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イタリア美術 イタリアびじゅつItalian art

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア美術
イタリアびじゅつ
Italian art

ローマ美術に先行するものとして重要なのは,マグナ・グレキアにもたらされたギリシア美術,および前7~2世紀のエトルリア美術である。ポンペイヘルクラネウムエルコラーノの美術はローマ美術に入れられる。

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世界大百科事典 第2版の解説

イタリアびじゅつ【イタリア美術】

イタリア美術,広くはイタリア文化の特質は,イタリア半島の地理的位置に条件づけられている。この半島は,アルプスの根もとから出て地中海へと長く伸び,その南端であるシチリア島アフリカ北岸に近接している。また本土の南東側はギリシア向き合い,東地中海全域に交通の便がある。一方内陸ではアルプスを越えて西ヨーロッパと通じ,沿岸を通って東ヨーロッパと通じている。以上のような地理的形勢によって,イタリアは,ヨーロッパ大陸の,地中海への突堤となり,地中海世界が世界文明の中心であった古代から16世紀にかけて,常に世界史,世界文化の中枢であり続けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア美術
いたりあびじゅつ

古代ローマルネサンスの世界史上における意義は別にしても、イタリアを舞台に盛衰を繰り返した美術の歴史は、ヨーロッパ美術の基本的な動向と密接なかかわりをもつ局面が少なくなかった。すなわちイタリア美術においてのみ、古代から近代に至る美術様式の推移を一貫して把握できるのである。イタリア美術がその独自の特質を具備するに至るのはロマネスク以降においてであるが、古代ローマの伝統はイタリア中世美術の特質を規制し、ルネサンス美術の出現にも重要な関係をもっている。
 エトルリア美術の流れをくむ量感豊かな穹窿(きゅうりゅう)(ボールト)を頂く古代ローマの建築は、ローマやアンティオキアなどの地中海地域の各都市に共通してみられる、いわば国際的様式を備えていた。これに対し彫刻や金属工芸、象牙(ぞうげ)彫りなどは帝国の領土拡張とともに属領各地域のものと混合しあい、それぞれ独自の様式を生み出していった。しかしキリスト教の勝利はこれまでの現世的な人間主義を否定し、それを肯定する美術表現に反発する。その結果として、三次元的な人体像や奥行のある現実空間の表現は厳しく戒められた。[濱谷勝也]

中世


5~9世紀
ローマ帝国の衰退は政治上の拠点の交代や勢力関係の変動を招来した。ラベンナではラテン人(当時の西ヨーロッパ人の一般的呼称)による支配がゴート人に奪われ、さらにビザンティン帝国に併合されるが、約2世紀に及ぶ帝国の統治期間(540~751)にサン・タポリナーレ・ヌオーボ聖堂、サン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、サン・ビターレ聖堂やガッラ・プラキディア廟(びょう)が造営された。ラベンナに根を下ろしたビザンティン美術の伝統は、その後ベネチアに相続され、829年にサン・マルコ大聖堂が創建された。一方、6世紀後半におけるランゴバルド人の北イタリア侵入は、この地域における金属工芸の発展を促すことになり、9世紀前半からのイスラム教徒による南イタリア、シチリアの攻略は、アマルフィ、パレルモあるいはモンレアーレの各大聖堂の装飾デザインにイスラム美術の影響の跡をとどめることになった。北イタリアのロンバルディア地方では7世紀中期からマエストリ・コマチーニmaestri comaciniとよばれる建築家たちによる重厚、簡潔な建築が行われ、ロマネスク様式の出現を予告する。[濱谷勝也]
ロマネスク
10世紀後半から12世紀にかけて、神聖ローマ帝国の成立、十字軍の遠征あるいは教皇権と皇帝権の対立などの政治的動乱に巻き込まれながらも、イタリアはロマネスク美術において数多くの創意あふれる作品を残している。建築ではヨーロッパで最初にリブ穹窿を取り入れたミラノのサンタンブロージョ聖堂やバシリカ式プランによるモデナ、パルマおよびフェッラーラの各大聖堂が代表的事例とされている。また彫刻家ビリジェルモWiligelmo/Viligelmo(生没年不詳)やベネデット・アンテーラミによってモデナやパルマの大聖堂に制作された彫刻には、フランスからの影響が指摘される。またベローナ(サン・ゼーノ聖堂)まで波及したビザンティン美術の拠点はベネチアにあったが、同地にコンスタンティノープル由来のプランによってサン・マルコ大聖堂が再建・献堂されたのは1094年のことである。トスカナ地方の建築家たちはフィレンツェのサン・ミニアート聖堂やピサ大聖堂にみるように、端正な形態を多色大理石で装い、独自の様式を確立した。ノルマンの支配下に置かれていた南イタリアやシチリアには、ビザンティン、イスラムおよびノルマンの各要素の混合した特異の様式がアマルフィ、チェファルー、パレルモなどの大聖堂に残されている。[濱谷勝也]
ゴシック
12世紀中期以降アルプス以北の西ヨーロッパに広く伝播(でんぱ)しつつあったゴシック様式は、13世紀になるとイタリアにも浸透し始めた。14世紀初頭における教皇のアビニョン幽閉や神聖ローマ帝国の衰退は、イタリア全土にわたる都市国家の成立と、それに伴う都市整備の気運を促すことになる。なかでもフィレンツェは建築活動がもっとも盛んで、サンタ・クローチェ聖堂、サンタ・マリア・ノベッラ聖堂、フィレンツェ大聖堂、パラッツォ・ベッキオなどが造営され、また大聖堂のカンパニーレ(鐘塔)やクーポラ(丸屋根)の建立も計画された。
 一方、彫刻においてはニコラ・ピサーノが古典様式に物語性を盛り込むことによって独自の手法を確立し、息子ジョバンニ・ピサーノをはじめアルノルフォ・ディ・カンビオやティーノ・ディ・カマイノTino di Camaino(1285ごろ―1337)らの弟子を育てるが、この流派によって形成された彫刻の様式は13世紀後期のイタリア美術を主導していった。
 絵画ではジョバンニ・チマブーエがビザンティン様式を継承し、ピエトロ・カバリーニやヤコポ・トルリティJacopo Torriti(生没年不詳)は古代美術の伝統にのっとりながら物語表現を開拓する。それをさらに発展させて人物描写に斬新(ざんしん)な写実を示したジョットは、美術史上特筆される業績を残している。シエナ派のドゥッチョは繊細な色彩画家であったが、その弟子シモーネ・マルティーニは同地におけるゴシック様式の旗手である。またピエトロ・ロレンツェッティはジョットの物語表現を伝承しており、その弟アンブロジオ・ロレンツェッティは最初の風景画家であった。14世紀中期には絵画に装飾的で華麗な後期ゴシック様式が流行するが、その渦中にあってアンドレーア・オルカーニャは雄勁(ゆうけい)な個性的画風を形成する。この時期の建築における注目すべき成果の一つにベネチアのパラッツォ・ドゥカーレやカ・ドーロといった都市建造物にみる建築デザインがある。[濱谷勝也]

ルネサンス


15世紀
13世紀の初頭以来イタリアを風靡(ふうび)したゴシック様式からこの国の美術が脱却していくのは、15世紀前半期のフィレンツェにおいてであった。この時期、ロレンツォ・ギベルティは半世紀を要した洗礼堂の2個の門扉(もんぴ)の制作を進め、ドナテッロは大聖堂やオル・サン・ミケーレ聖堂での初期の作品を完成して円熟期を迎え、そしてフィリッポ・ブルネレスキは大聖堂のクーポラを完成しているが、彼らはいずれも古典様式を摂取・消化し、それを当代の美術制作に生かした人々である。またレオン・バティスタ・アルベルティは古代建築の理論的研究によって新様式を開拓しようとした。さらにベルナルド・ロッセリーノやデジデリオ・ダ・セッティニャーノDesiderio da Settignano(1430?―1464)が制作した壁面墓碑でも、中世以来の伝統様式に対する古典様式の影響は見逃せない。
 フィレンツェ絵画における近代化の最大の立役者はマサッチョであるが、彼はジョットの画法に立脚しながらこれを発展させ、荘重な人物表現と透視図法に卓抜な手腕をみせている。また、フィレンツェ派の解剖学や透視図法の研究に基づく絵画表現に独自の採色法を結び付けたのは、ドメニコ・ベネチアーノである。フラ・アンジェリコは初めこの2人の画家に学ぶところが多かったが、結局はゴシック様式に回帰し、深くこれに沈潜していった。これに対し他の地域は多少フィレンツェと様相を異にしている。シエナではサセッタが依然としてゴシック風の画法に執着しているのに対し、ウンブリア地方ではピエロ・デッラ・フランチェスカが明るい色調を幾何学的に整えられた構図に調和させ、独特な味わいを画面に打ち出した。北イタリアのパドバではドナテッロと古代美術に深く影響されたアンドレア・マンテーニャが堅牢(けんろう)かつ彫塑的な絵画様式を確立している。
 15世紀のベネチア絵画はベッリーニ父子に代表される。ゴシック様式の洗礼を受けながら成長した父ヤコポ・ベッリーニは自己の作風を確立する基礎に透視画法を置いた。息子のジェンティーレ・ベッリーニは詩趣に富んだ物語表現に優れ、光の扱い方にとくに着目していたが、その弟ジョバンニ・ベッリーニはマンテーニャとアントネッロ・ダ・メッシーナとの接触により、この2人から深く感化されて、静穏で気品のある画風を完成した。15世紀末期になると美術表現に若干の注目すべき新機軸がもたらされる。建築にはドナート・ブラマンテやレオナルド・ダ・ビンチによる集中式プランのクーポラを中心とする聖堂建築の構想が現れる。彫刻ではアンドレーア・デル・ベロッキオが動感の表現効果を高めるために光の働きを応用する。そして絵画ではビーナスや聖母を好んで描いたサンドロ・ボッティチェッリが、形式化と理想化を融合させた繊細な表現で詩的な情趣を高めるが、そこにはゴシックに対するこの画家の趣向が感じられる。またレオナルドは、立体表現における明暗の微妙な推移や輪郭を軟らかくぼかして描く、いわゆる「スフマート」sfumatoを創始する。しかし彼の関心は視覚の対象物すべてにわたるのであり、身をもってウォーモ・ウニベルサーレuomo universale(万能の人)たらんと努めたのである。[濱谷勝也]
16世紀
16世紀に入ると美術制作の中心地はローマに移る。当初その立役者となるブラマンテは、教皇ユリウス2世からバチカン宮の諸建築全体を統合する計画を課せられ、まず新サン・ピエトロ大聖堂の設計に着手した。彼の設計は後継者たちによって変更され、しかも工事は進まず晩年のミケランジェロが登場して大いに促進するが、完成には至らなかった。クーポラも彼自ら作製した木製モデルによって、没後に完成された。ブラマンテに推挙されたラファエッロはバチカン宮の各所に壁画を制作したが、着想、構図、劇的表現効果にその傑出した創意が示されている。彫刻家をもって自任したミケランジェロは絵画と建築とを彫刻的に扱う場合が多かったが、メディチ家礼拝堂やシスティナ礼拝堂の壁画・天井画にその構想がよく実現されている。
 16世紀ベネチア美術の主流はやはり絵画であった。そして光の機能を生かした暖かい色彩法が理想とされたが、老境にあったジョバンニ・ベッリーニ、円熟期にあったジョルジョーネ、そしてまだ青年期にあったティツィアーノによって、それが着実に実現されていった。そのほか、コレッジョがパルマにあって、バロック様式の先駆者にふさわしい光と動感にあふれる感覚的な絵画を生み出していた。[濱谷勝也]

マニエリズモ

16世紀後半に始まる反宗教改革の運動は、感覚的陶酔を伴う宗教精神を生み出すことになった。その結果、明暗の鋭い対比や絢爛(けんらん)たる色彩などを特徴とするマニエリズモ(マニエリスム)とよばれる様式が現れる。北イタリアのマントバで活躍した建築家ジュリオ・ロマーノとパルマの画家パルミジアニーノがこの様式の先駆者である。フィレンツェではバッチオ・バンディネッリBaccio Bandinelli(1488/1493―1560)、バルトロメオ・アムマナーティそれにジャンボローニャGiambologna(ジョバンニ・ダ・ボローニャGiovanni da Bologna、ジャン・ブーローニュJean Boulogneともいう。1529―1608)らの彫刻家や、ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノあるいはアーニョロ・ブロンツィーノらの画家が、この様式にふさわしい創意と技巧をそれぞれに発揮している。ベネチア周辺の地域ではアンドレア・パッラディオを代表格とする建築家たちによって古典様式の復活が試みられるが、その外観効果にはマニエリズモの特徴が示されている。ベネチアの絵画ではティントレット、ボニファーチオ・ベロネーゼ、それにレアンドロ・バッサーノの個性豊かな構図と色彩が注目を引く。ローマの建築に現れたマニエリズモの事例としては、ジャコモ・ビニョーラの設計したイル・ジェズ聖堂があげられる。[濱谷勝也]

バロック

反宗教改革によってヨーロッパでの権威を取り戻したカトリック教会の本拠地ローマは、17世紀になってふたたび美術制作の主導権を手中にする。そして美術家たちは建築、彫刻、絵画の限界を除去して単一体に融合しようとする傾向をみせ始めた。バロックという様式名でよばれるこの傾向の、建築における代表例はジョバンニ(ジャン)・ロレンツォ・ベルニーニが設計したサン・ピエトロ広場のコロネード(回廊)である。この建築はもちろんのこと、これと前後してピエトロ・ダ・コルトーナやフランチェスコ・カステッリ・ボロミーニの設計した諸聖堂は、いずれも幾何学的構成による大胆な形態によって、教会の権威を感覚的に訴えようとするものであった。なお彫刻家としてもこの時代を代表するベルニーニの作品には、感情表現の強調に伴う技巧の過剰が否めない。
 17世紀の絵画は、当時ともにローマに居住していたカラバッジョとアンニバーレ・カラッチに代表される。迫力のある人物表現と人工的な光で特徴づけられるカラバッジョの誇張された自然主義は、海外まで影響力をもつに至った。一方ラファエッロに強く感化されていたカラッチは、よりアカデミックな画法によってドメニキーノやグイド・レーニを育成している。[濱谷勝也]

近・現代


19世紀
18世紀中期からイタリアでは、バロックに対する反動としての新古典主義の胎動が始まる。ポンペイの発掘やローマ滞在中のヨハン・ヨアヒム・ウィンケルマンやアントン・ラファエル・メングスの活動に刺激され、古典美術に規範を求めて、それに準拠しようとする新傾向である。イタリアにおいてこの傾向に同調し、それにふさわしい才能を発揮したのは彫刻家アントニオ・カノーバである。ロマンチシズムはイタリアにはほとんど浸透しなかったが、19世紀においては象徴的な風景画で知られるジョバンニ・セガンティーニとマッキアイオーロmacchiaiolo(点描派)とよばれる一群の画家たちのみが、ヨーロッパ的水準に達する作品を残している。[濱谷勝也]
20世紀

第二次世界大戦まで
イタリア美術の20世紀を開始するのは、1909年2月20日、詩人フィリッポ・マリネッティによって『ル・フィガロ』誌上で宣言された未来派(未来主義)である。機械文明において顕著となった速度と力、そして騒音までをも賛美し、そうした新たな感覚の表現のためには破壊的行為も辞さないとしたこの運動のメンバーには、マリネッティのほか、ジャコモ・バッラ、ジーノ・セベリーニ、ウンベルト・ボッチョーニなどがいたが、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、ボッチョーニが早世した1910年代なかばには終息してしまう。しかし詩、絵画、彫刻、演劇、音楽の諸ジャンルを同一の信条において自覚的に総合しようとしたこの運動が、この時期の芸術の中心であったパリではなくイタリアでおこったことの意義は大きい。また、ダダやロシアのレイヨニスム(光線主義)、イギリスのボーティシズム(渦巻主義)など後の芸術運動に与えた影響は少なくない。むろんパリに引き寄せられた芸術家もいて、デ・キリコは形而上絵画の様式を完成させ、モディリアニは黒人彫刻の簡潔な造形感覚とともにトスカナ的な優美な曲線をもつ彫刻と肖像画を制作していた。[保坂健二朗]
第二次世界大戦以降
第二次世界大戦後、レナート・グットゥーゾRenato Guttuso(1912―1987)を指導的画家とし、社会主義的リアリズムの関心に支えられた「新芸術戦線」の運動があった。1950年代にはルーチョ・フォンタナがミラノで「空間主義」の運動を推進した。このフォンタナやアルベルト・ブーリの影響を受けたのが、ピエロ・マンゾーニPiero Manzoni(1933―1963)である。モノクロミズムの先駆者としても知られる彼の作品は、自らの排泄(はいせつ)物を缶詰にしたものなど、芸術と芸術家の境界を無効としながら、物質と精神の距離の再構成を図る実験的なものであった。こうした姿勢を継承し、発展させたのがイタリアの戦後芸術を代表する「アルテ・ポーベラArte Povera」である。「貧しい芸術」の意をもつそれは、広義では、1960年代末から1970年代初頭にかけてイタリアでみられた新しい芸術の動向、すなわち、木、ガラス、布、水などといった、従来の尺度からすれば「貧しい」素材を直接的に使用し、ルネサンス以来の既存の価値観への疑義を表現した概念的な作品をさす。ミケランジェロ・ピストレットMichelangelo Pistoletto(1933― )、ジョバンニ・アンセルモGiovanni Anselmo(1934― )、ルチアーノ・ファブロLuciano Fabro(1936―2007)、マリオ・メルツMario Merz(1925―2003)、ヤニス・クネリスJannis Kounellis(1936― )、ジュゼッペ・ペノーネGiuseppe Penone(1947― )などがその代表である。
 1980年前後、ネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義、ニュー・ペインティングともよばれる)が世界的な動向として興隆していたが、これに並行するかたちで絵画に物語性、神話性を復権したのが、サンドロ・キアSandro Chia(1946― )、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッキEnzo Cucchi(1949― )である。各姓の頭文字をとって3Cとも称される彼らは、アキッレ・オリーバAchille Bonito Oliva(1939― )によって「伝統的な表現による非政治的、折衷的な表現」と定義されるところの「トランスアバングァルディアTransavanguardia」の動向を代表している。[保坂健二朗]
建築
建築では、政治的機能を担いつつモダニズムの極北的形体を備えたジュゼッペ・テラーニらのファシズム建築や、アントニオ・サンテリアによる社会主義的提案である「新しい都市La Citta Nuova」の思想がファシズム期前後にあった。一方国際様式は、ジオ・ポンティなどの例外を除き、さほど隆盛をみなかった。しかし20世紀イタリア建築を代表するのは、カルロ・スカルパやアルド・ロッシなどにみられるような、素材感ある幾何学的形体を明快に組み合わせながら、ときにアクセントとして原色を加えていく手法であり、それはデザインにおいても認めうる特徴となっている。またレンゾ・ピアノは、ハイテックながらも、機能をシンプルで優雅な形体に置き換える点で名高い。[保坂健二朗]
デザイン
デザインでは、エットーレ・ソットサスEttore Sottsass Jr.(1917―2007)、アレッサンドロ・メンディーニAlessandro Mendini(1931― )らが参加したデザインスタジオ、「アルキミアAlchimia」や、そこから発展していった「メンフィスMenphis」が、1980年代のデザイン界を主導した。また、ジョルジュ・ジウジアーロなどによるプロダクト・デザイン、とりわけ車のそれは、他の追随を許さぬ感がある。服飾デザインにおいてイタリアは、1970年代に若手デザイナーがフランスから戻り自らのブランドをたちあげて以降、世界の耳目を集め続けている。だが20世紀末にはそうしたオートクチュール型の服飾デザインの自立性も、ヨーロッパを中心とした資本提携の結果、みえにくくなっていった。そうしたなか、高品質低コストの衣料を生産しグローバルな展開を目ざすベネトンが、写真家オリビエ・トスカーニOliviero Toscani(1942― )を起用した自社広告において提起したのは、広告と倫理、文化と消費の関係という高度に成熟した資本主義の問題にほかならなかった。
 芸術が資本と不可分の様相を呈していくなかで、イタリアは美術、建築を対象としたべネチア・ビエンナーレや建築、都市計画、デザイン、ファッションなどを対象としたミラノ・トリエンナーレをはじめとする定期的で大規模なイベントを有しており、諸芸術の発信地であり続けることに成功している。[保坂健二朗]
『ルードヴィヒ・ハインリヒ・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳『イタリア・ルネサンス1400~1460』(1975・新潮社) ▽アンソニー・ブラント著、中森義宗訳『イタリアの美術』(1978・鹿島出版会) ▽摩寿意善郎著『イタリア美術史論集』(1979・平凡社) ▽主婦の友社編・刊『エクラン世界の美術7 イタリアA 古代ローマ遺跡』『エクラン世界の美術8 イタリアB フィレンツェ美術』(1981) ▽『原色世界の美術3 イタリア1 ウフィッツィ美術館』『原色世界の美術4 イタリア2 ヴァチカン美術館』(1987・小学館) ▽井関正昭著『イタリアの近代美術1880~1980』(1989・小沢書店) ▽マクス・ドヴォルシャック著、中村茂夫訳『イタリア・ルネサンス美術史』上下(1988、1990・岩崎美術社) ▽田中英道著『イタリア美術史 東洋から見た西洋美術の中心』(1990・岩崎美術社) ▽『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』『世界美術大全集8 ロマネスク』『世界美術大全集9 ゴシック1』『世界美術大全集10 ゴシック2』『世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1』『世界美術大全集12 イタリア・ルネサンス2』『世界美術大全集13 イタリア・ルネサンス3』『世界美術大全集15 マニエリスム』『世界美術大全集16 バロック1』『世界美術大全集17 バロック2』『世界美術大全集19 新古典主義と革命期美術』(1992~1997・小学館) ▽宮下孝晴著『イタリア美術鑑賞紀行 美術の旅ガイド1~7』(1993~1995・美術出版社) ▽ロベルト・ロンギ著、和田忠彦他訳『イタリア絵画史』(1997・筑摩書房) ▽関根秀一・池上英洋著『イタリア・ルネサンス美術論 プロト・ルネサンス美術からバロック美術へ』(2000・東京堂出版) ▽宮下孝晴著『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内1~5』(2000~2001・美術出版社)』

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