デジタル大辞泉 「民主党」の意味・読み・例文・類語
みんしゅ‐とう〔‐タウ〕【民主党】
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1828年結党。文化・宗教的多元主義、個人の選択、政府の役割を重んじる。銃規制や人工妊娠中絶、同性婚を支持するリベラル派のほか、黒人ら人種的少数派、労働組合、人権団体、環境保護派などが支持基盤。地盤は東部や西部。若年層の支持が増加している。格差の進行に伴い、急進的改革を唱える左派の影響力が拡大、女性の存在感も増す。
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出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
共和党とともにアメリカ合衆国の二大政党の一つ。アメリカでの最初の主要政党であり、建国時の第3代大統領のT・ジェファソンらが中心となり1792年に設立した「民主共和党Democratic-Republican Party」に起源をもつとされるが、公的には1828年の大統領選挙に勝利し、第7代大統領に就任したA・ジャクソンが初代の民主党のリーダーとされている。
[前嶋和弘 2021年9月17日]
当初の民主党は、コモン・マン(普通の人々)を代弁したジャクソンに象徴されるように、アメリカ東部の貴族的な社会に対するアンチテーゼといえる存在であった。これに奴隷を所有する南部のプランター(プランテーション経営者)たちが加わり、南北戦争直前には民主党は南部を中心に勢力を広げていた。
黒人奴隷制をめぐる国内対立が激しくなるにつれて、民主党は南部を基盤とするため、当然、当時は奴隷制維持を強く主張する政党となる。「決定的選挙」であるとされる1860年の大統領選挙で惜敗し、奴隷制反対の新政党である共和党候補のリンカーンが大統領となった。リンカーンの勝利から南北戦争につながっていくのは必然となる。この戦争での敗北から、民主党は20世紀初めまで共和党優位の時代を許すことになった。1860年から1932年までの間、民主党の大統領は、共和党内に対立があったときに勝利したG・クリーブランド、W・ウィルソンの2人だけだった。
民主党では、資本家の政党へと変貌(へんぼう)していった共和党が救えない層に手を伸ばそうとする模索も続いた。1896年の大統領選挙でW・J・ブライアンは大規模な産業発展のなかで取り残された農民の救済を訴えた。結局、敗れはしたものの、都市労働者や黒人を中心とする人種マイノリティ、さらには農民など、格差にあえぐ人々を救済する動きは、1930年代に結実していく。大恐慌を乗り越えるために国家資本主義的な政策であるニューディール政策を前面に押し出し、1932年の大統領選挙ではフランクリン・ルーズベルトが圧倒的な得票で勝利する。当時は2期までという大統領の任期制限がなかったため、ルーズベルトは1944年には4度目の大統領選でも勝利する。都市労働者や人種マイノリティ、農民の支持勢力は「ニューディール連合(ルーズベルト連合)」とよばれ、その後、長期にわたる民主党優位の時代の基盤をつくった。たとえば下院なら4年間を除き、ルーズベルトが勝利した1932年選挙から1994年中間選挙まで、60年ほどの間、多数派を維持した。しかし、ニューディール連合は、南部の保守化の動きなどもあり、しだいに崩壊していった。
その後は共和党が盛り返し、1995年1月から2021年1月までの26年の間で、下院で共和党が多数派となったのが20年、民主党は6年と攻守が逆転している。上院でもこの間、民主党が多数派だったのは、8年強である。ただ、同じ26年の間で大統領職は民主党(クリントン、オバマ)が14年、共和党(G・W・ブッシュ、トランプ)が12年と民主党政権の時代のほうが長く、完全に共和党有利とはいいきれない。さらに、2020年の選挙の結果を受けた2021年1月からは、下院、上院のいずれも民主党が多数派を占めている。さらに大統領職(バイデン)も4年間は民主党となる。
[前嶋和弘 2021年9月17日]
2021年の状況で、民主党と共和党は拮抗(きっこう)状態で対立しているとみるほうが正しいだろう。それと同時に1980年代初期くらいまでは政策的にかなり重なる部分があった民主党と共和党は、政治的に乖離(かいり)していく。南北戦争以前からの地盤を維持してきた南部の保守的な民主党議員の「サザン・デモクラットSouthern Democrats」が引退するか、共和党候補がその議席を奪っていくなか、民主党から保守層が減り、所属議員にしろ、支持者にしろ、民主党全体の政治的な立ち位置はいわゆるリベラル層と重なっていく。逆に保守層は熱烈な共和党支持に収斂(しゅうれん)していく。その結果、国民世論が保守とリベラルという二つのイデオロギーで大きく分かれていく政治的分極化political polarizationが顕在化している。
民主党のコアの支持層であるリベラル派は、「平等主義」を志向する。国民の平等や自由を政府のリーダーシップで達成することを望み、政府規制の強化や所得再分配を重視し、貧困や社会福祉などの社会的問題に対しては政府のなんらかの政策で解決しようとすることに賛同する。環境問題では政府による規制を強化することで公害の除去・防止や環境保全を進めようとする考えを支持している。さらにリベラル派の多くはキリスト教的な伝統にとらわれない価値観をもっている。同性婚を許容し、妊娠中絶を女性の当然の権利として支持している。
「ニューディール連合」から続く人種マイノリティ、都市居住者に加え、現在は同性愛者、政府関係者、教員にリベラル層が集中している。さらには富裕層の一部にもリベラル的な価値観が浸透している。また、国民の大多数の白人や穏健派のキリスト教徒のなかでは民主党支持者もいまだ数的には多い。「ニューディール連合」時代から労働組合との関係も強いため、白人ブルーカラー層の一部も強い民主党支持である。
各州の人口動態の傾向から、民主党候補への投票が過半数を上回る州(青い州blue states)と共和党候補への投票が過半数を上回る州(赤い州red states)が事前に予測でき、カリフォルニア州、ニューヨーク州、マサチューセッツ州、ハワイ州が代表的な青い州である。
[前嶋和弘 2021年9月17日]
近年アメリカではラテン系移民やアジア系移民の増加が著しい。新しい移民の場合、当面は低賃金労働を担う可能性が高いため、所得再分配的な政策を選ぶ傾向が強い。そのため、所得再分配的な政策を支持するリベラル層の一部になり、積極的な民主党の支持層が増えているという見方がある。これを反映して移民労働者の待遇改善(最低賃金引上げ)や移民2世の選択肢拡大(公立大学の無償化)など、近年、民主党側が打ち出す政策も移民層を強く意識している。また、いうまでもなく、この政策は移民だけでなく、低所得者の全体を救う所得再分配的な政策でもある。2016年、2020年と2回の大統領選挙で民主党の指名候補争いで健闘したサンダースBernard (Bernie) Sanders(1941― )の場合は、「民主社会主義者」と自称してきた無党派議員だが、一連の所得再分配的な政策を強く訴え、「民主党の左派の顔」になっている。
ただ、過去のアメリカの歴史をみると、有権者の多くは共和・民主の二つの選択肢の間でつねに揺れており、移民も第2、第3世代になると共和党支持に変わっていく可能性もある。共和党側も時代に追いつくために、トランプ政権時代とは異なり、移民に寛容な政策を打ち出してくるかもしれない。民主党優位な状況になるのかどうかはっきりするまでには、まだ、時間がかかるだろう。
[前嶋和弘 2021年9月17日]
新党さきがけを離党した鳩山由紀夫(はとやまゆきお)らが呼びかけ、さきがけ、社会民主党、新進党などの離党者などで1996年(平成8)9月に結成した政党。13年後の2009年(平成21)8月の衆議院選挙で308議席を獲得、鳩山を首相とする連立政権を誕生させた。
結党には衆議院議員52人、参議院議員5人が参加、衆議院議員数では自由民主党、新進党に次ぐ第三党でスタートした。2人代表制を導入し、代表に鳩山、菅直人(かんなおと)がついた。その後、1997年9月菅代表、鳩山幹事長体制となった。
結党宣言では、(1)霞が関(かすみがせき)の解体と再生、(2)市民政治の復興、(3)共生型福祉社会への転換、の三つのスローガンを掲げたものの、結党後初の国政選挙となる1996年の衆議院選挙では、ブームを巻き起こすことはできず、公示前勢力と同数の52議席にとどまった。選挙後、自民党と個別政策課題で一致する問題で協力関係を築いていくことで合意したが、自民党との距離の取り方では、非自民色の強い鳩山と、同党との関係を重視する菅との間で差があり、1997年3月の党大会で、野党路線を貫く方針を決めた。1998年4月には民政党、新党友愛、民主改革連合と合流し、衆議院議員93人、参議院議員38人の勢力になった。新生の民主党の代表には菅直人、幹事長に羽田孜(はたつとむ)がついた。同年7月に行われた参議院選挙では47人が当選し、勢力を伸ばした。
1999年9月の党代表選挙では鳩山が代表に選出され、2002年9月に行われた党代表選挙でも再選された。しかし同年10月に行われた衆参統一補欠選挙の惨敗などの理由で、12月鳩山は代表を辞任、菅が後任に選ばれた(幹事長は岡田克也(おかだかつや)、1953― )。
そして2003年9月、自由党(党首小沢一郎)と合併(党名は民主党のまま)。2004年5月、菅は自らの国民年金保険料未納問題で責任をとって代表を辞任。後任に岡田が就任した。同年7月の参議院選挙では自民党の獲得議席を上回る躍進を果たしたものの、2005年9月の衆議院選挙では大きく議席を減らし、岡田は辞任、前原誠司(まえはらせいじ)(1962― )が後を継いだ。しかしその前原も2006年、インターネット事業を柱に経営多角化を進めていたライブドア(2006年証券取引法違反により社長ら5名が逮捕。同年上場廃止)に関連する、偽の電子メールに基づいた国会質問を同党代議士が行った不祥事の責任をとって4月に辞任、小沢が新代表となった。
2007年7月に行われた参議院選挙では60議席を獲得し、参議院第一党となった。しかし2009年3月、小沢の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、小沢は代表を辞任、次の代表には鳩山がふたたび選ばれた。
同年8月の衆議院選挙は政権交代のかかった選挙として注目されるなか、自民党・麻生(あそう)政権の失態もあって圧勝した(代表鳩山由紀夫、幹事長小沢一郎)。翌9月に開かれた特別国会で代表の鳩山が内閣総理大臣に指名され、民主党主導の連立政権が成立した。鳩山内閣以降、菅内閣(2010年6月成立)、野田佳彦(のだよしひこ)内閣(2011年9月成立)と、民主党主導の連立内閣が続いた。しかし2010年7月の参議院議員選挙以来、連立与党は参議院での過半数を失い、困難な政権運営を余儀なくされ、2012年12月の衆議院選挙でも大敗、政権を失った。選挙結果を受けて野田は代表を辞任、海江田万里(かいえだばんり)(1949― )が代表に選ばれた。
[水野雅之]
2007年結成、旧イタリア共産党穏健派とキリスト教勢力左派を主要な起源としたイタリアの中道左派の有力政党。略称はPD。2013年総選挙以降、政権を支える最大政党となるが、2018年の総選挙で敗北を喫した。
1994年の総選挙を契機に、第二共和制における政治勢力は左右二つの陣営へと収斂(しゅうれん)していった。中道左派は、中道右派と比べて政党数が多く、内紛が絶えないという問題に苦しんでいた。その打開のため、2007年に入ると合同に向けた動きが本格化し、同年10月に正式に民主党が成立した。10月の党首選は300万人以上が参加した開放的予備選挙(オープン・プライマリー)で実施され、ローマ市長のベルトローニWalter Veltroni(1955― )が4分の3の得票で初代党首に選出される。党大会で採用された党章は、赤(社会主義、社民主義)、白(カトリック)、緑(環境、社会的リベラル)と、合流した主要勢力を反映していた。
その後2008年の総選挙での大敗を受け、党内の派閥対立は急進化した。2009年初頭ベルトローニは辞任し、副党首であったフランチェスキーニDario Franceschini(1958― )が中継ぎとして新党首に選出され、さらに10月には党大会で旧共産党系のベルサーニPier Luigi Bersani(1951― )が新党首に選出された。急進的な緊縮政策を進めるモンティMario Monti(1943― )政権への協力などむずかしい選択を迫られ、2013年の総選挙に向けた中道左派の統一首相候補選出のプライマリーでは、当時フィレンツェ市長のレンツィMatteo Renzi(1975― )に同一党内から公然と反旗を翻された。
2013年の総選挙では中道左派として議会第一勢力の座を確保したものの、五つ星運動の躍進など衝撃的な結果に直面する。首相候補ベルサーニは組閣失敗など混乱の責任をとり、党首辞任に追い込まれる。かわって、中道右派ともつながりがある旧キリスト教民主党系のレッタEnrico Letta(1966― )が同党から首相の座についた。党のリーダーシップは、エピファーニGuglielmo Epifani(1950―2021)の暫定党首の後、2013年11月プライマリーで圧勝して党首となったレンツィの手に握られる。彼は強化された党内基盤を背景に政権掌握に動き、2014年2月首相に就任する。党首と首相を兼任したレンツィは選挙法改正や憲法改正など大規模な改革を強力に実施しようとしたが、2016年春の地方選挙の敗北、12月の憲法改正国民投票での否決の結果を受けて首相の座を退いた。彼は党内の手綱を握り続け2017年党首選で再選されたものの、その強硬姿勢にベルサーニなど左派は反発し、新党の民主革新運動を結成して離党するなど党勢は低落した。2018年の総選挙では大敗し、中道左派は第三勢力に落ち込んだ。
[伊藤 武 2018年6月19日]
1947年(昭和22)3月31日、旧日本進歩党を主体に結成された保守政党。初代総裁は芦田均(あしだひとし)。保守政治のあり方として修正資本主義を唱え、中道路線を目ざした。結党時は145名で衆議院第一党、1947年4月の総選挙では123名で第三党にとどまったが、日本社会党、国民協同党と連立して片山哲内閣、芦田内閣の与党を担った。しかし当初から党内に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)派と芦田派の対立を含み、幣原派は炭鉱国家管理法案に反対して脱党、1947年11月同志クラブを結成した。1948年10月芦田内閣が昭電事件で総辞職したあと犬養健(いぬかいたける)新総裁のもとで挙党体制に努めたが、1949年1月総選挙で69名に激減した。しかし第三次吉田内閣に木村小左衛門と稲垣平太郎の2人が入閣し、さらに吉田首相の保守合同工作に犬養ら提携派は民主自由党に合流して1950年3月自由党を結成し、残留した苫米地義三(とまめじぎぞう)ら野党派も同年4月国民協同党と合同して国民民主党を結成した。
[吉田健二]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
日本の第2次大戦後の保守政党。
(1)1947年3月に旧日本進歩党中心に結成された保守政党。正式名称は日本民主党。1947年,日本自由党中心に保守合同による新党結成の動きが起こるや,3月22日進歩党は犬養健を中心に独自の新党樹立を表明,31日芦田均ら自由党の一部,国民協同党脱党者を糾合,修正資本主義,官僚主義打破を掲げ,衆議院145名の第一党民主党を結成した。反対論の幣原喜重郎を最高顧問に棚上げし,斎藤隆夫,芦田,犬養,楢橋渡,一松定吉,木村小左衛門,河合良成の7名を最高委員に,石黒武重幹事長で発足した。その直後,犬養,楢橋,石黒が公職を追放されたが,4月総選挙では124名で第三党となり,5月芦田総裁,幣原名誉総裁,竹田儀一幹事長が選出された。片山連立内閣には与党として参加したが,幣原ら反対派は自由党の保守新党構想に呼応し,炭鉱国家管理に反対して脱党,同志クラブを結成した。48年2月社会党と連立して芦田内閣を組閣したが昭電疑獄で倒れた。同年7月追放解除された犬養が12月総裁に選ばれ,第2次吉田内閣には野党となり,49年1月総選挙では69名に激減した。犬養は民主自由党との連立を図り,木村,稲垣平太郎の2名が入閣したが北村徳太郎幹事長らは反対,3月に党は分裂した。犬養ら連立派の民自党との合同は民自党内の犬養拒否のため紛糾したが,50年3月犬養を除いて民自党に合流した。連立反対派は民主党一本化を主張,それに賛成して閣僚を辞任した木村,稲垣らとともに国民協同党(委員長三木武夫)との合同を進め,新政治協議会等も糾合,4月28日国民民主党(1952年2月改進党となる)を結成した。
執筆者:神田 文人(2)1954年11月自由党鳩山派,改進党,日本自由党(三木武吉ら8名)が合同して結成した政党。正式名称は日本民主党。第2次世界大戦後7年にわたって政権をとってきた吉田茂内閣も,あいつぐ与党内の汚職事件から国民の不信をかい,とくに指揮権発動による造船疑獄もみ消しは,党内に反吉田の気運をかもしだした。分派自由党から復帰(1953年11月29日)した鳩山一郎に対する同情が反吉田の動きに一層の拍車をかけた。こうして54年9月には自由党内に新党結成準備会が結成され,鳩山一郎をその代表委員に決めたため,自由党は事実上決裂状態となり,岸信介,石橋湛山は除名されるにいたった。これが改進党,日本自由党(鳩山の復帰後残留組によって結成)との接近を深め,ついに11月24日鳩山を総裁とする日本民主党の創立となった(所属議員衆議院124名,参議院20名)。同党はその後自由党から合同の申入れをうけたがこれを拒否,12月7日には両派社会党とともに吉田内閣不信任案を上程する態勢を示したので,さしもの吉田内閣も総辞職するにいたった。同党首脳部はただちに後継首班について社会党の協力を要請,その結果,3月上旬までに総選挙を行うとの約束の下に社会党の協力を得て12月10日鳩山内閣の成立となった。翌55年1月24日解散,2月27日の第27回総選挙には同党は248名の候補者を立てて総投票数の36.6%を獲得,185の議席を得て第一党となり,第2次鳩山内閣が成立した。だが第一党とはいえ,同党はわずか185名の議員を擁するにすぎず,それに両派社会党は2月の党大会で両社統一を決議し,その統一がしだいに確定的となるに及んで,党内で三木武吉,岸信介らの保守合同の工作が行われ,財界も強くこれを要望したため自由党との合同が実現し,11月14日,民主,自由両党は解党して自由民主党が結成された。
→自由民主党
執筆者:堀 真琴(3)1996年9月に鳩山由紀夫,菅(かん)直人らが中心となって結成した政党。新党さきがけ,社会民主党(日本社会党が改称),その他市民運動のリーダーらが参加した。96年10月の総選挙では52議席を獲得,98年には新進党の分裂により成立した会派を受け入れた。2003年9月,自由党(小沢一郎党首)が合流,03年11月の総選挙では議席数は解散時の137から177に躍進し(比例区では第一党),自由民主党に対峙する最大野党となり,新たな二大政党時代に入った。04年5月,年金未加入問題から菅が代表を辞任し,岡田克也に代わったが,05年9月の郵政民営化が争点となった総選挙で113議席と惨敗,前原誠司が党代表に選ばれた。06年4月ライブドア事件に関する偽メール事件の責任をとり前原が辞任,小沢一郎が党代表に就任した。
執筆者:編集部
アメリカ合衆国の二大政党の一つ。シンボルマークはロバ。その系譜は,連邦憲法制定に際しての憲法反対派アンチ・フェデラリスツにさかのぼる。西部小農民層,一部南部大農園主,負債者層などで構成されるこのグループは,1796年の大統領選挙ではT.ジェファソンを候補に立ててリパブリカンズと称し,1800年にはジェファソンを当選させ,以降60年まで2期を除き政権を掌握した。ことに1828年西部出身のA.ジャクソンを当選させ,機会均等を主張,トックビルをして賛嘆させた〈平等〉の時代,いわゆるジャクソニアン・デモクラシーの時代を出現させる。しかし,その〈平等〉と黒人奴隷制という基本的矛盾はやがて民主党を分裂させ,60年の選挙で新興産業資本と西部農民層との連携をはかったリンカンの下の共和党に政権を譲り,南北戦争における南部の敗北とともに,南部にたてこもる万年少数党というイメージをもたれるにいたった。事実,民主党は60年以来1932年の選挙まで,1896年の選挙で西部出身の〈庶民〉の代表W.J.ブライアンの農民層への強力な訴えなどがあったものの,S.G.クリーブランドの2回,T.W.ウィルソンの2期を別とすれば,政権をとれず,共和党が自由放任主義の下で高度成長期のアメリカ社会を支配していた。ただし,その間民主党が中心的支持基盤を南部から北部大都市へと移行させ,多数形成への基礎をつくりつつあったことは注目してよい。
1929年の世界恐慌は,もはやアメリカ経済に自然的調整力がないことを示し,32年の選挙ではニューディールを訴える民主党のF.D.ローズベルトが当選,民主党政権が出現する。以来民主党は83年までに,大統領選挙ではD.D.アイゼンハワー,R.M.ニクソン,R.W.レーガンなど計5回共和党に敗れてはいるが,下院では1932年の選挙以来2期4年敗れたのみで,万年多数党と化している。これは,ニューディール以来,巨額な公共支出を柱とする政府の経済への積極的介入政策,社会福祉政策,さらに第2次大戦がアメリカに繁栄をもたらしたことなどが,黒人をはじめ低額所得者層を民主党の支持者としたことによるものといえよう。この点,戦後もH.S.トルーマンの〈フェアディール〉,J.F.ケネディの〈ニュー・フロンティア〉,L.B.ジョンソンの〈偉大な社会〉(福祉政策の拡大)という形で基本線は変わらなかった。しかし,1960年代後半より内に黒人の自覚的差別廃止運動を主とする人種紛争,外に泥沼化してゆくベトナム戦争などによって大きくゆさぶられてくる。さらに,社会福祉と国防強化で連邦政府が肥大化したことに対する反発が〈小さな政府〉への願望を国民の間に生み,伝統的な自由企業主義への復帰を唱える新保守主義の動きも広まり,民主党の中核をなすリベラル・エスタブリッシュメントを脅かすことになる。また,一方で投票者の脱政党化の傾向の下で労組に依存する民主党の組織力は弱まり,他方で北東部から南部,南西部などのいわゆるサン・ベルトへの人口移動は,北東部の大都市におもな基盤をおく民主党にとってマイナス要因になっている。
→共和党
執筆者:斎藤 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
「アルバニア民主党」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1第2次大戦後の政党。日本進歩党を中心に日本自由党・国民協同党,無所属の一部が参加して1947年(昭和22)3月に結成。修正資本主義を標榜した。日本社会党・国民協同党と連立して片山哲・芦田均両内閣の与党となる。49年2月の第3次吉田茂内閣組閣の際,党内に連立派と野党派の対立が生じ,連立派は50年3月民主自由党と合同して自由党を,野党派は同年4月国民協同党と合同して国民民主党を結成した。
2政党再編が進むなか,1996年(平成8)9月社会民主党・新党さきがけを中心にして結成(代表鳩山由紀夫・菅直人)。翌10月の総選挙で52議席を獲得。98年4月,旧新進党の大半が合流して新たに民主党を結成。2007年(平成17)には参議院で与野党逆転。09年の衆院総選挙で308議席をえて鳩山由紀夫内閣が発足。ついで菅直人・野田佳彦が内閣を組織したが,11年の衆院総選挙に大敗,政権を譲った。16年党名を民進党に変更。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…
…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…
…一方,王党派は61年にカバカ・イェッカ(KY)という政党をつくり,イギリスとの独立交渉の際,ブガンダ王国はウガンダの他地域から分離独立すべきことを主張,同年の立法審議会の総選挙をボイコットした。選挙はブガンダの少数派カトリック信徒に基盤を持つ民主党(DP。1956創設)が勝利し,DP党首キワヌカB.Kiwanukaがイギリス政府との独立憲法制定交渉にあたった。…
…第2次大戦後,民主主義の世界的風潮の中で,1946年以降複数政党制に移行した。46年の総選挙では共和人民党がかろうじて第一党の地位と政権とを保ったが,50年の総選挙では,自由主義的政策を掲げた民主党Demokrat Parti(共和人民党反主流派により1946年に創設)が大勝し,以後60年5月までの10年間バヤル(第3代大統領,祖国解放運動の闘士)とメンデレス(首相,西アナトリアの地主出身)とによる民主党政権が続いた。民主党は,豊作による農業生産の向上,朝鮮戦争による国外需要の増加,マーシャル・プランにもとづく経済援助による潤沢な資金などを基礎として,農業の近代化,工業の発展,電力や道路など社会資本の拡充などの大規模な経済開発政策を推進したが,50年代以後,財政難,貿易収支の赤字による外貨不足,インフレ,社会発展の不均衡,政府首脳の腐敗などが表面化した。…
…46年衆議院憲法改正委員会委員長に任命される。47年自由党を脱党して民主党結成に参加,総裁となり社会党との連立政権を組閣。片山哲内閣の副総理,外相を務め,48年3月には芦田内閣を組閣した。…
…すなわち連邦党と民主共和党である。当初優位に立っていた連邦党は19世紀に入ると民主共和党に連敗して消滅し,民主共和党体制が続く中で〈ジャクソニアン・デモクラシー〉時代が到来したが,この間に民主党と呼ばれるようになった民主共和党では,党内のジャクソン派と反ジャクソン派の対立が激化し,反ジャクソン派は1828年に国民共和党(1834年にホイッグ党と改称)を結成し,40年にハリソン,48年にタイラーを大統領に当選させた。だがこのホイッグ党も,50年代に入って奴隷問題をめぐる内部的分裂と52年の大統領選挙での惨敗によって解体し,奴隷制反対派は他の奴隷制反対グループと合流して新しい政党の結成へと向かった。…
…1955年11月15日,民主党と自由党の合同による自由民主党の結成をいう。1952年4月のサンフランシスコ講和発効後,政界に復帰した追放解除者と戦後派保守政治家との対立がしだいに表面化した。…
… 歴史的には,建国期のフェデラリスツ,1830年代以降のホイッグ党の流れをくむ。19世紀中葉に民主党が南部プランター勢力の政党と化するに及び,それに対抗して東北部の新興産業資本勢力と中西部の自営農民層との連合体として組織された。西部出身でありかつホイッグ党出身のリンカンは,この連合の組織者であるとともに象徴でもあった。…
※「民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」