精選版 日本国語大辞典 「ファシズム」の意味・読み・例文・類語
ファシズム
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第一次世界大戦直後の1920年代初頭から第二次大戦終結時点の1945年までの約4半世紀間にわたり、世界の多くの地域に一時期出現した、まったく新しいタイプの強権的、独裁的、非民主的な性格をもった政治運動、政治・経済・社会思想、政治体制の総称。
ファシズムは、イタリア、ドイツ、日本をはじめとして、スペイン、オーストリア、ポルトガル、ルーマニア、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなどの西・東欧諸国、またアルゼンチン、チリ、ブラジルなどの南米諸国においても発生した。これらの国々のうちで、とくにイタリア、ドイツ、日本の3国がファシズム国家の典型とされるのは、一つには、その地において強力なファシズム政権が確立されたこと、さらにより重要なことは、これら日独伊3国が、第二次大戦の一方の当事国として、イギリス、アメリカ、フランス、旧ソ連などのいわゆる民主主義陣営を敵に回して、それらの国々と戦ったからである。
では、この世界史上まったく新しいタイプの運動・思想・体制をなぜファシズムとよぶのか。それは、このような運動・思想が最初にイタリアのムッソリーニによって提唱され、かつイタリアにおいてファシズム体制が確立されたからである。ファッショfascioという語は、イタリア語の「束」を意味し、そこから転じて、「団結」「結束」を表す語として用いられるようになった。第一次大戦中、参戦派のサンジカリストたちが「革命的参戦行動ファッシ」という名称の組織をつくり、戦後、ムッソリーニがこの組織を継承して「戦闘ファッシ」とし、1921年には「国民ファシスタ党」という政党に改組した。これ以後、ファシズムということばが、独裁的・非議会主義的・反共主義的な運動・思想・体制の総称として広く一般に用いられるようになった。
[田中 浩]
ファシズムが第一次大戦後のイタリアやドイツにおいて発生した理由は二つ考えられる。一つは、大戦後の未曽有(みぞう)の経済的危機とそれによる政治的危機の出現という問題である。もう一つは、大戦後、世界史上初めてロシアの地に社会主義国家が誕生し、各国に脅威を与えたことである。イギリスやフランスよりも2、3世紀遅れて近代国家を形成したイタリアやドイツは、植民地分割競争に乗りおくれたため当然にその経済的基盤が弱く、大戦の影響をまともに受け、深刻な失業、貧困、インフレ問題などは、国家的存立はもとより、中産階級以下の人々にとって深刻な死活問題ともなった。ファシズム運動が、政治運動、思想運動としては排外主義的なナショナリズムを前面に掲げ、経済的には、先進帝国主義列強の非を鳴らしつつ国家の強力なリーダーシップによる経済成長と国民生活の安定を図ると称して「下からの革命」を唱え、中産階級を主体に――ファシズムを中産階級の行動や思想から説明するファシズム論はこれに起因する――広く労働者階級までをも組織に組み入れることに成功したのは、第一次大戦直後の異常事態を抜きにしてはとうてい考えられないであろう。
ところで、資本主義経済の危機を解決する方法としては、ファシズムの道のほかに社会主義への道があった。事実、そのようなものとしてロシアにおいてはレーニンの指導する社会主義政権が樹立された。このことは、各国の労働者階級を勇気づけ、世界的に社会主義運動や労働運動が高揚する。しかし、ファシズム運動の指導者たちは、階級闘争の激化は国家的破滅につながるものとしてこれを厳しく弾圧した。ファシズムが民族主義的性格を色濃くもち、反資本主義、反議会主義、反民主主義を唱えるとともに、反社会主義、反共産主義を掲げて、一党独裁による極端な国家主義(ステイティズム)を強調したのは、ひとえにソ連社会主義の自国への影響を恐れたためであったといえよう。このようにみると、ファシズムと社会主義は、19世紀末以降とくに顕在化した資本主義の矛盾とその全般的危機に対する対応策として出現したものであることがわかる。しかし、この両者はまったく違った道を歩み、社会主義国家は民主主義社会の建設を目ざし、ファシズム国家は、個人の自由や民主主義を否定する全体主義的な国家体制の確立を追求し、そのことは帝国主義的侵略主義と結び付き、結局、この両者は第二次大戦において対決することになる。
[田中 浩]
ドイツでは、ファシズムという語よりもナチズムという語が用いられ、日本では天皇制ファシズムあるいは全体主義という語が用いられたように、ひと口にファシズムといっても、3国におけるファシズムの内容はかならずしも同じではないが、共通する性格について述べる。
(1)国家による経済の統制・監督 ファシズム運動は、そもそも自由主義的な資本主義経済の危機を契機に発生したこともあって、ファシズムにおいては国家による経済の統制・監督という思想が強い。ムッソリーニは、このような干渉主義を混合経済とよび、そのような政治・経済体制を資本と労働の協同体方式によって建設することに全力を注いでいる。またドイツの政治学者カール・シュミットは、ファシズム国家を全体主義国家totalen Staatと規定し、この国家の特質は「国家が社会(経済)を呑(の)み尽くす」点で全体的であると述べている。もっとも19世紀末以来、資本主義国家においても福祉国家への転換が図られ、国家や政府の指導・監督がしだいに強化されつつあったし、社会主義国家においては計画経済の下に経済は完全にコントロールされている。この点については、三つの政治・経済体制は一見似通ってみえる。しかし、ファシズム国家の場合には、市民的自由や労働者の権利はまったく否定され、個人の経済活動も国家利益に従属させられているという点で、資本主義国家や社会主義国家の場合とその様相を大きく異にしているといえる。
(2)狂信的民族主義 ファシズムの第二の特質は、その偏狭な狂信的民族主義にある。ムッソリーニは、ファシスタ党が政権をとる「ローマへの進軍」を前にして、民族の概念がマルクス主義的な階級の概念よりも優位しているとの演説を行った。彼によれば、国家とは民族が政治制度において具現化されたものであった。彼は、ファシズム国家は「下から形成・組織された国家」であると述べ、国民に対して国家への民族的統一を呼びかけ、階級闘争による国家分裂の行動を否定している。他方、フランス革命当時にあってもなお300を超える領邦国家に分裂していたドイツ人にとっては、イギリスやフランスのような近代的統一国家の形成は、いわば民族の悲願ともいうべきものであった。統一国家=帝国(ライヒ)Reichと民族(フォルク)Volkという概念がドイツ民族統一のための長年にわたる合いことばとなったのはこの理由による。ここから「ゲルマン民族の優越性」「血の純潔」「血と大地」「反ユダヤ主義」というドイツ特有の民族概念が生まれた。ドイツ人によれば、ユダヤ人は世界中の国々に潜入して資本主義的利益を獲得するために狂奔し、他方では、ユダヤ的マルクス主義は、インターナショナルな楽園をこの地上に創出すると称して民族の統一を妨げている、というわけである。ナチ党がユダヤ人を大量虐殺し、またユダヤ人マルクスの唱えた社会主義や共産主義を憎悪しこれを厳しく弾圧したのは、ドイツ人特有の民族概念を知ることによって初めて解明できる。
この点、日本における民族概念の政治的機能は、イタリアやドイツの場合と異なる。日本では、国家は有史以来、大和(やまと)民族というほとんど単一の民族で構成され、その民族が天皇を頂点として統合されてきたと考えられていた。日本において、「下からの革命」という運動が欠如しているのはそのためである。そして、こうした民族概念は、明治維新以後の「富国強兵策」の時代から十五年戦争期にかけて、天孫民族による世界統治こそ神聖至上なりとする「八紘一宇(はっこういちう)」の思想にまで高められ、それは国民意志を統合する最重要な精神的契機となり、明治以来のアジア侵略や帝国主義戦争を正当化する思想となったのである。もっとも民族的使命感を強調する思想は、15、16世紀以来、帝国主義的植民地略奪を遂行しつつあった西欧人の間でも、「白人の責務」「キリスト教国民による未開人の教化」という形で唱えられたが、ファシズムの場合には、偏狭な民族主義が極端な形にまで進んだものといえよう。
(3)反自由主義・反議会主義・反マルクス主義 ファシズムは社会主義と異なり、資本主義そのものは否定しないが、その政治思想や政治制度には反対する。そのことが一見ファシズム国家は反資本主義的性格をもつと思われがちだが、ファシズムの真の敵はマルクス主義、社会主義国家である。ではなぜ、ファシズムは反自由主義、反議会主義の立場をとるのか。それは、シュミットによれば、議会制民主主義は、本来敵であるべき社会党やとくに共産党の存在を許しているためだ、という。また20世紀に入って労働者階級の力が強大となったが、敵を敵として扱わず、討論相手にしているような議会制民主主義のやり方では、とうていこの強大な新しい社会階級に敵対できない、したがって、いまや議会主義ではなく一党独裁によって階級敵に対抗し、これを絶滅しなければならない、というわけである。こうして、ファシズムは、いずれの国においても社会主義運動や階級闘争を厳しく弾圧したが、そのことは、日本の「治安警察法」や「治安維持法」の適用にもみられるように、市民的自由や議会制民主主義などの一般的民主主義までも全面的に否定することとなり、ここに、全体主義的なファシズム国家体制が確立されたのである。
[田中 浩]
(1)イタリアのファシズム ファシズム国家という点でもっとも典型的なのはイタリアの場合であろう。なぜなら、そこでは、資本主義の危機を乗り越えるために、国民のナショナリズムに訴えて大衆的支持を得ることを目ざし、政治と経済の緊密な協同・結合を図ってファシズム体制をつくりあげようと試みているからである。ムッソリーニは、1922年の政権獲得後ただちに、資本家と労働者双方の職業組合を結合し、経済的諸関係の全体的規制と生産的統一秩序のための方策を決定できる協同体corporazione方式により、資本主義国家を協同体国家へと改編しよう――ここに、ファシズムを、資本主義の危機に際しての独占資本家層による新しいブルジョア独裁の変種とみるコミンテルン規定が生まれた――と試みている。この協同体では、頂点に「協同体全国協議会」があり、その下部に22の協同体が設けられている。各協同体はそれぞれの生産部門の経済活動を監督・指導する。「全国協議会」は、生産の私的イニシアティブは尊重しつつ、それが協同体において全経済の利益、国家の利益と調和するように図る権限を有する。この協同体国家への改編は34年2月に協同体に立法権が与えられることによって完成した。こうしてムッソリーニは、資本主義の矛盾とコミュニズムからの脅威を克服したと称する強大な国家建設と世界進出の夢を結合させることによって、33年1月に政権を獲得したドイツ・ナチズムと連帯を強めつつ、エチオピア侵略、国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結を経て、枢軸国の一員として第二次大戦に参戦するのである。
(2)ドイツのナチズム ナチ党は、1923年のミュンヘンでの一揆(いっき)に失敗して以後、議席拡大による合法的な権力獲得の道を追求し、敗戦によって失われたかつてのドイツ民族の栄光を回復するという旗印を掲げ、大量の失業軍人や不安定な状況に置かれていた広範な中・小生産者層を結集し、また「国民社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名によって労働者階級の一部をも引き付けることに成功した。29年に始まった世界大恐慌の出現は、ナチ党の党勢拡大に弾みをつけた。32年の選挙ではついに第一党の地位についたが、その狂信的政治信条を恐れた支配層は、ヒトラーに政権を移譲することをためらった。しかし、30年代の深刻な政治的・経済的危機を解決する能力を失った支配層は、コミュニズムの脅威よりもファシズムをよしとして、ついに33年1月にヒトラーに政権を渡した。この時点では支配層は、ナチ党をコントロールできるものと楽観視していたようである。しかし、首相ヒトラーは、ワイマール憲法第48条に規定された大統領の非常大権を有効に活用して組合運動や政党活動を抑圧し、33年3月24日には「民族と帝国の危難排除のための法律」を制定してたちまちいっさいの権限をその手中に収めた。この法律によりワイマール共和国は崩壊し、以後、ヒトラーは、「歓呼」と「喝采(かっさい)」という方式によって彼の命令と意志を無条件に支持する全体主義的独裁体制を確立し、第二次大戦への道を目ざして戦争準備を始めることになる。
(3)日本のファシズム 日本のファシズムは「天皇制ファシズム」とよばれるように、明治憲法体制の下で長年かけてつくりあげてきた国民の天皇信仰を背景に、軍部・官僚による「上から」の強権的国家体制を形成して十五年戦争を遂行したという点で、「下から」の革命を目ざして国民を組織し、ファシズム政権を獲得したイタリアやドイツの場合と様相を異にする。この点をめぐって日本はファシズム国家ではなかったと主張する者もいる。しかし、この時期の日本でも国家による経済の監督・統制の強化、「八紘一宇」の観念による侵略的民族主義の高唱、反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義などの思想教化、さらには国内的には国家総動員法の制定(1938)、大政翼賛会・大日本産業報国会の結成(1940)などを通じて機構的に天皇制ファシズム体制が確立され、国際的には満州侵略(1931)、国際連盟からの脱退(1933)、日独伊三国同盟の締結(1940)などを断行した経過をみると、日本がファシズム国家であったことは間違いない。
(4)その他のファッショ体制 1920、30年代には、主要3国以外にも、ファシスト政権やファシズム運動が各国で相次いで出現している。たとえば1920年にはハンガリーにホルティ政権、28年にはポーランドにピウスツキ政権、33年にはポルトガルにサラザール政権、34年にはオーストリアにドルフス政権、36年にはスペインにフランコ政権、40年にはルーマニアにアントネスク政権、また第二次大戦中には、チリ、ブラジル、アルゼンチンなどにファシスト政権が誕生した。そのほか、政権獲得までには至らなかったが、イギリスのモズリー一派の「イギリス・ファシスト同盟」、アメリカの「アメリカ・ナチス党」、フランスのモーラスらの「アクシオン・フランセーズ」などのファシズム運動が、またカナダ、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィンランド、インドなどでもファシズム運動が出現したのである。こうした政権や運動は、第二次大戦後ほとんどその姿を消したが、フランコ政権のように戦後に至ってもなおしばらく生き残った政権もあった。
[田中 浩]
第二次大戦での日独伊3国の敗北によりファシズム国家はひとまずこの地上から姿を消した。しかし、ファシズムの運動や思想が民主主義への挑戦・否定を含むものであったということからすれば、今日においてファシズム再現の危険性がまったくなくなったとはいえない。戦後はファシズムという用語よりも全体主義ということばが用いられているようだが、たとえば1950年代前半における米ソの対立激化のなかで、アメリカはスターリン体制を全体主義として非難し、他方旧ソ連は、当時、思想・信条の自由を抑圧していたアメリカのマッカーシズムを全体主義として攻撃した。第二次大戦が、人権と自由の観念が希薄であり、民主的な政治制度の確立がきわめて不十分であった日独伊3国によって引き起こされたことを考えれば、それは、今日の時点においてファシズムの再現を防ぐ方法は何かをわれわれに教えているといえないだろうか。
[田中 浩]
『山崎功著『ファシズム体制』(1972・御茶の水書房)』▽『山口定著『現代ファシズム論の諸潮流』(1978・有斐閣)』▽『東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会』全8冊(1978~80・東京大学出版会)』▽『田中浩著『カール・シュミット』(1992・未来社)』
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狭義には第一次世界大戦後のイタリアに登場した国民ファシスタ党の政治運動と思想,支配体制をさすが,一般的には戦間期にヨーロッパを中心に広がった類似の政治運動や支配体制全般を意味する。第一次世界大戦という総力戦を戦ったヨーロッパ諸国では,従軍経験者を中心として旧来の価値観に対する異議申し立ての運動が起こった。彼らは既存の議会制民主主義に反発すると同時に,階級連帯的なナショナリズムを唱えて,ロシア革命を達成したボリシェヴィキにも敵対した。この「第三の道」を模索する少数者の運動が,ロシア革命の波及を恐れる農村の伝統的支配層や都市中間層と結びつくことによって,政権の座に達する国が現れた。イタリアがその典型的な例である。さらに,世界恐慌による経済の混乱は,こうした運動が大衆的な支持基盤を獲得することに寄与した。ドイツにおけるナチズムの政権奪取はその例である。これらの国では,強力な指導者原理のもとに,ときには露骨な暴力を用いながら,大衆の消費生活と余暇の向上に努めることによって国民統合を図った。また,既存の国際秩序に挑戦して対外膨張を企図したが,それは第二次世界大戦という惨事をもたらすことになった。1920年代,30年代には,ヨーロッパのほとんどすべての国にファシズムまたはそれと類似の動きがみられる。なお,日本にも北一輝(きたいっき)の例にみられるように類似の思想や運動が存在したが,30年代以降の軍国主義体制をファシズムとみなすか否かについては見解が分かれている。
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イタリア語で団結を意味するファッシに由来し,ムッソリーニのファシスト党が1922年に政権を掌握して以後,ベルサイユ・ワシントン体制とコミンテルンに対抗し,指導者原理や直接行動的な大衆運動を形態的特徴とする類似の思想・運動・体制が一般にファシズムとよばれた。日本では北一輝(きたいっき)や陸軍青年将校運動など国家改造を掲げた思想や運動,あるいは国家総動員体制の構築をめざす運動,もしくは大政翼賛会成立後の政治・社会体制などをさして用いられる場合が多いが,ファシズムの概念そのものの定義や体制成立の指標が論者によって異なり,近年では昭和戦前期の日本政治分析にファシズムの概念を用いることに否定的な立場も有力である。
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…イタリア史を貫いて存在する国家と教会の錯綜した関係は,この段階でローマ問題とよばれる新たな対立の局面を迎える。この対立は,ファシズム時代のラテラノ協定の締結で和解が成るまで続いた。
[二重構造の新編成]
1880年代から90年代にかけて,イタリア社会に新しい動きが目立ってくる。…
…とくに風俗やライフスタイル面でのラディカリズムは,日本の〈モボ・モガ〉現象にみられるように,醇風美俗世界の強い情緒的反発に出会うことになった。 こうした一部の過度に誇張された近代主義の動向に対して,退廃,背徳,反秩序等のラベルをはりつけ,根源悪としての〈近代の超克〉をはかるというスローガンを掲げて登場してきたのが,ファシズムである。それは技術的効率に奉仕する機能的合理性を除くすべての近代主義的価値を否定し,それに代わって,伝統主義的価値,つまり全体主義,共同体主義,人種主義,反合理主義などを称揚した。…
…クローチェは精神の活動を理論的行為と実践的行為に区分したが,ジェンティーレは理論と実践という二元論を否定し,精神の活動は現実に思惟する行為そのものであり,行為のなかに精神の現実態があると主張した。彼の行為主義的観念論は政治における直接行動主義を触発し,また国家の活動のなかに倫理的価値の具体化をみる倫理国家論はファシズムとの接近をもたらした。ムッソリーニ内閣が成立すると文相に登用(1922‐24)され,ジェンティーレ改革として知られる教育改革を断行した。…
…サウンド版の《モダン・タイムス》(1936)に続くチャールズ・チャップリンの最初のトーキー映画。チャップリンの4日後に同じ貧困と無名のうちに生まれ,チャップリンとはいわば正反対の方向に進んで世界制覇の野望に燃えたヒトラーとそのファシズムに対して,チャップリンが〈たった1人の戦争〉をいどんだ作品で,〈時代の歴史〉に対するもっとも痛烈な風刺喜劇として評価されている。 そもそもの着想はイギリスのプロデューサー,アレクサンター・コルダによるもので,その内容が表ざたになると,駐英ドイツ大使の抗議,ヒトラーとゲッベルスからの直接的な圧力をはじめ脅迫状や製作中止勧告が相次いだが,チャップリンは独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の二役をみごとに演じて,誇大妄想狂の〈独裁者〉の内面をあばいてみせた。…
…1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《大人は判ってくれない》(1959)は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。【柏倉 昌美】。…
…1820年に勃発したイタリアおよびスペインの革命は,神聖同盟により鎮圧された。また,予防的な革命の第2の例としては,現代のファシズムがあげられる。社会主義革命の国際的伝播(でんば)を恐れる保守勢力が,ボリシェビズムに対する防壁としてファシズムに大きな期待をかけたことが,その成功の一因であることは否定しがたい。…
…後に属州総督,ウェスタ女神の女祭司に,帝政期には元首の守護霊の祭祀役にも同行した。なおファスケスはファシズム(全体主義)の語源。【鈴木 一州】。…
※「ファシズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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アデノウイルスの感染により、発熱、のどのはれと痛み、結膜炎の症状を呈する伝染性の病気。感染症予防法の5類感染症の一。学童がプールで感染して集団発生するのでプール熱ともいう。...
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