イタリア美術(読み)いたりあびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア美術」の意味・わかりやすい解説

イタリア美術
いたりあびじゅつ

古代ローマやルネサンスの世界史上における意義は別にしても、イタリアを舞台に盛衰を繰り返した美術の歴史は、ヨーロッパ美術の基本的な動向と密接なかかわりをもつ局面が少なくなかった。すなわちイタリア美術においてのみ、古代から近代に至る美術様式の推移を一貫して把握できるのである。イタリア美術がその独自の特質を具備するに至るのはロマネスク以降においてであるが、古代ローマの伝統はイタリア中世美術の特質を規制し、ルネサンス美術の出現にも重要な関係をもっている。

 エトルリア美術の流れをくむ量感豊かな穹窿(きゅうりゅう)(ボールト)を頂く古代ローマの建築は、ローマやアンティオキアなどの地中海地域の各都市に共通してみられる、いわば国際的様式を備えていた。これに対し彫刻や金属工芸、象牙(ぞうげ)彫りなどは帝国の領土拡張とともに属領各地域のものと混合しあい、それぞれ独自の様式を生み出していった。しかしキリスト教の勝利はこれまでの現世的な人間主義を否定し、それを肯定する美術表現に反発する。その結果として、三次元的な人体像や奥行のある現実空間の表現は厳しく戒められた。

[濱谷勝也]

中世

5~9世紀

ローマ帝国の衰退は政治上の拠点の交代や勢力関係の変動を招来した。ラベンナではラテン人(当時の西ヨーロッパ人の一般的呼称)による支配がゴート人に奪われ、さらにビザンティン帝国に併合されるが、約2世紀に及ぶ帝国の統治期間(540~751)にサン・タポリナーレ・ヌオーボ聖堂、サン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、サン・ビターレ聖堂やガッラ・プラキディア廟(びょう)が造営された。ラベンナに根を下ろしたビザンティン美術の伝統は、その後ベネチアに相続され、829年にサン・マルコ大聖堂が創建された。一方、6世紀後半におけるランゴバルド人の北イタリア侵入は、この地域における金属工芸の発展を促すことになり、9世紀前半からのイスラム教徒による南イタリア、シチリアの攻略は、アマルフィ、パレルモあるいはモンレアーレの各大聖堂の装飾デザインにイスラム美術の影響の跡をとどめることになった。北イタリアのロンバルディア地方では7世紀中期からマエストリ・コマチーニmaestri comaciniとよばれる建築家たちによる重厚、簡潔な建築が行われ、ロマネスク様式の出現を予告する。

[濱谷勝也]

ロマネスク

10世紀後半から12世紀にかけて、神聖ローマ帝国の成立、十字軍の遠征あるいは教皇権と皇帝権の対立などの政治的動乱に巻き込まれながらも、イタリアはロマネスク美術において数多くの創意あふれる作品を残している。建築ではヨーロッパで最初にリブ穹窿を取り入れたミラノのサンタンブロージョ聖堂やバシリカ式プランによるモデナ、パルマおよびフェッラーラの各大聖堂が代表的事例とされている。また彫刻家ビリジェルモWiligelmo/Viligelmo(生没年不詳)やベネデット・アンテーラミによってモデナやパルマの大聖堂に制作された彫刻には、フランスからの影響が指摘される。またベローナ(サン・ゼーノ聖堂)まで波及したビザンティン美術の拠点はベネチアにあったが、同地にコンスタンティノープル由来のプランによってサン・マルコ大聖堂が再建・献堂されたのは1094年のことである。トスカナ地方の建築家たちはフィレンツェのサン・ミニアート聖堂やピサ大聖堂にみるように、端正な形態を多色大理石で装い、独自の様式を確立した。ノルマンの支配下に置かれていた南イタリアやシチリアには、ビザンティン、イスラムおよびノルマンの各要素の混合した特異の様式がアマルフィ、チェファルー、パレルモなどの大聖堂に残されている。

[濱谷勝也]

ゴシック

12世紀中期以降アルプス以北の西ヨーロッパに広く伝播(でんぱ)しつつあったゴシック様式は、13世紀になるとイタリアにも浸透し始めた。14世紀初頭における教皇のアビニョン幽閉や神聖ローマ帝国の衰退は、イタリア全土にわたる都市国家の成立と、それに伴う都市整備の気運を促すことになる。なかでもフィレンツェは建築活動がもっとも盛んで、サンタ・クローチェ聖堂、サンタ・マリア・ノベッラ聖堂、フィレンツェ大聖堂、パラッツォ・ベッキオなどが造営され、また大聖堂のカンパニーレ(鐘塔)やクーポラ(丸屋根)の建立も計画された。

 一方、彫刻においてはニコラ・ピサーノが古典様式に物語性を盛り込むことによって独自の手法を確立し、息子ジョバンニ・ピサーノをはじめアルノルフォ・ディ・カンビオやティーノ・ディ・カマイノTino di Camaino(1285ごろ―1337)らの弟子を育てるが、この流派によって形成された彫刻の様式は13世紀後期のイタリア美術を主導していった。

 絵画ではジョバンニ・チマブーエがビザンティン様式を継承し、ピエトロ・カバリーニやヤコポ・トルリティJacopo Torriti(生没年不詳)は古代美術の伝統にのっとりながら物語表現を開拓する。それをさらに発展させて人物描写に斬新(ざんしん)な写実を示したジョットは、美術史上特筆される業績を残している。シエナ派のドゥッチョは繊細な色彩画家であったが、その弟子シモーネ・マルティーニは同地におけるゴシック様式の旗手である。またピエトロ・ロレンツェッティはジョットの物語表現を伝承しており、その弟アンブロジオ・ロレンツェッティは最初の風景画家であった。14世紀中期には絵画に装飾的で華麗な後期ゴシック様式が流行するが、その渦中にあってアンドレーア・オルカーニャは雄勁(ゆうけい)な個性的画風を形成する。この時期の建築における注目すべき成果の一つにベネチアのパラッツォ・ドゥカーレやカ・ドーロといった都市建造物にみる建築デザインがある。

[濱谷勝也]

ルネサンス

15世紀

13世紀の初頭以来イタリアを風靡(ふうび)したゴシック様式からこの国の美術が脱却していくのは、15世紀前半期のフィレンツェにおいてであった。この時期、ロレンツォ・ギベルティは半世紀を要した洗礼堂の2個の門扉(もんぴ)の制作を進め、ドナテッロは大聖堂やオル・サン・ミケーレ聖堂での初期の作品を完成して円熟期を迎え、そしてフィリッポ・ブルネレスキは大聖堂のクーポラを完成しているが、彼らはいずれも古典様式を摂取・消化し、それを当代の美術制作に生かした人々である。またレオン・バティスタ・アルベルティは古代建築の理論的研究によって新様式を開拓しようとした。さらにベルナルド・ロッセリーノやデジデリオ・ダ・セッティニャーノDesiderio da Settignano(1430?―1464)が制作した壁面墓碑でも、中世以来の伝統様式に対する古典様式の影響は見逃せない。

 フィレンツェ絵画における近代化の最大の立役者はマサッチョであるが、彼はジョットの画法に立脚しながらこれを発展させ、荘重な人物表現と透視図法に卓抜な手腕をみせている。また、フィレンツェ派の解剖学や透視図法の研究に基づく絵画表現に独自の採色法を結び付けたのは、ドメニコ・ベネチアーノである。フラ・アンジェリコは初めこの2人の画家に学ぶところが多かったが、結局はゴシック様式に回帰し、深くこれに沈潜していった。これに対し他の地域は多少フィレンツェと様相を異にしている。シエナではサセッタが依然としてゴシック風の画法に執着しているのに対し、ウンブリア地方ではピエロ・デッラ・フランチェスカが明るい色調を幾何学的に整えられた構図に調和させ、独特な味わいを画面に打ち出した。北イタリアのパドバではドナテッロと古代美術に深く影響されたアンドレア・マンテーニャが堅牢(けんろう)かつ彫塑的な絵画様式を確立している。

 15世紀のベネチア絵画はベッリーニ父子に代表される。ゴシック様式の洗礼を受けながら成長した父ヤコポ・ベッリーニは自己の作風を確立する基礎に透視画法を置いた。息子のジェンティーレ・ベッリーニは詩趣に富んだ物語表現に優れ、光の扱い方にとくに着目していたが、その弟ジョバンニ・ベッリーニはマンテーニャとアントネッロ・ダ・メッシーナとの接触により、この2人から深く感化されて、静穏で気品のある画風を完成した。15世紀末期になると美術表現に若干の注目すべき新機軸がもたらされる。建築にはドナート・ブラマンテやレオナルド・ダ・ビンチによる集中式プランのクーポラを中心とする聖堂建築の構想が現れる。彫刻ではアンドレーア・デル・ベロッキオが動感の表現効果を高めるために光の働きを応用する。そして絵画ではビーナスや聖母を好んで描いたサンドロ・ボッティチェッリが、形式化と理想化を融合させた繊細な表現で詩的な情趣を高めるが、そこにはゴシックに対するこの画家の趣向が感じられる。またレオナルドは、立体表現における明暗の微妙な推移や輪郭を軟らかくぼかして描く、いわゆる「スフマート」sfumatoを創始する。しかし彼の関心は視覚の対象物すべてにわたるのであり、身をもってウォーモ・ウニベルサーレuomo universale(万能の人)たらんと努めたのである。

[濱谷勝也]

16世紀

16世紀に入ると美術制作の中心地はローマに移る。当初その立役者となるブラマンテは、教皇ユリウス2世からバチカン宮の諸建築全体を統合する計画を課せられ、まず新サン・ピエトロ大聖堂の設計に着手した。彼の設計は後継者たちによって変更され、しかも工事は進まず晩年のミケランジェロが登場して大いに促進するが、完成には至らなかった。クーポラも彼自ら作製した木製モデルによって、没後に完成された。ブラマンテに推挙されたラファエッロはバチカン宮の各所に壁画を制作したが、着想、構図、劇的表現効果にその傑出した創意が示されている。彫刻家をもって自任したミケランジェロは絵画と建築とを彫刻的に扱う場合が多かったが、メディチ家礼拝堂やシスティナ礼拝堂の壁画・天井画にその構想がよく実現されている。

 16世紀ベネチア美術の主流はやはり絵画であった。そして光の機能を生かした暖かい色彩法が理想とされたが、老境にあったジョバンニ・ベッリーニ、円熟期にあったジョルジョーネ、そしてまだ青年期にあったティツィアーノによって、それが着実に実現されていった。そのほか、コレッジョがパルマにあって、バロック様式の先駆者にふさわしい光と動感にあふれる感覚的な絵画を生み出していた。

[濱谷勝也]

マニエリズモ

16世紀後半に始まる反宗教改革の運動は、感覚的陶酔を伴う宗教精神を生み出すことになった。その結果、明暗の鋭い対比や絢爛(けんらん)たる色彩などを特徴とするマニエリズモ(マニエリスム)とよばれる様式が現れる。北イタリアのマントバで活躍した建築家ジュリオ・ロマーノとパルマの画家パルミジアニーノがこの様式の先駆者である。フィレンツェではバッチオ・バンディネッリBaccio Bandinelli(1488/1493―1560)、バルトロメオ・アムマナーティそれにジャンボローニャGiambologna(ジョバンニ・ダ・ボローニャGiovanni da Bologna、ジャン・ブーローニュJean Boulogneともいう。1529―1608)らの彫刻家や、ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノあるいはアーニョロ・ブロンツィーノらの画家が、この様式にふさわしい創意と技巧をそれぞれに発揮している。ベネチア周辺の地域ではアンドレア・パッラディオを代表格とする建築家たちによって古典様式の復活が試みられるが、その外観効果にはマニエリズモの特徴が示されている。ベネチアの絵画ではティントレット、ボニファーチオ・ベロネーゼ、それにレアンドロ・バッサーノの個性豊かな構図と色彩が注目を引く。ローマの建築に現れたマニエリズモの事例としては、ジャコモ・ビニョーラの設計したイル・ジェズ聖堂があげられる。

[濱谷勝也]

バロック

反宗教改革によってヨーロッパでの権威を取り戻したカトリック教会の本拠地ローマは、17世紀になってふたたび美術制作の主導権を手中にする。そして美術家たちは建築、彫刻、絵画の限界を除去して単一体に融合しようとする傾向をみせ始めた。バロックという様式名でよばれるこの傾向の、建築における代表例はジョバンニ(ジャン)・ロレンツォ・ベルニーニが設計したサン・ピエトロ広場のコロネード(回廊)である。この建築はもちろんのこと、これと前後してピエトロ・ダ・コルトーナやフランチェスコ・カステッリ・ボロミーニの設計した諸聖堂は、いずれも幾何学的構成による大胆な形態によって、教会の権威を感覚的に訴えようとするものであった。なお彫刻家としてもこの時代を代表するベルニーニの作品には、感情表現の強調に伴う技巧の過剰が否めない。

 17世紀の絵画は、当時ともにローマに居住していたカラバッジョとアンニバーレ・カラッチに代表される。迫力のある人物表現と人工的な光で特徴づけられるカラバッジョの誇張された自然主義は、海外まで影響力をもつに至った。一方ラファエッロに強く感化されていたカラッチは、よりアカデミックな画法によってドメニキーノやグイド・レーニを育成している。

[濱谷勝也]

近・現代

19世紀

18世紀中期からイタリアでは、バロックに対する反動としての新古典主義の胎動が始まる。ポンペイの発掘やローマ滞在中のヨハン・ヨアヒム・ウィンケルマンやアントン・ラファエル・メングスの活動に刺激され、古典美術に規範を求めて、それに準拠しようとする新傾向である。イタリアにおいてこの傾向に同調し、それにふさわしい才能を発揮したのは彫刻家アントニオ・カノーバである。ロマンチシズムはイタリアにはほとんど浸透しなかったが、19世紀においては象徴的な風景画で知られるジョバンニ・セガンティーニとマッキアイオーロmacchiaiolo(点描派)とよばれる一群の画家たちのみが、ヨーロッパ的水準に達する作品を残している。

[濱谷勝也]

20世紀
第二次世界大戦まで

イタリア美術の20世紀を開始するのは、1909年2月20日、詩人フィリッポ・マリネッティによって『ル・フィガロ』誌上で宣言された未来派(未来主義)である。機械文明において顕著となった速度と力、そして騒音までをも賛美し、そうした新たな感覚の表現のためには破壊的行為も辞さないとしたこの運動のメンバーには、マリネッティのほか、ジャコモ・バッラ、ジーノ・セベリーニ、ウンベルト・ボッチョーニなどがいたが、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、ボッチョーニが早世した1910年代なかばには終息してしまう。しかし詩、絵画、彫刻、演劇、音楽の諸ジャンルを同一の信条において自覚的に総合しようとしたこの運動が、この時期の芸術の中心であったパリではなくイタリアでおこったことの意義は大きい。また、ダダやロシアのレイヨニスム(光線主義)、イギリスのボーティシズム(渦巻主義)など後の芸術運動に与えた影響は少なくない。むろんパリに引き寄せられた芸術家もいて、デ・キリコは形而上絵画の様式を完成させ、モディリアニは黒人彫刻の簡潔な造形感覚とともにトスカナ的な優美な曲線をもつ彫刻と肖像画を制作していた。

[保坂健二朗]

第二次世界大戦以降

第二次世界大戦後、レナート・グットゥーゾRenato Guttuso(1912―1987)を指導的画家とし、社会主義的リアリズムの関心に支えられた「新芸術戦線」の運動があった。1950年代にはルーチョ・フォンタナがミラノで「空間主義」の運動を推進した。このフォンタナやアルベルト・ブーリの影響を受けたのが、ピエロ・マンゾーニPiero Manzoni(1933―1963)である。モノクロミズムの先駆者としても知られる彼の作品は、自らの排泄(はいせつ)物を缶詰にしたものなど、芸術と芸術家の境界を無効としながら、物質と精神の距離の再構成を図る実験的なものであった。こうした姿勢を継承し、発展させたのがイタリアの戦後芸術を代表する「アルテ・ポーベラArte Povera」である。「貧しい芸術」の意をもつそれは、広義では、1960年代末から1970年代初頭にかけてイタリアでみられた新しい芸術の動向、すなわち、木、ガラス、布、水などといった、従来の尺度からすれば「貧しい」素材を直接的に使用し、ルネサンス以来の既存の価値観への疑義を表現した概念的な作品をさす。ミケランジェロ・ピストレットMichelangelo Pistoletto(1933― )、ジョバンニ・アンセルモGiovanni Anselmo(1934― )、ルチアーノ・ファブロLuciano Fabro(1936―2007)、マリオ・メルツMario Merz(1925―2003)、ヤニス・クネリスJannis Kounellis(1936―2017)、ジュゼッペ・ペノーネGiuseppe Penone(1947― )などがその代表である。

 1980年前後、ネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義、ニュー・ペインティングともよばれる)が世界的な動向として興隆していたが、これに並行するかたちで絵画に物語性、神話性を復権したのが、サンドロ・キアSandro Chia(1946― )、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッキEnzo Cucchi(1949― )である。各姓の頭文字をとって3Cとも称される彼らは、アキッレ・オリーバAchille Bonito Oliva(1939― )によって「伝統的な表現による非政治的、折衷的な表現」と定義されるところの「トランスアバングァルディアTransavanguardia」の動向を代表している。

[保坂健二朗]

建築

建築では、政治的機能を担いつつモダニズムの極北的形体を備えたジュゼッペ・テラーニらのファシズム建築や、アントニオ・サンテリアによる社会主義的提案である「新しい都市La Citta Nuova」の思想がファシズム期前後にあった。一方国際様式は、ジオ・ポンティなどの例外を除き、さほど隆盛をみなかった。しかし20世紀イタリア建築を代表するのは、カルロ・スカルパやアルド・ロッシなどにみられるような、素材感ある幾何学的形体を明快に組み合わせながら、ときにアクセントとして原色を加えていく手法であり、それはデザインにおいても認めうる特徴となっている。またレンゾ・ピアノは、ハイテックながらも、機能をシンプルで優雅な形体に置き換える点で名高い。

[保坂健二朗]

デザイン

デザインでは、エットーレ・ソットサスEttore Sottsass Jr.(1917―2007)、アレッサンドロ・メンディーニAlessandro Mendini(1931―2019)らが参加したデザインスタジオ、「アルキミアAlchimia」や、そこから発展していった「メンフィスMenphis」が、1980年代のデザイン界を主導した。また、ジョルジュ・ジウジアーロなどによるプロダクト・デザイン、とりわけ車のそれは、他の追随を許さぬ感がある。服飾デザインにおいてイタリアは、1970年代に若手デザイナーがフランスから戻り自らのブランドをたちあげて以降、世界の耳目を集め続けている。だが20世紀末にはそうしたオートクチュール型の服飾デザインの自立性も、ヨーロッパを中心とした資本提携の結果、みえにくくなっていった。そうしたなか、高品質低コストの衣料を生産しグローバルな展開を目ざすベネトンが、写真家オリビエーロ・トスカーニOliviero Toscani(1942― )を起用した自社広告において提起したのは、広告と倫理、文化と消費の関係という高度に成熟した資本主義の問題にほかならなかった。

 芸術が資本と不可分の様相を呈していくなかで、イタリアは美術、建築を対象としたべネチア・ビエンナーレや建築、都市計画、デザイン、ファッションなどを対象としたミラノ・トリエンナーレをはじめとする定期的で大規模なイベントを有しており、諸芸術の発信地であり続けることに成功している。

[保坂健二朗]

『ルードヴィヒ・ハインリヒ・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳『人類の美術17 イタリア・ルネッサンス1400~1460』(1975・新潮社)』『アンソニー・ブラント著、中森義宗訳『イタリアの美術』(1978・鹿島出版会)』『摩寿意善郎著『イタリア美術史論集』(1979・平凡社)』『主婦の友社編・刊『エクラン世界の美術7 イタリアA 古代ローマ遺跡とヴァチカンの名宝』『エクラン世界の美術8 イタリアB フィレンツェ美術巡礼とルネッサンスの古都』(1981)』『『原色世界の美術3 イタリア1 ウフィツィ美術館』『原色世界の美術4 イタリア2 ヴァチカン美術館』(1987・小学館)』『井関正昭著『イタリアの近代美術1880~1980』(1989・小沢書店)』『マクス・ドヴォルシャック著、中村茂夫訳『イタリア・ルネサンス美術史』上下(1988、1990・岩崎美術社)』『田中英道著『イタリア美術史 東洋から見た西洋美術の中心』(1990・岩崎美術社)』『『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』『世界美術大全集8 ロマネスク』『世界美術大全集9 ゴシック1』『世界美術大全集10 ゴシック2』『世界美術大全集11 イタリア・ルネッサンス1』『世界美術大全集12 イタリア・ルネッサンス2』『世界美術大全集13 イタリア・ルネッサンス3』『世界美術大全集15 マニエリスム』『世界美術大全集16 バロック1』『世界美術大全集17 バロック2』『世界美術大全集19 新古典主義と革命期美術』(1992~1997・小学館)』『宮下孝晴著『イタリア美術鑑賞紀行 美術の旅ガイド1~7』(1993~1995・美術出版社)』『ロベルト・ロンギ著、和田忠彦他訳『イタリア絵画史』(1997・筑摩書房)』『関根秀一・池上英洋著『イタリア・ルネサンス美術論 プロト・ルネサンス美術からバロック美術へ』(2000・東京堂出版)』『宮下孝晴著『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内1~5』(2000~2001・美術出版社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「イタリア美術」の意味・わかりやすい解説

イタリア美術 (イタリアびじゅつ)

イタリア美術,広くはイタリア文化の特質は,イタリア半島の地理的位置に条件づけられている。この半島は,アルプスの根もとから出て地中海へと長く伸び,その南端であるシチリア島はアフリカ北岸に近接している。また本土の南東側はギリシアと向き合い,東地中海全域に交通の便がある。一方内陸ではアルプスを越えて西ヨーロッパと通じ,沿岸を通って東ヨーロッパと通じている。以上のような地理的形勢によって,イタリアは,ヨーロッパ大陸の,地中海への突堤となり,地中海世界が世界文明の中心であった古代から16世紀にかけて,常に世界史,世界文化の中枢であり続けた。

 イタリア半島の中心的地位を築いたのは古代ローマ帝国であった。ローマは,イタリア半島内における先住民であるエトルリア人と,北部イタリアに流入していたケルト人,ゲルマン人の文化を,南部一帯に広まっていたギリシアのそれと合体させ,イタリア半島における最初の統一国家をつくった。ここで古代ローマ帝国の行った最も重要なことは,ギリシア文明を中心とする地中海古代後期文明のすべてを総合したことである。本来,ギリシア文明の中には,エジプトおよびクレタの古代地中海文化が併合されていたが,ローマ帝国は,現実に地中海の対岸を含む東西両世界にその領土を拡大することによって,オリエントとギリシアの古代文明を自国の領土内に総合することとなった。これはまた,西ヨーロッパを含む広大な版図のすべての領域に,古代ラテン世界の文明を伝播することにもなったのである。ローマはさらに,ヘブライから発生したキリスト教を国教として取り入れることによって,ヘレニズム文化と東方的世界観を合体させ,世界宗教たるキリスト教とそれに伴う文化の発生の地となった。この理由によってイタリアは,中世においても西方キリスト教世界の中心的存在であり続けた。すなわち,西方キリスト教会の中心である教皇庁と,異教的古典古代の聖地である古代ローマ遺跡の両者を共存させることによって,イタリアは古代から中世に及ぶ西欧文明の中心となり得たのである。

 またイタリア半島は,ルネサンス文化の発生の地として近世ヨーロッパ文化に指導的役割を果たした。これもまた,イタリアが,閉鎖された封建制とキリスト教の支配するヨーロッパ諸国の中で,ただ一国東方との接触を保ち,異文化との交流を行っていた結果である。もちろん,古代ローマの故地としての記憶が,古代の人間中心思想と共和制の理想をイタリア人に吹き込みやすかったことは確かである。さらに,通商と交易に頼らざるを得ぬ風土が,いち早く資本主義と市民とを発生させ,これがルネサンス文化の基礎となったことも事実である。しかし,何にもまして,たえまない異文明との接触が,彼らに新しい世界像への道を開いたのである。中世において,西欧よりもはるかに高度な文明を保持していたイスラム世界や中国,中世においてもなお高度のヘレニズム文化を存続させていた対岸のアレクサンドリア等の刺激が,ほかならぬイタリアにルネサンスを発生させた原因であった。いわばルネサンスとは,中世西欧がイタリアという窓を通して行った自己解放であり,異文明との接触による自己変革の契機であったといえる。エジプトやオリエント起源の諸科学がギリシアの自然科学,哲学とともに13~15世紀に復活し,近代科学の先鞭をつけたことはこの間の事情を説明している。

 15,16世紀の地理上の発見と,これに伴う世界的通商の中心の移動によって,はじめてイタリアは歴史上の指導的立場を失った。内陸をアペニノ山脈によって分断されて小国の分立を続けていたイタリアが,絶対王政を整えた他のヨーロッパ諸国によって征服され,植民地化されたのもこれ以降のことである。このように,経済的・政治的衰退期である16世紀から18世紀にかけて,イタリアはなおも三つのエポックに文化的指導力を発揮した。第1は,16世紀の,ルネサンス文化の最高の洗練である〈マニエリスム〉の成立とその伝播によってである。フランス,スペインをはじめとするヨーロッパ諸国はこの宮廷的文化を通して初めてルネサンス文化の波に浴したということができる。政治的にイタリアを征服した国々が,イタリアの末期ルネサンスから影響をうけたのである。ルネサンス人文主義もまたこの間に西欧に浸透することとなった。

 第2は,ゲルマン諸国を中心として16世紀に起こったプロテスタントに対抗する,いわゆる〈反宗教改革〉の精神運動がローマから発生したことである。この運動は新教に対して旧教のドグマと教会の権威を守るばかりではなく,新興文化であるゲルマン的文化に対するラテン文化の対抗運動としての性格ももっていた。この運動の芸術上の現象が〈バロック〉であり,その様式は16世紀末のローマに発生し,18世紀までに全ヨーロッパならびに南アメリカへと伝播した。

 総体的に教会の力が衰退した18世紀から19世紀にかけて,イタリアは積極的な文化的活動を停止する。これ以降イタリアは,古典古代と人文主義の記念碑的存在となった。新古典主義,ロマン主義のいずれもが,西欧・ラテン文明の象徴としてイタリアを一個の博物館と見るようになったのである。イタリア自身もアカデミー発祥の地として,過去の権威を守るアカデミズムの伝統を保つこととなる。しかし,新しい市民文化である新古典主義,ロマン主義のいずれもがイタリアでは十分に開花しなかった。これらが新しい市民層のイデオロギーを基礎としていたにもかかわらず,イタリアにおいては,産業化と近代化はいまだ実現せず,新しい芸術を担うべき市民層もその力を得てはいなかったからである。スペインによる植民地支配とカトリシズムの強い力,そして大土地所有者を中心とする封建的勢力の残存とがイタリアを近代化から遠ざけていたのであった。1861年の統一国家(イタリア王国)成立によって,イタリアは遅く近代国家の建設に着手したが,すでにこの時期に他の先進諸国は国家権力を排除しようとしていた。20世紀初頭まで,イタリアには統一的権力へ向けて保守的勢力が結集するという状況が続く。ここに,19~20世紀初頭のイタリア美術が,地方的画派となり終わった原因がある。

 イタリアがバロック以後に生み出した,最初の世界的な芸術運動である〈未来派〉は,まずイタリアの過去のあらゆるモニュメントの破壊(観念上の,また事実上の)をその目的としたが,これは,ようやく20世紀にいたって,過去の栄光から脱し,自己否定による革命を行おうとする,きわめてイタリア的なアバンギャルドの方向を示している。

 ところで,イタリア文化の西欧における優位性がこれほどに永く保たれてきたのは,西欧文明の中心思想である人間中心主義と合理主義とが,イタリアの伝統的芸術において最も典型的に表現されていたためである。自然主義と理想的形式美の一致である〈古典主義〉は,ギリシア,ローマ,ルネサンス,新古典主義の各文化において,形を変えつつも同じ基調音をもって再現された。だが同時にイタリアは,古典主義の精髄を生きていたがゆえに,しばしば強力な〈反古典的〉芸術を発生させもした。マニエリスムとバロックがそれである。しかしこれらの〈反古典主義〉芸術は,その本質において〈古典主義〉の対抗物であり,かつ相補的なものであった。マニエリスムも,バロックも,イタリアにおいては,ゲルマン諸国におけるごとき一面的な非合理の世界に浸ることはなかった。しかしまた決して,イタリア文化は合理の一色によって判断されてはならない。ルネサンス,マニエリスム,バロックの重要な側面は,神秘主義,主観主義,情動主義である。いわばイタリアは,この二つの面の総合によって普遍性を有していたといえる。

 第2次大戦後,世界文化の布置と価値観は大きく変わった。西欧文明の優位性が否定されるとともに,西欧文明の中心であったイタリアの栄光はさらに後退したかに見える。しかし,東西両文明の統合者であり,弁証法的対立のうえに自己の文化を築いてきたイタリアが,その不合理性の裏側から見なおされることによって新たな刺激を与え,それと同時に,1950年代以後ふたたび再生の兆しを見せていることが,十分に見てとれる。

イタリア半島には,新石器時代の住居や村落の跡がある。新石器時代中期のものでは,南イタリア,中部イタリアに彩文土器が,また北イタリアにドナウ川地方に見いだされる四角い口の土器が出土している。総じて先史時代のイタリアには,西ヨーロッパ一帯に共通する文化と,地中海文化とがすでに混在していた証拠がある。例えば,プーリア,サルデーニャには,西ヨーロッパ全土に見られる巨石文化の一種であるドルメンやメンヒルが残っている。またサルデーニャに残る塔状の石造建築物ヌラーゲnuragheは,青銅器時代(前2000-前1000)のものだが,西ヨーロッパ起源ではなく,キプロスやマルタ,エーゲ海の島々に見いだされるものと同種である。さらに,南イタリアのシチリア,リパリ,プーリアなどを中心として,前1400-前1200年ごろに後期ミュケナイ文明が流入した。

古代のイタリア半島には,民族的にも,文化的にも,統一というものがなかった。ポー川の北にはガリア人,ゲルマン人などの北方民族が流入し住みつき,中部イタリアにはアジア起源と推測されるエトルリア人が住んでいた。南イタリアはすでに前8世紀からギリシアの植民地となっていた。エトルリア人は独自の文化をもっていたが,これも前5世紀ごろからギリシアの影響下に入る。したがって,ローマ人が統一国家をつくる以前に,イタリアはすでにギリシアの文化圏にあったということができよう。シチリアのアグリジェント,セリヌンテSelinunte,ペスト(パエストゥム)に残るギリシア神殿は,現存するギリシア建築の中でも最も重要なものの一つである。

 このようにシチリアと南イタリア一帯を領していたギリシア文化は,とくに地中海風土をギリシア本土と共有するイタリア南部を深く規定するものになった。地中海世界の文化の特色は,自然への感受性と,あたかもこれと矛盾するかに見える抽象的な形式主義である。後者は建築に表れた厳格なシンメトリーと比例の要求によって,また,前者は彫像の身体や表情に示された生命感によって明らかであろう。自然の理想的形式化は,自然から偶然的な細部を捨てて普遍的本質を抽出しようとするギリシア哲学の認識の,芸術的表現であったということができる。またそれは,ポリスを政治の基礎として見るギリシア人の政治思想とも密接なかかわりをもっていた。ギリシア文化は,ギリシアの敵であり,東洋的な強大な権力をもつペルシア帝国との対立によって形成されたものといえ,ここに,イタリア半島がギリシアを受容する基礎と,やがてこれを排除する原因が潜んでいる。

エトルリア人は小アジア起源ともいわれるが,その起源ははっきりしない。前8世紀ごろまでにはイタリアに領土を占め,主としてトスカナ,カンパニア地方の,ティレニア海側に散らばって都市国家をつくった。アレッツォ,キウージChiusi,ペルージア,タルクイニア,チェルベテリに遺跡が残っている。彼らは,地中海民族と共通の青銅器文明の技術,航海術,都市文化を所有していたが,エジプト人と類似した死生観をもち,その芸術で現存するものの大半は墓室芸術である。墓室の壁にはフレスコで,死者が死後にも生き続けるであろうと考えられた現世の楽しい情況が描かれている。これらの壁画は素朴ではあるが,強い色彩を有し,エジプトよりもはるかに生動性を感じさせ,クレタのものよりはエジプトに近く形式化されている。彼らの神々は,ギリシアのそれのように人間的ではなく,人間を呪術的に支配するデーモンのようなものであったらしい。

 エトルリア人の才能を最もよく示すものは都市と城壁である。彼らは土地の粗石を砕いて巧妙な石積みを行い,アーチを架けることを知っていた。ボルテラやペルージアには,そのすぐれた例が残っている。ローマ人は,この石積法とアーチ構造をエトルリアから受け入れた。

 彫刻もまた多くは死者に関するものである。エトルリア独自のものとして,ローマに伝わった形式は,石棺彫刻である。もっと簡単なものでは肖像をのせた骨壺があるが,これらの人物はほとんど理想化されず,現実的に把握されている。前5世紀ころギリシア・アルカイク美術の影響が深まるが,これにもかかわらず,エトルリア人の彫刻には根本的に反古典的・反形式主義的な現実感がある。これは原ローマ文化としてローマの芸術の底流に入ったに違いない。
エトルリア美術

前6世紀末ごろ,ローマ人はイタリアに住む他の民族を征服してローマ共和国を建てた。彼らは強力な政治的・軍事的組織をもち,世界支配の意志をもっていた。ローマ人は政治家または軍人であって,芸術に対する考えも政治的かつ軍事的であった。初め彼らはギリシアやエトルリアの芸術を〈戦利品〉として持ち帰る。ローマ人が,ギリシアの遺品の模写,模刻に徹したのも,本来彼らにとって芸術品が招来品であったからである。前1世紀アウグストゥス帝の治世に,ローマ帝国は帝国の威信のためにギリシア古典期の芸術を公的芸術として採用し始めた。この際に,現在では失われている多くのギリシアおよびヘレニズムの彫刻作品が模刻され,名画のコピーが行われた。今日われわれがギリシアの芸術について知っている多くのことは,ローマを経て伝えられたものである。ローマが4世紀までに支配した領土は現在のヨーロッパのすべてと東地中海ならびにアフリカ地中海沿岸に及ぶ。395年東西に分裂したのちも,ローマの文化は東西両ローマ帝国の旧領地に残った。

 ローマの世界文化的性格は,都市計画と土木事業に最もよく表れている。カエサル,アウグストゥス,アグリッパなどは,彼らの政治的・軍事的統治力を視覚化するため,公共的でモニュメンタルな集合的芸術を創造した。ここに初めて,統治の中心でありシンボルでもあるメトロポリス(大首都)の空間,すなわち広場,尖塔,円柱,アーチ,計画的市街と緑地(公園),浴場などの娯楽設備,図書館などのアンサンブルとしての都市のプランが誕生した。アウグストゥス時代の建築の理念を示すものに,ウィトルウィウスの《建築十書》がある(これは15世紀に再生した)。ここには,人間と宇宙をつなぐものとして都市を造り,それぞれの機能にしたがって建造物を建てるための実用的な方法が詳しく述べられている。
ローマ美術

古代ローマがキリスト教を国教としたとき(313),芸術は,本来神を目に見えぬものとして図像に表すことを禁ずるヘブライの偶像否定の思想と,神性を神人同型論的な形象によってのみ着想しうるヘレニズムの文化の併存という大きな矛盾をかかえこんだ。ヘレニズムの形式にいかにしてヘブライの宗教を注ぎこむか,不可視なものをいかにして形象化するか。この対立する命題が,カタコンベからゴシックにいたる全中世の文化を貫き,これに対する各国家,各地方,各時代の解答がそれぞれの中世美術を特徴づけている。ビザンティンとは違い,西欧諸国には,かつて所有した古典古代の豊かな形象の伝統が,象徴によって神性を暗示しようとする新たな傾向とたえず混在しつつ生き残り,形を変えていくたびか再生した(その再生の,最終的な,また徹底した成果が,13世紀から15世紀にかけて進行したルネサンスだということができる)。したがって,西欧中世美術は,一方で,まずいち早く宗教的図像を決定しこれを厳格に伝承した東方キリスト教・ビザンティンの芸術に強く感化されたが,土台としてのヘレニズム,ゲルマン的ヘレニズムともいうべきカロリング朝文化,またゲルマン,ノルマン,ケルト人などいわゆる蛮族のもつ固有の民族的文化などの複雑な混合体であった。

自然的形象と象徴的表現の混合は,初期キリスト教美術(4~5世紀ころ)においては,まず,既存のヘレニズム的形体をキリスト教の象徴とみる(例えば,クピドを天使,オルフェウスをキリストとみるなど)象徴主義から,しだいに形象の自然的要素(空間表現,量感,動作など)を脱し去り,これを抽象化(二次的空間と平面的形体,リアリティと自然らしさの消滅,物語性の重視など)する方向へと向かった。たとえば初期バシリカの一つローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会の身廊とアルコ・トリオンファーレ(4~5世紀)のモザイクなどがその例である。ここでは自然を写す要素のすべてが,神の世界を啓示する表現主義的,抽象的,ときに主観的表現法へと推移するプロセスが見られる。

 同じく,古代ローマの世俗的集会堂であったバシリカが,キリスト教徒の聖堂へと転用され,墓室や神殿に用いられた円堂が洗礼堂などに用いられたことも同様のプロセスを示している。長方形のプランをもち,入口の反対側に聖域としてのアルコ・トリオンファーレとアプスをもつ3廊形式のバシリカは,俗界から入って神へと進むキリスト教的信仰の空間に合致している。また調和的世界の象徴である円堂(集中式プラン)は,権威的空間ではなく平和と和合の空間として,バシリカとともにキリスト教建築の伝統の二大形式となった。前者はローマのサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ教会,後者にはラベンナのサン・ビターレ教会がある。これらはいずれも,キリスト教文化が古代ローマの遺産の上に築かれたことを示している。

7世紀から11世紀まで西欧は混乱期にあり,東方ビザンティン帝国の勢力には遠く及ばなかった。しかし11世紀に入るころ,各地には経済力の復興とともに都市が興り,新しい階層,すなわち職人,商人などの市民が新たな文化の担い手として現れる。イタリアでは,古代ローマ都市のあった場所に都市が次々と復興したが,このとき,古代の遺跡を補修,改造し,再生させるのが常であった。これらの小都市に王,皇帝の強権は及ばず,市民は自己の責任によって自己の職分をまっとうすることができた。これらの都市を〈コムーネ〉といい,その市民は自律の意識をもつと同時に,神聖ローマ皇帝および東方教会に対して,真のローマ人の子孫という自負を抱くようになり,ここに本来ラテン的な性格をもつ中世文化が封建的クリマの中に成立する。これを〈ローマ的芸術〉すなわちロマネスク(イタリア語ではロマニコromanico)と呼ぶ(ロマネスク美術)。ロマネスク芸術の中心はコムーネの精神的(ときに政治的)中心としてのカテドラル(大聖堂)であった。ミラノのサンタンブロージョ教会(850年建立,9~12世紀改造)はイタリアのロマネスク聖堂の母であり,素朴な信仰心を示す飾りけのない簡潔な構成と,古典的バランスとエレベーションの象徴的形式とを併せもつ空間を造っている。これは封建領主の力が強大で,位階制が強く人々を支配していた他の諸国と異なり,イタリアにはコムーネの自治の精神が強かったためであろう。ルッカ,ピサ,ピストイアなど,トスカナ地方にはとくにすぐれた工人が輩出し,古代ローマの石積みの技術を復興させたかのごとき,みごとな調和的空間をつくり出している。彫刻も,ドイツ,フランスのロマネスクのような象徴性,デフォルメは少なく,素朴ながら生き生きとした量感をもつ彫刻家ボナンノ・ピサーノBonanno Pisanoの例(ピサ大聖堂の正面扉口,12世紀半ば)などがある。

このような産業と通商による富の増加,これに伴う市民層の興隆,都市の繁栄は,12世紀になると西欧全体にわたり,ビザンティンの勢力の衰退とあいまって,西欧は初めて自己の独自性を示す固有の文化的完成期を迎えることとなった。この時期をゴシック(イタリア語ではゴティコgotico)と呼ぶ(ゴシック美術)。ゴシック建築はリブ・ボールトを特徴とし,垂直方向に高く伸びたカテドラルが,フランス,ドイツで建てられた。これは北フランスを起源とし,各地に散在するシトー会修道院によって全ヨーロッパに広まった。しかし,イタリアのゴシック式聖堂は水平垂直のバランスを重視し,霊の昇華よりはむしろ調和を目的として建造されている。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会(ファサードは19世紀のもの),シエナの大聖堂はイタリア・ゴシックの典型例である。一方ミラノの大聖堂はドイツの工人によって建てられ,抽象的上昇構造によってファンタスティックな北方ゴシック様式を示している。彫刻では,東方貿易によって最も活気あるピサがニコラ・ピサーノ,ジョバンニ・ピサーノを生み,古代ローマ石棺彫刻に見られた激情的な人間像を再生させている。

1337年に没したジョットは,パドバのスクロベーニ礼拝堂の〈キリスト伝〉において,初めて自己の意志で空間の中に立つ人物とその環境とを描き出した。ルネサンス(イタリア語ではリナシメントRinascimento)の美術はここから始まるといってよい。ジョットの師チマブエ,その同時代人シエナのドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャは,近代化したゴシックと考えられる。ジョットと彼らとの間に相違を見いだすことは図像学的には困難だが,何にもまして空間の合理的構成に大きな差を指摘できよう。ジョット以後,15世紀のマサッチョ,ピエロ・デラ・フランチェスカ,レオナルド・ダ・ビンチまで,ルネサンスの画家は幾何学的遠近法,解剖学,人体比例法を科学的に研究し,現実的空間の客観的再現に努力した。これは,現実を正確に把握することを意味し,常にコムーネにおける他と我との均衡を重んずる市民的世界像の造形的表れであり,この点でポリス世界から生じたギリシアの古典主義と照応している。一方,国際ゴシックの優美な形式主義は,フラ・アンジェリコ,ボッティチェリに受け継がれた。建築では,ブルネレスキが古代ローマ建築を研究して,パッツィ家の礼拝堂などに古典的比例を回復し,アルベルティはウィトルウィウスにならった〈十書〉構成の,ラテン語によるルネサンス最初の建築書を著した。彫刻ではドナテロが古代彫刻の比例とリアリズム,これにゴシックの精神を加えて偉大な先例をつくったが,ベロッキオは表面的な写実に堕したというべきであろう。ベロッキオの弟子レオナルド・ダ・ビンチは,見えるものと見えざるもの,すなわち形式と精神との完璧な表現とその一致を追求し,《最後の晩餐》図によって,古代以来かつてなかった両者の統一を成就した。しかし,16世紀に入るとこの均衡は再び崩れ,芸術は,より新しい主観主義へと傾く。ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現したが,16世紀とともに危機に向かうイタリアの世界観を表現し,新たな象徴主義へと向かった。システィナ礼拝堂の《最後の審判》はその危機の表現である。一方,ベネチアは最も安定した都市国家として,この間も,G.ベリーニ,ジョルジョーネ,ティツィアーノという形式と精神の幸福な一致を示す巨匠を生んでいる。
ルネサンス美術

13世紀から15世紀末まで,実証的認識に価値を見いだしていた市民層の芸術であったルネサンスは,その社会の崩壊とともに危機を迎えた。市民の経済を支えていた地中海貿易は破産し,フランス,スペインはイタリアを植民地化し,宗教改革はローマ教会を直撃した。また地動説はスコラ哲学の基礎であったアリストテレス以来の人文主義的世界観を動揺させ,ルネサンスの基盤は失われる。この危機を代表するものがミケランジェロ,ポントルモ,ロッソ,パルミジャニーノ,ティントレットなど,マニエリスムの芸術である。彫刻ではジャンボローニャGiambologna(1524-1608)が代表する。彼らは歪んだ比例,かたよった空間,奇想にみちた象徴的表現などによって,形象では表し得ぬ思想や情念を表現しようとした。
マニエリスム

ルターの打撃を受けた教会は,トリエント公会議(1563終了)以後,近代的宗教芸術の育成に努め,アンニーバレ・カラッチの明晰な古典主義と,カラバッジョのリアリズムが民衆教化の新たな様式として多大の人気を博した。これをもってバロックの開始とする。しかし,本来のバロックは,彫刻家,建築家,都市計画家G.L.ベルニーニのダイナミックで演劇的な芸術様式を指す。同じく建築家F.ボロミーニ,G.グアリーニは,曲線にみちた流動的な空間を創造し,建築の概念を革新した。画家ではピエトロ・ダ・コルトナ,A.ポッツォが,イリュージョニスティックな天井画を描いて信者を天国へと誘った。
バロック美術

18世紀は,ベネチアが,印象主義の真の祖とも呼びうる〈ベドゥータveduta(眺望画)〉によって,現代を予告している。カナレット,F.グアルディは,外光の描写を初めて実現した。また,ローマでは建築家G.B.ピラネージが古代ローマの遺跡の版画集を出版し,新古典主義に大きな刺激を与えた。しかし,大勢は無気力なアカデミズムにおおわれ,彫刻家A.カノーバのみが,わずかにヘレニズム的なアカデミズムを見せ,古代ローマのなごりを伝えている。新古典主義のメッカとしてイタリアはヨーロッパの芸術家の巡礼の地となっていたが,活気ある芸術活動は起こらなかった。1848年にイタリアの独立と統一を求める戦争が起こり,それはようやく70年のローマ併合により達成されたが,すでに産業革命を成し遂げ,着々と近代化しつつあった先進国に対し,イタリアは大きな遅れをとっていた。統一戦争に加わった愛国者たちは,国民の悲惨さを訴える〈ベリズモverismo(真実主義)〉に傾き,ミラノでは,イタリアのロマン派ともいうべき〈スカピリアトゥーラ派〉が出た。この中では彫刻家M.ロッソがロダンに劣らぬ悲劇的な生命力を表現した。フランス印象主義もイタリアではセガンティーニの象徴主義的傾向に変質している。イタリア人は,印象派の純粋な光学的実験には興味をもたなかった。

20世紀の初頭,イタリアは急速に工業化し,勃興する労働者階級の反抗と,先進諸国に伍して急激に進められた植民地拡張運動につきものの国粋主義の台頭との間で,芸術家およびその作風は大きく動揺していた。総じて,イタリアの現代美術の特色は,芸術がイデオロギーと密接に結びついているという点にあり,労働者側に立つ芸術家はリアリズムを,工業化と近代化に共感する者は抽象主義を,国家主義と体制に従う者はアカデミズムを,それぞれ主張した。

 新しい工業化社会に賛同し,旧来の社会に反逆する最も過激なマニフェストは,1909年,文学者F.マリネッティによって出された〈未来派宣言〉と,これに続く未来派の運動である。U.ボッチョーニは空間芸術の中に時間を導入しようとし,バラGiacomo Balla(1874-1958)は光と色によるダイナミズムを表現した。だが,何よりも重要なことは,彼らが芸術諸ジャンル間の境界,および芸術創作と人生との境界を外し,あらゆる前衛芸術の方向づけを行ったことにある。第1次大戦ののちも,ミラノには,未来派の系譜を継ぐプランポリーニEnrico Prampolini(1894-1956),ソルダーティAtanasio Soldati(1896-1953)などのダイナミックな抽象画の流派が根強かった。一方,イタリアには,A.モディリアニ,G.モランディ,G.deキリコをはじめとして,彫刻家M.マリーニ,ファッツィーニPericle Fazzini(1913-87),G.マンズーなど20世紀の具象芸術を代表する系統もあった。

 第2次大戦ののち,社会主義リアリズムの理論を掲げる具象派のグットゥーゾRenato Guttuso(1912-87)はイタリア左翼の具象芸術を代表し,トゥルカートGiulio Turcato(1912- ),ベードバEmilio Vedova(1919-95)らは抽象的手法を主張し論争を巻き起こした。1950年代以後,すでにタブローとしての芸術をこえて,材質そのものをコラージュするブリAlberto Burri(1915- ),キャンバスをかみそりで裂くL.フォンタナ,物質そのものを提示するマンゾーニPiero Manzoni(1934-63),クーネリスJannis Kounellis(1936- ),パオリーニGiulio Paolini(1940- )など,芸術の領域の変質を迫る運動が活発となった。今日,イタリアの現代画家は,テクノロジーの利用,ボディ・アートなどさまざまな可能性を探求する国際的な動きの中で,その第一線に立っている。彼らにとって,芸術を思想的表現の道具としてきた人文主義の伝統は,新たなコンセプチュアル・アート(概念芸術)の裏付けとなっている。また,積み重ねられた数千年の造形の重みは,否定の契機として大きなエネルギーを発揮しているのである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア美術」の意味・わかりやすい解説

イタリア美術
イタリアびじゅつ
Italian art

ローマ美術に先行するものとして重要なのは,マグナ・グレキアにもたらされたギリシア美術,および前7~2世紀のエトルリア美術である。ポンペイ,ヘルクラネウム,エルコラーノの美術はローマ美術に入れられる。1世紀末頃からローマ時代末期4~5世紀頃にはカタコンベ美術を代表とする初期キリスト教美術が現れ,5世紀には東ローマ帝国にビザンチン美術が開花し,6世紀ラベンナに,モザイクの美しさで知られる聖堂が建てられた。4~13世紀のイタリア中世美術は,ビザンチン美術の影響を強く受けてイタロ・ビザンチン様式を生み,またフランスを中心としたロマネスク,そしてゴシックの影響も受けている。彫刻ではウィリジェルモ・ダ・モデナやアンテラミが活躍した。しかし 13世紀になると,中部イタリア地方のトスカナ派美術はイタリア的個性を強め,その伝統を継ぐ 13世紀中葉のチマブーエに始るフィレンツェ派美術およびドゥッチオに発するシエナ派美術を中心に,ルネサンス美術が 14世紀に開花した。ジョット,マサッチオ,ボティチェリに代表される 14~15世紀の初期ルネサンスに続き,16世紀初頭にはレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロ,ミケランジェロで代表される古典主義的な盛期ルネサンスがローマを中心として展開した。その間,イタリア各地にウンブリア派,ミラノ派,ベネチア派など多数の美術流派が生れた。 16世紀後半は,晩年のミケランジェロ,ティツィアーノ,ティントレット,ベロネーゼにいたって,マニエリスムの兆候も現れてくる。マニエリスムの代表的画家には,ポントルモ,ブロンジーノ,ロッソ・フィオレンティーノがいる。 17世紀,バロック美術の時代を迎えると,彫刻のベルニーニ,絵画のカラバッジオ,カラッチなどが動きのある劇的な作品を生み出した。 18世紀以後はグァルディ,カナレットらベネチア派の風景画,ロココ風のロンギとティエポロの絵が注目される程度で,美術の中心はフランスおよび他のヨーロッパ諸国に移り,19世紀後半の印象派風のマキアイオリの一派やセガンティーニが注目される程度であった。 20世紀に入ってからはカルラ,バルラ,セベリーニらの未来派およびキリコの形而上絵画,その他,モランディ,モジリアニ,彫刻ではマリーニなどが登場し活発な美術運動が展開された。第2次世界大戦以後の現代美術においても,様式の急激な国際化のなかで,芸術家たちはよくその個性を保ち,伝統の維持と絶えざる革新を続けつつある。

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