1904-05年(明治37-38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。
日清戦争が日本の勝利に終わり,日本が講和条約で遼東半島を獲得すると,ロシアは同盟国フランスとロシアの関心がアジアに向けられていることを期待するドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させた。こうして列強による中国分割競争が開始され,1898年のドイツの膠州湾(こうしゆうわん)租借を契機に,ロシアも旅順,大連を租借して満州の一角に進出した。さらにシベリア鉄道の建設に並行して東支鉄道(東清鉄道)の敷設権を獲得し満州への侵略行動を具体化させ,他方,韓国政府内にも日本に代わって影響力を強めた。日本は朝鮮への経済的進出をはかるためにロシアとの交渉を必要とし,1896年の山県=ロバノフ協定,98年の西=ローゼン協定などを締結した。
1900年義和団の乱が起こると,ロシアは満州における鉄道利権などの保護を名目に大軍を投入し,事実上,この地域を占領,義和団の乱が終息した後も占領状態を続けた。一方,日本は連合軍の一翼を担って大軍を派遣し,義和団の鎮圧により〈極東の憲兵〉としての有効な軍事力たることを実証した。このいわゆる北清事変以後,日本政府内には,東アジアで安定した国際的地位を確立するためイギリスとの接近をはかろうとする日英同盟論と,ロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論とが台頭した。元老山県有朋や外相小村寿太郎らはロシアへの不信から前者を主張し,他方,元老伊藤博文,井上馨らは現実的な解決策として後者を推進しようとした。これ以後,政府が進める日英交渉が進展し,02年1月日英同盟条約が調印された。日本は,日清戦争後の複雑な極東情勢のなかでイギリスとの同盟関係を成立させることで初めてロシアに対抗する地位を確保することができ,他方イギリスは,日本の軍事力を,中国をはじめ東アジア全域における自国の権益を擁護し,同時にロシアの極東進出に対する抑止力として利用しようとしたのである。
日英同盟の成立によってロシアは満州占領政策を修正し,1902年4月露清条約を締結して,同年10月以降,3期に分けて満州から撤兵することを約した。こうして,一時的な平和が維持できる間に日本は,朝鮮,満州での利権を拡大強化しようとしたが,03年4月の第2次撤兵をロシアが実行しなかったため,日本政府は対露交渉の基本方針を決定することが必要になった。それはまず,清,韓両国の独立と領土保全,両国における商工業上の機会均等の原則を掲げ,ロシアが韓国における日本の経済活動の自由のほか,韓国の改革のため日本の助言と援助,さらに内乱勃発の際における日本の軍隊派遣を認め,他方,日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益と内乱勃発時に満州へのロシアの軍隊派遣を認めるというものであった。このいわゆる満韓交換論を基礎にして,日本は7月以降対露交渉を開始した。10月にロシア側の対案がもたらされたが,その内容は日本の韓国への助言・援助を民政だけに限定し,韓国領土内の軍事上の目的での使用や朝鮮海峡の韓国側沿岸に軍事工事を施すことは認めず,さらに北緯39°以北の韓国領土に中立地帯を設けることなどを提案してきた。こうして韓国における日本の活動や施設を制限する一方で,満州は日本の利益範囲外であるとして,この地域への日本の発言権をいっさい認めようとしなかった。
これに対し日本の第1次修正案は,韓国については第1次提案とほぼ同じ内容であり,ただ満韓国境の両側に幅50kmの中立地帯を設け,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認め,韓国についてはロシアの特殊利益外とすることを提案した。12月のロシア側の第2次修正案は,第1次対案とあまり変わらず,中立地帯案ももとのままで,満州についてはいっさい言及せずして日本側の発言権を認めない立場を堅持した。それに対し日本は,第2次修正案を提出して日本の対韓援助は行政を改革する助言とし,朝鮮海峡の韓国側沿岸での軍事工事は行わず,中立地帯も設けないこととしたが,翌04年1月のロシア側の回答は,韓国領土内での軍事工事をいっさい認めず,中立地帯案はそのままであった。そして,1月の日本側最終提案は,韓国およびその沿岸はロシアの利益外であることをロシア側が承認し,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認めるとする相互的な協約にすることを提案した。そしてロシア側に回答期限を照会したが,ロシアはその期限を明示せず,1月下旬には南満州から鴨緑江(おうりよつこう)に軍隊を集中しているとの情報が日本政府に伝えられた。
一方,ロシアは1900年義和団の乱を契機に対満州政策を積極化させていたが,02年ころから蔵相ウィッテら穏健派の発言力が後退し,代わって退役近衛軍人A.M.ベゾブラーゾフを中心とするグループが実権を握り,03年4月の第2次撤兵を実行しなかったばかりか,7月以後の日露交渉においても強硬路線をとることになった。8月には極東総督府が設置され,強硬派のE.I.アレクセーエフが総督に就任して極東政策全体を統轄し,対日交渉をも担当するにいたった。一方,ウィッテが蔵相を免職となり閑職に退けられたことは,ロシア政府の主導権が主戦派に移ったことを意味し,日露両国の交渉は妥協点を見いだせぬまま推移した。
この間,ロシアの第2次満州撤兵不履行を契機に陸海軍や外務省の中堅幹部,東京帝国大学教授らのいわゆる七博士などが対露強硬意見を主張して政府首脳に圧力をかけ(七博士建白事件),8月には対露同志会が結成されて開戦世論を煽(あお)った。他方,幸徳秋水,堺利彦ら社会主義者やキリスト者内村鑑三らは非戦論を唱えた。しかし,10月8日のロシアの第3次撤兵不履行を契機に世論は全面的に主戦論に転じ,《万朝報》を拠点に非戦論を展開してきた幸徳,堺,内村らは退社を余儀なくされ,11月幸徳らは《平民新聞》を創刊して非戦と社会主義の立場から政府批判を続けることになった。
日本の陸海軍は,1903年12月には開戦準備に着手し,翌年1月には慎重な態度をとってきた元老層も開戦を決意した。2月8日連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し,同日陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始してここに日露戦争の戦端が開かれ,さらに10日日本はロシアに宣戦を布告した。陸軍部隊は韓国領内を北上し,5月鴨緑江を渡った最初の戦闘でロシア軍を敗退させ,また南山の戦でも激戦の末に優位を占めた。6月に満州軍総司令部が編成され,総司令官に大山巌,総参謀長に児玉源太郎を任命し,その下に第1軍から第4軍が統轄されることになった。8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。
この間,連合艦隊は旅順港口を封鎖してロシア艦隊の活動を抑制していたが,ロシアがバルチック艦隊を東航させたため,それとの決戦に備える必要から旅順の早期占領を要請した。1905年5月対馬海峡沖での日本海海戦で,東郷平八郎が率いる連合艦隊は圧倒的な勝利を収め,戦局全体の帰趨を決めることになった。
日露戦争は軍や財政当局の予想をこえる消耗戦となった。20億円近い戦費は大々的な増税と内外の国債とに依存し,その財政負担と100万人近い兵員の動員と大量の軍需品の調達は国力の限度をこえるものであった。開戦とともに各政党は挙国一致のスローガンの下に,巨額の軍事費と関係諸法案を成立させた。非常特別税と呼ばれた各種増税と4億8000余万円の巨額の内国債を負担するため,各行政機関は勤倹貯蓄を奨励し,納税と国債への応募を勧奨した。さらに各市町村は戦時記念事業を奨励し,植林や開墾事業,耕地整理,養魚場・製糸場の設立など,多様な事業の推進を図るとともに,兵事義会,尚武会,青年団,処女会などによる出征兵士の家族や遺家族の援護,傷病兵の慰問,恤兵金(じゆつぺいきん)の募金活動などを推進した。また学校行事などを通じて戦時下における教師・生徒の心得などが説かれ,国民生活は全面的に戦時体制の下に統制され,総力戦的な様相を呈するにいたった。そして戦争の展開とともに政府への批判は弾圧され,政府の国債政策を批判した《二六新報》が廃刊に追い込まれ,非戦論を展開してきた《平民新聞》が発売禁止になり,05年1月には廃刊を余儀なくされた。開戦後も活動を続けてきた社会主義協会も04年11月には結社禁止となった。
一方,ロシアは開戦前から都市における労働者の運動が活発化しており,農村でも一揆が頻発していた。社会主義政党を中心とする反体制運動も広がっており,反戦運動も活発に展開されていた。開戦後も,相次ぐ敗報に加えて,戦争にともなう生活困窮と労働者や農民に対する軍事動員は,ロシア民衆の中に不満を鬱積(うつせき)させることになり,1904年12月にはバクーの石油労働者がゼネストを引き起こした。翌05年1月の血の日曜日事件を契機にロシア第一革命が勃発し,皇帝やその側近の強気の戦争継続論にもかかわらず,国内の革命運動を抑圧するためには講和の締結が必至となった。
また,日本の同盟国イギリスとともに日本の外債募集を引き受けてきたアメリカは,これ以上に日本が勝利することを望まず,他方,ロシアの同盟国フランスや巨額の外債を引き受けてきたドイツもロシアの崩壊を危惧して講和の斡旋にのりだした。ここに,日露両国の背後にあった諸列強は,それぞれの思惑から早期講和に意見が一致することになった。
講和問題について日本は早くからその機会をうかがっていたが,1905年3月の奉天会戦以後,アメリカ大統領T.ローズベルトを通じてロシア側の意向打診にのりだした。ロシア側も5月の日本海海戦の決定的敗北を契機にアメリカ大統領の講和勧告に応じるにいたり,7月日本側全権に外相小村寿太郎,駐米公使高平小五郎が,ロシア側全権にウィッテと駐米大使ローゼンが任命された。アメリカのポーツマスで8月10日から講和会議が開かれ,29日まで十数回の会談が続けられた。日本側が要求した賠償金と領土割譲をロシア側は受け入れず,交渉は難航したが,最終段階でロシア側が譲歩して決着がつけられ,9月5日両国全権の間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。その内容は,ロシアが日本の韓国に対するいっさいの指導権を承認し,旅順,大連の租借権と長春以南の鉄道ならびに付属利権を日本に譲渡すること,さらに北緯50°以南の樺太を割譲し,沿海州とカムチャツカにおける日本の漁業権を認めるというものであった。
この講和問題が具体化したころから日本国内ではさまざまな講和論が盛んになり,各地で集会が開かれ,決議や宣言書が政府あてに送られた。7月には講和問題同志連合会が結成され,中途半端な講和に反対し強硬論を唱えて全国的に運動を起こし,9月に入ると各新聞は講和反対の主張を掲げた。調印の日の9月5日東京の日比谷公園で開催された同志連合会主催の国民大会は講和条約の破棄を決議し,大会参加者の一部は街頭に出て,各所で警官隊と衝突,政府系新聞を襲撃し,内務大臣官邸や警察署,交番,電車,教会などをつぎつぎと焼き打ちした。7日にかけて市民による騒擾(そうじよう)は続き,政府は6日東京市と府下5郡に戒厳令をしき,政府批判の新聞・雑誌を発禁や停刊処分とした(日比谷焼打事件)。このほか講和反対の運動は,20日ごろまで全国各地で大会や演説会を開いて決議や宣言を発し,神戸市や横浜市では民衆が暴動化した。
日露戦争は日露両国のいずれにとっても大きな犠牲をともなう戦争となったが,いちおう日本の勝利という形で講和にこぎつけたため,戦争の第1の目的であった日本の朝鮮支配は英米両国も含めて国際的な承認を受けることになり,これ以後,朝鮮の植民地化が本格的に推し進められることになった(日韓保護条約)。また,満州におけるロシアの利権が日本に譲渡されることによって,日本の勢力がこの地域にも拡大し,その独占的支配が強化された。そのためこの地域の門戸開放へのアメリカの期待が裏切られることになり,日米両国間の対立関係が顕在化するにいたった。そうした新しい国際情勢のなかで,日本はアジアにおける強国の一員に成り上がることが要請され,軍備の増強を中心に日露戦後経営を推進することになった。また,中国における民族運動や朝鮮の独立運動(義兵闘争,愛国啓蒙運動)が展開され,日露戦争後の東アジアにおける国際情勢はいっそう複雑な要因が加わることになった。
執筆者:宇野 俊一
日露戦争後の軍事・外交・経済政策を中心とする最高の国策方針をいう。日露戦争後最初の第22議会から第24議会の第1次西園寺公望内閣,第25議会から第27議会の第2次桂太郎内閣にいたる,いわゆる〈桂園時代〉の前半期を日露戦後経営期と呼ぶことができる。日露戦後経営の基本的な内容は,(1)軍備拡張,(2)満州,朝鮮,台湾,樺太などの植民地経営,(3)財政・外債整理,(4)鉄道国有,製鉄所・電話事業の拡張,治水事業の確立などの産業基盤の育成,(5)地方改良運動,戊申詔書,在郷軍人会,教育改革などを中心とする政治的・イデオロギー的国民統合,の五つに要約できる。
日露戦後経営の基軸は,日清戦後経営と同様に軍備拡張であった。1907年度から12年にいたる陸軍軍備拡張費は約1億7500万円,海軍のそれは約4億3400万円,両者合計では実に6億0900万円の巨額に達した。これにより陸軍の師団編成は,19師団,平時現員約25万人,戦時兵員約200万人にまで大増員された。海軍の軍拡は陸軍のそれをさらに上回り,主力艦隊をすべて艦齢8年未満の戦艦8,巡洋戦艦8を基幹とする八八艦隊の建艦計画が策定された。この大軍拡の背景には,アメリカ,ソ連との対立および植民地朝鮮,満州における民族的抵抗運動の高まりがあった。しかし,この軍備拡張と植民地支配の強化は,日露戦争後の国家財政にとって大きな負担となった。一方で,日露戦争時の外国からの借金=外債を整理しつつ,他方で軍拡を推し進めていくためには,国力の充実を図らなければならない。かくして鉄道国有,八幡製鉄所の拡張,電信電話の拡張,海運・造船の奨励,治水事業,北海道開拓などの産業基盤の整備・拡充が日露戦争後の重点政策となった。それとともに陸海軍の大拡張は,国民生活に深刻な負担を強いることとなった。とくに農村は大量の基幹労働力を兵士として引き抜かれたため,大きな打撃を受けた。この農村の動揺をしずめ,他方で,日本軍国主義を支える〈良民良兵〉を確保するために,国民の軍事的組織化が急速にすすんだ。在郷軍人会の設立,青年団の奨励と官製化,小学校義務教育の6年制への延長および地方改良運動の推進は,いずれも天皇制国家のもとへ国民を政治的・イデオロギー的に統合する役割を担うものであった。こうして,日露戦後経営は,日本社会の帝国主義的編成替えを完了させる画期となった。
執筆者:中村 政則
西欧を志向していた近代ロシアにとって,19世紀の日本はほとんど関心をひかない小国であった。政府上層部が日本に着目するようになるのは,日清戦争とそれにつづく,いわゆる三国干渉以降のことであり,民衆の多くは戦争が始まってようやく日本という名を知るにいたった。日本・ロシア両帝国主義の極東での対立が戦争となるが,ロシア内部にはベゾブラーゾフAleksandr Mikhailovich Bezobrazov(1855-?)らの強硬派とウィッテらの穏健派の対立を含みながら,日本軽視という点では共通していた。1904年2月8日,仁川,旅順での日本軍の奇襲攻撃で戦争が始まり,ツァーリは開戦の詔勅で,宣戦布告なしの日本軍の攻撃の背信性を強調し,民衆の戦争協力を訴えたが,民衆には遠い極東の国外における知らない国との戦いであり,その正当性には説得力が乏しかった。当初から日露戦争は近代ロシア史上最も不人気な戦争だった。
ドイツ,オーストリアとの戦争に備えていたロシア軍部には,極東での戦争に備えた,練りあげた作戦計画もなかった。ロシア側は,配備不十分な兵力で戦争をむかえ,退却しながら時をかせぎ,ヨーロッパ・ロシアからの増援部隊の来着を得て,数的に優勢になってから日本軍に反撃するという基本戦略をたてた。そのため,唯一の輸送手段たる長大,単線のシベリア鉄道での輸送に全力をあげた。しかし,ロシア軍の相つぐ敗報は,国内の不満,政府批判をしだいに高め,とくに05年1月の〈血の日曜日事件〉以後,民心の離反は決定的となった。開戦時から戦争に反対していた社会主義者の民衆への影響力は大きくなった。苦境に立った政府には戦勝が必要だったが,3月にムクデン(瀋陽)で敗れ,バルチック艦隊も壊滅し,その直後の御前会議で国内治安の回復が最重要だとして戦争終結の方針がうちだされた。日露戦争は05年のロシア革命の引金となるとともに,日本に対するロシア人のイメージの多くがつくられた戦争でもあった。
執筆者:広瀬 健夫
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1904年(明治37)2月より翌1905年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。
[藤村道生]
三国干渉後、列強の中国分割が進行するなかで、アメリカは中国の門戸開放と領土保全および機会均等を宣言した。これに対しロシアは、シベリア鉄道を軸に東方政策を推進、東清(とうしん)鉄道敷設、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)租借を通じて南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事教官や財政顧問を置き、南岸の馬山(まさん)浦まで租借を策した。日本は山県(やまがた)‐ロバノフ協定、西‐ローゼン協定で朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは義和団(ぎわだん)鎮圧の名目で出兵した兵力を撤兵せず事実上全満州を占領するに至った。イギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を防衛するために日英同盟を提案。小村寿太郎(じゅたろう)外相は、満韓交換で日露関係調整を唱える伊藤博文(ひろぶみ)らの日露協商論を抑えて、1902年1月日英同盟を結び露仏同盟に対抗した。こうして満州と朝鮮を挟んで二帝国主義ブロックが対峙(たいじ)する形勢が生じた。
[藤村道生]
ロシアは露清(ろしん)協定による第二次撤兵の期限の1903年4月8日になっても、撤兵を実行せず、逆に増兵し、鴨緑江(おうりょくこう)南岸に進出して森林伐採を始めた。日本は、朝鮮の安全を脅かすものとして態度を硬化させた。おりしも日清戦後の10年計画による対露軍備拡張案が完成したので、軍も、開戦が必要ならば現在をおいてないと強調した。国民は軍拡による相次ぐ増税にあえいでいたが、不満は国民同盟会などによって強硬外交論に誘導され、『萬朝報(よろずちょうほう)』に拠(よ)る内村鑑三(かんぞう)や幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の非戦論は孤立していった。
桂(かつら)太郎内閣は1903年6月、元老を交えて御前会議を開き対露交渉案をまとめ、開戦世論と米英の支持を背景に、8月ロシアに対し奉天(ほうてん)の開放とロシア軍の満州撤兵を要求、交渉を開始した。日露両国はそれぞれ、相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認めること、相手国がこれに干渉しないことを約束させ、さらに相手国の勢力圏における支配を制限しようとした。日本は日英同盟の存在がロシアに譲歩させると期待したが、ロシア皇帝の側近は日本の満州に関する要求を強硬に拒否する一方、日本が韓国領土を軍事的に使用する権利をも否認した。交渉が難航するなかで日本では、陸・海・外三省の中堅幹部が互いに連絡して早期開戦を策動し、また東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)ら七博士は強硬論を唱え、全国を遊説して開戦世論を盛り上げた。『萬朝報』も開戦論支持に転じたため内村らは退社、幸徳や堺利彦(さかいとしひこ)は『平民新聞』を創刊して非戦論の孤塁を守った。当初戦争に消極的だった実業界も、戦争切迫の情報で市況が沈滞したため、10月には開戦説に移った。政府は12月末の閣議で開戦準備促進を決め、旅順艦隊出動の報を受けた1904年2月4日の御前会議は対露国交断絶と軍事行動開始を決定し、10日日露両国はそれぞれ宣戦を布告した。
[藤村道生]
国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川(じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋(あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清(これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。
第一軍(司令官黒木為楨(ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海(こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東(りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞(へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏(おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫(のづみちつら))とともに遼陽(りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞(ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典(のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))を置き、児玉源太郎(こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞(かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山(うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折(ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝(けんでん)された橘周太(たちばなしゅうた)中佐以下2万4000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅(せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。
ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河(さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊(にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌1905年1月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。
[藤村道生]
日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国の民衆は犠牲を強いられた。幸徳、堺らは1904年3月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張した。また片山潜(せん)は第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席、ロシア社会民主党のプレハーノフと交歓した。与謝野晶子(よさのあきこ)は「君死に給ふこと勿(なか)れ」と題する反戦詩を発表、表面の戦争熱と裏腹に戦死者の増加、生活の窮乏は民衆のうちに厭戦(えんせん)気分を広げていった。ロシアでは1905年1月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大した。革命の火を消すために講和は絶対的要請となった。
[藤村道生]
日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎(じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太(からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の9月5日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打(ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。
[藤村道生]
戦勝で韓国の保護権を獲得した日本は、第二次日英同盟、桂‐タフト協定で韓国支配の承認を受け、逐次韓国の主権を奪い1910年に併合した。満州でも1906年南満州鉄道株式会社を創立、翌年の日露協約で南満州を勢力範囲に収めた。しかし、アメリカの鉄道資本家ハリマンの提案した満鉄の日米共同管理を拒否したことにより、日本は、門戸開放政策をとるアメリカのアジア政策と衝突することとなった。日本の戦勝はアジア民族運動勃興(ぼっこう)の契機となったが、朝鮮併合は日本への期待を失わせた。一方アジアへの進出を阻まれたロシアがバルカン政策を強化した結果、英仏露協商により対独包囲陣が成立した。こうして第一次世界大戦の戦略配置ができあがったのである。
[藤村道生]
『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社)』▽『古屋哲夫著『日露戦争』(中公新書)』
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朝鮮,満洲の支配権をめぐる戦争。日本とロシアの対立は,義和団事件に乗ずるロシアの満洲占領によって深刻化し,日英同盟成立を導いた。ロシアでは冒険主義が極東政策を主導するに至った。ロシアが満洲撤兵の約束を履行せず,鴨緑江に進出したのに対し,日本政府は戦争を決意し,1904年2月8日夜,日本軍は旅順のロシア艦隊を攻撃した。10日両国は互いに宣戦布告を行った。8月の遼陽会戦は最初の決戦となり,日本軍の勝利に終わった。10月の沙河(さが)会戦では勝敗は定かでなく,以後冬期の対陣状態に入った。旅順要塞は開戦時より日本軍の攻撃が続けられていたが,ついに05年1月1日陥落した。冬期あけの3月,奉天大会戦で日本軍は勝利を収め,5月はるばる回航してきたバルト海艦隊も日本海海戦で全滅した。ロシアではこの年革命が起こり,日本も戦力,経済力が涸渇して,戦争継続は不可能だった。そこでアメリカの仲介で,8月10日ポーツマスで講和会議が開かれた。会議は難航したが,南樺太(からふと)(南サハリン)の日本への割譲,賠償金なしということで妥協がなった。9月5日調印されたポーツマス条約は,その第1条で,日本が戦争中軍事占領した朝鮮を支配することを認めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
1904~05年(明治37~38)に韓国および満州の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。日清戦争後,韓国ではロシアの進出により日本の勢力は後退し,満州でもロシアは1896年以降東清鉄道敷設,旅順・大連租借など急速に進出した。99年義和団の乱がおこるやロシアは満州占領を継続し,日本はこれに対抗して1902年日英同盟を結んで立場を強化し,対露交渉にのぞんだが決裂した。04年2月,日本軍は仁川に上陸,仁川・旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃,2月10日宣戦布告した。第1軍は韓国を北進し鴨緑江(おうりょっこう)の戦に勝ち,遼東半島に上陸した第2軍も南山で苦戦したが,第3軍に旅順攻略を委ね第4軍とともに北上した。第1・2・4軍は遼陽の会戦に勝利したが,黒溝台の戦などで苦戦を続けた。旅順攻撃も総攻撃の繰り返しで犠牲は多大であったが,ようやく05年1月に占領し,日本軍は全力で奉天においてロシア軍主力に決戦を挑み占領。しかし兵力・弾薬を消耗し尽くし,日本はアメリカの仲介による講和に期待した。5月ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本艦隊に敗北するや,T.ローズベルト米大統領が講和に乗りだし,9月5日ポーツマスで講和条約が調印された。これにより日本は韓国を保護国化し,南満州を勢力範囲とした。日本の動員兵力は約108万人,戦費20億余円,うち12億円は内外債であった。
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…海軍力では全体ではロシアが優勢だったが,日本側が新鋭艦を多く擁し,訓練・戦法にも優れ,連合艦隊は日本海海戦でロシア艦隊に大勝利を収めた。日露戦争後,日本海軍はアメリカを仮想敵国として大規模な軍備拡張に向かった。各国による建艦競争が始まると,軍艦の国産化を達成した日本は八八艦隊の実現をめざした。…
…日露戦争開戦直後に編成され,日韓併合を経て日本による植民地支配の時期を通じて朝鮮に駐屯した日本の陸軍。日朝修好条規締結(1876)後,日本の陸軍部隊が朝鮮に常駐したのは,1882年壬午軍乱後結ばれた済物浦条約にもとづき,ソウルに駐屯した守備隊をはじめとする。…
…1896年2月には,朝鮮国王をロシア公使館に監禁するクーデタが起こり,朝鮮政府はロシアとの提携をはかるようになった。こうして,日本政府が朝鮮支配を追求するかぎり,日露戦争は避けられないものとなった。 1904年日露開戦にふみきると,日本政府はさっそく朝鮮植民地化の基礎固めに着手した。…
※「日露戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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