花(たてはな)の立阿弥などの名が知られる。…
※「大徳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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