民主党(読み)ミンシュトウ(その他表記)Democratic Party

翻訳|Democratic Party

デジタル大辞泉 「民主党」の意味・読み・例文・類語

みんしゅ‐とう〔‐タウ〕【民主党】

昭和22年(1947)旧日本進歩党を中核として結成された政党。日本社会党・国民協同党と連立して片山芦田内閣を組織したが、昭和25年(1950)、自由党と国民民主党とに分裂。
日本民主党」の略称。
平成8年(1996)菅直人鳩山由紀夫らが呼びかけ、新党さきがけ社会民主党新進党などからの離党者で結成した政党。平成10年(1998)1月、新党友愛国民の声太陽党フロムファイブ民主改革連合とともに統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成。4月に民友連の各党が合流して民主党となった。旧民主党。
平成10年(1998)結成の政党。院内会派「民友連」に参加していた民主党新党友愛民政党・民主改革連合が合流してできた。平成15年(2003)自由党と合併。平成21年(2009)の総選挙で自民党に圧勝して政権交代を果たし、鳩山由紀夫が首相となった。平成24年(2012)の総選挙では大敗して下野。平成28年(2016)3月、維新の党と合流し民進党となった。
共和党と並ぶ米国の二大政党の一。1828年にA=ジャクソンを当選させた民主共和党に始まる。南部の白人保守層の支持で発展したが、20世紀中盤からは労働者やマイノリティー寄りの政策に転換。東西海岸部や大都市圏を地盤とするようになった。ウィルソンルーズベルトトルーマンケネディジョンソンカータークリントンオバマなどの大統領を輩出。

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共同通信ニュース用語解説 「民主党」の解説

民主党

1828年結党。文化・宗教的多元主義、個人の選択、政府の役割を重んじる。銃規制や人工妊娠中絶、同性婚を支持するリベラル派のほか、黒人ら人種的少数派、労働組合、人権団体、環境保護派などが支持基盤。地盤は東部や西部。若年層の支持が増加している。格差の進行に伴い、急進的改革を唱える左派の影響力が拡大、女性の存在感も増す。

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精選版 日本国語大辞典 「民主党」の意味・読み・例文・類語

みんしゅ‐とう‥タウ【民主党】

  1. [ 一 ]にほんみんしゅとう(日本民主党)」の略称。
  2. [ 二 ] 日本で、保守勢力に対抗し得る新勢力として、平成八年(一九九六)九月に結成した政党。民主リベラル路線を唱える。
  3. [ 三 ] 共和党と並ぶアメリカの二大政党の一つ。一八二八年にA・ジャクソンを第七代大統領に当選させた民主共和党に始まる。労働者、低所得者層、リベラル派などに支持者が多い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「民主党」の意味・わかりやすい解説

民主党(アメリカ合衆国)
みんしゅとう
Democratic Party

共和党とともにアメリカ合衆国の二大政党の一つ。アメリカでの最初の主要政党であり、建国時の第3代大統領のT・ジェファソンらが中心となり1792年に設立した「民主共和党Democratic-Republican Party」に起源をもつとされるが、公的には1828年の大統領選挙に勝利し、第7代大統領に就任したA・ジャクソンが初代の民主党のリーダーとされている。

[前嶋和弘 2021年9月17日]

歴史

当初の民主党は、コモン・マン(普通の人々)を代弁したジャクソンに象徴されるように、アメリカ東部の貴族的な社会に対するアンチテーゼといえる存在であった。これに奴隷を所有する南部のプランター(プランテーション経営者)たちが加わり、南北戦争直前には民主党は南部を中心に勢力を広げていた。

 黒人奴隷制をめぐる国内対立が激しくなるにつれて、民主党は南部を基盤とするため、当然、当時は奴隷制維持を強く主張する政党となる。「決定的選挙」であるとされる1860年の大統領選挙で惜敗し、奴隷制反対の新政党である共和党候補のリンカーンが大統領となった。リンカーンの勝利から南北戦争につながっていくのは必然となる。この戦争での敗北から、民主党は20世紀初めまで共和党優位の時代を許すことになった。1860年から1932年までの間、民主党の大統領は、共和党内に対立があったときに勝利したG・クリーブランド、W・ウィルソンの2人だけだった。

 民主党では、資本家の政党へと変貌(へんぼう)していった共和党が救えない層に手を伸ばそうとする模索も続いた。1896年の大統領選挙でW・J・ブライアンは大規模な産業発展のなかで取り残された農民の救済を訴えた。結局、敗れはしたものの、都市労働者や黒人を中心とする人種マイノリティ、さらには農民など、格差にあえぐ人々を救済する動きは、1930年代に結実していく。大恐慌を乗り越えるために国家資本主義的な政策であるニューディール政策を前面に押し出し、1932年の大統領選挙ではフランクリン・ルーズベルトが圧倒的な得票で勝利する。当時は2期までという大統領の任期制限がなかったため、ルーズベルトは1944年には4度目の大統領選でも勝利する。都市労働者や人種マイノリティ、農民の支持勢力は「ニューディール連合(ルーズベルト連合)」とよばれ、その後、長期にわたる民主党優位の時代の基盤をつくった。たとえば下院なら4年間を除き、ルーズベルトが勝利した1932年選挙から1994年中間選挙まで、60年ほどの間、多数派を維持した。しかし、ニューディール連合は、南部の保守化の動きなどもあり、しだいに崩壊していった。

 その後は共和党が盛り返し、1995年1月から2021年1月までの26年の間で、下院で共和党が多数派となったのが20年、民主党は6年と攻守が逆転している。上院でもこの間、民主党が多数派だったのは、8年強である。ただ、同じ26年の間で大統領職は民主党(クリントン、オバマ)が14年、共和党(G・W・ブッシュ、トランプ)が12年と民主党政権の時代のほうが長く、完全に共和党有利とはいいきれない。さらに、2020年の選挙の結果を受けた2021年1月からは、下院、上院のいずれも民主党が多数派を占めている。さらに大統領職(バイデン)も4年間は民主党となる。

[前嶋和弘 2021年9月17日]

共和党との対比

2021年の状況で、民主党と共和党は拮抗(きっこう)状態で対立しているとみるほうが正しいだろう。それと同時に1980年代初期くらいまでは政策的にかなり重なる部分があった民主党と共和党は、政治的に乖離(かいり)していく。南北戦争以前からの地盤を維持してきた南部の保守的な民主党議員の「サザン・デモクラットSouthern Democrats」が引退するか、共和党候補がその議席を奪っていくなか、民主党から保守層が減り、所属議員にしろ、支持者にしろ、民主党全体の政治的な立ち位置はいわゆるリベラル層と重なっていく。逆に保守層は熱烈な共和党支持に収斂(しゅうれん)していく。その結果、国民世論が保守とリベラルという二つのイデオロギーで大きく分かれていく政治的分極化political polarizationが顕在化している。

 民主党のコアの支持層であるリベラル派は、「平等主義」を志向する。国民の平等や自由を政府のリーダーシップで達成することを望み、政府規制の強化や所得再分配を重視し、貧困や社会福祉などの社会的問題に対しては政府のなんらかの政策で解決しようとすることに賛同する。環境問題では政府による規制を強化することで公害の除去・防止や環境保全を進めようとする考えを支持している。さらにリベラル派の多くはキリスト教的な伝統にとらわれない価値観をもっている。同性婚を許容し、妊娠中絶を女性の当然の権利として支持している。

 「ニューディール連合」から続く人種マイノリティ、都市居住者に加え、現在は同性愛者、政府関係者、教員にリベラル層が集中している。さらには富裕層の一部にもリベラル的な価値観が浸透している。また、国民の大多数の白人や穏健派のキリスト教徒のなかでは民主党支持者もいまだ数的には多い。「ニューディール連合」時代から労働組合との関係も強いため、白人ブルーカラー層の一部も強い民主党支持である。

 各州の人口動態の傾向から、民主党候補への投票が過半数を上回る州(青い州blue states)と共和党候補への投票が過半数を上回る州(赤い州red states)が事前に予測でき、カリフォルニア州ニューヨーク州マサチューセッツ州、ハワイ州が代表的な青い州である。

[前嶋和弘 2021年9月17日]

民主党の今後

近年アメリカではラテン系移民やアジア系移民の増加が著しい。新しい移民の場合、当面は低賃金労働を担う可能性が高いため、所得再分配的な政策を選ぶ傾向が強い。そのため、所得再分配的な政策を支持するリベラル層の一部になり、積極的な民主党の支持層が増えているという見方がある。これを反映して移民労働者の待遇改善(最低賃金引上げ)や移民2世の選択肢拡大(公立大学の無償化)など、近年、民主党側が打ち出す政策も移民層を強く意識している。また、いうまでもなく、この政策は移民だけでなく、低所得者の全体を救う所得再分配的な政策でもある。2016年、2020年と2回の大統領選挙で民主党の指名候補争いで健闘したサンダースBernard (Bernie) Sanders(1941― )の場合は、「民主社会主義者」と自称してきた無党派議員だが、一連の所得再分配的な政策を強く訴え、「民主党の左派の顔」になっている。

 ただ、過去のアメリカの歴史をみると、有権者の多くは共和・民主の二つの選択肢の間でつねに揺れており、移民も第2、第3世代になると共和党支持に変わっていく可能性もある。共和党側も時代に追いつくために、トランプ政権時代とは異なり、移民に寛容な政策を打ち出してくるかもしれない。民主党優位な状況になるのかどうかはっきりするまでには、まだ、時間がかかるだろう。

[前嶋和弘 2021年9月17日]


民主党(1996年結成)
みんしゅとう

新党さきがけを離党した鳩山由紀夫(はとやまゆきお)らが呼びかけ、さきがけ、社会民主党、新進党などの離党者などで1996年(平成8)9月に結成した政党。13年後の2009年(平成21)8月の衆議院選挙で308議席を獲得、鳩山を首相とする連立政権を誕生させた。

 結党には衆議院議員52人、参議院議員5人が参加、衆議院議員数では自由民主党、新進党に次ぐ第三党でスタートした。2人代表制を導入し、代表に鳩山、菅直人(かんなおと)がついた。その後、1997年9月菅代表、鳩山幹事長体制となった。

 結党宣言では、(1)霞が関(かすみがせき)の解体と再生、(2)市民政治の復興、(3)共生型福祉社会への転換、の三つのスローガンを掲げたものの、結党後初の国政選挙となる1996年の衆議院選挙では、ブームを巻き起こすことはできず、公示前勢力と同数の52議席にとどまった。選挙後、自民党と個別政策課題で一致する問題で協力関係を築いていくことで合意したが、自民党との距離の取り方では、非自民色の強い鳩山と、同党との関係を重視する菅との間で差があり、1997年3月の党大会で、野党路線を貫く方針を決めた。1998年4月には民政党、新党友愛、民主改革連合と合流し、衆議院議員93人、参議院議員38人の勢力になった。新生の民主党の代表には菅直人、幹事長に羽田孜(はたつとむ)がついた。同年7月に行われた参議院選挙では47人が当選し、勢力を伸ばした。

 1999年9月の党代表選挙では鳩山が代表に選出され、2002年9月に行われた党代表選挙でも再選された。しかし同年10月に行われた衆参統一補欠選挙の惨敗などの理由で、12月鳩山は代表を辞任、菅が後任に選ばれた(幹事長は岡田克也(おかだかつや)、1953― )。

 そして2003年9月、自由党(党首小沢一郎)と合併(党名は民主党のまま)。2004年5月、菅は自らの国民年金保険料未納問題で責任をとって代表を辞任。後任に岡田が就任した。同年7月の参議院選挙では自民党の獲得議席を上回る躍進を果たしたものの、2005年9月の衆議院選挙では大きく議席を減らし、岡田は辞任、前原誠司(まえはらせいじ)(1962― )が後を継いだ。しかしその前原も2006年、インターネット事業を柱に経営多角化を進めていたライブドア(2006年証券取引法違反により社長ら5名が逮捕。同年上場廃止)に関連する、偽の電子メールに基づいた国会質問を同党代議士が行った不祥事の責任をとって4月に辞任、小沢が新代表となった。

 2007年7月に行われた参議院選挙では60議席を獲得し、参議院第一党となった。しかし2009年3月、小沢の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、小沢は代表を辞任、次の代表には鳩山がふたたび選ばれた。

 同年8月の衆議院選挙は政権交代のかかった選挙として注目されるなか、自民党・麻生(あそう)政権の失態もあって圧勝した(代表鳩山由紀夫、幹事長小沢一郎)。翌9月に開かれた特別国会で代表の鳩山が内閣総理大臣に指名され、民主党主導の連立政権が成立した。鳩山内閣以降、菅内閣(2010年6月成立)、野田佳彦(のだよしひこ)内閣(2011年9月成立)と、民主党主導の連立内閣が続いた。しかし2010年7月の参議院議員選挙以来、連立与党は参議院での過半数を失い、困難な政権運営を余儀なくされ、2012年12月の衆議院選挙でも大敗、政権を失った。選挙結果を受けて野田は代表を辞任、海江田万里(かいえだばんり)(1949― )が代表に選ばれた。

[水野雅之]


民主党(イタリア)
みんしゅとう
Partito Democratico イタリア語

2007年結成、旧イタリア共産党穏健派とキリスト教勢力左派を主要な起源としたイタリアの中道左派の有力政党。略称はPD。2013年総選挙以降、政権を支える最大政党となるが、2018年の総選挙で敗北を喫した。

 1994年の総選挙を契機に、第二共和制における政治勢力は左右二つの陣営へと収斂(しゅうれん)していった。中道左派は、中道右派と比べて政党数が多く、内紛が絶えないという問題に苦しんでいた。その打開のため、2007年に入ると合同に向けた動きが本格化し、同年10月に正式に民主党が成立した。10月の党首選は300万人以上が参加した開放的予備選挙(オープン・プライマリー)で実施され、ローマ市長のベルトローニWalter Veltroni(1955― )が4分の3の得票で初代党首に選出される。党大会で採用された党章は、赤(社会主義、社民主義)、白(カトリック)、緑(環境、社会的リベラル)と、合流した主要勢力を反映していた。

 その後2008年の総選挙での大敗を受け、党内の派閥対立は急進化した。2009年初頭ベルトローニは辞任し、副党首であったフランチェスキーニDario Franceschini(1958― )が中継ぎとして新党首に選出され、さらに10月には党大会で旧共産党系のベルサーニPier Luigi Bersani(1951― )が新党首に選出された。急進的な緊縮政策を進めるモンティMario Monti(1943― )政権への協力などむずかしい選択を迫られ、2013年の総選挙に向けた中道左派の統一首相候補選出のプライマリーでは、当時フィレンツェ市長のレンツィMatteo Renzi(1975― )に同一党内から公然と反旗を翻された。

 2013年の総選挙では中道左派として議会第一勢力の座を確保したものの、五つ星運動の躍進など衝撃的な結果に直面する。首相候補ベルサーニは組閣失敗など混乱の責任をとり、党首辞任に追い込まれる。かわって、中道右派ともつながりがある旧キリスト教民主党系のレッタEnrico Letta(1966― )が同党から首相の座についた。党のリーダーシップは、エピファーニGuglielmo Epifani(1950―2021)の暫定党首の後、2013年11月プライマリーで圧勝して党首となったレンツィの手に握られる。彼は強化された党内基盤を背景に政権掌握に動き、2014年2月首相に就任する。党首と首相を兼任したレンツィは選挙法改正や憲法改正など大規模な改革を強力に実施しようとしたが、2016年春の地方選挙の敗北、12月の憲法改正国民投票での否決の結果を受けて首相の座を退いた。彼は党内の手綱を握り続け2017年党首選で再選されたものの、その強硬姿勢にベルサーニなど左派は反発し、新党の民主革新運動を結成して離党するなど党勢は低落した。2018年の総選挙では大敗し、中道左派は第三勢力に落ち込んだ。

[伊藤 武 2018年6月19日]


民主党(1947年結成)
みんしゅとう

1947年(昭和22)3月31日、旧日本進歩党を主体に結成された保守政党。初代総裁は芦田均(あしだひとし)。保守政治のあり方として修正資本主義を唱え、中道路線を目ざした。結党時は145名で衆議院第一党、1947年4月の総選挙では123名で第三党にとどまったが、日本社会党、国民協同党と連立して片山哲内閣、芦田内閣の与党を担った。しかし当初から党内に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)派と芦田派の対立を含み、幣原派は炭鉱国家管理法案に反対して脱党、1947年11月同志クラブを結成した。1948年10月芦田内閣が昭電事件で総辞職したあと犬養健(いぬかいたける)新総裁のもとで挙党体制に努めたが、1949年1月総選挙で69名に激減した。しかし第三次吉田内閣に木村小左衛門と稲垣平太郎の2人が入閣し、さらに吉田首相の保守合同工作に犬養ら提携派は民主自由党に合流して1950年3月自由党を結成し、残留した苫米地義三(とまめじぎぞう)ら野党派も同年4月国民協同党と合同して国民民主党を結成した。

[吉田健二]

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百科事典マイペディア 「民主党」の意味・わかりやすい解説

民主党(日本)【みんしゅとう】

1996年9月に鳩山由紀夫菅(かん)直人らが中心となって結成した政党。新党さきがけ社会民主党日本社会党),その他市民リーダーらのメンバーが参加,自由民主党新進党に抗して第三極がめざされた。政治理念は,官主導の国家中心型社会から市民中心型社会への転換,政界・官界・業界癒着の利権政治との訣別,憲法の平和理念の尊重など。1996年10月の総選挙では52議席を獲得。結成時には鳩山,菅の2人が代表を務めたが,1997年9月に菅代表,鳩山幹事長の体制に移行した。1998年1月,新進党の6分割をうけ,民主党および新党友愛,太陽党(党首羽田孜(つとむ)),国民の声,フロムファイブ(代表細川護煕),民主改革連合の野党5党(6会派)は,統一会派〈民主友愛太陽国民連合〉(略称,民友連)を結成,4月には統一して新〈民主党〉となった(衆議院93人,参議院38人)。代表は菅,幹事長は羽田孜。同年7月の参議院選挙では議席を大幅に伸ばし,1999年の党代表選挙では鳩山が菅を破った。2002年12月,菅が党代表に就任し,2003年9月,小沢一郎党首の自由党が民主党に合流。2003年11月の衆院選で民主党は比例区で第一党となり,大幅に躍進したが,2004年5月に年金未加入問題から菅が辞任。小沢が代表に内定したが同様の問題から就任を辞退,岡田克也幹事長が代表に選出された。2005年9月に前原誠司が代表となり,2006年4月には小沢一郎が代表となった。2007年7月の参議院選挙で大勝,参院第一党の位置を確保,政権交代を視野に与党との対決姿勢を打ち出した。2009年5月,政治資金規制法違反疑惑で公設秘書が逮捕された小沢一郎代表が辞任。後継代表選挙で鳩山由紀夫が岡田克也を破り,代表に就任。小沢は代表代行として,2009年8月の衆議院選挙で絶対安定多数を超える308議席獲得という圧勝に導いた。9月,社民党,国民新党と三党連立で,鳩山由紀夫内閣を発足させ念願の政権交代を果たした。小沢は入閣せず,民主党幹事長に就任した。しかし,小沢一郎の政治資金問題,鳩山自身の政治資金問題,沖縄の普天間基地問題への対応等々で内閣支持率は急落,2010年6月,鳩山は退陣し,小沢も幹事長を退き,菅直人が代表に就任,菅直人内閣が発足した。岡田克也幹事長で臨んだ2010年7月の参議院選挙で敗れ,地方選挙でも大敗するなど,野党の攻勢のなか,厳しい国会運営が続いた。2011年3月の東日本大震災,福島第一原発事故という戦後日本最大の危機的状況を迎え,菅直人内閣の指導力が問われたが,自公から内閣不信任案を突きつけられ,これに小沢グループが同調する構えを見せるなど党内が混乱,結局菅政権は2011年8月に退陣,直後に行われた代表選で,野田佳彦が勝利し代表に就任,野田佳彦内閣が発足した。小沢一郎は検察審査会による強制起訴で党員権を停止されていたが,2012年4月東京地裁で無罪判決を受け復権した。しかし,小沢は野田政権の進める消費税増税に反対,3月の衆議院における消費税増税に反対票を投じ,7月にはグループを率いて離党,脱原発と消費税増税反対を掲げて新党国民の生活を結成した。野田政権は,8月消費税増税法案を参議院で民主党・国民新党・自民党・公明党の賛成多数で成立させたものの,党勢を失ったまま,2012年12月に衆議院を解散,同月の総選挙で大敗を喫し,政権を自民・公明連立による第二次安倍晋三内閣に明け渡すこととなった。2013年の参院選では結党以来最少の17議席に留まる大敗,2014年12月の衆院選では78議席を獲得して党勢をやや持ち直したが党代表の海江田万里が落選。代表は岡田克也に代わった。なお,1940年代,1950年代には日本民主党が民主党と略称されていた。
→関連項目小渕恵三内閣子ども手当政務三役土井たか子日本日本維新の会農家戸別所得補償橋本龍太郎内閣細川護煕細野豪志前原誠司横路孝弘

民主党(米国)【みんしゅとう】

米国の政党。建国当初のジェファソン支持派が源流。1820年代にA.ジャクソンを中心に形成され,1829年―1861年の間にジャクソン,M.バン・ヒューレン,ポーク,F.ピアース,J.ブキャナンの大統領を出した。共和党の出現と奴隷制をめぐる南北対立(奴隷廃止運動)で党が分裂し,南北戦争後は沈滞。19世紀末にクリーブランド,20世紀に入ってT.W.ウィルソンが大統領となり,第1次世界大戦後のニューディール政策以降,都市勤労者と結びついた。1933年―1953年にわたりF.ローズベルトおよびトルーマンの大統領時代に,内政改革,第2次世界大戦指導,戦後処理で地位を確立。1961年―1963年ケネディ大統領がニューフロンティア政策を主唱。1963年―1968年L.B.ジョンソン,1977年―1980年J.E.カーター,1993年−2000年クリントンが大統領を務めた。1932年以来,連邦下院ではほぼ多数勢力であったが,2000年選挙では共和党と拮抗し惜敗した。2004年大統領選挙ではJ.ケリーが共和党のブッシュ(子)に得票率差3%で敗れ,上下両院議員選でも共和党が過半数を制した。2006年中間選挙で勝利し,上下両院の多数派を奪回した。2008年の大統領選挙では,オバマが共和党マケイン候補を破り,両院選挙でも勝利した。2010年の中間選挙では大敗し,下院で共和党に過半数を奪還された。2012年11月の大統領選は,共和党候補ロムニーと現職のオバマ大統領との対決となったが,ロムニーが白人・富裕層寄りという評価を最後まで崩せなかったの対して,ヒスパニック系をはじめ伝統的な民主党支持層であるアフリカ系の支持層を固めたオバマの勝利となった。しかし大統領選と同日に行われた下院選では共和党234議席に対して民主党201議席にとどまり,オバマ政権は難しい議会対策が求められることとなった。2014年の中間選挙では,上院下院とも共和党が多数を制し,民主党は少数与党となった。2015年4月,2016年の大統領選にむけてヒラリー・クリントンが大統領候補選への立候補を表明している。民主党の伝統的政治姿勢は連邦主義的・中央集権的で,国際協調政策をとっている。政党のシンボルはロバ。
→関連項目アメリカ合衆国財政の崖タマニー・ホールディキシークラット二大政党制バーンズハンフリーマッカーシー

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改訂新版 世界大百科事典 「民主党」の意味・わかりやすい解説

民主党 (みんしゅとう)

日本の第2次大戦後の保守政党。

(1)1947年3月に旧日本進歩党中心に結成された保守政党。正式名称は日本民主党。1947年,日本自由党中心に保守合同による新党結成の動きが起こるや,3月22日進歩党は犬養健を中心に独自の新党樹立を表明,31日芦田均ら自由党の一部,国民協同党脱党者を糾合,修正資本主義,官僚主義打破を掲げ,衆議院145名の第一党民主党を結成した。反対論の幣原喜重郎を最高顧問に棚上げし,斎藤隆夫,芦田,犬養,楢橋渡,一松定吉,木村小左衛門,河合良成の7名を最高委員に,石黒武重幹事長で発足した。その直後,犬養,楢橋,石黒が公職を追放されたが,4月総選挙では124名で第三党となり,5月芦田総裁,幣原名誉総裁,竹田儀一幹事長が選出された。片山連立内閣には与党として参加したが,幣原ら反対派は自由党の保守新党構想に呼応し,炭鉱国家管理に反対して脱党,同志クラブを結成した。48年2月社会党と連立して芦田内閣を組閣したが昭電疑獄で倒れた。同年7月追放解除された犬養が12月総裁に選ばれ,第2次吉田内閣には野党となり,49年1月総選挙では69名に激減した。犬養は民主自由党との連立を図り,木村,稲垣平太郎の2名が入閣したが北村徳太郎幹事長らは反対,3月に党は分裂した。犬養ら連立派の民自党との合同は民自党内の犬養拒否のため紛糾したが,50年3月犬養を除いて民自党に合流した。連立反対派は民主党一本化を主張,それに賛成して閣僚を辞任した木村,稲垣らとともに国民協同党(委員長三木武夫)との合同を進め,新政治協議会等も糾合,4月28日国民民主党(1952年2月改進党となる)を結成した。
執筆者:(2)1954年11月自由党鳩山派,改進党,日本自由党(三木武吉ら8名)が合同して結成した政党。正式名称は日本民主党。第2次世界大戦後7年にわたって政権をとってきた吉田茂内閣も,あいつぐ与党内の汚職事件から国民の不信をかい,とくに指揮権発動による造船疑獄もみ消しは,党内に反吉田の気運をかもしだした。分派自由党から復帰(1953年11月29日)した鳩山一郎に対する同情が反吉田の動きに一層の拍車をかけた。こうして54年9月には自由党内に新党結成準備会が結成され,鳩山一郎をその代表委員に決めたため,自由党は事実上決裂状態となり,岸信介,石橋湛山は除名されるにいたった。これが改進党,日本自由党(鳩山の復帰後残留組によって結成)との接近を深め,ついに11月24日鳩山を総裁とする日本民主党の創立となった(所属議員衆議院124名,参議院20名)。同党はその後自由党から合同の申入れをうけたがこれを拒否,12月7日には両派社会党とともに吉田内閣不信任案を上程する態勢を示したので,さしもの吉田内閣も総辞職するにいたった。同党首脳部はただちに後継首班について社会党の協力を要請,その結果,3月上旬までに総選挙を行うとの約束の下に社会党の協力を得て12月10日鳩山内閣の成立となった。翌55年1月24日解散,2月27日の第27回総選挙には同党は248名の候補者を立てて総投票数の36.6%を獲得,185の議席を得て第一党となり,第2次鳩山内閣が成立した。だが第一党とはいえ,同党はわずか185名の議員を擁するにすぎず,それに両派社会党は2月の党大会で両社統一を決議し,その統一がしだいに確定的となるに及んで,党内で三木武吉,岸信介らの保守合同の工作が行われ,財界も強くこれを要望したため自由党との合同が実現し,11月14日,民主,自由両党は解党して自由民主党が結成された。
自由民主党
執筆者:(3)1996年9月に鳩山由紀夫,菅(かん)直人らが中心となって結成した政党。新党さきがけ,社会民主党(日本社会党が改称),その他市民運動のリーダーらが参加した。96年10月の総選挙では52議席を獲得,98年には新進党の分裂により成立した会派を受け入れた。2003年9月,自由党(小沢一郎党首)が合流,03年11月の総選挙では議席数は解散時の137から177に躍進し(比例区では第一党),自由民主党に対峙する最大野党となり,新たな二大政党時代に入った。04年5月,年金未加入問題から菅が代表を辞任し,岡田克也に代わったが,05年9月の郵政民営化が争点となった総選挙で113議席と惨敗,前原誠司が党代表に選ばれた。06年4月ライブドア事件に関する偽メール事件の責任をとり前原が辞任,小沢一郎が党代表に就任した。
執筆者:


民主党 (みんしゅとう)
Democratic Party

アメリカ合衆国の二大政党の一つ。シンボルマークはロバ。その系譜は,連邦憲法制定に際しての憲法反対派アンチ・フェデラリスツにさかのぼる。西部小農民層,一部南部大農園主,負債者層などで構成されるこのグループは,1796年の大統領選挙ではT.ジェファソンを候補に立ててリパブリカンズと称し,1800年にはジェファソンを当選させ,以降60年まで2期を除き政権を掌握した。ことに1828年西部出身のA.ジャクソンを当選させ,機会均等を主張,トックビルをして賛嘆させた〈平等〉の時代,いわゆるジャクソニアン・デモクラシーの時代を出現させる。しかし,その〈平等〉と黒人奴隷制という基本的矛盾はやがて民主党を分裂させ,60年の選挙で新興産業資本と西部農民層との連携をはかったリンカンの下の共和党に政権を譲り,南北戦争における南部の敗北とともに,南部にたてこもる万年少数党というイメージをもたれるにいたった。事実,民主党は60年以来1932年の選挙まで,1896年の選挙で西部出身の〈庶民〉の代表W.J.ブライアンの農民層への強力な訴えなどがあったものの,S.G.クリーブランドの2回,T.W.ウィルソンの2期を別とすれば,政権をとれず,共和党が自由放任主義の下で高度成長期のアメリカ社会を支配していた。ただし,その間民主党が中心的支持基盤を南部から北部大都市へと移行させ,多数形成への基礎をつくりつつあったことは注目してよい。

 1929年の世界恐慌は,もはやアメリカ経済に自然的調整力がないことを示し,32年の選挙ではニューディールを訴える民主党のF.D.ローズベルトが当選,民主党政権が出現する。以来民主党は83年までに,大統領選挙ではD.D.アイゼンハワー,R.M.ニクソン,R.W.レーガンなど計5回共和党に敗れてはいるが,下院では1932年の選挙以来2期4年敗れたのみで,万年多数党と化している。これは,ニューディール以来,巨額な公共支出を柱とする政府の経済への積極的介入政策,社会福祉政策,さらに第2次大戦がアメリカに繁栄をもたらしたことなどが,黒人をはじめ低額所得者層を民主党の支持者としたことによるものといえよう。この点,戦後もH.S.トルーマンの〈フェアディール〉,J.F.ケネディの〈ニュー・フロンティア〉,L.B.ジョンソンの〈偉大な社会〉(福祉政策の拡大)という形で基本線は変わらなかった。しかし,1960年代後半より内に黒人の自覚的差別廃止運動を主とする人種紛争,外に泥沼化してゆくベトナム戦争などによって大きくゆさぶられてくる。さらに,社会福祉と国防強化で連邦政府が肥大化したことに対する反発が〈小さな政府〉への願望を国民の間に生み,伝統的な自由企業主義への復帰を唱える新保守主義の動きも広まり,民主党の中核をなすリベラル・エスタブリッシュメントを脅かすことになる。また,一方で投票者の脱政党化の傾向の下で労組に依存する民主党の組織力は弱まり,他方で北東部から南部,南西部などのいわゆるサン・ベルトへの人口移動は,北東部の大都市におもな基盤をおく民主党にとってマイナス要因になっている。
共和党
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知恵蔵 「民主党」の解説

民主党

自民党に対抗する勢力として結成された新進党が1997年12月解体、それを受けて96年9月に結成されていた旧民主党に新進党の大半が合流、98年4月27日に新しい民主党が結成された。菅直人が代表、羽田孜が幹事長に就任した。98年7月の参院選では27人が当選、野党第一党の地位を固めた。しかし、菅の党運営などへの批判もあり、99年9月の代表選では鳩山由紀夫が菅と横路孝弘を破って代表に選ばれた。民主党は2000年6月の総選挙では95議席から127議席に躍進した。同年9月の代表選では、鳩山が無投票で再選された。01年の参院選では改選の22議席を上回る26議席を確保したが、鳩山らが訴えた「自民党を倒して政権交代を」という目標には程遠い結果となった。02年秋の代表選では、鳩山が菅、横路、野田佳彦を破って続投した。鳩山は02年末に突然、自由党との合流構想を打ち出した。党内での求心力回復を狙ったものだが、これが逆に党内の批判を浴びた。鳩山は辞任に追い込まれ、国会議員による投票の結果、菅が104票で79票の岡田克也を抑えて新代表に選ばれた。菅は岡田を幹事長に起用、菅・岡田執行部が発足。菅に反発する熊谷弘らは離党、保守党と共に保守新党を結成した。03年7月に菅は自由党の小沢一郎党首と合併することで合意し、総選挙の候補者調整や政策づくりを済ませて、9月に自由党を吸収する形でさらに新しい民主党が発足した。03年の総選挙では、民主、自由両党の合併効果もあり、民主党は137議席から177議席に勢力を拡大。菅は04年の参院選でも勝って、政権交代に弾みをつけたいと狙っていたが、参院選直前に自らの国民年金未加入問題が発覚、代表辞任に追い込まれた。菅の後任には、無競争で小沢一郎代表代行が就くことになったが、小沢にも国民年金未加入があることが分かり、代表就任を辞退した。結局、岡田が幹事長から代表に昇格することで両院議員総会が了承、参院選直前の混乱となった。しかし、参院選では岡田が持ち味のきまじめさをアピール。小泉自民党が年金問題や自衛隊のイラク多国籍軍参加問題で有権者の批判を受ける中、民主党に追い風が吹き、参院選で民主党は自民党の49議席を上回る50議席を獲得した。岡田は9月に代表として再選された。05年9月の総選挙は、自民党が郵政民営化で分裂し、民主党には政権交代のチャンスとなったが、小泉首相の郵政一本やりの攻勢を受けて民主党は苦戦。177議席から113議席に激減して岡田は代表を辞任した。後継代表選は43歳の前原誠司と58歳の菅直人が争い、両院議員による投票の結果、前原96票、菅94票で前原が勝った。前原代表は幹事長に鳩山由紀夫、政調会長に松本剛明、国会対策委員長に野田佳彦を起用した。06年2月には、民主党の永田寿康衆院議員が自民党の武部勤幹事長周辺に、証券取引法違反で逮捕された堀江貴文ライブドア社長から3000万円の資金提供があったと国会で追及。ところが、その質問の材料であった電子メールが偽物だったことが判明して、民主党は批判にさらされた。永田は議員を辞職、前原代表、野田国対委員長も辞任した。4月の代表選は小沢と菅が争い、小沢が119票を取って、72票の菅を圧倒した。小沢は菅を代表代行に登用し、鳩山幹事長、松本政調会長らも留任させた。野田の後任として起用されたベテランの渡部恒三国対委員長も続投となった。小沢民主党は4月の衆院千葉7区補選で自民党を破り、幸先の良いスタートとなった。9月の代表選でも小沢は再任され、菅代表代行、鳩山幹事長も続投した。民主党は07年の参院選で勝利し、その後の総選挙で悲願の政権交代をめざす。

(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「民主党」の意味・わかりやすい解説

民主党[日本]
みんしゅとう[にほん]

日本の政党。基本理念は民主中道。
(1) 旧民主党 1996年,新党さきがけ鳩山由紀夫菅直人らが中心となり,社会民主党,市民リーグなどの衆議院議員と参議院議員 57人が参加して結党。自由民主党新進党に次ぐ第三極となった。
(2) 新民主党 1998年4月,民友連 4党(民主党,民政党,新党友愛,民主改革連合)の 131人が合流して新たな民主党を結成,菅直人が代表に選ばれた。2000年衆議院議員総選挙では 127議席にとどまったが,2003年9月に小沢一郎率いる自由党と合併し,同年 11月の総選挙で 177議席へ大躍進を遂げた。2005年小泉純一郎首相の郵政民営化をめぐる解散総選挙では,113議席で惨敗したが,小泉内閣から安倍晋三内閣に代わったのちの 2007年7月の参議院議員通常選挙で民主党が圧勝し,自民党が 1955年に結党してから独占していた第一党の座に初めてついた。同時に,与党の自民党,公明党両党を非改選議員を含めて過半数割れに追い込み,衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ国会」となった。福田康夫首相は民主党との大連立を小沢代表と協議したが,民主党は役員会でこれを拒否した。2009年5月鳩山由紀夫が新代表に就任,同年 8月の総選挙で 308議席を獲得し,多数党の交代による初めての政権交代を実現した。同 2009年9月,鳩山が首相に選ばれ,国民新党,社会民主党の 3党連立政権を発足。2010年5月,沖縄県のアメリカ軍普天間飛行場移設問題をめぐって社民党が連立を離脱,6月に鳩山首相が辞任。代わって菅が代表に選ばれ,首相に就任した。だが,2010年7月の参議院選挙で惨敗。再びねじれ国会となり,厳しい政権運営に追い込まれた。2011年3月の東日本大震災(→東北地方太平洋沖地震)後,復興対応などにおけるリーダーシップの欠如を問われて菅内閣は 8月に退陣,野田佳彦が代表に選ばれ,首相に就任した。野田は,党内融和をはかりながらも,野党の自民党,公明党との間に社会保障・税一体改革の 3党合意を結んだが,党内反対派の大量造反と離党を招き,支持基盤がゆらいだ。2012年12月の総選挙では 57議席と惨敗,政権を失い,同月海江田万里が党代表に選出された。2016年3月の維新の党との合流,民進党発足に伴い,旧民主党時代から 20年の歴史に幕をおろした。

民主党[アメリカ合衆国]
みんしゅとう[アメリカがっしゅうこく]
Democratic Party

共和党と相対峙するアメリカの二大政党の1つ。党の前身はリパブリカンズから分離した民主共和派。 1828年に民主党と改名。一貫してプランター (大農園主) ,農民,労働者らの支持のもとに保護関税,公債発行,奴隷問題への介入などに反対し続けてきた。また最高裁判所判事に民主党員を任命し,憲法解釈によって州権を守ろうとした。しかし 60年に奴隷問題をめぐって南部民主党と北部民主党とに分裂し,党の黄金時代は終りを告げた。その後ほとんど野党の地位に甘んじていたが,その間共和党は大実業家の利益の代弁者になり,政治的腐敗が進行した。そのため政治粛正や現状打破を求める革新運動が生じ,この機運を背景に党は 1912年 W.ウィルソンを擁立して政権の座に復帰したが,第1次世界大戦後またもや共和党に敗れ,長い間政権の座から遠ざかった。 32年大恐慌下の大統領選挙に F.ルーズベルトを立てて勝利を収め,その後「忘れられた人々」の側に立って草の根民主主義を展開し,やがて第2次世界大戦の勃発により,戦争遂行の任にあたることになった。戦後は保守化が顕著となったが,60年「ニュー・フロンティア」を唱えた J.F.ケネディを大統領に当選させ,内外に若々しさを期待させた。しかし 63年にケネディが暗殺され,副大統領 L.B.ジョンソンが昇格,64年の「偉大なる社会」のスローガンによる大勝利にもかかわらず,ベトナム戦争への本格的介入と戦争の拡大とは,民主党内に著しい分裂をもたらし,68年に共和党の R.ニクソンによって政権を奪われた。さらに 72年の大統領選挙にも大敗北を喫し,民主党の混迷は続いた。ウォーターゲート事件によってニクソンがアメリカ史上初めて大統領を辞任したあと行われた 76年の大統領選挙では現職の共和党候補 G.フォードに J.E.カーターが勝ち,8年ぶりに民主党政権を生んだ。その後レーガン (2期8年) ,ブッシュ (1期4年) と共和党大統領がホワイトハウス入りを果した。 92年大統領選挙では,湾岸戦争の勝利で圧勝が予想されていた現職のブッシュ大統領を破り,W.J.クリントンが 12年ぶりに民主党政権を実現した。しかし,94年の中間選挙では大幅に票を落し,上下両院で過半数を割る結果となったが,96年 11月の大統領選挙では,民主党内に対立候補がないまま現職のクリントン大統領と A.ゴア副大統領が正副大統領候補に指名され,一般投票の 49%,選挙人票 379 (31州とコロンビア特別区) を獲得し再選された。 98年中間選挙では大統領の不倫もみ消し疑惑により苦戦が予想されたが善戦し,共和党との差を縮めることに成功した。

民主党[日本]
みんしゅとう[にほん]

日本の政党。1947年3月31日,幣原喜重郎を最高顧問として日本進歩党,諸派,無所属が合同して結成。結成時,衆議院議員 145人。同 1947年4月の衆議院議員総選挙には第1党として臨んだが,結果は第3党にとどまった。同年 5月に芦田均が総裁となり,5月24日に日本社会党国民協同党と連立して片山哲内閣を成立させた。1947年11月に幣原派が脱党。翌 1948年3月には同じ 3党連立の芦田内閣が成立したが,10月昭和電工事件で総辞職するにいたった。同 10月犬養健が総裁となり,野党となった。1949年1月の総選挙後,与党の民主自由党との連立を主張する犬養派と,苫米地義三を最高委員長とする野党派に分裂。1950年2月連立派は民主自由党に合流し,4月に野党派は国民協同党,新政治協議会とともに国民民主党を結成した。

民主党[大韓民国]
みんしゅとう[だいかんみんこく]
Democratic Party

韓国の政党。キム・ヨンサム (金泳三) 政権下の野党第1党。 1991年9月,キム・デジュン (金大中) 率いる新民主連合党 (新民党) と,旧統一民主党 (総裁,金泳三) の残留グループである民主党 (総裁,李基澤) が併合して結党。 92年の大統領選挙にのぞんだ野党の結集であったが,立候補した金大中は民主自由党の金泳三に敗れ,政界を引退。しかし 95年,金大中が政界に復帰し,新政治国民会議を設立した。その結果,民主党は分裂し,96年総選挙の結果,新政治国民会議,自由民主連合に次ぐ野党第3党へと後退した。選挙後に左派の政治改革市民連合を吸収するが,特定の地域基盤をもたないため勢力は拡大しなかった。 97年大統領選挙の直前には当時の与党である新韓国党と合併してハンナラ党を結党。

民主党[ラトビア]
みんしゅとう[ラトビア]
Demokrátiská Partija Saimnieks

ラトビアの政党。第2次世界大戦前の民主中央党が 1992年にセイムニークスとして再結成され,93年6月の国会選挙で初めて議席を獲得。 94年民主党と改称。自由経済とリベラルで穏健な国家運営を目指している。 95年9月の国会選挙では2倍以上に議席数を伸ばして第1党に躍進。ジエドニス・セベルス党首を中心に組閣交渉を行うが失敗,同年 12月に成立した無所属のアンドリス・シケレを首相とする保守大連立内閣に参加。 96年7月には共和党を吸収するほか人民調和党から2閣僚を引入れて勢力を拡大。しかし,同年9月に選挙資金疑惑でアイバール・クレイツス経済相を除党処分し,次期大統領選挙の有力候補であったクレイツス夫人も離党したため勢力を大きく後退させた。

民主党[ルクセンブルク]
みんしゅとう[ルクセンブルク]
Demokratesch Partei;Parti Démocratique

ルクセンブルクの政党。都市部の専門職層,商業界,ホワイトカラー層,職能層の支持を受ける保守穏健派で,自由な企業活動の保障と教会からの独立を掲げ,北大西洋条約機構 NATOとの友好関係を強調する。 1974年6月にはキリスト教社会党のワーナー政権を打ち破り,社会労働党と組んで同党のソーンを首相とする内閣を組織した。しかし,79年6月の総選挙では大きく後退し,以後野党の立場となっている。

民主党[日本]
みんしゅとう[にほん]

日本民主党」のページをご覧ください。


民主党[アルバニア]
みんしゅとう[アルバニア]

「アルバニア民主党」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「民主党」の解説

民主党
みんしゅとう

1第2次大戦後の政党。日本進歩党を中心に日本自由党・国民協同党,無所属の一部が参加して1947年(昭和22)3月に結成。修正資本主義を標榜した。日本社会党・国民協同党と連立して片山哲・芦田均両内閣の与党となる。49年2月の第3次吉田茂内閣組閣の際,党内に連立派と野党派の対立が生じ,連立派は50年3月民主自由党と合同して自由党を,野党派は同年4月国民協同党と合同して国民民主党を結成した。

2政党再編が進むなか,1996年(平成8)9月社会民主党・新党さきがけを中心にして結成(代表鳩山由紀夫・菅直人)。翌10月の総選挙で52議席を獲得。98年4月,旧新進党の大半が合流して新たに民主党を結成。2007年(平成17)には参議院で与野党逆転。09年の衆院総選挙で308議席をえて鳩山由紀夫内閣が発足。ついで菅直人・野田佳彦が内閣を組織したが,11年の衆院総選挙に大敗,政権を譲った。16年党名を民進党に変更。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「民主党」の解説

民主党
みんしゅとう
Democratic Party

共和党と並ぶアメリカの二大政党の1つ
1828年,ジャクソン(第7代大統領)支持派により結成された。民主共和党が前身。南部を地盤とし,南北戦争以後,野党の地位に長くとどまったが,20世紀にはいり,資本主義的諸矛盾の激化とともに,大衆の不満を背景として,ウィルソン・F.ローズヴェルトを大統領に当選させた。トルーマン・ケネディ・フォード・カーター・クリントンらは民主党の大統領。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の民主党の言及

【55年体制】より

…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
 1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…

【55年体制】より

…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
 1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…

【ウガンダ】より

…一方,王党派は61年にカバカ・イェッカ(KY)という政党をつくり,イギリスとの独立交渉の際,ブガンダ王国はウガンダの他地域から分離独立すべきことを主張,同年の立法審議会の総選挙をボイコットした。選挙はブガンダの少数派カトリック信徒に基盤を持つ民主党(DP。1956創設)が勝利し,DP党首キワヌカB.Kiwanukaがイギリス政府との独立憲法制定交渉にあたった。…

【トルコ共和国】より

…第2次大戦後,民主主義の世界的風潮の中で,1946年以降複数政党制に移行した。46年の総選挙では共和人民党がかろうじて第一党の地位と政権とを保ったが,50年の総選挙では,自由主義的政策を掲げた民主党Demokrat Parti(共和人民党反主流派により1946年に創設)が大勝し,以後60年5月までの10年間バヤル(第3代大統領,祖国解放運動の闘士)とメンデレス(首相,西アナトリアの地主出身)とによる民主党政権が続いた。民主党は,豊作による農業生産の向上,朝鮮戦争による国外需要の増加,マーシャル・プランにもとづく経済援助による潤沢な資金などを基礎として,農業の近代化,工業の発展,電力や道路など社会資本の拡充などの大規模な経済開発政策を推進したが,50年代以後,財政難,貿易収支の赤字による外貨不足,インフレ,社会発展の不均衡,政府首脳の腐敗などが表面化した。…

【芦田均】より

…46年衆議院憲法改正委員会委員長に任命される。47年自由党を脱党して民主党結成に参加,総裁となり社会党との連立政権を組閣。片山哲内閣の副総理,外相を務め,48年3月には芦田内閣を組閣した。…

【政党】より

…すなわち連邦党と民主共和党である。当初優位に立っていた連邦党は19世紀に入ると民主共和党に連敗して消滅し,民主共和党体制が続く中で〈ジャクソニアン・デモクラシー〉時代が到来したが,この間に民主党と呼ばれるようになった民主共和党では,党内のジャクソン派と反ジャクソン派の対立が激化し,反ジャクソン派は1828年に国民共和党(1834年にホイッグ党と改称)を結成し,40年にハリソン,48年にタイラーを大統領に当選させた。だがこのホイッグ党も,50年代に入って奴隷問題をめぐる内部的分裂と52年の大統領選挙での惨敗によって解体し,奴隷制反対派は他の奴隷制反対グループと合流して新しい政党の結成へと向かった。…

【保守合同】より

…1955年11月15日,民主党と自由党の合同による自由民主党の結成をいう。1952年4月のサンフランシスコ講和発効後,政界に復帰した追放解除者と戦後派保守政治家との対立がしだいに表面化した。…

【共和党】より

… 歴史的には,建国期のフェデラリスツ,1830年代以降のホイッグ党の流れをくむ。19世紀中葉に民主党が南部プランター勢力の政党と化するに及び,それに対抗して東北部の新興産業資本勢力と中西部の自営農民層との連合体として組織された。西部出身でありかつホイッグ党出身のリンカンは,この連合の組織者であるとともに象徴でもあった。…

※「民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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