国家とは、一定の地域内に住む人間集団が、生命の安全と生活の保障を求めて、また外敵の侵入を防ぐために形成した政治的共同社会である。
現在、この地球上には約200か国に近い国家が共存している。これらの国々のうち、第二次世界大戦前からすでに独立国家であった国々の大半は資本主義体制をとる国家である。これに対抗して、ソ連に続き、第二次世界大戦後、十数か国以上にのぼる社会主義国家が出現した。しかし、1989年以降、東欧諸国やソ連が社会主義を放棄し、現在では、社会主義国家は中国・ベトナム・北朝鮮・キューバとなった。また戦後から現在に至るまでに、主としてアジア、アフリカの諸地域において、かつて西欧列強の植民地支配下にあった多数の民族が独立を達成し、これらの国々はいまや100か国近くに上り、国際連合や国際政治のなかで活躍している。
では、国家とはいったい何なのか。現在みられるような国家という政治社会や政治形態はいつごろ成立したのか。そもそも近代国家が成立したとき、その国家構成の原理や政治運営のルール・原則はどのようなものとして考えられていたのか。現代の国際社会には、なにゆえ、資本主義国家や社会主義国家とよばれるような、経済制度も政治制度もきわめて異なる二つのタイプの国家が共存するようになったのか。第二次世界大戦後、多数の新興独立国家が出現したことによって大きく変化した国際政治の舞台において国家の性格はどのような変貌(へんぼう)をみせ、国家の将来については今後どのような展開が予想されるのであろうか。
[田中 浩]
国家成立の要件としては、普通には、それが、領土、人民(国民)、主権の3要素を具備していなければならないことがあげられる。
いかなる国家も、境界線(国境)によってくぎられた一定の地域・領域をもっている。アメリカ合衆国、ロシア、中国、カナダ、オーストラリア、インドのような広大な領土をもつ国もあれば、スリランカ、モナコ、シンガポール、トリニダード・トバゴのような小規模な国もある。また、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、日本などのような中規模程度の国もある。いずれにせよ、地球全体は境界を接した多数の国々によって埋め尽くされている。
次に、国家は人民(国民)によって構成されている。何億人という人口を擁する国もあれば、わずか数万人、数十万人の人口しかもたない国、あるいは数百万、数千万人といった両者の中間規模の人口からなる国もある。また、これらの国々のうちには、人口の大半が一民族で構成されている単一民族国家もあれば、数種類、数十種類、さらに数百種類以上の民族や人種によって構成されている多民族国家もある。後者のような国々では、当然に言語・宗教・風俗などにさまざまな差異がみられ、それなりに困難な問題を抱えている。しかし、たとえ多民族国家であっても、その地域共同体に住む人々は統合されており、一つのまとまりを保持している。
そして、そのような一定のまとまりを人々に保障しているのが、すべての国家にあるとされる主権、すなわち国の政治を最終的に決定する最高権力である。現代国家においては、この主権は国民がもつとされている(国民主権)。このことは次の三つのことを意味する。まず第一に国民は安全で快適な生活ができるように最高権力=主権の存在を認めることに同意し、それによって政治社会=国家を設立したのであるから、国民は自ら進んでこの主権のもとに統合されるべきである。第二に、各国に存在する議会、内閣(政府)、裁判所などの各種の政治機関は、主権を形成した主権者である国民にかわって、その委託を受けて最高権力を国民の安全と利益のために行使する政治制度であると考えられるべきである。国家がしばしば統治構造と同一視される理由はここにあるが、ともあれ、国家の役割は、国民の権利や自由を保障できるような法律を制定し(立法部)、その法律を誠実に執行し(行政部)、国家内におけるすべての紛争について法律を正しく解釈・適用して解決し(司法部)、それによって人々の平和と安全を維持すること、つまり政治の隅々にまでわたって「法の支配」を貫徹することにある、といえよう。こうして国民が主権のもとに結集した目的が達成されるのである。
第三に、以上のような民主的な権力行使が実現されるという条件の下で、各種の政治機関は、彼らが決定したことを遵守するように国民に強制できる権限を付与されているのであって、これによって、国家権力による強制は絶対君主や独裁者のような単なる暴力ではなくて平和的な「法の支配」に変えられるのである。
ところで、国家には、国内の平和と安全を保持するという重要な役割のほかに、もう一つ外敵から国民を守るという役割がある。国家が、主権の独立性や不可侵の原則を高く掲げて他国からの干渉を排除し、そのために軍隊のような権力手段をもつことが国家に認められているのはそのためである。したがって、近代国家形成時に登場した主権という考え方のなかには、国民主権、法の支配、外敵の排除などの内容が含まれていたことに注意すべきである。近代国家論の祖ホッブズが、国家を身体になぞらえて、主権を国家(コモンウェルス)における頭部・魂と位置づけたのはこうした意味からである。いずれにせよ、領土、人民、主権の3要素のうちどれ一つを欠いても、ある共同社会を国家とよぶことはできないのである。
[田中 浩]
では、主権という考え方を国家構成の中核原理とする主権国家、民族国家などとよばれる近代国家はいつごろ形成されたのであろうか。われわれはその時期を17世紀中葉のイギリス市民革命期に求めることができる。この時期に形成された国民国家(ネーション・ステート)こそ、今日のあらゆる現代国家のモデルとなったものである。もちろん、それ以前にも、エジプトや中国における古代国家、ギリシアの都市国家、ローマ帝国、中世封建国家、絶対主義国家のような政治共同体が存在していたことをわれわれは知っている。しかし、これらの国家はいずれも今日の近代民主主義国家に値するような条件を欠いていた。アテネの都市国家はしばしば政治共同体の理想として賞賛されてきた。確かに、ギリシア民主政の最盛期におけるアテネでは、そこに住む市民たちは、個人の利益とポリス(国家)の利益とが一致するように行動すべきことを心がけていた。ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが「徳」の政治の実現を主張したのはこうした状況を背景としていたのである。しかし、そのような政治は、一つには、一目で見渡される程度の小規模な地域、一気にその頭数が計算できるほどの少数の人口という条件の下でのみ可能であったろうし、一つには、人口の3分の1以上を占める奴隷がもっぱら生産に従事し、自由民が政治に専念できたことにもその成功の鍵(かぎ)があったように思われる。ところが、17世紀イギリスにおいて成立した近代国家は、500万人ほどの人口を擁する、かつ、都市国家とは比較にならないほどの大規模な地域をもつ政治社会であった。ここではもはや、都市国家のような「見える政治」を前提とする政治運営はほとんど不可能となる。こうした条件のなかで、全国民の自発的協力を基礎にしつつ、ある一定のまとまりをもった民主的な政治運営を実現するにはどうすればよいのか、というまったく新しい政治の問題が登場する。そして、そのための政治原理や政治制度を模索する努力のなかから今日みられるような近代国家が設立されたのである。この点については後に述べるとして、その後の都市国家の運命についていえば、あまりにも狭小な領土ときわめて少数の人口によっては、とうてい、近代資本主義社会にみられるような生産力の飛躍的増大は望めず、また強大な外敵の侵入を防ぐこともできず、都市国家という形態の小国家はやがてこの地上から消滅するのである。
続いて、西ヨーロッパ全体にまたがる広大な版図をもつローマ帝国が出現するが、この巨大な帝国全体を半永久的にかつ統一的に維持し続けることは、強大な軍隊やキリスト教による精神的服従の力をもってしても不可能であって、7、8世紀になると西ヨーロッパの辺境地域に多数の地域共同体が形成される。そして、これらの地域共同体内部には何十、何百という数の封建領主の支配する封建国家が出現するが、12、13世紀から17、18世紀にかけて、封建領主のなかから、同輩の封建領主たちを次々にその支配下に置き国家統一への道を目ざして歩み始める強大な絶対君主が、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどの地域に登場する。とくに、世界で最初に近代国家を形成することに成功したイギリスでは、13世紀末までに王国の政治を円滑ならしめるために身分制議会が設立され、しかも、フランスやスペインの場合とは異なり、この国の議会はその後着実にその地位・権限を強化していったから、17世紀前半までにはイギリスの議会は全国家的な統合機能をもつ政治機関に成長していた。
またイギリスでは、経済の面においても他の国々に先駆けて資本主義が発展したため、各地に局地的市場圏が形成され、そのことは全国的な経済統合の方向をも促進した。そして、このような政治的・経済的統合化の進展こそ、絶対主義国家から近代国家への転換を可能にした政治的・経済的要因であった。すなわち、こうした政治・経済過程の進行は当然に、生産の担い手であった市民階級の勢力を増大させることになり、イギリスでは、ついに17世紀に入って、封建階級の利益を擁護する国王と資本主義的商工業階級の立場を支持する議会との間に衝突が起こり(ピューリタン革命と名誉革命)、議会側の勝利によって、ようやく議会制民主主義を中心とする近代国家が形成されたのである。では、このようにして成立した国家において、国民の権利・自由はどのように位置づけられ、またそれを保障する制度や政治運営のルールや原理はどのように構築されたのであろうか。
[田中 浩]
近代国家の諸原理を最初に明らかにしたのはホッブズである。彼は、17世紀中葉のイギリスにおいて国王と議会が相闘う悲惨な内乱(ピューリタン革命)を眼前にして、共同社会の平和を確立し、構成員すべての生命の安全を確保するためにはどうすればよいか、を考えた。この場合、彼は、国王と議会がそれぞれの立場で自己を正当化するだけでは争いは永遠に決着がつかないとみて、いずれの党派にもくみせず、まず、人間にとって何がもっとも重要であるかを考え、そこから政治の問題に回答を与えようとした。このような人間を政治考察の基本単位とする思考方法は、従来の政治学がもっぱら家族や党派的立場からのみ政治を考察してきたのに対し、きわめて斬新(ざんしん)なものであり、これによって、ホッブズの政治論は、新しい近代国家の理論となりえたのであった。彼は、人間にとってもっとも重要な価値は生命の尊重(自己保存)にある、と述べる。
ついでホッブズは、もしも人間が法律や政治組織をもたないアナーキーな状況(自然状態)の下に生きていたらどうなるか、という問題を提起し、自然状態においては、人間は、自分の生命を守るためにはいかなることをしてもよい権利――人を殺すことさえも認められる――、つまり「自然権」をもつ、という。しかし彼は、このような自然状態にあっては、人間はまったく自由であり、それゆえに自分が自分の裁判官であるにもかかわらず、他方では各人が自然権をもっていることから、もしも身の安全が保障されないような状況が発生したときには、相互に相手を殺し合う危険な状態につねにさらされている、と指摘し、そうした状態を「万人の万人に対する闘争状態」とよび、現在の内乱(ピューリタン革命)も自然状態に等しいものと言明している。では、こうした危険性をつねにはらんだ自然状態から人間が脱出するためにはどうすればよいのか。ホッブズは、その方法としては、人間は理性をもち、この理性は、人間が平和に安全に生きるにはどのように行動したらよいかを判断する最終的基準を人間に教えてくれるから、人間はこの理性の示す諸戒律すなわち「自然法」に従って行動せよ、と人々に勧める。彼は自然法を19ほど列挙しているが、彼のいう第一の基本的自然法とは、人間は自己保存のために全力をあげて平和を獲得せよ、ということである。そこで彼は、平和を確保するためには、人間は各人のもつ「自然権」を放棄して(つまり自分で自分を守ることをやめて)、共同社会のなかに設けた一つの共通権力(コモン・パワー)に譲渡するような「契約」を結び、この共通権力のなかで選ばれた代表=主権者が、共通の利益を図るために制定する法律に従って統治し統治されるようにせよ、と人々に勧める。これが、有名な社会契約説であり、この考え方こそ、後の近代国家論や近代民主主義思想の原点となったものである。なぜなら、まず第一に、この考えによれば、国家のもつ権力は、人々の同意や契約によって設立されたものとなるから、これは今日の国民主権主義の原型といえる。第二に、この設立された共通権力は、ホッブズによれば国の最高権力すなわち主権であり、そこで選ばれた主権者とは、国民を代表して主権を行使する人または機関である。そこでホッブズは、人々に対しては、彼らの代表である主権者の制定した法律に従って生きることを勧め、他方、主権者に対しては、自己保存を確保するための内容を示す自然法に反するような法律を制定することを禁じているから、結局、彼の主張は、現代国家でいわれている「法の支配」に基づく政治の確立を目ざしていることになる。
ところで、ホッブズのいう自然権の放棄とは、各人が生きる権利つまり自分の生命までも放棄し、すべてのことを主権者の意のままに任せるということを意味するものではない。それどころか、各人のもつ生きる権利は、政治社会が設立されたのちにも当然に保障されるべきものであって、自然権を放棄するというのは、具体的には自分で自分の生命を守ること、つまり武器を捨てて、共通の権力が制定した法律の下で平和に安全に生きることを意味する。この考え方こそ、各国憲法において基本的人権を不可侵のもの、生まれながらのものとして保障する思想原理となったものである。
ホッブズの政治思想は、各国が近代国家を形成する際に実践されている。近代国家においては、地域分権的な封建諸侯による支配は廃止され、人々は一つの権力、一つの法律の下で生きる。また各個人や各集団は、武器をもって他人を支配したり、自分の生命を守ることを禁じられ、社会の平和を乱す犯罪行為や暴力行為に対しては国が法律その他の統制手段によって刑罰を科する。日本でも明治維新期に、版籍奉還、廃藩置県、廃刀令などが実施されたのはそのためである。このような「同意による権力の設立」と「法の支配」を基調とした近代国家の理論こそ、ホッブズが体系化したものである。
ところで、近代国家は、都市国家とは異なり、統治を委託された者たちがすべての成員を直接に知って政治を行うことはできない(見えない政治)。とすれば、近代国家において成員全体が安心して生活でき、また国家自体が安定性を保持できるという保障はどこにあるのか。まず第一に考えられることは、近代国家においては、国民が代表者を選んで共通の利益を図る法律をつくらせ、国民はそれに従って生きることが最良の方法である、という論理的仮説が国民の間に定着していることが必要である。もう一つは、近代国家内では、国民の大半は生産・商業などの経済活動に従事し、自らの生活の保持を図るとともに、他の人々にとっても有用なものを生産・分配し、そのような国民の経済活動を保障しているのが国家権力や各種の政治組織である、という経済と政治の分業による安定性という仮説が定着している必要がある。このように、近代国家は、まさに自立した自由な個人の活動を基礎として、それを保障する法と制度を整備することにより、成員全体の平和と快適な生活を増進する政治共同体として創出されたものである。そして、ホッブズの政治論は、この二つの仮説を論理化したものであると考えられ、それゆえに彼の政治理論は近代政治思想史上決定的に重要な位置を占めるものといえよう。
さて、ホッブズの政治思想をさらに現実政治のなかで具体化し、議会制民主主義を保障する政治形態を構築したのが、名誉革命の父ロックである。ホッブズは、当時の議会は特殊利益を代表しているとみて、よりいっそう国民的な利益を代表できるなんらか別の政治形態の設立を考えていたようであるが、それが何であるかについては述べることはなく、結局、政治のあるべき原理を提示したままにとどまった。これに対し、ロックは、迷うことなくイギリス議会をイギリス政治の中心に据えた。彼もまたホッブズ流に、自然状態、自然権、自然法、契約などの用語を使いながら、人間はその所有権(生命・自由・財産)を保護する必要から契約を結び、政治社会をつくった、と述べる。
次にロックは、政治社会のなかでもっとも重要なものは立法機関であるとし、それによって当時のイギリス議会を国権の最高機関として位置づけ、さらにこの議会権力は国王権力(行政権)よりも優位すると述べた。こうしてロックは、今日の議会制民主主義あるいは後の議院内閣制の政治原理のモデルを創出したのである。ホッブズ、ロックによって、国王の権力は神から授ったとするフィルマー流の王権神授説(神権説)は、イギリスでは早々と姿を消してしまったのである。
ホッブズやロックの政治論をさらに発展させ、絶対王制下の封建主義と同時に、資本主義経済の矛盾という問題性を抱えた18世紀中葉の時代状況を看取しつつ新しい国家論を提起したのがルソーである。ホッブズやロックは、絶対君主制にかわる新しい政治社会を確立することによって平和・安全・自由・民主政治などが実現可能である、と考えていた。事実、彼らの国家構想や政治原理はその後の民主政治の発展に大きく寄与した。しかし、ホッブズ、ロックから約1世紀ほど遅れて生まれ、しかもきわめて厳しいフランス絶対君主の統治下にあったルソーは、フランスの封建的統治はもとより、イギリスの誇る政治や経済の実態にも多くの不満を抱くようになった。彼の目には、財産資格に基づく成年男子の7分の1によって選出されるイギリス下院は真に民主的なものとは映らなかった。また私有財産制を基本とするイギリス市民社会に貧富の差やさまざまな社会的・経済的不平等が数多く存在していることも見抜いていた。彼は『人間不平等起源論』(1755)において、自然状態では人間は自由・平等であったこと、しかし、やがて、私有財産制や、ごく一握りの少数者が多数者を組織して生産させる方式が確立してくる文明社会に入って人間の間に不平等が発生したこと、また当時の絶対君主制、法律制度、政治組織などのいっさいが結び付いて人民を塗炭の苦しみに陥れていることを鋭く指摘している。そして自然法は人間不平等を是認しないとして、このような矛盾した事態を解決するためには、これまでのいっさいの制度を破壊すること、その際には暴力に対しては暴力で対抗する革命が必要であると述べている。
この不平等是正の問題こそ19世紀中葉以降の各国家における最重要なテーマとなるものであって、この意味で私有財産制の否定と暴力革命論を唱えたルソーは、社会契約論の大成者であるとともに、19世紀の出発点にたつ思想家でもあったといえよう。しかし、ルソーは、そのような革命がただちに起こるのは不可能であることを知っていたから、続く『社会契約論』(1762)においては、国民の政治意識を変革する作業を目ざし、個人の利益と公共の利益を同時に考慮しうるような市民(シトワイヤン)の育成と、そのような市民全員の意志としての「一般意志(ボロンテ・ジェネラール)」の確立に基づく政治の実現を主張した。実際には、このような「一般意志」の確立は可能な限り多数の人々の政治参加を実現することにほかならなかったから、結局のところ、ルソーの「一般意志」論は、人民主権の主張を誘導することとなり、したがって、この「一般意志」つまり人民主権は、国王の意志、従来の限定された国民代表機関である議会の決定、そのほかいかなる種類の団体・集団の利害よりも優位し、それゆえに「一般意志」は最高・単一不可分・不可譲渡なものとされ、ここに徹底した民主主義理論が国家論や政治運営原理の中心に据えられたのである。こうして、近代国家の原理と制度に関する諸理論は、約1世紀ほどの間に、ホッブズ、ロック、ルソーなどの社会契約論によってそのモデルがようやく確立されたのである。
[田中 浩]
さて、17、18世紀の市民革命期に構想された初期国民国家の役割は、個人の自由・自立を基調とした経済活動の保障を主眼とし、そのためには、国家や政府の仕事は、外敵を防ぎ治安の維持を図る最小限に限定されることがよしとされ、ここに「夜警国家」や「最小の政治は最良の政治」という思想が生まれた。しかし、18世紀末ごろからしだいに先進諸国に産業革命が起こり、資本主義が急速に発達し周期的に恐慌が発生すると、貧富の差の増大、失業、劣悪な労働条件などの社会・労働問題をめぐって国内矛盾が一挙に顕在化する。ここで国家は、国内治安の維持、経済の発展と安定を確保するためにも、対外的な経済競争に打ち勝つためにも、国家権力の拡大強化を図らざるをえなくなる。そして国家は、不満を募らせた国民が反政府行動に出るのを過酷に弾圧するとともに、他国に対しては、戦争や侵略行為に訴えて国家利益(ナショナル・インタレスト)を守ろうとする軍国主義的・帝国主義的態度に出る。
こうした経済的・社会的矛盾に基づく国家権力の抑圧的・侵略的態度をみて、それに反対するマルクスやエンゲルスなどの社会主義理論が登場し、抑圧された多数の労働者階級の心をとらえる。社会主義は、ルソー流に私有財産制と資本主義的生産の仕組みにすべての矛盾の根源があるとみて、この体制を打倒するには、無産の、搾取され続けているプロレタリアートによる暴力革命以外にはない、と主張する。この思想は、これまたルソー流に、国家をはじめとするあらゆる諸制度は被支配階級を抑圧する道具である、という階級国家論を唱え、したがって、社会主義革命後、「プロレタリアートの独裁」という政治方式によって社会主義社会から共産主義社会への建設が成功し、階級社会が消滅した暁には、暴力手段をもつ国家は死滅する運命にある、と説く。
20世紀に登場した社会主義国家は、このようなマルクス主義を基礎にして建設されたものである。しかし、これらの社会主義国家は経済的発展に失敗し、共産党の非民主的な政治運営に反発する人民の「自由化」「民主化」要求によって、社会主義体制をやめ、現存する社会主義国家のうち中国やベトナムは、市場原理をとり入れた社会主義的「市場経済」によって、国家建設を図っている。
他方、先進資本主義国家でも、社会主義の批判に対応して、19世紀中ごろより、少数者支配、貧困、失業、劣悪な労働条件などの政治的・経済的・社会的不平等を改善する努力が漸進的ではあるが試みられることになる。それは、一つには、選挙権の拡大によって国民の政治参加への幅を広げ、一つには、社会福祉や社会保障の拡充、各種の労働立法による労働者の地位改善と生活保障などの方向をとった。そして、こうした施策を実現するとなると、いきおい政府や行政官庁の職務は増大せざるをえず、今日みられるような行政機構の著しい肥大化を招き、そのため、国家は、従来のような議会を中心とする立法国家から、政府を中心とする行政国家へとその性格を変え、こうした国家は今日では「福祉国家」とよばれている。また、第一次世界大戦後の1920、1930年代に起こった数次にわたる経済恐慌、とくに1929年に始まる世界大恐慌によって主要な資本主義国家における経済が危機状況に陥ったのちには、各国はケインズなどの理論に従って従来の自由主義経済を修正して、国家や政府が経済活動に多面的に干渉する方向が強まった。このため、今日の経済は「混合経済」とか「国家独占資本主義」とかよばれ、かつて理想とされた政治と経済の分業を基礎にする最小の政治は、現在では政治と経済の統合化による強い政治へとその性格を変えつつある、といってよいだろう。
このように、近代国家は、1920、1930年代には、修正資本主義を基調とする福祉国家と社会主義国家とに分裂することになったが、ここにもう一つ、二つの国家形態とは異なる第三の国家形態としてのファシズム国家がこの時期に登場した。イタリア、ドイツ、日本は、1860、1870年代にようやく近代国家の体裁を備え、後発資本主義国家として出発した。これらの国々は、もともと資源に乏しく、また先進諸国のような植民地をほとんどもたなかった。したがって、ドイツや日本が西欧列強と対抗するためには、富国強兵策によって強大な統一国家の確立を推進する必要があった。また、当時これらの国々では、西欧先進諸国とは異なり、人権思想がいまだほとんど定着せず、民主的な政治制度も十分に整備されず、国民主権主義のかわりに、せいぜい国家主権論、国家法人説(ドイツ)や天皇機関説(日本)などが唱えられ、基本的には君治専制型の政治が強行されていた。そこで、第一次世界大戦後、未曽有(みぞう)の経済的危機が発生するなかで、ヒトラー、ムッソリーニ、日本軍部などのリーダーシップによるファシズム独裁国家が出現した。
これらの国々は、反共主義を前面に掲げながら同時に反西欧を唱え、国民を総動員するためにいっさいの反体制運動、たとえば社会主義運動、労働・農民運動、またいっさいの人権や自由を制限禁止し、ついには議会・政党・組合などの民主的諸制度をも破壊した。さらには満州事変、エチオピア戦争などに始まる一連の侵略・戦争行動によって国民のナショナリズムを喚起し、それが第二次世界大戦の引き金となった。第二次世界大戦が基本的には帝国主義戦争であったにもかかわらず、「民主主義とファシズムとの闘い」としてとらえられたのはこのためである。
ところで、1920、1930年代の危機の時代を前にして、イギリスのような国でさえ、国家権力の集中化を唱える傾向が現れた。たとえば、1910年代にボーズンキットらがヘーゲル流の国家優位の思想を喧伝(けんでん)し、これに対しホッブハウス、ラスキ、G・D・H・コールなどが多元的国家論を主張した。多元的国家論は、国家が国家内におけるさまざまな社会集団に絶対的に優位するという考え方を批判し、国家も社会の一つであること、国家が国民に忠誠を要求できるのは国家が国民の権利・自由・生活を十分に保障していることが条件であると述べている。またラスキは、イギリス議会が「資本の論理」によって有産者を擁護するために行動していると批判し、労働大衆の権利や生活をよりよく保障できるように議会を構造改革すべきであるという社会民主主義を主張している。この考え方は、ロシア革命のような暴力革命による方法は、資本主義が高度に発達しまた議会制民主主義の思想・制度が広範に形成されている国では、議会を通じて平和のうちに社会的矛盾を是正しようというもので、先進諸国における社会主義政党の多くは、ラスキの平和革命論を採用しており、先進諸国の共産党の多くも議会主義と平和革命を基調とする民主国家の確立という、いわゆる「ユーロコミュニズム」の路線を打ち出した。
[田中 浩]
以上に述べたように、今日では、途上国を除く国々の多くは、民主主義国家としての道を歩んでいる。しかし、戦後独立した新興諸国家のうちには、いまだに経済自立化がうまくいかず、政治的不安定のために独裁政治や軍事政権が続いている国家もある。したがって、紛争や戦争の危険性を除去するためにも、先進諸国が途上国の経済的自立化を援助し国際協力をいままで以上に強める必要がある。つまり、国際平和の基礎は、貧富の格差のない均衡のとれた各国における経済発展が保障されなければならないのであって、そのうえで、各国家が国家利益をどのように調節し抑制するかが今後の諸国家にとっての最大の課題となろう。かつて国家は情報を独占し、自国民に対して敵意識や対外恐怖感を醸成しつつ国家の強大化を図った。しかし、現在では、交通手段、テレビ・新聞その他による情報化社会の急速な発達によって、だれでもが世界で起こったできごとを容易に知ることが可能になり、そのことは世界平和を促進するうえで有利な要因といえよう。すでに1950年代から、世界の諸国民は国際的な反核運動において連帯した経験をもち、インドシナ戦争やベトナム戦争に際しては国際世論の高まりがその終結を促進した。また、これまで3回開かれた国連軍縮特別総会には政府代表のほかに多数の非政府組織(NGO)の代表が参加している。この意味で、世界最大の平和組織である国際連合は、いまや諸国家の連合ではなく、諸国民の連合としての性格をもつように迫られつつある。
[田中 浩]
『田中浩著『ホッブズ研究序説』(1982・御茶の水書房)』▽『田口富久治・田中浩編『国家思想史』上下(1974・青木書店)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』▽『田中浩編『現代世界と国民国家の将来』(1990・御茶の水書房)』
ギリシアの哲学者プラトンの中期対話篇(へん)の一つで、全10巻の大作。正しさとは何であるかを問い、魂における正しさが人を幸福にすることを論じた。しかし、魂における正しさそのものを観(み)るのは容易ではなく、まず国家における正しさを観るのが便宜であるとし、国家のあり方のさまざまな型に応じて同数の魂の型があるとしたので、国制論にもなっている(本書の題名はここからくる)。最善の正しい国制から名誉支配制(ティーモクラティアー)を経て、寡頭制(オリガルキアー)、民衆制(デーモクラティアー)、僭主(せんしゅ)制(テュラニス)に至るまで順次に、より悪い国制へと頽落(たいらく)していく国制の移行の経緯と原因――それは同時に人間のあり方の型の頽落の経緯と原因でもある――の解明はみごとであり、正しさが何であり、人間における悪がどこから、どのように生じてきたかというプラトン哲学最大の関心に答えるものである。国家を構成する支配者、戦士、生産者の3部分と、魂を構成する理性的部分(ロギスティコン)、気概的部分(テュモエイデス)、欲情的部分(エピテュメーティコン)の3部分の類比の説は、その説明のために導入された模型である。
国家における――したがってまた、人間の魂における――正しさを実現するための唯一の方途が哲人王の理想である。その説明のためになされた哲学者とは何であるかの論は、そこに含まれる線分の比喩(ひゆ)、洞窟(どうくつ)の比喩、善のイデアの説とともに、中期プラトン哲学のイデア論を代表するものとして名高い。
初期対話篇の手法に倣った問答法による正しさの論究(第1巻)、魂と国家の類比による最善の型と頽落諸型の論(第2~4巻、第8~9巻)、哲学者論(第5~7巻)、詩人追放論と死後のミュトスを含む第10巻からなる全巻の構成の統一を観(み)るのは容易ではない。しかし、『法律』篇と並んで、他の対話篇を量において圧倒する、この大冊に盛られた壮大な構想は、壮年期プラトンの哲学の理念の結晶であり、それがこの著作に、プラトン対話篇のなかで初期と後期を結ぶ要石(かなめいし)としての独一の位置を与えている。
[加藤信朗]
『藤沢令夫訳『国家』上下(岩波文庫)』
一定の境界線で区切られた地縁社会に成立する政治組織で,そこに居住する人々に対して排他的な統制を及ぼす統治機構を備えているところにその特徴がある。
一般に政治の機能は,社会内部の異なる利害を調整し,社会の秩序と安定を維持していくことにあるが,こうした機能の達成のためには,社会の組織化が必要である。国家は,政治の機能を遂行するためにつくられた社会の組織にほかならない。社会の構成員が国家という組織からみられるときには,国民あるいは公民と呼ばれる。社会において個人や集団相互間の紛争が共通の規範によって解決され,必要な場合には相互の協力が十分に期待できるような状態を秩序ある状態と呼ぶならば,国家の機能は,何よりもまず,社会の秩序を築き,それを保持し,かつ外敵の侵入に対して,それを防衛することにある。国家には,そのために必要な権力が付与されている。たとえば,近代以前の西欧社会では,教会,領主,ギルドといった多様な個人や集団が,それぞれ社会の秩序を維持していくのに必要な権力を保持していた。しかし近代社会では,秩序を維持するのに必要な権力は近代国家の手に集中されており,他の集団の有する権力はその集団の目的に必要な限られた範囲にしか許されていない。もとより,今日の国家は,秩序の形成と保持以外にも,多くの公的な問題を処理する責任を負わされている。しかし,秩序が保たれていない限り,こうした責任を果たすことはほとんど不可能であるといえるから,今日においてもやはり国家の機能は,何よりもまず社会の秩序を築き,保つことにあるといってよい。
国家は,こうした独自の機能をもつ組織であるために,他の組織とは異なった性質を有する。第1に,普通の組織,たとえば,企業,組合,教会,クラブ,学校などの場合には,それらの組織に参加するかしないかは各自の自由であるが,国家の場合には,生まれながらにして,いずれかの国の一員である。ある国家の一員であることをやめるには,原則として他の国家の一員となることを求められる。第2に,どの組織も,その規則に違反したものに対しては,多かれ少なかれ,何らかの制裁を課することによって,規則を遵守させようとするが,国家と呼ばれる組織は,他の組織に比べてはるかに強大な制裁力をもっている。他の組織の場合には,組織のそれぞれの目的を達成するのに必要な範囲においてのみ制裁力の行使が認められるが,国家の場合には社会全体の秩序を保持し,その秩序を破る者に制裁を課することが,その目的の一部だと考えられるからである。第3に,国家の規則,すなわち法は,他の組織の規則とは異なり,国家のなかにあるすべての個人と組織とを拘束する。他の組織は国家の法の許容する範囲でしか規則を制定することができないし,規則を遵守させるための制裁力も,法に認められる範囲内でしか行使できない。
国家の権力は非常に強大であるため,その濫用の危険もきわめて大きい。とくに,社会の内部に階級対立のような深刻な亀裂が存在する場合には,ある特定の集団が他の集団を抑圧し支配するために,国家の権力を濫用する可能性が高い。また,国家権力の行使を委託された人々は,しばしば自己の私的利益のために国家権力を濫用するおそれがある。こうしたことのために,自由と権力の対抗関係において自由を確保するには,権力を制限しなければならないとする自由主義や,権力者の恣意的統治に代えて,あらかじめ定立された規則に基づく統治を推し進めようとする立憲主義が高い説得性をもつことになる。多くの近代国家において,憲法が制定され,権力分立制や地方分権制が制度化されているのも,国家権力の濫用あるいは恣意的な権力の行使を抑制しようとするものであるといえよう。
われわれが今日国家と呼んでいるのは,近代国民国家のことである。歴史的にさかのぼれば,近代国民国家以前には古代国家や中世国家が存在していた。ギリシアの都市国家(ポリス),ローマの古代帝国,中国の諸王朝,日本の古代国家(律令制国家),さらにヨーロッパの封建国家や日本の徳川幕藩体制等々がそれである。いずれも,独自の編成原理と支配・統治の機構を備えた公権力として国家のさまざまな類型を示し,その成立過程はそれぞれ歴史研究の大きな主題となっている。とくに日本における国家成立史は,天皇制の歴史的な解明と深く結びついており,古代史,中世史の主要なテーマである。
ここでは,典型的には西欧近代世界に出現し,19世紀以後の世界に強い影響を与えた国家の諸類型について記述する。ちなみに,欧米で国家を指すstate,Étatなどの語は,16世紀のイタリアにおけるstatoという語に由来するが,これはおもに中世の都市国家の統治機構を意味するものであった。近代的な国家概念はこの系統に属し,マキアベリが《君主論》で用いたのが最も早い例とされているが,これはラテン語で〈組織〉を意味するstatusと同義である。
絶対主義国家は,中世共同体の崩壊過程に成立したことによって,共同体から解放された人々を基礎として,社会の秩序と安定をつくりだす課題を負わなければならなかった。その意味でそれは,明らかに近代国家の最初の形態であったといってよい。しかし,その内部には経済的利害をめぐる鋭い対立が存在していた。その出発点においては,封建領主層あるいは貴族層の特権を剝奪し,中世共同体を解体しようとする点で,絶対君主と小農民や商人層との間には利害の一致があったと考えられる。しかし,共通の敵が力を失いはじめると,こうした一致は破れざるをえない。共同体から解放された各個人にとっては,私的観点からする富の追求こそ当然の要求であったが,こうした要求は絶対君主の利害と相反するものであった。一般民衆の不満が増大して無政府状態の危険性が現実化し,しかも絶対君主がこうした事態に対応しうる手段をもちえなくなれば,絶対主義は崩壊する。ただ,絶対主義の存在理由が新しい社会体制における新しい統合の必要性にあったとすれば,たとえその存在理由が疑われることになったとしても,統合の必要性そのものは消滅しないであろう。それゆえ,絶対王政を打倒するためには,統合の単一推進者であった絶対君主に代わるべき新たな統合の担い手が登場しなければならない。
絶対君主のもとで平準化が強行され,封建領主などいわゆる中間団体の支配特権が排除されて,すべての人々が平等な臣民として君主の支配に服していたことは,被支配者としての一体性を生み出すことによって,こうした統合の担い手を準備することになったと考えられる。かくて絶対主義ののちにくるものは,一体感をもった被支配者がみずからを支配者の位置に置くことであった。ここに,絶対主義の時代に成立した主権の概念は,君主主権から国民主権へと転換し,文字どおり近代国民国家が形成される。絶対主義国家も少なくともその版図においてはすでに国民国家であった。しかし国民主権が確立されることによって,国民的自覚(そのイデオロギー的表現が国民主義にほかならない)を備えた国民国家が成立することになったのである。
近代国民国家は,まず市民社会を基盤として成立するが,この時期の近代国家の特徴は,夜警国家であり,立法国家であることに求められよう。夜警国家は,自由放任主義の下で国家の機能を最小限にとどめようとするものであった。さまざまな形で生ずる利害の対立を自由に放任することが,社会の秩序と安定にとって最も望ましい結果をもたらすものであるとすれば,国家の果たすべき機能は外敵の侵入を防ぎ,国内の基本法の遵守を確保することで十分である。19世紀のドイツの革命家F.ラサールは,こうした国家を皮肉をこめて〈夜警国家〉と呼んだ。このように,自由放任主義の下で国家の機能が極小化されていた時期には,法律を制定することが重要な意味をもっていた。国内社会において国家が干渉しうる領域は,市民の安全と社会の秩序を保持するのに必要な最小限度の事柄に限定されていたから,必要な事項はすべて明確に法文の形で示すことができた。したがって,法律をいかなる形で制定するかが政治上の最も重要な問題であり,制定された法をいかに執行するかは,第二義的な意味しかもちえなかったといってよい。
国家の機能を区分する際にも,まず立法権と司法権がとりだされ,執行部あるいは行政権は残余の領域と考えられていた。この時期の国家は,立法部が政治の中心的位置を占めていたという意味で,〈立法国家〉と呼ぶことができよう。
20世紀に入るとともに加速度的な進行を遂げた工業化と都市化は,社会の大規模化と複雑化とを促進することによって,市民社会の前提である個人の予測可能性と自律性を著しく低下させた。とくに普通選挙制が確立されて,市民に代り大衆が政治過程に登場するとともに,夜警国家を支える自由主義の基本理念も後退せざるをえなかった。自由主義の基本的理念とは,国民の自由の保障にほかならないが,自由の保障が意味をもちうるのは,人々が保障された自由によって積極的に個々人の福祉を追求しうる場合に限られる。それゆえ,自律的市民が自己の責任において各自の福祉を追求することが原則とされ,しかもその原則が現実にも意味をもちえた市民社会においてのみ,自由主義は意味をもちえたのである。しかし,大衆の登場とともに自己責任の原則は崩れる。個人はもはや失敗の責任を全面的に負うことには耐えられないし,実際,恐慌や戦争のように,個人の予測能力や統制能力をはるかにこえたところに,その原因が求められる場合も多い。かくて人々は,各自の個別的な福祉の実現に関しても,多くの事柄を政治に期待することになる。それゆえ,現代社会の諸条件の下で社会の統合の必要性にこたえようとするならば,国家はこうした各個人の期待を満たすように努力するほかはない。要するに,現代の国家は社会のあらゆる領域に介入しつつ,各個人の個別的な福祉の実現に力を貸すことによってのみ,社会の秩序と安定を保ちうるといってよい。こうして,あらゆる現代国家は,単なる政治体制の相違をこえて,福祉国家に移行する必然的な傾向をもっているのである。
夜警国家から福祉国家への転換は,国家機能の著しい増大を伴うものであった。たとえば,労働者の発言権の増大とともに,失業や貧困も国家によって救済されるべきであるとする要求が強まり,失業救済や社会保障も国家の重要な任務となるにいたった。また,資本主義の高度な発展をみた国では,恐慌が飛躍的に大規模化する傾向が現れ,資本主義の秩序を維持するためにも,経済に計画的統制を加える必要が生じた。
こうして,国家の機能は著しく複雑化し,かつ大規模化したが,それに伴って行政部の比重が急激に増大する傾向が現れたのである。一般に,法律は問題を処理する枠組みを示すだけであるから,問題の複雑化とともに,法律の施行にあたって法の規定をいかに適用するかが重要な意味をもってくる。いいかえれば,行政部による自由裁量の範囲と意味とが,かつてみられなかったほどの重要性を与えられることになったのである。また,これらの複雑な問題を処理していくためには,高度の専門的能力が必要とされることになり,法律の制定に際しても,立法部よりは専門的熟達者を多く含んでいる行政部のほうが有利な地位に置かれることになった。こうして多くの国で,立法部自身が法律案の起草にあたるよりは,むしろ行政部が法律案の起草にあたることを常態とみなすような傾向が現れた。立法部は単に行政部の提案に賛否の意思を表明するにとどまる場合も少なくない。さらに戦争や恐慌のような非常事態に際しては,立法部がその権限を大幅に委譲する委任立法がみられることもまれではない。こうして,行政部の比重が圧倒的に増大したために,現代の国家はしばしば〈行政国家〉と呼ばれている。夜警国家から福祉国家への転換は,同時に立法国家から行政国家への転換を意味したといってよい。
これは,国家に絶対的な意義を与え,国家権力の倫理的意義を強調する立場である。教会と領主の権力に対抗しつつ,近代国家が形成される過程で成立した主権論は,近代における一元的国家観の最初の形であった。ホッブズやルソーにみられる社会契約説も,共同体から解放された原子的個人から出発して,近代国家の主権を弁証しようとするものであり,やはり一元的国家観に属するものであった。しかし,近代国家の完成に伴う自由主義国家の成立は,こうした一元的国家観を積極的に主張する理由を失わせたといえる。
ただヘーゲルは,ドイツの後進性のゆえに,国家権力の存在理由を強く主張すべき立場にあり,市民社会に一定の意義を認めながらも,同時に国家を倫理的理念の現実態として高く評価した。ヘーゲル的立場は,工業化の進展に伴う社会問題の拡大と帝国主義の成立に伴う国際緊張の増大に伴って,国家権力の積極的意義が評価されはじめるとともに,ドイツ以外の国でも注目されるようになった。たとえば,イギリスでもT.H.グリーン,F.H.ブラッドリー,B.ボーザンケトらが,ヘーゲルの影響の下に,国家の倫理性を強調しつつ,国家が社会問題に積極的に介入することを正当化したのである。ヘーゲル的立場は,のちに著しくゆがめられた形で,ナチズムやファシズムの国家観に現れたが,しかしそこでは少なくともヘーゲル哲学の合理性は完全に排除され,国家一元論は著しく非合理的かつ神話的な形をとることになったといえよう。
理想主義的国家一元論に対する批判として,おもにイギリスに現れた国家観で,国家の他の社会集団に対する絶対的優位性を拒否し,国家を他の経済的,文化的あるいは宗教的諸集団と同様に特定の有限な目的をもつ集団の一つであるとみなす立場である。この立場は主として,バーカーE.Barker,G.D.H.コール,H.J.ラスキらによって主張された。多元的国家観は,まず国家と全体社会を同一視することを拒否し,国家は全体社会からみれば,その機能の一部を分担する部分社会にすぎないとする。さらに,これまで国家主権とされてきた権能は,他の諸集団においても集団統制のために行使されているもので,したがって,国家の主権は絶対性をもちえないとされ,主権の複数性が主張される。多元的国家観という呼称も,こうした主権の多元性あるいは可分性の主張に基づく。国家と他の社会集団とが並列的にとらえられる場合には,国家の存在理由はその機能に求められなければならない。その意味では,多元的国家観は,国家の構造や形式よりも国家の活動内容を重視する機能的国家観といってよい。この国家観は,何よりもまず国家機能の圧倒的増大の下で,国家の絶対化を防ぎ,自由主義の原則を貫こうとする立場であったと考えられる。
国家を階級抑圧の機関であるとみなす立場である。この理論はおもにマルクス主義の国家論として展開されてきた。マルクス主義によれば,生産力が増大するに従って,あらゆる社会には階級対立が発生するが,それとともに社会に必要な共同事務の遂行を果たす公権力は,その社会機能と同時に,支配階級による被支配階級の抑圧という政治的機能を果たすことになる。階級対立の形態が,古代社会(奴隷制),中世社会(農奴制),近代社会(資本制)と歴史的に変化してきたのに応じて,国家の形態もまた古代国家,封建国家,近代国家と変化してきた。こうした階級対立は,これまできわめて長い歴史をもってきたが,それは超歴史的なものではない。原始社会においては,まだ階級対立は発生していなかったのであり,したがって国家も存在していなかった。国家の起源は原始社会の氏族的権力組織が崩壊して,奴隷制社会が形成されたときに求められる。
このように,国家の起源が階級対立の発生に求められるとすれば,階級対立の消滅は当然に国家の死滅をもたらすであろう。すなわち,最後の階級社会である資本主義社会が廃止されて,社会主義社会が形成されるならば,〈プロレタリアートの独裁〉を経て,やがて国家は消滅するとされる。プロレタリアート独裁は,過渡的に国家権力の一時的極大化を示すけれども,それは国家権力の役割の肯定を介して,それを否定する過程として,いわば弁証法的に理解されている。しかし,現実の社会主義国家(社会主義)においては,資本主義国家と同様に国家機能の著しい拡大がみられ,今日までのところ国家の死滅を予告するいかなる兆候も現れていない。
近代国家の最初の形態は絶対王政であったから,国家に対する批判もまず絶対王政に対する批判という形をとった。その一つは信仰の自由を守る立場から暴君の放伐を説いたモナルコマキmonarchomachi(ラテン語)であり,他の一つは封建時代に認められていた特権の回復をめざす立憲主義である。とくに立憲主義の主張はのちに普遍化されて,国家権力に対し基本的人権の保障を求める権利章典の制度化を導いた。絶対主義国家はやがて市民革命を経ることで,国民国家へと変貌するが,この過程において指導的役割を果たしたブルジョアジーは,国家機能を最小限にとどめることを望んだ。その帰結が夜警国家観にほかならないが,それは同時に市民社会自体が安定した秩序を実現しうると想定していた。すなわち,まず国民の共同生活は国家という形式的側面と市民社会という実質的側面をもつとされる。そして市民社会では,各個人は利己的な経済活動を通じて相互に結合されるが,自他の利害計算を支配する合理性のゆえに,市民社会自体に高い予測可能性が成立し,それに基づいて安定した秩序も成立する。かくして,市民社会を高く評価する人々は,国家に対してはむしろ消極的態度をとる。たとえば,J.ロックは国家と市民社会を区別し,市民社会は国家に一定限度内で統治を信託しているにすぎないと主張した。またA.スミスは,人間は〈神の見えざる手〉によって導かれているとして,市民社会の自律性を説き,最小の政府こそ最良の政府であるとした。このように,市民社会の自律性を主張することは,国家批判の系譜においても重要な位置を占める。マルクスの階級国家論も,国家の階級的性格を指摘し,国家の中立性の仮面をはぎ,さらに無階級社会における国家消滅の必然性を説くことで,国家批判の新たな観点を確立した。しかし,市民社会の衰退は,当然に国家に対する批判をも弱めることになり,むしろ大衆社会においては,国家の積極的な役割を是認する立場が強くなっていく。また,ドイツのような後発的な近代国家にあっては,市民社会に一定の評価を与えながらも,市民社会に内在する分裂を克服するために,国家の積極的な役割を強調する立場が現れる。ヘーゲルの国家観はその代表的な例といえよう。20世紀に入ってイギリスやアメリカで盛んになった多元的国家論は,国家も多元的政治社会の一つにすぎないとして,その絶対化を拒否する試みであり,国家批判の側面をもっていたことはいうまでもない。
今日では,かつてヨーロッパに成立した国民国家の理念と制度が,ヨーロッパ以外の全世界に普及拡大するにいたっている。こうした傾向に対して,国民国家はそのヨーロッパ的起源のゆえに,アジアやアフリカなどの第三世界には必ずしも適合しないとする批判も強い。ただヨーロッパ的国民国家には,人権の尊重や法の支配などのすぐれた成果もある。今後の課題は,国家が各地域の伝統や風土と融合することで多様化の方向をとるのをみきわめながら,国家の成果というべきものをいかに受け継ぐかにあるといえよう。
執筆者:阿部 斉
国家の起源をめぐる議論は,すでに述べたように何をもって国家とみなすか,国家の定義の問題とかかわっている。ここでは,20世紀の主要な議論を紹介する。E.マイヤーやW.コッパースは国家を人類社会に普遍的に存在するものと考え,狩猟採集民の群れ(バンド)にさえ国家的な要素を認めていた。またR.H.ローウィのように,小規模な群れや村は別としても,血縁・地縁の絆(きずな)をこえて形成される結社に国家的なるものの萌芽を見いだそうとした学者もいる。
しかし今日では,大部分の人類学者は国家の起源を論ずるにあたって,まず社会経済的な階層化や権威・権力の集中,労働の専門分化などの問題をとりあげるようになってきている。たとえばフリードM.H.Friedは国家形成の第一歩として社会的,政治的な階層化を強調したし,カーネイロR.L.Carneiroは社会階層ひいては国家を生み出す背景として特殊な地理的環境を重視した。カーネイロのいわゆる地理的限定理論によれば,それ自体は良好な土地だが,周囲を不毛の砂漠や山岳,あるいは海などに囲まれた地域において国家が興りやすいという。そうした地域では人口集中によって人口圧が生じ,土地をめぐる争いが激化し,その結果,敗者の勝者に対する服属と納税が始まり,政治経済的階層が生ずるというのである。ちなみに,こうした地域では被征服者が周囲の地域に逃れて新しい村をつくることはきわめて困難だからである。
一方,サービスE.R.Serviceは国家形成に寄与する要因として,(1)再分配の経済システム,(2)戦争の組織,(3)公共事業,の3種の組織の効用ないしは社会統合に及ぼす効果を強調する。ちなみに,(1)は多様な生態条件にある地域が開発されるとともに労働の特殊化,専門化が助長される場合に,さまざまの地域のさまざまな産物をある指導者の下に集めて再分配することによって生ずるし,また遠隔地貿易などによっても促進される。(2)は成功をおさめたときには種々の富(戦利品,捕虜,貢納など)をもたらすのみならず,〈民族的な誇り〉をも高め,結局は軍事指導者を中核とする統治機構を強める。(3)は神殿を建造したり水利システムをつくるために組織される。要するにこの種の組織化が始まることによって,当初は一時的であり限定されていた指導権が恒久化し強化され,ついには世襲化ないしは制度化されて,国家的機構の基礎が築かれるというのである。
従来,国家の起源をめぐって,たとえばF.オッペンハイマーやR.トゥルンワルトが唱えた征服説や,K.A.ウィットフォーゲルの灌漑説などが注目を浴びたが,それらは,サービスの理論によれば,上述の組織化と指導権の制度化を生み出すいくつかの要因の一つにすぎないことになる。国家形成へいたる道筋は必ずしも一つではなく複数でありうるという見解はR.コーエンやL.クレーダーによっても示されている。
執筆者:中村 孚美
主権国家は,日本のように,原則として単一国家である。単一国家は,同国家を代表する単一の中央政治権力をもつ。ところが,国家の中には,他国と結合することによって,主権を喪失はしないが,制限されるものがある。こうして,国家の種類分けがなされるが,それは,18世紀から20世紀にかけて現実に存在した種々の国家結合から帰納されたタイプにすぎない。したがって,実際にはコモンウェルスのように,どのタイプにも該当しない独特な国家結合もありうる。通常,国家結合として示されるのは,同君連合,国家連合,連邦制,保護国・被保護国,宗主国・従属国である。同君連合は君主国について認められ,複数国家が偶然に同一人物を君主とする身上連合personal union(例,1714-1837年のイギリスとハノーバー朝)と,複数国家が合意して同一人物を君主とする物上連合real union(例,1814-1905年のスウェーデンとノルウェー)とに細分される。国家連合confederation of states(例,1815-66年のドイツ連合)も連邦制も,複数の国家が結合して,それ自身の機関を設けるときに成立するが,国家連合では,その機関の権限が直接には構成国だけにしか及ばないのに対し,連邦制では,構成国国民にも及ぶ。保護国・被保護国は,主権の重要部分を委譲するという方法で,弱国(被保護国)が強国(保護国)の保護下に屈するときにみられる。宗主国・従属国は,国家の一部(従属国)が独立しようとする過程で,本国(宗主国)の国内法によって制限された主権を認められるときに成立する。これらの国家結合のうちで現存しているといえるのは,連邦制のみである。
なお,国家の基本的権利・義務としてあげられるのは,主権,独立権,平等権,自衛権,不干渉義務(内政干渉)などである。こうした国家の基本権の観念は,歴史的には自然法思想に基づき,国家も生来的に固有の権利をもつという形で主張された。しかし,前記の被保護国,従属国の場合のように,主権は必ずしも固有のものでなく,制限されることがあることに注意する必要がある。
執筆者:松田 幹夫
国際政治の基本的な行為主体actorとして,国家は,戦争から平和にいたるさまざまな国際現象の担い手の役割を果たしてきている。国家は,ふつう,民族国家nation stateと呼ばれる。民族国家は,近世ヨーロッパを舞台にして,17世紀中ごろ以降,その誕生をみた。三十年戦争に決着をつけたウェストファリア条約(1648)が,民族国家体系を成立せしめる歴史の一大契機となった。それ以前の国際社会は,なによりも政治と宗教とが未分化の中世世界であった。ローマ教皇が国家の次元を超えてヨーロッパの教会領に君臨したり,また神聖ローマ帝国では,いろいろな領邦の領主が選挙侯として皇帝を選出するというように,異質な政治の行為主体が混じり合う世界であった。
多元的な政治体系に代わって,共通の構造属性をもつ国家が,その規模の大小にかかわらず,国際政治の主役となったのである。その際,共通の構造属性とは,第1に,国家が固有の領土をもつこと,第2に,固有の人口をもつこと,そして第3に,対外的に主権をもつことである。国際法は,一般に国家を,〈一定領土内に居住する国民に対して,これを支配する政府組織を有する法的主体〉として定義する。ここで大事な点は,国家が物理的暴力(警察力および軍事力)の唯一正統な独占主体であり,かつ,より高次のいかなる政治的権威にも服さないことである。このような国家主権の平等性を基礎にして現代国際社会が成り立っている。
民族国家体系が生成・発展していく背景には,確かにその一方で,世俗的権威による宗教的権威への優越という発展があったが,その他方では,それぞれの国家が,農業社会から工業社会へ脱皮していく経済的近代化の過程があり,同時に常備軍と官僚機構をあわせ備えていく政治的近代化の過程があった。
この体系は,最初は,ヨーロッパ,それからアメリカ大陸,そしてアジアへと拡大する歴史をたどったが,とくに第2次大戦を境にして,国家群の増大をみることとなった。たとえば,1945年に国際連合が発足したとき,構成国の数は51ヵ国であった。ところが,80年代に入って,その数は3倍の150ヵ国をこし,90年代末には180ヵ国をこえた。民族国家体系は,ここで一挙に膨張をみた。しかし,この膨張過程は,同時に国家体系および国家の重要な変質をまねいてきている。
まず第1に,民族と国家とを一体とする構成原理に大きな変容をみてきていることである。それはとくに,長く植民地の地位におかれたがゆえに,民族と国家とを外の力によって人為的に分断せしめざるをえなかった多くの開発途上国の事例にみられる。第2次大戦後独立をみた多くの途上国は,民族国家の構成モデルに容易にあてはまらず,いまなお国家の形成過程にある。
第2には,国家間の力powerの不均質さがいっそう顕著になる方向での変容である。軍事力の次元では,圧倒的な核兵力をもつ米ソが国際政治で〈2者独占〉の状況にあったし,また経済力の次元では,先進工業諸国と開発途上諸国との間の貧富の差が広がる一方である。まさに国家群の膨張は,国々の不平等構造,ゆがみを強めることとなった。そのことが国際政治でさまざまな紛争を生み,その解決をますます困難なものとしている。
第3に,国家および国家体系の変質として見のがせない現象に,国々の〈相互依存〉の深化といった新たな現実がある。とくに先進工業諸国を中心として,貿易,金融,人,情報など有形無形の相互交流が著しい速度で発展し,その結果,国々は,相互の政策の変化に敏感にかつ大きく影響をうけるようになった。国々は相互の依存を増すと同時に相互の脆弱(ぜいじやく)性をも増している。このような〈相互依存〉の深化の状況下では,国家は,紛争の解決の手段として,軍事力に安易に頼ることができなくなった。むしろ非軍事的な方法が重要視されるようになった。これによって国際紛争の処理や危機管理が図られねばならない。何世紀にもわたって国際政治で実践されてきた〈砲艦外交〉の行動様式に強い疑問が投げかけられている。〈相互依存〉の深化が国家の行動様式の変化を顕著にしてきている事例として,ヨーロッパ連合(EU)域内の国際関係があげられよう(国際統合)。
第4の変化として,多国籍企業やさまざまな営利・非営利の非政府組織(NGO)が国際政治で新たな行為主体としてその重要性を増していることがある。国際政治に新たに〈脱国家国際関係transnational relations〉の登場をみることとなった(トランスナショナリズム)。この変化に呼応するかのように,国々によっては,国内に人種や文化の〈アイデンティティ〉を求める地方主義も台頭し,国家社会の細分化の方向へと重要な変化がみられるようになった。
→世界政治
執筆者:鴨 武彦
プラトンの著作(対話編)。全10巻から成り,彼の主著といえる。《饗宴》や《ファイドン》につづいて50歳代に執筆され,完成は前375年ころと推定しうる。前387年にアカデメイアを創設して以来,研究教育活動に最も充実していた時期の所産である。ソクラテスを主役とするこの対話編は〈正義とは何か〉の吟味に始まり(第1巻),そのテーマは全編を一貫しているが,議論の進展につれて,正義のあり方を国家次元に拡大して考察することが提起され,言論による理想国家の構築が試みられることになる(第2~5巻)。議論の重点はとくに国家の防衛と統治の担当者たちに関する機構と教育の問題におかれ,彼らの間での私有財産制や家族制の撤廃などの大胆な提案がなされている。次いで,理想実現の唯一の方途として,いわゆる〈哲人王〉思想が表明されると(第5巻末),それに内実と裏付けを与えるべく,哲学者と哲学的認識の本質規定,善のイデアに究極するイデア論の構造,イデア認識を達成するための学問過程などがくわしく論じられる(第6~7巻)。その後,理想国家が不完全国家の諸形態へと転落していく過程が,個々人のうちの悪徳の規定と並行的に述べられたうえで,〈正義〉こそが人間を幸福にするものであることが宣明される(第8~9巻)。そして最終巻において,詩歌文芸の批判的考察および魂不死の論証が試みられたのち,死後の魂の運命を述べた〈エルの物語〉によって全巻が終わる。
執筆者:藤澤 令夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
プラトンの対話篇。中期の著作に属し,作者50~60歳のときの作かといわれる。主題は正義とその実現の場としての国家にある。プラトンが,人間の魂の三つの部分に相応する三つの身分,すなわち支配者,戦士,生産者を構想し,哲学者を支配者とする著名な理想国像を描いたのはこの作においてである。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…すなわち愛国心は,本来は愛郷心,郷土愛,あるいは祖国愛であって,地域の固有の生活環境の中で育まれた心性であり,自分の属している生活様式を外から侵害しようとする者が現れた場合,それに対して防御的に対決する〈生活様式への愛〉である。どの時代どの地域にも見られるこの意味の愛国心に対して,19世紀に成立したナショナリズムは,個人の忠誠心を民族国家という抽象的な枠組みに優先的にふりむけることによって成立する政治的な意識と行動である点において区別される。しかしながら世界が国家を単位として編成されるようになると,愛国心も国家目的に動員されたり,逆に国家に抵抗する働きを見せたりすることで,国家との関係を深めた。…
…近代国家の基本的構成要素として,それに帰属させられてきた最高権力の概念。フランスの法学者J.ボーダンがその《国家論》(1576)において最初に用いたとされる。…
…しかしこの数世紀にわたる漸次の変化を具体的内容に即して概説することはとうてい不可能であるから,ここでは〈ヨーロッパ〉を考える上で最も特徴的な,この時期の変化を指摘するにとどめたい。ケルト人ゲルマン人スラブ人民族大移動ラテン民族
[国家のあり方の2類型]
まずその一つは,政治形態,とりわけ国家のあり方およびその性格の基本的な変質についてである。地中海を内海としたローマ帝国は,いうまでもなく多民族支配の世界帝国であり,類型的にいうならば,政教合致の絶大な権力をもつ皇帝の下,画一的な法典,多数の軍隊,煩瑣な役人制により,租税を通じて人民を掌握支配する制度国家であった。…
…古代ギリシアにおけるポリスの自由の観念自体,オリエントの専制政治との対比によって意識されたといえよう。プラトンは《国家》において哲学者の支配する優秀者支配制を理想的政体とし,現実の諸政体をそれからの逸脱形態として描く。名誉支配制とは知ではなく勝利と名誉を重んじる体制であり,これがさらに堕落すると,少数の富者が支配する寡頭制になる。…
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[ヨーロッパ]
古代ギリシアではオリンピックなどの祭典が全国的な規模で行われ,前5世紀のペルシア戦争でみせたような民族の団結をもたらした。また,ポリス(都市国家)の青少年は読み書き,算数とムシケmousikē(音楽や文芸),ギュムナスティケgymnastikē(体育)の教育を受けたが,そこでも祭典競技の種目が採用された。体育の実習をする場所はパライストラpalaistraといわれ,一般の人がスポーツを行うギュムナシオンgymnasionと併設されることが多かった。…
…前期著作:《ラケス》《リュシス》《カルミデス》《エウテュフロン》《ソクラテスの弁明》《クリトン》《エウテュデモス》《プロタゴラス》《ゴルギアス》《メノン》など。中期著作:《饗宴》《ファイドン》《国家》全10巻,《ファイドロス》《パルメニデス》《テアイテトス》(ただし文体研究による区分とは別に,〈イデア論的対話編〉である前4者のみを中期著作と呼び,《パルメニデス》以降を後期著作とする場合もある)。後期著作:《ソフィステス》《ポリティコス(政治家)》《フィレボス》《ティマイオス》《クリティアス》《法律》全13巻,《エピノミス(法律後編)》。…
…彼はその家系から〈最後のローマ人〉,また著作の及ぼした影響から〈最初のスコラ哲学者〉と称される。彼は,養父であり義父でもあるシンマクスと並ぶ有数の文人政治家であるが,プラトンの《国家》第5巻にみられる〈哲人王〉を終生の理想とし,同じく《国家》第7巻にそれとの関連から提示されている教育課程,すなわち哲学研究の予備教養として数学・幾何・天文・音楽の研鑽をつむべきだとする教育課程を踏襲,それぞれゲラサのニコマコス,エウクレイデス(ユークリッド),プトレマイオスの著書の翻案に基づくこれら4学科の入門書を著した。これらは,後に確立する〈七つの自由学芸〉(自由七科)のうち〈クアドリウィウム〉と称される自然科学を主体とする4教科の基礎となる。…
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[ユートピアの系譜]
ヨーロッパでは古代以来,ユートピア思想と運動の伝統が形成されている。最古のものは,プラトンの対話編《国家》にあらわれる。プラトンはここで,哲人支配者によって厳格に統治される国家を描き,現実のアテナイを暗に批判するとともに,人間と政治の本質が理想的に発現される形式を記述した。…
※「国家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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