民主党(読み)みんしゅとう(英語表記)Democratic Party

翻訳|Democratic Party

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

民主党(アメリカ合衆国)
みんしゅとう
Democratic Party

アメリカ合衆国において共和党と並ぶ二大政党の一つ。その起源は遠く憲法制定期のアンチ・フェデラリスツ(リパブリカン)にまでさかのぼりうるが、公式には1828年にA・ジャクソンを大統領に当選させた民主共和党に始まる。同党は、やがて民主党を名のることになるが、ジャクソンの民主党は、伝統的な東部名望家層の支配に対する、新興西部の農民あるいはコモン・マン(古い家柄もなく、特別な教育も受けていない普通の人々)の挑戦と勝利を体現していた。すなわち、同党は特権の廃止、機会の均等、競争の自由を強調し、また普通選挙制、官職交替制、全国党大会制など民主的諸制度の確立に努めた。
 しかし、やがて奴隷を所有する南部のプランター(入植者)が党のヘゲモニーを掌握するとともに、民主党は奴隷制支持の機関へと変質した。南北戦争の結果、南部が敗れるとともに、民主党も南部の政党、少数者の政党として、半永久的に野党の地位にたつことを余儀なくされる。ただ、19世紀末には、順調な発展を遂げる資本主義のもとで、相対的に劣勢な地位に甘んぜざるをえなかった農民が民主党に結集し、1896年の選挙では、ブライアンをたてて、共和党と大接戦を演じた。結局この選挙で敗れたことにより、民主党の劣勢はさらに持続することになる。実際、1860年から1932年までの間、民主党がホワイトハウスを占めたのは、クリーブランド、ウィルソンの各2期通算16年だけで、いずれも共和党の内紛に負うところ大であった。ただ、1920年代になると民主党内で都市大衆を基盤とした勢力の比重が高まり、1928年にはアイルランド系都市移民の子アル・スミスを大統領候補に指名するまでに至った。
 大恐慌を背景として、民主党の都市化ないし工業化を完成させたのは、F・D・ルーズベルトであった。復興・救済・改革を唱えたニューディールは、労働者、小農民、黒人など低額所得者層の広範な支持を獲得、1936年以降民主党を長年にわたって多数党化することに成功した。こうした民主党の支持基盤は、しばしばルーズベルト連合とよばれるが、それは実にルーズベルトの大統領4選を可能にし、さらに1948年のトルーマン、1960年のケネディ、1964年のジョンソンの大統領当選を支えたのである。
 しかし、1960年代の後半に入るとともに、ルーズベルト連合は解体し始め、1970年代に入ると、民主党の支持基盤は著しく弱体化した。1976年にカーターが民主党の大統領候補として勝利を収めたが、それは保守的なカーターが、保守化した大衆の支持を得たためであり、革新的な民主党の勝利ではない。そのカーターも1980年にはより保守的なレーガンに敗れ、1980年代も民主党の低迷が続いた。その最大の原因は、1960年以降急速に進行した平等化に対する反動として台頭した保守勢力が、今日のアメリカの直面している諸問題の原因を民主党のニューディール政策に求めているのに対して、民主党が適切な解答を提示しえないことにあった。その後1992年には、クリントンが大統領に当選、1996年にも再選されて、民主党は復権を果たしたかにみえるが、クリントンの政策自体は保守的であり、共和党の保守主義に対抗する民主党の新しい路線が確立されたとはいいがたい。2000年の大統領選では、クリントン政権で副大統領を務めていたゴアが候補となり、共和党候補G・W・ブッシュと争ったが僅差(きんさ)で敗れた。しかし、ブッシュは2005年のハリケーン「カトリーナ」被災の際の対応の遅れ、またイラク戦争や、その戦後政策に対する批判等により支持率を下げ、民主党は2006年の中間選挙で上下院ともに勝利し勢いをつける。2008年の大統領選では、上院議員オバマが共和党候補マケインに大差をつけ当選、翌2009年にアメリカ史上初のアフリカ系(黒人)大統領に就任した。[阿部 齊]
『C・A・ビアード著、斎藤眞・有賀貞訳・著『アメリカ政党史』(1983・東京大学出版会) ▽松尾弌之著『共和党と民主党』(講談社現代新書)』

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