〈ファシズム〉という語が生まれたのは,ムッソリーニを指導者とするイタリアの〈ファシズム〉運動の台頭によってである。イタリアでは,第1次大戦直後の混乱のなかで,1922年10月31日に早くもムッソリーニ内閣が成立したが,その後29年に始まる世界恐慌を背景に,33年1月30日ドイツではヒトラー内閣が生まれた。20年代から30年代にかけてヨーロッパの広範な諸国にこのムッソリーニの〈ファシズム〉やヒトラーの〈ナチズム〉に類似した政治的急進主義の動きが芽生えていたが,第2次大戦の緒戦におけるドイツの軍事的勝利にも支えられて,42年夏には,この種の動きが全ヨーロッパを支配してしまうようにさえみえた。この政治的急進主義が当時はその先頭を切ったイタリア・ファシズムにちなんで〈ファシズム〉と呼ばれたし,そのことを踏まえて,第1次大戦と第2次大戦の間の時期を〈ファシズムの時代〉とする呼び方もあるほどである。
ファシズムの問題を考えるときには,運動,思想,体制の三つを区別したほうがよい。
まず運動としてのファシズムについていえば,イタリア・ファシズムとドイツのナチズムがその代表であることはいうまでもない。イタリア・ファシズムの運動は1919年3月に〈イタリア戦闘ファッシ〉として出発,行動隊組織による街頭支配によって勢力を拡大,その仕上げとしての〈ローマ進軍〉によって政権についた。政権掌握時の国会議席は35にすぎなかったが,行動隊を中心としたその党組織からいえばイタリア最大の政党であった(イタリアのファシズム運動については後述する)。またドイツのナチ党(ナチス)は,19年1月結成の〈ドイツ労働者党〉を前身とするが,ヒトラーが23年11月にミュンヘンでイタリア方式を試みて失敗し(ミュンヘン一揆),以後方針転換して,議会と選挙を通じた政権獲得を目ざし,世界恐慌のもたらす混乱のなかで急成長した。ナチスの〈突撃隊〉の暴力は選挙戦のなかで,反対党とりわけ左翼政党に向けられた。ヒトラー内閣成立時の同党は196議席(第一党),得票率33%,党員数140万(うち突撃隊40万)という巨大な運動になっていた。ファシズムの運動は,このように制服を着用した行動隊組織の存在と,それによる暴力の行使,集会と行進による示威,そして強力な指導者を中心とする権威主義的内部秩序(〈指導者原理〉)を特徴とする。
ファシズム運動の支持者層については,国によって違いがあるにしても,いわゆる〈中間層ファシズム論〉の立場が強調するように,新・旧の中間層,つまりホワイトカラーや中小企業主,零細商人,手工業者,農民などが多かった。しかし,ファシズムが一般にどこの国でも,青年層や失業者と未組織労働者などの一部労働者の支持を集めたことも,これに劣らず重要であり,さらに活動家層についてみれば,第1次大戦の戦場体験(塹壕体験)や,戦場で青春を燃焼し尽くして平和な市民生活への適応能力を失った元前線兵士たちの絶望的な行動主義が注目を要する。また第1次大戦終了直後の混乱のなかでロシア革命の成功に刺激されて,多かれ少なかれ革命的な色彩をもった労働運動が各国で燃え上がったのに対して,地主,軍人,右翼政治家,一部財界人の間に深刻な危機感が生まれ,彼らが資金や信用を提供してファシズム運動を支援したという事実も見のがせない。30年代の世界恐慌(大恐慌)は,そうした動きをさらに世界中に広める役割を果たした。
独伊両国のほかには,第3の強力なファシズム運動であったルーマニアの〈鉄衛団〉や,ハンガリーの〈矢十字党〉,イギリスのモーズリーOswald Ernald Mosley(1896-1980)の〈イギリス・ファシスト同盟〉,フランスのJ.ドリオの〈フランス人民党〉,スペインの〈ファランヘ党〉などが知られている。日本では,ファシズムの思想やそれに基づく一定の動きはあったが,〈下からの〉大衆運動としてのまとまった展開はみられなかった。
従来のファシズム研究においては,ファシズムの主張には首尾一貫性に欠けたご都合主義的なものが多く,厳密な意味での思想やイデオロギーはファシズムには存在しないとするものが多かった。この見解は,ファシズムの思想の重要な側面をついてはいるが,そのことによって,さまざまな国のファシズムの思想にみられる一定の共通の主張を見のがしてはならない。
ファシズムには国の違いを超えて,一般に次の四つの思想的特徴がみられる。(1)〈共同体〉思想の急進的な主張がみられる。その際,〈共同体〉を表すシンボルは〈民族共同体〉(ドイツ)であったり,〈国家〉(イタリア)であったり,〈国体〉(日本)であったりするが,いずれの場合であっても,自由主義者やマルクス主義者(とくに共産主義者)や労働運動関係者,さらには単なる非協力者までを異端者(〈共同体の敵〉)として迫害し,排除することが主張された。(2)また,30年代のファシズムの理論家たちは,多かれ少なかれ〈ナショナリズム〉と〈社会主義〉を接合した理論を構築することに腐心した。その際,〈社会主義〉シンボルは,一般に単なる大衆操作の道具に終わることが多かったが,〈ファシスト左派〉の理論家たちはこのシンボルに,なんらかの〈社会改革〉を盛り込もうと努力した。そして,そこには高利貸や大商業資本に対する小市民の反発が反映していた。たとえば,ナチ党の〈25ヵ条の綱領〉のなかには,〈利子奴隷制〉や〈大百貨店〉などへの反発や,土地問題と教育問題に関する要求が満ちあふれている。(3)ファシズムの理論家たちは,弱肉強食の思想(〈社会ダーウィン主義〉)に基づく独特のエリート理論を展開した。自由主義,民主主義,議会主義(多数決主義)はすべて〈指導者〉支配に反するものとして拒否され,組織論としては,いっさいの合議制と下からの選挙制度を排除する〈指導者原理〉が主張された。(4)この〈社会ダーウィン主義〉は国際的な民族間の〈生存競争〉の場にも適用され,〈支配民族〉たる使命を負った民族は,その生存のために必要な空間(〈生存圏〉〈生命線〉)を弱小民族の犠牲において確保する権利があるとされた。ファシズムの,こうした〈生存圏〉思想に基づく対外侵略は〈ファシスト帝国主義〉と呼ばれる。また,多くの場合,世界史は〈人種間闘争〉の場と解され,とくにナチズムにおいては,〈ユダヤ支配の除去〉が自己の使命とされた(アンチ・セミティズム)。こうしたファシズムの思想は,ヒトラーの《わが闘争》(1924)のなかに全面的に展開されているが,日本においても北一輝の《日本改造法案大綱》ほか一連の著作にそれに見合う内容がみられる。
上述のように,ファシズムの運動は,世界恐慌を背景として,イギリス,フランスなど当時の先進資本主義国家においても発生している。しかし,それが勝利して自己の支配体制を築くことに成功したのは,ドイツ,イタリア,日本3国など当時の後発資本主義国家ばかりである。それらの諸国の共通の特徴は,〈上からの近代化〉によって急速な資本主義的工業化の道を歩むなかで,労・資の対立など国内の矛盾が激化し,しかも膨大な中間層の間に不安と不満が蓄積し,帝国主義的な対外進出が行き詰まった国ということである。つまり,ファシズムの支配体制は,第1次大戦とロシア革命と世界恐慌という世界史的条件と,〈上からの近代化〉の道を歩むなかで矛盾をため込んだ後発諸国との出会いの所産であったと考えられる。
ファシズムの支配体制については,通常,強力なファシズム運動が政権を掌握して,カリスマ的指導者による個人独裁,一つの党,一つのイデオロギーによる全体主義支配が樹立されるものと考えられている。しかし,今日では,そうした全体主義支配はファシストの夢ではあっても,必ずしも十分には実現されなかったことが明らかにされてきている。厳密にいえば,このモデルにいちばん近いナチス〈第三帝国〉の場合でも,ヒトラーとナチ党による全体主義支配が成立したのは1938年以降の後半期であり,イタリアのムッソリーニの場合は,そもそもその成立自体を否定する研究者が多い。〈ヒトラー体制〉といわれるものも,実際には,H.G.H.シャハト(国立銀行総裁。その財政手腕でヒトラーを助ける)らに代表されるような,伝統的エリートの協力なしには新しい体制を定着させることはできなかった。とくに〈ムッソリーニ体制〉は王制(宮廷と軍部)やカトリック教会との妥協の所産であり,現実にムッソリーニは敗色濃厚となるなかで,43年7月王制派のクーデタによって失脚させられている。戦前・戦時の日本とフランコのスペインについては,下からのファシズム運動の不在もしくは弱体さを理由として,ファシズム体制の成立を否定する見解が多い。しかしこれらにおいても,それなりのファシズム・イデオロギーの形成がみられ,ナチス・ドイツとの同盟を通じてナチス〈第三帝国〉を理想とする人々が国家権力の中枢部で発言権を保持するにいたったことなどを考えると,そのファシズム体制としての性格を否定するのも問題であろう。いずれにせよ,上述のようなイタリアの体制と,かつての日本とはそれほどの違いはなく,むしろ,ナチス〈第三帝国〉はファシズムの標準形態というよりは,むしろその極限形態と位置づけられるべきであろう。日本のファシズムについては,その形成過程において,下からの運動よりは既存の支配層による〈上からのファッショ化〉が中心であったこと,対外侵略が〈国家改造〉に先行する〈外先内後〉型であったこと,ファシズム体制は1940年10月の〈大政翼賛会〉の発足で成立したことなどが,これまで主張されている。なお,ハンガリーのホルティやポーランドのJ.ピウスーツキの体制はファシズム体制ではなかったとするのが,通説となっている。
ファシズム体制は,ナチス〈第三帝国〉の〈国家秘密警察〉(ゲシュタポ)と強制収容所によって端的に示されているように,非道な抑圧の体制であった。とくにドイツの場合には,600万のユダヤ人の虐殺をはじめ,ポーランドやソ連などの占領地での〈民族皆殺し〉的行動,そして国内での弱者抹殺の〈安楽死計画〉など信じられないような事態が発生した。また,ファシズムの支配下ではどこでも,対外侵略に備えた軍備増強が異常なスピードで行われた。しかし同時に,そこでは体制の統合のために労働者の余暇を組織することも本格的に行われた(ドイツの〈喜びを通じて力を〉(歓喜力行団),イタリアの〈ドーポラボーロ(労働の後に)〉運動)。とくにドイツの場合は〈本土決戦〉を行って壊滅したものの,それまでの占領地の収奪に支えられて,国民生活の切下げは遅くまで回避されたが,日本とイタリアの場合は,軍備のしわ寄せが早くから国民生活を破綻させた。
ファシズムは第2次大戦を通じて,アメリカ,イギリスなどの西側連合国とソ連との提携によって軍事的に壊滅させられた。しかし,戦後もファシズムの思想と運動はなくなっていないし,石油危機後の世界的不況のなかで,〈外国人の追放〉をさけぶ新しい右翼の運動も先進諸国に現れてきている。また,発展途上国のさまざまな独裁体制のなかにファシズムの再現をみる者もいる。しかし,1930年代との世界史的状況の違いには大きなものがあり,慎重な判断が必要であろう。
→第三帝国 →ナチス
執筆者:山口 定
ファシズム体制下の〈文化〉を考えるとき,統制と画一化による自由な文化活動の抑圧というイメージが,まず浮かばざるをえない。民族主義や指導者理念を柱とする教育や文学・芸術の管理,侵略の正当化と戦意高揚に奉仕する御用哲学の跳梁,強力な報道管制と世論操作,地域や職場の組織を通じて形成される国民相互の監視体制,そして秘密警察や特別警察による異端者や非協力者の徹底的な弾圧取締り,等々,およそ自由な思想・表現や独創的な文化の営みとは無縁な施策が,日常生活の隅々にいたるまで浸透し尽くしていく。そして,このような文化領域全体の管理支配に基づいて初めて,たとえばあのナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺や日本によるアジア侵略などが可能となったのである。
しかしまた,このような強圧的な管理統制の側面からだけファシズム体制下の文化生活をとらえるならば,重要なもう一つの側面を見落としてしまうことになるだろう。すなわちそれは,現実にその体制のなかで生きる人間たちにとって,そうした文化がどのような意味をもつのか,という側面である。外から批判的に考察するとき抑圧的・弾圧的な状況としか映らないものが,実際にその状況のなかで生きている者たちにとっては,むしろ逆に生気と活力とに満ちた充実した生活であると感じられることは,決してまれではない。実は,この問題こそ,ファシズム体制下の文化を考える際の,最大の問題の一つなのである。
ファシズムの文化が与えるイメージのうちには,排外主義的・民族主義的性格が色濃く含まれている。日本の場合の皇国史観,ナチス・ドイツの純血イデオロギー,ファッショ・イタリアのラテン民族神話などは,いずれも,外に向かっては侵略と植民地主義を正当化する論拠とされ,内に対しては国民統合の道具とされた。この民族主義は,当然のことながら,異質な文化圏や西欧近代の文化的成果を排斥して,民族固有の伝統的文化を絶対視する傾向を伴わざるをえない。ナチス・ドイツにおける〈血と土〉の文学・芸術,すなわち近代的都市を舞台とする〈アスファルト文化〉とは対照的な民族主義的・土着的文化の称揚,ムッソリーニを心酔させた詩人ダンヌンツィオのアナクロニズム的なラテン愛国主義,古代王朝文化を理想化して皇国イデオロギーを補完した〈日本浪曼派〉などには,いずれも,いわゆる先祖返り的な保守主義や反近代主義が顕著に表れている。
ところが,このような一見時代錯誤的な復古主義は,きわめて新しい伝達手段によって国民各階層に行き渡らされたのである。イタリア・ファシズムの文化表現を担った知識人たちの多くは,ロシア未来派やドイツ表現主義と並んで20世紀初頭の前衛芸術の中心の一つとなったイタリア未来派運動に,自己の出発点をもった人々であった。イタリア・ファシズムの宣伝ポスターのなかに,文化的前衛としての彼らの鮮烈な表現をありありとうかがうことができる。ナチス・ドイツが,ラジオ,映画さらにはテレビジョンといった最新のメディアを駆使して宣伝活動に力を注いだことは,よく知られている。15年戦争下の日本でもまた,おびただしい宣伝文書や電波が,新聞社,放送局などの強力な機構を通じて,国民生活のなかへ運び込まれた。ファシズム体制下の日常は,このような新しい文化的要素によってもまた満たされていたのであって,復古主義や〈文化的反動〉という概念だけでそれをとらえることはできない。
こうした新しい伝達手段に裏打ちされて,国民の文化生活は,管理され抑圧されたものでありながら,しかし活力ある充実の様相をしばしば呈することができた。イタリアや日本の国家総動員法,ドイツの帝国文化院法,さらには日本の大政翼賛会や文学報国会など,文化生活にかかわる法律や機構は,異分子を排除し〈協力〉を強要するための制度には違いないが,そうした制度は,必ずしも〈上から〉強圧的に制定されたものではなかった。1938年4月1日施行の日本の国家総動員法は,戦争と侵略の遂行に不可欠な基本法であったが,一般国民に対する強制や罰則を含まず,これら国民にはもっぱら自発的な協力が期待されていたにすぎなかった。協力体制が実質的にはすでにでき上がっていた時点で,法律が制定されたのである。1933年9月22日施行のナチス・ドイツの帝国文化院法は,報道・出版から芸術作品の制作・享受にいたるまでの全文化活動を統制する未曾有の管理弾圧法であったが,これが制定されるに先立ってはすでに,あの有名な〈焚書〉その他,反対派排除行動への国民の自発的な参加や暗黙の協力が実現されていた。
つまり,ファシズム体制下での抑圧的・画一的な文化は,〈上から〉の強権的な管理,自由の抑圧という側面以外に,この管理・抑圧を〈下から〉支える国民の広範な自発的参加という側面を不可欠としている。そして,この参加活動を触発し保障するうえで,排外的・復古的な統合イデオロギーは最新の科学技術を駆使した伝達手段(宣伝媒体)と結合されざるをえず,また,こうした伝達手段に媒介された参加活動は,参加者自身にとっては,しばしば,抑圧であるよりはむしろ自己解放,隣人との人間的〈ふれあい〉,活力ある社会,等々として感じられるのである。
執筆者:池田 浩士
第1次大戦直後に生まれたイタリアのファシズムは,激しい暴力的な運動を通じて政権を獲得,しだいにファシズム体制が築かれ,20年に及ぶ支配を続けた。ファシズムをめぐっては当初から多くの議論を呼び,現在に至るまでさまざまな解釈が与えられている。同時代人の場合は,単に議論の対象としてでなく,ファシズムと戦うか受け入れるか,きわめて実践的な態度を必要とした。そうした実践的な立場を伴って,1920年代半ばには早くも,ファシズムをイタリア社会のなかでどう位置づけるかに関する四つの解釈が出されるが,これらの解釈は多かれ少なかれその後のファシズム論の基礎となった。
第1は,P.ゴベッティら急進的自由主義者の見解で,それによれば,イタリア近代史の過程は指導階級が民衆を政治生活から排除してきた過程であり,ファシズムはこの経過のなかでイタリア社会に積み重なった諸矛盾が噴出したものだと把握された。ゴベッティは,イタリア近代史のこうした展開を断ち切るために,国民の知的・道徳的な変革と新しい政治指導層の形成が必要なことを唱え,ファシズムに強い批判を加えた。この立場は30年代の〈正義と自由〉グループ,40年代の〈行動党〉に受け継がれていく。
第2はクローチェに代表される見方で,ゴベッティと違って,イタリアに統一をもたらしたリソルジメントから20世紀初頭のジョリッティ時代に至る過程を自由主義的発展の歴史として肯定的に評価し,ファシズムはこの発展からの断絶であり逸脱であるととらえた。クローチェの解釈の奥には,大衆の政治への登場が伝統的な自由主義社会の秩序を崩したとする認識があり,ファシズムに対してファシズム以前の自由主義社会への復帰が対置された。ちなみに,クローチェは1924年までは,ファシズムを秩序回復の政治力とみなして,ファシズムに支持を与えていた。
第3は,イタリア史の展開のなかでファシズムの出現を歓迎する解釈で,哲学者のジェンティーレや歴史家のボルペGioacchino Volpeによって主張された。この立場は,国家の形成と国民の組織化という点でリソルジメントは未完にとどまったとし,その未完のリソルジメントを継承し完成させる運動としてファシズムに積極的な支持を与えた。
第4の立場は,グラムシやトリアッティら共産党指導者の解釈で,グラムシらは,これまでイタリアの支配諸階層は地域ごと産業ごとに分裂していて統一的な政治組織をもたなかったが,ファシズムはこれら支配諸階層を単一の政治機関のもとに統一する役割を果たしたと分析し,その階級的性格を強調した。さらにトリアッティは30年代に入って,ファシズムが大衆の組織化を通じて支配の安定を図っている状況を指摘し,大衆の反動体制という形態をとった階級独裁としてファシズムを性格づけた。
以上四つの立場はそれぞれに対立しているが,その論点はファシズムにおける国家と民衆の関係をどうとらえるかの問題にかかわっている。ファシズムは確かに,国家と民衆の結合を十分に果たしえなかった自由主義国家に対する批判者として立ち現れたのであり,またファシズムが国家と民衆の関係をどのように解決しようとしたかは,ファシズム論にとって最も重要なテーマの一つでもある。以下この点を考慮しながら,イタリア・ファシズムの歴史と性格を検討しておこう。
1919年3月23日,ムッソリーニを中心にミラノで〈イタリア戦闘ファッシFasci italiani di combattimento〉が結成される。この団体の結成に参加したのは,かつての革命派参戦主義のグループ,大戦中に勇猛さで知られた選抜突撃隊の兵士たち,それに未来派のメンバーであった。革命派参戦主義というのは,第1次大戦の勃発に際してイタリアの参戦を主張した諸潮流の一つで,サンディカリストの一部および社会党を除名されたムッソリーニらのグループから成っていた。ムッソリーニの意図は,復員兵士と生産者を基盤とした新しい政治運動を起こすことにあり,大戦中に塹壕共同体を経験した兵士集団の戦後社会での役割が重視されていた。一方,〈生産者〉の概念は労働者だけでなく経営者・技術家も含むもので,全国的な生産者組合の組織化による社会制度の再編が構想されていた(ナショナル・サンディカリスム)。ただし,兵士の重視にしろ生産者の概念にしろ,この時期いろいろな分野で強調されていた思想で,〈戦闘ファッシ〉だけに特有の考えではなかった。生産者組合については,ナショナリスト協会に属していたA.ロッコが,国家的統合と生産力増強の観点から,より体系的に論じていた。また,ファッショfascio(ファッシfasciは複数形)の語も,もともとは〈束〉とか〈団〉を意味する語で,19世紀後期以来,社会運動の結社名にしばしば使われており,この段階ではまだ特定の意味をもつものではなかった。設立当初の〈戦闘ファッシ〉の活動はミラノを中心とする北イタリアの諸都市の範囲にとどまり,1920年後半までは政治的にも社会的にもほとんど力をもたなかった。この時期にはむしろ,フィウメを占領したダンヌンツィオの行動が,より多くの注目を浴びていた(フィウメ占領)。
ファシズムfascismoと名づけられる現象が注目されるのは,1919年3月の結社の誕生によってでなく,20年末から始まるポー平原における大衆運動を通じてのことである。ポー平原には多くの中小都市が存在し,これら諸都市はそれぞれに周辺の農村を合わせて独自の地域的世界を形成していた。この地域では大戦前から社会党系の地方自治体が多く成立しており,また農業労働者の組織である〈同盟Lega〉が,単に労働組合としての性格だけでなく,地域の日常生活においても強い統制力をもっていた。20年9月,労働者の工場占拠闘争が敗北に終わった後,都市における労働運動,社会主義運動は退潮に向かうが,ポー平原のボローニャ県とフェラーラ県においては農業労働者の農業協約改訂闘争が勝利を収め,社会党も10月の地方選挙で引き続き優位を占めた。このためポー平原の農業家(大地主,大農経営者),中小農,都市中間層の間に危機意識が強まり,その状況のもとで,20年末から戦闘ファッシによる直接行動が開始される。ファシストの襲撃行為には行動隊squadraが編成され,復員士官,地主や商人の子弟,学生などが加わり,〈懲罰遠征〉と称して都市から農村へ出かけて,社会党,〈同盟〉,協同組合の活動家や事務所を襲撃した。このポー平原のファシズムのなかから,フェラーラのバルボ,クレモナのファリナッチらラスras(エチオピアの地方豪族の意味)と呼ばれる地域ごとの実力者が生まれ,彼らは行動隊の暴力の行使に依拠して地域社会の支配権を確立した。こうしたポー平原のファシズムは農村ファシズムと特徴づけられて,ムッソリーニらの都市ファシズムと区別されたが,農村ファシズムの大衆運動によって,ムッソリーニの活動も息を吹き返した。
21年5月の総選挙で,ムッソリーニを含めた35人のファシストが下院議員に当選し,少数ではあるが新しい政治勢力として中央政界に進出した。この後しばらく,議会主義的傾向をみせる都市ファシズムと直接行動に依拠する農村ファシズムの間に対立が生じるが,〈戦闘ファッシ〉を改組して政党組織にすることで妥協が図られ,21年11月に〈全国ファシスト党Partito Nazionale Fascista〉が成立する。この機会に,行動隊の編成も拡充され,ファシズム運動は政党化と同時に軍事化の傾向をさらに強めた。それに加えて,22年1月には労働運動の分野でも全国的な組織として全国労働組合連合が結成され,社会党系組合を破壊した後の労働者の吸収に努めた。
ファシズムはこのようにして,北・中部の地方都市を個別に占拠しながら地域的な支配権を拡大した。この地域社会の制圧を背景にして,22年10月ローマ進軍が準備される。10月28日,ファシストがローマ近くの3地点に集結して進軍の構えをみせ,この圧力を受けた国王がムッソリーニに組閣を要請し,31日にムッソリーニ内閣が成立する。自由主義的指導層の判断には,ムッソリーニ内閣ができることでファシズム運動が合法的枠組みに収まり,政治秩序の正常化が図られることへの期待があった。一方,ファシズム内部では今後の方向をめぐって,いわゆる非妥協主義と修正主義の論争が生じた。この論争の背後には中央と地方,国家と党,都市と農村,エリートと大衆,テクノクラシーと行動主義,暴力と合意といった問題が複雑にからんでいた。非妥協主義を主張したのは農村ファシズムの流れに立つラスたちで,彼らは党による地域社会の直接支配を唱えて,中央政府ないし国家機関への権力の集中を望まなかった。この立場は地方ファシズムと呼びうるもので,大衆の直接行動に重きを置いていた。他方の修正主義の側は,これとは反対に,行動主義の局面を克服して,社会諸分野での専門技術家の養成と組織化が必要なことを強調した。これは,専門家グループに社会の新しい指導を託そうとするテクノクラート・ファシズムの構想でG.ボッターイらがこの考えに近かった。
24年6月,議会でファシズムを批判した統一社会党のG.マッテオッティがファシストに暗殺され,広範な反ファシズム運動が起こった。ムッソリーニ内閣は窮地に立たされるが,非妥協派の強硬策にも支えられて巻返しに転じ,25年1月3日の演説で力による支配の方針を宣言する。この演説を境にしてファシズムは新しい段階に入り,ファシズム体制の形成に向かっていく。
ファシズム体制は1925年と26年の諸立法によって,ほぼその基本的な枠組みがつくられた。これらの法律は大きく分ければ三つの系列から成っている。第1は,国家機構の立て直しとそれの防衛に関するもので,結社規制法,国家防衛法,特別裁判所の設置などである。第2は,中央の行政機関に権力を集中する措置で,政府首長(ムッソリーニ)の権限を大幅に拡大する法や市町村長を公選制から政府任命のポデスタ制にする法などに表される。第3は,労使関係と生産組織に関連する問題で,集団的労働関係規制法やコルポラツィオーネ省の設置などがそれである。以上の諸措置によって,まず反ファシズム諸勢力が非合法化され,排除された。ファシズムに反対する活動は厳しく弾圧され,多くの人々が投獄・流刑の身となり,また国外亡命へと向かった。しかし,抑圧されたのは反ファシストだけではなかった。これらの措置でファシスト党も国家機関の統制下に置かれることになり,ラスの支配権および地方ファシズムの思想は否定された。
ファシスト党は唯一の政党として存在し続けるが,政治的機能をしだいに失って,官僚的統制の大衆組織となる。党員数は27年にすでに100万を数えたが,30年代には公務員の入党が義務づけられて,さらに毎年うなぎ上りに増加した。30年代を通じてスタラーチェAchille Staraceが書記長の地位にあり,党員はさまざまな行事,祭典,スポーツ競技,社会奉仕に動員されて,ファシズム的な精神と肉体を身につけることを課された。1925-26年の諸立法により,きわめて中央集権的な国家体制が建設されたが,これの中心的な推進者は法相のロッコと内相のL.フェデルツォーニで,2人ともナショナリスト協会のメンバーであった(同協会は1923年にファシスト党と合同した)。制度上でのファシズム体制は28年12月制定のファシズム大評議会Gran Consiglio del fascismoに関する法律によってほぼ仕上げられる。大評議会は22年12月に党の最高機関として設置されていたものだが,今回それを国家の最高機関として法制化し,政府,国会,党にまたがる広範な権限が付与された。メンバーは政府首長の指名によって各界指導者から選ばれた20名ほどで構成された。
ファシズム体制の確立は,労働問題においても重要な変化をもたらした。ファシスト労働組合総連合の書記長ロッソーニEdmondo Rossoniは,かねてより労働者と経営者の双方を単一の組合に組織する〈総合組合主義sindacalismo integrale〉の構想を掲げていた。ファシズム運動のなかには,当初からサンディカリスム的発想の一潮流があり,職能団体あるいは生産者組織をめぐる論議がつねに中心テーマの一つをなしていた。この議論は,自由主義国家にみられる政治の代表と生産・労働の場の代表との分裂をどう克服するかの問題に発して,生産組織および労使関係の新しいあり方を求めようとしたもので,ロッソーニの総合組合主義はその労働組合の側からの表明であった。しかし,この構想は経営者側の拒絶に遭って実現をみなかったばかりか,28年には当の労働組合総連合が産業別に六つの労働組合連合に分割されて,その力が著しく弱められた。サンディカリスムの議論は,結局のところ,労働組合がストライキを禁止され交渉権を弱められ,党の場合と同じように,国家の強い規制のもとに置かれる形で処理される。こうした動向のなかで,労使間の結合を図る試みとして新たにコルポラツィオーネcorporazione(協同体)の構想が政府によって打ち出され,資本主義とも社会主義とも違う第三の道という意義づけの論争などが交わされるが,コルポラツィオーネ自体は実質の伴わない制度にとどまった。
ロッコは早くから機会あるごとに,国民生活の基本単位は個人でなく,組織された集団であると述べ,職能団体,労働組合,地方行政体,文化機関などをあげていた。しかしロッコは,これらの諸組織が自律的な活動を営むことに否定的で,それぞれ国家機構に編入された機関として機能することの必要を説いた。ファシズム体制の形成にはいろいろな要因が働いており,もとより特定の個人の力によるものではないが,確立された体制を考えるとき,国家と社会の編成はロッコの主張していた方向に近いものとなったということができよう。
ファシズム体制のもとでイタリアの産業構造は顕著な変化を遂げる。1925年に財界の首脳G.ボルピが蔵相に就任し,それまでの経済的自由主義から保護主義へと政策を転換した。また,アメリカからの融資とリラ切上げの金融政策を通じて,資本の集中と合理化が進められた。これらは,輸出産業と中小企業に犠牲を強いながら,電力・化学・機械部門の発展を促し,モンテカティーニ,フィアット,ピレッリ,スニア・ビスコーザなど大独占企業の支配を生んだ。一方,農業部門では〈穀物戦争〉の名のもとに小麦生産が奨励された。穀物戦争は,貿易収支の改善のために小麦の自給率を高める目的で始まったが,北部と南部の大農経営が保護を受け,酪農や輸出向け農業生産(オリーブ,かんきつ類)にとっては打撃となった。政府は20年代後半から,都市に対する農村の重要さを訴えて農本主義的宣伝を強め,都市への移住禁止や工場新設制限など都市化を規制する諸措置を講じる。都市と農村の対比は文化運動にも表現されて,モダニズム文化の追求を掲げる〈ストラチッタstracittà(都会主義)〉と地域的農村的世界の健全さを強調する〈ストラパエーゼstrapaese(郷土主義)〉の2潮流の対抗がみられた。しかし,政府の農村重視策は,農本主義そのものに価値を認めていたのではなく,都市化がもたらす社会の流動性をできるだけ抑えようとする要請を示していた。たび重なる移住禁止令にもかかわらず,20年代後半から30年代を通じて,国内の移住人口は年平均100万を超えており,この多くは農村から都市,そして南部から北部へと向かった流れである。国内移住の増加は,海外移住が困難になった事情が背景にあるが,いずれにしてもファシズム体制のもとで大都市への人口の集中が生じたことを明らかにしている。これと並行して,30年代初めには国民総生産に占める工業生産の割合が農業のそれを上回る状況を生み出しており,都市化と工業化の事実ははっきりしていた。こうした社会変容に対しての政府の都市政策の不備は,たとえばローマのボルガーテ・ロマーネborgate Romaneのような,大都市周辺でのスラム区域の発生をもたらした。
29年に始まった世界恐慌はイタリアにも影響を及ぼし,銀行危機を招いた。政府は,銀行救済のために,33年産業復興公社(IRI(イリ))を設立し,従来の兼営銀行に代わって,この国家機関に長期の産業融資の任務をゆだねた。IRIは最初暫定的な機関として考えられていたが,37年に恒久機関となり,新たに国家持株会社の性格を与えられた。こうしてIRIは国家資金に基づく企業体として,鉄鋼・機械・造船・海運・銀行諸部門の有力企業を支配下に収め,イタリア経済の中枢に位置するようになる。ファシズム体制のもとでは,ほかにも多くの公社や事業団が設立され,諸領域での合理化が進められた。IRI総裁のベネドゥーチェAlberto Beneduceに代表されるようなテクノクラートの登用もみられた。しかし,最大の特徴は,そのような形で社会・経済の諸分野に国家の介入を強めたことであり,行政機関と官僚層が肥大化したことである。
ファシズムは青少年の精神的肉体的鍛練に力を注ぎ,〈バリッラ全国事業団〉(名称は18世紀のバリッラの一揆にちなむ)など青少年向けのファシスト団体を幾種類か組織した。また日常生活の場での民衆の組織化にはドーポラボーロdopolavoroを活用した。ドーポラボーロは〈労働後〉あるいは〈労働余暇〉の意味で,娯楽と福祉を通じて労働余暇の自由時間を管理しようとした制度である。25年に〈ドーポラボーロ全国事業団〉が設立され,企業,官公庁,居住地のそれぞれにこの制度が導入された。このうち居住地におけるドーポラボーロの活動はとくに注目されるもので,スポーツ,音楽会,演劇会,旅行,民俗行事,共同購入,割引特典,職業教育,厚生福祉,慈善行為など娯楽的要素から消費生活上の便宜まで,ありとあらゆる問題がそこで扱われた。民衆にとってこれらの活動は,自由主義国家時代には享受しえなかった新しい経験であり,ファシズムはドーポラボーロを,民衆の同意を組織化するための戦略的制度として運用したのである。民衆の同意の獲得と並んで,知識人の同意の獲得も試みられた。〈イタリア・アカデミー〉をはじめ各種の研究機関が創設されたが,重要なのは《イタリアーナ百科事典Enciclopedia italiana》の刊行である。《百科事典》はファシズムの一大文化事業として,29年から37年にかけて全35巻が刊行されたが,編集の中心となったジェンティーレは,事典項目の執筆を通じて知識人とファシズムの結びつきが深まることを期待したのである。クローチェはこの事典への執筆を拒絶した。
ファシズムは29年に教皇庁との間でラテラノ協定を結んで,統一以来の国家と教会の対立に終止符を打った。教会はこれによって諸種の権利を保障され,ファシズム体制に包摂されない独自の領域を確保した。このため,ファシストとカトリックの間には両者の活動領域をめぐってしばしば抗争が生じた。また教会上層部は,《イタリアーナ百科事典》における宗教項目の扱いをめぐって,ジェンティーレとの対立を深めた。
ファシズム政権は1935-36年のエチオピア侵略(イタリア・エチオピア戦争)を経て,スペイン内乱に介入した頃からナチス・ドイツとの接近を強めた。その後数年の間に,日独伊三国防共協定,反ユダヤ主義キャンペーンの開始,人種法の制定,イタリア・ドイツ鋼鉄同盟,日独伊三国同盟などの動きがみられた。40年6月に第2次大戦に参戦するが,戦局は思わしくなく,43年7月10日,連合軍のシチリア上陸を許した。すでに同年3月に北部労働者の大規模なストライキが起こっており,支配層の内部にもムッソリーニ政権に対する不信が芽生えていた。7月24日深夜のファシズム大評議会は19対7の票差でムッソリーニ不信任の動議を可決し,25日国王がムッソリーニを逮捕した。ムッソリーニの逮捕に際して,当時400万を数えたファシスト党員からは何の反応も起こらなかった。P.バドリオ元帥が新首相に任命され,ファシスト党,ファシズム大評議会,特別裁判所などファシズム的諸制度は廃止された。しかし,国家機構や行政機関はそのまま維持された。ムッソリーニはこの後ドイツ軍に救出されて,北イタリアのガルダ湖畔のサロに本拠を置く〈イタリア社会共和国〉(通称サロ共和国)を樹立する。ドイツ占領軍とサロ共和国に対して,パルチザンによる激しいレジスタンス闘争が展開され,45年4月イタリアはドイツ軍とファシズムから解放される。ファシズムの支配はこのようにして崩壊し,46年には国民投票で王制が廃止されて共和制となる。しかし,ファシズム時代の諸法,諸制度,諸機関の多くが共和制のもとでも受け継がれ,のちに制度上の連続性をめぐる議論を呼んだ。また,主要幹部は別として,ファシストの公職追放も限られた範囲にとどまった。
ファシズム崩壊後まもなく,サロ共和国に加わったメンバーの間から,ネオ・ファシズムの動きが生じて,46年12月,ネオ・ファシスト党である〈イタリア社会運動Movimento Sociale Italiana〉(MSI)が結成された。MSIの勢力および路線は,そのときどきで変化をみたが,83年現在,アルミランテを指導者として下院議員42名(得票率6.8%)を有し,社会党に次ぎ第4位を占めている。かつてのファシズムが北イタリアを中心に発展したのに比べて,ネオ・ファシズムは南部を支持基盤としている点に大きな特徴がある。南部諸都市には,南部開発計画に伴う公社・公団の職員層の増大,近隣農村からの流入人口の増大,中小企業,中小商店の増加,大学卒の失業青年層の増大などの状況があり,北部社会と中央政界に対するこれら諸階層の反発が,ネオ・ファシズムの温床となっているといえるのである。
→反ファシズム
執筆者:北原 敦
日本ファシズムも第1次世界大戦後に思想的に形成されたが,天皇制官僚が階級闘争や革命運動を抑えつけていた日本では,ドイツやイタリアのようにこれに対抗する大衆運動としては発展しなかった。世界恐慌下に政党政治が行き詰まると,軍部強硬派は満蒙侵略の軍事行動を開始し,ファシズムへの道を切り開いた。民間右翼や青年将校のファシズム運動は,テロやクーデタのおどしでその道をならす前衛部隊の役割をつとめた。軍事侵略を先行させる形で〈上からのファシズム〉が進行したのである。軍部は二・二六事件で政治的実権をにぎると,ファシズム運動を抑え,支配層を引きずり国家総動員体制の樹立という形でファシズム体制の確立をはかった。戦争政策に批判的な運動が弾圧されたばかりでなく,軍部批判の出口となりうる機構や組織は無力化ないし解体され,国民は翼賛体制のなかに強制的に組織化されたのである。だがそれは戦争の圧力を利用した官僚支配の強化の形をとったから,陸海軍の対立など官僚のセクショナリズムを克服できず,国民を面従腹背に追いやるなどの矛盾を生んだ。
日本ファシズムの思想が,第1次世界大戦とロシア革命の所産であるデモクラシー,革命運動,平和主義に対抗して生まれたことは,1919年夏の大川周明と北一輝の出会いが象徴する。日本が革命になるとして,北を中国へ迎えに行った大川に,北は五・四運動の渦中で執筆中の,のちの《日本改造法案大綱》を示した。そこでは大日本帝国の内憂外患,すなわち階級闘争激化と国際的孤立の危機を打開する方策として,天皇を奉じたクーデタによる国家改造と,日本の剣の福音によるアジア解放とを通じて大革命帝国を建設することが提示され,国家改造と対外侵略とを結びつけたファシズム思想が打ち出されていた。北の思想は軍事侵略の面を強調しているが,大川を含む日本主義派は,北よりも国家改造の主張が弱く,伝統的国家主義に近い。天皇と国民との間に介在する中間的特権層を打破して,天皇親政,換言すれば天皇中心の共同体国家を実現することが主眼とされている。
日本では上述のようにファシズムの大衆運動は発展しなかったが,民間右翼は政党政治や軍縮,協調外交に反発する支配層の保守派,とくに軍部に食い込んだ。大川は中堅軍人と結びついたし,北の思想は青年将校の間に軍隊の国家主義的革命化を通ずる改造運動を広げ,他方浪人的無法者のなかに,一人一殺の志士的行動で富豪,顕官,既成政党などの排除をはかろうとする動きを呼び起こした。それだけ天皇主義の色彩を強めたのである。
1930年代にはいると,世界恐慌による社会不安,ロンドン軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題,中国ナショナリズムの進展による満蒙問題が一挙に噴き出し,政党内閣が適切な対策をとれずに行き詰まった。これは,ファシズム運動に絶好の地盤を提供した。政党政治の腐敗と軟弱外交が攻撃され,強力政権樹立と満蒙問題の武力解決の必要が宣伝された。そして軍部と民間右翼で立てた三月事件のクーデタ計画は流産したが,統帥権をふりかざした出先軍の独走による満蒙侵略への突入が,国民の戦争熱をあおり政党内閣を圧倒してファシズムへの道を開き,軍部がファッショ化の主導力となった。ファシズム運動も活発化し,民間右翼は青年将校と結んで血盟団事件,五・一五事件のテロで政党内閣を崩壊させた。無産政党からの転向派も増大した。こうして天皇の権威を押し立て侵略政策と強力政権とを求めるファッショ的な雰囲気が強化された。しかし,民間右翼運動は統一した大衆運動とはならず,軍部やこれと結ぶ新官僚の政治的進出を助ける役割を果たすにとどまり,主要人物が検挙されると青年将校が運動の中心となった。
こうしたなかでクーデタによる国家改造をめざす皇道派青年将校と,軍中央部の統制下に新官僚,新興財閥,社会大衆党右派などと結び,政府を動かして総動員体制の樹立をはかろうとする統制派の幕僚層との対立が激化した。そのあげくは青年将校らの蜂起を想定し,軍中央部がこれを鎮圧することで一挙に政治的覇権をにぎろうという筋書が,統制派少壮幕僚によって作られた。二・二六事件はこの筋書をよりどぎつくした形で進行し,青年将校らの運動は圧殺された。
軍部は戒厳令下で政治的実権をにぎると,いわゆる粛軍で下からのファシズム運動を一掃する代償として軍部大臣現役制を復活し,内閣の死命を制する特権を手にした。二・二六事件後には軍部の圧力で大戦争計画が立てられ,ドイツ,イタリアとの提携がすすむなかで,軍部は総動員体制樹立のためファシズム体制の確立を急いだ。しかし国民の間には軍部批判が広がり,支配層も国力を超えた戦争政策が経済混乱を招くことを恐れ,軍部の企図は難航した。そこで軍部によく国民にも人気のある近衛文麿を押し立て,戦争拡大のつどにその圧力を利用してファシズム体制を強化する方法がとられ,日中戦争下の国家総動員法による議会権限の剝奪,ドイツ電撃戦の成功と呼応した近衛新体制による政党・労働組合の解散と翼賛体制の樹立など,つぎつぎと国民統制は強化された。しかし,各分野の政治力を結集して強力政権をつくり統一的な政治指導を行うことはついにできず,いわゆる東条独裁はむきだしの官僚支配にとどまった。
国民組織の面でも新体制運動では,総動員体制強化のため政治・経済の合理的再編成を目ざし,そのため職域的に中堅人物を組織することも企図された。しかし結局は内務官僚の線で地方官庁に翼賛団体を統制させ,市町村のもとに町内会,隣組などを置いて共同体的な圧力で国民を相互に監視させるという方式がとられ,産業報国会などは警察署ごとに分断監督された。警察は左翼運動の前歴者に眼をつけ,戦時体制批判はもちろん,単なるサークル活動までも厳しく取り締まり,企画院事件・横浜事件など多数の弾圧事件を引き起こした。そしてその結果は,やがて国民の家と私生活への没入をもたらした。
→太平洋戦争
執筆者:今井 清一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第一次世界大戦直後の1920年代初頭から第二次大戦終結時点の1945年までの約4半世紀間にわたり、世界の多くの地域に一時期出現した、まったく新しいタイプの強権的、独裁的、非民主的な性格をもった政治運動、政治・経済・社会思想、政治体制の総称。
ファシズムは、イタリア、ドイツ、日本をはじめとして、スペイン、オーストリア、ポルトガル、ルーマニア、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなどの西・東欧諸国、またアルゼンチン、チリ、ブラジルなどの南米諸国においても発生した。これらの国々のうちで、とくにイタリア、ドイツ、日本の3国がファシズム国家の典型とされるのは、一つには、その地において強力なファシズム政権が確立されたこと、さらにより重要なことは、これら日独伊3国が、第二次大戦の一方の当事国として、イギリス、アメリカ、フランス、旧ソ連などのいわゆる民主主義陣営を敵に回して、それらの国々と戦ったからである。
では、この世界史上まったく新しいタイプの運動・思想・体制をなぜファシズムとよぶのか。それは、このような運動・思想が最初にイタリアのムッソリーニによって提唱され、かつイタリアにおいてファシズム体制が確立されたからである。ファッショfascioという語は、イタリア語の「束」を意味し、そこから転じて、「団結」「結束」を表す語として用いられるようになった。第一次大戦中、参戦派のサンジカリストたちが「革命的参戦行動ファッシ」という名称の組織をつくり、戦後、ムッソリーニがこの組織を継承して「戦闘ファッシ」とし、1921年には「国民ファシスタ党」という政党に改組した。これ以後、ファシズムということばが、独裁的・非議会主義的・反共主義的な運動・思想・体制の総称として広く一般に用いられるようになった。
[田中 浩]
ファシズムが第一次大戦後のイタリアやドイツにおいて発生した理由は二つ考えられる。一つは、大戦後の未曽有(みぞう)の経済的危機とそれによる政治的危機の出現という問題である。もう一つは、大戦後、世界史上初めてロシアの地に社会主義国家が誕生し、各国に脅威を与えたことである。イギリスやフランスよりも2、3世紀遅れて近代国家を形成したイタリアやドイツは、植民地分割競争に乗りおくれたため当然にその経済的基盤が弱く、大戦の影響をまともに受け、深刻な失業、貧困、インフレ問題などは、国家的存立はもとより、中産階級以下の人々にとって深刻な死活問題ともなった。ファシズム運動が、政治運動、思想運動としては排外主義的なナショナリズムを前面に掲げ、経済的には、先進帝国主義列強の非を鳴らしつつ国家の強力なリーダーシップによる経済成長と国民生活の安定を図ると称して「下からの革命」を唱え、中産階級を主体に――ファシズムを中産階級の行動や思想から説明するファシズム論はこれに起因する――広く労働者階級までをも組織に組み入れることに成功したのは、第一次大戦直後の異常事態を抜きにしてはとうてい考えられないであろう。
ところで、資本主義経済の危機を解決する方法としては、ファシズムの道のほかに社会主義への道があった。事実、そのようなものとしてロシアにおいてはレーニンの指導する社会主義政権が樹立された。このことは、各国の労働者階級を勇気づけ、世界的に社会主義運動や労働運動が高揚する。しかし、ファシズム運動の指導者たちは、階級闘争の激化は国家的破滅につながるものとしてこれを厳しく弾圧した。ファシズムが民族主義的性格を色濃くもち、反資本主義、反議会主義、反民主主義を唱えるとともに、反社会主義、反共産主義を掲げて、一党独裁による極端な国家主義(ステイティズム)を強調したのは、ひとえにソ連社会主義の自国への影響を恐れたためであったといえよう。このようにみると、ファシズムと社会主義は、19世紀末以降とくに顕在化した資本主義の矛盾とその全般的危機に対する対応策として出現したものであることがわかる。しかし、この両者はまったく違った道を歩み、社会主義国家は民主主義社会の建設を目ざし、ファシズム国家は、個人の自由や民主主義を否定する全体主義的な国家体制の確立を追求し、そのことは帝国主義的侵略主義と結び付き、結局、この両者は第二次大戦において対決することになる。
[田中 浩]
ドイツでは、ファシズムという語よりもナチズムという語が用いられ、日本では天皇制ファシズムあるいは全体主義という語が用いられたように、ひと口にファシズムといっても、3国におけるファシズムの内容はかならずしも同じではないが、共通する性格について述べる。
(1)国家による経済の統制・監督 ファシズム運動は、そもそも自由主義的な資本主義経済の危機を契機に発生したこともあって、ファシズムにおいては国家による経済の統制・監督という思想が強い。ムッソリーニは、このような干渉主義を混合経済とよび、そのような政治・経済体制を資本と労働の協同体方式によって建設することに全力を注いでいる。またドイツの政治学者カール・シュミットは、ファシズム国家を全体主義国家totalen Staatと規定し、この国家の特質は「国家が社会(経済)を呑(の)み尽くす」点で全体的であると述べている。もっとも19世紀末以来、資本主義国家においても福祉国家への転換が図られ、国家や政府の指導・監督がしだいに強化されつつあったし、社会主義国家においては計画経済の下に経済は完全にコントロールされている。この点については、三つの政治・経済体制は一見似通ってみえる。しかし、ファシズム国家の場合には、市民的自由や労働者の権利はまったく否定され、個人の経済活動も国家利益に従属させられているという点で、資本主義国家や社会主義国家の場合とその様相を大きく異にしているといえる。
(2)狂信的民族主義 ファシズムの第二の特質は、その偏狭な狂信的民族主義にある。ムッソリーニは、ファシスタ党が政権をとる「ローマへの進軍」を前にして、民族の概念がマルクス主義的な階級の概念よりも優位しているとの演説を行った。彼によれば、国家とは民族が政治制度において具現化されたものであった。彼は、ファシズム国家は「下から形成・組織された国家」であると述べ、国民に対して国家への民族的統一を呼びかけ、階級闘争による国家分裂の行動を否定している。他方、フランス革命当時にあってもなお300を超える領邦国家に分裂していたドイツ人にとっては、イギリスやフランスのような近代的統一国家の形成は、いわば民族の悲願ともいうべきものであった。統一国家=帝国(ライヒ)Reichと民族(フォルク)Volkという概念がドイツ民族統一のための長年にわたる合いことばとなったのはこの理由による。ここから「ゲルマン民族の優越性」「血の純潔」「血と大地」「反ユダヤ主義」というドイツ特有の民族概念が生まれた。ドイツ人によれば、ユダヤ人は世界中の国々に潜入して資本主義的利益を獲得するために狂奔し、他方では、ユダヤ的マルクス主義は、インターナショナルな楽園をこの地上に創出すると称して民族の統一を妨げている、というわけである。ナチ党がユダヤ人を大量虐殺し、またユダヤ人マルクスの唱えた社会主義や共産主義を憎悪しこれを厳しく弾圧したのは、ドイツ人特有の民族概念を知ることによって初めて解明できる。
この点、日本における民族概念の政治的機能は、イタリアやドイツの場合と異なる。日本では、国家は有史以来、大和(やまと)民族というほとんど単一の民族で構成され、その民族が天皇を頂点として統合されてきたと考えられていた。日本において、「下からの革命」という運動が欠如しているのはそのためである。そして、こうした民族概念は、明治維新以後の「富国強兵策」の時代から十五年戦争期にかけて、天孫民族による世界統治こそ神聖至上なりとする「八紘一宇(はっこういちう)」の思想にまで高められ、それは国民意志を統合する最重要な精神的契機となり、明治以来のアジア侵略や帝国主義戦争を正当化する思想となったのである。もっとも民族的使命感を強調する思想は、15、16世紀以来、帝国主義的植民地略奪を遂行しつつあった西欧人の間でも、「白人の責務」「キリスト教国民による未開人の教化」という形で唱えられたが、ファシズムの場合には、偏狭な民族主義が極端な形にまで進んだものといえよう。
(3)反自由主義・反議会主義・反マルクス主義 ファシズムは社会主義と異なり、資本主義そのものは否定しないが、その政治思想や政治制度には反対する。そのことが一見ファシズム国家は反資本主義的性格をもつと思われがちだが、ファシズムの真の敵はマルクス主義、社会主義国家である。ではなぜ、ファシズムは反自由主義、反議会主義の立場をとるのか。それは、シュミットによれば、議会制民主主義は、本来敵であるべき社会党やとくに共産党の存在を許しているためだ、という。また20世紀に入って労働者階級の力が強大となったが、敵を敵として扱わず、討論相手にしているような議会制民主主義のやり方では、とうていこの強大な新しい社会階級に敵対できない、したがって、いまや議会主義ではなく一党独裁によって階級敵に対抗し、これを絶滅しなければならない、というわけである。こうして、ファシズムは、いずれの国においても社会主義運動や階級闘争を厳しく弾圧したが、そのことは、日本の「治安警察法」や「治安維持法」の適用にもみられるように、市民的自由や議会制民主主義などの一般的民主主義までも全面的に否定することとなり、ここに、全体主義的なファシズム国家体制が確立されたのである。
[田中 浩]
(1)イタリアのファシズム ファシズム国家という点でもっとも典型的なのはイタリアの場合であろう。なぜなら、そこでは、資本主義の危機を乗り越えるために、国民のナショナリズムに訴えて大衆的支持を得ることを目ざし、政治と経済の緊密な協同・結合を図ってファシズム体制をつくりあげようと試みているからである。ムッソリーニは、1922年の政権獲得後ただちに、資本家と労働者双方の職業組合を結合し、経済的諸関係の全体的規制と生産的統一秩序のための方策を決定できる協同体corporazione方式により、資本主義国家を協同体国家へと改編しよう――ここに、ファシズムを、資本主義の危機に際しての独占資本家層による新しいブルジョア独裁の変種とみるコミンテルン規定が生まれた――と試みている。この協同体では、頂点に「協同体全国協議会」があり、その下部に22の協同体が設けられている。各協同体はそれぞれの生産部門の経済活動を監督・指導する。「全国協議会」は、生産の私的イニシアティブは尊重しつつ、それが協同体において全経済の利益、国家の利益と調和するように図る権限を有する。この協同体国家への改編は34年2月に協同体に立法権が与えられることによって完成した。こうしてムッソリーニは、資本主義の矛盾とコミュニズムからの脅威を克服したと称する強大な国家建設と世界進出の夢を結合させることによって、33年1月に政権を獲得したドイツ・ナチズムと連帯を強めつつ、エチオピア侵略、国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結を経て、枢軸国の一員として第二次大戦に参戦するのである。
(2)ドイツのナチズム ナチ党は、1923年のミュンヘンでの一揆(いっき)に失敗して以後、議席拡大による合法的な権力獲得の道を追求し、敗戦によって失われたかつてのドイツ民族の栄光を回復するという旗印を掲げ、大量の失業軍人や不安定な状況に置かれていた広範な中・小生産者層を結集し、また「国民社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名によって労働者階級の一部をも引き付けることに成功した。29年に始まった世界大恐慌の出現は、ナチ党の党勢拡大に弾みをつけた。32年の選挙ではついに第一党の地位についたが、その狂信的政治信条を恐れた支配層は、ヒトラーに政権を移譲することをためらった。しかし、30年代の深刻な政治的・経済的危機を解決する能力を失った支配層は、コミュニズムの脅威よりもファシズムをよしとして、ついに33年1月にヒトラーに政権を渡した。この時点では支配層は、ナチ党をコントロールできるものと楽観視していたようである。しかし、首相ヒトラーは、ワイマール憲法第48条に規定された大統領の非常大権を有効に活用して組合運動や政党活動を抑圧し、33年3月24日には「民族と帝国の危難排除のための法律」を制定してたちまちいっさいの権限をその手中に収めた。この法律によりワイマール共和国は崩壊し、以後、ヒトラーは、「歓呼」と「喝采(かっさい)」という方式によって彼の命令と意志を無条件に支持する全体主義的独裁体制を確立し、第二次大戦への道を目ざして戦争準備を始めることになる。
(3)日本のファシズム 日本のファシズムは「天皇制ファシズム」とよばれるように、明治憲法体制の下で長年かけてつくりあげてきた国民の天皇信仰を背景に、軍部・官僚による「上から」の強権的国家体制を形成して十五年戦争を遂行したという点で、「下から」の革命を目ざして国民を組織し、ファシズム政権を獲得したイタリアやドイツの場合と様相を異にする。この点をめぐって日本はファシズム国家ではなかったと主張する者もいる。しかし、この時期の日本でも国家による経済の監督・統制の強化、「八紘一宇」の観念による侵略的民族主義の高唱、反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義などの思想教化、さらには国内的には国家総動員法の制定(1938)、大政翼賛会・大日本産業報国会の結成(1940)などを通じて機構的に天皇制ファシズム体制が確立され、国際的には満州侵略(1931)、国際連盟からの脱退(1933)、日独伊三国同盟の締結(1940)などを断行した経過をみると、日本がファシズム国家であったことは間違いない。
(4)その他のファッショ体制 1920、30年代には、主要3国以外にも、ファシスト政権やファシズム運動が各国で相次いで出現している。たとえば1920年にはハンガリーにホルティ政権、28年にはポーランドにピウスツキ政権、33年にはポルトガルにサラザール政権、34年にはオーストリアにドルフス政権、36年にはスペインにフランコ政権、40年にはルーマニアにアントネスク政権、また第二次大戦中には、チリ、ブラジル、アルゼンチンなどにファシスト政権が誕生した。そのほか、政権獲得までには至らなかったが、イギリスのモズリー一派の「イギリス・ファシスト同盟」、アメリカの「アメリカ・ナチス党」、フランスのモーラスらの「アクシオン・フランセーズ」などのファシズム運動が、またカナダ、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィンランド、インドなどでもファシズム運動が出現したのである。こうした政権や運動は、第二次大戦後ほとんどその姿を消したが、フランコ政権のように戦後に至ってもなおしばらく生き残った政権もあった。
[田中 浩]
第二次大戦での日独伊3国の敗北によりファシズム国家はひとまずこの地上から姿を消した。しかし、ファシズムの運動や思想が民主主義への挑戦・否定を含むものであったということからすれば、今日においてファシズム再現の危険性がまったくなくなったとはいえない。戦後はファシズムという用語よりも全体主義ということばが用いられているようだが、たとえば1950年代前半における米ソの対立激化のなかで、アメリカはスターリン体制を全体主義として非難し、他方旧ソ連は、当時、思想・信条の自由を抑圧していたアメリカのマッカーシズムを全体主義として攻撃した。第二次大戦が、人権と自由の観念が希薄であり、民主的な政治制度の確立がきわめて不十分であった日独伊3国によって引き起こされたことを考えれば、それは、今日の時点においてファシズムの再現を防ぐ方法は何かをわれわれに教えているといえないだろうか。
[田中 浩]
『山崎功著『ファシズム体制』(1972・御茶の水書房)』▽『山口定著『現代ファシズム論の諸潮流』(1978・有斐閣)』▽『東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会』全8冊(1978~80・東京大学出版会)』▽『田中浩著『カール・シュミット』(1992・未来社)』
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狭義には第一次世界大戦後のイタリアに登場した国民ファシスタ党の政治運動と思想,支配体制をさすが,一般的には戦間期にヨーロッパを中心に広がった類似の政治運動や支配体制全般を意味する。第一次世界大戦という総力戦を戦ったヨーロッパ諸国では,従軍経験者を中心として旧来の価値観に対する異議申し立ての運動が起こった。彼らは既存の議会制民主主義に反発すると同時に,階級連帯的なナショナリズムを唱えて,ロシア革命を達成したボリシェヴィキにも敵対した。この「第三の道」を模索する少数者の運動が,ロシア革命の波及を恐れる農村の伝統的支配層や都市中間層と結びつくことによって,政権の座に達する国が現れた。イタリアがその典型的な例である。さらに,世界恐慌による経済の混乱は,こうした運動が大衆的な支持基盤を獲得することに寄与した。ドイツにおけるナチズムの政権奪取はその例である。これらの国では,強力な指導者原理のもとに,ときには露骨な暴力を用いながら,大衆の消費生活と余暇の向上に努めることによって国民統合を図った。また,既存の国際秩序に挑戦して対外膨張を企図したが,それは第二次世界大戦という惨事をもたらすことになった。1920年代,30年代には,ヨーロッパのほとんどすべての国にファシズムまたはそれと類似の動きがみられる。なお,日本にも北一輝(きたいっき)の例にみられるように類似の思想や運動が存在したが,30年代以降の軍国主義体制をファシズムとみなすか否かについては見解が分かれている。
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イタリア語で団結を意味するファッシに由来し,ムッソリーニのファシスト党が1922年に政権を掌握して以後,ベルサイユ・ワシントン体制とコミンテルンに対抗し,指導者原理や直接行動的な大衆運動を形態的特徴とする類似の思想・運動・体制が一般にファシズムとよばれた。日本では北一輝(きたいっき)や陸軍青年将校運動など国家改造を掲げた思想や運動,あるいは国家総動員体制の構築をめざす運動,もしくは大政翼賛会成立後の政治・社会体制などをさして用いられる場合が多いが,ファシズムの概念そのものの定義や体制成立の指標が論者によって異なり,近年では昭和戦前期の日本政治分析にファシズムの概念を用いることに否定的な立場も有力である。
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…イタリア史を貫いて存在する国家と教会の錯綜した関係は,この段階でローマ問題とよばれる新たな対立の局面を迎える。この対立は,ファシズム時代のラテラノ協定の締結で和解が成るまで続いた。
[二重構造の新編成]
1880年代から90年代にかけて,イタリア社会に新しい動きが目立ってくる。…
…とくに風俗やライフスタイル面でのラディカリズムは,日本の〈モボ・モガ〉現象にみられるように,醇風美俗世界の強い情緒的反発に出会うことになった。 こうした一部の過度に誇張された近代主義の動向に対して,退廃,背徳,反秩序等のラベルをはりつけ,根源悪としての〈近代の超克〉をはかるというスローガンを掲げて登場してきたのが,ファシズムである。それは技術的効率に奉仕する機能的合理性を除くすべての近代主義的価値を否定し,それに代わって,伝統主義的価値,つまり全体主義,共同体主義,人種主義,反合理主義などを称揚した。…
…クローチェは精神の活動を理論的行為と実践的行為に区分したが,ジェンティーレは理論と実践という二元論を否定し,精神の活動は現実に思惟する行為そのものであり,行為のなかに精神の現実態があると主張した。彼の行為主義的観念論は政治における直接行動主義を触発し,また国家の活動のなかに倫理的価値の具体化をみる倫理国家論はファシズムとの接近をもたらした。ムッソリーニ内閣が成立すると文相に登用(1922‐24)され,ジェンティーレ改革として知られる教育改革を断行した。…
…サウンド版の《モダン・タイムス》(1936)に続くチャールズ・チャップリンの最初のトーキー映画。チャップリンの4日後に同じ貧困と無名のうちに生まれ,チャップリンとはいわば正反対の方向に進んで世界制覇の野望に燃えたヒトラーとそのファシズムに対して,チャップリンが〈たった1人の戦争〉をいどんだ作品で,〈時代の歴史〉に対するもっとも痛烈な風刺喜劇として評価されている。 そもそもの着想はイギリスのプロデューサー,アレクサンター・コルダによるもので,その内容が表ざたになると,駐英ドイツ大使の抗議,ヒトラーとゲッベルスからの直接的な圧力をはじめ脅迫状や製作中止勧告が相次いだが,チャップリンは独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の二役をみごとに演じて,誇大妄想狂の〈独裁者〉の内面をあばいてみせた。…
…1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《大人は判ってくれない》(1959)は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。【柏倉 昌美】。…
…1820年に勃発したイタリアおよびスペインの革命は,神聖同盟により鎮圧された。また,予防的な革命の第2の例としては,現代のファシズムがあげられる。社会主義革命の国際的伝播(でんば)を恐れる保守勢力が,ボリシェビズムに対する防壁としてファシズムに大きな期待をかけたことが,その成功の一因であることは否定しがたい。…
…後に属州総督,ウェスタ女神の女祭司に,帝政期には元首の守護霊の祭祀役にも同行した。なおファスケスはファシズム(全体主義)の語源。【鈴木 一州】。…
※「ファシズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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